ホーム >> 政策・仕事  >> 河川トップ  >> パンフレット・事例集  >> 河川

河川局


河川伝統技術データベース:分類別リスト【舟運】



ここから他の分類も見ることができます。 
整理
番号
水系 河川名 局名 事務所名 名称 分類 年代 当該河川伝統技術の解説・由来・意味
4 十勝川 十勝川 北海道開発局 帯広開発建設部 旅来渡船場 舟運 20世紀代  旅来渡船場は明治37(1904)年に創設され、明治40(1907)年に豊頃町の村道の渡船場となる。その後、昭和50(1975)年4月に国道に昇格し、全国の国道において唯一の渡船場となった。また、明治42(1909)年頃に十勝川で70ヶ所程度あった渡船場の中で最後に残った渡船場である。
 旅来渡船場は浦幌町生剛と豊頃町大津を結ぶものであり、創設当時はイカダ型式(デッキ船)で人馬が対象となっていたが、昭和42(1967)年に人のみ(自転車など含む)を対象としたプラスチック製の船(定員5名)になった。運航方法は、十勝川に張り渡したロープを手操りながら進行するもので、片道5分の運行時間となっていた。
 平成4年度に十勝川河口橋が完成し、渡船場は廃止されている。
7 石狩川 石狩川 北海道開発局 石狩川開発建設部 舟運 舟運 20世紀代  石狩川の舟運は、明治初頭は、石狩川流域への入植並びに入植後の物資の輸送は石狩川を中心とする河川を利用した舟運に依存していた。移住のための人、貨物、鉄道敷設用の貨物の輸送が行われた。しかし、明治25(1892)年に石狩平野の内陸地空知太まで鉄道が開通したことにより舟運に依存する乗客、貨物共に減少していった。
19 雄物川 雄物川上流 東北地方整備局 湯沢河川国道事務所 雄物川の河川交通 舟運    雄物川は、古くから上流の穀倉地帯と土崎港を結ぶ重要な舟運のルートであった。慶長7(1602)年に秋田に転封された佐竹氏は、水運を最大限利用するため藩内の川を整備し、近世初期からは雄物川の名の由来の一つとされる「御物成(貢物)川」の性格を帯びてくる。角間川、大曲は川港の中で最も繁栄したが、盛大を極めた雄物川の水運は明治39(1906)年の奥羽線の開通により物資の輸送は鉄道に吸収され次第に衰退していった。今でも川岸には昔をしのばせる船着場の跡や浜倉の跡が残る。
36 最上川 最上川 東北地方整備局 山形河川国道事務所 糠野目 舟運 17世紀代  最上川舟運の河岸(舟着場)
 糠野目橋下流左岸側に位置を示す看板が設置されている。
37 最上川 最上川 東北地方整備局 山形河川国道事務所 宮舟場 舟運 17世紀代  最上川舟運の河岸(宮舟場)
 元禄時代、最上川上流には舟着場があり、岸辺にはお米蔵や舟屋敷を設け賑わいを見せていた。青苧・大豆などの特産品が集まった。
 長井橋付近に船玉大明神(船乗りの神)が残っている。
38 最上川 最上川 東北地方整備局 山形河川国道事務所 荒砥河岸 舟運 17世紀代  最上川舟運の河岸(舟着場)。陸上の交通の要所でもあった。
 舟陣屋(正部陣屋)、造船場などが設けられていた。
51 北上川 北上川 東北地方整備局 岩手河川国道事務所 北上川の舟運 舟運 17世紀代  北上川の舟運の始まりは慶安年間(1648〜1652年)以降といわれている。北上川舟運は明治維新とともに衰退し、明治中期には廃絶するに至ったが、その原因には東北本線の開通その他納税が物納から銭納に変わったことがあげられているが、明治24(1891)年旧4月11日黒沢尻川岸の大火災で舟帯、小繰り舟等大小100余船を燒失するに至ったことが大きい。黒沢尻川岸(北上市)から石巻間は舟運の主役ともいえる舟帯、また上流新山河岸(盛岡市)間は小繰り舟という小型の舟が使用された。舟帯の数は明和の頃は55艘に上った。舟帯:350俵積み大きさ,中幅約4.53m、長さ約18.10m・小繰り舟 120俵積み大きさ 中幅約2.7m、長さ約16.3m 廃絶後まもなく関係施設も払い下げられてしまった。一方、大正末期まで南部造り酒屋の船が登米近くまで毎月1〜2度配達していたが、止むともなしに止んだ。
 いま、北上市黒沢尻展勝地の河畔に舟帯が復元されている。
66 鳴瀬川 鳴瀬川 東北地方整備局 北上川下流河川事務所 野蒜築港 舟運 19世紀代  仙台藩政の頃、宮城県内産業の動脈は北上川と阿武隈川の二大河川を中心とした河川水運であった。
 明治時代になり、帆船時代が終わり、汽船航行の時代になったことで、河口港の石巻は衰退してきた。そこで明治政府では東北の民生を振興し、富国工業のためにその拠点となる港湾の築港考えた。その中心人物が中央では内務卿大久保利通であり、現地では宮城県令松平正直の2人である。また候補地の調査選定にはオランダの土木技師ファン・ドールンがあたった。
 明治17(1884)年9月の台風の襲来により、河口東部の突堤が破壊され、現在はかつての市街地の煉瓦造りの橋脚や突堤跡の捨石のみが残っている。
70 阿武隈川 阿武隈川 東北地方整備局 福島河川国道事務所 舟運 舟運 17世紀代  寛文4(1664)年から江戸の商人らが阿武隈川の改修に乗り出し、福島盆地から河口までの通船を可能にした。明治10(1877)年以降、陸上交通が盛んになり衰える。
 江戸時代、信達地方で幕府が軍事、飢饉に備えて貯蔵した御成米や年貢米を江戸に輸送するため舟運利用が始まった。
 現在は、まったく行われていない。
71 阿武隈川 阿武隈川 東北地方整備局 福島河川国道事務所 渡し 舟運 17世紀代  260年〜270年の歴史があると伝えられている場所もある。
 福島市瀬上町のみで「瀬上の渡し」と呼ばれる渡しが、平成7(1995)年まで残っていた。現在は行われていない。
79 利根川 前川 関東地方整備局 霞ヶ浦河川事務所 仙台がし(河岸) 舟運 17世紀代  三方を水に囲まれた潮来地方は、古くから水運の要所であった。特に江戸幕府が成立すると、東北諸藩の年貢米や諸物資が内川廻り潮来経由で江戸に回漕されるようになった。当時、大量の物資を輸送するのに、水上輸送が陸上輸送よりも便利で運賃も安かったからである。
 常陸利根川と北浦を結ぶ前川に沿った大字潮来と大字辻の境に、「此のあたり旧跡仙台がし」と刻まれた石碑が建っている。この辺、一帯が江戸時代の仙台藩蔵屋敷の跡地である。
85 利根川 鬼怒川 関東地方整備局 下館河川事務所 阿久津河岸 舟運 17世紀代  慶長5(1600)年に宇都宮から氏家へ通じる街道が開かれてから、各地に点在する徳川領からの荷駄の輸送が容易となり、各地に河岸が創設された。その一つである阿久津河岸は開設当初は築城用材、兵糧米の輸送など軍事目的を主として機能したといわれる。しかし、参勤交代の制度化、幕藩体制の確立、江戸の発展とともに、周辺諸藩の物資も集まり、江戸の生活を支える物資を搬送することになった。宇都宮藩では河岸を徴税の場として領内の七河岸を決め、その一つが阿久津河岸である。また、七河岸の扱い荷物の均衡を図るなど河岸の権利と利益を守った。
 現在、どこの河岸跡地も年々の洪水によって荒廃し、その姿を止めているものはない。
107 利根川 烏川 関東地方整備局 高崎河川国道事務所 聖石 舟運    聖石は、昔榛名山や赤城山が大噴火したとき泥流に乗って流れてきたものといわれている。弘法大師が、この石の上に立ったとの伝説から聖石と呼ばれている。江戸時代には、高瀬舟が烏川から利根川、江戸川と通じて江戸湾へ通った頃、船繋ぎ石として利用された。
109 利根川 烏川 関東地方整備局 高崎河川国道事務所 倉賀野河岸 舟運 16世紀代  利根川と烏川の合流点からおよそ12kmさかのぼった烏川の左岸に発達した。利根川を通じる烏川の船運は、江戸からの物資を内陸部へ運ぶとともに江戸文化を西上州や信州、そして越後へと伝える役割を果たした。
126 利根川 江戸川 関東地方整備局 江戸川河川事務所 江戸川の舟運 舟運 17世紀代  東北・北関東からの物資輸送は利根川江戸川を経由して江戸へと運ばれた。また、舟運の発達により江戸川沿川には醤油や味噌等の産業が発達した。
129 利根川 江戸川 関東地方整備局 江戸川河川事務所 矢切の渡し 舟運    現在、江戸川に残る唯一の渡し。最近の説によると14世紀後半には渡し場として存在していたという。
142 富士川 富士川 関東地方整備局 甲府河川国道事務所 富士川舟運 舟運    角倉了以によって通船が可能になった富士川は、その後明治期に至るまで回米、塩などの輸送に重要な役割を果たすことになり、隆盛を誇った。いわゆる富士川舟運のはじまりである。このような内陸水運は、わが国における交通史上の大きな転換期とされる近世初頭から明治中期にわたり物資輸送の主要な手段の一つとなった。
 富士川を上り下りする舟は「笹舟」あるいは「高瀬舟」と呼称された。その開鑿(かいさく)工事が難業であったことからもわかるように、岩石の多い急流用に工夫された構造を持ち、全体的に薄型で底は平板になっていた。この舟で三河岸から駿州岩淵まで下ったのである。
 下りはわずか6〜8時間であったが、帰りは4日を要したのである。急流を船首に立った船頭の竿一本で岩を避けながら一気に下るが、上りは人力で河原をさかのぼらなければならなかった。
156 信濃川 信濃川下流 北陸地方整備局 信濃川下流河川事務所 信濃川の舟運 舟運    信濃川における水運の歴史は古く、河舟の存在の記録は明応年間(1492〜1501年)に見出されるが、舟運が最も栄えたのは江戸時代から明治初期にかけてである。
 江戸時代における舟運の特徴は、新潟湊の発展と年貢米の移送に関連して系統立てられ整備されてきたことにある。明治7(1874)年に川汽船会社が設立され、蒸気船が半日ほどで新潟〜長岡を結ぶようになるなど舟運は盛んであった。しかし、昭和に入る頃には、鉄道をはじめとする陸上交通におされ河川舟運は衰退した。
 平成11(1999)年に、水上バス(不定期便)の運航が信濃川(新潟市万代島地先〜黒埼町山田地先)で始まるなど最近、舟運復活に向けての活動がある。
162 信濃川 信濃川 北陸地方整備局 信濃川河川事務所 十日町の舟運 舟運 17世紀代  江戸時代の年貢米運搬。
 一度に米200俵も積める大船があり、当時は信濃川の水量も豊富で条件の良いときは終点長岡まで3時間、帰りの引き船(川岸を人夫が引く)は3日もかかったと言われている。
 陸上交通が不便な時代に大量の荷を送る唯一の手段で当地方の人にとってはとても貴重なものだった。
 明治41(1908)年の魚沼橋完成と昭和2(1869)年に鉄道十日町線が開通すると急速に衰退。
168 信濃川 信濃川 北陸地方整備局 信濃川河川事務所 草生津の渡し 舟運 17世紀代  江戸時代に十数ヶ所あった信濃川の渡しのなかでも特に利用された。慶長10(1605)年の長岡城の移築によって蔵王から移され、当初は草生津(長岡市右岸)と対岸の大島(長岡市左岸)に渡し船が一艘ずつ置かれていた。現在は、長生橋がその役割を担っている。
172 信濃川 魚野川 北陸地方整備局 信濃川河川事務所 和南津の渡し 舟運 17世紀代  江戸時代の三国街道は長岡から川口宿までは信濃川右岸を通り、和南津で魚野川を渡って三国峠に向かう。
 幕府の佐渡金山関係者や参勤交代、大名・諸家が通るため、三国街道では唯一最大の渡し場として重要視された。
 渡し船は農業用の船とはちがい、馬船という大型。長さ約14m、敷巾約1.6m、深さ約3.6m上口幅約1.9m、馬が中に入っても見えないほどの大きさ。延享3(1746)年には渡し守が3軒、名子が4軒、人数は男15人、女17人がかかわる大規模の渡し場であった。大名行列が通過するときなどは近郊の村々から多くの人足が集められたという。
現在は、国道17号和南津橋がその役割を担っている。
199 関川 関川 北陸地方整備局 高田河川国道事務所 関川舟運 舟運 16世紀以前  関川での舟運の始まりは、中世の頃からとされており鉄道が開通する明治以前までは関川河口の直江津港から積み出す廻米を輸送するための大動脈となっており、廻米は西回り海運によって江戸・大坂へ輸送された。
 関川における川舟運航範囲は、河口から新井市田井・広島地先まで約16kmであり、その他、支川の保倉川、飯田川、潟川等でも運行されていた。新井市広島地先の五社神社に川舟の運航を示す船つなぎ石が残されており、上越市立水族博物館には舟運に利用されたドブネが保存展示されている。
243 手取川 手取川 北陸地方整備局 金沢河川国道事務所 流材 舟運 20世紀代  川の流れに沿って木材を流し運搬した。
277 手取川 手取川 北陸地方整備局 金沢河川国道事務所 粟生の渡し(舟場島の渡し) 舟運 17世紀代  手取川の渡舟は、慶長年間(1596〜1615年)において粟生駅問屋の所属として、手取川渡守という一団を設け渡舟は三隻配備して行われた。川の両岸間にロープを張り、それを操りながら舟を進める風景は明治21(1888)年10月6日に手取川に橋が架けられるまで続いた。川北町木呂場〜寺井町粟生。
278 手取川 手取川 北陸地方整備局 金沢河川国道事務所 湊ノ渡 舟運 19世紀代  明治初期まで手取川をわたって石川郡を往来するための渡舟の舟渡場。美川町湊。
279 手取川 手取川 北陸地方整備局 金沢河川国道事務所 灯台笹渡(明島の渡し) 舟運 19世紀代  明治初期まで手取川をわたって石川郡を往来するための渡舟の舟渡場。鶴来町明島〜辰口町灯台笹
280 手取川 手取川 北陸地方整備局 金沢河川国道事務所 和佐谷渡 舟運 19世紀代  明治初期まで手取川をわたって石川郡を往来するための渡舟の舟渡場。鶴来町〜辰口町和佐谷
281 手取川 手取川 北陸地方整備局 金沢河川国道事務所 広瀬渡 舟運 19世紀代  明治初期まで手取川をわたって石川郡を往来するための渡舟の舟渡場。鳥越村広瀬〜鶴来町中島
282 手取川 手取川 北陸地方整備局 金沢河川国道事務所 天狗壁ノ渡 舟運 19世紀代  明治初期まで手取川をわたって石川郡を往来するための渡舟の舟渡場。鶴来町天狗橋付近。
283 手取川 手取川 北陸地方整備局 金沢河川国道事務所 宮竹ノ渡 舟運 19世紀代  明治初期まで手取川をわたって石川郡を往来するための渡舟の舟渡場。川北町中島〜辰口町宮竹
284 手取川 手取川 北陸地方整備局 金沢河川国道事務所 三ツ口ノ渡 舟運 19世紀代  明治初期まで手取川をわたって石川郡を往来するための渡舟の舟渡場。川北町三反田〜辰口町三ツ口
285 手取川 手取川 北陸地方整備局 金沢河川国道事務所 岩内ノ渡 舟運 19世紀代  明治初期まで手取川をわたって石川郡を往来するための渡舟の舟渡場。川北町〜辰口町岩内
286 手取川 手取川 北陸地方整備局 金沢河川国道事務所 鉄索による河渡 舟運 19世紀代  川に鉄索を渡し、ロープを使って渡るもの。
287 手取川 手取川 北陸地方整備局 金沢河川国道事務所 小廻り船の運行 舟運 20世紀代  美川町永代町。明治時代には、物産を商った小廻り舟が運航しており、手取川河口部左岸が港であった。港から小舟に荷を降ろし、小舟で安産川の荷下ろし場に運んだという。
294 梯川 梯川 北陸地方整備局 金沢河川国道事務所 尾形船の運行 舟運 20世紀代  小松市安宅町及び天神町に発着場があり、屋形舟が運航していたという。
295 梯川 梯川 北陸地方整備局 金沢河川国道事務所 小廻り船(弁財船)の運行 舟運 20世紀代  梯川河口部左岸が港であり、物産を商った小廻り舟(弁財船)が運行していたという。
296 梯川 梯川 北陸地方整備局 金沢河川国道事務所 板船(川船)の運行 舟運 20世紀代  前川との合流部の右岸側には、稲揚場があったという。今江潟周辺の田から板船に稲を乗せ、稲揚場まで運行したという。
312 大井川 大井川 中部地方整備局 長島ダム管理所 飛航艇 舟運    明治時代までは、上下流の交流は引き舟によっていたが大井川は急流のため、代替案として、大正時代以後飛行機のエンジン・プロペラを備えた艇により舟運が行われた。
 島田市向谷〜川根町家山〜中川根町地名を結んで飛行艇が運行された。大井川鉄道の敷設によって廃止された。
 港を特定できる場所は現存している。
344 木曽川 木曽川 中部地方整備局 新丸山ダム工事事務所 錦織網場 舟運 16世紀以前  鎌倉時代から利用されていたようであり、大正12(1923)年に廃止された。
 木曽の山々から伐りだされた木材は、1本1本川に流され、この錦織網場にていったん集められ、筏に組まれ濃尾平野に運ばれた。
 網場の基礎となっていた川の中の岩場が現存している。
375 円山川 円山川 近畿地方整備局 豊岡河川国道事務所 舟運 舟運 19世紀代  円山川は、中川・下川において大いに舟運の便に利用されてきた。しかし、東と西(右岸と左岸)の村を分って、政治・経済・交通上などあらゆる面で生活の不便をもたらしてきた。このことは、昭和の代まで続いた。特に豊岡から下流においては、唯一の橋さえなく「渡し船」に頼っていた。城崎二見から豊岡赤石間の渡し、現結和橋間(城崎円山から結)の結渡し、現城崎大橋間(城崎今津から楽々浦)の今津渡しなどがあった。「二見渡し」だけが、玄武洞観光船として不定期ではあるが現在においても存続している。
383 大和川 大和川および支川 近畿地方整備局 大和川河川事務所 剣先舟、魚梁舟 舟運 17世紀代  慶長6(1601)年竜田藩主片桐且元が産米を大阪に運ぶため、軽舟を造らせたものが魚梁舟の起源。正保3(1646)年、魚梁舟よりやや大きい剣先舟の営業が許可される。両者は亀の瀬の狭窄部を境にして、前者は上流大和地方、後者は下流河内地方でそれぞれ活動した。
 主な活動範囲
 魚梁舟・・・・・・・・・…亀の瀬〜初瀬川(嘉幡、小島)〜寺川(今里、田原本)〜曽我川(但馬)〜飛鳥川(松本)〜佐保川(番條)。
 剣先舟(付替前)…京橋〜平野川〜石川(富田林)〜亀の瀬。
 剣先舟(付替後)…新大和川〜石川〜亀の瀬。
 鉄道の開通とともに衰退、消滅。
386 大和川 旧大和川および奈良県の支川 近畿地方整備局 大和川河川事務所 奈良〜平安時代の大和川の舟運 舟運 16世紀以前  奈良〜平安時代頃。
 この時代の明確な資料はないが、遣隋使等が水運を利用したと思えるなど陸上交通が主ではあったが、古くから水運を利用していた。板屋ヶ瀬(佐保川と初瀬川合流点付近)に国府の外港をおき、陸上交通とは一線を画していたと思われる。
 その後、魚梁舟等による舟運が盛んになる。
387 大和川 飛鳥川、佐保川、大和川 近畿地方整備局 大和川河川事務所 藤原京時代の飛鳥川の舟運 舟運 16世紀以前  持統8(694)年の藤原宮遷都に関連したもの。
 飛鳥川流域の地形的特性を藤原京造営と関連付して、その舟運、灌漑等について述べたもの。
 飛鳥川は河床が高くなり、水量も少なく、舟運はないが灌漑は今も行われている。
410 淀川 木津川 近畿地方整備局 木津川上流河川事務所 舟運 舟運 16世紀代  慶長元(1596)年。
 上野への遡航を最初に企てたのは、上野城主筒井定次といわれている。当時河川開発で名を知られた角倉了似を招き、丹波保津川と同様の舟路を開いた。兵糧その他を運ぶためであったといわれているが、詳しいことはわかっていない。(「当代記」第九)
411 淀川 木津川 近畿地方整備局 木津川上流河川事務所 遊船 舟運 20世紀代  明治以降、木津川の通船が絶えて久しかったが、昭和8(1933)年に島ヶ原村の旅館、鶴の屋の経営者松田亀治氏が、島ヶ原・大河原間の遊船の営業をはじめた。また、大河原から下流でも昭和11年から「木津川ライン」と銘打った遊船が、北大河原の川下健太郎氏によって始められた。
413 淀川 木津川 近畿地方整備局 木津川上流河川事務所 渡し 舟運 16世紀以前  中世の奈良街道は長田の木根で川を船で渡り、射手明神を経て、島ヶ原に出る道があった。「源平盛衰記」に出てくる源義経が通った道を「伊賀旧考」ではこれを鎌倉街道と称している。
426 淀川 名張川 近畿地方整備局 木津川上流河川事務所 いかだ 舟運 16世紀以前  名張川のいかだ流しは奈良時代にはじまった。当時の運送技術では、いかだの便にめぐまれた山林地帯がまず木材の供給地として利用された。平安時代には公領を流れる川を運行するいかだに国衛は津料という一種の関税を徴収するようになった。この津料をめぐっては東大寺と興福寺が名張川で悶着をおこしたケースが記録に残っている。
436 淀川 淀川 近畿地方整備局 淀川河川事務所 三十石船 舟運 18世紀代  三十石船は、大きさについては、長さ17m・幅2.5mの小船で、船頭4人、船客の定員は28人であった。船乗場は、伏見には京橋等の4ヶ所、大坂には八軒屋等4ヶ所であった。この伏見・大坂間を下りは半日または半夜で大坂まで、上りは1日または1晩で伏見まで行ったという。
437 淀川 淀川 近畿地方整備局 淀川河川事務所 くらわんか船 舟運 18世紀代  くらわんか船は、枚方を通過する三十石船に漕ぎ寄せて、いろいろなものを売った。茶船は船客の貴賤を問わず、「・・・酒くらわんか、ごぼう汁くらわんか、ぜにがないでようくらわんか」などと罵っては飲食物を売ったので「くらわんか船」の名を生じ、枚方の名物であった。
442 淀川 猪名川 近畿地方整備局 猪名川河川事務所 量り岩 舟運 19世紀代  その土地の人々は古くから川が増水の時、この石を見て水かさを知る目安としていた。
 一方、奥川辺地方では木材の運搬に猪名川が利用されていた。明治時代の材木流しの方法はバラ流しと筏流しとがあったが、バラ流しは猪名川通船に危険を与えるため、下流では筏流しのみとされており、紫合の量り岩は県指定のバラ流しから筏流しへの切替地点だった。
 また、材木流しは川筋の井堰保護の観点から、増水位(約0.45m)を目安に認められていた。紫合の量り岩は、洪水の時だけでなく木材流しの目安となる増水位を量っていたのではないかといわれている。
 現在も紫合橋から量り岩を見ることができる。
446 加古川 加古川 近畿地方整備局 姫路河川国道事務所 加古川の舟運 舟運 16世紀代  文禄3(1594)年流域の大名木下家定が奉行主駒玄藩に命じ、舟運のための開削事業実施。
 加東郡河高村の阿江与助が工事を担当(工事の規模不明)。慶長9(1604)年阿江与助、西村伝入斉が協力し、河口より丹波国成松(氷上郡氷上町成松)まで高瀬舟の水路を開いた。
 現在、陸路が整備され、大正2(1913)年高瀬舟は姿を消す。加東郡滝野町上滝野地先加古川右岸、阿江与助の銅像あり。
447 加古川 加古川 近畿地方整備局 姫路河川国道事務所 加古渡し 舟運 8世紀代  古くは鹿子の渡しといい、山陽道における加古川の渡しであった。
 加古渡しは、元山陽本線下流50mの位置にあったが、後、130m下流へ、更に江戸明治にかけては現在の加古川橋(旧国道2号)へと変わっていった。
 現在は、旧国道2号加古川橋が架橋され、右岸側に加古川市米田町船頭の地名を残す。
449 揖保川 揖保川 近畿地方整備局 姫路河川国道事務所 揖保川の舟運 舟運 17世紀代  元和7(1621)年に龍野屋孫兵衛が河口網干より山崎町出石浜まで水路を開き、高瀬舟を通じた。
450 揖保川 揖保川 近畿地方整備局 姫路河川国道事務所 寝釈迦の渡し 舟運    古くから京、大阪方面より播磨国を経て美作国に通じる唯一の街道筋で、揖保川の渡船場として栄えた。
 この渡しを過ぎて振り返ると南西の山並が釈迦の寝姿にそっくりなところから、寝釈迦の渡しと呼ばれるようになった。上流に嘴崎橋が架橋され、現在は何も残らない。
465 旭川 旭川 中国地方整備局 岡山河川事務所 高瀬舟 舟運 16世紀代  備前と美作を結ぶ舟運航路は、豊臣時代岡山藩主宇喜多秀家の頃と言われる。高瀬舟は平太船を改造して浅瀬を自由に上り下りできるようにしたもので、美作地方の米穀、薪炭や、備前地方の塩、日用雑貨の往来を支えた。明治になり、船番所の廃止により最盛期を迎えたが、鉄道の開通と自動車の普及とともに姿を消した。
468 吉井川 吉井川 中国地方整備局 岡山河川事務所 高瀬舟 舟運    かつて吉井川には高瀬舟が運航し、筏も流されて、重要な交通路の役割を果たしていた。
 輸送は物資のみでなく、旅客の輸送も行っていた。運ばれた物資は、移出物としては米をはじめとする農作物、移入物としては塩ブリ等の海産物などが主であった。
 高瀬舟の発着する河岸付近には、それぞれ常夜灯が設けられており、航路の安全祈願と同時に、着船の目標となっていた。
 現在も所々に石灯籠など物語る風景が川辺に見られる。
475 高梁川 高梁川 中国地方整備局 岡山河川事務所 水江渡し 舟運 17世紀代  船穂町水江と倉敷市西阿知を結ぶ渡船。江戸時代から鴨方往来の高梁川を渡る交通手段として利用されていた。
 現在も運行している。
488 太田川 太田川 中国地方整備局 太田川河川事務所 舟運 舟運 16世紀以前  平地が少なく、陸上交通が発達しにくい状況にあった太田川流域では、大量輸送機関として太田川を利用した舟運が発達した。舟運がいつごろから開始されたかは明らかではないが、12世紀中頃、当時の広島湾頭にあたる祇園町下安や長束付近に、内陸の荘園の倉敷地が設置された記録があり、年貢はまず陸路輸送され、太田川中流域で舟に積まれ、河口の倉敷地へ運ばれたものと考えられる。
 毛利時代には広島城下から可部あたりまでの舟運が通じており、広島城築城の際にも建築資材の輸送に大きな役割を果たした。江戸時代に入ると広島城下と領内(芸北地域)を結ぶ動脈として、上流に向かって開発が進められ、ほぼ全域にわたって舟運が展開された。
491 太田川 旧太田川 中国地方整備局 太田川河川事務所 雁木(がんぎ) 舟運 18世紀代  太田川流域は、山がちで平地が少なく陸上交通の発達しにくい地形であったため、近世を中心に大量輸送機関として、舟運が発達しました。この楠木町を含むデルタ部の河岸は、江戸時代から昭和の初めにかけて太田川の舟運で特に栄えた地域で、オオブネや肥船(こえぶね)、広島湾岸部域から小さな機船も一部入り、他方、筏流しも往来し、当地でも荷揚げ作業をする人たちでにぎわいをみせていました。
 当時の主な荷物は、薪炭・鉄・紙・枕木材(明治以降)等で、荷揚げ場は雁木と呼ばれ、船着き場に階段をつけた桟橋が利用されていました。
 雁木は、現在でも太田川のデルタでわずかに見ることができます。なかでも明治の中頃になって改修された楠木の大雁木はとりわけ大きく、戦前までは横川駅から引き込み線も敷かれ、舟運の一中心であった当時を物語っています。
495 小瀬川 小瀬川 中国地方整備局 太田川河川事務所 木野の渡し場 舟運 17世紀代  『佐伯郡廿ヵ村郷邑記』に、木野村渡し場つなぎ石について「元和10(1624)年郡夫にて調う」とあります。文献などに基づいて昭和57(1982)年1月に渡し場付近を試掘したところ西国街道(旧山陽道)から続く石敷護岸道路の端から、石段と石敷スロープが発掘されました。
 当時は、川幅22m、水深1.4mの所を、木野、小瀬両村から2人1組で渡し守りが出て、船渡しをしていました。
513 吉野川 吉野川 四国地方整備局 徳島河川国道事務所 岩津の石灯籠(舟運のための常夜灯) 舟運    岩津は、池田・徳島間のおよそ中間に位置し、川幅の最も狭いところであり、監視所としては最適の地である。この灯篭は灯台の役目をした。藩ではここに御分一所(税関のようなもの)を設け、水上輸送する筏や船の監視をさせるとともに流道税の取立業務をさせた。水上輸送は、所要時間と安全性に多少の難はあるが、陸路より遙かに便利なため、物質の輸送はほとんどがひらだ舟と呼ばれる扁平な船(川の浅瀬の運航に好都合)によっており、産業発展に伴い、吉野川は上下する船や筏でにぎわったことと思われる。
524 那賀川 那賀川 四国地方整備局 那賀川河川事務所 筏流し 舟運 16世紀以前  室町時代より行われており、明治37(1904)年に那賀川運材業組合がつくられ最盛期を迎えたが、昭和27(1952)年の長安口ダム工事着工により行われなくなった。
 上流の豊かな木材(杉)を効率よく下流へ運ぶため、最盛期には年間4,000杯もの筏が上那賀川町谷口土場より古庄・中島の製材所まで運ばれていた。
526 那賀川 那賀川 四国地方整備局 那賀川河川事務所 高瀬舟 舟運 17世紀代  元禄年間(1688〜1704年)より昭和25(1950)年まで那賀川の交通を支えた。
 上那賀川町谷口〜那賀川町中島までの河港21ヶ所で往復4日の行程で就航していた。トラック運送が発達したことにより高瀬舟は姿を消した。
527 那賀川 那賀川 四国地方整備局 那賀川河川事務所 八貫の渡し 舟運    渡し船についての起源は明らかではないが、橋梁完成により消滅した。
 かつては土佐本街道であった「渡し」で名前の由来は、阿波藩政治代に重要路線として御分一所(税関)を設け、8貫匆の収入があったことによる説と、下大野の清水氏の先祖に当たる人が銭8貫匆を藩に上納して、この権限を一切引き受け、8貫匆以上の上がり金は自分の所得になることから、この名称が生まれたという。
 さらには、また河床が埋塞するのでするので川浚え費が8貫匆要ったからという説もある。
 現存しない。
533 那賀川 那賀川 四国地方整備局 那賀川河川事務所 川浦の吊舟(野猿) 舟運    横石橋の上流1km付近にあった吊舟。定員3名で自転車のペダルをこいで対岸まで渡った。現存しない。
537 重信川 重信川 四国地方整備局 松山河川国道事務所 重信川渡し 舟運 19世紀代  昔、松山と南予を結ぶ道路は、重信川にさしかかると渡し船を利用せねばならなかった。数名の人が権利株を持ち、3人ほどの船頭を雇い運営していた。
 明治20(1887)年には、営業規則ができていた。
 重信川渡しは、塩屋渡し・北川原渡し・出合渡し・大間渡し・中川原渡しの5ヶ所であった。
 重信川渡し跡には、松前町教育委員会により渡し跡を示す木杭が立てられている。
544 肱川 肱川 四国地方整備局 大洲河川国道事務所 舟運・いかだ 舟運    肱川は、昭和初期まで大洲地方の重要な交通輸送路で、「水のみち」として川舟や筏が往来していました。
 明治から大正時代にかけて、肱川沿いには大小あわせて40余りの河港があり、200艘以上の川舟がおかれていたということです。それらの港(船着場)に立ち寄りながら、川舟は地域の特産物や生活物資、時には人を乗せて、川を行き来しました。また、木材や竹などは筏を組んで川を流し、肱川河口にある長浜は、「伊予の小丸太」として、日本三大木材集積地の一つといわれていました。
548 物部川 物部川 四国地方整備局 高知河川国道事務所 神母ノ木の渡し 舟運 18世紀代  土木技術の発達が未熟な藩政時代、時として大洪水となり、荒れ狂う大河に橋を架けることは至難の技であり、上流部の葛橋は別として、下流にも恒久的な橋らしいものはなかった。そのため、水流の静かな時は渡舟が利用され、両岸の交通を可能にしていた。特に神母ノ木の渡しは交通の要衡であった。
 上流(距離標10K地点)に香我美橋ができたため、その役目を終え、昔の面影を残すのみとなった。
549 物部川 物部川 四国地方整備局 高知河川国道事務所 町田の渡し 舟運 19世紀代  主に対岸の学校に通うための通学路としてつい最近まで利用されていた。
 下流200m付近に、町田橋ができたため、その役目を終えて、昔の面影を残すのみとなっている。
550 物部川 物部川 四国地方整備局 高知河川国道事務所 十善寺の渡し場 舟運 17世紀代  当時の場所は現在工事中の土佐くろしお鉄道の物部川橋梁部付近と思われるが、旧県道の橋脚の残骸が露頭しており、昔の面影はない。
556 物部川 物部川,舟入川 四国地方整備局 高知河川国道事務所 物部川〜舟入川の荷船 舟運 17世紀代  山田堰設置に伴い開削した舟入りは、灌漑用水路としてだけでなく、物部川上流域からの木材や生活物質の輸送路としても大いに活用された。
 船は物部川の急流に合うように底の浅いヒラダ船で、米の場合なら20石程度積載可能な大きさで、神母ノ木までのものと高知城の下まで行くものがあった。高知船は神母ノ木からは10隻程度の船団を組んで下っていき、帰りは曵網を利用しての遡行が主であった。材木の場合は流木と筏流しの2種類があり、高知への輸送はほとんどが筏に組んでの流しが行われていた。
 現在、山田堰は撤去され、取水口も塞がれており、合同堰からの取水された農業用水路として南国市中心部から下流は生活雑排水の水路と変ぼうしており、昔の面影はない。
575 遠賀川 遠賀川 九州地方整備局 遠賀川河川事務所 川ひらた 舟運 16世紀以前  朱鳥元(686)年、嘉麻(かま)郡碓井(うすい)郷50戸は、鞍手郡金生(かのう)郷などと太宰府観世音寺の財政を支える封戸となった。観世音寺は12世紀には、火災・倒壊等で東大寺の末寺になった。碓井封の貢物は遠賀川を下って芦屋で積み替えられ、京都の淀に送られ東大寺に納入された。このとき使われた川舟が川ひらたである。
 遠賀川や堀川の改修は流域の石高を増加させたばかりでなく、船で物資を運ぶ舟運を発展させた。堀川では年貢米、石炭、蝋燭の原料であるハゼの実や材木が運ばれ天保13(1842)年には通船数が9,648隻を数えた。遠賀川では石炭はもちろんのこと、伊万里焼も運ばれ芦屋で中継され各地に運ばれた。舟運には水深の浅い遠賀川に合わせて川ひらたという底の浅い船が使われた。この船は「五平太船」とも呼ばれていた。その由来は、藩主の用船である「ひらた」に敬意を表す意味で御の字をつけたことに始まる。
 遠賀郡芦屋町の歴史民俗資料館に保存されている「川ひらた」は船ダンスや水瓶、かまどをそなえたもので、川と人の暮らしとの深い関わりを偲ばせてくれる。
577 遠賀川 遠賀川 九州地方整備局 遠賀川河川事務所 渡し 舟運    遠賀川の交通には渡し舟もあった。江戸時代以前は、飯塚以北は橋梁がなく渡し舟で渡河していた。長崎街道は、遠賀川の赤地店屋渡し(現小竹町)と彦山川の下境店屋渡し(現直方市)の2ヶ所で渡っていたが、元文元(1736)年から頓野口渡し(現直方市)に変更された。
 長崎街道は、長崎から江戸へ異国の産物と文化を運ぶ、華やかなシルクロードともいうべき道であった。参勤交代の諸大名、オランダ、長崎奉行等の行列が続き、その他文人、墨客、医師、留学生、商人、芸人等多彩な顔ぶれがこの街道を上り、下った。小竹より直方に至る街道は二つあり、これは直方藩が在藩中は外様大名が城下町を通行することを禁止したためである。その一つが赤地店屋渡し・下境店屋渡しである。
 明治39(1906)年から大正8(1919)年にかけての遠賀川1期改修工事により消失した。
607 筑後川 筑後川 九州地方整備局 筑後川河川事務所 渡し 舟運 16世紀代  筑後川は、肥前国・筑前国、筑後国との国境線であり、軍事境界線として国防上の問題により架橋できなかったため、両藩の人々は生活上の必要性や神社仏閣への参詣などのため川を渡る必要があった。
 渡しは、生活上の重要な輸送手段として、古川・神代・宮ノ陣・大石(豆津)などの旧藩内三大渡しを始め、多くの渡しが行われていた。最盛期には62カ所もの渡し場があったが、各地で橋が架けられるようになり、平成6(1994)年に下田の渡しを最後にすべてが役目を終えた。
613 筑後川 筑後川 九州地方整備局 筑後川河川事務所 筏流し 舟運 18世紀代  陸上交通の不便な時代に水運は最も身近な交通機関であった。このため、舟運は、水上交通及び大規模な物資運搬を目的とした交通手段として利用されていた。
 筏流しは、江戸時代から明治、大正にかけて、日田の木材を筏に組んで、木工の町現在の大川市や久留米市等に運んでいた。さらに大正時代には製材したものを舟で運搬していた。これにより、木材の集積地であった大川市で木工業が発達した。昭和29(1954)年に完成した夜明ダムにより、陸上交通に切り換えられた。
627 菊池川 菊池川 九州地方整備局 菊池川河川事務所 俵ころがし 舟運 16世紀代  旧高瀬港では、川舟による交流があり、有名な菊池米の集産地としてまた、対外貿易の拠点として栄えました。
 舟に米を積み込む場所で、俵を転がす石積みの坂路が残っている。(玉名市文化財にも指定)
 現在、その名残が「俵ころがし」と呼ばれる、石畳の坂道の船着場跡が残っている。
714 大野川 大野川 九州地方整備局 大分河川国道事務所 舟運 舟運 18世紀代  江戸時代の諸小藩の分立は、大野川流域をも小地域に分断する結果を生んだ。上流域ならびに中流域左岸は、竹田・岡領(中川藩)として、中流域右岸は臼杵領(稲葉藩)に属し、上流北端の久住は肥後領(細川藩)の飛び地であった。そのため、熊本からの参勤交代のための飛び地であり、河口は鶴崎港として栄えた。
 上記のほか、河口域には岡領の飛び地あり、臼杵領の飛び地もあり、また(日向の)延岡領の飛び地さえ見られ、天領も存している。
 このような河口域の複雑な状況は、参勤交代のための「港」が必要だからであるが、このことが河口域の村々をして、船手・水夫の村として特色付けるに至っている。
 近年は、陸上交通の進展に伴い、河川の交通は少なく河口部は大分臨海工業地帯の中心をなしている。
722 大野川 大野川 九州地方整備局 大分河川国道事務所 岩戸渡し 舟運 19世紀代  「豊後国志」には「緒方郷岩戸村にあり」とある。清川村誌には、犬飼〜岩戸間約25kmの通船開始は明治6(1873)年で、岩戸には大野川通船会所が設けられ、同会所が岩戸から対岸の徳尾にわたる渡し場であったとある。
 現存しない。
755 五ヶ瀬川 五ヶ瀬川 九州地方整備局 延岡河川国道事務所 豊後口渡し 舟運    豊後口渡しは、左岸の北小路と右岸の本小路をつなぐ渡しであった。現在は、昭和38(1963)年12月に建設された亀井橋が架かっている。
767 川内川 川内川 九州地方整備局 川内川河川事務所 川内川の舟運 舟運 16世紀代  川内川の舟運は、天保14(1843)年川内から宮之城まで開けていたが、宮之城より上流は宮之城轟や神子轟に遮られて舟を通ずることができなかった。当時、伊佐地方の農民は、大口から宮之城までの約40kmもの山道を人力や馬などを使い、年貢米を運んでいた。この窮状を見た堀之内良眼坊は、藩主を説得し、各地から石工を集め工事を行った。これにより、曽木の滝下から宮之城までの舟運が可能となった。「天保の川添い」と呼ばれている。
772 肝属川 肝属川 九州地方整備局 大隅河川国道事務所 渡し船 舟運 20世紀代  昭和初期の大水害で橋が流されたりした場合、橋ができるまでの代替として渡し船が存在した。橋が存在した箇所には、橋が流出した場合にはすぐに両岸の人が話し合い、それぞれの箇所で渡し船を設置した。




Copyright© 2007 MLIT Japan. All Rights Reserved.

国土交通省 〒100-8918 東京都千代田区霞が関2-1-3

アクセス・地図(代表電話)03-5253-8111