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河川伝統技術データベース:分類別リスト【堰・ダム】



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整理
番号
水系 河川名 局名 事務所名 名称 分類 年代 当該河川伝統技術の解説・由来・意味
12 岩木川 浅瀬石川 東北地方整備局 浅瀬石川ダム管理所 沖浦ダム 堰・ダム 20世紀代  岩木川河川統制事業として昭和23(1948)年3月に完成した堤延長171m、堤厚40m、堤体積81,000m3、総貯水量3,187,000m3の直線越流型コンクリート重力式の日本最初の多目的ダム(治水、灌漑、発電)。
 昭和8(1933)年12月調査開始、昭和20(1887)年3月31日に完成。昭和63(1988)年、浅瀬石川ダムの完成により水没、現在でも貯水位が低い時は姿を現す。
18 雄物川 旭川 東北地方整備局 秋田河川国道事務所 旧藤倉水源地堰堤 堰・ダム 20世紀代  旧藤倉水源地堰堤は、秋田市内への飲料水、防火用水供給のため明治36(1903)年に着手、明治44(1911)年に全施設が完成した。重力式コンクリート造り石張りダムで越流式としている点に特徴があり、ダムを備えた近代水道施設としてはわが国でも初期のものである。近代上水道の歴史や明治時代末期の土木技術を知るうえで重要な遺構であり、昭和60(1985)年には、全国の「近代水道100選」のひとつに選ばれたほか、平成5(1993)年には、近代化遺産としては全国初の「国の建造物の重要文化財」に指定された。
20 雄物川 雄物川上流 東北地方整備局 湯沢河川国道事務所 大久保頭首工 堰・ダム 19世紀代  大久保頭首工(大久保堰)は、天長7(830)年頃に住民が雄物川に水源を求め延々3kmにわたる水路を開き荒地開墾に着手し、文化9(1812)年頃には開田可能地は殆ど開墾に成功した。河床低下や幾多の災害を被りその都度上流へ取水口を移動し、明治35(1902)年頃に現在の位置に定着した。その後昭和28(1953)年の災害により流出したが、昭和30(1955)年の県営災害復旧事業により現在のコンクリート固定堰として築造され現在の姿になっている。
21 雄物川 雄物川上流 東北地方整備局 湯沢河川国道事務所 幡野弁天頭首工 堰・ダム 18世紀代  幡野弁天頭首工(幡野五ヶ所堰)は、承応元(1652)年に倉内村、金谷村、八幡村、森村、新金谷村の水田に灌漑用水を引くために築造された。その取入口は幾度かの変遷の歴史を経て現在の位置に定着した。
 昭和29(1954)年にそれまでの三角枠(うまこ)締切(杉長木を三角状に組立たもの)からコンクリート堰堤となり、その後洪水等により被災をうけて、昭和51(1976)年の改修工事により現在の姿になっている。
22 雄物川 雄物川上流 東北地方整備局 湯沢河川国道事務所 湯沢頭首工 堰・ダム 16世紀以前  湯沢頭首工(湯沢大堰)は佐竹氏が常陸国から転封になった慶長7(1602)年後の開田政策により整備したとされろものといわれている。当時は、地形勾配を勘案して引水しており、先人の知恵がうかがわれる。また、この水路の完成により下流域に位置する弁天、杉沢などの地域開発が急速に進展したと考えられる。
 寛永11(1634)年には、この水路を利用し秋の宮の木材を送る運河に改造するため、堰幅を2間(3.6m)ほどに拡幅している。また、幾度かの洪水により堰き止め木工沈床が流出している。現在の堰(堰長L≒300m、フローティングタイプ)は昭和40(1965)年の県営災害事業 により改修された。
23 雄物川 雄物川上流 東北地方整備局 湯沢河川国道事務所 山田頭首工 堰・ダム 16世紀以前  山田頭首工(五ヶ村堰)は、雄勝地方で最も古い農業施設であり、古文によるとおよそ500年以上前に築造された。新田開墾の歴史の中でその重要性を増しながら幾多の災害を被りながらも現代に受け継がれてきたが、昭和24〜27(1949〜1952)年にかけて県営かんがい排水事業で大改修(木工沈床)が行われた。昭和41年には台風による洪水のため施設が決壊流出し取水不能となったが、県営災害復旧事業として昭和44(1969)年に完成した。
47 北上川 胆沢川 東北地方整備局 岩手河川国道事務所 寿安堰 堰・ダム 17世紀代  寿安堰は、1618(元和4)年に水沢市福原の館主寿庵によって開削に着手されたが、4〜5年後キリシタン信徒の迫害が強まり追放されたが、その後千田左馬及び遠藤大学が寿庵の後を継ぎ1631(寛永8)年に完成した。その後、1660(万治3)年5月から20有余年をかけた大規模な改修と増削が進められた。藩政時代には現在の水利体系がほぼ完成したという。幹線水路の総延長43キロ、3千ヘクタールの水田に水を与える3筋の堰である。寿安堰は「ド(胴)」と呼ばれる伝統工法が用いられている。胴は長さ2〜3m、直径40p木に、10pぐらいの穴を3〜4ヶ開けて堰巾にたて並べ、水位に応じて栓を抜くことで水勢をつけ下流に押し出すように流すもので、水位と水勢を計算に入れたサイフォン原理を適用しており技術的に優れたものである。昭和22、23(1947、48)年の洪水により、取水口、水路ともに破壊され、復旧工事を行った。その後昭和26(1951)年から国営事業として改修が続けられコンクリート水路に変わった。
62 北上川 北上川 東北地方整備局 北上川下流河川事務所 飯野川可動堰 堰・ダム 19世紀代  飯野川河道堰は、洪水時に水面の上昇を減ずる目的で堤防に取り付けられた堰で、自由に流入量の調整をする構造になっていた。さらに、北上川新川流量が平水時における灌漑用水、確保塩水朔上阻止および河床の保護を目的とした築造された。
 飯野川河道堰に代わる北上大堰の建設により、昭和7(1932)年の完成以来30数年の長きに亘りその働きをしてきたが、その後の治水計画の変遷に伴う、計画流量の増により、その姿はないが、一部その歯車が記念として残っている。
63 北上川 旧北上川 東北地方整備局 北上川下流河川事務所 鴇波洗堰 堰・ダム 20世紀代  堰の建設中の大正13(1924)年に地盤が軟弱なため、基礎支持力に不足が生じ本体水通し中央部が沈下したため、工事を中止した。昭和2(1927)年には沈下も停止したと認められ、計画の一部変更に伴う、溢流部を追加、さらに、レール、山形鋼を用いて水通し部の補強工事を行った。当時の土木技術者の苦労が見られる施設である。
  新しい分流施設の計画があるが、当施設は保存し、活用することでその姿はとどめることとしている。
72 阿武隈川 阿武隈川 東北地方整備局 福島河川国道事務所 信夫ダム 堰・ダム 20世紀代 河川法による許可年月日:昭和11(1936)年10月6日
設置年月日:昭和14(1939)年10月 昭和26(1951)年、電力事業再編成で東北電力に移管し、現在に至る。
東北電力水力発電用取水堰 総貯水量1,872×103m3
昭和48(1973)年改修に着手し、24億円を投じ昭和63(1988)年に完工した。
73 阿武隈川 阿武隈川 東北地方整備局 福島河川国道事務所 蓬莱ダム 堰・ダム 20世紀代 昭和11(1936)年:東北振興電力株式会社が着工。
・東北電力水力発電用取水堰、総貯水量:3,803×103m3
・当時の建設費で935万。現在では500億はかかる。
・ダムで堰き止められた水は、下流の蓬莱発電所まで川沿いの山中に埋設された導水管で引かれ、電気を起こす。
導水管は、L=7.5km、勾配は1/1,600、最大落差77.6mの高さから発電所へ落とす。
・最大出力は38.500kw、福島市内の一般家庭の生活を一日まかなえる。
76 阿武隈川 荒川 東北地方整備局 福島河川国道事務所 地蔵原堰堤 堰・ダム 20世紀代 大正9(1920)年:工事着工
大正14(1925)年:工事完成荒川の土砂流出防止のための施設であり、阿武隈川上流改修のはじまり。
構造:石積粗石コンクリート,床固:225.9m
現存している。
88 利根川 小貝川 関東地方整備局 下館河川事務所 福岡堰 堰・ダム 18世紀代  亭保7(1722)年に「大洗」と「前洗」の2つの洗堰を毎年作っては壊すという作業を始めたのが最初で、その後明治19(1886)年に初めて木造の堰となりほぼ10年毎に改築され、大正12年にコンクリート造となり、昭和46(1971)年に現在の福岡堰となっている。山田沼の開墾の際に小貝川の水をせき止め、ここで十分に貯水された後、導水路を通して用水路まで水を引き潅漑を行う。
 現在の福岡堰は、伊奈神社と共に桜の名所として知られ、構造は、可動堰、固定堰 管理橋からなり、可動堰はシエル構造越流門扉である。
89 利根川 小貝川 関東地方整備局 下館河川事務所 岡堰 堰・ダム 18世紀代  今から390余年前に小貝川に横断土堤を築いたのが岡堰の礎となった。寛永7(1630)年に永久的な土堰を築いた。構造は、丸太造りで「大洗堰」「小洗堰」「孫洗堰」であった。その後、幾度かの洪水で崩壊し、昭和21(1946)年3月に可動堰、昭和35(1960)年3月に洗堰のタイプの構造となった。そして、平成8(1996)年3月に現在の7門タイプの構造となった。岡堰は、藤代町及び取手町の水田、畑の潅漑用水取水を容易に行うために小貝川を堰止め貯水を目的として造られた施設である。
 現在の岡堰は、平成8(1996)年3月に完成し、堰堤300m、ゲート7門タイプの堰として生まれ変わっている。桜の名所として、茨城県の百景にあげられている。
115 利根川 渡良瀬川 関東地方整備局 渡良瀬川河川事務所 矢場堰 堰・ダム 20世紀代  農業用水取水の為の堰があったが、上流の太田頭首工の完成により廃止。
116 利根川 渡良瀬川 関東地方整備局 渡良瀬川河川事務所 三栗谷堰 堰・ダム 20世紀代  農業用水取水の為の堰があったが、上流の太田頭首工の完成により廃止。
158 信濃川 大河津分水路 北陸地方整備局 信濃川河川事務所 大河津洗堰・旧閘門 堰・ダム 19世紀代  明治45(1912)年8月着工、大正10(1921)年3月竣工
 昭和44(1969)年から閘門改築工事のため、一部解体後埋め立てられる。
 昭和46(1971)年3月ローラーゲート方式の閘門が新設された。
 L=90.9m、W=10.9m、閘室60.6m、マイターゲート方式
 昭和44〜46年にかけて閘門改築工事に伴い、旧閘門は、解体・埋め立てられたため、現在その姿を見ることはできない。
 平成10(1998)年5月、新管理棟計画に伴い、旧閘門跡試掘調査が行われた。
 大河津洗堰は平成14(2002)年に国の登録有形文化財に登録された。
212 黒部川 黒部川 北陸地方整備局 黒部河川事務所 黒部川合口用水(愛本堰堤) 堰・ダム 20世紀代  昔の扇状地の農業用水は、黒部川の本流に導水堤をつくり、堤防に設けた水門から取水した。本川からの取水箇所は、左岸6ヶ所、右岸に7ヶ所もありました。そのため、渇水時には下流の取水口は水不足となり、出水時には導水堤が破壊されるなどで農民を苦しめた。
 そこで、明治時代に安定した取水を行うため取水口を改良しようという声が起こり、大正時代に入ってから、数多くある取水口を統一し、黒部川合口用水として愛本堰堤から必要な全水量を一度に取水して、各用水路に配水することとした。
 愛本堰堤は、昭和44(1969)年8月の出水により流失したため、150m上流に移設し、昭和48(1973)年に完成した。
230 庄川 庄川 北陸地方整備局 富山河川国道事務所 小牧ダム 堰・ダム 20世紀代  小牧ダムは、富山県氷見市出身の浅野総一郎の電源開発計画に基づき計画された利水ダムである。ダムの建設は、大正15(1926)年に着手し、昭和5(1930)年に完成しました。
 ダムは重力式コンクリート構造で、堤高は79メートル、長さは3百メートルあり、総貯水容量は38百万立方メートルで、17のゲートを備え、最大出力7万2千キロワットを有し、その当時は東洋一のダムといわれました。
 阪神淡路耐震災でも、ダムは被害を受けることがなく、平成14(2002)年6月に国の登録有形文化財に登録され、河川ダムとしては全国で最初の文化財となった。
238 手取川 手取川 北陸地方整備局 金沢河川国道事務所 埼堰(さきぜき) 堰・ダム 19世紀代  明治前期における手取川洪水の要因は、水源森林の間伐と河床の高堆積だけではなかった。それは藩政期以来の用水取り入れの方法に問題があった。手取川通(どおり)八ヶ用水は、それぞれに川の瀬に崎堰をかけ、抹江(まつえ)を掘り、川鞍を並べて用水を引いていた。
253 手取川 手取川 北陸地方整備局 金沢河川国道事務所 白山合口堰堤 堰・ダム 20世紀代  手取川の上流17.3kmにある取水堰堤。
254 手取川 手取川 北陸地方整備局 金沢河川国道事務所 練積堰提 堰・ダム 20世紀代  大正元〜9(1912〜20)年に甚之助谷に練積堰堤を施工。
255 手取川 手取川 北陸地方整備局 金沢河川国道事務所 護岸堰提 堰・ダム 19世紀代  白峰村桑島に施工された堰堤。
256 手取川 手取川 北陸地方整備局 金沢河川国道事務所 河川堰 堰・ダム 20世紀代  本川の流れをある程度止め、用水に水を流すといった目的や、本川の河動の流れを変えるといった目的に使用した。河川堰の構造は、杭に1本を4つ切りにした竹を編み込んだものである。
292 梯川 梯川 北陸地方整備局 金沢河川国道事務所 軽海用水(木工沈床) 堰・ダム 20世紀代  軽海用水の取入堰堤は、明治35(1902)年の改築までは、川倉を並べたもので明治29(1896)年8月の水害によって大破された。新しい堰堤は木工沈床を並列に据え付けて取り入れ水位を確保し、御殿山の下に隧道をくりぬいて取り入れ、もとの用水川に戻す。
343 木曽川 木曽川 中部地方整備局 新丸山ダム工事事務所 丸山ダム 堰・ダム 20世紀代  昭和18(1943)年10月、日本電送(株)より着工されたが、太平洋戦争により工事が中止された。その後、昭和26(1951)年6月関西電力が継承し、工事を行い、昭和31(1956)年3月に完成した。
 本ダムは大型機械を導入し、本格的な近代化を図った我が国の戦後最初のダムであり、大ダム工事の幕開けとなって、数々の新しい技術上の足跡を残した。
374 円山川 円山川 近畿地方整備局 豊岡河川国道事務所 蓼川堰 堰・ダム 19世紀代  畑地を当時最も貴重な米を生産するために、水田に転換するための水源確保のために設置。
 セメントがない時代のため、粘土の中に小石を入れ、その上に切石を据え、横に石をつなぎ、上に石を積み上げ、左右上下を小石混じりの粘土で結着する工法を採用。
 度重なる出水により、補修・補強を実施。
 灌漑面積約600ha。
474 高梁川 高梁川 中国地方整備局 岡山河川事務所 笠井堰 堰・ダム 20世紀代  第一期改修事業による東派川の廃川に伴い、灌漑用水を確保するために設置された。
 酒津の高梁川左岸から東西用水配水池に取水し、八ヶ郷、倉敷、備前、南部、西部、西岸の各用水に配水し、西岸用水は高梁川左岸を南下してのち、水江地先でサイフォンにより右岸にわたる。
476 芦田川 芦田川 中国地方整備局 福山河川国道事務所 羽賀の砂堰 堰・ダム 16世紀代  江戸時代には、東流していた芦田川が急に流れを南に転じるあたりの羽賀と呼ばれる地に砂堰を設け、洪水により下流(城下)が危険になると、この砂堰を切って神辺平野(穴の海)の低地に水を入れて洪水調節を行っていた。
 水野勝成は、羽賀に凸型に湾曲した高さ3mの砂堰(俗に砂土手という、明暦元(1655)年による乗越堤を築き、福山城下を水害より守った。
 しかし、水害に脅かされる中津原村等により、砂堰を切る目安として砂堰中央に石碑を埋め立てて水位を計って切り崩す慣行が行われた。
 昭和8(1933)年の堤防改修を契機として、この石柱を森脇村の八幡神社境内に移管し記念碑として保存している。
502 吉野川 地蔵寺川 四国地方整備局 吉野川ダム統合管理事務所 野中兼山の井堰等 堰・ダム 17世紀代  江戸時代、土佐藩の財政が困窮し、新田開墾等の奨励がされたとき、当時から地蔵寺川は河床が低く、取水ができなく作物等の収穫がなかったが、野中兼山により新井堰および水路等の構築され、周辺は開墾された。そのほか野中兼山は、同様な事業を土佐藩各地で実施しており、特に有名な施設として仁淀川の八田堰、鎌田堰、物部川の山田堰がある。
 新井堰:高さ2間(12.6m)、長さ19間(34.6m)、幅2間半(4.6m)杭柵にてつくった取水用施設で、地蔵寺川本川につくられ新井溝と呼ばれる水路により各水田に灌漑用水として給水されている。
 この他、付近には宮古野、田井地区にも規模が異なる同様な施設が、野中兼山により構築されている。
 野中兼山によりつくられた施設そのものは、老朽化等により、その後ほかの材料等で改築されているが、位置・高さ等基本的な物は変えられていない。
 また、当地区付近が野中兼山一族の領土であり、上記業績により野中神社、銅像等が建てられ、8月の第3土曜日には、周辺町民により「野中祭」が催されている。
521 那賀川 那賀川 四国地方整備局 那賀川河川事務所 ガマン堰 堰・ダム 19世紀代  明治2(1869)年に完成したが、昭和18(1943)年に完全締め切り計画によって撤去。
 那賀川の洪水を1/3だけ派川岡川に流入させるための越流堤としてつくられた石積堤。
528 那賀川 那賀川 四国地方整備局 那賀川河川事務所 大井手堰 堰・ダム 17世紀代  那賀川橋の上流にあった堰で那賀川の水を岩脇の内川、古庄の那東川へ水を引くため延宝2(1674)年に藩命により佐藤良左衛門が修築した堰。
 難工事で良左衛門は娘を人柱にたてようとするが、代わりに観世音を埋めることで人柱を回避できた。
 現在は北岸用水堰の完成により現存していない。
534 那賀川 桑野川 四国地方整備局 那賀川河川事務所 一の堰 堰・ダム 20世紀代  桑野川下流にある堰で一の堰(初代)は寛永15(1638)年につくられた石造りの堰で、
 昭和28(1953)年に2代目、昭和43(1968)年に3代目(現在の一の堰)が作られた。
 桑野川下流南岸の富岡町、見能林、才見町などに灌漑用水を送っている。
552 物部川 物部川 四国地方整備局 高知河川国道事務所 四ツ枠構築法(山田堰) 堰・ダム 17世紀代  土佐藩の家老野中兼山が、林産資源の育成、舟運、新田開発のため、物部川において、数々の取水堰と用水路を建設した。その中で、堰の規模、灌漑面積とも最大であるのが山田堰である。
 寛永16(1639)年〜寛文4(1664)年の26年の歳月をかけて、四ツ枠構築法なる工法(松材:約4万本、石材:1100坪)で長さ180間(327m)、幅6間(11m)、高さ5尺(1.5m)の巨大な堰と上井、中井、舟入川の井筋を建設した。
 昭和48(1973)年3月、上流約600m付近に合同堰が完成し、取水の役目を終えた。疎通能力不足の原因となるという理由から、撤去することになり、昭和57(1982)年11月に構造調査も併用しながら撤去した。現在は右岸寄りの一部が高水敷に残存しており、そこは物部川緑地公園として一般住民に利用されている。
557 仁淀川 仁淀川 四国地方整備局 高知河川国道事務所 八田堰,固盤枠,土台枠,片固盤,四ツ枠 堰・ダム 17世紀代  八田堰は野中兼山が指揮し、慶安元(1648)年から承応元(1652)年まで5年を要して築いたもの。兼山遺構のものは、湾曲斜め堰で、施工にあたり流水との調和を図るため川に、長縄を流して水勢を推し量ったという逸話が残る難工事であった。
 形は弓形をなし、延長228間(415m)、幅13間3尺(25m)、高さ1間4尺(3m)の大きさで、木材と石を組み合わせ構築されていた。
 コンクリートにより近代的に改修されている。
558 仁淀川 仁淀川 四国地方整備局 高知河川国道事務所 鎌田堰 堰・ダム 17世紀代  鎌田堰は、万治2(1659)年に野中兼山が着工、構築したもの。この堰から鎌田井筋が引かれ、灌漑用水路としてだけでなく、運河の役割も果たしていた。
 堰堤は長さ300間(545m)、幅10間(18m)、高さ7間(13m)で、兼山の築いた堰のうちで最大。中央部には長さ4間(7m)、幅3間(5m)の凹字型をした筏越を、松・楠の巨材をもって構築。また堰堤は材木で枠を組み、中を砂利で埋め上部を大石で被覆したものであった。
 水掛かりが悪くなり、昭和11(1936)年上流に(灌漑用の)自然取水による取水口を移し、堰は放置されていたが昭和29(1954)年の出水で形も消失した。今は堰止があるのみ。
573 渡川 後川 四国地方整備局 中村河川国道事務所 麻生堰 堰・ダム 16世紀代  後川の中流に位置する取水堰で、その流水は秋田、安並、古津賀等の田畑を潤している。施工は古く、1600年代で、当時の土佐藩家老野中兼山により計画、工事された。
 現在は、コンクリートブロック及び石張により工事され当時の姿は見られないが、その流水を運ぶ水路は兼山水路と呼ばれている。
587 嘉瀬川 嘉瀬川 九州地方整備局 武雄河川事務所 石井樋 堰・ダム 17世紀代  今からおよそ400年前、嘉瀬川の洪水を築き、多布施川を通じて佐賀城の内堀用水や、城下の飲料水、流域の灌漑用水を供給するために、成富兵庫茂安が12年かけて作り上げた井樋。石井樋は、荒籠と呼ばれる水制により嘉瀬川上流から流れてきた水の流れを弱め、砂よけとして働き、大井手堰で堰き止めた後に象の鼻、天狗の鼻により水の流れを変え、石井樋によって溜まった水を多布施川に流した。
 昭和35(1960)年、上流に川上頭首工ができ、その役目を終えていたが、平成9年度に地元要望の水辺プラザに指定され、平成16年度完成を目標に復元整備中である。
588 松浦川 松浦川 九州地方整備局 武雄河川事務所 大黒井堰 堰・ダム 16世紀代  今から約400年前に大川町にある水田を開くため、唐津藩初代大名寺沢志摩守の命を受け、家臣の立石合太が僧である田代可休の助言を受け、21年かけて作り上げた堰。
 松浦川の水を大川町の水田へ供給しており、現在もなお、その役割を果たしている。
590 松浦川 松浦川 九州地方整備局 武雄河川事務所 萩の尾堰 堰・ダム 17世紀代  松浦川の左岸にある桃ノ川地区の水田は水不足地帯だったため、成富兵庫茂安が松浦川上流に井堰をつくり、右岸側より水を取水し、サイフォンの原理を利用して対岸の桃ノ川地区の水田を潤した。その時つくられた井堰のことが萩の尾堰である。
 現在もなお、その機能を果たしている。
612 筑後川 筑後川 九州地方整備局 筑後川河川事務所 筑後川四大取水堰 堰・ダム 17世紀代  広大な筑後平野の農業用水をまかなうために藩政時代に築造されたものである。
 恵利堰:三井郡大刀洗町床島に位置しており、正徳2(1712)年に草野又六と三井郡五庄屋により築造された。
 恵利堰・床島堰・佐田堰の完成により1,428haが灌漑可能となった。
 山田堰:朝倉郡朝倉町恵蘇宿恵蘇に位置しており、寛文2(1790)年に古賀百工により築造された。
 山田堰・堀川用水完成により150haが灌漑可能となった。
 大石堰:浮羽郡浮羽町桜井に位置しており、延宝2(1674)年に五庄屋により築造された。
 浮羽町の一部、吉井町・田主丸町の大部分及び久留米市の一部(延長13.3km)が灌漑可能となった。
 袋野堰:浮羽郡浮羽町(夜明ダム上流)に位置しており、延宝4(1676)年に田代重栄により築造された。
 「獺の瀬」から約2,100mの溝渠を隧道を掘って通水し、田栄神社から開渠し、国道沿いに筑後川から平行して流下し各地域に配水し、465haの水田に灌漑することに成功した。
 現在は、夜明ダムによる貯水のため、水位は高くなり、袋野堰は水没した。
614 筑後川 城原川 九州地方整備局 筑後川河川事務所 草堰 堰・ダム    草堰は、棒杭に柳川、竹や芝、雑草などの粗朶や藁などを絡ませた堰であり、平水時にはマサ土がたまりにくく、洪水時には簡単に壊れる構造となっている。城原川では、水不足を補うために、厳格な水配分の秩序と分水施設に対する細かい工夫や取り決めがなされていた。
624 菊池川 菊池川 九州地方整備局 菊池川河川事務所 白石堰 堰・ダム 16世紀代  加藤清正の河川事業との説。
 文政3(1820)年に総庄屋の小森田七右衛門は、加藤公の工法を用いて堰を築造した。この工法は八代郡球磨川筋遙拝瀬の八の字堰と同様で、河中に八之字島を築き、その中間の欠所としてS字形曲斜面の水落しを船通りとして利用する様になっている。また島の両端に水流しを設けて、水量の多い時はこの口を開く事になっている。この堰が未だ一度も缺損したことがなく、小田梅林地区300歩の水田を養っている。
631 白川 白川 九州地方整備局 熊本河川国道事務所 瀬田堰 堰・ダム 16世紀代  大津町瀬田に流れる白川は、川の流れをさえぎるかのように大きな兜岩とよばれる巨石が川の中央にあり、阿蘇大明神が蹴飛ばしたと言われている。加藤清正はそんな岩をいかして石造取水堰を築き、約270町の田畑が潤ったといわれている。
632 白川 白川 九州地方整備局 熊本河川国道事務所 石塘堰 堰・ダム 16世紀代  白川に注いでいた坪井川の石造の背割堰によって分流し、船運のため坪井川と井芹川と合わせ水勢を増した。左端に水量調節の排水樋門、尚中島を隔てて五双の樋門を設けた。
633 白川 白川 九州地方整備局 熊本河川国道事務所 渡鹿堰 堰・ダム 17世紀代  白川は熊本市街部に入ると、渡鹿地点で大きく湾曲する。ひとたび洪水ともなればここから水流が一気に熊本城下を襲いかねない。そこで加藤清正は大きな石造堰を築いて治水を図るとともに、平時は水をためて灌漑用水とすることとした。
 工事の時期は慶長11〜13(1606〜1608)年と思われる。清正創設時の灌漑面積は約1,083町にも及んだといわれ、白川水系最大規模の灌漑用水施設となった。
 現在のコンクリート堰は昭和28(1953)年の大水害後に改修された物であるが、取水口から大井手に導いて順次、一の井手、二の井手、三の井手と分水する方式は清正以来である。
638 緑川 緑川 九州地方整備局 熊本河川国道事務所 鵜の瀬堰 堰・ダム 17世紀代  緑川は鵜の瀬堰のある地点から北に方向を曲げ、甲佐岳の山麓部を縫って、御船町万ヶ瀬地点で南側を流れる釈迦院川と合流していた。つまり、当時の甲佐一帯は緑川と釈迦院川が約3kmの距離を隔てて流れる形をとっていたため、この二つの川に挟まれ、常時洪水に悩まされていたのである。
 加藤清正は、両川を一本にまとめ、それまで万ヶ瀬で落ち合っていた合流地点をはるか上流に持っていくことであった。そのために、緑川を掘り替えて釈迦院川につなぐとともに新しい合流地点の上流に大堰、すなわち鵜の瀬堰を設けて、従来の緑川の流路をふさぎ、併せて周辺農村の灌漑用水としたのである。
 鵜の瀬堰からは、甲佐井手と呼ばれる大井手が引かれた。それは今も甲佐町の中心を蕩々と流れ、約20.5kmの流れは灌漑のみならず町民の生活用水としても利用されている。また観光名所になっている鮎の梁場は大井手の取水口付近に設けられた沈砂地で緑川から流れ込む土砂を沈めて下流の堆積を防いだ。鵜の瀬堰によって開かれた水田は400町に及んだといわれる。
642 球磨川 球磨川 九州地方整備局 八代河川国道事務所 旧前川堰 堰・ダム 17世紀代   八代城下を洪水から防護するために、派川前川の分派口に設けられた分流規制堤であるが同時に、灌漑取水堰の効用を兼ね、慶長年間に加藤清正の命により築造されたと伝えられる。石灰石系の白石で築いた長さ218mの固定堰。
 昭和42(1967)年に新前川堰が完成し、現在は親水の場として市民に親しまれている。
643 球磨川 球磨川 九州地方整備局 八代河川国道事務所 遙拝堰 堰・ダム 17世紀代  球磨川が山間部から八代平野に抜ける地点には、元徳2(1330)年頃につくられた「杭瀬」と呼ばれる木の杭を川の中に並べて打ち込んだ農業用取水堰があった。
 加藤清正はこれを石堰に改良し、当時、当地区で三川に分かれていた球磨川を締め切りによって現在の一筋にまとめたもので、大型の割石や自然石を用いて強固なものにするとともに、船や筏などの水運を考慮し中央が開けた八の字形にされていた。
 遙拝とは遠い場所から神仏を拝むことをいい、南北朝時代、懐良親王(後醍醐天皇の第16皇子で征西大将軍に任命された)が高田の御所に在居のおりに参拝され、国家安泰を祈った「豊芦原神社(通称、遙拝神社)」が近くにあったことから遙拝堰と呼ばれるようになった。
 昭和43(1968)年に全面改築され、コンクリートの堰となり現在に至っている。
645 球磨川 球磨川 九州地方整備局 八代河川国道事務所 百太郎堰(溝) 堰・ダム 18世紀代  灌漑用水路および取水堰の建設であり、施工は5期にわたり行われたようであるが、その着手及び完成の時期は定かではなく、取水樋門の構造から推測して、鎌倉時代に着手されたのではないかとの説もある。記録としては、第2期工事は延宝8(1680)年、第5期工事は寛保元(1740)年に着手されたとなっている。
 第2期以降の工事はいずれも藩命によるものではなく、藩の援助はいっさい受けずに農民達の力だけでなされたものである。
 水路延長19km、受益面積1,500haであり、村人一丸となり水路開削に苦労した話や人柱伝説等がある。
 当時の取水樋門は記念碑として百太郎公園に移設されている。現在の堰は、昭和35(1960)年3月に完成したものである。
646 球磨川 球磨川 九州地方整備局 八代河川国道事務所 幸野堰(溝) 堰・ダム 18世紀代  元禄10(1697)年〜宝永2(1705)年。
 約8年の歳月をかけ、暗渠3ヶ所を含む延長24kmが完成。百太郎溝とともに球磨盆地の主要な灌漑取水施設で、江戸時代中期の耕地開発、農政振興の先駆けとしてつくられた。工事の指揮にあたったのは相良藩士、高橋七郎兵衛政重である。
 取水口を市房第二ダム(幸野堰)に移し、現在も使用されている。
651 球磨川 川辺川 九州地方整備局 八代河川国道事務所 築切取水口 堰・ダム 20世紀代  昭和2(1927)年。
 チッソ樺|の川発電所の堰堤。
 コンクリート溢流堰で排砂門が切石積で美しい造り。
 小規模な修復があり、一部コンクリートで覆われている。
652 球磨川 川辺川 九州地方整備局 八代河川国道事務所 野々脇取水口 堰・ダム 20世紀代  昭和10(1935)年。
 チッソ鰍フ川辺川第二発電所の堰堤。
 コンクリート溢流堰で小規模な修復がある。
 コンクリートの表面がかなり削れているが、堅牢で現在も使用している。川辺川ダム完成後は水没する。
653 球磨川 川辺川 九州地方整備局 八代河川国道事務所 川辺川第一発電所取水ダム (板木堰堤) 堰・ダム 20世紀代  昭和12(1937)年。
 九州電力鰍フ川辺川第一発電所の堰堤。
 コンクリート重力式ダムで、高さ(川辺川11.50m、板木0.72m)テンターゲート、5本のゲートピア。
 建設当時の姿を保っている。
 川辺川ダム完成後は水没する。
654 球磨川 川辺川 九州地方整備局 八代河川国道事務所 神屋敷取水口 堰・ダム 20世紀代  昭和3(1928)年。
 チッソ鞄ェ地発電所の堰堤。
 コンクリート溢流堰で小規模な修復がある。
 チッソの発電堰堤として使用しているが、川辺川ダム完成後は水没する。
666 山国川 山国川 九州地方整備局 山国川河川事務所 三口の大井手堰 堰・ダム 16世紀以前  保延元(1135)年の開削と言われる。
 中津市大字相原相原三口より流れ出る大井手堰の水路(3本の主水路)で、沖代平野の灌漑水路である。「豊前志」や「下毛郡誌」によると水路の沿岸に楊柳が甚だ多いことによる。
 灌漑水路として、維持管理されている。
732 大野川 緒方川 九州地方整備局 大分河川国道事務所 円型分水 堰・ダム 20世紀代  大分県竹田市の南西部の棚田が並ぶ静かな村の谷あいにあり、大野川上流部(宮砥、入田、うば岳地区など)南部一帯のかんがい用水路(音無井路)として、元禄6(1693)年から工事を始めた。現在の円形分水路までは明治25(1892)年に完成したが、ここから三線の幹線水路に分配する量の問題で水争いが繰り返されていたため、昭和9(1934)年に円形分水路が造られた。円形分水路には、四角の穴が20個あり、水路の耕地面積に比例した水の量を分配する構造となっている。
 この円形分水が完成し、水争いも無くなった。
754 五ヶ瀬川 五ヶ瀬川 九州地方整備局 延岡河川国道事務所 岩熊井堰 堰・ダム 18世紀代  この井堰が完成したのは、享保19(1734)年である。川下の恒富町から出北町に至る広大な水田に水を供給している。岩熊井堰は、幾多の補修、改修を繰り返し、昭和46(1971)年に改修したものが現在の姿となっている。
 この井堰は、現在、北幹線は吉野町から岡富町、南幹線は下三輪町から下伊形町までの広大な水田地帯へ水を与え、延岡の農業に貢献している。
774 肝属川 串良川 九州地方整備局 大隅河川国道事務所 川原園堰 堰・ダム 17世紀代  1km程下流にも取水堰があるが、利水者が異なるため昔から取り合い等があり、改築などの為の契約書も何回も交わしている現状である。現在堰柱についてはコンクリートであるが、柴によって堰き止めている。消防用水確保のため施設の半分を撤去する。柴堰の材料は直径15cm程度が200本くらい必要としている。




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