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第I部 観光の状況

第2章 国際観光振興の回顧、総括と今後の展開

第1節 我が国50年の国際観光振興の回顧

1 観光基本法の成立と高度経済成長(昭和39年(1964年)~昭和60年(1985年))



  (1) 観光の意義と役割の変化

 戦後、我が国の国際観光の振興は、外貨獲得に重点を置いた外国人旅行者の誘致から始まった。我が国の国力の増加、海外事務所を通じた宣伝、先進諸国の経済水準の向上により、訪日外国人旅行者数は米国を中心に順調に増加し、観光基本法が制定された昭和38年には30万人となった。観光基本法では、国際収支の改善及び外国との経済文化の交流の促進を目的とした外国人旅行者の来訪の促進が第一の政策目標に掲げられ、海外における宣伝活動の充実強化、国際交通機関の整備、出入国に関する措置の改善、接遇の向上、国際観光地及び国際観光ルートの形成などに必要な施策を講ずるものとされた。
 翌39年は、言うまでもなく、東京オリンピックが開催された年であり、日本全体が明日への希望に満ちた高揚感に浸る中、我が国国際観光の本格的な幕開けとなる節目の年でもあった。10万人にも及ぶと予想されたオリンピック開催期間中の訪日外国人旅行者数は、結果的にはその半分程度であったが、戦後最大規模の国際的なイベントを成功させるべく、東海道新幹線や高速道路の建設、宿泊施設の整備や接遇の向上が意欲的に推進され、外国人旅行者を受け入れるための基礎的なインフラとなった。海外宣伝につては、同年に設立された特殊法人国際観光振興会の海外事務所などを通じて、欧米を中心に我が国の観光事情、具体的な旅程や費用の紹介が行われた。また、昭和40年には、同振興会内に国際会議の専門誘致機関として日本コンベンション・ビューローが設立された。
 他方、日本人の海外旅行は、戦後、外貨不足に対応するため制限的な措置がとられたが、我が国が国際社会に復帰し、その国際的な活動が増大するに伴い、日本人の海外旅行者数も徐々に増加した。こうした状況を踏まえ、外貨持ち出し制限付きながら、昭和38年に業務目的の渡航がまず自由化され、昭和39年には観光目的の海外渡航も自由化された。

東海道新幹線開通(昭和39年)



東京オリンピックの日本選手団入場行進(昭和39年)(写真提供:フォート・キシモト)




  (2) 経済成長に伴うアウトバウンドの拡大

 その後、海外ビジネスの増加に加え、国民生活における余暇の増大、ジャンボジェット機の就航、手軽に利用できるパッケージ旅行の普及などから、国内は海外旅行ブームとなり、昭和39年に22万人であった海外旅行者数は、昭和46年には96万人に増加した。これに対し、訪日外国人旅行者数については、大阪万博の開催された昭和45年をピークとして85万人となったが、その反動もあり、その後はやや停滞気味となった。この結果、昭和46年には、訪日外国人旅行者数が日本人の海外旅行者数に逆転され、その後、両者の不均衡が拡大していった。円高の進行は、こうした傾向に拍車をかけるものであった。
 こうした中、昭和40年半ばとなり、我が国の国際収支の黒字基調が定着すると、国際観光の使命として、外貨獲得の重要性は低下し、国際交流や国際親善の増進が強調されるようになった。しかしながら、この時代、国際観光に対する関心は、国内的にはまだまだ限られ、国内旅行の拡大とも相俟って、訪日外国人旅行者の誘致を国の重要政策として積極的に推進するとの意識は強かったとは言えない。

大阪万博の開催(昭和45年)(写真提供:独立行政法人日本万国博覧会記念機構)



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