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公共心から生まれる安全で美しい都市環境と危機管理の観点からの首都機能のバックアップ

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漆原 美代子氏の写真漆原 美代子氏 環境デザイナー、エッセイスト

エッセイスト(都市環境問題、美術評論他)

交換留学生としてミシシッピー州立大学で家政学専攻。プラッツ美術大学(NY)でインテリアデザイン専攻。

Gネルソンデザイン事務所、鹿島設計部嘱託、多摩美大非常勤講師を経てフリーランスデザイナー。国際美術評論家連盟、国際交通安全学会理事。

他に公職として、国土交通省、財務省他各政府審議会委員を歴任。

著書に「都市環境の美学」、翻訳書「インテリアアーキテクチャー/環境構成の基礎」等。


<要約>

  • 日本は建築物単体や景観の美しさは散在しているものの、多くは点的な魅力にとどまっており、面的な広がりを持って秩序ある美しい都市環境を形作っているとは言えない。
  • 東京が広大な範囲にスプロールしてきた過程で、かつての農村地帯の構造を壊し、その上に巨大なインフラを無計画に造ってきた結果、いわば「大村落」のような状態になっている。
  • 防災上、都市はコンパクトである方がいいが、その上で基本的に守るべきこと、考えるべきことがある。防災と美を結びつけて考えることもその一つである。
  • 「自己中心主義」「私権絶対主義」の日本では、「公共心」が欠けており、それが安全で美しい都市環境を実現する上での障壁となっている。
  • 都市には様々な異なるもの同士の「間」があり、その関係性にもっと目を向けるとともに、都市は「間」でできているということを認識することが重要。
  • 「私」も「他」も同じ分子同士で、分母に「公共心」がある。この図式を国民がきちんとした形で理解しなければ、「公共心」は育っていかないのではないか。
  • 防災性と美を併せ持った都市環境の実現には、公共心を育てるだけでなく、法整備も必要となる。国が動かなければ地方も動きづらい面もあるだろうから、地方分権ということも含めて国には美しい権力を発揮してほしい。
  • 国会等の移転問題の現実的な対応策として、危機管理の観点から首都機能のバックアップを整備しておくことが考えられる危機管理を念頭に置くと、例えば二極分化といったバックアップのあり方も考えざるを得ないのではないか。
  • 世界中の人々にアピールする上でも、首都機能移転先の都市環境は、公共心を具体的な形で表すような美しいものでなければならない。
  • 戦後の習慣は、美しい環境や景観の形成とは全く逆のやり方で成り立ってきたという事実をきちんと見つめ、新たに公共心という視点で広報や法整備を進めていくべき。

防災と美を結び付けて都市環境を考えることの必要性

日本では戦後、多くの地方都市が東京を見習うようにして、都市化という目標に向かって急速に変化してきました。街並みの視覚的な部分では、名古屋や高松、あるいはもっと小さな都市も東京的になっています。新幹線に乗ると、どこまで行っても同じような駅や駅前の広場があるわけです。ヨーロッパではそういうことはありません。街並みとしては地域毎に個性がないとおもしろくないですね。もちろん日本も建造物単体や景観の美しさは散在していますし、中には世界的に称賛の的になるような超一流の建造物もありますが、ほとんどが点的な魅力にとどまり、面的な広がりを持って秩序ある美しい都市環境を形作っているとは言えません。

一方で、今の日本はあらゆるものが東京に一極集中していますが、東京は広大な範囲にスプロール(注:都市の急激な発展で市街地が無秩序、無計画に郊外に広がっていくこと)していますので、その風景の総面積としては世界一ではないでしょうか。戦後、東京がスプロールしていく過程で、自然的な美と機能を秩序立てていた農村地帯の構造を壊し、その上に高層ビルや立体交差のハイウェイなど、巨大構造のインフラを次々と無計画に造ってきました。その結果、東京がいわば「大村落」のようになってしまったのです。専門家の中には、東京を「成熟した都市」と言う人もいますが、もしかすると都市的な成熟をまだ経験していないと言ってもいいかもしれません。政財界や専門家たちは都市としての東京の特徴と限界をまず直視しなければいけないと思います。

大阪や名古屋にも、東京と同じような特徴と限界があり、基本的にそれほど違いはないと思いますが、とにかく東京は広大過ぎます。防災の観点からすれば都市はコンパクトであるほうがいいと思いますが、ただコンパクトであればいいというものではなく、基本的に守るべきこと、考えるべきことがあります。

例えば東京郊外の住宅地を通っている道路は、かつての農村地帯のあぜ道をただアスファルト化しただけのようなところがほとんどです。比較的広い道でも、二車線がいいところでしょう。そうした道が迷路のように張り巡らされています。道路は本来、自動車、自転車、歩行者それぞれの行動に合うように分離かつ共存しながら美しい複合性をもって整備されなければいけません。古代ローマに遡っても、都市の道路はそのように整備されていましたが、今の東京郊外にはそうした道路がほとんどありません。

戦後型の住宅と道路との境界はどうかというと、家の周りを囲う形式を流行させ、手のかかる生け垣が少なくなり、ほとんどがコンクリートブロックです。それは景観と防災の両面でマイナス要因となって、美しく安心・安全な都市環境をつくる上での障壁となっています。一車線か二車線の狭い道路で、沿道に建つ住宅の塀が全てコンクリートブロック式だと、その道路自体がコンクリートの密室になり、子どもなど弱者の防犯上からも望ましくありませんし、地震で倒壊すれば、歩行者が下敷きになるだけでなく、消防自動車などの緊急車両も通れません。そうした状況は、専門家の口からもほとんど一般には語られません。一般の生活者も東京は防災計画、安心・安全な生活、リスク管理の技術などが遅れているということを感じていないのではないでしょうか。それではとても防災都市とは言えません。海外の都市と比較しても、東京は危機管理意識が低いことを認めないわけにはいかないでしょう。

私が都市計画中央審議会の委員を務めていた1980年代頃には、防災と美を結びつけて考えることが日本のこれからの大きな課題とされていましたが、1995年の阪神・淡路大震災で緑地帯が延焼を遮断したことが多くの人の知るところとなり、防災の機能と緑化の機能が結びついた例として改めて一般の人たちの関心を呼んだわけです。多くの人たちはファッションや食べ物には興味を持っても、日頃から生活環境を美しくとか、安全な生活、防災について考えることはほとんどないと思います。むしろリスクなど知らないほうが幸福、という感じがあります。東京の人と話をすると、「東京だけは地震が起きない」と、冗談にせよ楽観視している人が少なくありません。感情的にそう思わないことには生きづらいのかもしれませんが、そうした認識がとても非現実的だということをもっと理解してもらう必要があります。

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美しく安全な都市環境の実現には「私権絶対主義」ではなく「公共心」が重要

都市環境の整備にあたっては、住民が公共心(Public Mind)を持っていることが前提になると思いますが、日本では残念ながらそれが欠けています。「自分中心」「私権絶対主義」が、美しいインフラを造る上で決定的な障壁になっています。「ミーイズム」という言葉が一時期はやりましたが、コンクリート塀の普及も、他者への思い、通行人のことより、一種のブルジョア趣味と「自分のプライバシーを守りたい」「騒音をシャットアウトしたい」という意識からきています。そして、周りの景観との調和を考えずに、道路や隣の家との境界線ぎりぎりまで自分の好みで自由にデザインしているのです。日本では私権絶対主義によってそれが許されており、それは一家族中心主義と言い換えてもいいでしょう。自分の家族だけが楽しければいいという錯覚です。

誰もが自分の趣味あるいは管理不足を120%押し通す習慣の放置から、美しい都市は絶対にできません。自分の家と隣の家、道路と家、橋と川など、都市には様々な異なるもの同士の「間」があります。その関係性の質にもっと目を向ける、都市美も安全も「間」の質によってきまるということを認識することが重要だと思います。伝統とモダンデザイン、自然と科学技術、美しさと安心・安全な暮らし、それらを調和させる基盤が公共心です。しかし、日本の現状は伝統は伝統、科学技術は科学技術といったように、他との関係性を無視してそれぞれの要素がバラバラになっています。専門家は専門分化し、役所も縦割りで、いわば「専門馬鹿」の宿命に災いされているように思います。

古代ローマでは、国全体が一家族という感覚を持っていました。それこそが公共心の柱といえるでしょう。公共心という概念は、欧米に限らず、アジアにおいても、シンガポールやかつてのヨーロッパの植民地ではその概念が伝統の延長上に共有されてきましたが、今の日本にはその概念が欠けているように思います。

イギリスのロンドン郊外にコッツウォルズという非常に美しい田園地帯があります。そこの道路面に予告なしに赤い交通標示が自治体によって描かれたことがありました。すると、そのデザインが伝統的な村落の風景に合わないということで市民運動が起き、それに対し自治体も誠実に対応しています。また、パリのモンマルトルでは、キャノピーやオーニング(日よけ)はすべて赤に、コンコルド広場では白に規制されていますね。企業のシンボルマークであろうと、規制に合わない色は使用できません。その地区、コミュニティの合意のもとで、統一性、一体性が保たれていますので、ヨーロッパの住民には自己規制が求められているわけですが、規制されているという意識はなく、基調を考える生活観、言い換えるとそれだけの民度があるわけです。

どうして戦前の日本の田舎、江戸時代以前の日本が美しかったかというと、建物に全て自然材を使用し、醜い趣味性が何もなかったからです。色彩も自然色が多く、赤などの人工的な色もありましたが、緋毛氈(ひもうせん)、紅がら壁、神社・仏閣の朱色のように美しい対比を伴っていました。

一方、今の日本はというと、例えば花見のときにビニール製のブルーシートを桜の木の下に広げていますが、海外から来日した友人、植生管理者や造園家はそれを見て驚きます。ブルーシートは空気を通さないので、木の根を傷めてしまいますし、色彩的にも日本の誇る桜の花と合わないと。伝統的行事の現代版ではなぜそういう粗雑な組み合わせになるのか、せめて空気を通す自然素材の敷物を使ってはどうかと、彼らは日本の政府機関やメディアに訴えかけています。大方の日本の専門家も無関心ですが、海外の有識者から見ると、不思議でならないようです。

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国・自治体は「公共心」の誘導を

公共心より高次な段階の概念として、公共精神(Public Spirit)があります。アメリカでもメディアが普通によく使う言葉ですが、ノーブレス・オブリージュ(高貴なる貢献)とほぼ同じような意味です。つまり、経済的あるいは教育的に恵まれた立場にある者が、それを社会に還元するということで、その考え方はヨーロッパ社会では古代から存在していました。アメリカのCBS会長だったペイリー(William .S. Paley)は、ペイリー・パークという100坪くらいの「ベスト・ポケットパーク」の愛称で呼ばれる小公園を1960年代にニューヨーク市に贈りましたが、それらの公園は老若男女に楽しまれるような空間になっています。

公共心は、いわゆるエリートに求められる公共精神ほど特別なものではないかもしれませんが、住宅街でもオフィス街でも他人に迷惑を与えないように、互いの関係性を高め合う、あるいは支え合うことです。昔の「滅私奉公」という言葉のように自分を殺すのではなく、他とともに自分も生かすこと。「私」も「他」も同じ分子同士であり、その分母に公共心があるということです。この図式を国民がきちんとした形で理解しなければ、公共心は育っていきません。

今の日本では「公共福祉とは最大多数の最大幸福である」という非常に簡単なことでさえ、国民に共有されているとは言えず、非常にマテリアリスティック(物質主義的)です。自分や自分の家族の幸福に固執し過ぎて、それにメディアも政治的、商業的におもねっているとみられがちです。

公共心を育てることは、国や自治体が誘導しようと思えばできないことではありません。例えば「景観や防災の観点からも、隣の家との間、あるいは道路との間は植生を工夫し、管理しましょう」といったように、防災と美しさをセットにして、分かりやすい例も交えながら、説明していくことが必要だと思います。今の日本人の中には、国や自治体は自分の趣味のことに口を出さないでくれと思う人もいるかもしれません。私権絶対主義、一家族中心主義ですから、住む地域によって使う材料や色などを規制すると言ったら、自由を束縛されるように思うわけですね。しかし、それはお互いに支え合い、高め合っていくための良識なのだということを伝えれば理解されるようになると思います。

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「公共心」に基づいて私権を制限する法整備を

防災性と美を併せ持った都市環境を実現するためには、公共心を育てるだけでなく、法整備も必要です。防災の観点でいうと、例えば、台風が来たら倒れてきそうな木が自分の家の近くにあったとします。安全のためにその木を切りたいと思っても、それが他人の土地に生えている木ですと、財産権の侵害になるので勝手に切ることはできません。さらに、隣の家の木が倒れてきてこちらが損害を被っても、話し合いが難しく、時間がかかりすぎます。自分の身の安全や快適な環境を保つために、現状では被害者の方がリスクを負わされるのです。

私が今住んでいる軽井沢町でも、所有者の許可なく問題の樹木を処理できるように、緑や樹木の管理を促そうとしても、結局、個人の財産権の侵害につながるということで、うまくいきません。災害時に限らず日常的にも、好ましい自治権を地方自治体に与えてほしいですね。安心・安全な生活のために、公共心に基づいて私権が制限できるよう、法律の調整が必要だと思っています。

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現実的な対応策として考えられる首都機能のバックアップの整備

国会や省庁等の移転問題の現実的な対応策として、危機管理の観点から首都機能のバックアップを整備しておくことが考えられます。今の東京一極集中の状況は非現実的だと私も思いますし、地震をはじめとする災害の可能性は常に考えなければいけません。例えばヘッドクオーター(司令塔)が一カ所しかないと、そこが被災した場合に対応不能な状況に陥ってしまうこともあるでしょう。危機管理を念頭に置くと、例えば二極分化といったバックアップのあり方も考えざるを得ないのではないでしょうか。

今は10年、20年前と違って、インターネットも活用できます。国会等の移転というと、とても大きな問題であるかのような響きが漂いますが、外務省や国土交通省などの行政機関が、大阪や名古屋といったある程度インフラが整備されている都市へ、その都市環境を洗練させつつ、移転するという方法が一番現実的な対応と言えるのではないでしょうか。

国会等の移転問題は、リスク管理がその思想の核になるでしょうが、それに伴う都市環境も、公共心を具体的な形で表すような美しいものでなければ、世界中の人々にアピールすることは難しいと思います。ドイツのベルリンは戦災後に建てられたモダンな建築物が多く、ウンター・デン・リンデン(菩提樹の下)大通りは、その名のとおり菩提樹の並木道で、その植生の美がベルリンの都市美を醸し出していますね。オランダの政治の中心地のハーグも、古い街がきちんと残されていると同時に、新しく自然豊かな公園があちこちに整備されています。道路は車道と歩道が美しい割合で分けられており、枝葉を茂らせた街路樹を分離帯にしています。美しい道路に面して適所にカフェもあり楽しい都市環境です。

バックアップ機能を持つ新都市を考えるとき、関東に対して関西の拠点をどこかに置いてもいいと思います。大阪や名古屋といった大都市の既存の美しく安全なインフラを生かしつつ、公共心をベースに課題を解決することで、個性的な都市環境を作ってほしいですね。

また、首都機能の移転先、世界の注目の的となります。そこで求められるのは、良識をできるだけ洗練させることです。それは当たり前のことですが、その当たり前が今までは無視されてきたというか、あまり注意を払われてきませんでした。そこにふさわしい都市づくりというと、歴史的な建築美だけでなく、都市環境全体を安全で快適に秩序立てる思想、考え方ですね。大切なことは、生活環境の美しさとは好き嫌いを越えた普遍的なものだという考え方ができるかどうかです。そのためにも毅然とした都市の「良識あるいは良心」の構築が前提ではないかと思います。

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国民の理解に向けて、公共心という視点で進める広報のあり方

私は、幼少期に軍国主義を経験していますから国家権力という言葉は好きではありません。しかし、本当に高い公共精神を持った、美しい権力の行使であれば、広報の仕方によっては、国民の理解を得られるのではないでしょうか。

1990年に国会等の移転に関する決議が行われましたが、この問題の分かりにくさもあって、国民の理解がなかなか得られていません。その後の国会等移転審議会の答申において、三つの候補地が選出されたことで、かえって動きが鈍くなったような感じがします。これも広報の仕方に問題があり、今の東京一極集中のままでは高いリスクがあるということを積極的に知らせていく必要があると思います。たとえ負の情報であっても、正しい知識をできるだけ早く、分かりやすく知らせることが必要です。

例えば地下鉄で停電が発生した場合、みんながペンライト(注:ペン型の小型懐中電灯)を持っていればパニックが防げるかもしれません。持ちたい人だけが持つということだと、人間はパニックに陥りますから、奪い合いが発生するかもしれません。全員が持つようにしておけば、そういうことは起こらないわけです。

また、広報には工夫も必要です。コンクリートブロック塀にしても、「戦後の負の遺産なのですべて生け垣にしよう」と単に言っても、素直に受け入れてくれないでしょう。例えばイギリス紳士の楽しみの一つになっている庭の手入れの紹介を交えるという方法もあるかもしれません。

今までの日本の広報は、ものを売るためのイメージ戦略が中心で、安心・安全に関する広報は非常に拙いものでした。国民の理解を得るためには広報のあり方について改めて研究する必要があります。メディアとの関係についても、教えたり、教えられたり、お互いに切磋琢磨しなければいけません。この問題についてジャーナリストの人たちにも関心を持ってもらうためには、そうした人たちにも積極的に国民に伝えるべき情報を伝えていく必要があるように思います。

日本は戦後半世紀もの間、経済効率を第一に考えてきましたが、今はその限界も認めざるを得ません。人間が今までの習慣から脱却することはとても難しいことです。しかし、戦後の習慣は、地球温暖化対策、美しい環境や景観の形成とは全く逆のやり方で成り立ってきたという事実をきちんと見つめ、新たに公共心に基づく視点で広報や法整備を進めていくべきだと思います。

欧米の都市国家は性悪説に立って、都市を美しく安全にするための制度を作ってきました。日本は私権絶対主義と他者への無関心、利害損得の感情と性善説、という何となく水と油をかき混ぜたような生活観に流されてきたようにみえます。しかし、国民が優しい人間だけである筈はないと。逆説的に聞こえますが、だからこそ他者への優しさの判断、技術、とりわけモラルの社交的な洗練が大切だと思います。こうした人間関係の構図の再認識も都市整備に求められるのですね。こうした現実的認識の上で、国民の良識と良心を引き出すための権力を発揮してほしいと思います。

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