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古代における遷都と都の形成過程

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村井 康彦氏の写真村井 康彦氏 京都市美術館 館長

1930年生まれ。山口県出身。1953年京都大学文学部史学科卒業。1958年京都大学大学院文学研究科国史学専攻博士課程修了。京都女子大学講師、同大学助教授を経て1966年同大教授。1987年国際日本文化研究センター教授、1995年滋賀県立大学教授。2000年に京都造形芸術大学歴史遺産学科の創設に参画し、2001年に同大学大学院長に。2004年より現職。国際日本文化研究センター名誉教授。京都府文化財団理事。1992年茶道文化学術賞、1995年京都新聞文化省受賞。

主な著書に『日本の文化』(岩波書店)、『王朝風土記』(角川書店)、『茶の文化史』(岩波書店)、『千利休』(NHK出版、のち講談社学術文庫)、『平安京と京都』(三一書房)などがあり、歴史や茶道、文化に関連した著作・編著・監修多数。



古代における都の成り立ち

日本の古代において、都とはどういうものだったのかということを考えてみますと、それは大王や天皇の所在地、固い言葉でいえば権力の中枢、権力の所在地ということになると思います。しかし、さかのぼれば大王や天皇の居所、宮殿を見ても、規模の大小はともかくとして、機能の上では大王や天皇が寝起きする建物に公的な仕事を行う建物が少し加えられている程度のものでした。宮廷の研究の中では「内廷」と言われるところにあたります。「廷」とは宮廷のことで、「内」とは「天皇に即した」ということです。ですから、内蔵といえば天皇のものを納める蔵のことであり、内膳といえば天皇の食事を扱う機能を持っていました。それに対して、公の機能、建物は、「外廷」という言い方をします。先の内蔵・内膳に対して、大蔵であり大膳です。

卑弥呼の時代などでは、内廷と外廷が未分化の状態でした。垣根などがあって武器を持った兵がいつも護衛していたというようなことが書かれています。そして、その中に高殿などがあったという程度のものであったと思います。それが、宮廷の歴史の中で見ると、内廷と外廷がある時期から分離し始めます。つまり、内向きと外向き、家政と国政の機能に分かれ、それぞれが拡大して行くという傾向をたどりました。そして、遷都を重ねながら、だんだん大きくなっていったというのがわが国の都の歴史のあらましであるといってよいと思います。

こうした傾向は、飛鳥京を離れて、藤原京が都になったときにはっきりしてきます。藤原京時代はすぐに終わりましたが、奈良盆地の一番北に都が移った平城京の段階では、「百官の府」というふうに言われ、たくさんの役所のある都になりました。いわゆる「二官八省一台五衛府」というような役所ができたのがこのときです。無論、天皇の居所である宮殿もつくられ、公の儀式の場で大極殿を正殿とする朝堂院などもできました。こういったことから、古代国家の中枢である都の規模、構造ができ上がったのが平城京であると思います。そこでこれを「百官の府」というような言い方をしているわけです。

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平安京に見る都の整備過程

とはいえ、平城京はまだまだ過渡的要素が多かったので、この後にできる平安京のあり方を見ますと、やはり平安京のほうがずっと整ってきています。平安京では、基本的な建物は大内裏という宮城のなかに、内裏すなわち天皇の居所を挟んで北に大蔵の建物があり、南に太政官や民部省、式部省などの役所があります。そして、朝堂院、豊楽殿という施設もある。内裏を取り囲むような形で役所が建ち並んでいて、その中枢に国家的儀礼の場である朝堂院、宴会の場である豊楽院が建っていたわけです。このように、役所が宮城の中に全部集約されてくる。そして、中にあると具合の悪い獄所や修理職(しゅりしき)などが京中に設けられるという形で整備されていきます。

なお、内廷と外廷をひっくるめて「宮」と言うのに対して、その外のいわゆる京域の中に貴族を含めた人々が集まり住んだ。これを「京」といい、「宮」と「京」を使い分けています。平安京の場合、この「宮」と「京」を合わせた全体が東西約4.5キロ、南北約5.2キロの規模の人為的な古代都市としてでき上がっていったのです。

平城京の場合は、律令制度がつぎつぎと実体化し、整えられていくという段階で作られたという面がありました。後から付け足されていくものを令外官(りょうげのかん)といいますが、そういうものが必要に応じてつけ加えられていくことになりました。そうすると、最初から役所の全部が宮城に入っているとは限らないし、むしろ入らないために京中にその都度役所が設けられました。そのため、京中官衙(きょうちゅうかんが)とでも言うべきものが結構あったように思えるのです。それは、結局のところ、都の中枢部分の整理がまだまだ過渡的な段階にあったということを示しているのだと思います。ですから、平城京は「百官の府」とはいうものの、なお形成過程にあったと思います。

こうした過程の中で大事なことは何かといいますと、だんだん役所が整備されていく中で、そこで仕事をする役人、官人が増えてきたことにあります。つまり、役所の制度は役人の制度、官司=官人制度とうらはらの関係にあります。都の完成とは、この2つが表裏一体のものとして、役所の制度、役人の制度が整備されていくという過程であったという言い方ができます。そして、その役人はどこから来るのかといいますと、畿内あるいは畿外の豪族、あるいは有力農民の人間がとりたてられていくという形でした。そうすると、都に近いところに住んでいればそこから通うということもありますが、大体は京中に住むようになってくる。つまり、百官が整備されてくるということは、その周辺の人間の京中への集住化が進んでいくということであったといってよいと思います。

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都市民の誕生による都鄙意識の形成

7世紀の後半、壬申の乱があって、天武天皇のときに古代国家が加速度的に整備されていきます。そのときに、出身法という法律が出されました。要するに、畿内豪族や畿外豪族ら地方から来たものを官人に任じて役所の仕事につけさせ、成績を見ながら抜擢していくという法律です。このような法律によって官人制度が整備されていくのですが、その後、やはり天武天皇のときに、朝参(みかどまいり)の法というものが出されます。これは、1年を四つに分けた初めの月、すなわち1月、4月、7月、10月には必ず出仕しなさいという法律です。それならはじめの月しか人がいなかったのかというと、そんなことはありませんから、都には常に何がしかの人間がいたと見るべきだと思います。

しかし、この段階においても、都に常に集まり住むという集住化はきちんとできていなかったということがいえると思います。そういう時代を経て、平城京の段階になって貴族をはじめとする人々の京中への集住が進んでいきます。特に貴族に対しては、ただで宅地を与えて、移住を奨励しています。そうすることで地方の豪族が都に来て、そこで住むようになる。そして、宮中にある役所に勤めて、役所から給料をもらうサラリーマンになっていくわけです。

こうして、田舎に住んでいた豪族、古代氏族は都市に住むようになり、都市民となっていきました。簡単に言えば、それが「豪族から貴族へ」という変化であったと思うのです。別の言い方をすれば、田舎に住んで生産にかかわっていた豪族が、役所から給料をもらう都市貴族になることで、田舎との関係が希薄になっていきました。

奈良貴族と平安貴族の違いを最も単純に言えば、平安貴族になって貴族度が高まったということだと思います。奈良貴族はまだ粗野で、流血の惨事を起こしてでも、相手と戦うということがありました。ところが、平安貴族となると自身は戦わず、内にこもって怨霊や物の怪になって相手にとりつくというようなことになります。死刑も行われなくなりました。文化としては進化したのだと思います。

これは、別な言い方をすれば、「都」と「鄙」の関係が大きく変わってきたということでもあります。「伊勢物語」などを見ますと、常に「田舎の人間にしてはまあまあの歌である」「やはり田舎の人間の歌である」というような、鄙を下に見た意識が出てきます。平安時代に下ると、明らかに価値観−差別意識を含んだ意味での都と鄙の関係がつくられてきたということです。

以来、このような感覚というのは、現在に至るまでずっと続いていて絶えることがないのではないかと思います。

宮都ができるということは、機能の上でいえば、田舎を切り捨てながらできあがってくるということでもあります。古代氏族が豪族から貴族になる中で、そういった都と鄙の意識、都鄙(とひ)意識をだんだん形成していったのです。つまり、都鄙意識というのは、まさに都市民としての貴族の意識であり、都ができるときの意識、みやこの思想だといってもよいと思います。

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平安京における「町」の形成と都市文化

都というのは役所だけではなく、京中に住む人々がたくさん集まることによって1つの古代都市として初めてでき上がるものです。そして、平城京を経た平安京に至って、初めてそういうものができ上がったといってよいと思います。ただ、平安京は、できた段階で右京の方には遷都以前から存在した自然集落が取り込まれているということも分かっています。その後、右京の方はどんどん廃れていって、平安の中後期になると左京が中心になっていきます。それから、大内裏の南側を走る二条通を境として、北が上京、南が下京ということになるのですが、それが南北に両極分解していきます。その結果、中世の後半、戦国時代には、アリの胴体のようにくびれた形になり、2つの都市が1本の道でつながっているような形になってしまいます。このときが、京都が一番小さくなった時代です。

しかし、この時代は、町の共同体というものの密度が高まった時代でもあります。条坊制というのですが、そこでは道路を通すことで一つの正方形をつくり、その1ブロックが一つの町ということになりました。つまり、道路によって区画されたもの、人為的な区画が町と言われているわけです。ところが中世になると、その道路を挟んで向かい合った人々が一つの町を形成していきます。これを両側町と言っています。京都市中の地図を注意して見ると、祇園祭を出すような地域は典型的な両側町であることがおわかりになると思います。それだけ、人々の生活の中で結びつきができて、正式な町、行政の町として認められていくようになっていっていったということなのだと思います。こうしたつながりを基盤として、祇園祭なども盛んに行われるようになりました。

そして、戦国時代にあたる16世紀ごろ、茶や華などの伝統文化、伝統芸能がつくられました。この時期は、天皇、公家がいて、武家もたくさんいましたし、僧侶や神主、成長する町衆など、京都の歴史を構成したすべての役者がそろっていた時代です。時代によって主役、脇役はかわっていきますが、それらが相互にかかわりながら、京都の文化はつくられていったのです。戦国期は、階層を超えて、あるいは階層を連ねてつくり出されたという意味で、日本における最初の都市文化が形成された時期だと思います。

都市文化というのは、ある意味で日常性を虚構化するというなかで生れた文化の形式だと思います。茶の湯については「市中の山居」と言われますが、町中に山里、つまり農家風の建物、四畳半をつくり、そこで空間と時間を味わう。これは、まさに都市の美学であり、都市民の好みだと思います。華にしても、そのまま挿しておけばそれ自体で美しいのですが、わざわざ真と下草(役枝)というような関係で全体の構成を考える。戦国時代には、このような素材にある種の作為、加工をすることによって、より物事の本質を引き出す芸術形式が生まれました。立て花であり立華です。都市民の経済力、あるいは教養や文化といったものがストレートな形で現れたのが祇園祭だとすれば、このようなひとひねりした形のものも都市文化だと私は思っています。いずれにしても、このような文化ができてくるのが戦国時代であり、そこには都市民の経済力が根っこにあったのだと思います。

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遷都をすすめるための力学

古代でも、遷都の政治力学のようなものがあって、遷都をする際には必ず反対がありました。都が移るとなると、そこにいる人々の生活は激変しますから、誰だって諸手を挙げて賛成することはないわけです。
例えば、中大兄皇子は、大化改新の後に飛鳥から難波(なにわ)に都を移しました。しかし、孝徳天皇と仲違いした中大兄皇子は飛鳥に戻り、都も飛鳥に戻します。そして、少し時間を置いて今度は大津に都を移すということをしました。つまり、遠距離遷都を3回しているのですが、その都度言われたのが、ネズミの大移動があったということでした。
古老たちはそれを見て「これは都が移る予兆であろう」と言ったというのですが、1度ならばともかく、2度3度あったということは、ある程度意図的に行ったものではないかと考えられます。
古代の人は、何か大きなことがあるとき、それを予測させるような事態が先だって起こるという意識が強くありました。ですから、ネズミの大移動という話はそのような意識を逆手にとった一種の人心誘導、世論操作であったと思います。
藤原京から平城京に移るときにも、「衆議」といっていますが、いわば世論が形成されていました。もっとも、当時の世論というのは、一般の人を含めた世論ではなく貴族社会の考え方です。元明天皇の詔には、「私は遷都を好んでするわけではないのだけれど、衆議を無視することはできないので遷都をする。遷都をする以上は、外国の人間も来るだろうし、立派な都をつくろう。ただし、農繁期に農民を使ってはいけない。」というようなことが書かれています。このときの世論形成をしたのが、平城京造都の中心になった藤原不比等であろうと考えられています。藤原不比等は、このとき根回しをしていたといってよいと思います。
かつては、こうした世論形成をすることによって、反対の動きを抑え、あるいは協力させる方向に持って行き、大丈夫だということになったら一挙に遷都をおし進めています。無論その前には立地条件の調査を行いますから、遷都を行うときには既に候補地が決まっていました。そして、天皇が生活することのできる機能と役所が最小限度できたところで、遷都が行われました。全部ができたときにはじめて遷都をするのではなく、最小限度の機能が整備されたときに天皇が移る。そして、遷都の詔を出すわけです。それは、「これから遷都をして都をつくります」ということを天下に表明する手続であり、政治的には極めて大事な行為であったと思います。
したがって、遷都以前に造都は始まっているのですが、本格的な造都は遷都の表明があって天皇が移った後に行われます。そして、ほぼ10年をかけて都づくりが行われてきたというのが実態であろうと思います。
そういった中では、古い都にいた人間が反対してそのまま居座ったとしても、結局新しい都に移った人々に取り残されて滅びるだけです。やはり、遷都が時代の流れだということになれば、反対した人たちも遷都という名のバスに争って乗っていきました。遷都の吸引力はすごいものがあって、それによって遷都推進者は新しい都で新しい政治秩序、政治体制をつくり出していきました。古代においては、遷都ほど強力な政治的行為はなかったといってもよいと思います。
遷都を通して政治改革を全般的に行う契機にするということは、現代でも十分あり得ることだと思います。全く新しい都市をつくる中で、新しい試みができるわけですし、改革を行うこともできると思います。そういう意味で遷都は、現代でも古代と同じような意味を持っているのではないかと思います。

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新しい都市を作る際に凝らすべき工夫とは

長岡京遷都がうまくいかなかったことについて、上田秋成は『春雨物語』で「平城京の貴族たちはこの遷都がうまくいかないだろうと思って、長岡京に移らなかった。彼らが移ってこそ遷都が成り立つのに、平城京にとどまって成り行きを見ている。これでは、遷都は成功しない」というようなことを言っています。今度の首都機能移転でも、移るべき人間がふだん東京にいるということでは、うまくいかないように思います。仮の宿でしかなければ、移った先の人間だという意識は出てきません。それは、東京の意識でしかない。やはり、人間が住んで1つの町ができて初めて本当の実体ができ上がるというように思います。

ただ、それは簡単なことではありません。田舎でも、都会の人を招いてうまくいっているようなところがあります。しかし、そこでもやはり田舎の人と都会の人を分けて、交わることはあまりありません。交わりがあると、古くからの住民と新住民の間にトラブルが起こってくる。都会の人も煩わしいし、古くからの人も「なんだ、自分たちの生活の中に割り込んできて」となるので、結局仲良くなっていないということがあります。

ですから、首都機能を移転するときも、移るべき人間は新しい都市に住むべきであるにせよ、都市の作り方、町の作り方そのものにおいて何か工夫を凝らすことが必要なのではないかと思います。しかし、その都市に文化というものが根付くためには、人と人との交わりがなければならないわけで、自然を味わったり、年中行事に参加するということが必要になってきます。そうすると、一種の共同意識のようなものが生まれてくる。新しい都市を作るのであれば、お祭りをやったりすることも、その都市に住む人に共通の意識を持たせる上で大事だと思います。

やはり、遷都なり首都機能移転というものであっても、最終的には移ったところで新しい文化をつくるということが求められてくるのではないかと思います。

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現在の首都機能移転ですべきこと

古代の遷都は、天皇がやろうという気になればできたわけですから、発想してから実行まであまり時間もかかりませんでした。例えば、桓武天皇は長岡遷都と平安遷都を行い、長岡京と平安京という二つの大きな都をつくりました。最初の長岡京遷都は結局失敗するわけですが、そのときは和気清麻呂が「遷都して10年。膨大な経費をかけましたが、まだ都はできていないので止めましょう」と進言し、事業の中止を決めています。長岡遷都は歯車があわないこともあって、桓武天皇は長岡京をつくっている途中で、次の候補地の地相調査を始めています。こうした決定は、1、2年の間に行われていたと思います。

そう考えると、今回の首都機能移転の議論は、ちょっと時間をかけすぎているように思います。もちろん古代と現代では話が違いますが、このプロジェクトはもう少し集中的に議論して、話を進めていくべきだったのではないかと思います。議論している間にバブルがはじけて、話を進めるような状況ではなくなったということもあるのだとは思います。しかし、時間がたつにつれて人々の認識は薄れてきますし、熱意も冷めてくるものです。また、地価の異常な高騰なども理由の1つになっていますが、現在では状況がかなり変わってきています。

しかし、そうした外的状況だけでなく、このプロジェクトの一番の問題点はやはり首都機能の移転、国会等の移転というところにあると思います。「首都」の移転ではなく、「首都機能」の移転であるという点がやはり問題なのです。政治体制全般を改め、21世紀の新しい体制に変えていくための起爆剤、契機にするのだという大きな意図があるとするならば、首都機能は最小限度の移転にとどめるということではほとんど意味のないことになると思うのです。やはり、首都そのものを移すというようなプロジェクトにしなければならなかったのではないかと思います。その結果、「東京はだめになるかもしれません」というぐらいのことであれば迫力のある話になるのでしょうが、首都機能が移っても東京は全く変わらない、心配はいりません、というのでは、何のために首都機能を移すのかわからないということにもなりかねません。

そういうことで、当初の意図するところ、あるいは当時の状況と比べて状況が変わったということを、今日の段階で率直に直視して認めることが必要だと思います。新たな今日的意味をもって、首都機能の移転というものが大変重要な意味を持っているということをあらためて理解してもらう必要があるのではないでしょうか。首都機能の移転という問題は、当時と現在の状況というものを把握しそれを率直に訴えることによって、もう一度認識を新たにしてもらうことが必要なのではないかと思います。

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