吉野川は、流域の人々に恩恵を与えてきた反面、ひとたび大雨が降れば暴れ川となり、毎年のように洪水被害を発生させて、川沿いの住民生活を苦しめてきました。藩政期の著名な水害としては、享保7年(1722年)の大洪水、嘉永2年(1849年)の死者が250名に及んだと伝えられる「酉の水(または「阿呆水」)」と呼ばれる大洪水、慶応2年(1866年)の「寅の水」と呼ばれる大洪水があります。
特に、「寅の水」においては、死者約2千人から3万余人といった未曾有の大水害となり、今も蔵珠院のお寺には、洪水によるシミが茶室などに残されています。
また、明治に入っても水害は頻発し、明治21年(1888年)、明治30年(1897年)、明治32年(1899年)においては、堤防が決壊する被害となった。