vol.3... ダムインタビュー(1)
「時代を映すダム」 竹村公太郎さん(p.1)


竹村公太郎さん
日本水フォーラム代表理事・元国土交通省河川局長
1945年生まれ。1970年、東北大学工学部土木工学科修士課程修了。同年、建設省に入省し、主にダム・河川事業を担当。中部地方建設局河川部長、近畿地方建設局長、河川局長などを歴任。著書に、『日本文明の謎を解く』(清流出版)、『土地の文明』(PHP研究所)など。
ダムを訪問して楽しむ、学ぶといった、人々とダムとの新しいつきあいが始まっています。
 そこで、旧建設省・国土交通省で川治ダム、大川ダム、宮ケ瀬ダムとダム建設の最前線に立たれ、ダムを人々が見学できるよう、その先鞭をつけてきた竹村公太郎さんに、当時考えたことや、これからのダムがどうあるべきか、また、歴史的なトピックも含め、「ダムに行ってみたくなる話」を伺ってきました。


― 今日はお忙しいところありがとうございます。ダムコレクションは、ビジュアルやデータで、これまでダムにあまりなじみのなかった人に、ダムの役割を知ってもらうことを意図しています。しかしやはり、実際にダムに来ていただいて、見て、楽しんでもらうことが一番だと思うのですが、神奈川県の「宮ケ瀬ダム」は本当に多くの人々が訪れるスポットになっています。竹村さんは、宮ケ瀬ダム建設時、1985年に現場責任者(工事事務所長)として赴任されていますが、当時どんなことがあったのか、振り返っていただけませんか?

環境への配慮から
竹村:はい、宮ヶ瀬ダムでは、全く新しい事をやりました。大体、宮ヶ瀬ダムでは、所長が代わるたびに大きな事が変わっていったのです。前の所長が行ったことを、重要な点をひっくり返していく。そういう風習がありまして、これが大切なことで面白いのです。山住所長の後は、中村所長がひっくり返して、中村所長の後を荒井所長がひっくり返して。荒井所長の後は私がひっくり返したというような。
 ひっくり返したというより、所長の判断で、それはこっちの方がいいよと、物事を変えられる自由な雰囲気があったのです。時代に応じて変えていかなくちゃ行けない。工事やそれに伴う調査が進展していけば当然状況が違ってくる。三代前の所長と三代後の所長では、10年程度の間に社会状況も大きく変わる。そういう状況の中で物事を決めていかなくてはならないからです。
 私が宮ヶ瀬ダムの所長になって一番大きな変化は、「原石山」をダムサイトの近くに変えたことです。原石山というのは、コンクリートの材料になる岩石をとってくる山のことで、普通はダイナマイトでドーンッと発破をかけて運ぶのだけれど、そんな事をしたら原石山周辺が環境問題で大変なことになるので、ダムサイトの近くに変えました。そうすると大発破はかけられないので、”グローリーホール”という立坑をつくって、小割にした岩石を、その穴に静かに落っことして運ぶようにしました。環境に配慮することが重要だったからですね。


宮ヶ瀬ダム

B3通路ギャラリー

下流ギャラリー入口
ダムに人が入れるように
竹村:それともう一つ、宮ヶ瀬ダムで取り組んだのは、将来お客さんがダムの中に入れるようにするレイアウトにしたことです。エレベーターシャフトを2機つくって、トラックを運ぶインクラインという線路(右に写真)を、将来の観光用に使えるようにしておいたのです。それは全部、工事用に必要だということになっていて、将来の観光用に使えるぞ、というデザインにしました。


― 当時、ダムに一般の人を入れたら、何か問題が起こるのではないかとか、そういった議論はなかったのでしょうか?


20年後の社会を見据える
竹村:大問題(笑)。ダイナマイトで発破をかけられたらどうするのだとか。しかし、空中で火薬を爆発させて、ボーンッと空気を揺らしてもダムはびくともしません、何も怖くないのです。発破というのは、ボーリングをして、穴の中に火薬を詰め込んで、砂袋で封をして、発破の力を内部に向けてボン! と亀裂を入れるのが目的ですから。そういうことはいくら議論してもしょうがありませんから、私は工事事務所の職員に指示しました。ダム工事やダム管理のためだけではなく、将来、一般の人々にダムを楽しんでもらう工夫をしてくれ。堤体のギャラリーを完成後には観光用にしよう。
 ただし、観光用のギャラリーにする構想(腹案)は、建設省本省や本局に一切言うなと。本来の目的である機械運搬、グラウト工事のボーリングのために必要だという理由で説明しました。
 社会にはルールがあります。ルールはその時代のルールです。現在のルールを少し超えたところに未来があります。宮ケ瀬ダムの未来を想像して、エレベーターシャフトは2本にしよう、少し大きめの何人乗りにしようとかを議論しました。日本の20年後の社会は今とは価値観が変わっている筈だ、と考えたわけです。
 宮ヶ瀬ダムが完成した時、その時代の社会が許すなら、堤体のギャラリーの入口をふさいでいるトビラを開けて、お客さんを入れればいい。もし、それが許されない社会なら、扉は閉めたままにしておけばいいのです。その後、私が河川局長の時に宮ケ瀬ダムが完成したのですが(2000年)、竣工式に行ったらトビラは開いていて、人々が喜んでダムに入っていました。時代が変わっていたのです。
 もっとも、これは自分で独自の発想をした訳ではないのです。アメリカのフーバーダムをモデルにしました。私は1984年、フーバーダムを訪れました。衝撃を受けました。フーバーダムでは、人々をダムに入れて徹底的に楽しませる管理をしていたのです。現地を視察した時に、心から感動しました、これはいい! ダム屋が造ったダムを、後世の人々が楽しんでくれる。そんな幸せなダム屋はいません。
 日本で初めて、自由に一般の人がダム堤体に入れるようになったのは宮ヶ瀬ダムだと思います。その後、どんどんそういう例が出てくる。今の状況を見ると、やっておいて良かったなと思いますね。


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