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地方の生活者の視点から見る地方分権と首都機能移転

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尚 弘子氏の写真尚 弘子氏 (財)沖縄県文化振興会 理事長 琉球大学名誉教授 元沖縄県副知事

1932年沖縄生まれ。

1954年米国ミシガン州立大学家政学部卒業、1956年同大学大学院修士課程修了(栄養学)。1982年農学博士(九州大学)。

1956年琉球大学講師、助教授を経て、1972年同大学教授。

1991〜1994年、沖縄県副知事を務める。その後、沖縄県公安委員会委員長、NHK経営委員会委員を歴任。現在は、(財)沖縄協会理事、(財)沖縄観光コンベンションビュロー理事、(財)健康科学財団理事、沖縄国際大学理事など。2005年より現職。

1958年に結婚した夫の尚詮氏(故人)は、最後の琉球国王・尚泰の孫に当たる。

著書に『南の島の栄養学』『暮らしの中の栄養学』『健康と長寿の島々沖縄』『松山御殿物語』『ぬちぐすい沖縄事典』など。

<要約>

  • 琉球王国は450年の歴史の中で、外部から抑圧されることが多かったが、武を好まず、文化・平和を愛し、海外に雄飛する県民性を育んできた。外界との盛んな交流の歴史が、今の沖縄の魅力につながっている。
  • 沖縄県の人口は増えているが、自然環境の豊かさや歴史の蓄積などの特徴を生かした地域づくりを今後とも続けて行き、同時に沖縄の特徴を国内・国外へ発信すべき。
  • 生活者視点の行政とは、地方の特徴を理解し、生活全体をより良いものにしていく行政のこと。そのためには、地方分権、道州制が求められている。
  • 補助金行政の仕組みを改めずに首都機能を分散させると、地方にとってはかえって不便。地方の実情や危機管理なども踏まえた首都機能の分散を検討すべき。

「青天の霹靂」だった副知事への登用

琉球大学で35年間栄養学を研究してきた私が、1991年に沖縄県副知事に就任したことは全く予期せぬことで、本当に「ある日突然」という感じでした。

私は1952年にアメリカに留学し、ミシガン州立大学で家政学を学びました。当時はガリオア資金(注1)という復興基金があり――後のフルブライト奨学金ですが――それを受けての留学でした。そこで学士号と修士号を取得し、帰国後、すぐに琉球大学に勤めました。

そのガリオア留学生の同窓会があり、以前は「金門クラブ」と呼んでいました。当時の大田昌秀・沖縄県知事もクラブのメンバーの一人で、その頃大田さんも琉球大学の教授ではありましたが、学部が違うため、大学でお会いすることはほとんどありませんでした。それでも金門クラブでは年に数回お目にかかり、政治的な話は抜きにして、アメリカ留学のことなどを語り合っていました。大田さんが知事に当選したとき、公約の一つに「女性の副知事を置く」というものがあったんです。この人選は難航したようで、そのうちに金門クラブの人たちから「尚さん以外にいないのではないか」というような声が出てきて、私に副知事就任の話が来ました。私にとっては青天の霹靂で、「考えさせてください」と言ったのですが、あれよあれよという間に話が進んでしまい、気が付けば副知事になっていました。

私の夫の尚詮(しょうせん)はその1年前に亡くなっていましたが、政治の世界に非常に興味を持っていた人でしたので、もしかすると亡き夫の霊の導きかもしれませんね。私は逆に、どちらかというと政治というものは好きではなかったので「政治の世界に入ったのではない、行政の世界に入ったんだ」と言い続けていました。とにもかくにも沖縄では初、日本では東京都の金平輝子さんに次いで2番目の女性副知事となり、以後2年半の間、県政に携わることになりました。短期間ではありましたが、多くのことを学びました。

(注1) 第二次世界大戦後のアメリカ合衆国政府による占領地救済政府基金(GARIOA:Government Appropriation for Relief in Occupied Area Fund)

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副知事で実感した行政のあるべき姿

尚 弘子氏の写真私は栄養学の分野で、30年以上白ネズミを相手に実験をやってきましたので、サイエンティフィック・メソッド(科学的方法)が身についています。例えば、ある実験を進めようとするときには、まずは関連する過去の実験データを世界中からくまなく集めます。そのデータに妥当性があるということになれば、世界的に認められた方法で実験を進めるわけです。しかし、行政にはそういう「科学的に物を見る目」というものが無いように感じました。行政では2年ぐらいで異動があり、新しい部に移ってきたばかりの人でも、あたかも自分はその分野のことをよく知っているというような顔をして話すわけです。私はずっと一つのテーマを掘り下げてきただけに、行政は間口が広いけれど奥行きが浅いと感じました。

栄養学と併せて学んだ家政学は、家庭生活を中心とした人間生活全般の向上を図る学問です。これは行政にも通じるところがあり、市民の生活を良くし、すべての市民が幸せになれるようにするという点で家政学と目的が一致しています。しかし、今の行政にはそのような視点が欠けているのではないでしょうか。もっと生活者の視点に立ち、市民の生活をよく理解した行政を行わなければならないと思います。

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文化と平和を愛する琉球の人々

琉球王国は15世紀に成立し、明治時代に沖縄県が設置されるまで、450年の歴史があります。私の夫、尚詮は、琉球王国最後の王となった尚泰王(しょうたいおう)の孫に当たります。琉球王国には中国、当時の明から冊封使(さっぽうし)が来て、国王はその冊封(注2)を受けていました。つまり、明から認められて初めて国王になれたわけです。その後、17世紀には薩摩藩に征服され、明を滅ぼした清と薩摩の両方に属することになりました。そして、明治時代の琉球処分によって琉球王国は消滅します。当時の王家の者には爵位が与えられ、尚泰王には東京定住が命ぜられました。このように琉球は絶えずどこかから抑圧されてきたのですが、それを苦にせず国づくりをしてきたという特徴があります。

日本は、先進国では珍しく他国と接していません。四面を海に囲まれた島国で、どちらかというと鎖国的で、よその国とはあまり交易をしてきませんでした。琉球は、規模はずっと小さいものの、同じように四面を海に囲まれた島ですが、その歴史は全く違っています。「ニライカナイ」といって、古来より海は世界に通じる玄関だと考えられてきました。

まず、琉球国は東アジアから東南アジアに及ぶ海上交易ルートの大きな拠点となっていて、陶磁器など、主に中国から輸入したものを安南(アンナン:現ベトナム社会主義共和国)やシャム(現タイ王国)、朝鮮半島などに供給していました。そして、各国から食習慣や生活習慣など、良いものだけを積極的に取り込んでいきました。その交易が琉球の国づくりに果たした役割は非常に大きかったのではないでしょうか。

第二次世界大戦前・後の時代には、沖縄県から多くの移民が世界各地に雄飛していきます。アジア各国を始め、北米・南米、ヨーロッパの国々などに移住し、貧しい中で大変苦労しながらも、各地の発展に大きく寄与しました。4年に一度、「世界のウチナーンチュ大会」というものが開かれています。「ウチナーンチュ」とは「沖縄の人」という意味で、沖縄から世界各地に移住した人たちが集い、きずなを深めるというものです。2006年の第4回大会には5,000人近い人たちが集まりました。

また、日本の本土では床の間に刀を飾ることが多かったと思いますが、琉球では違います。こちらでは床の間のことを「一番座」といい、そこに飾るのは三線(サンシン:沖縄の三味線)などの文化的なもので、武具などは決して飾らなかったそうです。琉球国は特異な国づくりを進めてきましたが、それが成し遂げられたのは、人々が文化や平和を愛し、どんなに虐げられようとも、決してそれを苦にすることなく世界に向かって雄飛したという元気さを持っていたからだと思います。その特徴は今の沖縄にも受け継がれているのではないでしょうか。

(注2) ある国の王が、中国皇帝から、その国の君主であることを公式に認められ、代わりに中国皇帝に定期的な貢ぎ物を贈ることによって、君臣関係を結ぶこと。臣下となる国の王が新たに即位した場合、中国皇帝はそれを認める文書を携えた冊封使を派遣する。

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特徴を生かした地域づくりを目指して

沖縄県では今、年間1,000万人という目標を立て、必死に観光客誘致を進めています。一方、東京は寄り合い所帯のようなもので、首都というだけで地方からみんなが寄り集まってきているわけです。

尚 弘子氏の写真同じような一極集中は、沖縄県内でも起こっています。沖縄県の人口は今、約138万人ですが、そのうち60%ぐらいは本島の中南部に集中しています。他方、那覇市から2時間ほど北に行ったところにある国頭村(くにがみそん)の小学校では、全校生徒が13名しかいません。合併してもそれだけで、しかも次の新学期には新入生がいないのだそうです。そういう過疎地が沖縄にはたくさんあるのです。ただ、沖縄県全体で見れば、人口はどんどん増えています。気候も良く、自然環境も豊かということで、本島でも那覇市の中心街だけでなく南部や北部、あるいは離島にも来られる人が増えています。

私たちが若かった時代には、東京にコンパスの中心を置き、半径が長くなればなるほど田舎だという観念がありました。沖縄は一番遠くにありますから、日本とはいっても、東京などとは全く違うという意識が国民全体にあったと思います。例えば私がアメリカに留学していたとき、向こうの方に“Where are you from?”と聞かれ、“Okinawa”と答えると、アメリカ人は沖縄のことをよく知っていますから、“Yeah, Okinawa!”と言ってくれる。すると、横にいた東京在住の女性が意外そうに“You know?”と聞くんですね。地図で見れば針の先ほどしかない沖縄のことをアメリカ人は本当に知っているのか、というわけです。そのころの日本人はみんなそういう意識を持っていたのでしょう。

しかし、今は全く違います。若者たちが、うっかり沖縄出身だと言えば、友達から「今度行くから案内して」と言われるような時代になりました。

また、本土との間だけでなく、海外との交通も便利ですので、外国からもたくさんの方が来られます。特に東南アジアからの旅行者が多くて、「沖縄に来たら帰りたくない」とおっしゃる方もたくさんいます。沖縄には自分たちの国の良いものがそろっていると言われるんですね。これこそ琉球王国以来続いてきた交易の歴史の賜物だと思います。沖縄では今、自然環境の豊かさや交通の利便性、歴史の蓄積など、特徴を生かした地域づくりを進めています。それが成功するためには、沖縄の特徴を国内・国外へ積極的に発信していくことが、これからますます大事になってくるのではないかと思っています。

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生活者の視点に立った地方分権・道州制と国の役割

さて、日本には、北は北海道から南は沖縄県まで様々な地域があり、それぞれ独自の環境や文化を持っています。例えば気温にしても、特に冬場には北海道と沖縄の気温差が40度ぐらいになることもあります。また、交通の便も地域によって大きく異なります。沖縄は非常に便利な県で、私はNHK経営委員会の委員を務めていたときに、たびたび東京に行っていましたが、いつも日帰りができました。しかし、本土でも山間地などでは、そうはいきませんよね。文化にしても、その土地ならではの文化がある。自然環境が違い、便利さが違い、文化が違えば、当然そこに暮らす生活者の考え方も違ってきます。

尚 弘子氏の写真日本という国はこれまでずっと中央集権的で、地方というものをあまり考えてきませんでした。例えば中央の人がたまに沖縄に来られて、「沖縄とはこういうものだ」と決めつけて行政を進めるというやり方がとられてきました。歴史的な流れから、それは致し方のないことだったと思いますが、これからは地方を主体とした行政、地方に住む生活者のことを理解した行政が求められるのではないでしょうか。そういう意味では、やはり地方分権や道州制の方向に行くべきではないかと考えています。

地方分権や道州制という形になれば、当然地方の力が強くなります。そのことは大事にしなければなりませんが、一方で、国全体をまとめるシステムも持っておかなければならない。地方が自分のことだけを考え、自己中心的になってしまいますと、日本の中に幾つかの国ができたような形になり、内紛のようなことが生じるかもしれません。ですから、日本全体を大局的に見て、トータルで良くしていくようなシステムが必要です。それこそが中央行政、すなわち「国」の役割ではないでしょうか。

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地方の実情や危機管理を踏まえた首都機能の分散

国会等の移転については、首都機能を丸ごとどこかに移転するのではなく、分散させるというお話も出ているようですが、今の行政は基本的に補助金行政ですので、地方分権や道州制が進まないまま省庁を各地に分散してしまうと、かえって地方が困るのではないでしょうか。沖縄県からでも、補助金を頂きに度々東京に通わなければなりません。私も副知事時代に何度も行きましたが、特に12月に入ると常に「東京参り」のような状態になります。また、沖縄は米軍基地問題がありますから、防衛省やアメリカ大使館などにも行かなければなりません。このような状況はどの地方でも同じだと思います。道州制が導入され、今の補助金制度が無くなれば良いのですが、日本のこれまでの成り立ちからして、どうしても中央に通う必要があります。そういう意味では、東京に行政機能が集中していることによる利便性も確かにあるとは思います。

ただ、日本にある米軍基地の75%は沖縄に集中していますので、例えば防衛省は沖縄に移しても良いのではないでしょうか。ここにはアメリカ総領事館がありますので、そこと直結させればいいわけです。沖縄県内でも、平成20年に那覇市にあった沖縄防衛局が極東最大の米軍基地がある嘉手納町に移転しました。何もかも東京に集中させるのではなく、そういう理由のある移転なら妥当ではないかと思います。

もう一つの視点として、危機管理という問題があります。関東地域に震災が起こったときの影響などを考えますと、利便性という観点だけで語ってはいけないような気もします。私は危機管理の専門家ではありませんので、専門家の方々にお考えになっていただくべきことかと思いますが、そういう面から考えれば、やはりある程度の首都機能の分散は必要ではないでしょうか。

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