小丸川の河川名が歴史に登場してくるのは今から約300 年前であり、それまでは、戦国時代に大友宗麟と島津義久が雌雄を決した攻防が「高城川の役」(天正六年、1578年頃)と伝えられるように、薩摩藩要衝高城(左岸8KOOO 付近)の名をとって高城川と呼ばれていました。
その後、当地を治めた高鍋藩の高鍋藩拾遺本藩実録(宮崎県史料・第2巻・高鍋藩)によると、貞享二年(1684年)七月二十三日の小丸川井手等修築の記事に「小丸川高城瀬水垣所同藪村三所崩切原村出口崩持田村崩安蔵川除切場同村西川除持田村井手溝初七ヶ所人足壱万弐千百四十人化飯米九十壱石壱斗壱升」とあるように小丸川の名が現れ、当年の洪水による小丸川災害復旧のため12,140 人を動員して修築にあたったことが記録されています。
当時、高鍋藩の城下町には小丸川に通じる小丸小路があり、これが小丸川と接するところは現在も地名としての残る小丸出口( 3K000右岸付近)といわれ、交通の要である船行場として利用されていました。
現在、小丸川本川3K000(右岸)に残る佐久間土手は、江戸より高鍋藩士として招かれた学者佐久間頼母翁の築いた土堤と言われ、築堤は元禄6年より13年に至る約8ヶ年の歳月を要し完成しました。