vol.3... ダムインタビュー(1)
「時代を映すダム」 竹村公太郎さん(p.3)


― 気候変動、エネルギー、人口減少など様々なことが関わってきますね。ダムはそういった、社会の変化を映す鏡のようなものであるともいえます。ところで竹村さんは、地理・気象という大きな視点から、日本の歴史や文明を論じて人気を博しておられますが、ダムにはどんな歴史があるのでしょうか。
 
虎ノ門にダムがあった!?
竹村:日本は稲作文明です。稲作農業には水が必要だから、日照りが続いて農業ができないところがあったら、土を盛ってアースダムを造るわけです。それが日本のダムの歴史の誕生ですね。
 アースダムは、苦労はしたかもしれないけれども、そんなに大規模ではありません。最初の、都市の住民のためのダムは、実は東京の虎ノ門に造られたのです。1606年のことでした。1603年が江戸開府で、1606年に高さ約10mの「都市ダム」が虎ノ門にできたのです。
 なぜダムを作ったかというと、江戸には水がなかったのです。徳川家康が、何万人の総勢で江戸に入ってきたので、圧倒的に水が足りない。江戸城から見ると、下に見える水はみんな塩水です。そこで、水道橋の方から自然流下させて少し持ってきたのですが、全然足りません。1606年、江戸のど真ん中、虎ノ門に良いダムサイトがあったので、そこにダムを造ったのです。それを安藤広重が描いていたのです。

 和歌山藩の浅野家に幕府が作らせた事までは分かっています。みんなお手伝い普請でね。浅野家は、石造りがうまかったのでしょうね。今はもう完全に埋まっています。撤去はしていません。今の外堀通りがあるところ、1930年代まであったのですが、埋め立てられてしまいました。そのダム名残りの名前だけが「溜池」として残っています。(上図)
 要は、日本最初の都市ダムが、虎ノ門にあったということです。虎ノ門から、江戸市中に自然流下で水を流して、井戸に水を注入して、井戸の上から水を汲み上げる。江戸の水道システムができたのです。
 薩摩のお殿様の日記には、東京の虎ノ門の水が臭くていやだという記載があります。薩摩の水からみたら、本当に臭かったのでしょうね。それはしょうがないと思いますが、そういう話が日記に出ています。つまり、虎ノ門の水をみんなが飲んでいたということです。
 江戸以外でこのような都市のためのダムがあるかというと、あまり知りません。全国のダムはほとんど土で造られたため池です。ため池の下流にある農村では、その水を飲んでいるのですが、「都市ダム」の石のダムを作ったのは、江戸時代には虎ノ門だけじゃないかな。明治に入り、近代になってくると、布引五本松ダムが、都市住民のためのダムとして完成します(1900年、日本最初の重力式コンクリートダム)。
 しかし、江戸は虎ノ門のダム以降、人口が増大していきます。江戸では50年後にまた水が足りなくなったので、今度は玉川上水を造って、40kmの距離を江戸まで持ってきます。水の流れは早くもなく遅くもない、自然流下で、ローマ水道とまったく同じ概念ですね。
 近代的な水資源の仕組みは、地区内でダムを作って、それでも水が足りなくなったら流域から導水するわけです。昔も、21世紀も水の工夫は同じです。


― 今も昔も基本的な仕組みは変わらない、しかし、将来地域のニーズが変われば、ダムの使われ方も変わってくると。ダムを多様な側面からとらえる事ができれば、より深くダムのことを理解できそうです。最近は、そういう洞察を重ねて、知的に、活動的にダムを楽しんでいる人が増えています。そういったダムファンと呼ばれる人たちは、竹村さんがダム開発の現場にいたころは存在したのでしょうか?


竹村:私の知っている限り、1960~1980年代に、ダムファンとか、ダムマニアと呼ばれる人はいなかったです。また、わざわざダムを見に来るような人はいなかったですね。もちろんダム関係者は来ましたけど。高度成長期の日本人はそれほど忙しかったのです。高度経済成長時代では、自分の日々のまかないと生活の向上のために夢中に働き、心の余暇というところまでいかなかったのですね。
 今は社会が豊かになって、自分の生き方を楽しもうという価値観が広まって、そこに山の中にひっそりと大きなダムがある。そのダムは静かに下流の都市の人々を支えている。ダムマニアの人たちは、そんな健気なダムを見つけてくれたのでしょうね。


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