物部川流域下流部に広がる香長平野には、早くから人が住み、弥生時代には既に稲作が行われていたと言われています。
荒れ川であった物部川は、野中兼山(1615~1663)の時代になって山田堰や灌漑水路が整備され、高知県最大の穀倉地帯、また流通経路として発達してきました。
物部川流域下流部に広がる香長平野には、早くから人が住み、弥生時代(紀元前3世紀頃から後3世紀頃まで)には既に稲作が行われていた(田村遺跡)と言われ、古くから物部川を水源とした灌漑用水の受益地であると同時に物部川の氾濫域でもあります。古代の土佐国府は物部川流域におかれ、平安初期には歌人として知られる紀貫之が国司としてこの地に留まり、香長平野は土佐の政治、文化の中心地となりました。
物部川は河口から約13km上流の杉田ダム付近を境として、その上流部分は太古の昔から現河道と大きな違いはありませんが、その下流の河道は今日とはまったく一変しています。特に山田堰付近から下流については屈曲蛇行、分流、合流を繰り返し、洪水のたびに主流の変わる荒れ川でした。
物部川がその姿を整え始めたのは、江戸時代前期の土佐藩家老、野中兼山(1615~1663)の時代になってからです。兼山が手がけた灌漑水路は、舟入川によって浦戸湾まで続く大運河となり上流の山林資源や海辺の魚介類が運ばれ、上下流のみならず物部川流域圏外との交流を深める流通経路としても発達してきました。