平成11年8月に国土庁ホームページ「意見交換スペース」を開設して、おかげさまで1年が経過いたしましたので、これまでの意見投稿の状況をお知らせいたします。
(1)首都機能移転の広場(首都機能移転全般についての意見交換スペースです。) 555件
(2)新都市の広場(首都機能移転によって誕生する新都市についての意見交換スペースです。) 89件
合計 644件
皆様からいただきましたご意見については次のように分類することが出来ます。
(1)首都機能移転の広場
(1)移転の意義・効果や賛否に関するご意見(29%)
(2)移転先に関するご意見(22%)
(3)環境、交通、行政等の日本における現状の諸問題に関するご意見(19%)
(4)その他(30%)
(2)新都市の広場
(1)新都市の提案に関するご意見(54%)
(2)新都市の条件等に関するご意見(22%)
(3)その他(24%)
いくつかのご意見について、その概要を紹介いたします。
首都機能移転については、国民の間の議論は欠かせません。皆様の様々な意見を公表する場として、引き続き意見交換スペースをご活用ください。
我が国では、歴史的転換期において、国政改革と併せて政治の中心を移転してきました。
今回は歴史的観点から首都機能移転をみるとともに、国際日本文化研究センターの園田英弘教授の、「ミヤコ論」をご紹介します。
西暦 | 変遷 | 移転・選定した理由 |
---|---|---|
710年 | 平城京 (奈良) |
・律令体制の確立 ・飢餓・疫病に対する除災招福 |
794年 | 平安京 (京都) |
・仏教勢力との決別 ・水陸交通の利便性 ・人心の一新 |
1192年 | 鎌倉幕府 (鎌倉) |
・武家勢力の台頭 ・公家勢力からの独立 ・源氏ゆかりの地 |
1338年 | 室町幕府 (京都) |
・伝統的権威の活用 |
1603年 | 江戸幕府 (東京) |
・武家勢力の台頭 ・関東平野の開発 |
1868年 | 明治政府 (東京) |
・大都市江戸の活用 ・地理的な位置 |
(注) 移転・選定した理由は、必ずしも定説でないものも含む
出典:各種資料をもとに国土庁大都市圏整備局で作成
歴史を振り返ってみると、我が国は、これまでも、大きな時代の転換期において、その時々の要請に対応するため、政治の中心を移転することを伴う国政の改革を行い、新しい時代にふさわしい統治制度をつくり上げてきました。
戦後50年を経て、我が国を取り巻く内外の環境は激変し、今や、我が国は、重大な転換期にさしかかっています。
新たな時代を築くためには、我が国の将来を見据えて、明治期以来の現行諸制度を、その根元に立ち返って見直すことが必要です。
首都機能移転は、我が国の将来に深く関わり、国政の在り方をも左右する極めて重要な問題です。世紀を越えた長期的視点に立って構想すべき歴史的大事業です。
「ミヤコ論」
国際日本文化研究センター 教授 園田 英弘 氏
(専攻:社会史
研究テーマ:社会移動史の比較研究)
ミヤコとは(1)王宮性、(2)首都性、(3)都会性の3つの要素からなる複合概念である。(詳細は『「みやこ」という宇宙』NHKブックス、1994年)
(1)王宮性とは、「ミヤコ」というのは「宮の処」と書くことを考えれば、元々の意味は天皇のいる場所と考えられる。
(2)首都性とは、古代の天皇というのは政治的権力者であったことから、ミヤコには政治的な中枢としての役割を果たす(公権力の所在地)という意味が含まれている。
(3)都会性とは、「ミヤコ」とは大都会であるという大前提がある。ただし、都会性は、ミヤコが当初から持ち合わせていた要素ではなく、京都(平安京)の変化とともに後になって形成されたものである。平安京が出来た当時の平安京の人口は、おおよそ7〜8万人くらいではなかったかと言われている。その後時を経て平安京の発展と共に人口の集積が進み、ミヤコに(3)都会性という要素が加わったと考えられるのである。
しかし、ここで重要なことは、ミヤコはこの3つの要素がすべて具備されていなければならないというわけで「ない」というところに、面白さがある。
例えば、17世紀の元禄期の日本では、ミヤコは明らかに京都だと認識されていたが、「公権力の所在地」が江戸であったことは間違いない。つまり近代西洋の概念としての首都(Capital)の観点から、江戸時代の首都をどこかに特定しようとすれば、江戸以外にはない。しかし、江戸はミヤコではなかった。
「京都は千年のミヤコだった」とは、よく言われる言葉であるが、それは京都が千年間日本の「首都」であったということを意味していない。そもそも、ミヤコから切り離された「首都」という概念が、前述したように、明治以前にはなかった。明治の東京遷都によって、東京は「首都」になったという教科書的理解が一般的に見られるが、そうするとそれ以前の首都は、京都だったという逆説が生まれてしまう。
私の意見では明治以来、現在に至るまで、東京は「首都」ではなく、冒頭に述べた3つの要素を兼ね備えた「ミヤコ」であるというものである(「東京は首都か?」江戸東京博物館シンポジウム報告書2,1999年)。そして平安時代の後期の京都と、近代以降の東京のみが、例外的に成立した、パーフェクトなミヤコ(3要素をすべて具備しているという意味)であったと言える。
現在議論されている首都機能移転とは、ミヤコのもつ3要素を再び分割しようとすることのひとつの試みであるとも言えよう。
「夢、はじまるね。首都機能移転。」のキャッチフレーズのもと、「各種団体や地方公共団体の参加を得た共同の広報活動」の開始については、新時代vol.14で紹介しました。各地域のイベント等に多数ご参加いただき有り難うございました。
デザインを一新した今回のポスターは、「紅葉」とオレンジを基調とした秋をイメージさせるものです。ポスターの中の「赤いじゅうたん」は、国会の“絨毯”と里山や庭園の紅葉の敷きつめられた“絨毯”の2つをイメージしています。
前回のポスターで紹介したイベント等の詳細や、追加を含めて、各地域で実施される首都機能移転に関する各種イベント等を引き続き紹介しています。あわせて、ホームページでも最新の情報を紹介していますのでご覧下さい。
多くの方々のご参加をお待ちしております。
東海大学付属望星高等学校
7月14日、東海大学付属望星高等学校の1年生の皆さんが、「現代文明論」の授業の一環として、首都機能移転をテーマにディベートを行いました。賛成派と反対派に分かれ、移転の意義や効果などの観点から、様々な議論が活発に展開されました。
東洋大学経済学部
7月22日、東洋大学経済学部松原ゼミ2年生の皆さんが、ディベート学習の一環として、首都機能移転をテーマに取り上げ、移転の賛否について熱く議論を戦わせました。事前に周到な準備がなされており、立論、質問、回答、再質問そして結論といった展開の中で、それぞれ数分間の持ち時間にもかかわらず、盛りだくさんの相互の主張が展開されました。
「子ども霞が関見学デー」での首都機能移転の説明
8月23日〜24日、「子ども霞が関見学デー」が行われ、国土庁でも、8月23日に、3歳から13歳までの子ども17名が参加して行われました。
その中で、首都機能移転について、国土庁職員から子供用のビデオやパンフレットで説明を行ったほか、実際にパソコンを使って、「首都機能都市体験CD-ROM」でバーチャルの首都機能都市を体験し、楽しんでいただきました。
子ども達からは、積極的に質問があったほか、親子で熱心にパソコンに向かう姿が見られ、いつもとは違う夏休みの1日を過ごしてもらいました。