水管理・国土保全

  

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庄内川の歴史


庄内川の治水事業は、慶長15年(1610年)徳川義直の名古屋城築城と共に始まったと言われており、同19年に現在の堤防位置に堤が築かれました。
 その後、庄内川下流部右支川の合流点付近の湿地対策と、庄内川下流部の洪水被害軽減を目的に、新川の開削及び新川洗堰の築造をはじめとする「天明の治水」(1784)が行われました。


洗堰



新川の開削と新川洗堰の築造の契機
江戸時代、尾張藩の奨励もあって瀬戸地方を中心に窯業が盛んになり、その原材料としての陶土の採掘、磁器を焼きあげる際の材料として木材が採取されたことにより山林が荒廃して流出土砂が増大しました。また、庄内川河口付近一帯の干拓により流路が延長され、川の流れが悪くなり、河床が徐々に上昇し、庄内川下流部にて洪水が頻発するようになりました。また、現在の新川沿いはこの付近一帯で最も低い低平地となっており、現在、新川に合流している合瀬川や五条川等は当時、庄内川右支川であったが、庄内川の河床上昇により、直接庄内川に流れ込むことができなくなり一帯が湿地化するとともに支川の洪水も発生していました。
 上記の状況から、流域住民からの治水対策を求める「直訴」が何度も行われ、尾張藩の藩士水野千之右衛門の建白書の提出などもあって、尾張藩藩主徳川宗睦(むねちか)の命により、天明4 年(1 7 8 4 年)新川の開削と新川築造に着手、天明7年( 1 7 8 7年)完成にいたったと言われています。


新川開削前


新川開削後


新川開削と新川洗堰の築造
新川開削は、大蒲沼に発し、庄内川右岸に並行して流れ、菅津付近で五条川を合流し、五条川の庄内川への合流点はこれを塞ぎ更に南下して、榎津・納屋山新田( 中川区富田町)の中ほどで庄内川に合流させました。長さ約20km、堤防の高さは3~4m、大蒲沼から流れ出る地点での川幅は約60m と壮大なものでした。
周囲の水田よりも2 ~3m 掘り下げられていたため、排水は非常によくなったと言われています。
※五条川旧河道に沿って新川が開削されたと見られます。

 新川洗堰は、楠村と山田村の境の庄内川の右岸堤を切り落とし、延長約70m の築造とし、庄内川の洪水が五合を越えるようになると流れる高さとしました。構造は木枠を組み、石籠を並べ両側は石積みとしていました。

















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