ホーム >> 政策・仕事 >> 国土計画 >> 国会等の移転ホームページ >> 国会・行政の動き >> オンライン講演会 >> 首都機能移転問題と「東京遷都」

国会等の移転ホームページ

首都機能移転問題と「東京遷都」


佐々木 克氏の写真佐々木 克氏 京都大学 教授

1940年生まれ。1970年立教大学大学院博士課程終了。国会図書館非常勤調査員などを経て、1977年京都大学人文科学研究所助教授、1988年より現職。

主な著書に「大久保利通と明治維新」「日本近代の出発」「志士と官僚」など。



問題の所在

首都という問題を考えるとき、特に今度の首都機能移転の問題を考えると非常に重要な問題が、東京遷都(せんと)を研究する上での問題と重なっているところがあります。古代の遷都であれば詔(みことのり)があるのが普通なのですが、明治維新の東京遷都の場合は天皇の詔も政府の布告も何もないという特徴を持っています。そこで、通常いわれている東京遷都ということをどのように表現すればいいのかということは、実は昔からかなり難しい問題なのです。

昭和 16年に文部省がつくった「維新史」という現代にも十分使える高い水準の本がありますが、そこでは「東京奠都(てんと)」という言葉が使われていて、「遷都」とはいっておりません。現在の高校の教科書では「1869年(明治2年)には、古い伝統のまつわる京都から東京に首都を移した」という表現がされています。ここでも実は「遷都」とはいっていないのです。おもしろいことに、日本の近代において「首都」という言葉を使いだしたのがいつ頃なのかはっきりしません。「首都」という言葉は少なくとも近世から明治の初年には使われていません。文久2年(1862年)の英和辞典で「capital」の訳語として首都という言葉が出てきますが、これも辞書に出てくる言葉であって、政府の首脳部も一般の人も使っていないのです。首都という言葉はかなり新しい言葉であり、新しい概念なのです。

一方、政府首脳部は「遷都」という言葉を使っています。政府首脳部は自分たちは遷都をしたという意識を持っていたのです。にもかかわらず、正式な声明を出さなかった。これは何故なのかという問題が出てきます。事実上の遷都であったことは間違いないわけですが、京都から東京へ「都」を移したという「都」とは何かという問題も出てくるわけです。

ページの先頭へ

天皇(朝廷)と江戸(幕府)の関係の変遷

近世の後半期において、江戸と大坂と京都を比較する三都論が盛んになります。この三都論に共通しているのは、江戸は政治の都、大坂が経済の都、京都は天皇の居住地であり伝統と文化の都である、ということです。江戸は公権力(幕府)の所在地であるということです。

二鐘亭半山という人が 18世紀末頃の京都の印象を「花の都は二百年前にて、今は花の田舎たり、田舎にしては花残れり」(京都が花の都であったのは二百年前のことであって、今は花の田舎になっている。しかし田舎にしては雅やかさが残っている)と書いています。この二百年前というのはちょうど秀吉が聚楽第をつくって大茶会を行っていた頃です。秀吉が京都に移って事実上の首都になっていった頃を思い浮かべていただければ、おわかりいただけると思います。

しかしながら秀吉が没落した後、江戸に首府が移って京都はさびれる一方になるわけです。それでも花が残っているし、観光地にもなって文化の都になっていたわけです。それが幕末の政治過程の中で再び実質的な首都になっていくわけです。首都という言葉を当時使っていなかったのはお話したとおりなのですが、ここでは話しにくいので首都という表現を使わせていただくことをご了解下さい。

転機となるのは申すまでもなくペリー来航です。嘉永6年( 1853年)にペリーが来航し、そのことを朝廷に報告する。そのことによって朝廷の存在が全国的な問題になるわけです。そして安政5年(1858年)に条約の勅許を幕府が要請することで、政治的に天皇の存在が浮上してくるわけです。そして決定的なのが文久3年(1863年)に天皇と将軍の位置関係が逆転するという現象が起こります。将軍家茂が京都に上洛し、どのように攘夷を実現するかを報告にいったとき、天皇は賀茂神社に237年ぶりに行幸を行います。その時天皇を中心にして武家が前後を固め、将軍は馬に乗って従うという形になりました。これは天皇(朝廷)と将軍(幕府)の関係が逆転したことを一般の人にも印象づけたのです。同時にこのころから天皇(朝廷)が藩や大名に直接指示を出すようになります。それまでは天皇と大名は直接接してはいけないことになっており、必ず幕府を通さなければならなかったのです。近世の政治史の中では画期的なことが起こってくるわけです。つぎつぎと諸侯と藩兵が上洛してきます。そして藩邸の増改築が行われました。こうしてこの頃から花の都が武家の街に様変わりするのです。

文久3年家茂が上洛したのは、家光以来のことです。それまでは将軍が朝廷に用事があれば呼びつけていたわけです。ところが将軍が出てこなければならなくなったのです。家茂はこの後も何回か上洛しており、晩年の3年間に約 22ヶ月間は京都・大坂に滞在していたことになります。慶喜の場合も元治元年から鳥羽伏見の戦いに敗れるまでずっと京・大坂に滞在していたわけです。そして条約の勅許、外交の問題、長州征伐の問題など国家の重要な事柄が京都で決まって行くわけです。ようするに幕末のこの段階になると首都機能が実質的に大坂・京都に移っているのです。そして大政奉還、倒幕、王政復古の潮流の中で、遷都が問題になってくるのです。つまり、幕府に代わる新しい政府ができる、新しい国家になる、そうすると首都は京都でいいのかという議論が出てくるわけです。

ページの先頭へ

遷都論の諸相

幕末に遷都論を主張したのは、久留米の水天宮の神官で尊攘激派といわれた真木和泉です。彼は文久3年( 1863年)5月に、大事業をするためには何もかも新しくしなければならない、そのためには古いところから新しいところに移った方がいいということから、大坂に移ることを主張しています。これは天皇が先頭に立って攘夷のために動けばいいという、戦略的な発言でした。同じ年に長州藩が攘夷をして失敗したこともあり、この後真木和泉のような過激な攘夷論は影をひそめ、それとともに遷都論も一度消えてしまいます。ところが幕府が倒れ、新しい政府がつくられそうな状況もあって、遷都論が続々と出てくるわけです。

その一つに津和野藩出身の西周が慶応3年( 1867年)に意見書の中で首都機能移転について言及しています。西周は将軍慶喜の側近になります。慶喜が大政奉還によって将軍職も返上するわけですが、幕府をどうすればいいかということを質問したことに西周が答える形で自分の構想をまとめたものです。その中で将軍をやめて大君として行政権を握り、江戸は将軍家の領地(天領)を管轄管理するための組織にして、中央政府を大坂に移すことを主張したのです。これは幕府全体の意見というよりも、慶喜の側近としての個人的な意見だと思います。同じ頃に鹿児島藩士の伊地知正治も大坂遷都論を主張しています。京都は土地が狭く、政治のやりにくい風土だ。また京都の皇居は非常にみすぼらしく江戸城に比べると見劣りするので、大坂に移ったほうがいいとしています。

明治元年1月には有名な大久保利通の大坂遷都論が出ます。大久保の遷都論はかなりの長文ですが、大坂にした方がいいという理由は地形が適当であると述べるにとどまっており、分量的にも全体の中のわずかで、取って付けたような印象があります。それにはわけがありまして、この時点で遷都の場所は大坂しか浮かばなかったのだろうと思います。それよりも大久保がいいたかったのはなぜ遷都しなければならないのかであり、それが文章の大部分を占めているわけです。大変革をするには遷都をしなければならない、京都では改革はできないというせっぱ詰まった考えがあったものと思います。当時の天皇はほとんど外にも出なかったので、外国のように民衆の前に積極的に出ていくような皇帝のような存在になって欲しいという希望もあったようです。そのためには天皇を京都から連れ出す必要があったということです。遷都を機に大改革をするべきであるということが大久保利通の遷都意見の主要な点なのです。

江戸への遷都を主張したのは幕臣の前島密です。彼は大久保利通の大坂遷都論を聞いて、そうではなくて江戸の方がいいという意見を述べています。これは全体として首都はどういうものであるべきか、都市景観の問題や将来の交通の問題、日本全体の中での位置関係、運輸・港湾の便なども考慮した非常にまとまったものとなっています。おもしろいのは、当時の江戸は世界の最大の都市であったわけですが、フランス革命があった頃のパリが 60万人ですから、その倍もある世界最大の都市、そのような自負もあるわけです。その都市が遷都によって荒れるにまかせてしまうのはよくないという考え方をしています。

このほかに江藤新平の東京遷都論といわれているものがあります。江藤新平が有名人なのでそのようにいわれていますが、草稿は大木喬任が書いたものです。ここで初めて「東京」という言葉が出てきます。「江戸城は急速に東京と被定」と書かれていますが、これがミソなのです。よく「江戸」という地名を「東京」という地名に変えたといわれますが、これは間違いです。この文章が東京遷都の実体をよく表しています。江戸城を中心とした江戸という空間を「東の京と定める」ということで、改めるのではないわけです。そして「東西両京」という表現に見られるように、西と東の都の両都論なのです。この段階ではまだ遷都論ではないのです。そしてこの文書の中に「東下(とうか)」という言葉が出てきますが、幕末の頃からこの言葉が盛んに使われるようになってきます。明らかに関東、江戸を下に見ているのです。その下に見ている江戸を東の京に格上げするということなのです。西の京と東の京の間を天皇が動くという形を想定しているのです。

ページの先頭へ

東京遷都の政治過程

このような遷都論や二都論が出てくる中で、特に明治元年3月に江戸開城の後に江戸が首都としてクローズアップされてきます。幕末の大坂への遷都論は大坂城を使用することが前提としてあったわけですが、大坂城が鳥羽伏見の戦いの後に焼けてしまったために大坂城が使えなくなってしまったのです。しかも江戸開城がなされたわけですから、江戸がクローズアップされたのも当然といえば当然だったのです。そういう動きの中で遷都が江戸・東京へと動いていくわけです。

大久保利通の建言の中に「東京の説を以て、(徳川家を)駿府に移封」という表現があります。私は東京遷都について詳しく研究するまで、この「東京の説」をどう解釈していいかわからなかったのですが、これは江戸を東の京とする説という意味なのです。それが有力な話と思われるから断然徳川家を江戸城から静岡に移すべきだということなのです。この当時徳川家をどこに移すかというのは大変な議論になります。政府の中には江戸城をそのまま徳川家の居城としてもいいのではないかという意見もあったわけです。それではだめだというのが大久保利通らの考え方なのです。江戸城を明け渡しさせて完全に政府のものにし、江戸を東の京にして徳川家をよそに移すということが政府の有力な考えになっていることがそこからうかがえます。

もう一つ、この段階で天皇親政の布告が出され、これからは政務を行う場所に毎日出てこられ、実際に政治を行う(「万機親裁」)ということが宣言されています。これは大変重要なことで、この後明治憲法で規定されるまで天皇の役割を明記したものはこれだけであったのです。遷都問題に関してもこれが非常に重要な要素となっています。天皇が自ら政治を行うということは、すなわち天皇が動いたところが政治を行う場所になるわけです。ですからこの場合、遷都問題は天皇問題になるのです。単に都を移すのではなく、天皇が住む場所、天皇が政治をする場所をどこにするかが遷都問題の一番重要な問題になるのです。

そして明治元年7月に有名な東京設置の詔が出されます。これは従来江戸を東京と改称した詔とされていますが、そんな単純なものではないのです。文章には「自今、江戸を称して東京とせん」とありますから、江戸を東京と改称したと浅くとられがちですが、勝海舟の日記にも天皇が来る場所だから東京と称することになった、との記述があります。万機を親政する天皇が居住する京都、つまり西の京と同格に列するという意味で東の京としたという意味なのです。江戸を東の京とするのにこれだけ重い意味や政治的な意味があったということを理解していただきたいと思います。

明治元年8月には明治の太政大臣になっていく三条実美が東京を重視するべきだという意見を岩倉具視あての書簡の中で述べています。この段階では京都に天皇がいて京都が首都になっているわけですが、今度は東西の位置関係を逆転して東京の方を首都とすべきだと発言しています。公家出身の三条実美がこれだけはっきり発言したことが注目されます。そして、明治元年の9月には天皇周辺の反対を押し切って、東京行幸が実施されます。東京についた日の 10月13日、江戸城を東京城と改め皇居とすることになります。東京に行幸した後には必然的に京都に還幸することになるわけですが、この段階で場合によっては京都にもどらなくてもいいという議論が出てきています。その代表はやはり三条実美であったわけですが、岩倉具視の意見で一度天皇は京都に帰ることになります。そして明治2年に東京に再幸することになるわけですが、その間にも東京城の宮殿造営の計画があることを発表したり、国家の基本方針を決める会議を開催するために、藩主・府県知事は東京に参集することを命じたり、公議所という議事機関を東京に設けたり、という形で着々と首都機能が東京に移っていく、あるいは新しく作られていったのです。そうした中で東京再幸が行われる際には国家の最高機関である太政官を東京に移し、京都には留守官を置くことが発表されるのです。そして天皇が東京に着いた明治2年3月28日に東京城(皇居)を皇城と改めます。皇居は天皇が住む場所ですから何カ所あってもいいのですが、皇城は皇居+官庁がある場所を表現しているのです。つまり、これが事実上の遷都宣言とみなせるわけです。これは私の解釈ですが、このように考えざるをえません。よく雑誌で首都東京というのは「誕生日をもたない首都」であるといういわれ方をしますが、確かに遷都宣言もなにもないわけですから江戸が首都となった日にちははっきりしません。正式な声明はないわけですが、しいて挙げればこの日を出発点と考えていいのではないかと思います。

ページの先頭へ

東京遷都の目的

なぜ遷都をするのかといえば、大久保利通がいったように改革をするために遷都をしたいというのが本音であったと思います。それを一般的な表現でいえば、新国家の新しい政治は新天地で行うべきであるという考え方です。もう一つは行政側のやりにくさゆえに京都から脱出したいという理由もあったようです。長州藩出身で京都府知事を長く努めた槙村正直という人が評しているように、使えるものはなんでも使って都合の悪いことには反対していくという京都の粘っこい土地柄と伝統を重んじる風土は、大改革をめざす政治には適さなかったのでしょう。三つ目には新国家のシンボルとしてふさわしい天皇、すなわち自ら積極的に政治をする天皇に育てるという目的があったのです。そのことを明確に発言していたのが山県有朋です。「東巡(東京再幸)の義は…九重深宮の旧弊を一洗せんとするにあり」という発言に見られるように、行幸の一番大事な目的は朝廷改革にある、すなわち遷都は改革のためであるという考え方をしていたわけです。

それにも関わらずなぜ遷都の宣言をしなかったのでしょうか。

一番の理由は、遷都の発令は急がなくてもいいと考えていたためです。政府の基礎、政治の基本の確立がまず先であり、遷都の発令は政治、社会、民心が安定してからでいいという考えです。2番目には京都への配慮があったためです。また、京都の尊攘派(反対派)勢力を刺激しないこと、新皇城建設と遷都の発令がうまくかみ合わず、遷都発令のタイミングを失ったことなども背景にあったようです。

その後の京都に対して、政府は厚い配慮をしたようです。産業基立金という5万両のファンドを与えて、官民一体の京都復興策として琵琶湖疎水事業を行ったり、洛中の地子銭の免除や新規事業への資金援助なども行っています。京都は水資源のよくないところなので、琵琶湖疎水事業がなければ今日の京都の発展はなかったと思います。

ページの先頭へ

現代の首都機能移転問題をめぐって

大学院生に首都機能移転問題に関心があるかたずねてみたところ、ほとんどの学生が関心を持っていませんでした。その理由の一つは情報が不足しているからだと思います。候補地が絞られた時には新聞でも取り上げられましたが、その他は関西では関連の記事を見ることもあまりないように思います。もう一つの理由は、明治の東京遷都の時のように、なぜ移転しなければならないのか切実な理由がわかりにくいからなのではないでしょうか。東京の方は切実に感じているのかもしれませんが、関西の私たちにはあまり感じられません。移転して何をするのかという目的も不明確のように思います。それらのことが学生はじめ私たちの周辺には伝わっていないのかも知れません。関西一般の人も同じ感想だと思います。しかし、首都機能移転の問題は国家の問題です。そういう大変な問題であるという意識をもたなければ、国民一般の合意を得ることは難しいのではないでしょうか。そのためには積極的な情報発信とPRが必要であると思います。

ページの先頭へ