水管理・国土保全

  

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江の川の歴史

江の川の名前

 「江の川」という名称は、昭和41年4月に一級河川に指定された際に定められた名称で、それ以前は流域の各地において可愛川(えのかわ)、郷川、江川など様々に呼ばれていました。旧河川法時代には広島県側は「郷川」(大正8年告示)、島根県側は「江川」(昭和5年告示)とされていました。

 「ゴウガワ」の由来は定かではありませんが、「ゴウ」には川岸という意味があります。江の川河口の江津は「ゴウ」という土地に「津」つまり港ができたため名付けられたといわれています。江津という名前は1376年の文書に初めて見えますが、「ゴウ」という地名は、古くは『延喜式』(927年成立)にも記されています。

 なお、三次市より上流における江の川本流は「可愛川」と呼ばれ、『日本書紀』(720年成立)にもその名が記されていることから、古くから可愛川と呼ばれていたようです。

江の川(支川)の名前



江の川の舟運

 江の川は中国地方中央部(山陽側)に水源を発し、中国山地の山間狭隘部を貫流し、日本海(山陰側)に注ぐ川です。山陽と山陰を結ぶという点で古くから交易の要路とされ、「高瀬舟(帆船)」による舟運が発達していました。しかし藩政時代は藩外交易が禁止(津留(つどめ)されていたので、あくまでも局地的なものでした。

 明治維新後、津留(つどめ)の解除とともに水運は急激に発達し、内陸交通の幹線となりました。輸送された物資は全国の生産量の約95%を占めていた鉄や米が中心となっていました。しかし、この舟運も1930年代には堰建設や鉄道・道路交通の発達により終わりを告げることとなります。


川舟(三次市粟屋町荒瀬)




江の川の鵜飼い

 流域におけるアユ漁として注目されるものに『鵜飼漁』があります。一説によれば戦国時代末期(1560年頃)から始まったとされており、明治時代には鵜飼漁に対する保護が解かれ、川漁師が増加しました。しかし、第二次世界大戦や漁業法等の制定により鵜飼漁は禁止になりました。

 現在、観光事業として夏季の3ヶ月のみ鵜飼が公開されています(昭和34年12月に三次市無形文化財に指定)。


三次市の観光鵜飼い




水害防備林

 洪水対策の歴史としては、1200年程前より弘法大師が竹林を植えることを教えたと伝えられており、竹林が出水時の水の勢いを緩和し、堤防の侵食崩壊を防ぐのに役立つことが経験的に知られ広まったものと考えられています。江の川下流の河岸には、堤防に沿って幅20~30mの竹林(川本町~桜江町)が部分的に残っているのを現在でも確認することが出来ます。


水害防備林全景


水害防備林全景



江戸時代の治水

 馬洗・西城川・江の川の三川に囲まれた三次町は、寛永9年(1632年)、三次藩守となった浅野長治により堤防工事が初めて取り組まれたと考えられており、当時は石積みにて500m程度の堤防が設置されました。文久元年(1861年)の『三次御家中跡絵図』の中には、 町を取り囲む堤防に加え、川側は丁寧に石垣で保護されており、さらに流れを緩和して堤防を保護するために、川に向かって三角状に突き出した石(水はね)や水害防除用の植林(竹藪)が描かれています。今でも当時の石垣がモニュメントとして現地で紹介されています。


江戸時代の三次町と堤防


石垣のモニュメント




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