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河川伝統技術データベース:分類別リスト【門】



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番号
水系 河川名 局名 事務所名 名称 分類 年代 当該河川伝統技術の解説・由来・意味
64 北上川 旧北上川 東北地方整備局 北上川下流河川事務所 脇谷洗堰・閘門 20世紀代  この洗堰と閘門の目的は、鴇波洗堰と相まって北上川改修後の平水量を旧北上川に流下させ、高水時には新川の最大流量の一部を旧北上川に分流させる役割の洗堰と、もう一つは北上川を航行する船舶などの利便に供する鋼門からなる特殊構造となっている。
 新しい分流施設の計画があるが、当施設は保存し、活用することでその姿はとどめることとしている。
98 利根川 利根川(横利根川) 関東地方整備局 利根川下流河川事務所 横利根閘門 20世紀代  江戸時代からの那珂湊と利根川を結ぶ周船ルートである横利根川の航路の確保と出水時に利根川の水が霞ヶ浦に逆流するのを防ぐために設置された。平成6(1994)年には劣化の為、当時の手法を用い再生工事をおこなった。平成12(2000)年には、土木技術史上 煉瓦造閘門の遺構として国の重要文化財に指定された。
136 荒川 越辺川・都幾川 関東地方整備局 荒川上流河川事務所 煉瓦造り樋管    煉瓦樋管が埼玉県内に多いのは、煉瓦が埼玉県の地場産業の製品で、地元出身の財界人渋沢栄一と、それを支えた地元の努力にある。深谷の地に煉瓦工場を誘致したのは渋沢栄一である。彼は、それまで仕事といえば農業しかなかった地域に工場を建設し、地元産業と同時に日本の近代産業の育成を図った。地元はそれにこたえ、煉瓦樋管の建設を担った。地元の中には煉瓦工場が不況の時、市場価格より高い値段で煉瓦を購入したところもあった。埼玉県内には約30の煉瓦造りの樋管があり、その中の9樋管が荒川上流管内にある。樋管名は以下の通り鎌田樋管、高畑樋管、矢来樋管、前樋管、前吐樋管、奈目曽樋管、三原樋管、四反田樋管、小剣樋管。
148 阿賀野川 阿賀野川 北陸地方整備局 阿賀野川河川事務所 満願寺閘門 20世紀代  昭和3(1928)年に新津市満願寺に栄えていた阿賀野川と信濃川を結ぶ支川小阿賀野川の舟の輸送を確保するため、初代満願寺閘門が設置された。また、阿賀野川からの洪水を防ぎ、小阿賀野川に必要な水量を流す目的で、満願寺閘門の下流側に小阿賀樋門が設置された。この満願寺閘門と小阿賀樋門の設置により小阿賀野川周辺地域を洪水の恐ろしさからまもり、農業、漁業、そして舟運に利用されている。
153 信濃川 信濃川 北陸地方整備局 信濃川下流河川事務所 東煉瓦水門 20世紀代  明治36(1903)年築造。白根郷の最北部にあり、白根郷の東側を流れる信濃川の下流地域に位置する。この地域は、白根郷で最も重要な排水路「大通川」の出口にあたり、昔は木造の水門であったが、流失したため、「東煉瓦水門」が作られた。 信濃川下流域で現存する唯一の煉瓦造りの水門で、その構造を知る上で貴重な構造物。
225 常願寺川 常西用水 北陸地方整備局 富山河川国道事務所 常西合口用水上滝砂溜排砂水門 19世紀代  常西合口用水は、堤防の決壊を防ぐため、それまで用水ごとにあった取水口を一つにまとめ合口化し、明治26(1893)年に完成した用水である。
 その用水の土砂吐け機能の施設として大山町上滝に明治25(1892)年に完成した施設である。
229 神通川 富岩運河(神通川) 北陸地方整備局 富山河川国道事務所 中島閘門 20世紀代  中島閘門は、富岩運河の開削にあわせて昭和9(1934)年に設置され、運河上流に工場が誘致されていたことから、当時は工業用原料を運ぶ船が往来するなど、運河のシンボルとして、富山市の発展に大きな役割を果たした。
 この閘門は、運河の河口から約3.1km上流に位置し、およそ2.5mの水位差を二対の扉で調整する、当時の最新技術を採用したパナマ運河方式の閘門で、ヨーロッパにおいて中世から近代にかけて発達した水運技術を取り入れたものです。平成10(1998)年5月1日、近代化遺産として国指定重要文化財に指定された。
293 梯川 梯川 北陸地方整備局 金沢河川国道事務所 浮柳逆水門(前川) 20世紀代  昭和7(1932)年に浮柳逆水門を建設し、安宅水戸口閉鎖や梯川本流の増水による逆流を防止し、加賀三湖周辺低湿地帯での浸水被害の軽減を図った。
356 木曽川 木曽川 長良川 中部地方整備局 木曽川下流河川事務所 船頭平閘門    木曽三川は入り乱れて流れ、互いに連絡し合い、物資は船により川伝いに運ばれていた。しかし、三川分流工事により、三川を結ぶ舟運が絶たれることになる。このため舟運路を確保するために木曽川と長良川の間に設置された。明治35(1902)年に竣工し、平成6(1994)年に改築された。
 平成12(2000)年に重要文化財に指定された。
358 木曽川 揖斐川(大江川) 中部地方整備局 木曽川下流河川事務所 金廻四間門樋 19世紀代  堤防で周囲を囲んだ輪中地域は洪水による堤防破壊だけでなく、輪中内に貯まる水(悪水)にも絶えず悩まされ続けた。そのうえ悪水がたまり、水腐れを生じて作物がほとんど穫れない不毛な地となり、人々が苦しんでいた。また、新田開発をしても耕作不能な低湿地に逆戻りするほどの有様だった。
 明治の中期に高須輪中の排水樋門として建造される(明治17(1884)年と推定される)。工法は紀州流に輪中の技術を交ぜたもので濃州流といわれる工法を使用。
 昭和38(1963)年に大江樋管として改築している。
379 大和川 大和川 近畿地方整備局 大和川河川事務所 亀の瀬の閘門(仮称) 19世紀代  15世紀中頃より、大和川の舟運は商業的に発達してきたが、亀の瀬狭窄部においては、急流であり、舟運が危険であった。そこで明治4(1871)年頃閘門式の水路(運河)の計画がたてられ、明治13(1880)年に工事着手、明治16(1883)年に完成した。
 大和川の舟運は、亀の瀬を境に河内側を剣先舟、大和側をそれより小型の魚梁舟が運航していた。亀の瀬は急流で舟運が危険であったので岩石を取り除き河床を約0.9m掘下げ、幅3.6m、長さ55mの水路を築いた。河床には敷石して、斜度を均一にし、下端には堰を設け、堰板を用いた閘門式方法により船を航行させた。この閘門式構造は、当時としては最新の技術を応用したもので、水運史上特筆すべきものであった。
 閘門完成後、舟運はしばらくの間繁栄することになるが、明治25(1892)年2月に大阪鉄道が完成し、舟運は衰退し、閘門も利用されなくなる。その後の昭和6、7(1931、2)年の亀の瀬復旧時に河床を掘削されたため現存しない。
440 淀川 淀川(大川) 近畿地方整備局 淀川河川事務所 毛馬洗堰と毛馬閘門 19世紀代  新淀川の開削により、旧淀川(大川)の治水安全度は向上した。このため、大川への流量調節を行うために建設されたのが毛馬洗堰である。当時は、舟運が盛んであったため併せて毛馬閘門も建設された。
466 吉井川 吉井川 中国地方整備局 岡山河川事務所 倉安川吉井水門 17世紀代  延宝7(1679)年に岡山藩主池田光政の家臣津田永忠により、沖新田開発、倉田三新田の用水確保、舟運の連絡ルート確保のため倉安川が掘削され、吉井川からの取水口に設置された石垣(開閉部は木造)の水門である。
 この水門は、吉井川の堤防に築かれた「一の水門」と倉安川側の「二の水門」の二重構造となっており、当時では最先端技術であった「閘門式」の構造となっている。
 現在は、流域開発や河川整備が進んできたことにより、その役割を終え、当時の人々の暮らしを物語る施設として残されている。
470 高梁川 高梁川 中国地方整備局 岡山河川事務所 一口水門 17世紀代  高瀬舟の就航が華やかかりしころ、玉島港までの約11kmの水路と高梁川をつないでいた閘門式の樋門で高梁川右岸8.8kに位置する。
 寛永19(1642)年に備中松山城主となった水谷勝隆は高瀬舟の航路開発に熱心であり、それまでの航路を高梁市から新見市まで広げるとともに、この水門を築造させたもの。
 現在は船穂町指定の文化財となっている。
494 小瀬川 小瀬川 中国地方整備局 太田川河川事務所 大竹村閘堰 19世紀代  享和の初め(1801年〜)に大竹村青木に閘(水門)を設け、文化年間の末(1816年ごろ)に現在の位置へ移したが、工法不良でいずれも失敗でした。弘化3(1846)年9月、村をあげて投資し、工法を改良して成功させた。
 ここから流されるかんがい用水は、大竹村や小島新開の用水路を縦横に流れて田畑を潤し、降雨時には排水路となって地域の住民に大きな益を与えている。
507 吉野川 吉野川 四国地方整備局 徳島河川国道事務所 第十樋門 20世紀代  吉野川の水を旧吉野川に流し、洪水の時には吉野川の洪水が入らないようにするために大正12(1923)年に建造された。旧吉野川の出発点でもある。当時は日本一の樋門として吉野川沿川の名所となり見物者が絶えなかったという。
 樋門の水位を観測する水位観測所は70年以上経った今でも大正時代の優雅さが感じられる。
531 那賀川 那賀川 四国地方整備局 那賀川河川事務所 富岡水門 20世紀代  昭和27(1952)年に那賀川と桑野川を分離するため、富岡水門が作られた。
 水門の完成により那賀川洪水の水が桑野川に流れ込まなくなり、桑野川の洪水被害は軽減した。
 現在の富岡水門は平成2(1990)年に改築されたものである。
579 遠賀川 堀川 九州地方整備局 遠賀川河川事務所 唐戸水門 17世紀代  堀川開削の第二期工事が宝暦12(1762)年に完了。遠賀川本川より堀川への導水は、中間村中島に取入口を設け、石唐戸(水門)を構築して仮通水することとなるが、洪水の際の水圧に耐えられず、二度にわたり決壊した。藩は備前(岡山県)に使いを送り、一つの唐戸に表裏にまったく同一機構の堰戸を設けた中間唐戸を建設した。
 石唐戸の決壊により、藩は検討の結果、備前国吉井川に全国無比石唐戸が構築されていることを知り、堀川工事の役夫頭を努めていた一田久作を備前に派遣。当時は、各藩とも自国の技術は極秘にしていて、他国人で盗むものは生きて帰さぬほどで、久作は決死の思いで備前国に潜入し、吉井川の閘門の構造を書き取り、無事帰国。設置場所は岩盤の箇所が選ばれ、表戸・裏戸のほかに中戸を設け、表裏戸でも濁流の水勢を妨げない場合に使用することとしている。
 福岡県の重要文化財として指定されているが、現在も一部機能を果たしている。




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