本稿では、明治維新に際しての京都から東京への遷都(奠都)の経緯と、政府による首都機能移転に関する調査・議論が本格化する1970年代中頃以前における各種の首都機能移転論について概観する。
徳川家康が1603年に征夷大将軍となり江戸幕府を開いて以来、実質的に江戸は日本の政治首都であった。しかし、幕末の数年間、尊皇攘夷運動高まりの中で、政治首都は京都へと移ったと考えられる。1863年(文久3年)3月4日、将軍家茂は上洛したが、将軍の上洛は3代将軍家光以来のことであった。また、家茂上洛の1週間後の3月11日には孝明天皇が賀茂神社に行幸した。天皇の行幸は1626年(寛永3年)の後水尾天皇の二条城行幸以来237年ぶりのことであった。この孝明天皇の加茂神社行幸には将軍家茂をはじめ有力大名が付き従い、まさにこの時点での天皇と将軍の力関係を世間に示すものとなった。
その後、将軍家茂は毎年のように上洛するが、1866年(慶応2年)7月には大阪城で病没する。慶喜が将軍職に就き、大政奉還などを行うが、江戸幕府の衰退は食い止められず、1868年(慶応4年)1月には鳥羽伏見の戦いに敗れ、大阪城から江戸に戻ってしまう。また、孝明天皇も将軍家茂の病没と同じ1866年(慶応2年)暮れには崩御され、睦仁親王(後の明治天皇)が践祚(せんそ、天皇の位を継ぐこと。即位の礼などは別途行われる)する。この時、明治天皇はまだ15歳3ヶ月の若さであった。
この時期の遷都論の一つは、新政府内で遷都推進派の中心だったと思われる大久保利通の大坂遷都の建白書である。大久保はこれを鳥羽伏見の戦いの直後1868年(明治元年)の1月に起草するが、その中で宮中の「数百年来一塊シタル因循ノ腐臭ヲ一新」するために遷都が必要で、遷都先としては大阪が適していると主張している。大阪への遷都は実現することは無かったが、明治天皇の大阪行幸がこの年の3月に実現している。なお、筑前の志士平野国臣、尊皇攘夷派で久留米水天宮神官の真木和泉、薩摩藩の伊地知正治、幕臣の西周(にしあまね)も大阪への遷都などを提案している(西周は政治機能の大阪移転)。
東京への遷都論としては、前島密が1868年(明治元年)4月に大久保利通に宛てて書いたとされる手紙が知られている。前島密はこの中で、帝都は国の中央にあるべき、大阪は小さく道路も狭小、江戸は諸侯の藩邸などが利用でき官庁などを新築する必要がないことなどを江戸遷都の理由としている。ただし、本号で宮田氏・瀬川氏が指摘されているように、この手紙が実在したのかは明らかではない(手紙の原本は残っておらず、その内容も前島密が後に作成したものが伝わるだけである)。前島密が江戸遷都の手紙を大久保利通に渡した直前の1868年4月11日には、江戸城が開城している。なお、館林藩士 岡谷繁実の東京遷都論や大木蕎任(おおきたかとう)・江藤新平の東京・京都併置論などもこの頃提案された。
明治政府は、東京遷都ということを公式には表明していない。宮中の公家や京都の町衆の強い反対を避けるため、政府は公式な位置づけをわざとしないまま、なし崩し的に東京遷都を実施したと言える。なお、明治維新の正史とも言える文部省維新史料編纂事務局編『維新史 第5巻』(1941年)でも、「遷都」ではなく、単に「都を定める」ことを意味する「奠都」(てんと)が使われている。
実際の東京遷都は以下の三つの出来事を経て実施されたと考えられる。一つは、1868年(明治元年)7月17日の江戸を東京と称する詔書の発表である。この詔書で「江戸ハ東國第一ノ大鎮」であり、「自今江戸ヲ称シテ東京トセン」とされている(写真1.参照)。二つ目は天皇の東京行幸で、同年9月に行われた。この行幸はきわめて華やかに行われ、京都から東京までの道中では、沿道の民衆へ金品を下賜するなど、新たな時代の天皇としての一大デモンストレーションとも言えるものであった。その様子は錦絵にも残されている(写真2.3.参照)。天皇は同年12月に一旦京都へと戻るが、翌1869年(明治2年)3月28日再び東京へと行幸する。この時政府は、「東京城西ノ丸ヘ御駐簾、依テ、皇城ト称ス」と発令した。『江戸が東京になった日 明治二年の東京遷都』の著者である佐々木克氏はこれをもって東京遷都としている。なお、この東京再幸の際には、新政府の中枢機関であった太政官も東京城内へ移されている。
明治維新における東京遷都以降、東京における官庁の整備が進められた。本号において宮田氏・瀬川氏によって紹介されているように、井上馨の指示のもとに行われたベックマンなどによる日比谷官庁集中計画、「市区改正」などの中で官庁等の計画・整備が行われるが、霞ヶ関には一部官庁が立地しているのみで、その他の各省は大手町などに分散して立地していた。霞ヶ関へ官庁が集中立地は、関東大震災、第2次世界大戦を経て次第に実現していく。
明治・大正期においても、いくつかの首都移転論が見られる。例えば、1899年(明治32年)に発表された大阪商船社長中橋徳五郎による大阪遷都論では、東北・北海道の開発は順調に行っており、東京の役割は終わったので、貿易港である大阪に遷都すべきとされている2。また、京都帝国大学教授(後に京都市長)神戸正雄は、1917年(大正6年)の講演の中で、明治維新の直後には東北支配のため東京に首都をおく必要があったが今はそのような必要はなく、むしろ「東南洋」への進出を視野に首都を関西に持って来ることを主張している3。同じ1917年(大正6年)に、木崎愛吉は、著書『大阪遷都論』4の中で、当時の第一次世界大戦を背景に、日本は「東洋平和の大保障」を担うべきで、そのために東京に帝都おくことに固執すべきではなく、大久保利通の大阪遷都論を今こそ実現すべきとした。木崎の定義する大阪は、現在の大阪府のみならず、西は神戸までも含む領域で、これを「大大阪」と称した。また、宮城は「六甲山を背景にしたる武庫川の右岸方面」におく他、各省の位置(内務省を深江(現在の東成区)、大蔵省を守口、司法省を伊丹、文部省を長野など)を細かく提案した。翌年の1918年(大正7年)には、大阪の建築家・都市計画家の片山安が、地理的・歴史的観点から淀川流域が帝都の立地に好適として、「現時の大阪市街の東方飯森山生駒山草香山麓を東の境とし南は大阪軌道線路の付辺に迫り、北は寝屋川沿岸に沿ひ、西端現時の市街に接するまで」の面積約10平方里の新都市の位置を具体的に提案している5。なお、片岡は後の関東大震災に際にも、大阪への遷都を主張している6。
しかし、この時期で最も首都移転が意識されたのは1923年(大正12年)9月1日の関東大震災の時であろう。『帝都復興事業誌』(1932年)では、当局の調査に係る「遷都ニ関スル論議」を引用する形で主要な遷都の論調を紹介している7。同事業誌の中では「期セズシテ識者ノ間ニ遷都ノ要否ヲ論ズルモノアルニ至レリ」として、遷都及び非遷都の主たる理由がまとめられており、遷都の理由としては以下のものがあげられている。
また、陸軍では、関東大震災直後の9月6日に、今村均少佐が武藤信義参謀次長の命令で遷都先についての意見書案を作成している。この意見書案の中では、東京が震災や防空対策の上で首都として不適格とした上で、ソウル南方の竜山、兵庫県加古川、東京の八王子を具体的な移転先としてあげている8。
一方、内務大臣後藤新平は「帝都復興根本策」9で、遷都しないことを含む下記の基本方針をまとめた。
また、9月12日に「(東京は)国都タルノ地位ヲ失ハス」の詔書が発表される(写真4.参照)。この詔書では「東京は帝国の首都にして政治経済の枢軸となり国民文化の源泉となりて民衆一般の瞻仰する所なり一朝不慮の災害に罹りて今や其の舊形を留めずと雖我が国都たる地位を失わず以て其の善後策は独り舊態を回復するに止まらず進んで将来の発展を圖り以て巷衢の面目を新たにせざるべからず」(下線は筆者)とされ、この後遷都に関する議論は下火となる。なお、この詔書を起草したのは枢密顧問官伊東巳代治であるが、伊東は銀座の大地主で、この後の復興に際して「地主に対して断固たる態度を取らざるべからず」という後藤の方針に猛反対する。八幡和郎氏は『遷都:夢から政策課題へ』の中で、当時の新聞が「伊東の反対は私利私欲に基づくもの」と批判していることを紹介している10。
第2次世界大戦中の1943年(昭和18年)10月に企画院で「中央計画素案・同要綱案」がまとめられるが、その中で「大東亜共榮圏の枢軸として之が建設,指導及防衛の重大使命を有する皇國の首都は此の責務を完遂するに最も適当なる地域に之を奠むべきもの」とされ、岡山県邑久郡行幸村中心地区、福岡県八女郡福島町中心地区、朝鮮京畿道京城府周辺地区を候補地とするが、戦局が悪化する中で具体化することはなかった11。
また、戦争末期に内務省において、戦後復興について議論されたが、石川栄耀の帝都復興計画案に対して、北村徳太郎は茨城県の水海道への遷都を提案したと言われる12。実際には、石川の復興計画案が部分的にではあるが、戦後実施されていくことになる。ただし、石川の案は東京都区部の人口を350万人に抑制する(戦前の区部人口は約650万人)もので、一種の分散論とも言える。
戦災復興がほぼ終わり、経済白書(1956年)でも「もはや戦後ではない」と言われた1950年代終わり頃から、東京の過大・過密などを問題として様々な首都機能移転論・遷都論が提案されるようになる。
日本住宅公団総裁であった加納久朗氏は『新しい首都建設』(1959年)の中で東京湾の大規模な埋め立てにより東京の拡張を提案。丹下健三氏は「東京構想1960」の中で、やはり東京湾における海上都市による東京の拡張を提案した。
一方、東京都立大学教授の磯村英一氏は「富士の都」構想で、東京からの遷都は東京都や移転先以外の国民の賛成が得られず事実上無理とした上で、富士山麓へ政治機能の一部(とりあえずは国会のみ)を移転する「展都」を主張した13。
同時期に京都大学教授(当時経済企画庁)の天野光三氏は「女王蜂計画」として、女王蜂が巣を移ればその他の蜂も一緒に巣を移ることに例えて、政府機能を東京から移転させることにより、経済機能なども移転し、東京のこれ以上の膨張を防ぐことが可能と主張した14。1964年(昭和39年)には当時の建設省でも河野一郎大臣の指示のもとに「新首都建設の構想」をまとめた。これもまた、政治機能を移転させることにより東京の膨張を防ごうというもので、浜松付近が候補地として議論された15。
1971年(昭和46年)頃には政府主催で明治百年コンペが行われ、大学などのグループにより各種の首都機能移転案、東京改造案が提案された。この中で、早稲田大学グループは、日本の首都は歴史とともに東へと移っているとし、東北の「北上京」の提案を行っている16。
一方、政府では1973年(昭和48年)頃から首都圏整備委員会で、首都機能の適正配置に関する調査が始められ、後に発足した国土庁に引き継がれる。これ以降、政府における調査・検討が進められ、1992年(平成4年)には国会等移転に関する法律が制定、1999年(平成11年)には国会等移転審議会の答申が行われた。
年(西暦) | 年(和暦) | 事項 |
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1863年3月4日 | 文久3年 | 将軍家茂、上洛し二条城に入る(将軍の上洛は家光以来) |
1863年3月11日 | 文久3年 | 孝明天皇、加茂神社に行幸。将軍家茂と有力大名が付き従う(天皇の行幸は後水尾天皇の二条城行幸(1626年)以来) |
1864年1月15日 | 元治元年 | 将軍家茂、上洛 |
1864年7月19日 | 元治元年 | 禁門の変 |
1865年5月22日 | 慶応元年 | 将軍家茂、上洛 |
1866年7月20日 | 慶応2年 | 将軍家茂、大阪城中で病没 |
1866年12月5日 | 慶応2年 | 慶喜、将軍宣下 |
1866年12月25日 | 慶応2年 | 孝明天皇、崩御 |
1867年1月9日 | 慶応3年 | 睦仁親王(後の明治天皇)践祚(15歳3ヶ月) |
1867年10月24日 | 慶応3年 | 大政奉還 |
1867年12月9日 | 慶応3年 | 王政復古の大号令 |
1868年1月6日 | 慶応4年 | 鳥羽伏見の戦い、慶喜、大阪城を出て江戸に向かう |
1868年1月 | 慶応4年 | 大久保利通、大坂遷都の建白書 |
1868年2月3日 | 明治元年 | 明治天皇、二条城に行幸、「親征」を発令 |
1868年3月21日 | 明治元年 | 明治天皇、大阪行幸 |
1868年4月11日 | 明治元年 | 江戸開城(慶喜、謹慎所の寛永寺を出て水戸へ向かう) |
1868年4月 | 明治元年 | 前島密、江戸への遷都論、大久保利通に届ける |
1868年7月17日 | 明治元年 | 江戸を東京と称する詔書 |
1868年9月20日 | 明治元年 | 明治天皇、東京行幸のため御所を出発(12月22日京都還幸) |
1869年3月7日 | 明治2年 | 明治天皇、東京再幸のため御所を出発 |
1869年3月28日 | 明治2年 | 明治天皇、東京城へ入城 |
1870年12月 | 明治3年 | 民部省・大蔵省は城内に移転、民部省と入れ替わりに外務省が城内から霞ヶ関の現在地(旧黒田屋敷)に移転、その後諸官庁は、大手町などに分散して立地 |
1873年5月 | 明治6年 | 皇居焼失 |
1874年12月 | 明治7年 | 政府は本丸跡に諸官衙を建設することを決めるが、地質不良を理由に実現せず |
1884年9月 | 明治17年 | 外務卿井上馨の上申により、太政官が諸官庁建築の地質調査、製図に着手 |
1884年11月 | 明治17年 | 東京府知事吉川顕正、「市区改正意見書」を内務卿に上申 |
1886年4月 | 明治19年 | ウィルヘルム・ベックマン来日、井上馨の要請で日比谷官庁集中計画を策定(法務省などごく一部を除き実現せず) |
1889年7月 | 明治23年 | 帝国議会の仮議事堂竣工(現在の経済産業省の場所、2ヶ月後に焼失) |
1894年10月 | 明治27年 | 日清戦争に際して、第7回議会を広島で行う |
1899年 | 明治32年 | 大阪商船社長中橋徳五郎による大阪遷都論 |
1917年 | 大正6年 | 神戸正雄京大教授(後に京都市長)、関西への遷都論 |
1917年 | 大正6年 | 木崎愛吉による大阪遷都論 |
1918年 | 大正7年 | 片山安による大阪遷都論 |
1923年9月1日 | 大正12年 | 関東大震災 大手町の大蔵省・内務省、竹平町(現一ツ橋)の文部省、木挽町(現銀座)の農務省・逓信省、有楽町の警視庁などが焼失 |
1923年9月2日 | 大正12年 | 後藤新平の「帝都復興根本策」で「遷都すべからず」 |
1923年9月6日 | 大正12年 | 今村均陸軍少佐、遷都先に関する意見書作成、京城(ソウル)南方の竜山、兵庫県の加古川、東京西部の八王子を提案 |
1923年9月12日 | 大正12年 | 「国都タルノ地位ヲ失ハス」の詔書 |
1925年10月 | 大正14年 | 大蔵省に中央諸官衙検討委員会が設置(霞ヶ関への官庁を集中させる方針が示される) |
1928年12月 | 昭和3年 | 旧首相官邸(現首相公邸)竣工 |
1936年11月 | 昭和11年 | 現国会議事堂竣工 |
1943年7月 | 昭和18年 | 霞ヶ関の大蔵省(現財務省)庁舎竣工 |
1943年10月 | 昭和18年 | 企画院、「中央計画素案・同要綱案」で移転先候補地が示された |
1944年秋以降 | 昭和19年 | 復興計画の策定、北村徳太郎の遷都案、石川栄耀の帝都改造案 |
1956年7月 | 昭和31年 | 経済白書で、もはや戦後ではない |
1959年 | 昭和34年 | 加納久朗、『新しい首都建設』 |
1960年 | 昭和35年 | 磯村英一「富士の都」建設構想、丹下健三「東京計画1960」 |
1961年 | 昭和36年 | 天野光三「女王蜂計画」 |
1964年 | 昭和39年 | 「新首都建設の構想」(建設省)(河野一郎建設大臣) |
1971年 | 昭和46年 | 明治百年コンペに各種の首都移転案(早大グループ「二十一世紀の日本研究会」の「北上京建設構想」、21世紀土木学会グループ「新東京案」、丹下健三「東京計画1960−2000」) |
1973年 | 昭和48年 | 首都圏整備委員会で、首都機能の適正配置に関する調査が始められ、後に国土庁に引き継がれる |
1977年 | 昭和52年 | 第3次全国総合開発計画で首都機能移転について「首都機能の移転再配置を進めることが、国土総合開発政策上の重要な課題」とされた |
1 | 東京遷都(奠都)の経緯については、主に佐々木克『大久保利通と明治維新』吉川弘文館、1998年 及び 佐々木克『江戸が東京になった日 明治二年の東京遷都』講談社、2001年を参考にした。 |
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2 | 国立国会図書館調査立法考査局「遷都と政府機関分散」調査資料73-1、1973年5月(渡部一郎『遷都論の全て』竹井出版、1988年、p.14より) |
3 | 神戸正雄「国際金融中心の推移と日本」、法律新聞 1917.4.28 より |
4 | 木崎愛吉『大阪遷都論』1917年、pp.1-41 |
5 | 酒井一光「建築家・片岡安による大阪遷都論について」日本建築学会近畿支部研究報告集、2004年、pp.573-576 |
6 | 中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会報告書「1923 関東大震災【第3編】 」2008年年3月、p.8 |
7 | 復興事務局『帝都復興事業誌 計画篇 監理篇 経理篇』1932年、pp.9-12では、この「遷都ニ関スル論議」を「當時の當局の調査に係る」として紹介しているが、具体的にどこの部局により行われたものか言及していない。 |
8 | 今村均『私記・一軍人六十年の哀歌』芙蓉書房、1970年、pp.131-133 |
9 | 鶴見祐輔『後藤新平 第四巻』勁草書房、1967年、p.587によれば「帝都復興根本策」の原本は残っておらず、その内容は鶴見祐輔の記憶に基づくものである。 |
10 | 八幡和郎『遷都:夢から政策課題へ』中央公論社、1988、pp.36-37 |
11 | 酉水孜郎編『資料・国土計画』1975年、pp.104-105 |
12 | 佐藤昌「石川栄耀先生の思出」都市計画、日本都市計画学会、182号、1993年07月、pp.140-141 |
13 | 磯村英一『東京はよみがえるか 遷都論批判』、1973年 |
14 | 天野光三『東京診断』新潮社、1963年 |
15 | 国立国会図書館調査立法考査局「遷都と政府機関分散」調査資料73-1、1973年5月(渡部一郎『遷都論の全て』竹井出版、1988年、p.15より) |
16 | 戸沼幸一『遷都論(改訂版):21世紀国家への脱皮のために』ぎょうせい、1990年 |
天野光三『東京診断』新潮社、1963年
石田頼房『日本近現代都市計画の展開 1868-2003』自治体研究社、2004年
磯村英一『東京はよみがえるか 遷都論批判』、1973年
今村均『私記・一軍人六十年の哀歌』芙蓉書房、1970年
岡部精一『東京奠都の真相』仁友社、1917年(国立国会図書館、近代デジタルライブラリー)
加納久朗『新しい首都建設』時事通信社、1959年
神戸正雄「国際金融中心の推移と日本」、法律新聞 1917.4.28
木崎愛吉『大阪遷都論』1917年
公共建築協会編『霞が関 100年:中央官衙の形成』公共建築協会、1995年
越澤明『復興計画−幕末・明治の大火から阪神・淡路大震災まで』中央公論社、2005年
国立国会図書館調査立法考査局「遷都と政府機関分散」調査資料73-1、1973年5月(渡部一郎『遷都論の全て』竹井出版、1988年より)
酒井一光「建築家・片岡安による大阪遷都論について」日本建築学会近畿支部研究報告集、2004年、pp.573-576
佐々木克『大久保利通と明治維新』吉川弘文館、1998年
佐々木克『江戸が東京になった日 明治二年の東京遷都』講談社、2001年
佐藤昌「石川栄耀先生の思出」都市計画、日本都市計画学会、182号、1993年07月、pp.140-141
酉水孜郎編『資料・国土計画』1975年
中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会報告書「1923 関東大震災【第3編】 」2008年3月
鶴見祐輔『後藤新平 第四巻』勁草書房、1967年
戸沼幸一『遷都論(改訂版):21世紀国家への脱皮のために』ぎょうせい、1990年
福岡峻治『東京の復興計画 都市再開発行政の構造』日本評論社、1991年
藤森照信『明治の東京計画』岩波書店、1982年
復興事務局『帝都復興事業誌 計画篇 監理篇 経理篇』1932年
復興調査協会『帝都復興史 第1巻』興文堂書院、1930年
宮田章『霞ヶ関歴史散歩−もうひとつの近代建築史』中央公論社、2002年
文部省維新史料編纂事務局編『維新史 第5巻』1941年
八幡和郎『遷都:夢から政策課題へ』中央公論社、1988年
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