防災無線で3メートルぐらいの津波が来ると聞き、アパートの管理人もしていたので、「津波が来るから逃げろ!逃げろ!」と、建物内を言って回って避難させました。ただ、心臓や足腰の悪い人や高齢者、「ここまで来ないから大丈夫だよ」と言っている人たちが12人ぐらい残っていましたので、私も残ることにしました。
1階と2階の人を3階の空き部屋に逃がしてから海の様子を見に行くと、水がダーッと引いて、砂浜に波がチョロチョロときているだけでした。そして、湾の入口の方には、水平線なのか何なのか分からない白い帯がありました。
すると、その白い帯が一気に高くなってきたのです。「3メートルの津波ならたいしたことはない。防潮堤があるから、越えても1メーターぐらいだろう」と思っていたのに、ダーッと波が防潮堤を越えたとたん、立っちゃったんですよ。水の壁みたいに。
それが一気に市街地を襲い、木造住宅はみなメリメリと音をたてて壊れました。うちのアパートはロの字型で中庭がありましたから、津波はうずを巻きながら3階の床上まで到達しました。3階にいた人たちは4階に逃がして無事でした。
夜の9時ごろにようやく水が引いたので、避難所に行こうと歩き出しましたが、旧国道は流れてきたガレキで通れず、やむなくアパートに戻り、空いている部屋にみんなを集めてひと晩過ごしました。道路が通れなければ避難所にも行けないんですよね。
(釜石仮設団地 70代 男性)
予想もしなかった巨大な津波~毎日見ていた看板で命助かる~
私の住む地域では、地震や津波の可能性は早くから指摘されていました。でもまさかあんなにも大きな規模の津波が来るとは思ってもいませんでした。万一津波が来ても庭先くらいかなあという感じ。だから海辺の暮らしを大いに楽しんでいたんです。新地の海辺は本当にすがすがしくていいところ。大好きな場所でした。
地域の電柱に、避難場所であるコミュニティセンター(コミセン)の場所が矢印で示されるようになったのは震災の3、4か月前だったと思います。毎日見るこの看板のおかげで、いつしかコミセンの場所を記憶していました。震災当日はこのコミセンに向かって必死で逃げました。どこに逃げればいいか、知っていたから迷わなかった。助かったのはあの看板のおかげとも思っています。
コミセンに着いてからもしばらくは余震に震えていました。そして「家がつぶされるー!」という夫の叫び声を聞き、あわてて外に出たんです。すると沿岸部の松林の上まで、真っ黒な波が上がっていました。波はみるみる家や車を飲み込んで、そこまでは来ないだろうと私たちが一つの目安にしていた国道6号線をも軽々と越えました。本当に怖かった。でも、命があって本当によかったです。
(新地町 60代 女性 主婦)
(出典:内閣府HP 一日前プロジェクト)