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「ミヤコ論」から見た首都機能移転


園田 英弘氏の写真園田 英弘氏  国際日本文化研究センター教授

国立民族学博物館助教授、国際日本文化研究センター助教授を経て平成6年より現職。平成10年より研究調整主幹を併任。大阪大学博士(人間科学)。専攻は社会史。研究テーマは社会移動史の比較研究。著書・論文に「群県の武士―武士身分解体に関する―考察」「文明開化の研究」「西洋化の構造」「『みやこ』という宇宙」「士族の歴史社会学的研究」(共著)など。



ミヤコの3要素

ミヤコは王宮性・首都性・都会性の3つの要素からなる複合概念である。(詳細は『「みやこ」という宇宙』NHKブックス、1994年) ここで重要なことは、ミヤコはこの3つの要素がすべて具備されていなければならないというわけで「ない」というところに、面白さがある。例えば、17世紀の元禄期の日本では、ミヤコは明らかに京都だと認識されていたが、「公権力の所在地」が江戸であったことは間違いない。つまり近代西洋の概念としての首都 (Capital)の観点から、江戸時代の首都はどこかを特定しようとしたら、江戸以外にはない。しかし、江戸はミヤコではなかった。

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「ミヤコ」と「首都」

京都は千年のミヤコだったとは、よく言われる言葉であるが、それは京都が千年間日本の「首都」であったということを意味していない。そもそも、ミヤコから切り離された「首都」という概念が、明治以前にはなかった。明治の東京遷都によって、東京は「首都」になったという教科書的理解が一般的に見られるが、そうするとそれ以前の首都は、京都だったという逆説が生まれてしまう。

私の意見では明治以来、現在に至るまで、東京は「首都」ではなく「ミヤコ」であるというものである(「東京は首都か?」江戸東京博物館シンポジウム報告書2, 1999年)。それは平安時代の後期の京都と、近代以降の東京のみに例外的に成立した、パーフェクトなミヤコ(3要素をすべて具備しているという意味)であった。

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ミヤコ論からみた首都機能移転

以上のような私のミヤコ論を前提として、「首都機能移転」についての私見を述べておきたい。問題の中心は、「遷都」でも「首都移転」でもなく、中途半端な首都「機能」の移転という問題の建て方がされている点である。国土庁のホームページで、今までの経過をはじめ、さまざまな意見を読んでみたが、推進派・反対派のいずれの意見とも、的はずれのような気がする。それは、戦後の天皇の存在にふれないで、首都の問題(いや正確に言えばミヤコ東京)を、論じているからである。近代日本は、植民地化からの危機を回避するために、あらゆる文化的・社会的資源を動員して、ミヤコ東京を中心とした日本帝国を築き上げてきた。戦後もこの枠組みの中で、復興を遂げてきた。

このパラダイムを転換する時期に来ている。私は、穏健な保守主義者である。天皇は、「国民統合の象徴」というよりは、古い日本文化の伝承の象徴であると思う。武家でもない天皇が、旧江戸城にいまもお住まいになっているのは、違和感を感じる。私は、地方分権派でもある。現在論じられている問題が、真に国家百年の体計の問題であるとすれば、「首都機能移転」などという姑息な問題の設定ではなく、「遷都」や「首都機能」という堂々たる議論をすべきであろう。

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