明治40年頃までの後志利別川は、毎年のように洪水被害に見舞われ応急的な治水工事を行ってました。しかし、被害を完全に防ぐまでにはほど遠く、抜本的な河川改修を望む声が高まってましたが、不況等の影響より河川改修が進みませんでした。
一方で、流域一帯は地味肥沃と気候温順のため明治晩年から昭和初期にかけ本州から開拓農民が続々と入植し、流域は農地として発達し沿岸は勿論、源に近い奥地まで開拓されてましたが、洪水による被害も年ごとに増大し河川は年々河岸を決壊流出させ、沿岸の肥沃な農耕地を荒廃させる最悪の現状となり治水事業が急がれました。
この様な状況から緊急的な事業が立案され最も急を要する箇所を昭和9年から昭和13年度までの5カ年事業とし残余の区間をさらに引き続き施行する計画で本格的な治水工事が開始することとなりました。
治水工事は、今金町市街部から河口までの区間において河道安定に向けた第一期工事として大富から河口までの低水路の開削や掘削土を利用し今金町市街部の堤防等を施工しました。また、兜野新水路(昭和10年通水)を皮切りに、中里新水路(昭和58年通水)まで、14箇所の捷水路工事により河道が現在の形状となりました。