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Webニューズレター新時代Vol.77 〜一緒に考えましょう、国会等の移転〜

寄稿文

本記事は、平成26年3月に実施したインタビュー内容を取りまとめたものです。

霞ヶ関の歴史を紹介する活動

平成7年は法務省の赤レンガ棟が出来てから100年でした。それを機会に霞ヶ関の歴史が『霞ヶ関100年:中央官衙の形成』(公共建築協会、1995年)にまとめられました。この本は、国土地理院の協力のもと、年代を追った霞が関周辺の地図を挿入し、霞ヶ関の変遷を整理したもので貴重な資料と思います。同時に、もう少し軟らかく書けないかと思い『霞が関歴史散歩:もうひとつの近代建築史』(中公新書、2002年)を出版しました。

やはり霞が関地区は一般の人にはなじみにくいと思います。しかし、歴史や近代建築に恵まれた場所ですから、ぜひ一般の人にも紹介したいということで、NPO活動の一環として講演をしたり、見学会を開催したりしています。

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東京奠都(遷都)について

霞が関の歴史は、日本の大きな出来事の積み重ねにより、時期ごとに大きな変化がありました。それは、明治維新、関東大震災、第二次世界大戦です。この三つが霞が関あるいは東京における官庁街の性格を形成していきました。

明治維新とともに王政復古があり、京都の人にとってみれば都は京都であるというのは、当時は当然でした。

それに対して、新政府では大久保利通を中心に、都が京都にあったのでは「公家に囲まれた古いしきたりの中では新しい政治を試みることができない」ということで、京都からというより、陛下に宮中から表に出ていただきたい意識は強かったようです。それはきわめて適切な判断だったと思われます。

では首都をどこにするかということですが、当時、江戸城はまだ開城していないので、選択肢としては大阪しかない。そこで京都から大阪へという試みがありましたが、それでも京都から大阪に移すのは、京都の反対にあって大変でした。しかし、既成事実をつくろうということで、初めて天皇が京都から出るという形を整えるわけです。そうしているうちに江戸城が開城する。このような背景のもとに首都をどこにするかという話も変わっていきました。

その時の条件としてはいろいろあったと思われます。前島密が江戸遷都を提案した建白書がきっかけではないかという説も多いわけです。その時の状況を見ると、前島密の建白書というものがあまりにも適切に背景を表現しているから、今もって前島密の建白書がきっかけではないかという説が多いのですが、本当に前島密が大久保利通にその建白書を渡せたかどうかは、もう少し検証してみないとわかりません。

前島の建白書として、大阪の街は道路も狭く、新しい首都としてはふさわしくない。それから、江戸は当時かなり寂れていた。参勤交代が文久年間に緩められ、江戸の人口はどんどん減ってきていた。同時に、江戸には武家屋敷が無数にあるから、新しい政府要人の邸宅や官庁に、すぐにでも転用できるではないかということがありました。

さらに、新政府として、東北はまだ平定されておらず、それに対する抑えという意味でも必要ではないかというようなことを諸々考えて、当時の江戸遷都は必然性があったのではないかと思われます。

「遷都」と言いましたが、明治政府は最後まで「遷都」という言葉を使っていません。「奠都」(てんと)という言葉を使っています。「奠都」とのは都を置くということだから、東京と京都の2つの都があっても良いわけで、いわゆる2京論で京都の人たちをなだめ、なし崩し的に東京が首都と決まっていくわけです。

明治元年に、政体書ができ、それにより太政官がおかれました。その後、同じく明治元年に初めて天皇が東京に来られ、一回京都に帰られるが、明治2年には2回目の東京行幸があり、太政官を皇居の中におきました。東京が首都であるということが既成事実化していったわけです。

その時の背景としては、「親裁」−天皇自らあるいは天皇の周辺で政治を行うという前提がありました。ですから太政官も天皇のすぐそばにある。そういう前提で、明治の初期は首都としての東京の既成事実ができ上がっていきました。

その後、だんだんと日本の政体も立憲君主制に変わっていき、明治18年に内閣制度ができますが、そういった過程の中で、天皇のそばに太政官といった組織があり、自ら政治を行うというかたちから、だんだん統治機構の有り方も変化していったわけです。

先ほども話しましたが、幕末には空き大名屋敷がいっぱいありました。

乱暴な言い方をすれば切り取り次第、良いように使えました。皇居の中に太政官組織をつくろうという構想も一時あったが、それは絵に描いた餅に終わり、行政機構として、あるいは統治機構として早急に手当をしなければならなかったので、空いた武家屋敷があるというのは魅力的だったのではないでしょうか。たとえば、中央合同庁舎2号館のあるところは浅野屋敷、外務省のあるところは黒田屋敷でした。

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明治期の官庁街の整備

具体的に官庁街をつくるという話しになるわけですが、その時の動きは二つありました。

一つは「市区改正」、今で言う都市計画です。当時の東京府知事芳川顕正が芳川案をつくり、それをたたき台にして、市区改正審査会で練られるわけだが、その時のイメージは色々ありました。例えば、山崎という内務大書記官は、パリのルーブル宮の周りに色々な施設が集まっているが、そのイメージで皇居の周りに壮麗な官庁街をつくってはどうかと。渋沢栄一は、東京を商業地にしたいというイメージだから、皇居周辺もどちらかというと商業地というイメージでいました。色々な議論がありましたが、官庁街としては曖昧な形で残されました。官庁街は西の丸下、今で言う皇居前広場辺り。東京駅にかけては商業地。霞ヶ関は、その時は邸宅地という表現になっていました。今でいうお屋敷町ですね。そんなイメージで市区改正案はできあがり、内務省の中で上に上げられるわけです。

もう一つの動きは、当時外務大臣だった井上馨を中心とした「官庁集中計画」。井上馨が「官庁集中計画」を言い出したきっかけは不平等条約の改正です。井上馨という人は、幕末に長州藩から伊藤博文ら5人で密航して、半年間イギリスの街を見た。その後、今度は奥さんを連れて洋行する。あの頃、洋行するというのも珍しいが、奥さんを連れて行くというのはさらに珍しい。そういう経験もあり、例えば日本の国語を英語にしたらどうかなどと言っています。伊藤博文と交わした書簡を見ていると、中には英語でやりとりしているものもありました。そんな感じの人で、いわゆる欧化政策を推進する。それの現れの一つが鹿鳴館ですが、次には、壮大な官庁街をつくることにより、日本も欧米に対して進んだ国であることを見せようとしたわけです。

当時、欧米は諸国を文明国、野蛮国、未開国の3つに分類していたようで、野蛮国と、欧米のような文明国と、中間の清のような未開国と。日本は当時、清並の扱いだったようで、是非、未開国から文明国扱いをさせたい、そのためには文化などを欧米並にしたいという思いがありました。欧化政策には、その後色々な批判もありますが、そんなイメージでした。

具体的にはどんな動きをしたかと言うと、最初はコンドルというお雇い外国人に頼みました。コンドルは、工部大学校の教授で工部省の顧問でもあり、当時そういうことをやらせるとしたらコンドルが最適でした。しかし、コンドル案は二つありますが、はっきり言って井上にとっては、壮麗さも求心性も無く、不満でした。

 

次に目星を付けたのがエンデとベックマンで、ドイツの建築家に官庁集中計画を立てさせたわけです。(図1)特徴としては、新橋駅よりやや東京駅よりの場所(まだ東京駅はないが)に中央駅をおき、山の手側の今の位置に近い場所に、国会議事堂、総理官邸をおいています。中央部は練兵場をそのままおき、博覧会場もつくったりしています。当時はパリ改造計画が進んでおり、井上馨がベックマンにどういう頼み方をしたのかよくわかりませんが、多分パリが頭にあったのは間違いないと思われます。

 

官庁集中計画ベックマン案
図1 官庁集中計画ベックマン案
(出典)藤森照信『明治の東京計画』岩波書店、1982年

 

しかし、この案が実現するかというと難しい。範囲も官庁街に限定されているわけではなく、東京の改造計画みたいなものです。この案が実現できるとは井上馨も思っていなかったのではないでしょうか。想像ですが、こういう立派な計画があるというのを示しただけでも価値があると考えていたのではないでしょうか。

その後、ホープレヒトという、どちらかと言うと土木屋さんが来日して、ベックマン案では実現性が無いということで、こういうロの字プランを示しました(図2)。これにあてはめてエンデが具体的にこういう計画を立てたわけです(図3)。これには当時のマスコミも好意的で、この案で閣議決定されますが、これにしてもかなり壮大な案であることは間違いない、実現できるかどうかは当時の状況からすればきわめて疑問だったわけです。

 

官庁集中計画ホープレヒト案
図2 官庁集中計画ホープレヒト案
(出典)藤森照信『明治の東京計画』岩波書店、1982年

 

官庁集中計画エンデ案
図3 官庁集中計画エンデ案
(出典)藤森照信『明治の東京計画』岩波書店、1982年

 

そうしているうちに条約改正交渉は行き詰まる。当時、井上馨は5カ国と秘密裏に条約改正交渉を行っていましたが、それがある時に表に出る。問題は領事裁判権、関税、最恵国待遇の話でしたが、領事裁判権の問題について外国人判事の登用ということがあり、それでかなりたたかれ、井上馨の条約改正交渉は行き詰まりました。例えば、谷干城(西南戦争の熊本城攻防戦で政府軍の熊本鎮台司令長官として活躍した)は、ドイツでベックマンが、日本は役人が多いからこういう大きな計画になるという講演をしたのを聴き、烈火のごとく怒る。それで、谷は日本に帰ってきてから、条約改正交渉の反対派の急先鋒になりました。そんなこともあり、条約改正交渉は行き詰まり、井上馨も失脚する。それと同時にこの案も日の目を見なくなります。

当時は内閣直属の臨時建築局でこうしたことをやっていたが、井上馨の失脚とともに内務省に権限が移り、最終的には、現在に近い形でまとめられます。

日比谷公園があり、司法省と大審院の二つだけが建てられていてというきわめて縮小された形で、内務省案が決まっていきます。そして、これがまた閣議決定される。これで井上馨以来の官庁集中計画の動きは一応止まることになります。

内務省案ができた当時の霞ヶ関は、外務省と司法省と裁判所しかありませんでした。あとは陸軍省くらいです。その後は、全く動きが止まってしまいます。なぜ動きが止まったかは、推論ですが、一つは井上馨の失敗がトラウマになってしまったと思われます。もう一つは、現在の財務省や文部科学省の辺りにはイタリア大使館、ロシア大使館など、大使館が結構ありました。大使館は簡単に手を付けられないので、なかなか思い切って官庁街をというわけには行かなかったとも思われます。

そんなことでこの時期の霞ヶ関の官庁整備は全く進まなかった。大手町に大蔵省、内務省という巨大官庁があり、霞ヶ関と大手町に分断された形で官庁街が成立していました。関東大震災以前に大手町にあった会計検査院が、木造庁舎から鉄筋コンクリートへの建て替えを、大手町のその場所で計画していることから、多分、関東大震災が無ければ、大手町と霞ヶ関という2つの官庁街がそのまま成立したと思います。内務省も大蔵省も建て替えということになっても、大手町のその場所で建て替えということになったと思います。そうすると首都の形も今とはずいぶん変わったものになっていたでしょうね。

なお陸軍省がなぜ三宅坂に立地したのかは謎ですが、本来ならば皇居の前面にあって然るべきですが、今考えると、三宅坂のところは高台で、いざという時は皇居防衛の司令塔になれるという意味はあったかもしれません。

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国会議事堂

ベックマンの案は縮小されてしまいますが、国会の位置はその後どの案になっても変わりません。国会の象徴性を考え、高台のしっかりしたところに近代化の象徴として考えていたようです。設計図はありましたが、それをつくるお金も、技術者も、材料も揃っていないということで、国会議事堂をエンデ・ベックマンの案でつくることはあきらめたわけです。開設時期も迫っているため、仮議事堂にしますが、その時にもベックマンたちは、今の国会議事堂の位置に仮議事堂をつくった方が将来それを使えるから経済的だという案を持っていたようですが、日本政府は、今の経済産業省のところに仮議事堂を木造でつくりました。

その後、日清戦争の時に、国会を広島で開いたことがあります。大本営がある広島で国会を開き、戦地の雰囲気を議員が知って、戦時予算を早く通させるという、そういう話だったようです。1週間の会期が4日くらいで終わりました。明治天皇も広島に来られて時局の状況を考えてよく審議するようにと。有無を言わせない雰囲気だったようです。

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関東大震災における官庁の被害及びその後の復興

当時、何でも番付をつくるというのが流行っていて、「震災番付」というのができていました。被害番付ですね。その頃は大関が最高位で、大蔵省、文部省、農商務省、内務省など上位はほとんどが役所です。当時は、大規模建築物は役所が多く、木造も多かったということも原因だったと思います。

ここに写真がありますが、木造の内務省や大蔵省などは、跡形も無い(写真1)。もう一つが、これは今の第一生命のところにあった警視庁です。これは燃える警視庁という有名な写真です(写真2)。官庁街は一部を除き壊滅的な被害でした。

 

大手町の内務省(左)・大蔵省(右)の被害
写真1 大手町の内務省(左)・大蔵省(右)の被害(国会図書館所蔵)

 

警視庁の被害
写真2 警視庁の被害(国会図書館所蔵)

 

ではどうするかということですが、帝都復興院(後に内務省復興局)の中に特別都市計画委員会がおかれ、その中の議論で、田昌さんというのは大蔵次官ですが、この人が霞ヶ関集中の理由をあげています。

その一つは、計画されている国会議事堂や宮城にも近いこと。二つ目は、既に外務省をはじめいくつかの官庁が立地していること。最後に霞ヶ関集中というのは明治以来の懸案であったということをあげています。ですから関東大震災がなければ官庁街の今の形とは全く違っていたと思われます。

一方、とりあえずの行政事務を行わなければならないため、大手町に膨大な仮庁舎が建てられました。(図4)これは仮庁舎ですが、霞ヶ関の本格建築は、中央諸官衙建築準備委員会で決議されました。

そんなかたちで復興が始まるわけですが、震災後に関しては、当時大蔵省にあった営繕管財局が主体となって計画がつくられました。これがその案です。具体的な配置図ですね。(図5)これが年代を追って、大正15年、昭和3年、10年ということで計画ができあがり、建築としては、総理官邸、警視庁、内務省、文部省という順番で完成しました。庁舎の形がアルファベットというのは俗説で、新聞記者に冗談で言ったら、それを真に受けて記事にしたようです。

国会議事堂もこの時期に建設されますが、あれだけの大規模な建築物ですから、日本の国力から言って相当のエネルギーを費やさなければならなかったわけで、完成は昭和11年になりました。

 

大手町の仮庁舎配置図
図4 大手町の仮庁舎配置図
(出典)『営繕管財局営繕事業年報』1925年より

 

昭和10年の霞ヶ関官庁街計画図
図5 昭和10年の霞ヶ関官庁街計画図
(出典)宮田章『霞ヶ関歴史散歩』(中公新書)、中央公論社、2002年

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霞ヶ関の戦災状況

この後、太平洋戦争が始まり、国内各地で空襲を受ける中、国会議事堂も戦災を受けています。一部焼夷弾が落ちて、中に火が入って消したことがあります。参議院の議員食堂で改修工事の際に焼けたあとが見つかったという話もあったようです。国会議事堂は標的にしなかったという話もありますが、一応迷彩色に塗ってわかりにくくはしてありました。

外務省は空襲で焼けて無くなりましたが、人事院ビル(旧内務省)と文部省、大蔵省は上に鉄筋コンクリートで厚さ50cmくらいの耐弾層というのをつくり、それで爆撃があってもある程度大丈夫だったようです。それ以外はほとんど被害を受けています。海軍省も建物としては使いものになりませんでした。司法省と大審院は幸か不幸か屋根が木造だったものですから、火が上に抜けた。東京駅と同じで、火が上に抜けて、周りの躯体は利用できました。

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戦後の復興

戦後の復興の中で、具体的な霞ヶ関の形が出来上がっていきます。議事堂の周りや三宅坂から半蔵門の方にアメリカ軍のかまぼこ兵舎が立ち並んでおり、そういう風景の中で、官庁街の整備計画が進められました。

まず立地をどうするかという話がありました。建設省が設置されたのが昭和23年。当時、官庁営繕審議会があり、立法と行政は霞ヶ関、北の丸に司法―裁判所、大手町は出先機関という決定がされた。しかし、そのうちに、アメリカ軍のかまぼこ兵舎が返還され、半蔵門の辺りまで国有地になる。それで国立劇場とか、最高裁判所が今の所に決まっていきました。裁判所が北の丸公園という話はなくなりました。やはり北の丸公園は不便だったようです。ということで、今の霞ヶ関の原形が出来上がっていったわけです。

昭和31年に官公庁施設の建設に関する法律の中に「一団地の官公庁施設」という考え方が導入され、霞ヶ関の一団地計画も決まりました。これにより、この中では民間の建物はできないとか、良好な環境を維持するというのを前提にして決まっていきました。その後、具体的に答申を何度かいただいて、建物のあり方とか、そういうものが裏付けをされていくわけです。

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皇居とのすり合わせ

霞ヶ関というのは明治維新、関東大震災、第二次世界大戦を背景に出来上がってきた街です。だから、白地に絵を描くような形では出来なかったわけです。それぞれの社会情勢、政治情勢を反映しながら形づくられてきました。

そのために、霞ヶ関は軸が三つある。桜田通りが一つの軸。もう一つは国会に向かっての軸がある。これはオリンピックの時にできたものです。もう一つは皇居を囲む軸です。これらが、それぞれの時代を背景としてできあがってきたわけです。

そういう三つの軸がありながら、街としての統一性を保たなければいけないわけですが、大事なのは皇居との関係です。半蔵門から桜田門にかけては、フランスの詩人のノエル・ヌエェットが東京で一番美しい風景だと言っています。堀沿いの景色ですね。あそこは皇居側は石垣ではなく土手ですよね。確かにきれいで、東京だけではなく、日本でも有数の景色だと思います。皇居とのすり合わせは大事だと思われます。

すり合わせとは具体的には高さ。高さは皇居に近い方から、警視庁が60m位。それからだんだん高くして、PFIで出来た7号館を除き全体を100mに抑えている。要するに皇居の方から見た高さが一つの問題です。

もう一つは緑。国会の前庭があり、結構広い緑がある。そこから赤れんが棟の方にかけてかなり緑の多い計画になっている。それをそのまま日比谷公園の方に結ぼうというようなイメージになっています。

国会前庭は、ああいう場所なので色々な話がでてきます。総理官邸を新築する時に、今の総理官邸では場所が狭いからあそこにつくってはどうかという話もありました。阪神・淡路大震災の後も、ヘリポートをつくろうという話もありました。ヘリポートというのは簡単な平らなものではなく、かなり大型の構造物がいります。あそこにヘリポートをつくると、皇居の方に張り出さなくてはならない。皇居とのすり合わせを考えるとあそこは貴重な財産だとは考えています。

さらに、桜田通りを見ていただくとわかりますが、かなりセットバックしています。そのため空間としては、かなりゆったりとしたものになっています。昭和51年でしたか、「中央官衙整備の基本方針」という審議会の答申をいただきました。平成20年にも審議会の答申(「今後の霞が関地区の整備・活用のあり方」)をいただきました。景観という意味もあり、緑という話もあり、全体としては答申に沿った環境に調和した街づくりが目指されています。その点では、成功していると思います。

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首都機能移転

首都移転という話になると、その跡地をどうするかという話になります。『霞ヶ関100年』をつくった時も、100年後の霞ヶ関はどうなっているかいう話も出ていました。その時のイメージでは、国会はさすがに取り壊すわけにはいかない。だから、移転しても博物館ではないかということも議論の俎上には上がっていました。

同時に、仮にこの霞ヶ関が移転したとすると、ここは民有地になる。容積率は、今は500%だが、移転の財源にするとなると、相当容積率を上げなければいけない。そうすると、ここに建てるものは相当大規模になります。例えば、議事堂の裏側に山王ビルというのがあります。あれは議事堂との関係において景観上かなり問題があると思われます。そういうものがこの周辺に大規模に建てられていくとなると、この辺りの景観はがらっと変わります。だから今のような霞ヶ関の良さが失われるのではないかと思われます。皇居との連続性は大事です。

例えば、皇居の周辺だと帝国劇場の上に出光美術館がある。あそこから見ると霞ヶ関の全体象が良くわかります。皇居とのすり合わせが、高さといい、緑といい、うまくいっていることが良くわかります。財政的に見ても、移転というのは無理だと思うので、今の霞ヶ関の官庁街を引き続き活用するというのが現実的ではないでしょうか。この場合、一番心配なのは危機管理です。地震の時どうなるか。外務省、1号館−農林水産省、3号館−国土交通省、これらはみんな免震対策が終わっています。財務省は一時建て替えという話がありましたが、あれは免震で残すという話になったはずです。ということになると、全体として、耐震の手当は終わっています。地震の時に中央省庁の機能は建築的には保たれると思って良いのではないでしょうか。ただし、いわゆる機能としてどうかというのは、議論のあるところです。インフラを含め継続して活動ができるのかどうかが問題でしょう。埼玉に副都心ができ、大手町から向こうに出先機関が移ったので、多分埼玉と霞ヶ関の両方が一遍に被害を受けることは無いと思われます。仮に霞ヶ関が被害を受けても、人的な資源は埼玉で相当カバーできるのではないでしょうか。そういう面では、昔とは状況が変わって来ていると私は思います。

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建築から社会に貢献する会

はじめに申し上げましたが、霞ヶ関という街は、江戸からの歴史にも近代建築にも恵まれています。それを一般の人にも幅広く紹介したいということで、NPO法人「 建築から社会に貢献する会」では、講演をしたり、見学会をしたりと、ここ5年位活動しています。それでも霞ヶ関という街は一般の人にはなじみにくいのか、人を集めるのが大変です。また官庁街には、一般の人を入れるには、コーヒーを飲んだり、食事をしたりするところがほとんどありません。今は憲政記念館のところしかない。セキュリティの問題はあるが、もう少し気軽に利用できるところがあればと思います。

そうは言っても、法務省赤れんが棟には資料室があり、最高裁は大法廷も見学できます。文部科学省には昔の大臣室とか文部関係の資料を展示したところがあります。警視庁の中にもあります。ですが、ほとんどの皆さんには知られていません。今後もそういうものを紹介しながら、霞ヶ関の歴史や建築を身近に感じられる活動を続けて行くことができたらと思います。

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宮田章(みやたあきら)氏 プロフィール

1942年 東京生まれ

1965年 日本大学理工学部建築学科卒

1995年 建設省大臣官房審議官で退職

1995年 公共建築協会専務理事

現在 NPO法人「建築から社会に貢献する会」理事長

著書 『霞ヶ関歴史散歩』(中央公論社) 『霞ヶ関100年』(公共建築協会・共著) その他

 

瀬川昌彌(せがわまさや)氏 プロフィール

1944年 東京生まれ

1943年 武蔵工業大学(現東京都市大学)卒

1993年 建設省大臣官房官庁営繕部監督課長

1997年 参議院事務局管理部副部長で退職

1998年 建設業振興基金理事

2001年 大成建設執行役員

現在 NPO法人『建築から社会に貢献する会』副理事長

 

問い合わせ先

国土交通省 国土政策局 総合計画課
Tel:03-5253-8365 Fax:03-5253-1570 E-mail:itenka@mlit.go.jp