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ロンドンの惨状 3

19世紀の田園都市

19世紀の田園都市は、2,400ヘクタールの土地に32,000人が居住する農村・都市である。市街地は全体の約6分の1でその人口密度は東京区部の半分程度ごく普通の都市密度である。市街地は環状道路によって囲まれ、その中心は「水晶宮」と呼ばれるガラスのアーケードと公共建築にに囲まれた公園広場になっている。道路は幅員40メートルの並木道で、環状に6本、放射状に6本の構成である。環状道路の第3と第4の間の街区は、GRAND AVENUEという緑地帯で学校や教会がここに配置されている。工場は全て市街地外縁に配置され、環状の鉄道によって輸送手段が確保される。

市街地の外の農業エリアには約2,000人が住む。農地は個人農業従事者に貸与され自治体に地代が支払われる。小麦、野菜、果物等さまざまな作物が栽培され、肥料は市街地から出る塵芥が利用される。100年前に既にリサイクルが地域づくりのコンセプトになっていたわけである。農業地域の生産物は一義的には真ん中の市街地で消費され自律型になっているが、生産量は需要量を上回る想定であり、他地域のマーケットに供給される。

田園都市構想の大きなポイントの一つは、社会資本の供給が民間でも行なえるということである。100年後ようやくPFIが実現しそうだが、この考え方は新しいものではなく100年前にあったのだ。「水道や電機や電話は、能率良く公正に運営されるなら自治体が最善の供給機関であるが、独占は期待されていない。もし、町の全部ないしは一部で自治体より有利な条件で供給できるなら、民間企業や個人が行なうことは認められよう。」とハーワードは主張する。

そして田園都市は20世紀になって実現する。ロンドン北方郊外に、レッチワースとウェルウィンという二つの田園都市が建設されたのである。ハーワードの理想の一部は実際のものになったわけだが、その願いはついにかなうことはなかった。ロンドン都市圏の人口はその後何百万も増えたが田園都市が何十もつくられることはなかった。田園都市の名前は残ったがそのコンセプトは消えそうである。

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