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河川局

伊勢湾台風 体験談

海屋の堤防が切れるぞ

高橋春雄

昭和三十四年九月二十六日、この日は朝からむし暑く、午後になり南東の風も時々強く雨まじりで吹いている。この日、私の家では高田講組のお勤めを行い昼食をとる。午後は、仲間で空模様を気にしつつ雑談をする。この時、今は亡き高橋建造さんが大正時代台風で海岸堤が決壊して水没した時のことを話していたが、まさか自分のところがあと二、三時間後にあのようになるとは、全く思いもしなかった。

強く吹いていた風も夕方から静かになり、空も時々晴れ間を見せる。今から思えば、その時が台風の目の中に入っていたのである。しばらくして、また風雨ともに強くなってくる。

当時私は消防団竹田分団長を務めていて、警戒のために各団員に連絡し、善太橋西の元に集合する。年々、海岸堤を高くする工事が行われているが、善太橋のところは橋台取り付けのため高くすることができず、両側五〇メートルぐらいずつ低くなっている。  昭和十九年十二月七日の東南海地震で高さ半分くらいまで崩れた海屋新田の堤防が気になり、団員の高橋薫、平野俊男さんらと現地に向かう。

通りの屋根瓦も飛んでくる。海屋排水機場へ行ったとき、「あっ!!」とだれともなく大声。堤防が全長百メートルくらい中心より海側に決壊しているではないか。この現場を見たときの驚きは、言葉で表すことはできない。海側を懐中電灯で見ると海水はまだそんなにも高くない。「海岸堤が決壊」人の話では聞いたことがあるが、今この目でこの堤防を見たとき、もう一歩も前に足が出ない。近所の人に知らせなくてはと引き返す時は七時半ごろであったろうか。

風雨共うなりを立てている。遠くの方で稲妻のような光。すでに立って歩くことはできない。お互い声をかけ合い、はうようにして飛んでくる瓦をよけながら、堤防屋敷の家々に「海屋の堤防が切れるぞ!!」と大声で連呼して回る。善太橋の方が気がかり。このことを知らせなくては。すでに東竹田堤防上の家々の瓦はほとんど落ち、道の上は瓦の破片でいっぱいである。いつの間にか一緒だった高橋さん、平野さんとも離れ離れ。堤防から下に降り内山公三さん、高橋友七さん方にも大声でこのことを知らせる。下り坂の上の所に内山宗次さんの乗用車がスモールランプをつけたまま止めてある。下通りを善太橋に引き返すつもりで西に向かう。平野佐さんの前まで来たところで、もう一歩も進むことはできず、引き返す。家の西側の窓を外から突き破りやっとの思いで真っ暗な家の中に飛び込む。

家の中で一団となっておびえている家族を屋根裏に全員上げる。ほんの一刻「バリバリ」大音響とともに家が大きく揺れる。何か人の声。下に降りる。私がつきやぶった西側の窓に平野佐さん家族がしがみついている。水がきて、家を飛び出し東の堤防に避難するつもりが、すでに水の流れが強く、やっとのことで窓につかまったとのこと。夢中で引き上げる。

畳が浮き上がる。家の中を東北より南西にかけて水が一気に通り、戸、障子も全部なし。わずか二、三時間前まで、お茶を飲み話に花が咲いていたが、家の中は一瞬にしてこのありさまとは。屋根裏にて、私ども家族、平野佐さん家族と一団となり声も出ず、「ガランゴロン、バリバリ」という音を聞く。下はすでに帯戸の桟のところまで水がきている。  善太橋の所へ警戒に出ていた団員はどこでどうしているのかわからない。ただあ然とするのみ。

何分たったのか。屋根裏北側の窓から外を見る。いつもなら何もない田んぼの中、懐中電灯で大きく輪をかいているようである。窓より首を出す。「助けて」と声が聞こえてくる。舟か何かの上のようである。助けに行かなくては。とっさに二階にこいのぼりに使う網のあることに気づく。佐さんに綱をもってもらう。家族の者が心配するが、無言で窓から外に出る。勝手場から水の中に網を手に飛び込む。灯を目あてに前に進む。足元がどうなっているのかわからない。途中で大きな木が流れてくるのを避け、灯のところまで無我夢中で泳ぐ。

舟ではなかった。それは内山公三さんのちょうど昨年完成したばかりの家ではないか。大声で呼びかける。北側に泳ぎ回る。屋根の上に何人乗っているのだろうか。子どもが横にいる。すでに死んでいるとのこと。公三さん宅には、台風時には外から避難に来るのだがその人の声がしない。公三さんの家族の姿もない。「あとの人はどうしたのだ」「皆、この家の中で………」この時の気持ち、驚きは言葉で表すことはできない。女性二人を木につかまらせ、持ってきた網で木をしばり、大声で我が家の方に連絡し、綱を引っぱってもらう。ひさしから引き上げる。佐さんは勝手場の棟の上にまたがって綱を引っぱっている。だんだん自分の意識がうすらいでいくような気がする。風はまだ大分吹いている。裏の渡辺実さんも気づき飛び込んで来てくれる。残りの人皆引きとる。だれが、こんな惨事になると想像したであろうか。公三さんは現場から離れようとしない。気持ちはわかる。必死に説得、やっとのことで屋根から降り、水の中をいっしょに我が家の方に泳ぐ。ひさしから屋根裏に入いる。驚きと、水の冷たさで声が全く出ない。身体が震えてくる。ただ放心状態だ。

いつ頃からか、風も西風となる。屋根に出る。水、水、水……見渡す限り一面水の中。我が家も納屋の北側が壊れて水の中。いつ壊れたのか全くわからない。

二、三日ぐらいたってから、公三さんが水の中の家を、近所の方の手を借りて取り壊す。中から亡くなられた身内を出し、舟で海屋の残っている堤防まで運び、だびに付す。立ち昇る煙は、今も頭の中から消すことはできない。

あれから二十七年たった今、竹田新田ではこの水害のおそろしさを知らない子どもたちの、神楽太鼓けいこの歓声が晴れた夜空に響いている。

(以上、原文のまま掲載)

当時 農 業         30歳 十四山村竹田

現在 十四山土地改良区理事長 57歳 十四山村竹田

もどり

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