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河川局


日本の河川技術の基礎をつくった人々・略史



 人物−1

人物名称 行基(ぎょうき)
活躍年代 奈良時代 地域 近畿地方

 行基は、奈良時代に活躍した僧侶。仏教の教えをもとに、救済事業をすすめ、近畿地方に洪水対策の施設や用水確保のため池などを造った。昆陽池(こやいけ)や狭山池(さやまいけ)などのため池は、幾たびかの改修を経て現在でも利用されている。
 なお、行基は多くの寺や橋などを建設するとともに、最初の日本全図を作成したと言われている。



 人物−2

人物名称 和気清麻呂(わけのきよまろ)
活躍年代 奈良時代 地域 近畿地方

 平城京末期から平安京初期に主に、土木事業の責任者として活躍した人物。
和気清麻呂は、宝亀5(774)年に国造(くにのみやつこ)となり、土木事業の長官を勤め、延暦2(783)年に摂津職(せっつのかみ)となり、現在の大阪一帯を整備し、大和川放水路の開削(途中で中断)などをおこなった。その後、平安京(現在の京都)造営の責任者となり、鴨川の付け替えなどもおこなっている。



 人物−3

人物名称 空海(くうかい)
活躍年代 平安時代 地域 近畿・中国・四国地方

 空海は、遣唐使として、仏教を勉強するため延暦23(804)年に中国へ渡り、日本へ真言密教を伝来した僧侶。
 空海は仏教の教えに従い、人々の苦しみを救うため数多くの土木事業を行った。特に、弘仁12(821)年に手掛けた讃岐国(香川県)の満濃池(まんのういけ)の堤防建設は代表的な事業である。
 また、唐(中国)から井戸掘り技術を持ち帰り日本で普及させたと言われている。



 人物−4

人物名称 武田 信玄(たけだ しんげん)
活躍年代 安土桃山時代 地域 甲斐(山梨県周辺)

 武田信玄は甲斐国(現在の山梨県周辺)の領主で、周辺諸国と戦いながら、領地の治水事業を積極的におこなった武将。
 代表的な治水事業に、甲府盆地を流れる釜無川(かまなしがわ)と御勅使川(みだいがわ)の合流部の改修工事があげられる。この工事は、一般に信玄堤と呼ばれ、「自然の力を利用して川をおさめよう」とする考えのもと、堤防、分水、霞堤(かすみてい)、遊水機能などをもつ総合的な治水技術が用いられた。
 また、堤防上に神社を設け、祭りを開催し人を集め、堤防を踏み固めさせるなどの工夫をおこなったとも言われている。
 なお、信玄堤以外にも、笛吹川(ふえふきがわ)の万力林(まんりきばやし)の整備など他にも治水事業を残している。



 人物−5

人物名称 佐々 成政(ささ なりまさ)
活躍年代 安土桃山時代 地域 越中(富山県周辺)

 佐々成政は織田信長の家臣で、1580年頃に越中(富山県周辺)を治めた武将。
 越中には、常願寺川・神通川などの急流河川があり、水害が多かった。そこで、成政は治水事業に力を注ぎ、常願寺川に堤防を築いた。
 この時に築かれた堤防は、「佐々堤(ささてい)」と呼ばれ、現在でもその姿の一部をみることができる。



 人物−6

人物名称 豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし)
活躍年代 安土桃山時代 地域 近畿地方

 豊臣秀吉は、織田信長の家臣として台頭し、土木技術を巧みに活かした戦法、築城を得意とし、様々な土木施設を手がけた人物。
 特に、大阪城の築城では、周辺地域の新田開発と洪水防御のために、淀川に太閤堤(たいこうづつみ)や文禄堤(ぶんろくてい)等を築き淀川の流路を固定させた。
 なお、これ以外にも多くの治水事業等に携わり、土木技術を飛躍的に発展・普及させた。



 人物−7

人物名称 伊奈 忠次(いな ただつぐ)
活躍年代 安土桃山時代〜江戸時代初期 地域 関東平野

 伊奈忠次は、徳川家康から関東地方を治める代官として任命され、治水、かんがい工事を進め関東平野の積極的な開発を実施した人物。なお、伊奈一族は忠次より十代・200年に亘って、代官頭・関東郡代(幕府の役人)を努め、関東の治水事業や農地開発に携わった。
 伊奈一族は、 文禄3(1594)年から承応3(1654)年にかけて「利根川の東遷(とうせん)」と呼ばれる利根川の付け替えを行い、江戸湾(東京湾)に流れていた利根川の本流を千葉県銚子市地先に付け替えた。この事業は、江戸までの舟運路の確保、江戸周辺の洪水防御などを目的として行われ、現在の利根川の姿の基本をつくった工事であるといわれている。
 なお、伊奈一族が伝えた河川技術は、伊奈流あるいは関東流と呼ばれている。



 人物−8

人物名称 加藤 清正(かとう きよまさ)
活躍年代 安土桃山時代〜江戸時代初期 地域 肥後(熊本県周辺)

 加藤清正は、豊臣秀吉の家臣で肥後(熊本県)の熊本城主となった武将。
 清正は、肥後国内の白川、緑川、菊池川などの治水・利水事業に力を注いだ。
 白川では、熊本城下の町づくりと合わせ、河川を付け替えるなどの大きな事業を展開した。また、白川流域は阿蘇山の土砂が多く流れてくることから、かんがい用水路には水の勢いで土砂が自動的に浚渫される「鼻繰(はなぐり)」と呼ばれる仕組みを設けた。
 緑川では、「乗越(のりこし)堤」と言われる越流堤や、河川合流部に設けた「轡塘(くつわとも)」などの治水工法を残した。
 菊池川では、治水や利水だけでなく、河川舟運に関する施設を残した。



 人物−9

人物名称 黒田 長政(くろだ ながまさ)
活躍年代 安土桃山時代〜江戸時代初期 地域 筑前(福岡県)

 豊臣秀吉の家臣・黒田官兵衛の子で、徳川幕府成立後も筑前(福岡県)を治めた武将。
 黒田長政は、領国経営の重要課題であった遠賀川の改修を、二つの川筋を一本にまとめるとともに、遠賀川筋の中間から洞海湾へ人工の水路(堀川)を通すことで、洪水防止、灌漑用水の確保・新田開発・物資の輸送が可能になると考えていた。
 そこで、元和7(1621)年に考えを実行に移したが、長政の死去や藩財政の悪化等により工事は中断された。その後、宝暦元(1751)年に六代藩主継高により再開され、宝暦12(1762)年に完成した。



 人物−10

人物名称 片桐 且元(かたぎり かつもと)
活躍年代 安土桃山時代〜江戸時代初期 地域 近畿地方

 豊臣秀吉の家臣、奉行として大阪周辺を治めた武将。
 片桐且元は、文禄5(1596)年に地震により堤防が崩壊した狭山池の大改修を慶長13(1608)年に行った。改修では、溜池の面積を広げ、築堤し、尺八樋を設置した。
 また工事後も溜池及び樋の管理の役人を配置し、貯水を有効利用するため配水地区と時間をきめた水割符帳を定め、狭山池の管理・運営の基盤を築いた。



 人物−11

人物名称 成富兵庫茂安(なりどみひょうごしげやす)
活躍年代 江戸時代初期 地域 佐賀藩(佐賀県周辺)

 成富兵庫茂安は、肥前(佐賀県)に生まれ佐賀藩主・鍋島氏に家老として仕えた人物。彼がおこなった土木技術は高く評価されており、佐賀平野の地形を考慮した複雑な水利システムの開発を行った。12年の年月をかけた筑後川の千栗堤(ちりくてい)や嘉瀬川(かせがわ)の石井樋(いしいび)の建設などが代表的な事業である。
 また、城づくりも手がけ、熊本城や大阪城、名護屋城の築城に貢献したともいわれる。
 なお、佐賀県の北茂安町や兵庫町にその名前が地名として残っている。



 人物−12

人物名称 川村孫兵衛重吉(かわむらまごべえしげよし)
活躍年代 江戸時代初期 地域 仙台藩(宮城県)

 川村孫兵衛重吉は、伊達政宗のもと、普請奉行(ふしんぶぎょう:土木事業担当役人)として北上川、迫川、江合川の三川を合流させ、河口を石巻に付け替える工事を行った人物。
 工事にあたり、藩の財政を考慮し、領内の富豪から工事費を借り入れるなど、工事推進のための費用調達にも力を注いだ。
 また、川村孫兵衛重吉の考えは、その後も引き継がれ、北上川と阿武隈川を結ぶ運河整備など明治初期までつづく土木事業となった。



 人物−13

人物名称 野中 兼山(のなか けんざん)
活躍年代 江戸時代初期 地域 土佐藩(高知県)

 野中兼山は、土佐藩の奉行として藩財政再建のため、新田開発や地場産業の発展を積極的に進めた人物。
 新田開発のために治水や利水事業を進め、その中でも物部川(もののべがわ)に設置された山田堰(やまだぜき)は、25年の歳月をかけ建設された。その他にも仁淀川(によどがわ)には八田堰(はたぜき)などを建設した。
 また、土佐藩は大阪、江戸との海路を確保するため、津呂港(つろこう)、室津港(むろつこう)など港湾の開発も行った。



 人物−14

人物名称 河村 瑞賢(かわむら ずいけん)
活躍年代 江戸時代初期 地域 大阪、太平洋・日本海沿岸など

 河村瑞賢は、江戸で土木請負人・材木商などを営んだ人物。
 数々の土木事業に関わり、治水事業としては、大阪の淀川治水事業が有名である。この事業は、淀川下流の水はけを良くするために、新川(安治川)の開削を行った。
 なお、河村瑞賢は、東廻り航路(青森〜仙台〜江戸の海運航路)、西廻り航路(山形〜下関〜大阪〜江戸の海運航路)を開いた人物として知られている。



 人物−15

人物名称 角倉 了以(すみのくら りょうい)
活躍年代 江戸時代初期 地域 京都、駿河(静岡県)

 角倉了以は、朱印船貿易と河川土木事業で活躍した京都の商人で、貿易などで蓄えた資産で河川舟運のための航路開削を手がけた人物。
 慶長11(1606)年に京都の大堰川(保津川下流)の開削工事をはじめ、その後京都市内を流れる鴨川に並行して京都から伏見に至る高瀬川を開削。これらの開削により、淀川を通って大阪につながる水上交通路が開け、荷物を運ぶ舟の往来が盛んになった。
 また幕府に命じられ、山梨の富士川の舟運路を5年かけて開削し、慶長17(1612)年頃には、富士川の舟運が盛んになった。



 人物−16

人物名称 熊沢 蕃山(くまざわ ばんざん)
活躍年代 江戸時代初期 地域 岡山藩(岡山県)

 熊沢蕃山は、岡山藩に仕えた陽明学者。軍事、教育、民政など藩政の全般に携わり、治山・治水・飢饉対策で功績をあげた人物。
 治水としては、岡山城下の大洪水を踏まえ、旭川から分水するための放水路(百間川)整備を計画提案した。この提案は、その後18年あまりの年月を経て工事され、完成した百間川は3段階の荒手(あらて)と呼ばれる越流堤(えつりゅうてい)を設けたものであった。
 また、蕃山は山林政策にも携わり治山・治水・利水などのために植林事業を行った。



 人物−17

人物名称 古郡孫大夫重政(ふるごおりまごだゆうしげまさ)
活躍年代 江戸時代初期 地域 駿河藩(静岡県)

 駿河藩の代官として、加島平野(現:静岡県富士市)の開発を行った人物。
 古郡孫大夫重政は、加島平野を富士川の洪水から防ぐために、親の代(元和年間・1615〜1623)から始まった雁堤(かりがねてい)の築造を受け継ぎ、「出し(水制)」と約1600mに及ぶ堤防を整備した。
 重政の死後、その築造は、子に引き継がれ延宝2(1674)年に長さ約2700mの堤防が完成した。親子三代におよぶ大事業であった。



 人物−18

人物名称 板屋 平四郎(いたや へいしろう)
活躍年代 江戸時代初期 地域 加賀藩(石川県)

 板屋平四郎は、三代藩主前田利常の命を受け、金沢城下の飲料水と防火用水を確保するための辰巳用水開削の責任者となった人物。
 寛永9(1632)年に工事が開始され、犀川に取水口を設け12qの水路を完成させた。なお、辰巳用水は、トンネル・水路・伏越(全長約1km、水位差3.4m)など、当時の優れた技術が集約されて整備された。



 人物−19

人物名称 玉川兄弟(たまがわきょうだい)
活躍年代 江戸時代初期 地域 江戸(東京)

 庄右衛門(兄)、清右衛門(弟)の兄弟で、玉川上水の工事を担当した人物。
 江戸幕府は、承応2(1653)年江戸市街の上水確保のため、多摩川から取水を計画し、玉川兄弟に水路開削工事を命じた。
 玉川兄弟は、羽村(羽村市)から四谷まで約52kmの水路を8ヶ月の工期で開削した。
 その後、幕府は上水開削の功績から、兄弟に「玉川」の名字と上水役(管理人)の職を与えた。



 人物−20

人物名称 井沢弥惣兵衛為永(いざわやそべいためなが)
活躍年代 江戸時代中期 地域 紀州藩(和歌山)、日本各地

 井沢弥惣兵衛為永は、紀州藩で新田開発事業等に従事した後、八代将軍になった徳川吉宗に招かれ幕府に登用された人物。
 琵琶湖沿岸の新田検地や淀川の築堤などに従事するとともに、関東では、見沼干拓事業(みぬまかんたくじぎょう)や江戸川の改修事業など指揮した。さらに、宝暦治水(ほうれきちすい)として有名な木曽三川分流計画の基本を立案した。
 なお、井沢弥惣兵衛為永が伝えた河川技術は、伊奈氏の「関東流」に対して「紀州流」と呼ばれている。



 人物−21

人物名称 平田 靱負(ひらた ゆきえ)
活躍年代 江戸時代中期 地域 中部地方

 幕府が、薩摩藩に木曽三川の御手伝普請を命じた時、薩摩藩の責任者として派遣された人物。
 この御手伝普請は、三川が氾濫する地域を治めるもので、宝暦4(1754)年に着工し様々な困難があったが、「油島締切り工事」「大槫川洗堰工事(おぐれかわあらいせき)」などの難工事を完成させた。
 しかし、工事では、自刃・病没などにより八十余名が犠牲となり、平田自身も工事達成後に切腹した。



 人物−22

人物名称 田中 丘隅(たなか きゅうぐ)
活躍年代 江戸時代中期 地域 江戸(東京)、相模(神奈川)

 川崎宿の名主であったが、還暦を過ぎてから幕府に登用され、河川改修に従事した人物。
 田中丘隅が河川・土木の勉強を始めたのは50歳を過ぎてからであり、学者に学び、民衆の視点で治水などについて意見した「民間省要(みんかんせいよう)」が、幕府に認められ、「川除御普請御用(かわよけごふしんごよう)」として、61才で幕府に登用された。
 その後、享保9(1724)年から荒川や多摩川の改修工事、二ヶ領用水・大丸用水の改修工事、相模国酒匂川の改修工事をおこなった。



 人物−23

人物名称 船橋 随庵(ふなばし ずいあん)
活躍年代 江戸時代後期 地域 関宿藩(千葉県)

 船橋随庵は、関宿藩の奉行で農地開発や水路開削をおこなった人物。
特に、天保8(1837)年の飢饉を受け、利根川沿岸の湿地・泥沼の干拓を農民と協力して完成させ、新田開発に従事した農民らに新田を均一配分するなどの政策を実施した。
 なお、嘉永3(1850)年には、水害防御・新田開発のため、関宿城から野田までの約20kmに及ぶ関宿悪水落堀(せきやどあくすいおちほり)を開削。この水路は現在も農業用水路および排水路として利用されている。



 人物−24

人物名称 新渡戸 傅(にとべ つとう)
活躍年代 江戸時代後期〜明治時代初期 地域 南部藩(青森県)

 三本木原(現・青森県十和田市周辺)の開発を行った人物。
 三本木原は、開墾をするための水源が無く、草木も満足に生育しない場所であった。しかし、新渡戸らにより、奥入瀬川から三本木原まで稲生川を開削し、三本木原を農地にかえるとともに、近代的な都市計画を踏まえた町づくりを実施した。
 なお、取水源となる奥入瀬川より三本木原の標高が高いため、取水は難しく「穴堰」と呼ばれるトンネル水路で対応した。
 新渡戸傅は、国際親善に貢献した新渡戸稲造の祖父である。



 人物−25

人物名称 金原 明善(きんぱら めいぜん)
活躍年代 明治時代 地域 静岡県

 金原明善は、遠州国長上郡(静岡県浜松市)の名主で、私財をなげうって天竜川の治水に携わった人物。
 金原明善は、明治7(1874)年に天竜川通堤防会社(後に治河協力社と改名)を設立し、天竜川の測量、堤防強化工事、河道の掘削工事を進めた。また、植林事業にも積極的に取り組み、「河を治むるは其源を養うに在り、源を養うには山を治するに在り」を実践していった。



 人物−26

人物名称 沖野 忠雄(おきの ただお)
活躍年代 明治時代〜大正時代 地域 全国

 沖野忠雄は、河川事業の基礎を築いた内務省の技師。河川の治水計画を確立した人物の一人。
 沖野は、日本でオランダ人技師に学び、石狩川・北上川・信濃川・利根川・富士川・木曽川・吉野川・筑後川などの全国の主要河川の改修工事に関わった。
 その後、日本人技術者として淀川の改修には技術力を発揮し、新淀川放水路開削を実施し、古来からの懸案であった淀川下流の水害解消に大きく貢献した。



 人物−27

人物名称 古市 公威(ふるいち きみたけ)
活躍年代 明治時代〜大正時代 地域 全国

 古市公威は、姫路藩士の子として生まれ、後に工科大学(東京大学工学部の前身)の初代学長、内務省の初代土木技監、土木学会の初代会長などを歴任した人物。
 河川分野では、信濃川、阿賀川、庄川の直轄工事を担当するとともに、旧河川法の策定(明治29(1896)年)に関わった。
 また、工科大学の教授の時に河川・港湾・運河工学を教え、「土木技術者は様々な専門技師を集め、それらの知識をも利用する指揮者とならなければらない。そのためには、広い視野に立ってものごと全体を見つめる土木以外の勉強も必要である」と説いた。
 


 人物−28

人物名称 近藤 仙太郎(こんどう せんたろう)
活躍年代 明治時代〜大正時代 地域 東京、埼玉 など

 東京大学を卒業後、内務省に入省、利根川改修に長年に渡り尽力した人物。
 近藤仙太郎は、明治18(1885)年からムルデルを補佐して利根川低水工事に従事した。その後、大井川、天竜川等の改修計画に関わり、再び利根川改修に従事し、明治31(1898)年に「利根川高水計画書」を完成させた。
 この計画書に基づいて明治33年(1900)年に利根川改修工事が開始され、その後、幾たびかの計画見直しがおこなわれ現在に至っている。
 



 人物−29

人物名称 田辺 朔郎(たなべ さくろう)
活躍年代 明治時代〜大正時代 地域 京都府

 田辺朔郎は、京都府に勤め、琵琶湖疏水事業(びわこそすいじぎょう)を完成させた人物。この琵琶湖疏水は、琵琶湖と京都市内を運河で結ぶもので、船が通るだけでなく、水力発電、用水確保など多目的な施設としてつくられた。
 計画は田辺朔郎の工部大学校(現 東京大学工学部)の卒業論文によるもので、工事の責任者として28才の若さでこの工事を完成させた。
 さらに、工事中に水力発電の有効性を見抜き、アメリカに渡って水力発電を取り入れ、発電施設を建設した。
 なお、田辺朔郎は、その後北海道の鉄道事業や京都帝国大学での教鞭など多岐にわたる活躍をした。



 人物−30

人物名称 保原 元二(ほばら もとじ)
活躍年代 明治時代〜大正時代 地域 北海道

 東京大学を卒業後、北海道に渡り、河川改修などの土木事業に従事した人物。
 保原元二は、第五代石狩川事務所所長、札幌治水事務所長を歴任し、明治43(1910)年から完成までの27年間にわたり、夕張川治水事業(夕張川放水路)に取り組んだ。
 この夕張川放水路整備は地域住民に感謝され、現在でも、地元の南幌町では7月1日を「治水感謝祭」として休日とし、義経神社において治水の感謝と殉職者を慰霊する祭りがおこなわれている。



 人物−31

人物名称 岡崎 文吉(おかざき ぶんきち)
活躍年代 明治時代〜昭和時代初期 地域 北海道

 岡崎文吉は、石狩川の改修に携わるとともに、「岡崎式単床ブロック」による護岸工法を実用化させるなど、近代的河川技術の確立に貢献した人物。
 岡崎文吉は、岡山に生まれ、札幌農学校を卒業後、札幌農学校助教授・北海道庁技師として活躍し、10年の歳月をかけ明治42(1909)年に「石狩川治水計画調査報文」をまとめた。この調査は原始河川の改修に関する優れた内容として評価されている。
 なお、岡崎文吉は「岡崎式単床ブロック」によるコンクリート単床を使用した護岸工法を開発し実用化させた。この護岸工は大正・昭和期を通じて日本国内に広く普及、アメリカのミシシッピー川でもこの護岸工法が採用された。



 人物−32

人物名称 真田 秀吉(さなだ ひできち)
活躍年代 明治時代〜昭和時代初期 地域 大阪、関東

 真田秀吉は、内務省に入省し、淀川改修・利根川の改修などに従事した人物。
 特に、利根川の改修事業に大きく貢献し、機械化施工の有利性を明らかにし、土木工事の機械化の先駆者といえる。
 また、日本の伝統的な水制工法を体系化し『日本水制工論(にほんすいせいこうろん)』を著わした人物である。



 人物−33

人物名称 青山 士(あおやま あきら)
活躍年代 明治時代〜昭和時代初期 地域 パナマ、東京、新潟

 青山士は、東京の荒川放水路、新潟の大河津分水路の工事等に関わった人物で、静岡県に生まれ東京帝国大学を卒業後、パナマ運河工事に参加した唯一の日本人。
 このパナマ運河工事で、世界最先端の技術を学び、明治45(1912)年に帰国後、内務省に勤め、荒川放水路と岩淵水門の工事責任者として活躍。その後、信濃川大河津分水路の工事に携わり竣工記念碑に「萬象ニ天意ヲ覚ル者ハ幸ナリ・人類ノ為メ國ノ為メ」の名文を刻んだ。
 なお、荒川や信濃川以外にも多くの河川改修工事や港湾工事を指導していた。



 人物−34

人物名称 赤木 正雄(あかぎ まさお)
活躍年代 大正時代〜昭和時代初期 地域 富山 など

 日本における近代砂防技術を確立した人物。
 赤木正雄は、自費で砂防先進国であるオーストリア等に渡航し、砂防技術を学ぶ。
のちに帰国し、近代砂防の先駆けとなる白岩堰堤(常願寺川の上流の立山カルデラ砂防)を設計・施工した。その後も立山砂防をはじめ全国各地の砂防工事に携わり、日本の荒廃地形に適した砂防技術を確立した。



 人物−35

人物名称 宮本 武之輔(みやもと たけのすけ)
活躍年代 大正時代〜昭和時代初期 地域 東京、新潟、神戸

 宮本武之輔は、内務省入省後、主に河川改修に従事し、東京の荒川放水路工事では下流部の現場責任者として、また昭和2(1927)年には信濃川大河津分水路自在堰の復旧工事の現場責任者として活躍した人物。
 昭和11(1936)年には、河川改修や災害復旧などの現場で培った経験と研究成果を『治水工学』として体系的にまとめ、河川工学の発展にも貢献した。



 人物・外国−1

人物名称 ファン・ドールン(C.J. Van Doorn)
活躍年代 明治時代 地域 日本全国

 ファン・ドールンは、明治政府が技術指導を受けるために明治5(1872)年に招いた外国人土木技術者。
 ファン・ドールンは、オランダからの土木技術者の長として来日し、大河川の改修、港湾の建設などの調査、計画、工事に携わった。
 関係した事業は銚子の水準原標(水準点)利根川、江戸川、淀川、大堰川(保津川支流)、鬼怒川、大谷川運河(利根川支流)、野蒜港(鳴瀬川の河口)、横浜港の築港、猪苗代湖の疏水(安積疏水)などがあげられる。
 また、ファン・ドールンは日本人技術者のために技術指導書として「治水総論」「治水要目」「堤防略解」を残し、明治13(1880)年に日本を離れた。



 人物・外国−2

人物名称 エッシャー(G.A. Escher)
活躍年代 明治時代 地域 日本全国

 エッシャーは、明治6(1873)年に来日したオランダ人技術者。
彼は、ファン・ドールンの指導のもと、大阪港の改良に取り組むとともに、部下のデ・レイケと淀川・木津川を小舟や徒歩で調査し、山から土砂が川へながれこんでいることを突き止め、その対策を実施し、治山の重要性を訴えた。
 他に、大井川、三国港築港(九頭竜川)の改修計画に携わり、明治11(1878)年に日本を離れた。
 なお、エッシャーの子供(五男)は、だまし絵で有名な版画家である。



 人物・外国−3

人物名称 リンド(I.A. Lindo)
活躍年代 明治時代 地域 日本全国

 リンドは、明治5(1872)年にファン・ドールンとともに来日したオランダ人技術者。
 彼はファン・ドールンとともに、利根川、江戸川の調査・測量を行い、明治5(1872)年に千葉県銚子市に日本で最初の水準原標(水準点)を設置し河川工事の基準となる「高さ」を決めた。また、千葉県浦安市、霊岸島(隅田川)にも水準原標を設置した。
 なお、江戸川の松戸地先において試験的に粗朶沈床を設置するなどオランダ式の河川工法が日本に導入された。
 その後、信濃川に派遣され、新潟港工事および信濃川大河津分水事業について調査をおこない明治8(1875)年に日本を離れた。



 人物・外国−4

人物名称 ムルデル(A.T.L.R. Mulder)
活躍年代 明治時代 地域 日本全国

 ムルデルは、明治12(1879)年にファン・ドールンの後を引き継ぐオランダ人技師として来日した。
 彼は、帰国せずに残っていたデ・レイケとともに、全国の河川や港を調査し、様々な改修計画を立案。
 関係した事業は淀川、信濃川、富士川、利根川、常願寺川、岩木川河口(十三湖)などの河川改修、函館港、東京港、横浜港、宇品(広島)港、下関港、三角港などの築港計画などがあげられる。
 その中でも、千葉県の利根運河の整備、熊本県の三角港整備が代表的な業績で現在でも保存・活用されている。
 なお、10年ほど滞在し、明治23(1890)年に日本を離れた。



 人物・外国−5

人物名称 デ・レイケ(J. de Rijke)
活躍年代 明治時代 地域 日本全国

 デ・レイケは、来日したオランダ人技術者の中ではもっとも長く滞在し、明治6(1873)年から明治36(1903)年までの30年近く、日本の土木工事に携わった人物。
 彼が関わった主な河川は、淀川、木曽川、常願寺川など全国におよんでいる。
 その中でも、木曽川三川の分流計画や常願寺川の改修計画は大きな成果を上げ今でも語り継がれている。
 なお、オランダの土木技術を解説した『柴工水刎説明書』『砂防工略図解』『砂防略述』などの土木技術書を残した。



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