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河川局

周防灘台風 体験談

遭  難  記

阿知須町 松田興平(旧姓岡本)

 別記「土木技術者として」の序文に記したように、わたしも十二才の幼年で、未曾有の潮位津波の避難に失敗し、世にいう「馬鹿の高上がり」の生き残りの一人として遭難の記憶を記述する。

 私の出生地は新地開作浜地区の堤防内法り直下に六番浜製塩施設の煎ごう所(壷屋)石炭貯蔵倉、塩蔵に隣接し藁葺き棟瓦本家、土蔵、長屋で構成された古屋敷であった。本家の東・北塩田用潮まわし溝渠に面し、北口廊下から釣糸を垂らしてハデ、ドンコをよく兄貴と釣った。北側は五番浜、六番浜の沼井(ぬい)が林立し、入り浜式製塩の最盛期である真夏の持目(もちめ)作業には、日笠を被った浜子(男性)、寄せ(女性)の方々が懸命に汗を流しておられ、小生も夏休みは勿論のこと、学校から帰ると、厳格な祖父が「輿ちやん沼井踏みの手伝いに行け」とよく命令された。各塩田の浜子の方々は親切で子煩悩の方が多く私達兄弟もよく可愛がられ、時折汁粉入りアイスキャンデー、水饅頭を奢ってもらった。南側老松、雑木の茂った新地開作の防潮土堰堤で暑い夏の夕飯を家族全員で、沖合の水平線をゆく帆かけ船を展望しながら冷風を受け気難しい祖父の晩酌の相手をさせられた。日によっては大変薮蚊が多く青松葉を燻して蚊を追い払った記憶もある。

 塩田周辺で生活するのに、一番の気苦労は生活用水であったと思う。地下水は塩分濃度が高く、勿論当時公共水道もなく、降雨時、お袋の指揮のもとに居合わせた家族で軒下の雨戸樋より常設したブリキ製配管、斜戸樋等を仮設し屋外にある数個の水カメに貯溜していた。荒洗い、また多量に使用する水はすべて東口潮まわし溝渠の海水を使用し、入浴は好天の日は、手先の叔父宅の借り場に行き冬季は時々海水による潮風呂で温まった。米研ぎは、毎日お袋が手先の叔父宅で研いで持ち帰り、時には海水で荒研ぎをした。実に珍妙な飯も口にした。飲料水はすべて新地藤尾山麓に共同井戸があり人肩で運んでいた。我が家の水汲みは元気な祖父が集に二〜三回運び半洞壷に溜水していた。今日考えれば、よくお袋も家族七人の食生活を不自由な生活環境の中で支えてくれたことと感謝する。

 荷揚げ波止場は堤項より一段低く荷揚船(上荷)から長尺の足踏み板を仮設し煎ごう、燃料石炭の荷場げ、製品塩叺の荷積みがビョビョする足場板の上を天秤棒人肩で荷揚げ、荷積みされていた。その他数々の想い出が五十年の歳月が経った現在でも私の脳裏を掠めている。夕方六時か七時頃と思うが、風雨が強くなり荷揚波止場よりの波しぶきが勢力を増し、満潮に向かって荷揚げ波止場より、高潮の溢流が見られるようになり、祖父が危険を察し孫達の手先への避難を勧告した。日暮れの暴風雨のなか、兄貴が妹を背負い激しい追い風で塩田の沼井、汐まわし溝を避けながら、猛スピードで、手先叔父宅に到着した。避難して僅か三十分位で屋内に海水が浸水を始め、あっという間に床上まで浸水し、おじは中風で病弱な祖母を背負い、叔母従兄弟三人、私達兄弟姉妹四人を先導し土蔵に避難させ、すぐ牛小屋に行き農耕牛をも土蔵の中に入れた。いっ時経つと海水が勢いを増し一階床の貯蔵品は浮き上がってきた。叔父の指示に従い全員二階にあがった。叔父は牛の手綱を強引に曳くが、牛は木製階段を上がることは出来ず、二階に浸水を始めた時点で叔父は手綱を放した。牛は一階海水の中で大暴れし、遂に命を絶つ。高潮は満潮に向かって水位上昇、叔父の指揮で祖母・幼児・女達を優先に、二階押入天井に抱き揚げ最後に小生、兄、叔父が自力で上がると直ぐ、バリバリ、バリバリという大音響と共に土蔵が傾き始めた。中風の祖母は、即南無阿弥陀仏を唱え、叔父は叔母従兄弟達の名前を次々に呼び、私達兄弟姉妹四人も死に対する恐怖の余りお袋に向かって「オカサン、オカサン」と呼んでいた。その内に土蔵屋根に押しつけられ全然呼吸することが出来なくなった。水泳で三十秒位は呼吸をせず潜ることは出来るが、死線をさ迷う時は、水も藁をもつかむ気持ちで、大口を開けて助けを求めるため、海水をガブガブ飲んでしまう、無意識に厚屋根裏のタルキにしがみついている内に、屋根瓦の滑り落ちる音が微かに聞こえた瞬間に、屋根の棟が左右に分かれ、薄暗闇が少し見えた。無我夢中で亀のように頭を持ち上げた時、波の反動で分離を始めた。屋根が再度ドッキングをし、頭に強い衝撃を受けた。…そのせいか今もって記憶力に劣る凡人である…茫然とした意識の中で運よく完全に屋根裏敷き板が左右に分かれ、誠に不思議なことにタルキにしがみついたので、付着状態で身体と一緒に屋根裏敷き板が一三五度横転した。同時に兄は「輿ちゃん大丈夫か?」としっかりした語調で身体を引き寄せてくれた。二人は激励し合って暴風雨の中、屋根板にしがみついて西も東も分からぬままに潮流と波風にすべてを託して漂流した。雲間が少し切れ始め、微かに月光が見えてきた。先程とは波も小波になりふと気付くと妹(当時三才)が戸板のような板に伏せて漂流しているのを発見、直ぐ嘘のように合流し、抱き寄せ「能ちゃん能ちゃん」と兄貴と二人で大声を上げるも応答がない。八月末とはいえ海水と恐怖で肌に寒さを感じ始めたので、二人で抱き締め体温で温めているうちに、「兄ちゃん」という微かな声が出た。そのまま漂流を続けると倒壊家屋の流木材の群集にぶつかった。頭を上げてみると提灯と思われる標識灯を振って、「オーイ大丈夫か?直ぐ助けにゆくぞ」と警防団の方々の声が聞こえ、吾に帰り命のあったことを確認した。直ぐ側を見ると、まるでお化け屋敷の幽霊を見るような頭髪の長い姉がやはり戸板の上に正座していた。奇跡か偶然か、兄姉弟妹四人が同じ場所に漂着したことは奇跡としか思われない。漂流先は渚部落、益成家納屋の東側軒下であった。大声で警防団員の方々に助けを求める。応答を繰り返すと流木の中をジャブジャブと飛び込んで来られ、ただちに妹を抱きかかえ、私たちを一番近い松谷家に案内された。松谷のお爺さん、お婆さんが四人に着替えを与え意識のない妹に人工呼吸と思われる荒技と冷えた身体に湯たんぼをくるませて懸命に応急手当をして頂いたせいか、三才児とは考えられない程体内から海水を吐き出した。そのうち顔色が良くなり暫くすると深溝から村田医師が駆けつけられ注射などで妹は完全に意識を回復した。松谷家で一夜を明かすと、警防団員の方が来られ安心して下さい。お父さん、お母さんおじいちゃんも元気ですよ。先程岡藤家に、遭難後避難されていると吉報を頂いた。兄姉妹揃って涙を流して喜びを分かちあった。

 屋外に出てみると、昨日大暴れした空も残暑の厳しそうな青空に変貌し、新地開作を眺めれば、決壊した堤防が所々、瀬戸内海の孤島のように、点々と水面に浮かび、渚部落の高潮打ち揚げ田畑は尊い人の死骸、農耕牛の残骸、倒壊流失家屋の流木・家財道具等水浸しの流失物が帯状に集積されて一夜のうちに蒼海と化した風景を再確認し、一瞬にして箸一本無い無宿ものになった悔しさと、自然の恐ろしさを子供心に痛切に感じた。

 同一避難場所の土蔵で元気盛んな叔父夫婦を始め病弱な祖母、か弱い従兄弟三人と共に死線をさまよいながら私達見姉妹四人が助かるという、人間生涯の運命は、紙ひとえといわれ、本当に皮肉であり理解に苦しむ定めであると痛感した。

 私達遭難者のことは日本全国に報道され、戦時下の中、各方面から生活必需品等の差し入れを含む数々のお見舞いと、温かい激励の言葉をいただいたことに対し深く感謝するとともに亡くなられた方々のご冥福を念じ筆を擱きます。

−水防意識普及啓発事業記念誌 周防灘台風から50年

平成5年3月 山口県土木建築部河川課− より転載

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