川と水辺の技術開発 |
河川伝統技術データベース一覧 |
整理 番号 |
水系 | 河川名 | 局名 | 事務所名 | 名称 | 分類 | 年代 | 当該河川伝統技術の解説・由来・意味 |
1 | 天塩川 | 天塩川 | 北海道開発局 | 留萌開発建設部 | 捷水路 | 水路・河道付替 | 20世紀代 | サロベツ川合流点から上流は文字通りの蛇行の連続であり、毎年のように洪水の被害を受けていた。昭和16(1941)年から応急切り替え土木工事として始まった。 毎年被害の大きかった東ウブシ地区の蛇行個所をショートカットすることにより洪水の流下をスムーズにし、洪水位の低下を図ることを目的として行われた。 捷水路が出来たことにより、洪水の流下がスムーズになり洪水の被害が軽減された。 |
2 | 留萌川 | 留萌川 | 北海道開発局 | 留萌開発建設部 | 捷水路・導水路 | 水路・河道付替 | 20世紀代 | 明治43(1910)年の築港計画により留萌川の付け替え及び導流堤工事を施行。 明治43(1910)年から始まった留萌築港計画は、政府の財政難や難工事と相まってなかなか進まなかった。そのため留萌町の発展に暗雲が垂れ込めた。この状況を何とかしようと大留萌建設事業が大正9(1920)年に計画された。 捷水路が出来たことにより、洪水の流下がスムーズになり洪水の被害が軽減された。廃川個所は埋め立てられ、市街地になっている。 掘削延長は約4,500m |
3 | 十勝川 | 十勝川 | 北海道開発局 | 帯広開発建設部 | 伝統的護岸・水制工法 | 水制・護岸 | 20世紀代 | 本州において、戦国時代の治水工事の中で創案され、以後各河川に普及し、各河川の特性に応じて工夫改良され継承された工法である。 北海道では、明治43(1910)年に「北海道第一期拓殖計画」が策定され、護岸工法に関して次の考えが示された。 甲種:河岸を法切り、これに鉄線蛇籠およびコンクリート単床ブロックを敷設する。 乙種:決壊程度の軽易なる部分に対し、河岸を法切り、法面に柳枝工等を施し、また根固めとし柵および鉄線蛇籠を一列に布設する。なお、法切土を利用し、法頭の後方適当な位置に小堤防を築設し、普通洪水の氾濫を防御する。 上記より、護岸工はコンクリート単床ブロック(台棒落とし)、鉄線蛇籠、粗朶法覆工、柵工等を行っている。また、水制工については、並杭水制、枠工、牛枠などを行っている。 |
4 | 十勝川 | 十勝川 | 北海道開発局 | 帯広開発建設部 | 旅来渡船場 | 舟運 | 20世紀代 | 旅来渡船場は明治37(1904)年に創設され、明治40(1907)年に豊頃町の村道の渡船場となる。その後、昭和50(1975)年4月に国道に昇格し、全国の国道において唯一の渡船場となった。また、明治42(1909)年頃に十勝川で70ヶ所程度あった渡船場の中で最後に残った渡船場である。 旅来渡船場は浦幌町生剛と豊頃町大津を結ぶものであり、創設当時はイカダ型式(デッキ船)で人馬が対象となっていたが、昭和42(1967)年に人のみ(自転車など含む)を対象としたプラスチック製の船(定員5名)になった。運航方法は、十勝川に張り渡したロープを手操りながら進行するもので、片道5分の運行時間となっていた。 平成4年度に十勝川河口橋が完成し、渡船場は廃止されている。 |
5 | 石狩川 | 石狩川 | 北海道開発局 | 石狩川開発建設部 | コンクリート単床ブロック | 水制・護岸 | 20世紀代 | 明治42(1909)年に岡崎文吉氏により、これまでに考案されていたフランス式や北村式等の他の単床ブロックと比較し、経済性、耐久性、安定性及び施工性などに優れたコンクリート単床ブロックが考案された。 このブロックの特徴は鉄筋コンクリートを用いたこと、一体の単床を構成し大水深に敷設可能なこと及び高い屈とう性などにみられ、明治42(1909)年に考案されてから幾つかの改良が加えられたものの数多くの護岸工事に使用され、昭和50年代にその幕を閉じている。石狩川の旧川である茨戸川では現在でも見かけることができる。 |
6 | 石狩川 | 石狩川 | 北海道開発局 | 石狩川開発建設部 | 捷水路(ショートカット) | 水路・河道付替 | 20世紀代 | 石狩川の改修事業は明治43(1910)年を初年度とする北海道第1期拓殖計画から、洪水防御と農耕地開拓を目的として始まった。 捷水路における改修は大正7(1918)年に生振捷水路に着工したことに始まっている。石狩川本川で29カ所の捷水路と支川においても数多くの捷水路が完成しており、石狩川においては着工以来52年間で約58.1kmもの河道が短縮され、その主な効果としては水位低下による氾濫防止効果及び地下水位低下による農耕地拡大などがあり、石狩平野の土地利用の高度化に寄与した。捷水路により残された旧河道は流域住民にとって石狩川の改修の歴史を感じさせられるものであると同時にレクリェーションなどに活用され憩いの場となっている。 |
7 | 石狩川 | 石狩川 | 北海道開発局 | 石狩川開発建設部 | 舟運 | 舟運 | 20世紀代 | 石狩川の舟運は、明治初頭は、石狩川流域への入植並びに入植後の物資の輸送は石狩川を中心とする河川を利用した舟運に依存していた。移住のための人、貨物、鉄道敷設用の貨物の輸送が行われた。しかし、明治25(1892)年に石狩平野の内陸地空知太まで鉄道が開通したことにより舟運に依存する乗客、貨物共に減少していった。 |
8 | 石狩川 | 石狩川 | 北海道開発局 | 石狩川開発建設部 | 文献 治水[現代語版] | その他 | 20世紀代 | 岡崎文吉博士の名著「治水」は大正4(1915)年初版であるが、近年、環境重視の視点から改めて岡崎博士の河川の自然主義が見直されつつあり、改めてこの偉大なる先覚者の名著が広く多くの現代の技術者に読まれることを考え、現代語版に編集したものである。 |
9 | 尻別川 | 尻別川 | 北海道開発局 | 小樽開発建設部 | 台棒足場 | 水制・護岸 | 20世紀代 | 昭和30年代後半ごろ、連節ブロック護岸が普及しはじめたが、北海道の河川は緩流であるため、水深の大きい所では水流の抵抗をうけて敷設が難しい状態であった。「台棒足場」は、連節ブロックの敷設を容易にするため考案された工法で、本州の治水工法にない北海道特有の工法である。川側に台棒受を設置し、台棒(丸太)を並べ、その上に敷粗朶を縦横交互に3層敷き均す。粗朶の上に鉄線を通しながらブロックを布設後、台棒受をはずして、川側から沈設する。 古い年次で施工された護岸であるが、連節ブロックは河岸の変化に追随して残っている。また平水位面以上の河岸は自然の回復力による河畔林に覆われており、護岸としての機能は充分発揮している。 |
10 | 天塩川 | 天塩川 | 北海道開発局 | 旭川開発建設部 | 氷橋 | 橋 | 20世紀代 | 入植初期(明治40年頃)は、満足な道路もないような状況で、当然橋等はなく、そのため川を渡すために数ヶ所の渡船場を設け、舟で人、生活物資、主産業である林業の木材運搬を行っていたが、冬期間(11月頃)の気温低下により、川が結氷し船の運航が不可能となるため、凍り付いた川に粗朶等を投入したり、水をかけたりして凍らせるなど補強工作をし、氷の上を渡っていた。多くの場所は全面結氷していたが、物満内渡船場付近は急流のため、全面結氷せず先人たちが工夫して岸側の氷を切り出し、対岸に渡していた。 毎年11月頃になると、河岸にも雪が積もり始め次第にその範囲が川の中央へと延び、そのような状態だと船の運航ができなくなるため、船を岸にあげ、川に張った薄い氷の上に積もる雪を踏み固めながら、水をまき凍らせていく。12月下旬頃から1月上旬にかけて部落総出で厚く張った氷を切り出し、対岸に押し出す。 氷橋は、川に垂直にかけると水の抵抗が大きいため、斜めにかけ、両岸の約7mは強度をもたせるために木材等で櫓を組んでいた。氷の表面には粗朶等の木々を敷き詰めた。完成すると氷橋の上に木材を満載した馬ソリが十数台乗っていても壊れないほどの強度を有していた。3月雪解け間近でも、氷橋の下を流れる水の力で持ち上げられ、橋の上に氷が流越しない限り使用可能だった。 昭和40年代前半に橋ができるまで行われていた。 |
11 | 岩木川 | 岩木川 | 東北地方整備局 | 青森河川国道事務所 | 水戸口突堤 | 堤防 | 20世紀代 | 天和3(1683)年〜大正時代まで、水戸口の幅が狭く浅いため、強南西風による荒波で閉塞が繰り返され、そのため、湖水が溢れ、岩木川下流域で大きな被害をもたらしていた。 水戸口の突堤計画のために、大正9年〜13年まで、240回の地形変化の調査をし、それらの結果から、ほとんど変化のない地点にヒントを得て、総合的に水戸口の両岸に設ける突堤の位置、幅、長さなどを決め、大正15(1926)年に工事着工し、昭和22(1947)年に完成した。 水戸口は、完成後閉塞することはなく、河口処理工事としては全国でも数少ない成功事例となっている。 ※北突堤:l=390m南突堤:l=340m |
12 | 岩木川 | 浅瀬石川 | 東北地方整備局 | 浅瀬石川ダム管理所 | 沖浦ダム | 堰・ダム | 20世紀代 | 岩木川河川統制事業として昭和23(1948)年3月に完成した堤延長171m、堤厚40m、堤体積81,000m3、総貯水量3,187,000m3の直線越流型コンクリート重力式の日本最初の多目的ダム(治水、灌漑、発電)。 昭和8(1933)年12月調査開始、昭和20(1887)年3月31日に完成。昭和63(1988)年、浅瀬石川ダムの完成により水没、現在でも貯水位が低い時は姿を現す。 |
13 | 米代川 | 藤琴川 | 東北地方整備局 | 能代工事事務所 | 木工沈床 | 水制・護岸 | 20世紀代 | 工 期:平成6(1994)年3月11日〜平成6(1994)年9月25日 施工延長:L=74m、籠マット:A=1,096m2、根固工(木工沈床):A=352m2、粗朶柵工:L=293m |
14 | 米代川 | 米代川 | 東北地方整備局 | 能代工事事務所 | 木工沈床 | 水制・護岸 | 20世紀代 | 工期:平成6(1994)年3月11日〜平成6(1994)年7月29日 施工延長:L=70.8m、籠マット:A=1,400m2、根固工(木工沈床):A=283m2、根固工(巨石400〜1,000o):V=279m |
15 | 雄物川 | 雄物川 | 東北地方整備局 | 秋田河川国道事務所 | 雄物川放水路 | 水路・河道付替 | 20世紀代 | 雄物川の洪水に見まわれる秋田市及び付近の平野の治水対策として、日本海へ直接放流される放水路工事が大正6(1917)年に開始された。丘陵地の開削をして発生した土砂は、築堤材料として使用されたほか、雄物川沿いの湿地帯に埋め立てられ、その後の秋田市の発展に寄与する工業地帯が造成された。昭和13(1938)年に完成した新川には、旧雄物川へ安定した用水を分水させる新屋水門や3基の床固めが施され、現在も安定した雄物川を創出している。 |
16 | 雄物川 | 雄物川 | 東北地方整備局 | 秋田河川国道事務所 | 物部長穂 | その他 | 20世紀代 | 秋田県仙北郡協和町に生まれた物部長穂は、河川や地下水などの水の流れ、降雨などによる流出量などの「水理学」という新しい学問を体系づけ、また、地震動による構造物の被害をくいとめるための「耐震工学」という分野も開拓した。その理論は、現在に至っても重要な位置を占めており、最大級の土木構造物である巨大なダムの設計理論や、高層建築物の耐震設計理論は、氏が大正時代から昭和時代初期にかけて確立したものである。 |
17 | 雄物川 | 旭川 | 東北地方整備局 | 秋田河川国道事務所 | 那波家の水汲み場 | その他 | 17世紀代 | 旭川は水運に利用され、多くの舟が往来し、川反の川岸では物資の積み卸しが盛んに行われていた。川反芸者で知られる周辺一帯では、ほとんど旭川の川水を飲み水として利用しており、「カド」と呼ばれた共用の水汲み場が現存している。 |
18 | 雄物川 | 旭川 | 東北地方整備局 | 秋田河川国道事務所 | 旧藤倉水源地堰堤 | 堰・ダム | 20世紀代 | 旧藤倉水源地堰堤は、秋田市内への飲料水、防火用水供給のため明治36(1903)年に着手、明治44(1911)年に全施設が完成した。重力式コンクリート造り石張りダムで越流式としている点に特徴があり、ダムを備えた近代水道施設としてはわが国でも初期のものである。近代上水道の歴史や明治時代末期の土木技術を知るうえで重要な遺構であり、昭和60(1985)年には、全国の「近代水道100選」のひとつに選ばれたほか、平成5(1993)年には、近代化遺産としては全国初の「国の建造物の重要文化財」に指定された。 |
19 | 雄物川 | 雄物川上流 | 東北地方整備局 | 湯沢河川国道事務所 | 雄物川の河川交通 | 舟運 | 雄物川は、古くから上流の穀倉地帯と土崎港を結ぶ重要な舟運のルートであった。慶長7(1602)年に秋田に転封された佐竹氏は、水運を最大限利用するため藩内の川を整備し、近世初期からは雄物川の名の由来の一つとされる「御物成(貢物)川」の性格を帯びてくる。角間川、大曲は川港の中で最も繁栄したが、盛大を極めた雄物川の水運は明治39(1906)年の奥羽線の開通により物資の輸送は鉄道に吸収され次第に衰退していった。今でも川岸には昔をしのばせる船着場の跡や浜倉の跡が残る。 | |
20 | 雄物川 | 雄物川上流 | 東北地方整備局 | 湯沢河川国道事務所 | 大久保頭首工 | 堰・ダム | 19世紀代 | 大久保頭首工(大久保堰)は、天長7(830)年頃に住民が雄物川に水源を求め延々3kmにわたる水路を開き荒地開墾に着手し、文化9(1812)年頃には開田可能地は殆ど開墾に成功した。河床低下や幾多の災害を被りその都度上流へ取水口を移動し、明治35(1902)年頃に現在の位置に定着した。その後昭和28(1953)年の災害により流出したが、昭和30(1955)年の県営災害復旧事業により現在のコンクリート固定堰として築造され現在の姿になっている。 |
21 | 雄物川 | 雄物川上流 | 東北地方整備局 | 湯沢河川国道事務所 | 幡野弁天頭首工 | 堰・ダム | 18世紀代 | 幡野弁天頭首工(幡野五ヶ所堰)は、承応元(1652)年に倉内村、金谷村、八幡村、森村、新金谷村の水田に灌漑用水を引くために築造された。その取入口は幾度かの変遷の歴史を経て現在の位置に定着した。 昭和29(1954)年にそれまでの三角枠(うまこ)締切(杉長木を三角状に組立たもの)からコンクリート堰堤となり、その後洪水等により被災をうけて、昭和51(1976)年の改修工事により現在の姿になっている。 |
22 | 雄物川 | 雄物川上流 | 東北地方整備局 | 湯沢河川国道事務所 | 湯沢頭首工 | 堰・ダム | 16世紀以前 | 湯沢頭首工(湯沢大堰)は佐竹氏が常陸国から転封になった慶長7(1602)年後の開田政策により整備したとされろものといわれている。当時は、地形勾配を勘案して引水しており、先人の知恵がうかがわれる。また、この水路の完成により下流域に位置する弁天、杉沢などの地域開発が急速に進展したと考えられる。 寛永11(1634)年には、この水路を利用し秋の宮の木材を送る運河に改造するため、堰幅を2間(3.6m)ほどに拡幅している。また、幾度かの洪水により堰き止め木工沈床が流出している。現在の堰(堰長L≒300m、フローティングタイプ)は昭和40(1965)年の県営災害事業 により改修された。 |
23 | 雄物川 | 雄物川上流 | 東北地方整備局 | 湯沢河川国道事務所 | 山田頭首工 | 堰・ダム | 16世紀以前 | 山田頭首工(五ヶ村堰)は、雄勝地方で最も古い農業施設であり、古文によるとおよそ500年以上前に築造された。新田開墾の歴史の中でその重要性を増しながら幾多の災害を被りながらも現代に受け継がれてきたが、昭和24〜27(1949〜1952)年にかけて県営かんがい排水事業で大改修(木工沈床)が行われた。昭和41年には台風による洪水のため施設が決壊流出し取水不能となったが、県営災害復旧事業として昭和44(1969)年に完成した。 |
24 | 雄物川 | 雄物川上流 | 東北地方整備局 | 湯沢工事事務所 | 雄物川風土記 | その他 | 治水事業の歴史を踏まえ、伝説の伝承地域の現在の姿を紹介し、21世紀を見据えた地域の川づくりを考えるために企画した書である。 | |
25 | 雄物川 | 雄物川上流 | 東北地方整備局 | 湯沢河川国道事務所 | 雄物川の漁業 四季 | その他 | 雄物川の魚の習性を知り尽くした川師の伝承する四季折々の漁法を記録した書である。 | |
26 | 雄物川 | 雄物川上流 | 東北地方整備局 | 湯沢河川国道事務所 | 雄物川流域の集落と住民の生活 | その他 | 雄物川流域住民と水との関わりについて集落立地と水、農業利水、漁業・養殖、災害(酸性水・鉱廃水・洪水)、水運と文化(水神社・雨乞い)についてとりまとめた本である。 | |
27 | 子吉川 | 子吉川 | 東北地方整備局 | 秋田河川国道事務所 | 畑中喜右衛門の碑 | 碑 | 17世紀代 | 江戸時代、子吉川が年々川岸を浸食し、吉沢集落の家屋敷が危険にさらされた際、滝沢郷の名主であった「畑中喜右衛門」が子吉川の改修を度々代官所に訴えたが、万治元(1658)年に農民扇動の罪で処刑された。喜右衛門が処刑される直前に予言したとおり、その後に子吉川の流れが大きく変わり、吉沢集落の人々は救われた。以来、吉沢集落の人々は供養碑を建立し、毎年慰霊祭を実施している。子吉川の変遷において貴重な史跡であることから、平成5(1993)年に「由利町の史跡」に指定された。 |
28 | 子吉川 | 子吉川 | 東北地方整備局 | 秋田河川国道事務所 | 小板戸の舟神碑 | 碑 | 17世紀代 | 子吉川の舟運は、天保年間(1830〜1844年)以前は小板戸河岸が遡航終点であった。小板戸河岸には藩の米倉が立ち、中下流との交易の拠点として、昭和初期に鉄道が開通するまで、米や杉などを本荘に運ぶ基地として使用されていたとされる。「舟神碑」が、河川敷に近い線路脇に残っている。 |
29 | 子吉川 | 石沢川 | 東北地方整備局 | 秋田河川国道事務所 | 諏訪神社 | 祭り・信仰 | 16世紀代 | いまから450年ほど前に新田集落は、石沢川の洪水により被害により、川の渕が深くなるのを防ぐために、土嚢を積み、土手に杭を打ち防いだがなかなか効果があがらず、困り果てた村の人たちは、深い渕のそばに神社を建てて一心に神に祈りました。それ以来、石沢川に水害がなくなり、水田が拡大したといわれている。そのとき建てられたのが新田地区の「諏訪神社」であるといわれている。 |
30 | 最上川 | 最上川下流 | 東北地方整備局 | 酒田河川国道事務所 | 水制群、伊藤式護岸 | 水制・護岸 | 19世紀代 | 最上川(支川であった赤川含む)では、藩政時代から盛んであった舟運の航路維持及び洪水時の河岸決壊等を防ぐ目的で、明治17〜36(1884〜1903)年にかけて低水路工事が国直轄で実施された。内務省技手 石井虎治郎の指導のもとに実施されたこれらの事業の中で多くの水制群が設置され、その後の大正〜昭和にかけて実施された改修工事においても木工・粗朶等の沈床、牛枠・合掌枠・三脚枠等種々の工法を組み合わせた水制・護岸工事が実施されている。その後の災害等により改築等が行われつつ、水制群は現在も各所に見られる。 伊藤式護岸(格子張護岸)は、終戦直後の昭和20年代に、度重なる水害の災害復旧工事に使用した工法である。当時の最上川下流工事事務所長 伊藤美代治によって考案され、堅固で施工性に富むこの工法は、河川改修工法として一大転換をもたらした。他河川でも現在までに一般的な工法として広く使用されているものである。 |
31 | 最上川 | 最上川下流 | 東北地方整備局 | 酒田河川国道事務所 | 河海分離背割堤 | 堤防 | 20世紀代 | 最上川河口に隣接する酒田港は、昭和以前には最上川河口を利用した河口港であり、古くから内陸舟運と京・大阪への海運との結節点として利用されてきたが、河川の流下や波浪などにより、地形は不安定で船の出入りには危険が伴った。 大正6(1917)年に着手された最上川(赤川含む)改修事業では、これらを解消するため、港域を最上川から完全に分離し整備、最上川本流で洪水処理するための背割堤が築造され、昭和7(1932)年に完成した。 |
32 | 赤川 | 赤川 | 東北地方整備局 | 酒田河川国道事務所 | 赤川放水路 | 水路・河道付替 | 20世紀代 | 最上川の一支川であった赤川は、幾度となく洪水による氾濫、浸水被害が繰り返され、大正6(1917)年には赤川の拡幅による治水工事計画が立てられた。 しかしながら、当時のこの計画は、大規模な家屋移転と水田等耕作地を削減することから、地元からは出来る限り農耕地削減の規模縮小の陳情、嘆願が繰り返され、元衆議院議員 榊田清兵衛の尽力により、大正10(1921)年の新川開削によって日本海に直接放流する計画に変更された。 大正10(1921)年に工事着手、昭和28(1953)年に旧川を締切り最上川から完全に分離し、現在の姿となっている。 その後平成13(2001)年までに放水路右岸拡幅工事が実施され、開削法面の保護にはに放水路両岸に広がる庄内砂丘防砂林と同じクロマツを植林することにより実施された。 |
33 | 最上川 | 最上川 | 東北地方整備局 | 山形河川国道事務所 | 直江石堤(谷地河原堤防) | 堤防 | 17世紀代 | 上杉景勝重臣・直江兼続により、米沢城下町を洪水から守るために築かれた。 馬踏(上辺)約三間(5.4m)、根置(下辺)約五間(9m)、高さ五〜六尺(1.5〜1.8m)の石堤。 その一部が米沢市の文化財に指定されている。(1.2km) |
34 | 最上川 | 最上川 | 東北地方整備局 | 山形河川国道事務所 | 黒井堰 | 水路・河道付替 | 18世紀代 | 江戸時代、米沢藩9代藩主上杉鷹山公家臣である米沢藩勘定頭黒井半四郎忠寄の指導・測量により開削された灌漑用水路。 寛政6(1794)年から6年を費やし、完成。 ・上堰:下窪田・糠野目・赤湯・梨郷までの約五里の用水路。 ・下堰:赤湯村の吉野川以南約四里へ引水できる用水堀。 現在もその地域の重要な用水路として黒井堰土地改良区によって管理・運営されている。 |
35 | 最上川 | 最上川 | 東北地方整備局 | 山形河川国道事務所 | 最上堰 | 水路・河道付替 | 19世紀代 | 西村山郡大江町三郷の深沢地区で最上川右岸より揚水し、中山町長崎を中心とする地域を灌漑する用水路。 用水堰開削は、元禄年間(1688〜1703年)より始まったが失敗。工事が本格的に始まったのは明治21(1888)年からである。 西村山郡大江町三郷の深沢地区で揚水し、中山町長崎を中心とする地域を灌漑する用水路。 2回の改修工事を経て、ほぼ現在と同規模の用水堰となった。 |
36 | 最上川 | 最上川 | 東北地方整備局 | 山形河川国道事務所 | 糠野目 | 舟運 | 17世紀代 | 最上川舟運の河岸(舟着場) 糠野目橋下流左岸側に位置を示す看板が設置されている。 |
37 | 最上川 | 最上川 | 東北地方整備局 | 山形河川国道事務所 | 宮舟場 | 舟運 | 17世紀代 | 最上川舟運の河岸(宮舟場) 元禄時代、最上川上流には舟着場があり、岸辺にはお米蔵や舟屋敷を設け賑わいを見せていた。青苧・大豆などの特産品が集まった。 長井橋付近に船玉大明神(船乗りの神)が残っている。 |
38 | 最上川 | 最上川 | 東北地方整備局 | 山形河川国道事務所 | 荒砥河岸 | 舟運 | 17世紀代 | 最上川舟運の河岸(舟着場)。陸上の交通の要所でもあった。 舟陣屋(正部陣屋)、造船場などが設けられていた。 |
39 | 最上川 | 最上川 | 東北地方整備局 | 山形河川国道事務所 | 山形城主 最上義光 | その他 | 17世紀代 | 12代山形城主。二日町から八日町に及ぶ商人街の育成、新田開発、最上川の舟運整備など山形藩興隆の祖として数々の偉功が伝えられる。 特に最上川において最大の難所といわれた三難所(碁点、三ヶ瀬、隼の瀬)の河道の開削を推進し、山形から酒田までの航路を開き、最上川の舟運のさらなる発展に寄与した。 三難所は現在、観光船下りが行われている。 |
40 | 最上川 | 最上川 | 東北地方整備局 | 山形河川国道事務所 | 西村久佐衛門 | その他 | 17世紀代 | 京都の商人で米沢藩御用商人であった、西村久左衛門が五百川峡黒滝の開削を計画。元禄6(1693)年に工事を開始し、翌年9月に一万七千両の大金をかけて工事を完成させた。 この黒滝開削により、酒田から約200kmにも及ぶ最上川の舟運路が完成した。 久左衛門が工事の完成を祈願して奉納した鰐口が、白鷹町の佐野原不動尊に伝わっている。黒滝開削にまつわる伝説では、大蛇の頭が祀られたと言われている。 |
41 | 最上川 | 最上川 | 東北地方整備局 | 山形河川国道事務所 | 荒神碑 | 碑 | 19世紀代 | 明治27(1894)年の最上川の氾濫をもたらす、荒ぶる神を鎮めるために建てられた。 |
42 | 最上川 | 貝生川 | 東北地方整備局 | 山形河川国道事務所 | 白鷹正念寺の丈六地蔵 | 祭り・信仰 | 19世紀代 | 白鷹町正念寺の住職が、3年にわたる托鉢により浄財を募って創建したとされる。この地蔵尊は、高さが1丈6尺あるので丈六地蔵尊とよばれている。 足の悪い子どもと地蔵様の足を取りかえっこして、動けなくなった地蔵様を正念寺に安置した言い伝えがあり 「子供の足が立つように」「子供が丈夫に育つように」と、お参りにくる人は、今も絶えない。 |
43 | 最上川 | 置賜白川 | 東北地方整備局 | 山形河川国道事務所 | 飯豊山穴堰 | 水路・河道付替 | 19世紀代 | 飯豊山の雪解け水により水量の多い玉川(小国町)の水を白川に流して、長井・飯豊方面を潤すため開削された用水路。 米沢藩9代藩主上杉鷹山公家臣の黒井半四郎忠寄が着手。 ・寛政10(1798)年に現地調査開始。翌年より工事開始。 ・文政元(1818)年に全長約150m、高さ1.5m、幅0.6mの穴堰完成。 現在、昭和31(1956)年11月に県の指定文化財(史跡)に指定。 |
44 | 最上川 | 最上川 | 東北地方整備局 | 山形河川国道事務所 | 諏訪堰 | 水路・河道付替 | 17世紀代 | 広大な未開地であった白鷹町東根地区(浅立、広野地区)を実り豊かな地にするため、沼沢伊勢、新野和泉が堰を開削。元和元(1615)年に完成した。 |
45 | 北上川 | 胆沢川 | 東北地方整備局 | 胆沢ダム工事事務所 | 旧穴山堰 | 水路・河道付替 | 16世紀代 | 約500年ほど前に開削された胆沢扇状地最古の用水堰で、全長は約18km。そのうち約3kmは岩盤や砂礫をくりぬいたトンネルで、当時の高度な土木技術を駆使して築かれたと考えられている。穴山堰の一部は現在でも利用されている。 |
46 | 北上川 | 胆沢川 | 東北地方整備局 | 胆沢ダム工事事務所 | 茂井羅堰 | 水路・河道付替 | 16世紀代 | 茂井羅堰の功労者として、北郷茂井羅という女性が水不足に苦しむ嫁ぎ先の人々の姿に心を痛め、財産をなげうって開削したといわれている。 |
47 | 北上川 | 胆沢川 | 東北地方整備局 | 岩手河川国道事務所 | 寿安堰 | 堰・ダム | 17世紀代 | 寿安堰は、1618(元和4)年に水沢市福原の館主寿庵によって開削に着手されたが、4〜5年後キリシタン信徒の迫害が強まり追放されたが、その後千田左馬及び遠藤大学が寿庵の後を継ぎ1631(寛永8)年に完成した。その後、1660(万治3)年5月から20有余年をかけた大規模な改修と増削が進められた。藩政時代には現在の水利体系がほぼ完成したという。幹線水路の総延長43キロ、3千ヘクタールの水田に水を与える3筋の堰である。寿安堰は「ド(胴)」と呼ばれる伝統工法が用いられている。胴は長さ2〜3m、直径40p木に、10pぐらいの穴を3〜4ヶ開けて堰巾にたて並べ、水位に応じて栓を抜くことで水勢をつけ下流に押し出すように流すもので、水位と水勢を計算に入れたサイフォン原理を適用しており技術的に優れたものである。昭和22、23(1947、48)年の洪水により、取水口、水路ともに破壊され、復旧工事を行った。その後昭和26(1951)年から国営事業として改修が続けられコンクリート水路に変わった。 |
48 | 北上川 | 北上川 | 東北地方整備局 | 岩手河川国道事務所 | 藩政時代と明治の頃の石張沈床 | 水制・護岸 | 18世紀代 | 藩政時代の寛政3(1791)年に河道保持及び航路維持のため仙台藩において構築した岩出沈床(亀張沈床)に、明治中頃になるが内務省直轄工事により改良を加えた沈床として大きな特徴がある。藩政時代の沈床の基部約70mを残して先端部を撤去し、流心に対し直角方向に水制を附加し、更にT字型に頭部をつけている。規模は幹部長さ114m、巾5.4m、頭部長さ144m、巾7.2m、杭出長114m三通り。構造は石張沈床。昭和40年代の調査においては現存している。 |
49 | 北上川 | 北上川 | 東北地方整備局 | 岩手河川国道事務所 | 明治の頃のしがら工・石張工組合せ水制 | 水制・護岸 | 19世紀代 | 明治中期において内務省直轄工事として施工した水制である。しがら工と石張工の組合せによる水制である。 (イ)〔基部〕長さ12.2m、巾6.5m。構造は水辺に詰杭を打ち、法面に従って雑割石を張り詰めている。 (ロ)〔幹部〕長さ68.5m、巾6.0m。構造は両側に径10pの親杭を打ち、胴木を結び詰杭を打ち雑割石を詰め、更にしがらをあみ、雑割石を張り詰めて施工する。 (ハ)〔頭部〕長さ68.5m、巾7.2m。構造はしがら工に雑割石を張るがブロック寸法は1列と3列目が2.3m×3.5m、2列目が2.6m×3.5mである。昭和40年代の調査においては内務省直轄施工の水制のなかで、原形を止める唯一の水制である。 |
50 | 北上川 | 北上川 | 東北地方整備局 | 岩手河川国道事務所 | 藩政時代の石張沈床 | 水制・護岸 | 17世紀代 | 北上川水運の航路維持、並びに仙台藩相去番所の附属施設として構築されたと思われる。 築造年代は明らかでないが、北上川水運が開かれた正保年間に遡るものと思われる。流心に対し、約45度の角度で下流に向け突き出している石張沈床である。 昭和40年代に露出部を実測した結果では、長さは85m、巾15m〜3.4m、水面上に露出する高さは3.3m〜0.5mである。 |
51 | 北上川 | 北上川 | 東北地方整備局 | 岩手河川国道事務所 | 北上川の舟運 | 舟運 | 17世紀代 | 北上川の舟運の始まりは慶安年間(1648〜1652年)以降といわれている。北上川舟運は明治維新とともに衰退し、明治中期には廃絶するに至ったが、その原因には東北本線の開通その他納税が物納から銭納に変わったことがあげられているが、明治24(1891)年旧4月11日黒沢尻川岸の大火災で舟帯、小繰り舟等大小100余船を燒失するに至ったことが大きい。黒沢尻川岸(北上市)から石巻間は舟運の主役ともいえる舟帯、また上流新山河岸(盛岡市)間は小繰り舟という小型の舟が使用された。舟帯の数は明和の頃は55艘に上った。舟帯:350俵積み大きさ,中幅約4.53m、長さ約18.10m・小繰り舟 120俵積み大きさ 中幅約2.7m、長さ約16.3m 廃絶後まもなく関係施設も払い下げられてしまった。一方、大正末期まで南部造り酒屋の船が登米近くまで毎月1〜2度配達していたが、止むともなしに止んだ。 いま、北上市黒沢尻展勝地の河畔に舟帯が復元されている。 |
52 | 北上川 | 北上川 | 東北地方整備局 | 岩手河川国道事務所 | 藩政時代の杉土手 | 堤防 | 17世紀代 | この堤防は雫石川が激突する合流点に位置し、城下町の洪水対策として、延宝8(1680)年から洪水流の緩和並びに根固めのため岩石投入を行い、元禄15(1702)年に完成した。更に堤防の内外に杉を植え、洪水流による崩壊防止策を講じた。明治初期における杉土手の状況は、長さ13町2間、高さ1丈2尺、馬踏1間3尺、根敷5間、根固めに杉の樹が植えられていた。太平洋戦争により船舶の材料として全部切られ、現在は当時の面影がない。 |
53 | 北上川 | 北上川 | 東北地方整備局 | 岩手河川国道事務所 | 藩政時代の北上川新川掘削 | 水路・河道付替 | 17世紀代 | 盛岡城は、慶長3(1598)年に北上川と中津川の合流する地に構築されたが、北上川は城に向けて大きく迂回している事、更にすぐ下流で合流する雫石川によって、河水の流下が大きく阻害され、築城後度重なる洪水被害を受けてきた。そこで居城と城下を北上川の洪水氾濫から守るため新河道を開削し、北上川の流路を替える大工事を起こした。 工事は寛文12(1672)年に着工し、翌年延宝元(1673)年6月に完成した。現在の旭橋付近から大沢川原を南に向けて一直線に掘削し、大沢川原南端において北上川の河道に合わせたものである。現在の旭橋付近から、開運橋を経て大沢川原筋を南流すると、まもなく左支中津川が合流している。 |
54 | 北上川 | 北上川 | 東北地方整備局 | 岩手河川国道事務所 | 舟橋だった千歳橋 | 橋 | 20世紀代 | 千歳橋は西磐井郡と東磐井郡、気仙郡気仙沼方面を結ぶ唯一の交通の要所であった。当初の渡船は明治37(1904)年まで続き、その後は舟を何艘も並べてその上に板を敷いた舟橋から、やがて船に櫓を組み、その上に桁を渡した船橋に改良され、昭和22(1947)年のカスリン台風による大洪水で流失するまで約50年近く船橋の時代が続いた。橋長150mで、このうち固定部分が両岸で約80m、船の可動部分が中央約70mである。 脚船6艘と中央船2艘の船上に櫓を組みその上に敷板を並べた。(その他4艘) 各橋脚船は上下流側にワイヤーロープで吊っており、増水と同時に水防夫の人達が水位に従ってチェーンブロックでワイヤーを巻き上げていく大変な仕事が伴った。船橋からもぐり橋へと変遷した往時の千歳橋の下流1.2kmの地に、昭和52年5月現在千歳橋が完成している。 |
55 | 北上川 | 北上川 | 東北地方整備局 | 岩手河川国道事務所 | 千歳橋看守人・水防夫 | その他 | 20世紀代 | 千歳橋は明治38(1905)年から舟橋、船橋、そしてモグリ橋の木橋、コンクリート橋へと変遷し現在の新千歳橋が完成する昭和52(1977)年まで80年近くに亘り、船と橋を命がけで守ってきた人達が「千歳橋看守人・水防夫」である。 昭和55(1980)年3月に当時生存されている人達に感謝状が贈られ同時に座談会が開かれている。水防夫は警戒水位7mになると狐禅寺から25人、舞草から25人づつ出動することになっていた。 現在の千歳橋の誕生によって、千歳橋看守人・水防夫は使命を果たしその任を終えた。 |
56 | 北上川 | 北上川・太田川 | 東北地方整備局 | 岩手河川国道事務所 | 藤原氏時代の囲繞堤 | 堤防 | 16世紀以前 | この堤防に関する記録等はほとんど失われ、更にその後における洪水、河道変遷等により壊滅し、今はその片影をとどめない。しかしその概況は平泉古図に明記されており、藤原氏全盛時代、洪水対策として、北上川・衣川沿川に高さ5〜7mの堤防を構築したと書かれている。 |
57 | 北上川 | 北上川 | 東北地方整備局 | 岩手河川国道事務所 | 新山舟橋 | 橋 | 19世紀代 | 新山舟橋は、藩政時代盛岡城下の南入口にあたり、また北上川舟運の起点であった。寛文5(1665)年に土橋がかけられたが、たびたびの洪水で流失して天和2(1682)年に舟橋となった。菅江真澄、高山彦九郎、伊能忠敬、吉田松陰がそれぞれ舟橋を渡った事を記している。舟橋は明治6(1873)年に明治橋が出来るまで続いた。舟橋の構造は大船18、中船2 計20艘を、両岸と中嶋の大黒柱に鎖でつなぎとめて、舟の上には長さ5m〜6mほどの厚板294枚を敷いて人馬が自由に往来出来るようにしたものであった。 現在の明治橋下流100mほどの場所が往時の舟橋、初代明治橋(木橋)跡で、今でも渇水時には杭や大きな石が見えてくる。 |
58 | 北上川 | 北上川 | 東北地方整備局 | 岩手河川国道事務所 | 第522〜528号水制群(右岸26.4km付近6基) | 水制・護岸 | 19世紀代 | 石張工(亀張沈床)。舟運の航路確保のため、旧来の河道を維持するために設置されたと思われる。頭部は流出してしまったものの、明治時代からのものが、今でも機能している。明治37(1904)年の河川台帳図を見ると、当時からこの地域には水制が多いことがわかる。第524甲水制は明治17(1884)年以降に内務省が直轄工事をしたものである。当時は幹部延長31.5m、幅5.4m、頭部延長27.0m、幅7.2mの亀張沈床と称される水制工であった。第528号甲水制は、内務省が直轄施工するところの原形を止める唯一の水制である。同水制は既に頭部を失い、現在は幹部のみが砂利河原に埋没しているが、破損は幹部に及んでいない。これらの水制群によって、当時からの流形が保たれている。 |
59 | 北上川 | 北上川 | 東北地方整備局 | 岩手河川国道事務所 | 第443〜446号水制群(右岸40.0km付近6基) | 水制・護岸 | 19世紀代 | コンクリートブロック水制。舟運の航路確保及び鵜木館の孤立を防止する目的で設置されたと思われる。6基あるうち1基以外は水制頭部にテトラブロックを設置している。水制と水制の間の護岸は、石積と詰杭がなされており、その下に(水中)に粗朶が存在する。明治37(1904)年の河川台帳図を見ると第445号、第446号以外はT字型の頭部があったが、現在は消失している。また、当水制からコンクリートを用いた水制に変わったものと思われ、水制の位置は現在と変わっていない。現在の河道が当時のまま維持されていることを考えると、その役割は大きい。 |
60 | 北上川 | 北上川 | 東北地方整備局 | 北上川下流河川事務所 | 川村孫兵衛重吉の河道付替工事 | 水路・河道付替 | 北上川は古くから、上流・下流を結ぶ舟運路として使われているが、洪水の被害は開発が進むにつれて、一段と厳しいものとなってきた。このような背景をもとに北上川の河道計画は始められた。 川村孫兵衛による藩政初期の改修事業は、新田開発を目的とした治水と、舟運をスムーズにするために、水路を統合、整備しようとしたという二つの目的を持って、河川改修に当たった。 明治44(1911)年より第一期北上川改修事業に着手し、堤防強化・新川開削・浚渫工事等を行い、現在に至っている。 |
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61 | 北上川 | 旧北上川 | 東北地方整備局 | 北上川下流河川事務所 | 北上運河(石井閘門) | 水路・河道付替 | 19世紀代 | 旧北上川と鳴瀬川河口とを結ぶ運河は野蒜築港事業の一環として、明治11〜15(1878〜82)年にかけて、開削された運河である。 明治11(1878)年、大久保利通内務卿の命を受けて、野蒜築港に着手したオランダ人技術者ファン・ドールンは、同港完成後の交通運輸を考えて、北上川と阿武隈川とを結ぶ運河の建設を進言した。当時の土木局長石井省一郎氏が北上運河を開削、運河入口に石造の閘門を設け、開閉式の扉で潮位の高低に備えた。 明治17(1884)年の台風で、野蒜港は潰滅し、運河の利用価値も半減した。平成15年度に北上運河浄化事業の完成とともに運河記念館を開館した。 |
62 | 北上川 | 北上川 | 東北地方整備局 | 北上川下流河川事務所 | 飯野川可動堰 | 堰・ダム | 19世紀代 | 飯野川河道堰は、洪水時に水面の上昇を減ずる目的で堤防に取り付けられた堰で、自由に流入量の調整をする構造になっていた。さらに、北上川新川流量が平水時における灌漑用水、確保塩水朔上阻止および河床の保護を目的とした築造された。 飯野川河道堰に代わる北上大堰の建設により、昭和7(1932)年の完成以来30数年の長きに亘りその働きをしてきたが、その後の治水計画の変遷に伴う、計画流量の増により、その姿はないが、一部その歯車が記念として残っている。 |
63 | 北上川 | 旧北上川 | 東北地方整備局 | 北上川下流河川事務所 | 鴇波洗堰 | 堰・ダム | 20世紀代 | 堰の建設中の大正13(1924)年に地盤が軟弱なため、基礎支持力に不足が生じ本体水通し中央部が沈下したため、工事を中止した。昭和2(1927)年には沈下も停止したと認められ、計画の一部変更に伴う、溢流部を追加、さらに、レール、山形鋼を用いて水通し部の補強工事を行った。当時の土木技術者の苦労が見られる施設である。 新しい分流施設の計画があるが、当施設は保存し、活用することでその姿はとどめることとしている。 |
64 | 北上川 | 旧北上川 | 東北地方整備局 | 北上川下流河川事務所 | 脇谷洗堰・閘門 | 門 | 20世紀代 | この洗堰と閘門の目的は、鴇波洗堰と相まって北上川改修後の平水量を旧北上川に流下させ、高水時には新川の最大流量の一部を旧北上川に分流させる役割の洗堰と、もう一つは北上川を航行する船舶などの利便に供する鋼門からなる特殊構造となっている。 新しい分流施設の計画があるが、当施設は保存し、活用することでその姿はとどめることとしている。 |
65 | 北上川 | 北上川 | 東北地方整備局 | 北上川下流河川事務所 | 若狭土手工事・相模土手工事(宗直の河道変更工事) | 堤防 | 17世紀代 | 慶長10〜16(1605〜1611)年に至る河道変更の大工事を施工し、北上川と迫川の流れを分離する相模土手工事をし、仙北開発の基石を開いた。相模土手の築堤工事がどのような方法、規模でなされたかは不明であるが、曲がっていた北上の流れをまっすぐにしたから、流れが急流となったため、二代宗貞がさしあたって着手しなければならないことは、堤防の強化補修でありこの補強改修された堤防を若狭土手と称している。 このような強行された北上川改修工事の陰に、今に残る人身御供の悲しい物語が語り継がれている。堤防がつくられても、崩れるのは水神の怒りによるためであるという信仰が昔からあり、水神の怒りを鎮めるためには白羽の矢の立った家の娘を生きながら堤防に埋めて、人身御供として神に捧げる、いわゆる人柱としなくてはならなかった。お鶴は若狭土手のいけにえになって捧げられた。かくして若狭土手の長い堤防は完成した。 |
66 | 鳴瀬川 | 鳴瀬川 | 東北地方整備局 | 北上川下流河川事務所 | 野蒜築港 | 舟運 | 19世紀代 | 仙台藩政の頃、宮城県内産業の動脈は北上川と阿武隈川の二大河川を中心とした河川水運であった。 明治時代になり、帆船時代が終わり、汽船航行の時代になったことで、河口港の石巻は衰退してきた。そこで明治政府では東北の民生を振興し、富国工業のためにその拠点となる港湾の築港考えた。その中心人物が中央では内務卿大久保利通であり、現地では宮城県令松平正直の2人である。また候補地の調査選定にはオランダの土木技師ファン・ドールンがあたった。 明治17(1884)年9月の台風の襲来により、河口東部の突堤が破壊され、現在はかつての市街地の煉瓦造りの橋脚や突堤跡の捨石のみが残っている。 |
67 | 鳴瀬川 | 吉田川 | 東北地方整備局 | 北上川下流河川事務所 | 幡谷サイフォン | 水路・河道付替 | 本施設は、吉田川を品井沼と分離するため品井沼の湛水を単独に高城川に排水するもので、吉田川と立体交差して鶴田川から高城川に流出させるために設けられた。 施設は現在も機能を果たしている。 |
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68 | 阿武隈川 | 阿武隈川下流 | 東北地方整備局 | 仙台河川国道事務所 | 粗朶沈床 | 水制・護岸 | 20世紀代 | 中泉護岸工事(昭和12(1937)年施工) 当施工箇所は、水衝部で堤脚洗掘のおそれがあるため阿武隈川下流改修計画にもとづき、阿武隈川本川筋左岸断面自10.00km、至10.16km間、延長140mの護岸で堤防保護を行った。 阿武隈川大堰関連事業等で改修された。 |
69 | 阿武隈川 | 阿武隈川下流 | 東北地方整備局 | 仙台河川国道事務所 | 竹柵 | 水制・護岸 | 20世紀代 | 中泉築堤仮法留工事中 泉築堤は昭和12(1937)年2月1日から着手し、継続施工中の昭和16(1941)年7月23日の台風8号の豪雨による出水で、表小段および法面が決壊した。 復旧計画中で第二予備金がくるあいだ、出水があればますます被害が増大するので、緊急に仮法面を施し、築堤土砂の流失防止を図った。 |
70 | 阿武隈川 | 阿武隈川 | 東北地方整備局 | 福島河川国道事務所 | 舟運 | 舟運 | 17世紀代 | 寛文4(1664)年から江戸の商人らが阿武隈川の改修に乗り出し、福島盆地から河口までの通船を可能にした。明治10(1877)年以降、陸上交通が盛んになり衰える。 江戸時代、信達地方で幕府が軍事、飢饉に備えて貯蔵した御成米や年貢米を江戸に輸送するため舟運利用が始まった。 現在は、まったく行われていない。 |
71 | 阿武隈川 | 阿武隈川 | 東北地方整備局 | 福島河川国道事務所 | 渡し | 舟運 | 17世紀代 | 260年〜270年の歴史があると伝えられている場所もある。 福島市瀬上町のみで「瀬上の渡し」と呼ばれる渡しが、平成7(1995)年まで残っていた。現在は行われていない。 |
72 | 阿武隈川 | 阿武隈川 | 東北地方整備局 | 福島河川国道事務所 | 信夫ダム | 堰・ダム | 20世紀代 | 河川法による許可年月日:昭和11(1936)年10月6日 設置年月日:昭和14(1939)年10月 昭和26(1951)年、電力事業再編成で東北電力に移管し、現在に至る。 東北電力水力発電用取水堰 総貯水量1,872×103m3 昭和48(1973)年改修に着手し、24億円を投じ昭和63(1988)年に完工した。 |
73 | 阿武隈川 | 阿武隈川 | 東北地方整備局 | 福島河川国道事務所 | 蓬莱ダム | 堰・ダム | 20世紀代 | 昭和11(1936)年:東北振興電力株式会社が着工。 ・東北電力水力発電用取水堰、総貯水量:3,803×103m3 ・当時の建設費で935万。現在では500億はかかる。 ・ダムで堰き止められた水は、下流の蓬莱発電所まで川沿いの山中に埋設された導水管で引かれ、電気を起こす。 導水管は、L=7.5km、勾配は1/1,600、最大落差77.6mの高さから発電所へ落とす。 ・最大出力は38.500kw、福島市内の一般家庭の生活を一日まかなえる。 |
74 | 阿武隈川 | 荒川 | 東北地方整備局 | 福島河川国道事務所 | 霞堤 | 堤防 | 17世紀代 | 水防林の役目を果たす水林自然林の中に、川縁に苔むした石積みの堤防がある。堤防は霞堤と呼ばれ、古いものでは江戸時代初頭から築かれた。 霞堤は一直線ではなく、水流に対じするように斜めにくしの歯のように何本も並ぶ。堤の隙間を開けることで、水圧を分散して水の勢いを弱めるために工夫されている。 過去、水防林と霞堤の「二段構え」で田畑への洪水の侵入をくい止めてきたが、現在は建設省の砂防事業によって「床固ダム」が階段状に整備され新旧の水防施設を見ることができる。 |
75 | 阿武隈川 | 荒川 | 東北地方整備局 | 福島河川国道事務所 | 水害防備林 | 水防 | 19世紀代 | 始まりは自然発生。時期不明、植林は19世紀に入ってから。 ・地蔵原付近からさくら橋までの約7kmにわたり、両岸に連なる。 ・アカマツが主木。 ・過去のたび重なる洪水から土石流を防ぐ。 床固、霞堤とあわせて荒川における治水対策として位置づけられる他、水林公園や民家園として、市民の憩いの場となろうとしている。 |
76 | 阿武隈川 | 荒川 | 東北地方整備局 | 福島河川国道事務所 | 地蔵原堰堤 | 堰・ダム | 20世紀代 | 大正9(1920)年:工事着工 大正14(1925)年:工事完成荒川の土砂流出防止のための施設であり、阿武隈川上流改修のはじまり。 構造:石積粗石コンクリート,床固:225.9m 現存している。 |
77 | 利根川 | 鰐川 | 関東地方整備局 | 霞ヶ浦河川事務所 | 居切掘 | 水路・河道付替 | 19世紀代 | 霞ヶ浦の洪水低下計画は古くから行われ、中でも現在の鰐川干拓地から鹿島灘へ通ずる放水路を明治2(1869)年に着手し、その2年後に竣工、疎通したが、海岸口が砂で埋まるなどの障害を生じ、人々が期待した効果は得られなかった。 その後は海岸口を締め切り用水河川としてされるようになり、現在は堀割川にその跡を見ることができる。 |
78 | 利根川 | 北浦 | 関東地方整備局 | 霞ヶ浦河川事務所 | 勘十郎掘 | 水路・河道付替 | 18世紀代 | 宝永4(1707)年に江戸・東北間の物流の重要な地点に運河の築造をおこなった。しかし、この大工事は日雇い銭が支払われず、やがて農民達が一揆に発展し、宝永6(1709)年1月に中止となった。 藩政改革の請負人として松波勘十郎は運河工事をおこなった。計画された運河は、紅葉運河(涸沼西岸の海老沢から巴川流域の紅葉までの約10km)、大貫運河(大洗町大貫から涸沼川までの約1km)である。 ・大貫運河は一部が舟留として残っている。 ・紅葉運河は、茨城町の城之内、鉾田町の紅葉に跡地がある。 |
79 | 利根川 | 前川 | 関東地方整備局 | 霞ヶ浦河川事務所 | 仙台がし(河岸) | 舟運 | 17世紀代 | 三方を水に囲まれた潮来地方は、古くから水運の要所であった。特に江戸幕府が成立すると、東北諸藩の年貢米や諸物資が内川廻り潮来経由で江戸に回漕されるようになった。当時、大量の物資を輸送するのに、水上輸送が陸上輸送よりも便利で運賃も安かったからである。 常陸利根川と北浦を結ぶ前川に沿った大字潮来と大字辻の境に、「此のあたり旧跡仙台がし」と刻まれた石碑が建っている。この辺、一帯が江戸時代の仙台藩蔵屋敷の跡地である。 |
80 | 利根川 | 横利根川 | 関東地方整備局 | 霞ヶ浦河川事務所 | 治水の父・須田誠太郎 | その他 | 20世紀代 | 1881(明治14)年に行方郡に生まれた誠太郎は、当時3年に一度しか満足に米が穫れない水害常襲地帯であった行方郡の実態を知るにつれ、彼の治水への思いが強くなり、1917(大正7)年に横利根閘門を完成させた。この功績をたたえ現在も北利根橋のたもとに碑が建てられている。 |
81 | 利根川 | 霞ヶ浦 | 関東地方整備局 | 霞ヶ浦河川事務所 | 色川三郎兵衛 | その他 | 19世紀代 | 当時、土浦の水害の原因の一つに、霞ヶ浦からの逆流があり、この防止策として堤防の必要性が高まっていた。しかし、町の財政では湖岸を築堤するには負担が大きく、土浦の治水対策は難題であった。色川三郎兵衛も同様に対策に頭を悩ましていた一人であったが、日本鉄道株式会社による上野〜水戸間の鉄道敷設計画を知り、土盛りの鉄道路線をもって霞ヶ浦からの逆流防御堤として機能させることを考えついた。だが、すでに路線計画は土浦町北部の立田付近を通過させることで成立していたことから、色川は霞ヶ浦湖岸に沿うよう町の東側に路線を変更する運動を展開した。その結果、路線は現在の常磐線に変更となり、明治28(1895)年11月に土浦〜友部間が完成し、常磐線は湖岸堤の機能を付加することとなった。 |
82 | 利根川 | 鬼怒川 | 関東地方整備局 | 下館河川事務所 | 霞堤 | 堤防 | 大正15(1926)年の鬼怒川改修計画策定時の築堤工事は、弱小部分を拡築し無堤地で氾濫の被害が大きい箇所に新堤を築くもので、霞堤を残していった。鬼怒川の洪水時に遊水効果を持たせるために造られたものである。現在でも洪水時には、遊水効果が期待できる。 | |
83 | 利根川 | 鬼怒川 | 関東地方整備局 | 下館河川事務所 | 水制 | 水制・護岸 | 20世紀代 | 水制工は、築堤に伴い低水路が堤防に接近するところを主として、護岸を張った前面に水制工を設置していった。砂ヶ原地先は、鬼怒川で護岸水制が始めて施工された箇所である。約20cm角の鉄筋コンクリート柱を3本組み合わせた「牛わく水制」の簡易的なものである。 現在でも、堅固な造りで出水に備えている。 |
84 | 利根川 | 鬼怒川 | 関東地方整備局 | 下館河川事務所 | 鎌庭捷水路 | 水路・河道付替 | 20世紀代 | 鬼怒川は茨城県結城郡千代川村地先で湾曲が甚だしく、出水時には流水の疎通を著しく妨げ水衝部となり、昔から堤防護岸の維持に苦慮してきた。そこで、昭和3(1928)年2月から昭和10(1935)年9月にかけて掘削工事を行った。またこれに先立って昭和10(1935)年3月に通水をした。旧河道4,400mあったのを新河道掘削により約2,050mにした。低水路敷幅:60m 掘削土量:約124万m3。 鎌庭捷水路が、現在の鬼怒川の河道としてなっており、その後の計画の改訂等により低水路幅等諸元が変化している。 |
85 | 利根川 | 鬼怒川 | 関東地方整備局 | 下館河川事務所 | 阿久津河岸 | 舟運 | 17世紀代 | 慶長5(1600)年に宇都宮から氏家へ通じる街道が開かれてから、各地に点在する徳川領からの荷駄の輸送が容易となり、各地に河岸が創設された。その一つである阿久津河岸は開設当初は築城用材、兵糧米の輸送など軍事目的を主として機能したといわれる。しかし、参勤交代の制度化、幕藩体制の確立、江戸の発展とともに、周辺諸藩の物資も集まり、江戸の生活を支える物資を搬送することになった。宇都宮藩では河岸を徴税の場として領内の七河岸を決め、その一つが阿久津河岸である。また、七河岸の扱い荷物の均衡を図るなど河岸の権利と利益を守った。 現在、どこの河岸跡地も年々の洪水によって荒廃し、その姿を止めているものはない。 |
86 | 利根川 | 小貝川 | 関東地方整備局 | 下館河川事務所 | 水制 | 水制・護岸 | 直径20cm程度の松杭によって2〜4列設置されている。 現在もその機能は保たれている。 |
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87 | 利根川 | 小貝川 | 関東地方整備局 | 下館河川事務所 | 伊奈神社 | 祭り・信仰 | 20世紀代 | 16世紀後半(江戸時代)に利根川東遷事業を計画し、実行した伊奈家の中で、福岡堰の恩人である伊奈半十郎忠治を祭神している。昭和16(1941)年4月に福岡堰、谷原領開発の恩人伊奈半十郎忠治を祭神とし、福岡堰普通水理組合の氏神として伊奈神社が創建され現在に至っている。小貝川福岡堰見守る大地に建ち、福岡堰土地改良区が管理している。 |
88 | 利根川 | 小貝川 | 関東地方整備局 | 下館河川事務所 | 福岡堰 | 堰・ダム | 18世紀代 | 亭保7(1722)年に「大洗」と「前洗」の2つの洗堰を毎年作っては壊すという作業を始めたのが最初で、その後明治19(1886)年に初めて木造の堰となりほぼ10年毎に改築され、大正12年にコンクリート造となり、昭和46(1971)年に現在の福岡堰となっている。山田沼の開墾の際に小貝川の水をせき止め、ここで十分に貯水された後、導水路を通して用水路まで水を引き潅漑を行う。 現在の福岡堰は、伊奈神社と共に桜の名所として知られ、構造は、可動堰、固定堰 管理橋からなり、可動堰はシエル構造越流門扉である。 |
89 | 利根川 | 小貝川 | 関東地方整備局 | 下館河川事務所 | 岡堰 | 堰・ダム | 18世紀代 | 今から390余年前に小貝川に横断土堤を築いたのが岡堰の礎となった。寛永7(1630)年に永久的な土堰を築いた。構造は、丸太造りで「大洗堰」「小洗堰」「孫洗堰」であった。その後、幾度かの洪水で崩壊し、昭和21(1946)年3月に可動堰、昭和35(1960)年3月に洗堰のタイプの構造となった。そして、平成8(1996)年3月に現在の7門タイプの構造となった。岡堰は、藤代町及び取手町の水田、畑の潅漑用水取水を容易に行うために小貝川を堰止め貯水を目的として造られた施設である。 現在の岡堰は、平成8(1996)年3月に完成し、堰堤300m、ゲート7門タイプの堰として生まれ変わっている。桜の名所として、茨城県の百景にあげられている。 |
90 | 利根川 | 小貝川 | 関東地方整備局 | 下館河川事務所 | 水難の碑 | 碑 | 20世紀代 | 大正3(1914)年4月9日に小貝川渡船場において、約3.6mの水位上昇があり、これにより11名の死者を出す転覆事故が起こった。11名中8名が女学校の生徒であった。 この後、大正15年に大和橋が架けられた。当時の渡船組合(新井木 36名、箕輪 8名)によって建立したものである。 管理者が不明である。 |
91 | 利根川 | 利根川 | 関東地方整備局 | 利根川上流河川事務所 | 会の川締切 | 水路・河道付替 | 16世紀代 | 武蔵国の新田開発や水害防止、舟運整備、江戸城を守る外堀等、その目的については諸説ある利根川の東遷(とうせん)事業の第一期事業。 徳川家康の四男、忍城(おしじょう:埼玉県行田市)の城主松平忠吉の命により筆頭家老小笠原三郎左右衛門によって開始された。 埼玉郡上新郷(かみしんごう:現埼玉県羽生市)の北で2派に分かれていた利根川の流れのうち、本川俣(ほんかわまた:埼玉県羽生市)で会の川を締め切り、浅間川を幹川とする流れに瀬替した。 |
92 | 利根川 | 利根川 | 関東地方整備局 | 利根川上流河川事務所 | 太日(ふとい)川への瀬替 | 水路・河道付替 | 16世紀代 | 川口地先で会の川(利根川旧川)と太日川の間を開削し、会の川に合流した利根川の流れを太日川へ瀬替した。 |
93 | 利根川 | 利根川 | 関東地方整備局 | 利根川上流河川事務所 | 中条堤 | 堤防 | 17世紀代 | 埼玉県行田市で利根川に合流する旧堤防。別称「論所堤」。築堤年代は定かではないが、慶長5(1600)年頃から明治43(1910)年の大水害において破堤に至るまで、上流部で溢れた洪水の遊水、貯留施設として機能していた。 利根川左岸の文禄堤(群馬県千代田町付近)と中条堤とに挟まれた洪水流は狭窄部となる葛和田(埼玉県妻沼町)でせきあげを起こし、中条堤より上流で滞留する。これにより葛和田より下流の利根川の洪水被害を軽減した。 しかし、水害頻度の高まる中条堤上流側と、上流側よりは安全度の高まる中条堤下流側との対立を招く堤防でもあった。明治43(1910)年の破堤後の修復を巡っては埼玉県議会で警官隊が出動する騒ぎとまでなり、全面改修は行われなかった。昭和初期に連続堤が築堤されたことで論争は終結した。 |
94 | 利根川 | 利根川 | 関東地方整備局 | 利根川上流河川事務所 | 水塚 | 水防 | 18世紀代 | 宅地の一角を特別高く盛土し、そこに設けた避難用の建物。米や穀物等生活物資を蓄えておき、洪水時には避難場所として利用された。 |
95 | 利根川 | 利根川 | 関東地方整備局 | 利根川上流河川事務所 | 備前渠用水 | 水路・河道付替 | 17世紀代 | 伊奈一族初代・伊奈忠次(いなただつぐ)により、仁手村(埼玉県本庄市)で烏川から取水し、利根川と平行する形で開削された。、下流域の水田潅漑に利用されている。 |
96 | 利根川 | 利根川 | 関東地方整備局 | 利根川上流河川事務所 | 伊奈氏(伊奈一族) | その他 | 17世紀代 | 徳川家康の江戸城入府以降、利根川の河川改修に於いて中心的役割を担った一族。 伊奈忠次をはじめとして代官頭及び関東郡代職を代々世襲した。 同家の河川技術は「伊奈流」あるいは「関東流」とも呼ばれるもので、武田信玄の河川技術「甲州流」をもとにつくられた流儀である。 |
97 | 利根川 | 利根川 | 関東地方整備局 | 利根川上流河川事務所 | 関東流(伊奈流) | その他 | 17世紀代 | 中小洪水に対しては自然堤や低く築造した不連続堤によって水害を防ぎ、これを越えるような大洪水に対しては、堤防際に設けた遊水池や下流側に設けた控堤などによって防ぐ方法。 洪水を完全に防がず、溢れさせた洪水によって耕地一帯に肥沃な土を堆積させて米つくりのための良質な土壌作りも同時に行うなど、治水と農業を両立させるものであった。 |
98 | 利根川 | 利根川(横利根川) | 関東地方整備局 | 利根川下流河川事務所 | 横利根閘門 | 門 | 20世紀代 | 江戸時代からの那珂湊と利根川を結ぶ周船ルートである横利根川の航路の確保と出水時に利根川の水が霞ヶ浦に逆流するのを防ぐために設置された。平成6(1994)年には劣化の為、当時の手法を用い再生工事をおこなった。平成12(2000)年には、土木技術史上 煉瓦造閘門の遺構として国の重要文化財に指定された。 |
99 | 利根川 | 大谷川 | 関東地方整備局 | 日光砂防事務所 | 空石積み工法 | 砂防工 | 20世紀代 | 原形は明治初期に考案されたもので、野面石を使用していたものが割り石を使うようになった。初期の堤体中身は土砂であった。 大正7(1918)年に日光砂防工事事務所発足後の最初に手がけた砂防ダム。 大正8(1919)年5月に完成したが、同年9月の台風による洪水で流失。写真のみを残す。 |
100 | 利根川 | 大谷川 | 関東地方整備局 | 日光砂防事務所 | 練石積み工法、粗石コンクリート工法 | 砂防工 | 20世紀代 | 当該施設は、昭和8(1933)年に完成したもので現場の地形を利用した特殊な形状をしている。堤体の中身は、高価なコンクリートを減じるために粗石(大き目の玉石)を混入している。 昭和41(1966)年の出水により一部被災し、一部コンクリートで覆われているが、基本的な形状は完成当時のままで現存している。 |
101 | 利根川 | 大谷川 | 関東地方整備局 | 日光砂防事務所 | 戦前の工事設計書 | その他 | 20世紀代 | 大正13(1924)年から昭和20(1945)年までの直営工事の設計書。 傷みも少なく、保存状態は良好。 |
102 | 利根川 | 大谷川 | 関東地方整備局 | 日光砂防事務所 | 工事写真帳 | その他 | 20世紀代 | 事務所発足当時の工事写真 一部の写真が欠落しているが、保存状態は良好。 |
103 | 利根川 | 大谷川 | 関東地方整備局 | 日光砂防事務所 | 内務省直轄工事研究会資料抄 | その他 | 20世紀代 | 昭和22(1947)年6月に開催された研究会の資料。山本三郎の論文と思われる「河川工事標準工法に関する提案」(成功せる護岸水制の実例)が掲載されている。 用紙の中性化と思われる傷みは多少あるが、保存状況は良好。 |
104 | 利根川 | 神流川 | 関東地方整備局 | 高崎河川国道事務所 | 霞堤 | 堤防 | 神流川には数多くの霞堤が存在している。霞堤の効果は、洪水時に堤内側へ水を溢れさせて遊水効果をもたせ、利根川への流入量を増大させないこと。造られた年代は不明。 | |
105 | 利根川 | 烏川 | 関東地方整備局 | 高崎河川国道事務所 | 長野堰 | 水路・河道付替 | 20世紀代 | 高崎地域の用水不足解消として、戦国時代の武将長野氏が16世紀の初期に計画、明治37(1904)年に竣工。用水は、烏川上流の群馬郡榛名町本郷地から取水し、高崎地域内の水田を潅漑して高崎市岩鼻町の井野川端で再び烏川に合流する。 |
106 | 利根川 | 烏川 | 関東地方整備局 | 高崎河川国道事務所 | 倉賀野川岸跡の碑 | 碑 | 16世紀代 | 戦国時代から江戸時代にかけ、上州、信州、越後から送られた穀物等を烏川、利根川を船運で送るために烏川倉賀野に設置された。 |
107 | 利根川 | 烏川 | 関東地方整備局 | 高崎河川国道事務所 | 聖石 | 舟運 | 聖石は、昔榛名山や赤城山が大噴火したとき泥流に乗って流れてきたものといわれている。弘法大師が、この石の上に立ったとの伝説から聖石と呼ばれている。江戸時代には、高瀬舟が烏川から利根川、江戸川と通じて江戸湾へ通った頃、船繋ぎ石として利用された。 | |
108 | 利根川 | 烏川 | 関東地方整備局 | 高崎河川国道事務所 | 水制 | 水制・護岸 | リサイクルで使用済みの鉄道レールを使い、水制を作成した。作成年次は不明。 | |
109 | 利根川 | 烏川 | 関東地方整備局 | 高崎河川国道事務所 | 倉賀野河岸 | 舟運 | 16世紀代 | 利根川と烏川の合流点からおよそ12kmさかのぼった烏川の左岸に発達した。利根川を通じる烏川の船運は、江戸からの物資を内陸部へ運ぶとともに江戸文化を西上州や信州、そして越後へと伝える役割を果たした。 |
110 | 利根川 | 烏川 | 関東地方整備局 | 高崎河川国道事務所 | 佐野の舟橋の碑 | 碑 | 「恋の舟橋」の伝説を歌った万葉集巻14所収の古歌。 | |
111 | 利根川 | 烏川 | 関東地方整備局 | 高崎河川国道事務所 | 水神祭り | 祭り・信仰 | 水神祭りは、大杉様と呼ばれる祭りの系統。玉村町五料は、利根川中流の右岸、烏川との合流付近に位置して水陸交通の要衝にあった。とくに五料には水運に携わる人が多く、大杉信仰が運ばれ定着した。 | |
112 | 利根川 | 渡良瀬川 | 関東地方整備局 | 渡良瀬川河川事務所 | 修堤碑 | 碑 | 20世紀代 | 明治43(1910)年8月の出水による災害復旧について、石碑に残している。明治44(1911)年11月建立。 明治時代、利根川に最大の被害を与えた。関東地方全体で死者・行方不明者847名。家屋全壊2,121戸、家屋流出2,796戸。堤防が各所で破堤。大利根百話。 東武鉄道、佐野線右岸堤防にある。注意して見ないと見落とす。歴史的に貴重な記述となっている。 |
113 | 利根川 | 渡良瀬川 | 関東地方整備局 | 渡良瀬川河川事務所 | 雷電神社および墓地 | 祭り・信仰 | 19世紀代 | 天保5(1834)年の建立。板倉町雷電神社と同様、由緒あるものである。 往時、渡良瀬川が矢場川筋を流れていたときの自然堤防上に建立されたと思われる。 旧矢場川水門施工が昭和63(1988)年に改築され、矢場川放流路の高水敷となっている箇所に存置。 |
114 | 利根川 | 矢場川 | 関東地方整備局 | 渡良瀬川河川事務所 | 水害記念碑 | 碑 | 20世紀代 | 明治43(1910)年8月災害の詳細が刻印。 渡良瀬川が矢場川河道を流れていた時期の被害状況・復旧状況等の記念碑。明治44(1911)年10月に建立した。 堤防川裏の草むらのなかに建っている。 |
115 | 利根川 | 渡良瀬川 | 関東地方整備局 | 渡良瀬川河川事務所 | 矢場堰 | 堰・ダム | 20世紀代 | 農業用水取水の為の堰があったが、上流の太田頭首工の完成により廃止。 |
116 | 利根川 | 渡良瀬川 | 関東地方整備局 | 渡良瀬川河川事務所 | 三栗谷堰 | 堰・ダム | 20世紀代 | 農業用水取水の為の堰があったが、上流の太田頭首工の完成により廃止。 |
117 | 利根川 | 渡良瀬川 | 関東地方整備局 | 渡良瀬川河川事務所 | 木橋(旧緑橋) | 橋 | 20世紀代 | 平成7(1995)年に木橋(もぐり橋)から、新橋に架け替えられた。 |
118 | 利根川 | 渡良瀬川 | 関東地方整備局 | 渡良瀬川河川事務所 | 岡登用水堀再興の碑 | 碑 | 18世紀代 | 江戸時代に設けられた用水堀再興記念碑。 |
119 | 利根川 | 渡良瀬川 | 関東地方整備局 | 渡良瀬川河川事務所 | 広沢用水竣工記念碑 | 碑 | 18世紀代 | 大同年間(806〜810年)に開設された広沢用水(大同堀)の昭和35(1960)年に行った抜本的改良工事の竣工記念碑。 |
120 | 利根川 | 渡良瀬川 | 関東地方整備局 | 渡良瀬川河川事務所 | 高津戸ダム竣工記念碑・高津戸ダム建設殉職者慰霊碑 | 碑 | 20世紀代 | 昭和51(1976)年に竣工した高津戸ダムの記念及び慰霊碑。 |
121 | 利根川 | 渡良瀬川 | 関東地方整備局 | 渡良瀬川河川事務所 | 歌碑 | 碑 | 20世紀代 | 風人短歌社創立15周年を記念した歌碑。 |
122 | 利根川 | 渡良瀬川 | 関東地方整備局 | 渡良瀬川河川事務所 | 太田頭首工竣工記念碑 | 碑 | 20世紀代 | 江戸時代よりあった待、矢場、三栗谷堰を統合した太田頭首工の竣工記念碑。 |
123 | 利根川 | 桐生川 | 関東地方整備局 | 渡良瀬川河川事務所 | 友禅流し | その他 | 18世紀代 | 桐生川稲荷橋上流で7〜8月の土・日曜日に友禅流し実演が行われた。 |
124 | 利根川 | 桐生川 | 関東地方整備局 | 渡良瀬川河川事務所 | 道路、橋梁改修記念碑 | 碑 | 20世紀代 | 昭和8(1933)年竣工した濁沼地区の道路河川竣工記念碑。 |
125 | 利根川 | 江戸川 | 関東地方整備局 | 江戸川河川事務所 | 江戸川開削 | 水路・河道付替 | 17世紀代 | 利根川東遷の一環として、寛永年間に初代関東郡代となる伊奈半十郎忠治の家来小島庄右衛門正重により関宿・金杉(松伏町)間の開削を行い、太日川に繋げた。これは庄内領の水害防止と、江戸への舟運のためと言われている。 |
126 | 利根川 | 江戸川 | 関東地方整備局 | 江戸川河川事務所 | 江戸川の舟運 | 舟運 | 17世紀代 | 東北・北関東からの物資輸送は利根川江戸川を経由して江戸へと運ばれた。また、舟運の発達により江戸川沿川には醤油や味噌等の産業が発達した。 |
127 | 利根川 | 江戸川 | 関東地方整備局 | 江戸川河川事務所 | 刀根河重疎碑 | 碑 | 18世紀代 | 寛永年間に開削された江戸川と金杉(松伏町)で合流する庄内古川は、洪水時に江戸川からの逆流により、流域に甚大な水害をもたらした。この惨状を金杉村の名主らは親子三代に渡り幕府に請願し、享保13(1728)年ついに認められ、井沢弥惣兵衛為永により江戸川の直流化と庄内古川と江戸川の合流点を下流へと付け替えた。この経過は刀根河重疎碑に記されている。 |
128 | 利根川 | 江戸川 | 関東地方整備局 | 江戸川河川事務所 | 棒出し | 水制・護岸 | 18世紀代 | 江戸時代に江戸川の洪水を減らすため、左右岸に突堤(棒出し)を設け権現堂川から江戸川へ流入量を調整していた。その後明治時代数回にわたり改修が行われ、幅約17mのコンクリート張りとなった。棒出しの設置により、利根川下流部の水害が増大することとなった。 |
129 | 利根川 | 江戸川 | 関東地方整備局 | 江戸川河川事務所 | 矢切の渡し | 舟運 | 現在、江戸川に残る唯一の渡し。最近の説によると14世紀後半には渡し場として存在していたという。 | |
130 | 利根川 | 旧江戸川 | 関東地方整備局 | 江戸川河川事務所 | Yedogawa Peil | その他 | 19世紀代 | オランダ人技師リンドにより堀江に設置された量水標の零点を「Yedogawa Peil」とし、現在も利根川水系の河川工事・管理の基準の基になっている。 |
131 | 利根川 | 利根運河 | 関東地方整備局 | 江戸川河川事務所 | 利根運河 | 水路・河道付替 | 19世紀代 | 利根川と江戸川を結ぶ舟運の短縮ルートとして利根運河は、茨城県令であった人見寧と県議会議員であった広瀬誠一郎が主体となって設立した利根運河株式会社によって、オランダ人技師ムルデル設計施工により明治23(1890)年に竣工した。一日に百隻もの高瀬船や汽船が往来したが、昭和16(1941)年の水害により、利根運河は通行不能になり、その役目を終えた。 |
132 | 荒川 | 荒川 | 関東地方整備局 | 荒川上流河川事務所 | 横提 | 堤防 | 20世紀代 | 大正7(1918)年の「荒川上流改修計画」において荒川の特性をたくみに取り入れた横堤が計画された。横堤の計画は、遊水能力の現況を保存し、大出水時に洪水の勢を緩和し、下流の流量を調節し、洪水の流勢を抑制して堤脚の安全を期し、作物を保護し、沈殿によって高水敷に堆積を行い、澪筋を誘導して河道に集中させ、減水を速かにする為に横堤を築設し以て改修の効果を上げる。「荒川治水誌資料 第3部 工事編 特殊堤たる荒川横堤について 昭和29年8月 より」 計画当初27箇所の内、荒川第一調節池により1箇所撤去されたものの、現在でも 26箇所現存する。 |
133 | 荒川 | 荒川 | 関東地方整備局 | 荒川上流河川事務所 | 川島領囲提 | 堤防 | 16世紀代 | 川島領囲堤は、慶長年間(1596〜1615年)の増築の後、久下開削による洪水流増大のため、当時から川越藩の穀倉であった川島領を水害から防ぎ、農業生産力の安定をはかるため増築、増強が行われた。16世紀の終わり頃には川島領には小規模ながら囲繞堤があったとされている。 伊奈備前守忠次によって川島領の増築が慶長年間(1596〜1615年)に行われたことが伝えられている。 川越城主松平伊豆守信綱が囲い堤を慶安年間(1648〜52年)に増築。 川越城主松平大和守斉典の命により弘化3(1846)年に荒川通り川島領惣囲堤を増強。 |
134 | 荒川 | 荒川 | 関東地方整備局 | 荒川上流河川事務所 | 樋口村寛保2年洪水位磨崖標 | 碑 | 18世紀代 | 寛保2(1742)年の洪水について、長瀞町立第二小学校付近の断崖に「水」その下方に「寛保2年壬戌8月10日、亥刻大川水印迄、田方田弥兵衛、滝上市右衛門」と刻んである。荒川川岸から約300mの北側断崖にあり、その水位は、現在の水面上約20mの所にある。現在の洪水時には10m程度の水位があったといわれている。また、国道140号脇に案内看板もある。 |
135 | 荒川 | 荒川 | 関東地方整備局 | 荒川上流河川事務所 | 久下開削 | 水路・河道付替 | 17世紀代 | 江戸時代以前の荒川は、元荒川筋を流れ、越谷付近で当時の利根川(古利根川)に合流していた。「利根川の東遷」の次ぎに熊谷地先の久下の開削による「荒川の西遷」を伊奈備前守忠次の子半十郎忠治により行われた。寛永6(1629)年河道を久下地先から和田吉野川まで開削し、入間川水系に付け替えられ隅田川を経て東京湾に注ぐ流路に変わった。この瀬替工事の目的は、@埼玉平野東部を洪水から守り、新田開発を促進すること A熊谷・行田などの古い水田地帯を守ること B舟運の開発 C中山道の交通確保 D江戸城下の治水 などであった。当時の開削のままではないと思われるが、その流路は当時のままである。 |
136 | 荒川 | 越辺川・都幾川 | 関東地方整備局 | 荒川上流河川事務所 | 煉瓦造り樋管 | 門 | 煉瓦樋管が埼玉県内に多いのは、煉瓦が埼玉県の地場産業の製品で、地元出身の財界人渋沢栄一と、それを支えた地元の努力にある。深谷の地に煉瓦工場を誘致したのは渋沢栄一である。彼は、それまで仕事といえば農業しかなかった地域に工場を建設し、地元産業と同時に日本の近代産業の育成を図った。地元はそれにこたえ、煉瓦樋管の建設を担った。地元の中には煉瓦工場が不況の時、市場価格より高い値段で煉瓦を購入したところもあった。埼玉県内には約30の煉瓦造りの樋管があり、その中の9樋管が荒川上流管内にある。樋管名は以下の通り鎌田樋管、高畑樋管、矢来樋管、前樋管、前吐樋管、奈目曽樋管、三原樋管、四反田樋管、小剣樋管。 | |
137 | 荒川 | 荒川 | 関東地方整備局 | 荒川上流工事事務所 | 荒川上流改修60年史 | その他 | 荒川上流の改修60年に鑑み工事史を編集した。 主な内容 荒川の工事(久下開削、川島領囲堤等)、著名な水害と被災の状況(寛保2年洪水位磨崖標等)、荒川上流改修工事(荒川横堤工事等) |
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138 | 荒川 | 荒川 | 関東地方整備局 | 荒川上流工事事務所 | 荒川 人文T | その他 | 埼玉県民に荒川の認識を深めてもらうために発刊 主な内容 荒川の歴史と地理(久下開削、川島領囲堤、荒川の水運等) |
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139 | 荒川 | 荒川 | 関東地方整備局 | 荒川上流工事事務所 | 吉見の水害物語 | その他 | 吉見町の昔ばなしシリーズの水害編 川に関係する主な内容 明治43(1910)年〜昭和22(1947)年洪水の故清水幸太郎氏の記録文書 |
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140 | 荒川 | 関東地方整備局 | 荒川上流工事事務所 | 荒川 169キロのみちのり | その他 | 毎日新聞埼玉版の「荒川」シリーズの再構成 川に関係する主な内容 鉄砲だし(中津川)、どろいんきょ(上尾市の伝統行事)、西川材(高麗川の筏流し) |
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141 | 富士川 | 富士川 | 関東地方整備局 | 甲府河川国道事務所 | 雁堤(かりがねつつみ) | 堤防 | 「雁堤」(かりがねつつみ)は富士川が山間部から富士平野に出たところに築かれている。「雁堤」は左岸側の派川に添って起こる洪水氾濫を治め、新田を開墾するために富士川の流路を安定させるための施設である。扇頂地点に「出し」を、下流には「備前堤」(横堤)や「柳堤」、「雁堤」(本堤)を築造した。一連の施設は古郡氏一族によって元和7(1621)年に着手され3代に渡り幾たびかの破堤に合いながら改良を加え延宝2(1674)年に完成した。この堤防を高いところから見ると全体の形が空を飛ぶ「雁」の姿に似ていることから「雁堤」の名がつけられた。 | |
142 | 富士川 | 富士川 | 関東地方整備局 | 甲府河川国道事務所 | 富士川舟運 | 舟運 | 角倉了以によって通船が可能になった富士川は、その後明治期に至るまで回米、塩などの輸送に重要な役割を果たすことになり、隆盛を誇った。いわゆる富士川舟運のはじまりである。このような内陸水運は、わが国における交通史上の大きな転換期とされる近世初頭から明治中期にわたり物資輸送の主要な手段の一つとなった。 富士川を上り下りする舟は「笹舟」あるいは「高瀬舟」と呼称された。その開鑿(かいさく)工事が難業であったことからもわかるように、岩石の多い急流用に工夫された構造を持ち、全体的に薄型で底は平板になっていた。この舟で三河岸から駿州岩淵まで下ったのである。 下りはわずか6〜8時間であったが、帰りは4日を要したのである。急流を船首に立った船頭の竿一本で岩を避けながら一気に下るが、上りは人力で河原をさかのぼらなければならなかった。 |
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143 | 富士川 | 釜無川 御勅使川 |
関東地方整備局 | 甲府河川国道事務所 | 信玄堤治水システム | 堤防 | 1542(天文11)年の釜無川、御勅使川の大氾濫が契機となり、武田信玄によって治水システムの構築が始められ約20年の歳月をかけて完成した。工事の主眼は、御勅使川の流路安定と平地で合流する御勅使川を上流の崖「高岩」に向かわせ自然の要害で合流エネルギーを受け止める。また、平地部は「霞堤」を2重3重に築き氾濫しても次の霞堤で阻み洪水を釜無川に戻しやすくした。御勅使川が山間部から扇状地へ出るカ所(扇頂)に「石積み出し」と呼ばれる斜堤・横堤を8カ所(一番出しから八番出し:一番出しから三番出しは現存)築き流路を北に振った。扇状地を流れ下る御勅使川を分流しエネルギーを二分する施設として「将棋頭」を設置した。二分された一方は、元の御勅使川筋に添って流下(前御勅使川)し、もう一方は「高岩」の上流に向かうものとなる(後御勅使川)。新たな川筋には、竜岡台地が行く手を阻んでおり、これを人工的に開削「堀切」した。新たな御勅使川と釜無川が合流する部分には「一六石」と呼ばれる巨大な石が並べられ、流速の早い合流地点を安定させるとともに「高岩」に流れが向くような機能を持つと言われている(導流堤・背割堤・整流堤)。一六石は現在、河原に埋没している。合流後、左岸を守る重要施設「霞堤」に向かおうとするエネルギーを右岸側に向けるため「石積み出し」が三列築造され、水流を右岸に向かわせた。右岸側に向かった水流には「前御勅使川」を合流させ水流を安定させた。「信玄堤」(しんげんづつみ)とは、御勅使川と釜無川の合流点付近を中心に、施設構築や水路開削以外に、自然物の利用や水流さえも利用したものである。さらに、土砂の流下災害を防ぐため河岸付近への造林、抜開禁止、水防の重要性を領民に啓蒙するための水防に関わる祭りの実施、霞堤を守らせるための租税免除などを総称するものである。 | |
144 | 富士川 | 釜無川 | 関東地方整備局 | 甲府河川国道事務所 | 御幸祭り(おみゆきまつり) | 祭り・信仰 | 天長2(825)年に起きた釜無川と御勅使川の大洪水によって、甲斐の国は大きな被害を受け、国司は朝廷に報告し、朝廷は勅使を下向させ、勅使は災害復旧の指揮に加え、竜王に水防の神を祀る社殿を建立(三社神社)した。そして、甲斐一宮、二宮、三宮の各神社に水防祈願を命じた。武田信玄は治水の祭りとして領民に水防意識の啓蒙を図った。「御幸祭り」は神輿が一宮(笛吹川流域)から三社神社(釜無川)につくと川除の儀式が行われ治水を祈ります。この担ぎ手は「ソコダイ、ソコダイ」のかけ声勇ましく信玄堤を足で踏み固める動作で練り歩きます。毎年4月15日に行われます。 | |
145 | 富士川 | 釜無川 笛吹川 |
関東地方整備局 | 甲府河川国道事務所 | 聖牛 | 水制・護岸 | 武田信玄の時代から伝わる甲州流河除と呼ばれる伝統的な技術。 江戸時代に書かれた地方凡例録によれば、聖牛を最初に使ったのは富士川であると記述されている。従って富士川は聖牛発祥の地である。水制工法の一つで今は全国の急流河川に見られる。本川、支川に問わず水流の激しい箇所に見られる。 |
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146 | 富士川 | 笛吹川 | 関東地方整備局 | 甲府河川国道事務所 | 万力林 | 水防 | 「万力林」(まんりきばやし)は、笛吹川が造る扇状地の扇頂部にある。扇状地の出口で川が乱流し、現在でも甲府盆地東部の治水の上で重要なところである。万力林の下流には山梨市正徳寺・春日居町・石和町・甲府市川田町があり、計画高水流量は1,600m3/s、河床勾配は1/60の極めて急流。万力林は松を主とした水害防備林と霞堤の組み合わせからなっている治水施設。 この「万力林」の役目は、もし洪水時に笛吹川が氾濫した場合は密生している松の大木によって流木や土砂を防除し、氾濫した洪水を霞堤の開口部から笛吹川の河道に戻すためであり、「万力」の地名はすでに南北朝時代(1331〜1391年)の記録に見え、万人の力を合わせて堅固な堤防とする願いを込めてつけられたと伝えられている。 |
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147 | 阿賀野川 | 阿賀野川 | 北陸地方整備局 | 阿賀野川河川事務所 | 松ヶ崎開削 | 水路・河道付替 | 18世紀代 | 今から260年前まで阿賀野川は、新潟市の津島屋より西に折れて信濃川と合流し、日本海に注いでいた。享保15(1730)年、新発田藩溝口直治氏の命により紫雲寺潟、福島潟の干拓及び同地域の水田開発の目的で、松ヶ崎水路の開削がなされ、この開削によって、福島潟から加治川下流部一帯の阿賀野川の左右岸の水害は軽減され、水田地帯として栄えた。 |
148 | 阿賀野川 | 阿賀野川 | 北陸地方整備局 | 阿賀野川河川事務所 | 満願寺閘門 | 門 | 20世紀代 | 昭和3(1928)年に新津市満願寺に栄えていた阿賀野川と信濃川を結ぶ支川小阿賀野川の舟の輸送を確保するため、初代満願寺閘門が設置された。また、阿賀野川からの洪水を防ぎ、小阿賀野川に必要な水量を流す目的で、満願寺閘門の下流側に小阿賀樋門が設置された。この満願寺閘門と小阿賀樋門の設置により小阿賀野川周辺地域を洪水の恐ろしさからまもり、農業、漁業、そして舟運に利用されている。 |
149 | 信濃川 | 信濃川下流中ノ口川 | 北陸地方整備局 | 信濃川下流河川事務所 | 水倉 | 水防 | 明治期に多くつくられた。度重なる水害から身を守るため、高く土盛りし、その上に倉を建て、災害時でも生活できるよう作られたもので、多くは2階式の土蔵作りになっていて、1階に食料を、2階に衣類などを保存した。旧信濃川である中ノ口川の周辺に時代的に古い水倉が集中している。当時を知る上での資料となっている。 | |
150 | 信濃川 | 信濃川下流中ノ口川 | 北陸地方整備局 | 信濃川下流河川事務所 | まわり土手(めがね土手) | 堤防 | 18世紀代 | 江戸期から、信濃川及び中ノ口川の沿川に広く作られていた。「まわり土手」とは、川から水を引く本樋の内側に半円形に築いた副提のことで、江戸期に、壊れやすい本樋の補強のため作られたもの。現在は、役割を終え、半円状の形状をとどめているのが数カ所残るのみ。 |
151 | 信濃川 | 信濃川下流 | 北陸地方整備局 | 信濃川下流河川事務所 | 天野の瀬替え | 堤防 | 17世紀代 | 信濃川の洪水を防ぐため、慶長19(1614)年に加茂町の中沢弥助及びその子太郎治が蛇行部のショートカットを計画。河道付替え完了は延宝7(1679)年頃。上記のとおり河道付替えが完了したが、ひとたび増水すると、旧河道にも水が流れ、天野は孤島のようになり、甚大な被害を受けた。そのため、旧川の河口及び流末に堤防を築く計画が天保8(1837)年に立てられるが、洪水の増加を心配する近隣村落の強い反対にあう。厳しい条件付きで万延元(1860)年にようやく工事を完了した。畑地等となっている。 |
152 | 信濃川 | 信濃川下流 | 北陸地方整備局 | 信濃川下流河川事務所 | 横田切れ洪水痕跡(宝光院) | その他 | 19世紀代 | 明治29(1896)年の「横田切れ」の痕跡を今日に伝える。 「横田切れ」・・・現在の西蒲原郡分水町横田の堤防が破堤(堤防が300メートルにわたって決壊)、新潟市までの西蒲原一帯18,000haが泥海となった。被害は、死傷者75人、家屋流出2.5万戸、流出埋没田畑数千町歩。横田切れ洪水痕跡(宝光院)は、破堤箇所箇所から30kmも離れた新潟市槇尾にあり、本堂の柱に洪水の水かさを示す跡が残っている。「横田切れ」の凄まじさを今日に伝えている。 |
153 | 信濃川 | 信濃川 | 北陸地方整備局 | 信濃川下流河川事務所 | 東煉瓦水門 | 門 | 20世紀代 | 明治36(1903)年築造。白根郷の最北部にあり、白根郷の東側を流れる信濃川の下流地域に位置する。この地域は、白根郷で最も重要な排水路「大通川」の出口にあたり、昔は木造の水門であったが、流失したため、「東煉瓦水門」が作られた。 信濃川下流域で現存する唯一の煉瓦造りの水門で、その構造を知る上で貴重な構造物。 |
154 | 信濃川 | 信濃川水系中ノ口川 | 北陸地方整備局 | 信濃川下流河川事務所 | 白根の大凧合戦 | 祭り・信仰 | 18世紀代 | 元文2(1737)年に中ノ口川堤防の竣工を祝って白根から上げられた大凧が、味方村に墜落。怒った味方村の農民も大凧を上げ挑んだのが始まりとされる。壮観な白根の大凧合戦は、今日では、青少年の健全スポーツとして発展している。毎年六月上旬に中ノ口川を挟んで大凧合戦が催されている。 |
155 | 信濃川 | 信濃川水系中ノ口川 | 北陸地方整備局 | 信濃川下流河川事務所 | 角兵衛獅子 | 祭り・信仰 | 19世紀代 | 江戸時代後期、度重なる信濃川の水害による生活の困窮を救うため、月形村の百姓角兵衛が子供に獅子舞を教えて諸国をまわったのが始まりといわれている。歳月が流れ、中ノ口川も整備されるようになると、角兵衛獅子はすたれ、巡業は行われなくなったが、長い年月の間に角兵衛獅子は芸術的に磨き上げられ昭和の初めには、国内でも代表的な郷土芸能となった。新潟県を代表する郷土芸能。 |
156 | 信濃川 | 信濃川下流 | 北陸地方整備局 | 信濃川下流河川事務所 | 信濃川の舟運 | 舟運 | 信濃川における水運の歴史は古く、河舟の存在の記録は明応年間(1492〜1501年)に見出されるが、舟運が最も栄えたのは江戸時代から明治初期にかけてである。 江戸時代における舟運の特徴は、新潟湊の発展と年貢米の移送に関連して系統立てられ整備されてきたことにある。明治7(1874)年に川汽船会社が設立され、蒸気船が半日ほどで新潟〜長岡を結ぶようになるなど舟運は盛んであった。しかし、昭和に入る頃には、鉄道をはじめとする陸上交通におされ河川舟運は衰退した。 平成11(1999)年に、水上バス(不定期便)の運航が信濃川(新潟市万代島地先〜黒埼町山田地先)で始まるなど最近、舟運復活に向けての活動がある。 |
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157 | 信濃川 | 信濃川下流 | 北陸地方整備局 | 信濃川下流河川事務所 | 横田切れ口説き | その他 | 19世紀代 | 明治29(1896)年の「横田切れ」を詠んだもの。「横田切れ」の凄まじさを今日に伝えている。 |
158 | 信濃川 | 大河津分水路 | 北陸地方整備局 | 信濃川河川事務所 | 大河津洗堰・旧閘門 | 堰・ダム | 19世紀代 | 明治45(1912)年8月着工、大正10(1921)年3月竣工 昭和44(1969)年から閘門改築工事のため、一部解体後埋め立てられる。 昭和46(1971)年3月ローラーゲート方式の閘門が新設された。 L=90.9m、W=10.9m、閘室60.6m、マイターゲート方式 昭和44〜46年にかけて閘門改築工事に伴い、旧閘門は、解体・埋め立てられたため、現在その姿を見ることはできない。 平成10(1998)年5月、新管理棟計画に伴い、旧閘門跡試掘調査が行われた。 大河津洗堰は平成14(2002)年に国の登録有形文化財に登録された。 |
159 | 信濃川 | 大河津分水路 | 北陸地方整備局 | 信濃川河川事務所 | 大河津分水路 | 水路・河道付替 | 19世紀代 | 今から270年前、徳川吉宗の時代、享保年間に寺泊町の商人本間数右衛門らがたび重なる洪水被害から人命・財産を守るため幕府に分水路建設を請願。 明治元(1868)年の大水害もあって、明治政府は請願から約140年後の、明治3(1870)年に着工。 明治29(1896)年、横田切れと呼ばれる大洪水により、再工事。 大正11(1922)年通水、昭和2(1927)年自在堰陥没、昭和6(1931)年完成。 この時工事責任者として活躍したのが内務省の技師「青山士」、「宮本武之輔」 分水町から新潟市までの越後平野を洪水被害から守っている。 |
160 | 信濃川 | 大河津分水路 | 北陸地方整備局 | 信濃川河川事務所 | 夕ぐれの岡の碑 | 碑 | 17世紀代 | 良寛が夕暮れの景色に見とれて足をとめたのが夕暮れの岡 夕暮れの岡と鮮やかに刻んだ石碑は、丸みを帯びた大きな台石の上に立つ台石が、分水工事のときに法面や軌道を固めるために引き回したローラーで貴重な遺物でもある。 現在も、歴史を語る上で貴重な碑としてそびえ立っている。 |
161 | 信濃川 | 信濃川 | 北陸地方整備局 | 信濃川河川事務所 | 左近堤 | 堤防 | 17世紀代 | 俗に「左近の土手」と呼ばれる江戸時代の名残を止める堤防の一部。信濃川の右岸に発達した長岡の城下町は、築堤が不十分で毎年のように洪水に襲われた。寛延元年(1748年)、2万人を超す労力を投入し、半年足らずで完成。近代になって本格的な護岸堤防ができるまで、左近堤は人々の生命と財産を守った。 |
162 | 信濃川 | 信濃川 | 北陸地方整備局 | 信濃川河川事務所 | 十日町の舟運 | 舟運 | 17世紀代 | 江戸時代の年貢米運搬。 一度に米200俵も積める大船があり、当時は信濃川の水量も豊富で条件の良いときは終点長岡まで3時間、帰りの引き船(川岸を人夫が引く)は3日もかかったと言われている。 陸上交通が不便な時代に大量の荷を送る唯一の手段で当地方の人にとってはとても貴重なものだった。 明治41(1908)年の魚沼橋完成と昭和2(1869)年に鉄道十日町線が開通すると急速に衰退。 |
163 | 信濃川 | 魚野川 | 北陸地方整備局 | 信濃川河川事務所 | 堀之内の堤防 | 堤防 | 17世紀代 | 魚野川左岸、徳田から下新田にかけて「四ヶ村」の土手と呼ばれる護岸があった。 四ヶ村とは徳田・下新田・下島の各村に加えて、対岸竜光村の飛地が入り組んで存在したことによる。 四ヶ村は古くから魚野川の洪水に悩まされてきたが、その対策として共同して組合をつくり、堤防を築き守ってきた。文献での所見では、元禄7(1694)年で、徳田村が記録した内容による。 当時、堤防のことを「川除」と呼び、大破すると復旧にあたり、幕府補助による御普請場となった。 徳田から下新田途中まで堤防が完成している。 |
164 | 信濃川 | 大河津分水路 | 北陸地方整備局 | 信濃川河川事務所 | 信濃川治水日記 | その他 | 明治元(1868)年より20年かけて信濃川治水に関する経緯や分水路工事請願の記録資料がつづられている。 明治初期、信濃川の治水に関してまとめられた古文書 故高橋健三氏著(信濃川治水会社において大河津分水路のための運動をしていた人物)全6冊 現物は、新潟県の弥彦神社の宝物館に収蔵されている。 国土交通省では、信濃川大河津史の調査および大河津資料館にて展示棟への利用のため、収蔵史料を借用し、マイクロフィルムに残して大河津資料館に保存予定。 |
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165 | 信濃川 | 大河津分水路 | 北陸地方整備局 | 信濃川河川事務所 | 信濃川改良工事平面図 | その他 | 19世紀代 | 明治42(1909)年7月着工 大正11(1922)年8月分水路通水 信濃川改良工事計画(大河津分水路)に伴い、実測された平面図 明治38(1905)年実測図 信濃川改良工事平面図は、大河津資料館にてパネル展示されている。 |
166 | 信濃川 | 大河津分水路 | 北陸地方整備局 | 信濃川河川事務所 | 信濃川補修工事記録映画「補修の歌」 | その他 | 20世紀代 | 昭和4(1929)年、自在堰復旧工事の広報用映画として製作。 全6巻、16mmの白黒無声映画。60分 脚本・監督・撮影は当時の内務相、信濃川補修工事事務所の主任宮本武蔵野輔氏。1〜5巻までは主に可動堰、仮締め切り、第二床固工事の様子、各施設、分水町、寺泊町の紹介。 8巻では信濃川補修工事竣工報告祭の模様を収録。 |
167 | 信濃川 | 信濃川 | 北陸地方整備局 | 信濃川河川事務所 | 長生橋 | 橋 | 19世紀代 | 山並みのようにトラスが連なる現在の長生橋は、昭和12(1937)年10月20日に完成した13連の下路式ゲルバー鋼構橋。(長さ850m、橋脚の基礎深さ12m) 当時の日本の橋梁建築の粋を集めた傑作。明治9(1876)年10月、大橋・小橋に分けて完成したが、洪水のたびに流失、復旧をくり返した。大正4(1915)年に一本に繋がって架けられた橋は、日本一長い木橋として有名になった。 最初は、龍がうつむいているよう見えたため、「臥龍橋」と呼ばれていたが、その後、いつまでも長く生きて欲しいという願いを込めて「長生橋」と名づけられた。 |
168 | 信濃川 | 信濃川 | 北陸地方整備局 | 信濃川河川事務所 | 草生津の渡し | 舟運 | 17世紀代 | 江戸時代に十数ヶ所あった信濃川の渡しのなかでも特に利用された。慶長10(1605)年の長岡城の移築によって蔵王から移され、当初は草生津(長岡市右岸)と対岸の大島(長岡市左岸)に渡し船が一艘ずつ置かれていた。現在は、長生橋がその役割を担っている。 |
169 | 信濃川 | 信濃川 | 北陸地方整備局 | 信濃川河川事務所 | 王神祭 | 祭り・信仰 | 17世紀代 | 王神祭は、古くから伝わる祭りで、かつては大掛かりな祭りだったが、華美に走りすぎたこともあり、一時途絶えて明治17(1884)年に、本社での祭典のみ復活した。王神祭の要となるのが又倉行事と年魚行事。年魚行事とは、最高の神饌とされる信濃川を上ってきた雌のサケを、長い箸と包丁で切り分け、鳥居の形に並べる行事であり、神に供えられるサケには一切手を触れずに執り行われる。緊張感漂う伝統の神事は、サケを媒介として王神に信濃川の治水と豊穣を祈った遠い昔を想像させる。 |
170 | 信濃川 | 信濃川 | 北陸地方整備局 | 信濃川河川事務所 | 旭橋 | 橋 | 19世紀代 | 信濃川右岸に三国街道(現国道17号)、左岸に善光寺街道(現国道117号)が通る小千谷は、かつて両街道を結んだ重要な地点であったが手段は「中子の渡し」のみであった。明治20(1887)年11月17日に完成したのが木橋の旭橋。東西の道と町を結ぶ橋として利用されたが、洪水でしばしば流出するありさま。昭和35(1960)年に全長350m、幅員9.5mに拡張した鋼板桁の永久橋に姿を変えた。 |
171 | 信濃川 | 信濃川 | 北陸地方整備局 | 信濃川河川事務所 | 塩殿発電所 | その他 | 20世紀代 | 明治38(1905)年に60サイクル・1万ボルト、1,200キロワット、当時としては全国で2番目の規模の発電所が完成した。それが北越電灯会社のこの発電所である。そしてその年の1月15日の送電開始のスイッチで文明の灯に輝いたのが長岡と小千谷の町々。それから半世紀、昭和26(1951)年に小千谷発電所が建設されるまで健在で活躍した。 |
172 | 信濃川 | 魚野川 | 北陸地方整備局 | 信濃川河川事務所 | 和南津の渡し | 舟運 | 17世紀代 | 江戸時代の三国街道は長岡から川口宿までは信濃川右岸を通り、和南津で魚野川を渡って三国峠に向かう。 幕府の佐渡金山関係者や参勤交代、大名・諸家が通るため、三国街道では唯一最大の渡し場として重要視された。 渡し船は農業用の船とはちがい、馬船という大型。長さ約14m、敷巾約1.6m、深さ約3.6m上口幅約1.9m、馬が中に入っても見えないほどの大きさ。延享3(1746)年には渡し守が3軒、名子が4軒、人数は男15人、女17人がかかわる大規模の渡し場であった。大名行列が通過するときなどは近郊の村々から多くの人足が集められたという。 現在は、国道17号和南津橋がその役割を担っている。 |
173 | 信濃川 | 千曲川 | 北陸地方整備局 | 千曲川河川事務所 | 水制(大聖牛) | 水制・護岸 | 20世紀代 | 千曲川では明治43(1910)年に大水害があり、大正2(1913)年に千曲川治水会が結成され大正7(1918)年に千曲川改修工事がはじまる。千曲川距離標88kmより上流では、水衝部の洗掘箇所に水流の方向を変えないように、専ら流勢の緩和を目的として木工沈床に大聖牛を組み合わせた水制工を設置した。構造は4格間の木工沈床を堤防に沿って沈設、前面に30m間隔に幅6格間、長さ5格間の木工沈床を設置、その上に60kg軌条を構材とする大聖牛を2組ずつ施工。工事費節約のため簡易工法としている。その当時の施設が2カ所ほど有るが、いずれも沈床部分は土砂に覆われヨシが生い茂り軌条を使用した大聖牛がみえる。 |
174 | 信濃川 | 千曲川 | 北陸地方整備局 | 千曲川河川事務所 | 水制(並杭水制) | 水制・護岸 | 20世紀代 | 千曲川では明治43(1910)年に大水害があり、大正2(1913)年に千曲川治水会が結成され大正7(1918)年に千曲川改修工事がはじまる。千曲川距離標80kmより下流域では、水衝部の河岸沿の流勢緩和を目的として12cmの木杭を75cm間隔で、護岸と平行に2〜3列連続して打ち込んだ木柵水制(並杭水制)で流速を減じ護岸基礎の洗掘防止及び土砂の堆積を図る工法として用いられた。千曲川下流部の水衝部に多く用いられた工法で有り水面上部は腐朽しているが、今でも所々に見ることができる。 |
175 | 信濃川 | 犀川 | 北陸地方整備局 | 千曲川河川事務所 | 水制(杭出水制) | 水制・護岸 | 20世紀代 | 千曲川では明治43(1910)年に大水害があり、大正2(1913)年に千曲川治水会が結成され大正7(1918)年に千曲川改修工事がはじまる。 犀川下流部では、流水に障害を与えて流速を減じ土砂の堆積を誘致することを目的とし8〜12cmの木杭を75cm間隔に5列打ち、水制の長さ15〜20mで長さの1.5倍間隔で河岸に直角に設置。水制の基部と石張との間には鉄線蛇篭を敷設(元付)、最後列には杭間に1本づつ杭を打って流速を更に弱め、土砂の堆積を促した。水制の先端部は流水の衝撃により深掘が生じやすいことから水制は低く杭は細いほど抵抗が少ない。 犀川下流部の水衝部に多く用いられた工法であるが現在は見当たらない。 |
176 | 信濃川 | 千曲川 | 北陸地方整備局 | 千曲川河川事務所 | 坂城常山堤 | 堤防 | 19世紀代 | 天保12(1841)年におこった洪水は天領中之條の村々に大きな被害を与えた。そこで代官所は人夫3000人を動員して、弘化2(1845)年に完成した。此の堤防は天端巾9メートル、堤敷巾18メートル、延長300メートルで、川筋に対して直角に築堤されている。しかも基礎には巨石を用い、全体に強固なものとなっている。完成後「常山の蛇は頭が撃たれれば尾がこれを助け、尾が撃たれれば頭がこれを救う」と兵法書「孫子」から常山堤と命名した。 |
177 | 信濃川 | 千曲川 | 北陸地方整備局 | 千曲川河川事務所 | 牛島輪中堤 | 堤防 | 19世紀代 | 長野市若穂牛島地区は千曲川・犀川の洪水と向かいあって生活してきた。往時の人々は柳や桑を植え洪水を防いできた。寛保2(1742)年の「戌の満水」後松代藩の資金援助を得て輪中堤防を年中行事として住民総出で完成させた。それ以前は地盤を高くし住家を建て、石垣を築いて土蔵を建て、生活用水の井戸は、側溝を設け洪水による外水の進入、異物の混入防止を図る苦労を重ねてきた。 |
178 | 信濃川 | 千曲川 | 北陸地方整備局 | 千曲川河川事務所 | 小布施大夫千両堤 | 堤防 | 17世紀代 | 千曲川右支川松川は北西に乱入し、流域沿の現小布施町は洪水氾濫に悩まされていた。元和年間(1615〜1624年)に現高山村に蟄居していた福島正則は検地と治水に力をそそぎ、松川河道を付け替えて、小布施町に氾濫するのを防ぎ石堤を築造させた。この堤防は当時の伊奈流の技法により、水勢を弱めて溢流させる霞堤であったが、現在の石堤はその一部で、大夫の千両堤と呼ばれ現存している。 |
179 | 信濃川 | 千曲川 | 北陸地方整備局 | 千曲川河川事務所 | 松代清野亀腹水制 | 水制・護岸 | 20世紀代 | この水制は昭和初期に巨石を組み合わせ築造されたもので、亀腹水制・亀甲水制といわれている。その後損傷がはげしく平成3(1928)年に補修復元された。この付近は水衝部で一期改修当時に施工された木造並杭、木工沈床などが見られた。神田川合流点高水敷高台には、見事な榎木の河川公園があり風光明媚な河岸となっている。 |
180 | 信濃川 | 千曲川 | 北陸地方整備局 | 千曲川河川事務所 | 千曲川改修起工碑 | 碑 | 20世紀代 | 大正7(1918)年に牛島地籍河川敷で、起工式を挙行してから23ヵ年を費やした千曲川第一期改修工事の竣工式は、昭和16(1941)年に城山市営球場で関係者400余名が参列し挙行された。その第一期改修の千曲川改修起工碑が城山公園東側の水内神社境内に起工式会場の犀川・千曲川合流点の牛島地籍に向かって建立された。 |
181 | 信濃川 | 千曲川 | 北陸地方整備局 | 千曲川河川事務所 | 長沼善光寺平洪水位標 | 碑 | 20世紀代 | 善光寺平洪水水位標は、国道18号赤沼交差点から西側100メートル地先に、長野市赤沼の篤農家深瀬武助氏が寛保2(1742)年の「戌の満水」洪水位を始め五洪水を記録した水位標を建てた。 |
182 | 信濃川 | 千曲川 | 北陸地方整備局 | 千曲川河川事務所 | 北相木カナンバレ行事 | 祭り・信仰 | 千曲川の上流川上村や北相木村では、3月3日に女の子たちが藁で作ったサンダワラに手作りの人形をのせて川に流す「カナンバレ」行事が行われている。カナンバレは家難・河難を「払う」という意味から、バレといわれたのであろう。又、河童の供養とも伝えられており、水への感謝と、恐れを教える行事である。 | |
183 | 信濃川 | 千曲川 | 北陸地方整備局 | 千曲川河川事務所 | 小諸布引観音 | 祭り・信仰 | しなの鉄道小諸駅を下って千曲川左岸に、千曲川により浸食されたと考えられる断崖の中腹に白い布を広げたように一筋の白い岩盤が見られる。これが布引観音の山の布である。 その昔、信仰心の薄い老婆が千曲川で洗濯をしていたら、牛があらわれ布を角に引かけて走り出し、老婆はそれを追ってとうとう善光寺まできてしまった。布は見つからず善光寺参詣して帰ってみると、布は前の山にかかっていた。断崖上の釈尊寺の観音様が牛に姿を変えて、老婆を善光寺に導いたと語り伝えられてきた。 |
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184 | 信濃川 | 千曲川 | 北陸地方整備局 | 千曲川河川事務所 | 千曲川付け場漁 | その他 | ハヤ(ウグイ)は5月の産卵期、体に朱色に染めて浅瀬にのぼってくる、その習性を利用してやや深みのある流れ場に杭を打ち込み、波避けをつくり、そこにきれいな砂利を敷込んで、ハヤを呼び込み産卵に集まるハヤを投げ網によって捕獲する。これを付け場漁と呼んでいる。 | |
185 | 信濃川 | 千曲川 | 北陸地方整備局 | 千曲川河川事務所 | 上田岩鼻と唐根古神社 | 祭り・信仰 | 岩鼻と唐根古神社は「大鼠と唐猫」伝説から始まる。上田市下塩尻と坂城町鼠宿との間に屏風を立てたような断崖絶壁がある。その対岸、上田市半過にも巨岩が向き合っている。この怪異な断崖には伝説があって、大鼠の害に困った人々が、唐の国から猫を借りてきて大鼠退治をすることになった。唐猫は大鼠に挑み、その格闘の苦し紛れに岩に噛みつき、鼠宿から半過に繋がっていた岩が噛崩かれ南佐久平の湖が流れ出し、唐猫も流され篠ノ井塩崎で岸辺に這い上がったがそこで息絶えた。人々は唐猫に感謝したことから、軻良根固神社(唐猫神社)であると言われている。 | |
186 | 信濃川 | 千曲川 | 北陸地方整備局 | 千曲川河川事務所 | 千曲市森将軍塚古墳 | その他 | 4世紀代 | 千曲市の水田地帯に高さ110メートル全長100メートルの長野県内最大の前方後円墳がある。この古墳の復元に先立って全面発掘調査により周辺から94基の埋葬施設が検出された。副葬品には三角縁神獣鏡があり、中でも遺体埋葬の竪穴式石室は、長さ・巾・高さ床面積は日本最大であり、四世紀中頃は、この地域が大和朝廷の勢力下に入ったことがわかる。 |
187 | 信濃川 | 千曲川 | 北陸地方整備局 | 千曲川河川事務所 | 千曲市雨宮御神事「橋懸かり」 | 祭り・信仰 | 千曲川右支川の沢山川(千曲市雨宮)の生仁(なまに)橋で川にかかわる雨宮坐日吉神社(あめみやにいますひえじんじゃ)の神事で3年に1度4月29日に行われる。竹で作った獅子頭をつけた4人の若衆が麻ひもで体をしばり、生仁橋から逆吊りになって水面をかき、水しぶきを上げて踊り、五穀豊穣と悪霊を川に流す神事である。 | |
188 | 信濃川 | 千曲川 | 北陸地方整備局 | 千曲川河川事務所 | 川施餓鬼 | 祭り・信仰 | 犀川の左支川裾花川下流で、毎年善光寺大本願の尼僧によって、8月下旬に行われている行事で、水死者の霊を慰め、川魚などを供養し、さらに川の安全祈願をする行事である。 | |
189 | 信濃川 | 千曲川 | 北陸地方整備局 | 千曲川河川事務所 | 上高地河童橋 | 橋 | 20世紀代 | 犀川上流梓川の上高地は日本の景勝地として名高い。その上高地のシンボルである梓川架かる河童橋は、古くは「はね橋」であったが、明治37(1904)年につり橋に架替えられた。付近に出没する「かわうそ」の別名河童やこの付近の渕にちなんで河童橋と名付けられたという。 |
190 | 信濃川 | 千曲川 | 北陸地方整備局 | 千曲川河川事務所 | 安曇村雑水橋 「雑食橋(ぞうしばし)」 | 橋 | 梓川上流島々に川を挟んで、人目を忍ぶ恋人がいた。川が二人の邪魔をしている。お互いに目の前に見えていても対岸にたどりつくのには、8キロメートルも下流を回り道しなければならなかった。二人は橋ができれば村人たちも助かる、何か世のためになることをすれば、神様が必ず二人を結びつけてくれると相談し、橋を架けることを誓い、二人は仕事に励み、彼女は食物を節約し雑水を食べ苦節何年かの末に橋が架けられ、晴れて二人は結ばれた。橋の名は古くは雑仕、雑食橋と書かれたが、雑炊橋になった。 | |
191 | 信濃川 | 千曲川 | 北陸地方整備局 | 千曲川河川事務所 | 坂城笄(こうがい)橋 | 橋 | 19世紀代 | 坂城の苅屋原と対岸力石を結ぶ千曲川に架かる橋が笄(こうがい)橋である。明治22(1889)年頃に木造の板橋が架けられたが、これも洪水により流出し、永久橋建設は左右岸の人々の悲願であった。坂城町の強力な要請により、建設されたのが洪水時水中に潜るコンクリート造の「もぐり橋」が昭和35(1960)年に架設された。この橋も昭和37(1962)年に右岸側は洪水時抜水する現在の橋梁となった。 |
192 | 信濃川 | 千曲川 | 北陸地方整備局 | 千曲川河川事務所 | 明科 三川合流点 | その他 | 犀川の源流は槍ヶ岳を分水領に南側は梓川となり、北側は高瀬川となって流下する。高瀬川は犀川の支流であるが槍ヶ岳に端を発するもう一つの源流でもある。この両川は明科町押野地先で合流し、下流域は扇状地を形成し、豊かな安曇野となっている。この合流点に燕岳・大天井岳を源流とする穂高川が途中で乳川・烏川を合わせて合流する。いわば三つの河川が合流することから三川合流点と呼んでいる。この合流点には、清洌な水を利用したワサビ田が広がる。 | |
193 | 信濃川 | 千曲川 | 北陸地方整備局 | 千曲川河川事務所 | 地割慣行 | その他 | 水害常襲地でみられる土地利用の慣行である。千曲川は洪水の度毎に川欠けにより、土地が変動する。この土地を個人で所有していると、洪水で一夜で失う恐れがある。そこで堤外地の土地を共有にして、連帯保障と危険分散させることを考えたのが地割慣行地・割替地と呼ばれている。洪水によって浸食された土地は「川欠」、逆に寄洲で土地が生じたり、堆積地を開墾して土地を生み出す「起返」と称し、土地を測量し分割した。地割慣行地では一定の割替年次を迎えるとくじを引いて耕作地を交換する。 | |
194 | 信濃川 | 千曲川 | 北陸地方整備局 | 千曲川河川事務所 | 上田信濃国分寺 | その他 | 上田市東部の国分地区に信濃国分寺がある。一般には「八日堂」とよばれ、毎年1月8日の縁日には県内外から多くの参詣客で賑わう。ダルマのほかに「蘇民将来」の護符で知られている。近年まで、信濃国分寺は現在の八日堂の位置に創建されたと考えられてきたが、付近の発掘調査で、創建当時の位置や規模が確認された。現在はこの遺構が史跡公園に指定されている。寺の前は古代の官道である東山道が通り、これに沿って千曲川が流れている。往時は信濃の政治の中心地であり、関東や奥州・越後へ通じる交通の要所であった。 | |
195 | 関川 | 保倉川 | 北陸地方整備局 | 高田河川国道事務所 | 保倉川付け替え | 水路・河道付替 | 17世紀代 | 保倉川は江戸時代の初め頃まで、日本海に直接流れ込んでおり、関川と保倉川の間に福島城が築かれ、関川・保倉川が福島城の防衛線となっていた。延宝3(1675)年の保倉川支川潟川の上流における新田開発により、保倉川から潟川への逆流防止及び河口港として利用されていた関川河口の流量増加による河積拡大を図り大型船の入港を可能にするために福島城の外堀・内堀を利用して直接日本海へ流入していた保倉川を関川へ合流させた。 |
196 | 関川 | 保倉川・潟川 | 北陸地方整備局 | 高田河川国道事務所 | 新堀川開削 | 水路・河道付替 | 18世紀代 | 大潟新田開発で保倉川の河道を切り替え関川に合流する事業によって、当初干拓には成功したが、その後、潟川による排水が保倉川との高低差がないこと等から保倉川の増水により潟川へ逆流し水害を引き起こしたため、宝暦6(1756)年に新堀川開削に着手し、翌年に完成した。 当初、新堀川は、長さ約1,500m、幅約16m、深さ約4.5mの規模であったがその後の出水による被災により、天保6(1835)年から開始された新堀川再掘工事により拡幅などが行われている。 |
197 | 関川 | 関川 | 北陸地方整備局 | 高田河川国道事務所 | 関川三大用水の開発 | 水路・河道付替 | 17世紀代 | 高田平野において江戸初期に急速に進んだ開田は扇状地から平野部へと広まり、古くからの用水路による灌漑では不足を生じたため、上江・中江・西中江用水の開削が行われることとなった。 中江用水は、高田藩の藩営事業として延宝2(1674)年から延宝3(1675)年にかけて開削が行われ、完成当時は受益地は106ヶ村、20,852石と言われている。上江用水は、中江用水が藩営事業として行われたのに対し地域農民により200年以上もかけて開削され、関川水系最大規模の灌漑面積であった。西中江用水は、関川支川矢代川から取水していたが、扇状地のための氾濫、夏の渇水等により、関川本川からの取水のための堀継ぎ等が繰り返され文化9(1812)年には、36ヶ村の灌漑面積となった。 現在は、関川上流に昭和58(1983)年に笹ヶ峰ダムが完成し、幹線用水路は国・県営事業により改修され、受益面積は上越市をはじめとする関川流域5町村で7,118haとなっている。また、発電用水路等を利用しているなど、農業用水と発電用水が共存する水利用形態となっている。 |
198 | 関川 | 関川 | 北陸地方整備局 | 高田河川国道事務所 | 高田城築城 | その他 | 17世紀代 | 高田城は、松平忠輝が慶長15(1610)年に福島城主となってから4年後に現在の位置に築城したものである。高田城築城にあたり、蛇行していた関川の流路を変え一部を外堀として利用した。現在は、桜とハスをシンボルとする高田公園として市民の憩いの場になっている。 |
199 | 関川 | 関川 | 北陸地方整備局 | 高田河川国道事務所 | 関川舟運 | 舟運 | 16世紀以前 | 関川での舟運の始まりは、中世の頃からとされており鉄道が開通する明治以前までは関川河口の直江津港から積み出す廻米を輸送するための大動脈となっており、廻米は西回り海運によって江戸・大坂へ輸送された。 関川における川舟運航範囲は、河口から新井市田井・広島地先まで約16kmであり、その他、支川の保倉川、飯田川、潟川等でも運行されていた。新井市広島地先の五社神社に川舟の運航を示す船つなぎ石が残されており、上越市立水族博物館には舟運に利用されたドブネが保存展示されている。 |
200 | 関川 | 関川 | 北陸地方整備局 | 高田河川国道事務所 | 西光寺地蔵堂の雨ごい祭り | 祭り・信仰 | 中頸城郡三和村越柳地先の水田を溜池にするために土を掘ったところ、土中から石仏が出土し、この石仏を雨ごい地蔵として祀った。この祭事は行われていなかったが、平成6(1994)年の渇水時に行われている。石仏は、室町時代の阿弥陀如来像であろういわれているが、著しく風化し石仏の面相がわからなくなっている。 | |
201 | 関川 | 関川 | 北陸地方整備局 | 高田河川国道事務所 | 応化の橋 | その他 | 16世紀以前 | 古代から中世にかけて、関川を越える唯一の橋として応化の橋があったと言われ、この地区は越後府中として京都から多くの文人や高僧が訪ねてきて府中に文化の花が開いた。 応化の橋は、現在は存在しないが、五智国分寺裏から続く大ノ手道が関川と交差する付近にあったものと想像される。応化の橋が広く知られるようになったのは、森鴎外が「山椒太夫」という小説を書いて広く紹介したことに始まる。 |
202 | 関川 | 関川 | 北陸地方整備局 | 高田河川国道事務所 | 上越祭り(祇園祭) | 祭り・信仰 | 高田城築城に際し、八坂神社は朱印地を受け取り高田に地を移す代わりに出張して祭りを行いたいと申し出たのが始まりである。 祭りは御輿が関川下流から陸行し、中流域の仮宮に着いて祇園祭が高田で行われる。高田の祭りが終わった後、東本町から関川に御輿を下ろし稲田橋へと渡る。 |
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203 | 関川 | 矢代川 | 北陸地方整備局 | 高田河川国道事務所 | 白蛇教化の塔 | 祭り・信仰 | 16世紀代 | 昔矢代川と関川が合流していた付近に大きな渕があり水死者が続出したため、本願寺中興の祖といわれる蓮如上人が21日間の読経を続けたところ白蛇が水死して浮かんだという言い伝えが残っている。 上越市今泉地先の願清寺境内に、白蛇を埋め弔ったと言われる墓塔が白蛇教化の塔として残っている。 |
204 | 関川 | 矢代川 | 北陸地方整備局 | 高田河川国道事務所 | 矢代川改修 | 堤防 | 20世紀代 | 明治30(1897)年、31(1898)年と2年続きの水害が発生し、特に30年の水害では浸水家屋は3,257戸にも達し、明治45(1912)年にも水害が発生し1,921戸が浸水した。明治30・31・45年の水害を契機に、連続堤の構築が関川・矢代川の両岸に復旧工事として実施されるようになり、大正9(1920)年頃までに完成した。 上越市石沢・下箱井地先の2箇所に矢代川改修の事情と完成を伝える記念碑が建立されている。 |
205 | 姫川 | 平川 | 北陸地方整備局 | 高田河川国道事務所 | 八方池への雨ごい | 祭り・信仰 | 雨乞いのため、飯森神社から八方池に登拝し、その夜は池畔に籠もって一夜を明かして下山した。 この間、里宮では氏子が交替で太鼓を打ち鳴らし続けたという。登拝のとき、僧によって血脈が池に投ぜられると、龍神があらわれ必ず雨を呼んだと伝えられる。 | |
206 | 黒部川 | 黒部川 | 北陸地方整備局 | 黒部河川事務所 | 霞堤 | 堤防 | 19世紀代 | 明治29(1896)年頃、政府は内務省嘱託工師のオランダ人デ・レーケに命じ、隈無く現地を視察させ、霞堤を設計させた。これによって起工された堤防は、 ・小摺戸前各堤 ・福島前森田伊右エ門南方より十番堤間 ・上飯野用水二番水門より上飯野前堤に至間で 堅陳無極の堤防が完備したので、川原地帯の荒無地もこれより盛んに開墾するようになった。 現在、黒部川には霞堤が14ヶ所あるが、改修事業の変更や土地改良事業により田圃等に変わって、古いもので形として残っていると思われるのは、右岸では7.0km〜10.0km、左岸では4.4km付近であろう。 |
207 | 黒部川 | 黒部川 | 北陸地方整備局 | 黒部河川事務所 | 沓掛地先の霞堤 | 堤防 | 19世紀代 | 文政年間(1818〜1830年)から昭和にかけて築造された霞堤。 黒部川左岸で古くに築造された霞堤で、石堤・二番堤・三番堤(一部、土地改良事業により撤去)が残っている。 本堤の裏に現存。 |
208 | 黒部川 | 黒部川 | 北陸地方整備局 | 黒部河川事務所 | 森林堤防 | 堤防 | 19世紀代 | 基礎整備以前には扇状地内に至る所大森林地帯があった。富山大学学術調査団編の『黒部川』の第6ページに「森林堤防も伝統工法の一つである。これは洪水が激突しやすい地形のために、堤防で護り切れない川岸を厚く森林帯で防ぐ工法である。洪水が森林帯の前面でたちまちに水勢が衰え、運搬砂礫を放置して泥水だけが森林帯を通り抜ける。この泥水が水田にはいると客土効果を現し、水田を肥沃にする。扇状地の治水にはこれらの二つ(霞堤と森林堤防)に及ぶものがなく、黒部川扇状地にはそのいずれもが残っている。」とある。 基盤整備および国道8号線のバイパス工事により地形が大きく変化し、形跡が伺える程度になった。 |
209 | 黒部川 | 黒部川 | 北陸地方整備局 | 黒部河川事務所 | 村囲いの堤防・家囲いの堤防 | 堤防 | 村囲いの堤防:笹原地区の最南端部に竹島儀松氏の家がある。同家の屋敷の南西角すれすれに「村囲いの堤防」が築かれていた。 堤防はそこからカーブした村の南側から東側へと伸び、東側を囲う堤防の南端に接してさらにカーブして北方へ伸び、そこからは二重堤防のようになっていた。 家囲いの堤防:下飯野地区の南端部にある野坂初郎氏宅は同地区の村囲いの堤防の中にあり、同家の裏側6〜70mのところにも、前側100mほどのところにも堤防があったのであるが、それでも用心して、屋敷の周囲に高さ1mほどの土堤を築き、内側に杉の木を植えて防風林としていた。洪水時に土嚢で屋敷の入口を防げば、輪中となり、完全に家・屋敷を護るようになっていた。近年圃場整備事業の実施によって、これらの村囲いの堤防、家囲いの堤防等はほとんどが消滅し、先人の足跡をしのぶものが姿を消した。 |
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210 | 黒部川 | 黒部川 | 北陸地方整備局 | 黒部河川事務所 | 戦前の根固工(沈め枠、木工沈床、そだ沈床) | 堤防 | 19世紀代 | 現在の黒部川の根固工は、異形コンクリートブロック施工され、戦前に施工された根固工(木製)は堤防の改修により見られなくなった。 |
211 | 黒部川 | 黒部川 | 北陸地方整備局 | 黒部河川事務所 | 愛本橋 | 橋 | 17世紀代 | 寛永2(1625)年に日本三奇橋(猿橋・錦帯橋とともに)数えられたハネ橋となる。 以降、架替4回→木拱橋:明治4(1871)年→鋼曲弦構橋:大正9(1876)年→鋼ニールセン橋:昭和47(1972)年となる。 |
212 | 黒部川 | 黒部川 | 北陸地方整備局 | 黒部河川事務所 | 黒部川合口用水(愛本堰堤) | 堰・ダム | 20世紀代 | 昔の扇状地の農業用水は、黒部川の本流に導水堤をつくり、堤防に設けた水門から取水した。本川からの取水箇所は、左岸6ヶ所、右岸に7ヶ所もありました。そのため、渇水時には下流の取水口は水不足となり、出水時には導水堤が破壊されるなどで農民を苦しめた。 そこで、明治時代に安定した取水を行うため取水口を改良しようという声が起こり、大正時代に入ってから、数多くある取水口を統一し、黒部川合口用水として愛本堰堤から必要な全水量を一度に取水して、各用水路に配水することとした。 愛本堰堤は、昭和44(1969)年8月の出水により流失したため、150m上流に移設し、昭和48(1973)年に完成した。 |
213 | 黒部川 | 黒部川 | 北陸地方整備局 | 黒部河川事務所 | 黒部川の水防工法 川倉工 | 水制・護岸 | この工法は、一般に急流河川に用いられ、黒部川では藩政時代から使用されていた。堤脚に逆出しに据えて崩壊面を直接保護する場合と、本出しに使って水当たりを緩和させる場合とがある。逆出しは頭部を堤防側に置き、棟木を水流と直角よりやや上向きに水中に入れ、ただちに蛇籠か石俵を重しとして乗せる。 黒部川の水防工法として現在も、黒部川水防訓練時には伝統工法の一つとして実施されている。 |
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214 | 黒部川 | 黒部川 | 北陸地方整備局 | 黒部河川事務所 | 黒部川扇状地 | その他 | 黒部川は、北アルプスの中央部に位置する鷲羽岳(2,924m)に源を発し、流路延長約85km、流域面積682km2、山岳部平均勾配1/5〜1/80のわが国屈指の急流川である。流域は南北に弓形をなす典型的な羽状流域をなし、大半は国有林で中部山岳国立公園に指定されており、愛本地先より上流は両岸屹立した雄大なV字谷を形成し、清流と相まった優れた景観は「黒部峡谷」として全国的に有名である。 急峻な山岳地帯が形成される過程で流出したおびただしい土砂礫は愛本地先を扇頂とし、半径13.5km、扇頂角約60度、勾配1/100、面積120km2の日本を代表する扇状地を形づくっている。 |
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215 | 黒部川 | 黒部川 | 北陸地方整備局 | 黒部河川事務所 | 墓ノ木タイマツ祭り | 祭り・信仰 | 毎年10月13日にタイマツ祭りが行われる。 | |
216 | 黒部川 | 黒部川 | 北陸地方整備局 | 黒部河川事務所 | 直轄事業40周年記念誌 黒部川のあゆみ | その他 | 20世紀代 | 昭和12(1937)年に黒部川改修工事が直轄事業として着工されて以来、昭和51(1976)年に40年目を迎えるに当たり、黒部川の関係資料を広範囲に求め、当時の職員が取りもとめたものである。内容は、黒部川の概要・黒部川の治水・黒部川の水利用・河川管理・行政組織等で編集されている。 |
217 | 黒部川 | 黒部川 | 北陸地方整備局 | 黒部河川事務所 | 記念誌 黒部川の50年 | その他 | 20世紀代 | 「黒部川の50年」資料・写真集。昭和12年に黒部川改修事業が国の直轄事業として着手以来、戦前の工事写真・水害・建設機械・催事・その他資料等、写真が多く編集されている。 |
218 | 黒部川 | 黒部川 | 北陸地方整備局 | 黒部河川事務所 | いろは川 | その他 | 20世紀代 | 「黒部川の直轄河川の50周年記念誌」 黒部川が昭和12(1937)年に直轄河川となり、昭和62(1987)年に50周年記念誌として黒部工事事務所が監修。郷土歴史家、土木技術者OB等編集委員。流域の風土自然・先人の足跡・流域の観光と物産・流域のあらまし・事業のあゆみ等が記されている。 |
219 | 黒部川 | 黒部川 | 北陸地方整備局 | 黒部河川事務所 | 黒部峡谷鉄道 | その他 | 20世紀代 | 当時の日本電力が大正時代、黒部水系の電源開発に着手。このため資材と作業員輸送の専用鉄道として大正15(1926)年2月に開業した。 最初は柳原原発発電所のため宇奈月−猫又間。その後、鐘釣、小屋平までと逐次延ばしていき、昭和12(1937)年に欅平まで全線開通。専用鉄道から乗客を乗せる地方鉄道に移行したのは昭和28(1953)年から。また、戦後ずっと運営してきた関西電力の手を離れ、昭和46(1971)年4月から独立して黒部渓谷鉄道会社になった。 年間乗車人員、約110万人。黒部工事事務所の砂防事業施工にあたり、人員・資機材輸送の唯一の交通輸送機関である。 |
220 | 常願寺川 | 湯川 | 北陸地方整備局 | 立山砂防事務所 | 白岩砂防堰堤 | 砂防工 | 20世紀代 | 赤木正雄は、常願寺川砂防工事で最も重要な問題は基幹砂防堰堤の施工場所にあると考え、この川筋でただ1箇所岩盤が露出している白岩を砂防工事の基点と位置づけた。その後、昭和6(1931)年に工事着手した白岩砂防堰堤は、多くの歳月と費用を投じ昭和14(1939)年に完成した。高さ63mは現在も日本一の砂防堰堤の高さをほこる。 |
221 | 常願寺川 | 常願寺川 | 北陸地方整備局 | 富山河川国道事務所 | 済民堤 | 堤防 | 16世紀代 | 常願寺川左岸の富山市西ノ番に済民堤とよばれる堤防がある。この堤防は、以前に築かれた堤防が常願寺川の氾濫で埋まってしまい、その上に改めて築かれた堤防で、土地の人々が、常願寺川の治水に力をつくした先人をしのび、「民を助ける堤防」として済民堤と名付けたと伝えられている。 |
222 | 常願寺川 | 常願寺川 | 北陸地方整備局 | 富山河川国道事務所 | 巨大水制群(ピストル水制等) | 水制・護岸 | 20世紀代 | 北陸の急流河川工法は、昭和23(1948)年までは木材と石の組み合わせによる木工沈床等であったが、土石の流下が激しい急流河川では6年ほどの耐久年数しかなかった。当時、富山工事事務所長であった橋本規明氏はコンクリートを使用した急流河川工法を研究し、それを実施した。常願寺川左岸、富山市西ノ番には水制ではピストル型水制、シリンダー型水制等、根固工では十字ブロック、カーテンブロックなど偉大な河川工法として現在も残っている。 |
223 | 常願寺川 | 常願寺川 | 北陸地方整備局 | 富山河川国道事務所 | 霞堤(デ・レイケの改修計画) | 堤防 | 19世紀代 | デ・レイケによる常願寺川改修計画は明治24(1891)年に測量着手、翌年1月26日に設計が完了し、本格的改修工事に着手することになった。デ・レイケは明治24年洪水後の堤内、堤外の状況および被害の程度、既存堤防の配置状況等、急流河川常願寺川の河道特性を十分に分析し随所に霞堤を配置した計画であった。霞堤は急流河川の代表的堤防であり、現在も随所に残っている。 |
224 | 常願寺川 | 常西用水 | 北陸地方整備局 | 富山河川国道事務所 | 佐々堤 | 堤防 | 16世紀代 | 佐々成政は、常願寺川に「済民堤:民を救う堤防」を築き、灌漑用水を整備するなど、治水・利水に力を注ぎ、領民のための施策を推進したことが最近明らかになりつつある。現存する「佐々堤」は、常西用水の川底から顔をのぞかしている古い石の堤防で、霞堤を効果的に配置したものである。築堤後400年余りの歳月を経て、今なお堅固な構造を保ち、水路の床固めの役割を果たしており、当時の技術水準の高さを示している。安政5(1858)年の大地震に伴う大土石流により「佐々堤」がほとんど埋まってしまったことは、常願寺川の治水の困難さを如実に物語るものである。 |
225 | 常願寺川 | 常西用水 | 北陸地方整備局 | 富山河川国道事務所 | 常西合口用水上滝砂溜排砂水門 | 門 | 19世紀代 | 常西合口用水は、堤防の決壊を防ぐため、それまで用水ごとにあった取水口を一つにまとめ合口化し、明治26(1893)年に完成した用水である。 その用水の土砂吐け機能の施設として大山町上滝に明治25(1892)年に完成した施設である。 |
226 | 神通川 | 神通川 | 北陸地方整備局 | 富山河川国道事務所 | 馳越線 | その他 | 20世紀代 | 明治初年頃の神通川は、富山城付近で直角に蛇行した形状をていしていたが、デ・レイケの立案によりまっすぐな水路とするための分流計画が明治28(1895)年にまとめられた。 そして、明治34(1901)年1月から分流するための改修工事に着手し、明治36(1903)年5月に完成した。 工事着手から完成までにわずか2年たらずで完成をみた背景には、新しい水路は、その全てを掘削したのではなく、真ん中に幅2メートル、深さ1.5メートルの細い水路を造り、この細い水路を迸る洪水の勢いで土砂を削り取り、少しずつ水路の幅を広げる工法を採用したことによるもので、洪水の頻度が多い神通川では短期期間で計画の川幅を確保することができた。 この新しい水路を「馳越線」といい、馳越とは、ある水位を超えた水が堤防を越えて流れることを意味しており、神通川では小さい川の断面を洪水により徐々に断面を広げたことから、「馳越線」と名付けられている。ちなみに、「馳越」は富山県だけで使われる用語である。 |
227 | 神通川 | 神通川 | 北陸地方整備局 | 富山河川国道事務所 | 笹津橋 | 橋 | 20世紀代 | 富山から飛騨に向かう飛騨街道(現在の国道41号)が神通川を渡る箇所に架かるメラン式鉄骨鉄筋コンクリートアーチ橋。初代の木造桁橋から数えて4代目の橋梁で、神通川とのコントラストが美しく、また戦前当時としては3番目の支間長を誇る。平成12(2000)年2月15日に国の有形文化財に登録。 |
228 | 神通川 | 松川 | 北陸地方整備局 | 富山河川国道事務所 | 桜橋 | 橋 | 20世紀代 | 昭和3(1928)年に富山市都市計画事業の一環で、旧神通川の跡地に開削された松川に架かるリベット打ちの鋼製アーチ橋。橋上は路面電車が通るとともに、桜の季節には遊覧船が橋下を通過するなど観光資源としても活用されている。平成11(1999)年11月18日に国の有形文化財に登録。 |
229 | 神通川 | 富岩運河(神通川) | 北陸地方整備局 | 富山河川国道事務所 | 中島閘門 | 門 | 20世紀代 | 中島閘門は、富岩運河の開削にあわせて昭和9(1934)年に設置され、運河上流に工場が誘致されていたことから、当時は工業用原料を運ぶ船が往来するなど、運河のシンボルとして、富山市の発展に大きな役割を果たした。 この閘門は、運河の河口から約3.1km上流に位置し、およそ2.5mの水位差を二対の扉で調整する、当時の最新技術を採用したパナマ運河方式の閘門で、ヨーロッパにおいて中世から近代にかけて発達した水運技術を取り入れたものです。平成10(1998)年5月1日、近代化遺産として国指定重要文化財に指定された。 |
230 | 庄川 | 庄川 | 北陸地方整備局 | 富山河川国道事務所 | 小牧ダム | 堰・ダム | 20世紀代 | 小牧ダムは、富山県氷見市出身の浅野総一郎の電源開発計画に基づき計画された利水ダムである。ダムの建設は、大正15(1926)年に着手し、昭和5(1930)年に完成しました。 ダムは重力式コンクリート構造で、堤高は79メートル、長さは3百メートルあり、総貯水容量は38百万立方メートルで、17のゲートを備え、最大出力7万2千キロワットを有し、その当時は東洋一のダムといわれました。 阪神淡路耐震災でも、ダムは被害を受けることがなく、平成14(2002)年6月に国の登録有形文化財に登録され、河川ダムとしては全国で最初の文化財となった。 |
231 | 庄川 | 庄川 | 北陸地方整備局 | 富山河川国道事務所 | 松川除 | 堤防 | 18世紀代 | 寛文10(1670)年、藩は千保川をはじめ、今まで西へ流れていた何本もの川を締め切って東へ移し、庄川の流れを一本にする工事をはじめた。瑞龍寺や高岡町、砺波平野を水害から安定させるためである。 堤防は長さ2キロメートルにもわたり、45年の歳月と多くの労力をついやして、正徳4(1714)年に完成した。その後も補強工事が続けられ、堤防を強固とするために松の木が数百本植えられたことから「松川除」(「川除」は堤防のこと)と呼ばれるようになった。 |
232 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 堤塘 | 堤防 | 20世紀代 | 堤の表幅4間は、石を盛り詰め、堤の裏側は土砂を盛る。さらに堤の裏表とも石を端取る。石の積み方は谷落と一本返しの方法があり、両方とも六ツ巻にして積み、堤防の法面に対して石の中心を90度の角度にする。 |
233 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 根固工(赤松丸太の使用) | 水制・護岸 | 20世紀代 | 赤松丸太を桝形に組んで中に石を詰めたもの。 堤防の根元を固める沈床据付工事で、末口5寸の赤松丸太を内法6尺四方の桝形に組んでボルトで締め付け、その底は小段の端取石に胴木の敷面に合わせて小段の根元に据える。堤防に沿って三列(みならび)から四列にして必要な長さに組み並べる。中に石を詰めるが、流れに逆らわないように並べ重ねる。内務省の直轄工事になってからだと思うが、沈床の根元から合掌組を建てて、水制を兼ねた合掌枠(または合掌枠沈床)を施すようになった。 |
234 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 導水提 | 堤防 | 19世紀代 | 河口の水面を下げることを目的とした堤防。 出水のため、手取川の川底が2mも高まったことから治水策を確立し、破壊堤防の修理と補強とに従事し従前の堤防が大きいため、高さなどを増し、普通の河川改修に見るようなことは望まれない。しかし、根本方針として水制工を造り河床の上昇を防ぎ、従来護岸に重きを置いて補強に努め、河口の水面を下げることを目的とし河口において2、3m位の導水堤を出すこととした。 この導水堤は、港湾の改修には見受けられるが河川の改修には全国に2、3を数えるのみである。 |
235 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 鉄線蛇籠 | 水制・護岸 | 20世紀代 | 鉄線でできた蛇籠。 昭和9(1934)年の大水害以前、川北の手取本流で用いられた蛇籠は明治中期に決められた七ヶ用水組合の規格同様、長さ5間(2、3、4間のも造られた)、直径2、3、4尺の3種類があり、たて系列の建(竪)竹やそれを取り囲む輪竹の材料の寸法も決められていた。水害直後の昭和10年同組合が規定したものには、本流でも長さ5間、直径4寸、サシ1寸、マワシ1寸2分のものが普通であった。蛇の目の大きさは8寸ほどであった。水防小屋に保管された竹籠やその他の水防材料については、県の定期的な検査が行われた。そのため、住民は規格通りにつくるため苦労している。水害後は鉄線蛇籠が一般化し、強度も強まった。 現在も、保元袋堤などに保存されている。 |
236 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 川鞍 | 水制・護岸 | 19世紀代 | 堤塘に突込む水勢をはね出したり、流れの方向を変えたりする水制工。 |
237 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 木流し | 水防 | 19世紀代 | 木を切り、葉のついたまま欠潰箇所にながすもので、水勢の強い場合は、枝に土俵をつけることもある。 |
238 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 埼堰(さきぜき) | 堰・ダム | 19世紀代 | 明治前期における手取川洪水の要因は、水源森林の間伐と河床の高堆積だけではなかった。それは藩政期以来の用水取り入れの方法に問題があった。手取川通(どおり)八ヶ用水は、それぞれに川の瀬に崎堰をかけ、抹江(まつえ)を掘り、川鞍を並べて用水を引いていた。 |
239 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 宮竹逆サイフォン | 水路・河道付替 | 20世紀代 | 発電事業に関連して、昭和15(1940)年左岸宮竹用水へ送水する逆サイフォン装置が完成した。鶴来発電所において利用する水量が七ヶ用水の取水量だけでは足りず、宮竹用水の取水量も利用する必要が生じてきたためである。この結果、宮竹用水と七ヶ用水は部分的ではあるが、共同施設から取水を行うことになり、水不足になると宮竹用水はサイフォン施設を利用して七ヶ用水から分水を受け入れることができるようになった。 しかし、このサイフォンの管理、すなわちサイフォンへの導水量を調節する水門操作等は七ヶ用水側に委ねられており、水利上、上流用水、つまり右岸七ヶ用水の優位性は残っていた。 |
240 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 七ヶ用水 | 水路・河道付替 | 19世紀代 | 用水の発達は、稲作の普及と取水技術の進歩とに並行するが、七ヶ用水の起源についての古い記録は明らかでない。 この所在地は、ともに鶴来町の上手(上流部)にあるところから、富樫・郷用水の取入口の安泰を祈願する神であったと見られる。このことから、手取川からの用水開設は、少なくとも平安後期に始められていたものといえる。 |
241 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 村囲堤 | 堤防 | 20世紀代 | 加賀藩では堤防のことを「川除」と呼んでおり、川除は一つの村だけで作っても効果がなかったため、村単独で洪水から身を守るために集落の周囲に土手を築いたことから「村囲」と呼ばれた。 |
242 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 流作場 | その他 | 遊水池は普段は採草地として利用したり、流作場として耕作され、耕地の割り換えを行う「割替慣行」といった独特な土地制度があった。 | |
243 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 流材 | 舟運 | 20世紀代 | 川の流れに沿って木材を流し運搬した。 |
244 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 川刈 | その他 | 川掃除ともいい、水の流れが良くなるように行われる共同作業である。 | |
245 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 流木拾い | その他 | 17世紀代 | 1.8m以下の流木を流域住民が拾うこと。 |
246 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | かやぶきの家 | 水防 | かわら屋根の家は重くて、洪水時には屋根もろともつぶれ下敷きになる危険性が高いが、かやぶき屋根の家は水に浮くため命が助かるという言い習わし。 | |
247 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 太鼓(水害を知らせる) | 水防 | 20世紀代 | 洪水時に太鼓をたたき災害を知らせた。 |
248 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 竹蛇籠 | 水制・護岸 | 19世紀代 | 竹でできた蛇籠 |
249 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 木籠 | 水制・護岸 | 19世紀代 | 木でできた蛇籠 |
250 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 梅ノ木堤 | 堤防 | 19世紀代 | 手取川左岸10km付近の霞堤の名前 |
251 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 權正寺堤 | 堤防 | 19世紀代 | 手取川の霞堤の名前 |
252 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 張出工(合掌枠沈床) | 水制・護岸 | 20世紀代 | 沈床と合掌枠とを組み合わせた合掌枠沈床。 |
253 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 白山合口堰堤 | 堰・ダム | 20世紀代 | 手取川の上流17.3kmにある取水堰堤。 |
254 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 練積堰提 | 堰・ダム | 20世紀代 | 大正元〜9(1912〜20)年に甚之助谷に練積堰堤を施工。 |
255 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 護岸堰提 | 堰・ダム | 19世紀代 | 白峰村桑島に施工された堰堤。 |
256 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 河川堰 | 堰・ダム | 20世紀代 | 本川の流れをある程度止め、用水に水を流すといった目的や、本川の河動の流れを変えるといった目的に使用した。河川堰の構造は、杭に1本を4つ切りにした竹を編み込んだものである。 |
257 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 手取川大洪水遭難者供養塔 | 碑 | 20世紀代 | 昭和9(1934)年の大洪水を白峰村では、「湯の谷大洪水」と記している。白山源流の湯の谷の「くすぼり峠」の崩壊から始まったと語られた。また、「白山解雪」による洪水とも記してある。 |
258 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 大石(昭和59年水害復興工事完了記念) | 碑 | 20世紀代 | 川北町橘地区の橘少彦名(すくなひこな)神社見る手取川は、高い堤防に閉じこめられて緩く蛇行していた。昭和9(1934)年の水害の自然石の碑がある。 大石はもともと、神社から700mほど離れた堤防の下に流れ着いたと言われる。 |
259 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 浅井外治翁之像(手取川改修期成同盟会長)(銅像) | 碑 | 20世紀代 | 手取川治水のために生涯をまっとうした人物の銅像。没昭和48(1973)年4月6日。 |
260 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 芭蕉の渡し | 碑 | 川北町田子島右岸にある石碑。「奥の細道」の東北紀行から帰る元禄2(1689)年7月、多くの旅人にまじって俳聖もまた粟生の私にさしかかった。その時の一句が碑に刻まれている。「あかあかと日は難面も秋の風」 | |
261 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 枝権兵衛、小山良左衛門顕彰碑 | 碑 | 20世紀代 | 鶴来町白山右岸16.2kmにある石碑。枝 権兵衛は文化6(1809)年1月15日坂尻村(現鶴来町)に生まれ、文政8(1825)年にわずか17歳で村肝煎(むらきもいり)となった。 富樫用水の取水口は、鶴来町白山地内の十八河原にあって、当時は川底が平坦で低く、取水口及びその下流部は高くなっていた。 このため干ばつ時には用水不足を来たし、また洪水で毎年取水口が破損して下流部の39ヶ村が大きな被害を受けていた。 そこで権兵衛は、加賀藩産物方の小山良左衛門と力を併せて慶応元(1865)年2月に取水口を安久涛ヶ淵(あくどがふち)に移し、古宮公園の地下をトンネルで通水する難工事に取りかかった。工事に対する経費負担を地元に対して求めたが応じなかったため、権兵衛の私財により賄われ、明治2(1869)年5月に完成を見た。 |
262 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 水害記念碑 | 碑 | 20世紀代 | 橘神社の境内にある。橘地区で災害耕地整理の工事が終わるとその復興記念として建立したものである。昭和9(1934)年7月11日の洪水で権正寺堤から流れ出た巨石に碑文が刻まれている。 |
263 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 百万貫岩 | その他 | 20世紀代 | 昭和9(1934)年7月の手取川大水害(死者・行方不明者112人)の際に手取川上流の宮谷より流れてきたものです。平成13(2001)年12月25日には、県の天然記念物に指定されました。大きさ約21m×15m×13mという大きな岩で岩石の比重を約2.6としても百満貫(3,750トン)以上はあると思われることから名付けられた。 |
264 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 手取川橋 | 橋 | 19世紀代 | 最初の手取川橋は明治21(1888)年に富山県人・佐藤某が架橋したが、それまでは「粟生の渡し」として渡り船で通行していた。 |
265 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 辰口橋 | 橋 | 20世紀代 | 延長416m幅員3.3mの木橋で、この橋を架けるために尽力した神田重義の偉大な業績を讃えて流域住民が名乗った巧名である。 |
266 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 吊橋 | 橋 | 20世紀代 | 尾口村の入り口にあたる濁澄橋は、もともと加賀藩領と尾口村以南の天領との境をなすものであった。深い尾添川の谷に下り、釣り橋を渡った。この橋が永久橋に改められ、橋の位置も谷底から上の方へ漸次移され、現在の濁澄橋になった。また、五味島大橋は明治45(1970)年に架けられ42間の長さを持つ大橋であり、釜谷・深瀬間には長さ28間の深瀬橋が架設されともに釣り橋であった。 |
267 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 剥木橋 | 橋 | 両岸から斜に木を出し、その上に橋板をかけたもので大雨がくると橋板が流されるので刎木橋と呼ばれた。 橋板を1本かけたものと2本かけたものとがある。 形がムカデに似ていることから百足橋とも呼ばれた。 |
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268 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 何龍橋(材質不明) | 橋 | 20世紀代 | 斎藤栄蔵という人が何龍橋と名付けて独力で建設したもので、この橋から渡橋銭をとった。 |
269 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 天狗橋 | 橋 | 20世紀代 | 鶴来町大国町に手取川河口より14km付近に架かる。明治36(1903)年2月11日に連続トラス式の橋がかかる。昭和9(1934)年7月11日に天狗橋、能美電鉄の鉄橋ともに洪水により流失。鉄道橋の方は半分残り、その後、同じ構造で修復。天狗橋は、流された橋のやや下流に連続吊橋を架ける。昭和30(1955)年10月25日、連続ランガー桁橋と桁橋を組み合わせた現在の天狗橋が完成。 |
270 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 和佐谷吊橋 | 橋 | 20世紀代 | 鶴来町白山町に手取川河口より16km付近に架かる。昭和7(1932)年に着工、10月に竣工した。橋は川の中央に鉄筋コンクリートの塔柱を建てた吊り橋。完成して1年も経たぬ7月26日の大出水で橋脚が崩壊して一部流出。修築したが、翌年の7月の大洪水で再び災害を蒙った。 |
271 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 鷹急の吊橋 | 橋 | 19世紀代 | 能美郡白峰村河内谷に架かる釣り橋。 |
272 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 木橋 | 橋 | 戦前、何龍橋(現在の美川橋(歩道橋))の直下流側に木橋があったという。洪水より流され、戦後何龍橋の直下流側に新美川大橋が架けられた。 | |
273 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | デ・レイケ | その他 | 19世紀代 | 明治6(1873)年に政府が港湾・河川事業近代化のため招いたオランダ技師団の一員として来日。明治24(1891)年の夏に内務省の雇技師として手取川を視察。 |
274 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 一閑寺の不動尊 | 祭り・信仰 | 一閑寺の不動尊の右足には、岩角にノミで掘ったような穴が空いている。昔手取川の本流はここを流れており、渡し船をつなぐための鍵穴だったそうである。また、手取川の上流には波切不動が洪水から人々を守っている。 | |
275 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 笠間神社(減水祈願) | 祭り・信仰 | 16世紀以前 | 木曾義仲が手取川の洪水で、渡れず笠間神社に祈願したところ、程なく水が引いたという言い伝えが残っている。 |
276 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 官保神社(減水祈願) | 祭り・信仰 | 16世紀以前 | 木曾義仲が手取川の洪水で、渡れず宮保神社に祈願したという言い伝えが残っている。 |
277 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 粟生の渡し(舟場島の渡し) | 舟運 | 17世紀代 | 手取川の渡舟は、慶長年間(1596〜1615年)において粟生駅問屋の所属として、手取川渡守という一団を設け渡舟は三隻配備して行われた。川の両岸間にロープを張り、それを操りながら舟を進める風景は明治21(1888)年10月6日に手取川に橋が架けられるまで続いた。川北町木呂場〜寺井町粟生。 |
278 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 湊ノ渡 | 舟運 | 19世紀代 | 明治初期まで手取川をわたって石川郡を往来するための渡舟の舟渡場。美川町湊。 |
279 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 灯台笹渡(明島の渡し) | 舟運 | 19世紀代 | 明治初期まで手取川をわたって石川郡を往来するための渡舟の舟渡場。鶴来町明島〜辰口町灯台笹 |
280 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 和佐谷渡 | 舟運 | 19世紀代 | 明治初期まで手取川をわたって石川郡を往来するための渡舟の舟渡場。鶴来町〜辰口町和佐谷 |
281 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 広瀬渡 | 舟運 | 19世紀代 | 明治初期まで手取川をわたって石川郡を往来するための渡舟の舟渡場。鳥越村広瀬〜鶴来町中島 |
282 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 天狗壁ノ渡 | 舟運 | 19世紀代 | 明治初期まで手取川をわたって石川郡を往来するための渡舟の舟渡場。鶴来町天狗橋付近。 |
283 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 宮竹ノ渡 | 舟運 | 19世紀代 | 明治初期まで手取川をわたって石川郡を往来するための渡舟の舟渡場。川北町中島〜辰口町宮竹 |
284 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 三ツ口ノ渡 | 舟運 | 19世紀代 | 明治初期まで手取川をわたって石川郡を往来するための渡舟の舟渡場。川北町三反田〜辰口町三ツ口 |
285 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 岩内ノ渡 | 舟運 | 19世紀代 | 明治初期まで手取川をわたって石川郡を往来するための渡舟の舟渡場。川北町〜辰口町岩内 |
286 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 鉄索による河渡 | 舟運 | 19世紀代 | 川に鉄索を渡し、ロープを使って渡るもの。 |
287 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 小廻り船の運行 | 舟運 | 20世紀代 | 美川町永代町。明治時代には、物産を商った小廻り舟が運航しており、手取川河口部左岸が港であった。港から小舟に荷を降ろし、小舟で安産川の荷下ろし場に運んだという。 |
288 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 水戸明神(水利感謝祭) | 祭り・信仰 | 20世紀代 | 水戸明神には枝権兵衛や小山良左衛門がまつられ、鶴来町では元旦、秋に水利感謝が行われている。 |
289 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 石蔵 | 水防 | 昭和9(1934)年の水害以降、手取川と中島用水に挟まれた川北町の西の外れや、橘、橘新、朝日の各地区に多く建つ。水害の備えで石を積み上げ、内側に土を塗った蔵。 | |
290 | 梯川 | 梯川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 川切り | 水路・河道付替 | 19世紀代 | 湾曲している水路を真直ぐに陸地を仕切ること。 |
291 | 梯川 | 梯川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 杭護岸 | 水制・護岸 | 18世紀代 | 杭を連立させ、水際杭に栗石を投入した工法。なお、杭には腐りにくく、耐久性のある栗の木を用いている。 |
292 | 梯川 | 梯川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 軽海用水(木工沈床) | 堰・ダム | 20世紀代 | 軽海用水の取入堰堤は、明治35(1902)年の改築までは、川倉を並べたもので明治29(1896)年8月の水害によって大破された。新しい堰堤は木工沈床を並列に据え付けて取り入れ水位を確保し、御殿山の下に隧道をくりぬいて取り入れ、もとの用水川に戻す。 |
293 | 梯川 | 梯川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 浮柳逆水門(前川) | 門 | 20世紀代 | 昭和7(1932)年に浮柳逆水門を建設し、安宅水戸口閉鎖や梯川本流の増水による逆流を防止し、加賀三湖周辺低湿地帯での浸水被害の軽減を図った。 |
294 | 梯川 | 梯川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 尾形船の運行 | 舟運 | 20世紀代 | 小松市安宅町及び天神町に発着場があり、屋形舟が運航していたという。 |
295 | 梯川 | 梯川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 小廻り船(弁財船)の運行 | 舟運 | 20世紀代 | 梯川河口部左岸が港であり、物産を商った小廻り舟(弁財船)が運行していたという。 |
296 | 梯川 | 梯川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 板船(川船)の運行 | 舟運 | 20世紀代 | 前川との合流部の右岸側には、稲揚場があったという。今江潟周辺の田から板船に稲を乗せ、稲揚場まで運行したという。 |
297 | 梯川 | 梯川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 梯大橋 | 橋 | 18世紀代 | 藩政時代の初期に橋が架けられるまでは、渡し舟によって通行していた。「小松旧記」に記された梯橋に関するものは、明和8(1771)年に石橋に成る、文政3(1820)年石橋掛直、天保2(1831)年掛直、天保12(1841)年掛直、弘化3(1846)年板橋に成るとあり、現在の梯大橋が昭和12(1937)年に架設されるまでは木橋、石橋が何度となく架直された。 |
298 | 狩野川 | 狩野川 | 中部地方整備局 | 沼津河川国道事務所 | 守山の開削 | 水路・河道付替 | 13世紀代 | 狩野川における治水事業は、鎌倉時代に田方平野を洪水から守るため、守山を開削し、流路を守山の西に付け替えたのが始まりと言われています。 |
299 | 安倍川 | 安倍川 | 中部地方整備局 | 静岡河川事務所 | 霞堤 | 堤防 | 16世紀代 | 一般に新田開発は霞堤の内側を利用するものであるが安倍川の場合、新田開発が行われた後、築堤されたものもある。(遠藤新田等) 安倍川の新田開発は、1500年代後期から活発化しているため武田信玄による甲州流治水技術の影響が考えられるが定かではない。 安倍川には、数多くの霞堤が存在する。安倍川の場合、急流河川であるが故に、新田開発に伴い開発地を守るために築堤されたもので、遊水部の治水機能としての洪水貯留効果は考慮されていない。 ほとんどの霞堤開口部は築堤され、連続堤となっているが山付部からの築堤部分は現存している。 |
300 | 安倍川 | 安倍川 | 中部地方整備局 | 静岡河川事務所 | 薩摩土手 | 堤防 | 17世紀代 | 17世紀はじめに徳川家康が島津氏に命じて築かせたといわれているが、歴史書等には記載がないため、確認はできない。 江戸時代後期に書かれた『駿河国新風土記』の中に「島津家の功役によって築堤されたと言い伝えられている」と記載されているが、薩摩藩島津家および幕府の公式記録にはないが、『静岡市 近世』に「島津氏がお手伝いしたものであろう」と記載されている。 「駿府お囲堤」といったほうが良いと思われる。 大部分の築堤は撤去されているが一部現存している。現在堤防のあった場所は市道として薩摩通りと呼ばれている。 |
301 | 安倍川 | 安倍川 | 中部地方整備局 | 静岡河川事務所 | 築堤 | 堤防 | 18世紀代 | 堤防上に安永9(1780)年11月の記名がある川除地蔵尊像が安置されている。 安倍川左岸中島地先の東名高速道路橋の北側に本堤から反れるように堤防が現存している。詳しい築堤年は不明であるが、安永9(1780)年11月と記銘された川除地蔵が安置されていることから、江戸時代中期以前のものと推察される。 |
302 | 安倍川 | 安倍川 | 中部地方整備局 | 静岡河川事務所 | 中聖牛・川倉 | 水制・護岸 | 18世紀代 | 安倍川では1800年代から用いられてきた水制で、丸太を櫓のように組んで、岩石の重りをつけた構造。 戦後次第にコンクリートブロックに取って代わられたが、人力で比較的簡単に施工できること、間伐材が利用できること、景観が良くなること、生態系にやさしいことなどから、近年伝統的な水防工法として、見直されている。 |
303 | 大井川 | 大井川 | 中部地方整備局 | 静岡河川事務所 | 船型屋敷、三角屋敷 | 水防 | 大井川下流は、常に河道が変化していた。 河道を定着させるまでの間は、洪水対策として個人で家を守る知恵を持った。 輪中と同様であるが、急流河川であるため、上流に向かって舟型や三角に土手を築き、洪水から家を守った。 藤枝市、大井川町等各地区に少し残っている。 |
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304 | 大井川 | 大井川 | 中部地方整備局 | 静岡河川事務所 | 天正の瀬ちがい | 水路・河道付替 | 16世紀代 | 高さ30mの牛尾山を開削して大井川の流れを変え、右岸側に新田を開くとともに、以後下流の島田市、藤枝市、大井川町の河道を固定させていった。 天正18(1590)年に駿河太守中村一氏が牛尾山を開削。 当時のままの河道が本川となっている。 |
305 | 大井川 | 大井川 | 中部地方整備局 | 静岡河川事務所 | 蓬莱橋 | 橋 | 19世紀代 | 江戸時代までは川越(架橋は許されなかった)として有名であるが、明治時代に入って、個人の手によってかけられた。 980mを誇る木橋である。 歩行者、自転車専用の有料橋。 |
306 | 大井川 | 大井川 | 中部地方整備局 | 静岡河川事務所 | 飛田提 | 堤防 | 16世紀以前 | 大井川水系で記録に残るもっとも古い堤防で平安時代に築堤された。 高さ7.8尺(2.4m)、馬踏5.6間(10.2m)で当時としては大きなものであった。 |
307 | 大井川 | 大井川 | 中部地方整備局 | 静岡河川事務所 | 御囲い堤 | 堤防 | 17世紀代 | 慶長9(1604)年の出水により島田宿は大被害を受け、北側の山沿いに移転したが、徳川頼宣が元の位置に宿並を再興するときに宿域を土手で囲い水害から宿場全体を守ろうとした。 |
308 | 大井川 | 大井川 | 中部地方整備局 | 長島ダム管理所 | 大井神社 | 祭り・信仰 | 17世紀代 | 大井川は急流河川であり、江戸時代まで河道が固定されていない状況であった。 大井川の氾濫防止を祈って、各所に神社を祭った。 大井川の両岸に70社以上が現存する。 |
309 | 大井川 | 大井川 | 中部地方整備局 | 長島ダム管理所 | 家山川越地の開田と切割り | 水路・河道付替 | 19世紀代 | 江戸時代末期まで、越地地区は氾濫をたびたび受けていたが、当時の名手吉衛門によって河道の付け替えを行い、新田を築いた。 天保2(1831)年から2年をかけて堤防を築き、岩山を切り開いて河の流れを変え、新田を築いた。 岩山の開削は当時のまま残り、蛇行していた旧河道部分には田がある。 |
310 | 大井川 | 大井川 | 中部地方整備局 | 長島ダム管理所 | 川除地蔵 | 祭り・信仰 | 16世紀以前 | 11世紀以降、川の決壊や氾濫を防ぎ、水害から守ってもらうための信仰対象。 昭和30年代まで信仰は続いていたが、現在は交通安全等の信仰対象となって現存している。 |
311 | 大井川 | 大井川 | 中部地方整備局 | 長島ダム管理所 | てっぽう | その他 | 17世紀代 | 伐採木を谷に集めて堰を作り、貯水して湖に木材を浮かべ、堰を壊して水流により木材を大井川本川まで流下させた。本川根町千頭にて集積、いかだを組んで下流島田市向谷方面へ輸送した。 てっぽうの工法が本川根町資料館「やまびこ」に模型で再現してあるのみ。 |
312 | 大井川 | 大井川 | 中部地方整備局 | 長島ダム管理所 | 飛航艇 | 舟運 | 明治時代までは、上下流の交流は引き舟によっていたが大井川は急流のため、代替案として、大正時代以後飛行機のエンジン・プロペラを備えた艇により舟運が行われた。 島田市向谷〜川根町家山〜中川根町地名を結んで飛行艇が運行された。大井川鉄道の敷設によって廃止された。 港を特定できる場所は現存している。 |
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313 | 天竜川 | 天竜川上流 | 中部地方整備局 | 天竜川上流河川事務所 | 旧堤防(理兵衛堤) | 堤防 | 18世紀代 | 長野県上伊那郡中川村には、江戸期に築かれた理兵衛堤防の跡が残っています。 理兵衛堤防は、中川村の庄屋であった松村理兵衛が延享7(1750)年に手がけ、子、孫と三代にわたって、自分の財産を投げ出して工事を引き継ぎ完成させたものです。 石積みの堤防は強固に築かれ今日に至ってます。 |
314 | 天竜川 | 天竜川上流 | 中部地方整備局 | 天竜川上流河川事務所 | 鉄線蛇篭 | 水制・護岸 | 20世紀代 | 鉄線で編んだ篭の中に河原の石を詰め、水が当たる部分に敷きならべ、堤防の土砂が削り取られるのを防ぎます。 昔は竹で篭を作っていましたが、天竜川で竹の代わりに鉄線を使う工法の特許が取られました。 |
315 | 天竜川 | 天竜川 | 中部地方整備局 | 天竜川上流河川事務所 | 「語り継ぐ天竜川」シリーズ | その他 | 16世紀代 | 地域の意見を反映させた河川整備の推進が求められる時代であり、その際、天竜川流域に暮らす人々が長い歴史の中で育んできた風土や自然環境などの基本的事項について我々行政も住民の方とともに理解を深めることが重要である考えております。 昭和61(1986)年より天竜川流域の災害・環境・歴史・文化など、様々な知見や経験を収集し現在、57巻になる。ホームページより各巻ごとにダウンロードできるようになっています。 |
316 | 天竜川 | 天竜川 | 中部地方整備局 | 天竜川上流河川事務所 | 天竜川史料 | その他 | 17世紀代 | 天竜川上流部に関する史料をとりまとめ、編纂した。 |
317 | 天竜川 | 天竜川下流 | 中部地方整備局 | 浜松河川国道事務所 | 旧堤防(天保堤) | 堤防 | 16世紀以前 | 天平宝字5(761)年の水害で約1,000mの堤防が決壊したため、延べ人数303,700人あまりの労力によって修築された。(平安時代の「延喜式」によって算出した遠江国の全人口が約98,000人と推定される) 修築堤防の断面は天端3.6m、高さ1.36m、敷高5.4mで当時最高の復旧工事をしたと思われる。 |
318 | 天竜川 | 天竜川下流 | 中部地方整備局 | 浜松河川国道事務所 | 旧堤防(彦助堤) | 堤防 | 16世紀以前 | 開田を目的とした小天竜の締め切り堤防を下流に連続して本川をまとめることにより、開田はもとより浜松城の防衛に役立ち、又東海道の交通管理上にも都合が良いと言う一石二鳥の大きな効用があった。 現在でも浜北市に一部が存在する。 |
319 | 天竜川 | 天竜川下流 | 中部地方整備局 | 浜松河川国道事務所 | 二俣川の付替え | 水路・河道付替 | 17世紀代 | 享保6(1721)年の水害で現在の天竜市が被災したのを契機に河川の付け替え工事がなされた。 現在の二俣川は24.0km付近左岸で天竜川に流入しているが、以前は 2.0km程上流の左岸で天竜川に流入しており、水害の度に本川水が逆流し、何日も冠水していた。この様な水害から逃れるため宝暦4年(1754年)から計画され、寛政元年(1789年)に完成した。 |
320 | 天竜川 | 天竜川下流 | 中部地方整備局 | 浜松河川国道事務所 | 金原 明善 | その他 | 19世紀代 | 明治元(1868)年、天竜川の度重なる災害の根を絶ち、民心安定、産業復興のため私財を投じ治水に献身した。 金原明善翁の業績を顕彰し、その遺風を後世に伝えるため(財)金原治山治水財団が設立され、浜松市内に「明善記念館」が建てられている。 |
321 | 豊川 | 豊川 | 中部地方整備局 | 豊橋河川事務所 | 霞堤 | 堤防 | 17世紀代 | 霞堤は当地方では鎧堤または蓑掛堤と呼ばれ、豊川流域には左右各岸に9ヶ所あった。鎧堤は字のごとく、切れ目のある堤防が二重三重に重なっているため上記の名称が付けられたと思われる。 右岸側に位置していた4ヶ所の霞堤(二葉、当古、三上、大村)の締め切りが、昭和42年度までに完了した。 |
322 | 豊川 | 豊川 | 中部地方整備局 | 豊橋河川事務所 | 水屋 | 水防 | 豊川沿いの集落は、かつてほとんどが霞堤からなっていたことから、出水ごとに洪水が進入してきた。水の届かない高さまで石垣を積んで、その上に家屋(水屋)を建て、洪水の時は避難した。(だんべ船) | |
323 | 矢作川 | 矢作川 | 中部地方整備局 | 豊橋河川事務所 | 黄金堤 | 堤防 | 17世紀代 | 貞享3(1686)年、吉良の領主吉良上野介義仲が矢作川支川の広田川や矢作古川の洪水が吉良へ流れ込まないように築いたもの。 この堤防を築くと、洪水は西尾領に流れてしまうため、西尾藩との交渉の末、一日で造ること、切れたら造らないことの条件で造ったため、一夜堤とも言われている。 長さ187m、高さ4mで堤防の中心は粘土でできている。 |
324 | 矢作川 | 矢作川 | 中部地方整備局 | 豊橋河川事務所 | 矢作川の河道の変遷 | 水路・河道付替 | 天正末期(1586〜1591年)頃までの矢作川は、原始以来のいわゆる乱流そのもので、網の目のように沖積低地を分流し、低地には自然堤防が次第に造成されていった。14世紀に六名堤の築造と乙川の矢作川合流化が行われ、15世紀半ばに西郷氏などの本流堤防の部分的工事がなされたが、現在のような河道になったのは、豊臣・徳川氏の統一権力による大規模工事によるためである。 | |
325 | 矢作川 | 矢作川 | 中部地方整備局 | 豊橋河川事務所 | 柳技工 | 水制・護岸 | 矢作川の標準的な低水護岸として柳枝工を施工している。 | |
326 | 庄内川 | 小里川 | 中部地方整備局 | 小里川ダム工事事務所 | 3連石橋 | 橋 | 20世紀代 | 大正年間に小里川発電所施設として建設された。石材が多く使用されている。小里川ダムの湛水に伴い水没補償の対象となった。現在は山岡町の文化財ではあるが、財産権は国である。 橋長20.5m、有効幅2.15m、3連石造りアーチ。ダムの湛水地内となるため、平成14年に移築。 |
327 | 庄内川 | 庄内川 | 中部地方整備局 | 庄内川河川事務所 | 小田井人足 | その他 | 18世紀代 | 洪水時に名古屋城下を守るため、堤防が危険になると尾張藩の役人が、小田井付近の農民に右岸堤を切って、洪水を小田井方面へ流下させていった。しかし、働かされる農民は、表面上は一生懸命働いている様に見せかけて実際は少しも能率をあげていなかった。 小田井人足とは、この様に一生懸命働いているように見せかけて実は少しも能率を上げていない人のことを皮肉る言葉として使われている。 |
328 | 庄内川 | 庄内川 | 中部地方整備局 | 庄内川河川事務所 | 庄内川流域史 | その他 | 20世紀代 | 庄内川の流域の自然、文化、風習などの歴史的な流れ、河道の変遷、治水、利水等、流域の歴史について取りまとめたもの。 |
329 | 庄内川 | 庄内川 | 中部地方整備局 | 庄内川河川事務所 | 洗堰 | 堤防 | 18世紀代 | もともと、名古屋城を守るために、右岸堤が低く作られていたた。江戸時代の尾張藩主徳川宗睦の命により実施。 庄内川の洪水被害軽減のため、右岸堤を一部切り下げ、新川への洪水の一部を分派させる施設を天明4(1784)年から3年間で実施。 |
330 | 庄内川 | 庄内川,土岐川 | 中部地方整備局 | 庄内川河川事務所 | 20周年記念誌 | その他 | 20世紀代 | 事務所20周年記念。流域の変遷、治水、利水の歴史、工事記録(昭和16年〜)。 |
331 | 庄内川 | 小里川 | 中部地方整備局 | 小里川ダム工事事務所 | 大滝不動尊と銘板 | 祭り・信仰 | 17世紀代 | 右岸に不動尊が祀られた経緯不明。江戸時代の安永7(1778)年に干害に苦しんだ地元農民が祈ったところ雨が降ったという意味の銘板が対岸の岩盤に彫り込んである。現在も地元住民による祭りが行われている。 ダム湛水地内となるため、平成14(2002)年に移転。 |
332 | 庄内川 | 土岐川 大原川 | 中部地方整備局 | 多治見砂防国道事務所 | 山腹工・等高線壕工法 | 砂防工 | 20世紀代 | アメリカに於いては、等高線段丘を築造する理論は古くから考えられ実施されていた。この工法は土質の凝集力の乏しい場合には段丘の維持が困難であり、斜面は永く裸地となり、目的である土砂のかん止に効果がない。そこでこの段丘の代わりに壕(溝)を掘って雨水の滞留と崩壊土砂を壕に止める等高線壕工法がユタ州において考案された。昭和27(1952)、30(1955)年に当地で施工された。 等高線壕工法は、地層、表土の関係で樹木が生育繁茂せず荒廃した山腹傾斜地に雨や雪が降った場合なるべく雨雪水を山腹に滞留・吸収させ地面の湿潤状態を良好にして草木を生育させ、表面流下水に伴う表土の流出を防止する。 上幅約1.3m、底幅約0.3m、深さ約0.4mの壕を山腹傾斜地に、ある間隔をおいて等高に掘って、上段と下段の間に降った雨水を貯留する。 昭和27(1952)年以降、当地方おいては団子山外、虎渓山、森下山等で施工され緑の回復が図られている。 |
333 | 庄内川 | 土岐川 市之倉川 | 中部地方整備局 | 多治見砂防国道事務所 | 石砂留め(市之倉郷石砂留普請絵図) | 砂防工 | 19世紀代 | 安政2(1855)年7月の水害では、山林の荒廃、川筋の災害も少なかった。笠松郡代は洪水の実状を見聞し、御料地6か村の村役人などを呼び出し、石砂留めの自普請を申しつけた。6人の村役人(世話方)は、山々を下検分し、石砂留めの目録見をたてた。 市之倉郷を東から西に流れ、土岐川へと流れ込む、嶺川(現市之倉川)と、この嶺川に北から流れ込む六つの支流と、南から流れ込む四つの支流の流れる洞の多くの普請箇所について、それぞれ番号を付し、石砂留めの規模など市之倉郷のほか、村境をこえて笠原村地内までも記入したものである。 |
334 | 庄内川 | 土岐川 生田川 | 中部地方整備局 | 多治見砂防国道事務所 | 石砂留め(生田郷石砂留普請絵図) | 砂防工 | 19世紀代 | 文久2(1862)年の絵図である。 小谷川(現生田川)は多治見村生田郷を南東から北西へ流れ、土岐川へと流れ込む。その小谷川へ北東の山地より流れ込む細流のつくる二つの洞(東側の字権現洞と西側の字鋼洞)のうち字権現洞については8か所、字鋼洞については5か所の石砂留め普請箇所について、その規模をそれぞれ記入したものである。 |
335 | 庄内川 | 小里川 萩原川 蛇抜沢川 | 中部地方整備局 | 多治見砂防国道事務所 | 言い伝え(蛇抜け) | 祭り・信仰 | 19世紀代 | 江戸時代、木曽地方では土砂崩れ、土石流は「蛇抜」と呼ばれていた。 当所管内において、蛇抜けと命名された沢があり、木曽地方の言い伝えと同様の由来があったと考えられる。 伝説の中では、貴族の家を建てるために大勢の木こりが集められ、役人の元でたくさんの木が刈られていたことが問題にされているのである。過度の樹木伐採、過度の自然に対する破壊が、蛇抜けという災害を引き起こすとの認識が、既に幕末以来木曽谷では定着していたわけである。 災害に関する伝説は必ずしも荒唐無稽なものではなく、歴史的な事実を下敷きにすることが多い。災害の伝説がある場所には、必ず同様の災害が起きると考えて、防災に留意すべきである。 |
336 | 木曽川 | 蘭川 支川渓男だる川 | 中部地方整備局 | 多治見砂防国道事務所 | 空石積堰堤 | 砂防工 | 19世紀代 | この堰堤については、当時、この地を御巡幸中の明治天皇自らが工事現場を視察されている。「信濃御巡幸記録」によれば、内務省山林局で実施していた堰堤砂防工事を、明治天皇御巡幸に際し、当時のお役人達が人夫の数を2、000人あまりにも増やして、わざわざお膳立てをしてお目にかけている。明治13(1880)年に施工された堰堤が昭和57(1982)年に発見された。 堰堤は、現地で採取した石を人頭大に割りそれを積み上げた空石積堰堤である。天端幅は4.5m、高さは5m以上、長さは20m以上である。また、法勾配は上下流とも、ほぼ1:1程度である。 昭和62(1987)年、建設省が地元・南木曾町と共同して、ここに砂防公園を造り「目で見る砂防技術の歴史」として一般に公開した。『大崖砂防公園』 |
337 | 木曽川 | 木曽川 | 中部地方整備局 | 多治見砂防国道事務所 | 桃介橋 | 橋 | 20世紀代 | 「桃介橋」は別名「桃の橋」呼ばれ、大正11(1922)年9月に完成した。木曽川の水力発電開発に力を注いだ大同電力(福沢桃介社長)が読書発電所建設の資材運搬路として架けた。 その後、昭和25(1950)年から村道として、両岸集落の交通や、通学等地域の交通に大いに役立った。 この橋は、木製補剛桁を持った吊り橋としては日本有数の長大橋であり、下部石積み・上部コンクリートの主塔3基を有し、この種の吊り橋としては当時(大正時代)わが国の土木技術の粋を集めためずらしい4経間の吊り橋となっている。 昭和53(1978)年頃から老朽化も進み、本格的な修理もできなかったため廃橋寸前となっていた。この間、保存・活用の声が多くあり、付近一帯の天白公園整備に併せて近代化遺産(南木曾町有形文化財)として復元し、大正時代の長大吊り橋の本格的な保存と活用を目指したものである。 ※国指定重要文化財(近代遺産)平成6(1994)年12月27日指定。 |
338 | 木曽川 | 飛騨川 支川白川 支渓嫌谷 | 中部地方整備局 | 多治見砂防国道事務所 | 巨石積堰堤 | 砂防工 | 19世紀代 | 明治13(1880)年8月と明治14(1881)年8月の2回にわたり加子母村を訪れたオランダ人技師デ・レイケの指導によると思われる石積堰堤群が点在している。 存在する施設は、渓間工が13基、帯工1基、流路の総延長は300mに及ぶ各堰堤の詳細は、高さ1.0〜4.5m、長さ5.0〜24m、天端幅1.0〜1.8mの規模で、水通し断面は台形でその高さは、1.0〜1.8mである。 上流域の流路は三面空石積水路となっている。 いずれも、ほぼ完全な形で残っており、流路も安定し土石流の流出もなく砂防施設の役割を充分に果たしている。 |
339 | 木曽川 | 木曽川 | 中部地方整備局 | 多治見砂防国道事務所 | 水制工法 | 水制・護岸 | 18世紀代 | 江戸時代以前、全国の河川で行われていた治水工法を見聞して取りまとめられたもの。 工法:石出、蛇籠出、笈牛、棚牛、大聖牛、枠出、尺木牛、尺木垣、菱牛、土出、立竹。 地方凡例録 巻之九上「地方堤防全書」 大石久敬原著 日本史料選書C近藤出版社刊 普請方之事、堤築立算法之事の中で取りまとめられている。 |
340 | 木曽川 | 揖斐川(ナンノ谷) | 中部地方整備局 | 越美山系砂防事務所 | 石積堰堤群及び流路工 | 砂防工 | 19世紀代 | 明治28(1895)年のナンノ谷大崩壊が発生し、明治30(1897)年7月に金原明善翁が明治天皇に建議し翌明治31(1898)年3月より大正9(1920)年11月までの23年間に亘り崩壊した山腹に巨石積みによる堰堤群や流路工の砂防工事が実施され、現在に至るまでその機能を発揮している。 |
341 | 木曽川 | 揖斐川 | 中部地方整備局 | 越美山系砂防事務所 | 金原明善の砂防 | その他 | 19世紀代 | 金原明善は明治30(1897)年に岐阜県知事湯本義憲の命を受け、越美管内の三大崩壊地のナンノ谷崩壊の荒廃地をはじめ、揖斐川上流や根尾川筋の踏査を行い、まず「山を治めよ」と建言した。これお受け湯本知事は岐阜県の治山方針を決定し、越美山系砂防の事業の必要性を訴えた先駆者として忘れてはいけない人物として、根尾村のうすずみ公園に顕彰碑が建立されている。 |
342 | 木曽川 | 根尾川 | 中部地方整備局 | 越美山系砂防事務所 | 石積堰堤 | 砂防工 | 20世紀代 | 昭和2(1927)年6月より内務省により直轄砂防工事が開始され、昭和20(1945)年3月までに堰堤工事53箇所、護岸工事6箇所、山腹工事23箇所が施工(昭和26(1951)年岐阜県に移管)され現在でも多数現存する。このうち薄墨桜公園整備の拠点の一つとして鷲巣谷第1砂防堰堤が整備され、これに至る散策路に神所堰堤や鷲巣堰堤等の石積堰堤が現存し、現在もその機能を発揮している。 |
343 | 木曽川 | 木曽川 | 中部地方整備局 | 新丸山ダム工事事務所 | 丸山ダム | 堰・ダム | 20世紀代 | 昭和18(1943)年10月、日本電送(株)より着工されたが、太平洋戦争により工事が中止された。その後、昭和26(1951)年6月関西電力が継承し、工事を行い、昭和31(1956)年3月に完成した。 本ダムは大型機械を導入し、本格的な近代化を図った我が国の戦後最初のダムであり、大ダム工事の幕開けとなって、数々の新しい技術上の足跡を残した。 |
344 | 木曽川 | 木曽川 | 中部地方整備局 | 新丸山ダム工事事務所 | 錦織網場 | 舟運 | 16世紀以前 | 鎌倉時代から利用されていたようであり、大正12(1923)年に廃止された。 木曽の山々から伐りだされた木材は、1本1本川に流され、この錦織網場にていったん集められ、筏に組まれ濃尾平野に運ばれた。 網場の基礎となっていた川の中の岩場が現存している。 |
345 | 木曽川 | 木曽川 | 中部地方整備局 | 木曽川上流河川事務所 | 将監猿尾 | 水制・護岸 | 17世紀代 | 美濃郡代であった岡田将監によって慶長13(1608)年に築かれた。 猿尾は水制の一種であり、猿の尾のように細長い小堤を岸から川へ突き出し、水勢を弱めようとするもので、一般に長大で石で被覆されたものが多い。猿尾には、大きさ、築いた人の名前、藩名、地名をとって○○○猿尾と称されているものがある。一部現存。 |
346 | 木曽川 | 木曽川 | 中部地方整備局 | 木曽川上流河川事務所 | 石田猿尾 | 水制・護岸 | 18世紀代 | 宝暦3(1753)年から行われた宝暦治水の遺跡のひとつであり、木曽川右岸石田村から、川の本流へ突きだした石堤で、対岸にある木曽川の派川、佐屋川口が閉塞し通水が悪くなることを排除する目的で築かれた。 猿尾は水制の一種であり、猿の尾のように細長い小堤を岸から川へ突き出し、水勢を弱めようとするもので、一般に長大で石で被覆されたものが多い。猿尾には、大きさ、築いた人の名前、藩名、地名をとって○○○猿尾と称されているものがある。現存。 |
347 | 木曽川 | 木曽三川 | 中部地方整備局 | 木曽川上流河川事務所 | 木曽三川流域誌 | その他 | 「木曽三川流域誌」は、木曽三川において近代的な河川改修が整備されてから百周年を迎えたことを記念した事業の一環として、互いに有機的関連をもちつつ計画された記念出版図書3冊中の1冊で、流域の歴史や行政から流域の人々の生活・民俗・芸術等々に至るまで各般にわたる概況を述べている。 | |
348 | 木曽川 | 木曽三川 | 中部地方整備局 | 木曽川上流河川事務所 | 木曽三川〜その流域と河川技術 | その他 | 「木曽三川〜その流域と河川技術」は、木曽三川において近代的な河川改修が施工されてから百周年を迎えたことを記念した事業の一環として、互いに有機的関連をもちつつ計画された記念出版図書3冊中の1冊で、木曽三川に造詣の深い54名の諸先生により、木曽三川に関連する既往の調査、計画、研究、工事等に関して、それぞれえの専門分野について諸先生の研究成果をまじえて執筆していただき、それらを河川技術の観点から系統的に取りまとめたものである。 | |
349 | 木曽川 | 木曽三川 | 中部地方整備局 | 木曽川上流河川事務所 | 木曽三川治水百年のあゆみ | その他 | 「木曽三川治水百年のあゆみ」は、木曽三川において近代的な河川改修が施工されてから、百周年を迎えたことを記念した事業の一環として、互いに有機的関連をもちつつ計画された記念出版図書3冊中の1冊で、近代治水事業に関する膨大な資料や文献をとりまとめた、木曽三川の近代治水史の集大成というべきものである。 | |
350 | 木曽川 | 木曽川 | 中部地方整備局 | 木曽川上流河川事務所 | 御囲堤 | 堤防 | 17世紀代 | 尾張の国を水害から守るという目的もあるが、他国の大名の侵略を阻むという意味で軍事目的で整備された。その反面で木曽川右岸の美濃側は、本格的な河川堤防の補強が許されずに、洪水の被害を受ける。 御囲堤は、慶長13(1608)年から慶長14(1609)年にかけて、尾張の国を木曽川の洪水から守るため、木曽川の左岸の犬山から弥富に至る延長48km(12里)の大堤防を築いたものである。またこの堤防は、尾張平野をすっぽり取り囲む形であったので「御囲堤」と呼ばれるようになった。 |
351 | 木曽川 | 長良川 | 中部地方整備局 | 木曽川上流河川事務所 | 聖牛 | 水制・護岸 | 20世紀代 | 各種のタイプのものが戦国時代以降に発達した。 牛類は、部材で三角錐体あるいは方錘体を組み、これを大玉石または蛇籠等の錘により河床を安定させる水制。 |
352 | 木曽川 | 木曽川 | 中部地方整備局 | 木曽川上流河川事務所 | 輪中 | 堤防 | 17世紀代 | 慶長5(1600)年以降に水防共同体として形成された。 輪中は、周りを川ないし海に囲まれた地域で水害を防ぐために、耕地や村落を堤防で囲い、その中の水を外の川や海に排する水路をもうけているものである。一部現存。 |
353 | 木曽川 | 木曽川 | 中部地方整備局 | 木曽川上流河川事務所 | 水屋 | 堤防 | 江戸時代後半より洪水多発とともに築かれた。 水屋は、屋敷内にあって一段高く土盛石積された建築物で、洪水時には個人的な避難場所であると共に米、味噌及びたまりなどを日常収納した所である。一部現存。 |
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354 | 木曽川 | 木曽川 | 中部地方整備局 | 木曽川下流河川事務所 | ケレップ水制 | 水制・護岸 | 19世紀代 | オランダ人技師によって伝わる。 水制を作ることによって川の流れが水制にあたり流れが柔らかくなる。このため水制があると、堤防への水あたりも弱くなり堤防が崩れることが無くなる。 木と石によって作られた水制は多くの水生植物が生え、この下には魚が来て産卵するため、水鳥も来るなど、動植物にも役に立っている環境に配慮した工法である。 様々な種類の動植物が観察でき、豊かな自然環境となっている。 |
355 | 木曽川 | 木曽川 揖斐川 | 中部地方整備局 | 木曽川下流河川事務所 | 導流堤 | 堤防 | 19世紀代 | 三川分流工事に伴って、河口部の水深を維持するために河口部右岸に導流堤を建設する。 木曽川導流堤は、明治23(1890)年に竣工したもので、全長は4680mあり、うち1820mは土堤、残りの2860mは石堤となっている。 土堤については、新河道掘削の際の浚渫土砂や撤廃する旧堤の土砂で築造される。 石堤については、一時はコンクリート塊を使うことが検討されたが、結局は石材で築造される。 地盤沈下による嵩上げを行っている。 |
356 | 木曽川 | 木曽川 長良川 | 中部地方整備局 | 木曽川下流河川事務所 | 船頭平閘門 | 門 | 木曽三川は入り乱れて流れ、互いに連絡し合い、物資は船により川伝いに運ばれていた。しかし、三川分流工事により、三川を結ぶ舟運が絶たれることになる。このため舟運路を確保するために木曽川と長良川の間に設置された。明治35(1902)年に竣工し、平成6(1994)年に改築された。 平成12(2000)年に重要文化財に指定された。 |
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357 | 木曽川 | 揖斐川 長良川 | 中部地方整備局 | 木曽川下流河川事務所 | 輪中堤(高須輪中堤) | 堤防 | 18世紀代 | 御囲堤が整備されたことによって美濃側は洪水にみまわれることが多くなり、美濃の人々は洪水から生活を守るため住民が力を合わせて堤防を強固なものにしてきた。そのため、美濃地方には多数の輪中が発達してきた。 当初は集落の上流側に尻無堤を築いていたが、これだと洪水の直撃は避けられても水害を回避することができないため、下流側の無堤部に完全な連続堤を懸廻した。懸廻堤が築造されていき、輪中の形態が成立されていった。 |
358 | 木曽川 | 揖斐川(大江川) | 中部地方整備局 | 木曽川下流河川事務所 | 金廻四間門樋 | 門 | 19世紀代 | 堤防で周囲を囲んだ輪中地域は洪水による堤防破壊だけでなく、輪中内に貯まる水(悪水)にも絶えず悩まされ続けた。そのうえ悪水がたまり、水腐れを生じて作物がほとんど穫れない不毛な地となり、人々が苦しんでいた。また、新田開発をしても耕作不能な低湿地に逆戻りするほどの有様だった。 明治の中期に高須輪中の排水樋門として建造される(明治17(1884)年と推定される)。工法は紀州流に輪中の技術を交ぜたもので濃州流といわれる工法を使用。 昭和38(1963)年に大江樋管として改築している。 |
359 | 木曽川 | 長良川(大榑川) | 中部地方整備局 | 木曽川下流河川事務所 | 大榑川洗堰 | 堤防 | 17世紀代 | 木曽三川分流工事が完成する以前は、川床が高い長良川の水の7割が大榑川を通って西側の揖斐川に流れ込み、度々被害をもたらしていた。 上記のような背景において大榑川を築いた。 ・大榑川は溢れる水を極力減らして下流域の水位、水量を調節する治水施設がある。 ・長良川の水が大榑川に流れ込むのを制限すべく宝暦元(1751)年に食違堰を築いたが、水害根絶の目的を達することができず、薩摩藩の宝暦治水により宝暦5(1755)年に薩摩洗堰が完成した。その後大榑川洗堰は宝暦8(1758)年に地元民によって造られた。 明治32(1899)年の木曽三川の分流工事に伴い、大榑川も締切り工事を行った。これにより洗堰は不要となり埋没した。 |
360 | 鈴鹿川 | 鈴鹿川 | 中部地方整備局 | 三重河川国道事務所 | 女人堤防 | 堤防 | 19世紀代 | 鈴鹿川の洪水に悩まされていた村民が、対岸の城下町を守るため、堤防の補強を禁止されていることを承知で、又、男性がそういう作業を行うと目立つので、女性が夜間にひそかに堤防を造ったと言われている。 所謂、女人堤防は鈴鹿川本堤防ではなく、これに直角に南北に造られている。堤防延長は約400mで、上流本堤防から溢水した洪水から村を守る形である。また、避難の時間を確保する。 現在は堤防上に竹林が繁茂し、又、所々道路で寸断されている。記念碑が堤防沿いに建っている。 |
361 | 宮川 | 宮川 | 中部地方整備局 | 三重河川国道事務所 | はねだしていぼう(まごえもんつつみ) | 堤防 | 17世紀代 | 松井孫右衛門さんは、堤防建設のために自分の財産を惜しげもなく使いました。 大勢の人々に過酷な労役も頼みました。堤防は築いては壊れ、築いては壊れして失敗を重ねました。五つめの堤防ができあがる日を前にして、寛永10(1633)年8月25日に神に祈ろうと堤防に深く穴を掘り、その中に身を沈めました。 本堤防から突き出した「はねだしていぼう」というものを五つも構築しました。この堤防に激突した水流は、渦を巻いて「はねだしていぼう」の内側に流れ込み、ゆるやかに反転して再び本流へ返っていきます。五つの「はねだしていぼう」を繰り返すうちに徐々に水勢が弱くなり、本堤防の決壊が防げます。 「はねだしていぼう」は松井孫右衛門さんをお祀りしている堤防のほかに、度会橋下流の花見茶屋を設けるあたりの土手に、堤防の跡が二筋、残っています。「はねだしていぼう」は「まごえもんつつみ」と呼ばれ、近在の人々に慕われ、春の四月桜まつりのころと、夏の8月25日の命日に「松井孫右衛門供養祭」が行われます。 |
362 | 由良川 | 由良川 | 近畿地方整備局 | 福知山河川国道事務所 | 明智光秀の築堤 | 堤防 | 16世紀代 | 当時の由良川は土師川合流点から市街地を西に流れ、福知山駅の近くから和久市、荒河に迂回していた。これを光秀が堤防を築いて今の由良川に付け替えた。 |
363 | 由良川 | 由良川 | 近畿地方整備局 | 福知山河川国道事務所 | 水害防備林 | 水防 | 17世紀代 | 由良川とその支流土師川の合流点に位置する藪で、明智光秀が由良川の流れを北に曲げるために作ったといわれる。 また、洪水時には上流から押し寄せる由良川の水勢を弱め、蛇ヶ端の集落を守る為に役立ってきた。しかし、昭和27(1952)年の土師川堤防改修で大部分取り払われ、現在は北端部のみが残る。 |
364 | 由良川 | 由良川 | 近畿地方整備局 | 福知山河川国道事務所 | 細野忠興の河道掘削 | 水路・河道付替 | 16世紀代 | 河口から4.2kmの和江で、由良岳により狭く曲折していた河道の疎通を良くするため、突出している岬を掘削した。岩石が硬く一部掘削できなかったところが瀬戸島となった。 |
365 | 由良川 | 由良川 | 近畿地方整備局 | 福知山河川国道事務所 | 戸奈瀬の掘削 | 水路・河道付替 | 19世紀代 | 海産物や丹後ちりめんなどを京都に運ぶルートを重要視した幕府により3年かけて、由良川支流高屋川の丹波町下山黒瀬まで船が上れるように綾部市戸奈瀬の岩盤を削り取る工事が行われた。 |
366 | 由良川 | 由良川 | 近畿地方整備局 | 福知山河川国道事務所 | 福知山堤防 | 堤防 | 20世紀代 | 明治40(1907)年8月洪水を契機に造られた溢水防備の全面が石張構造の堤防が明治42(1909)年7月18日に完成し「福知山の大堤防」が完成したと報道された。 |
367 | 由良川 | 由良川 | 近畿地方整備局 | 福知山河川国道事務所 | 瀬戸島開削 | 水路・河道付替 | 20世紀代 | 明治40(1907)年の洪水を契機に水位低下を目的として、由良川の狭窄部分を開削拡幅した工事。 |
368 | 由良川 | 由良川 | 近畿地方整備局 | 福知山河川国道事務所 | 岩沢堤 | 堤防 | 20世紀代 | 昭和2(1927)年の北丹後震災により被災した堤防を、ドイツ製の矢板とコンクリートを使って復旧した。 |
369 | 由良川 | 由良川 | 近畿地方整備局 | 福知山河川国道事務所 | 堤防神社 | 祭り・信仰 | 20世紀代 | 堤防の恩恵に感謝し、愛護の気持ちと、先人の偉業と洪水の苦悩を忘れないように、岡象女大神、大地主大神、産土大神の3神を祀る「堤防神社」を御霊神社境内に建て安全を祈願するようになった。 |
370 | 由良川 | 由良川 | 近畿地方整備局 | 福知山河川国道事務所 | 堤防まつり | 祭り・信仰 | 20世紀代 | ご神体が市内を巡行し、川清めの神事として川渡御も行われる。 |
371 | 由良川 | 由良川 | 近畿地方整備局 | 福知山河川国道事務所 | 大川神社とサケと神様 | 祭り・信仰 | 5世紀代 | ある静かな夜、由良湊の野々四郎という漁師が沖で釣りをしていたところ金色のサケに乗った神様が現れ「これから大川の里に長く鎮座して、この地方を守ろう」と言ったので、漁師は急いで10km上流の大川に行って村人に話し、そこで祀られたのが起源と言われている。 |
372 | 由良川 | 由良川 | 近畿地方整備局 | 福知山河川国道事務所 | 綾部の杵の宮伝説 | 祭り・信仰 | 干しサケ売りの商人がわなにかかったキジと持っていたサケを入れ替えた。当時大原神社の氏子が多くおり、サケは神の使いなのであわてて池に投げ込んだところサケが怪物に化けてたたりを起こした。やがて干しサケ売りの商人がきて杵で退治した。 | |
373 | 由良川 | 由良川 | 近畿地方整備局 | 福知山河川国道事務所 | 弘法川と弘法大師 | 祭り・信仰 | 弘法大師が諸国を行脚していたときに、喉が乾いたので、川で洗濯をしていた老婆に水を飲ませてくれるように頼んだが、「川の水をのめ」と無愛想に答えたため、老婆の慈悲心を蘇らせようと、杖で川の中をついたところ川の水が瞬く間に無くなってしまった。 | |
374 | 円山川 | 円山川 | 近畿地方整備局 | 豊岡河川国道事務所 | 蓼川堰 | 堰・ダム | 19世紀代 | 畑地を当時最も貴重な米を生産するために、水田に転換するための水源確保のために設置。 セメントがない時代のため、粘土の中に小石を入れ、その上に切石を据え、横に石をつなぎ、上に石を積み上げ、左右上下を小石混じりの粘土で結着する工法を採用。 度重なる出水により、補修・補強を実施。 灌漑面積約600ha。 |
375 | 円山川 | 円山川 | 近畿地方整備局 | 豊岡河川国道事務所 | 舟運 | 舟運 | 19世紀代 | 円山川は、中川・下川において大いに舟運の便に利用されてきた。しかし、東と西(右岸と左岸)の村を分って、政治・経済・交通上などあらゆる面で生活の不便をもたらしてきた。このことは、昭和の代まで続いた。特に豊岡から下流においては、唯一の橋さえなく「渡し船」に頼っていた。城崎二見から豊岡赤石間の渡し、現結和橋間(城崎円山から結)の結渡し、現城崎大橋間(城崎今津から楽々浦)の今津渡しなどがあった。「二見渡し」だけが、玄武洞観光船として不定期ではあるが現在においても存続している。 |
376 | 円山川 | 円山川 | 近畿地方整備局 | 豊岡河川国道事務所 | 堀 | 水路・河道付替 | 17世紀代 | 洪水時の水勢を軽減させるため、本川と支川合流付近に、袋のような川の入り江や、堀り抜きを作り、流れを変える。 湾曲部への直接の洪水被害を低減するために掘り抜き(ショートカット)による分派を行った「堀川」、及び支川合流点の水量が増える部分で洪水流を引き込むために作った入り江がある。なお、「堀川」は現在の円山川の本流になっている。 |
377 | 円山川 | 大谿川 | 近畿地方整備局 | 豊岡河川国道事務所 | 河川改修 | 水制・護岸 | 20世紀代 | 大正14(1925)年5月23日北但大震災により、城崎町だけで死者272人、温泉街は焼け野原となるほどの破滅的被害を受けた。その復興として、昭和初期震災による延焼を教訓として公共施設を中心に鉄筋コンクリート造りとし、「まちの防火壁」にし、また、来るべき車社会を予測して所有地の1割を道路・河川の拡張に充てたり、温泉街を流れる大谿川の護岸に玄武岩を積み、川に沿って柳・桜を植樹するなど狭い谷間という制約を逆手にとって、豊かな自然を背景に整備されてきた。 将来のまちづくり・町並みを考えての計画であり、その一部として円山川から舟で上がれる王橋まで、玄武洞から玄武岩を舟で運び、そこより下流の護岸にそれを用いている。 大谿川に沿って続く柳・桜並木、玄武岩を配した護岸と石造りの太鼓橋、木造二・三階建ての家並みが続く「湯の町」として、情緒あふれる城崎温泉地区の町並みを形成している。 |
378 | 大和川 | 大和川 | 近畿地方整備局 | 大和川河川事務所 | 付替え | 水路・河道付替 | 18世紀代 | 近世、河内平野を幾筋にも分かれて淀川に注いでいた大和川は、洪水を頻繁に生じさせた。これに対して、今米村(現東大阪市)の庄屋九兵衛を中心に、大和川治水の根本対策の樹立を陳情する運動がおこり、40年余の陳情が宝永元(1704)年の付替につながった。 元禄16(1703)年、幕府は付替を決定し、工期約8ヶ月で石川との合流地点付近から西へほぼ真直ぐ堺まで、延長131町(14.3km余)の新川が造築された。特徴として「太田の千両曲り」「浅香の千両曲り」と呼ばれる弓状に弧を描くように流している点があげられる。工事に要した費用は71,503両、総人足数約245万人と伝えられている。現存している。 |
379 | 大和川 | 大和川 | 近畿地方整備局 | 大和川河川事務所 | 亀の瀬の閘門(仮称) | 門 | 19世紀代 | 15世紀中頃より、大和川の舟運は商業的に発達してきたが、亀の瀬狭窄部においては、急流であり、舟運が危険であった。そこで明治4(1871)年頃閘門式の水路(運河)の計画がたてられ、明治13(1880)年に工事着手、明治16(1883)年に完成した。 大和川の舟運は、亀の瀬を境に河内側を剣先舟、大和側をそれより小型の魚梁舟が運航していた。亀の瀬は急流で舟運が危険であったので岩石を取り除き河床を約0.9m掘下げ、幅3.6m、長さ55mの水路を築いた。河床には敷石して、斜度を均一にし、下端には堰を設け、堰板を用いた閘門式方法により船を航行させた。この閘門式構造は、当時としては最新の技術を応用したもので、水運史上特筆すべきものであった。 閘門完成後、舟運はしばらくの間繁栄することになるが、明治25(1892)年2月に大阪鉄道が完成し、舟運は衰退し、閘門も利用されなくなる。その後の昭和6、7(1931、2)年の亀の瀬復旧時に河床を掘削されたため現存しない。 |
380 | 大和川 | 大和川 | 近畿地方整備局 | 大和川河川事務所 | 田輪樋 | 水路・河道付替 | 17世紀代 | 慶安元(1648)年越後三条の城主、稲垣摂津守重綱が大阪城代の際、城代の知行所となった。国分の開発を当地の土豪とはかり、当時、沼沢地であったこの土地の開発を行った。 沼沢地の排水、乾田化のための排水隧道である。昭和25(1950)年のジェーン台風の際、決潰し、復旧改修されたが、それまでの300年間使用されてきた。改修後の延長はおよそ220mである。下流側400m程開削を行えば排水可能であるのに、わざわざ隧道工事を行ったのは、確かな技術的裏付けがあったものと思われる。現在はヒューム管によって改修されたものが田輪樋管として使用されている。 |
381 | 大和川 | 大和川 | 近畿地方整備局 | 大和川河川事務所 | 高井田横穴古墳 | その他 | 16世紀以前 | 大正6(1917)年に発見された史跡。築造年代は不明であるが、その壁画の特徴は、古墳時代〜弥生時代後期の特徴を持つ。 横穴は多数あり、岩質は凝灰岩質砂岩で掘削しやすく、壁面には鋤跡も残っている。当時の横穴はめずらしいものではなく、全国に多数存在している。壁画にはゴンドラ形の古代舟が描かれており、舟上の人物は袴を着用、帯刀しており、舟運の模様を描いたと思われる。古墳群は、高井田横穴公園とされ、その一部は史跡となっている。 |
382 | 大和川 | 大和川 | 近畿地方整備局 | 大和川河川事務所 | 仁徳天皇の堀江 | 水路・河道付替 | 16世紀以前 | 仁徳帝の頃、日本歴史に最古の水災が見られる。 日本書紀の仁徳紀11(323)年4月の記によると、仁徳帝の詔において「…横源を決して海に通じ逆流を塞いで以って田宅を全うせよ」とされた。同年10月、難波高津宮の北方の効原(郊外の地)を掘って南水(横原と同じ)を西の海に導く人工河をつくった。工事跡については諸説あり、空掘だという説もある。 |
383 | 大和川 | 大和川および支川 | 近畿地方整備局 | 大和川河川事務所 | 剣先舟、魚梁舟 | 舟運 | 17世紀代 | 慶長6(1601)年竜田藩主片桐且元が産米を大阪に運ぶため、軽舟を造らせたものが魚梁舟の起源。正保3(1646)年、魚梁舟よりやや大きい剣先舟の営業が許可される。両者は亀の瀬の狭窄部を境にして、前者は上流大和地方、後者は下流河内地方でそれぞれ活動した。 主な活動範囲 魚梁舟・・・・・・・・・…亀の瀬〜初瀬川(嘉幡、小島)〜寺川(今里、田原本)〜曽我川(但馬)〜飛鳥川(松本)〜佐保川(番條)。 剣先舟(付替前)…京橋〜平野川〜石川(富田林)〜亀の瀬。 剣先舟(付替後)…新大和川〜石川〜亀の瀬。 鉄道の開通とともに衰退、消滅。 |
384 | 大和川 | 大和川 | 近畿地方整備局 | 大和川河川事務所 | 付替 | 水路・河道付替 | 17世紀代 | 当時の土木技術者河村瑞賢は、江戸幕府の名で大和川の改修を検討し、幕府に報告した。 その内容は付替により、大和川の掃流力は増大し、大量の土砂を堺港および淀川沿岸の港湾に送り込むことになる。その他、当時の淀川の舟運等に影響がでるため、反対とする。この報告が直接的な影響を与えたかは不明であるが、とりあえず付替はされない事になる。 その後、洪水氾濫のため、中甚兵衛らの嘆願により、付替は実行される。しかし、瑞賢の予想通り、堺港は衰退する。 |
385 | 大和川 | 大和川 | 近畿地方整備局 | 大和川河川事務所 | デ・レイケ調査報告 | その他 | 19世紀代 | 明治18(1885)年および明治22(1889)年の淀川の出水を契機に、淀川改修の必要性が高まり、デ・レイケは淀川洪水実況調査を実施した。この際、大和川の調査も併せて行い、明治23(1890)年7月1日に大和川検査復命書を提出した。 大和川付替工事に対して、適切な方法と述べた上で、土地利用の経年変化による影響への考慮の欠如など、問題点を指摘し、改修の方向性等を示している。 |
386 | 大和川 | 旧大和川および奈良県の支川 | 近畿地方整備局 | 大和川河川事務所 | 奈良〜平安時代の大和川の舟運 | 舟運 | 16世紀以前 | 奈良〜平安時代頃。 この時代の明確な資料はないが、遣隋使等が水運を利用したと思えるなど陸上交通が主ではあったが、古くから水運を利用していた。板屋ヶ瀬(佐保川と初瀬川合流点付近)に国府の外港をおき、陸上交通とは一線を画していたと思われる。 その後、魚梁舟等による舟運が盛んになる。 |
387 | 大和川 | 飛鳥川、佐保川、大和川 | 近畿地方整備局 | 大和川河川事務所 | 藤原京時代の飛鳥川の舟運 | 舟運 | 16世紀以前 | 持統8(694)年の藤原宮遷都に関連したもの。 飛鳥川流域の地形的特性を藤原京造営と関連付して、その舟運、灌漑等について述べたもの。 飛鳥川は河床が高くなり、水量も少なく、舟運はないが灌漑は今も行われている。 |
388 | 大和川 | 佐保川 | 近畿地方整備局 | 大和川河川事務所 | 順慶堤 | 堤防 | 16世紀代 | 筒井順慶縁のもの。 筒井集落を洪水から守るための「請堤」。道として利用。 請堤の役割は薄れる。 |
389 | 大和川 | 東除川 | 近畿地方整備局 | 大和川河川事務所 | 古市大溝 | 水路・河道付替 | 16世紀以前 | ・5世紀初頭〜6世紀前半と思われるが定かではない。 ・宝永元(1704)年の川替えにより、南北に分断されたと思われる。 この水路は、幅20m、深さ4.5〜7mある。大溝跡自体は、羽曳野市、藤井寺市に残っているだけであるが、当時は、北は東除川を経て平野川に通じていた運河であったと思われる。利水工事としては、当時の最高の土木技術によって開発された。 羽曳野市では現在も一部残存し、その一部は公園として保存されている。 |
390 | 大和川 | 西除川、東除川 | 近畿地方整備局 | 大和川河川事務所 | 狭山池 | 溜池 | 16世紀以前 | 明確な築造年は不明であるが、6世紀末から7世紀初頭ではないかと言われ、四国の満濃池と並び、日本最古の人工貯水池である。慶長の大改修で、ほぼ現在の形になるが、1704年大和川付替え後は、灌漑区域は逆に減少した。 狭山池の規模は面積38.9ha、周囲約3.9kmで大阪府下2番目の大きさである。利水においては、古くから様々な工夫があったと思われ、石樋を6段に置いたもの(お亀石)や、下流に多くの人工池を設けてあったり、配水は川水浸透時間を考慮し決定配分されていた。一方、洪水調整池としての役割は少なく、池堤防を守るため、出水時は逆に樋門を開放したりしていた。当時は、それ程灌漑に重きを置いて池を大切にしていた。 近年、灌漑農業の水需要が大きく減少するなか、自然環境の変化から水質は汚濁の一途をたどり、大きな転換期にさしかかっている。 |
391 | 大和川 | 葛下川 | 近畿地方整備局 | 大和川河川事務所 | 葛下川修堤碑 | 碑 | 19世紀代 | 明治22〜3(1889〜90)年に亘って葛下川左岸(L≒2km)の堤防の改修を行った。 |
392 | 淀川 | 大戸川 | 近畿地方整備局 | 琵琶湖河川事務所 | 田上山山腹工 | 砂防工 | 19世紀代 | 明治初期に外国人技術者を招聘して始められた砂防工事のひとつで、新旧とりまぜた多数の工種が施工されたが、施工実績などによって淘汰され、積苗工、ワラ積苗工、ブロック板積工、斜面被覆工、植栽工などがある。 山腹工として施工されているのは上記の各工種。施工区域は、大津市田上山全域で約830haである。 平成15年度現在、小規模な禿しゃ地を残してほぼ概成。あとは保育工を施工。 |
393 | 淀川 | 大戸川・天神川 | 近畿地方整備局 | 琵琶湖河川事務所 | 鎧堰堤 | 砂防工 | 19世紀代 | 明治初期に外国人技術者を招聘して始められた砂防工事のひとつで、床固工、護岸工とともに行われた渓流工事のひとつ。堰堤下流面を階段状に積み上げ施工した。 高さ6.8m、長さ42m、明治22(1889)年に完成。 砂防堰堤として当時の技術を今に伝える構造物で、現在もその機能を十分発揮している。 |
394 | 淀川 | 野洲川 | 近畿地方整備局 | 琵琶湖河川事務所 | 水害防備林(太郎の林) | 水防 | 堤防保護に対する人々の努力の一つに植林がある。中主町の乙窪(おちくぼ)は野洲川右岸の堤防下に位置する村であり、その村名の示すごとくかなり凹地に位置しているため、堤防が決壊した場合には濁流がそこに集中する。このため堤防一帯に薮をつくり、乙窪堤防組の名において薮林内に立ち入りを禁じ、その規制を犯す者には制裁を加える旨の立て看板により、保護を行ってきた。 また、他にも一定の地域を各戸に配分して松、その他の樹木を植林している村や、村の共有林としてある一定日のみ共同の立入を解禁し、薪としての伐採を許している村もある。いずれにしても無制限の伐木を防いできたものであり、そうした地域では堤防の木々はいまや鬱蒼として一大景観をなしている。 |
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395 | 淀川 | 野洲川 | 近畿地方整備局 | 琵琶湖河川事務所 | 輪中堤(伊庭堤) | 堤防 | 16世紀以前 | 堤防工事は平安中期頃といわれているが、弥生中期後の狩上神社鎮座の頃と期を同じくして、不完全ながら輪中方式の堤防が築かれた。中主町の堤という地名は輪中方式による包みの意の堤と思われる。したがって、普通名詞としての「堤」の成立と同じ過程をたどっていると考えられる。 |
396 | 淀川 | 野洲川 | 近畿地方整備局 | 琵琶湖河川事務所 | 二段式堤防(スーパー堤防) | 堤防 | 19世紀代 | 守山市新庄の堤防は南北流の分派点、すなわち二本の細い川に分かれる非常に危険なところに位置している。いわば中洲ののど首にも相当し、ここが切れたら中洲のほとんどは浸水してしまう。 明治29(1896)年9月7日、村人たちが寺の本堂に避難していた時、ゴウゴウという張り裂けるような水音とともに堤防が決壊した。この時は野洲川だけでなく、滋賀県中の川から水が流れ込み琵琶湖の水が溢れ、湖辺から水が押し寄せたため水位は屋根のひさしまで至ったという。 洪水のたびに苦しめられてきた村人たちは、家や田畑を守るため、堤防づくりに励み、新庄では二段式、稲荷神社では二重式の堤防をつくり上げてきた。 |
397 | 淀川 | 野洲川 | 近畿地方整備局 | 琵琶湖河川事務所 | 六条堤 | 堤防 | 16世紀以前 | かつて守山市の荒見の集落から湖岸まで延々5kmを越える六条堤が続き、それはあたかも万里の長城のような趣を呈していたという。村人たちはその堤を見るにつけ、幾度かの洪水にも耐え村を守ってくれたことに思いを馳せ、またそれをつくった先覚者に対する感謝の気持ちを禁じ得なかったことだろう。 六条堤は法竜川の南400mに平行しているが、これは、鎌倉時代には大川であった野洲川分流の一つ、法西川の自然堤防を利用して作られ、野洲川南流の洪水から市内を守る受堤であったのである。 |
398 | 淀川 | 瀬田川 | 近畿地方整備局 | 琵琶湖河川事務所 | 川村瑞賢の大普請(瀬田川の川浚え) | その他 | 16世紀以前 | 河村瑞賢が上流域の水害調査を行い、瀬田川の「川浚え」や土砂留めなどについて献策した。 河水を円滑に流下させるために、湾曲部は埋め、突き出しているところは削り取り、水筋をスムーズにするという治水思想に立脚して、瀬田川の流水を円滑にした工事を実施。 |
399 | 淀川 | 木津川 | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | 囲堤・水防堤 | 堤防 | 19世紀代 | 安政6(1859)年〜文久3(1863)年。 小田村の河道掘削によって出た土砂で4ヶ町村の囲堤を築堤する。安政6(1859)年に完成するが、その後2度の洪水で破堤した為、文久3(1863)年に石で固める修築工事が行われた。 |
400 | 淀川 | 木津川 | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | 水害防備林 | 水防 | 木津川筋にも、旧藩時代から古い水害防備林があり、木津町で「御立藪」、加茂町で「御藪」と呼ばれ、立派に機能していた。上流の伊賀には、木津・加茂のように大規模なものはなかったが、「竹林八町藪」や「永富藪」があった。近世では、竹藪の防災的・経済的価値が重んじられていた。 | |
401 | 淀川 | 木津川 | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | 水車 | その他 | 18世紀代 | 享保2(1717)年。 伊賀で藤堂藩からはじめて水車営業を許可されたのは、佐那県町の服部家である。 同家の水車と円徳院橋の川上から引いた専用の水路は、今もその名残りをとどめている。 |
402 | 淀川 | 木津川 | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | 水力発電 | その他 | 20世紀代 | 明治37(1904)年2月11日。 ※伊賀は、三重県では水力発電の先進地である。 伊賀が水力発電の先進地となった要因は、小規模の水力開発の適地であったということもあるが、故田中善助氏の功績が大きい。彼は、懸命の努力の結果、巌倉の発電所で明治37(1904)年2月11日発電を開始した。 |
403 | 淀川 | 木津川 | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | 大岩除去 | 水路・河道付替 | 19世紀代 | 慶応3(1867)年春。 北川、西川合流点の大岩が取り除いた。この岩は、長田村領の落合にある、島岩と称する川中の巨岩である。長さ54間、幅23間、高さ2尺がこのとき取り除かれた。 |
404 | 淀川 | 木津川 | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | 避水徒民碑 | 碑 | 20世紀代 | 小田村ほか3ヶ町村が洪水を避けて高所に移居を行う。(明治6(1873)年4月〜10(1877)年7月) 避水移居を永久に記念するための碑として建てられたのが「避水徒民碑」である。 |
405 | 淀川 | 木津川 | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | 雨乞い | 祭り・信仰 | 17世紀代 | 鎌倉時代に創建された新大仏寺(東之防:阿波の大仏さん)の俊乗上人像は霊験あらたかで、雨乞いにおいても信仰を集めた。 藩主みずから雨乞いを行い寛永9(1632)年の藤堂高次の祈願文等多数残っている。 |
406 | 淀川 | 木津川 | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | 雨乞い | 祭り・信仰 | 20世紀代 | 昭和19(1944)年夏。 友生神社で火縄を貰い受け、村の人たちが一束宛持ち寄った薪を浅間山の山上で焚いて雨を祈った。 |
407 | 淀川 | 木津川 | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | 雨乞い | 祭り・信仰 | 19世紀代 | 元治元(1864)年。 大旱魃のとき村人がこの山で火を焚き、10日後に雨をもらって以来、この山の名が雨乞山になった。 雨乞い山として残っている。 |
408 | 淀川 | 木津川 | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | 雨乞い | 祭り・信仰 | 法花では「龍王山講」という講を行う。青山町上津地区では笠踊、または千度垢離等、高尾の床並では「血首井」で雨乞いを、島ヶ原村では雨乞踊を奉納し、雨をもらったときには絵馬を奉納した。 法花の「龍王山講」は、いまでも毎月20日にお籠りをしている。 |
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409 | 淀川 | 木津川 | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | 言い伝え | 祭り・信仰 | 19世紀代 | 木津川の中流、加茂町の小谷から川づたいに出る古道に石地蔵がある。この地蔵は、明治初期、木津川の常水面から1間(1.8m)余の高さにある古道を馬に乗って仰ぎ見る位置にあった。それがいまでは、水面すれすれの高さになっていると「京都府相楽郡誌」が記している。 |
410 | 淀川 | 木津川 | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | 舟運 | 舟運 | 16世紀代 | 慶長元(1596)年。 上野への遡航を最初に企てたのは、上野城主筒井定次といわれている。当時河川開発で名を知られた角倉了似を招き、丹波保津川と同様の舟路を開いた。兵糧その他を運ぶためであったといわれているが、詳しいことはわかっていない。(「当代記」第九) |
411 | 淀川 | 木津川 | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | 遊船 | 舟運 | 20世紀代 | 明治以降、木津川の通船が絶えて久しかったが、昭和8(1933)年に島ヶ原村の旅館、鶴の屋の経営者松田亀治氏が、島ヶ原・大河原間の遊船の営業をはじめた。また、大河原から下流でも昭和11年から「木津川ライン」と銘打った遊船が、北大河原の川下健太郎氏によって始められた。 |
412 | 淀川 | 木津川 | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | 橋・石碑 | その他 | 16世紀以前 | 天喜4(1066)年。 古文書に出てくる伊賀の橋で、最初のものは久米河橋と井田橋である。 |
413 | 淀川 | 木津川 | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | 渡し | その他 | 16世紀以前 | 中世の奈良街道は長田の木根で川を船で渡り、射手明神を経て、島ヶ原に出る道があった。「源平盛衰記」に出てくる源義経が通った道を「伊賀旧考」ではこれを鎌倉街道と称している。 |
414 | 淀川 | 木津川 | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | トラス橋 | 橋 | 19世紀代 | 島ヶ原に初めて橋が架かったのは明治11(1878)年であるといわれている。その後洪水で流失を繰り返したが、村内の有志が明治21(1888)年に県の補助を得て、当時県下の3大橋のひとつと言われる架橋に成功した。しかし、この橋は木橋であったのでその後、大正2(1913)年と昭和5(1930)年に架け替えられ、戦後に至った。 橋は昭和28(1953)年の災害で流失したため、昭和30(1955)年に鋼トラス橋に架け替えられた。 |
415 | 淀川 | 木津川 | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | 木橋 | 橋 | 19世紀代 | 長田橋はいつ架けられたはっきりしないが、「長田川通船の図」では、右岸に船溜りと上野街道、左岸に山神と島ヶ原街道が記され両者が木津川に架けられた「はし」で結ばれている。橋脚工事は昔は人柱伝説もあったほど難事業であった。昭和19(1944)年に長田橋架替普請のときの橋脚工事請負者3人が、村の惣代に提出した「きっと橋杭をうち建てます」という約定書が残っている。 |
416 | 淀川 | 木津川 | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | 水の掟書 | その他 | 19世紀代 | 文政8(1825)年3月。 用水権は、旧田の水利権はたとえ余水であっても、新規にその水利権を得るためには、相当な代償を支払い、関係者の間で厳しい取り決めが行われていた。伊賀町柘植で、村主種次郎氏が最近発見した「水の掟書」ともいう石文がこれを物語っている。享保2(1717)年。 |
417 | 淀川 | 木津川 | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | 淀川遡航終点の碑 | 碑 | 20世紀代 | 昭和50(1975)年6月2日、上野の西郊、小田町字中道の長田橋(旧)東詰め堤防上に「淀川遡航終点」の碑が建立された。ここは「長田川通船の図」によれば、上方と伊賀の上野を結ぶ淀川河川交通の終点であると思われる。 |
418 | 淀川 | 木津川 | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | 慰霊碑 | 碑 | 19世紀代 | 一般に安政の大地震といわれる未曾有の大地震は、嘉永7(1854)年6月15日の丑の刻(午前2時頃)に起った。上野及び周辺の被害は甚だしく、この悲惨な犠牲者の霊を慰めるための慰霊碑(法華経塔)が服部橋下流の河原に建っている。このときの地盤沈下が岩倉峡の狭窄部の存在とあいまって地震後の水害の大きな要因となった。 |
419 | 淀川 | 服部川、木津川 | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | 築堤・堀割り | 堤防 | 19世紀代 | 安政2(1855)年8月20日〜21日、8月25日〜26日と2度の洪水が発生。築堤を行う。安政4(1857)年7月26日、8月19日の洪水で破堤した為、安政5(1858)年に河道掘削を行う。 洪水で被害を受けたため築堤したが、その堤防も後の洪水で破堤したため河道掘削を行った。 |
420 | 淀川 | 木津川(服部川) | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | 橋・橋供養碑 | 碑 | 18世紀代 | 南伊賀の東西幹線である青山峠道(初瀬街道)も古から開けていた。この道筋では、羽根橋と中山橋が古いと思われる。中山橋には、文化8(1808)年の橋供養碑が残っている。また、木津川依那古橋の西詰めにも寛政元(1789)年の建立の橋供養碑が残っている。 |
421 | 淀川 | 名張川 | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | コットリ | その他 | 18世紀代 | 正徳2(1712)年の名張の水車 記録によれば鍛冶町の酒造業大黒屋が最初である。自店裏の名張川に水車を架設し、精米・搾り・濾過などに利用した。 蒸気がおこり、電気が登場して水車による工業原動力の歴史は終わったが、米用コットリ(水車の方言)としては、なお生きつづけた。だが、精米機の普及は水車をなくす原因となった。 |
422 | 淀川 | 名張川 | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | 橋 | 橋 | 19世紀代 | 明治18年(1885)年7月1日。台風上陸。明治元(1868)年以来の大災害となった。 宇陀川筋は名張までの間、橋は全部流れた。名張では黒田・新町両橋とも流失した。しかし、橋といっても簡易な板橋であったが、これがきっかけとなって明治19年(1886)年5月に両橋とも橋桁の高い本格的な木橋が完成された。 新町橋については、平成10(1998)年の改修に伴い新設された。 |
423 | 淀川 | 名張川(宇陀川) | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | 水神碑 | 碑 | 19世紀代 | 安政6年(1859)。「三重県災害史」によれば、暴風雨があったと記録してある。特に名張郡の丈六村では、滝川の堤防が決壊して惨害をこうむった。 家屋・田畑の損傷甚だしく、収穫期を前に村民の苦しみは言語に絶した。村民たちはこの苦しみに耐えて堤防の復旧工事に励み、みごと復旧を完成させた。これを記念して村の有力者が発起して同年11月、丈六橋際に水神碑を建立した。 |
424 | 淀川 | 名張川(宇陀川) | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | 雨乞い | 祭り・信仰 | 16世紀代 | 江戸時代になると井堰・溜池が多くつくられるようになったが、旱害は発生した。これに対して各地で雨乞いが多く行われたことが記録よりわかる。 |
425 | 淀川 | 名張川(宇陀川) | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | 水神の信仰 | 祭り・信仰 | 16世紀以前 | 自然は神が支配すると信じていた古代は雨が降りすぎるといっては止雨を祈り、雨がないといっては降雨を祈った。名張川流域の水源地帯は古来から水神のメッカで室生竜穴があり、水分神社がある。室生山には三つの竜穴があって東は吉祥竜穴、西は遮羅夷吉祥竜穴、中は持法吉祥竜穴というと記している。竜穴はむろん竜王が住んでいる穴という意味で、竜王とは中国から伝来した思想で、雨水を掌り仏法を守護する神とされている。伝わってきたのは7世紀後半の天武朝前後といわれている。 |
426 | 淀川 | 名張川 | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | いかだ | 舟運 | 16世紀以前 | 名張川のいかだ流しは奈良時代にはじまった。当時の運送技術では、いかだの便にめぐまれた山林地帯がまず木材の供給地として利用された。平安時代には公領を流れる川を運行するいかだに国衛は津料という一種の関税を徴収するようになった。この津料をめぐっては東大寺と興福寺が名張川で悶着をおこしたケースが記録に残っている。 |
427 | 淀川 | 名張川(宇陀川) | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | 井堰記念碑 | 碑 | 16世紀代 | 土地を水田として利用するには,灌漑用水にたよらなければならない。利水施設として古くから溜池と井堰が用いられた。奈良盆地は、溜池農業であるが、口宇蛇盆地は河川灌漑主体である。溜池はほとんど明治以前につくられているが、昭和になって大宇陀町にある本郷溜池がある。溜池とともに井堰の築造も農民にとっては大事業の一つである。名張川や宇陀川に沿って歩くと多くの記念碑が建てられている。これらは江戸時代から明治にかけて井堰の築造、改修あるいは水路の完成を記念するもので三村渠水碑(夏見)、平尾渠水碑(平尾)、新井堰碑(黒田)、鹿高井堰碑(鹿高)、水道碑(矢川)などがある。 |
428 | 淀川 | 大和川 | 近畿地方整備局 | 淀川河川事務所 | 難波堀江の開削 | 水路・河道付替 | 16世紀以前 | 5世紀から6世紀(学者によっては7世紀)にかけて、当時のおそらく大和朝廷によって大阪平野に水路を開削し大規模な農地開発が行われた。現在の大川がその一部だといわれている。また、羽曳野市古市に古市大溝という遺跡が発掘され、これはその一部である。 |
429 | 淀川 | 桂川(加茂川) | 近畿地方整備局 | 淀川河川事務所 | 加茂川の付替工事 | 水路・河道付替 | 16世紀以前 | 歴史に残る我が国最初の河川の付替工事である。7〜8世紀の飛鳥、藤原、奈良時代にも大和盆地の開発のために河川の付替工事は実施されたであろうが、それらは10ku程度の規模であって、100kuを越す本格的な河川の付替工事は初めてである。 |
430 | 淀川 | 淀川(神崎川) | 近畿地方整備局 | 淀川河川事務所 | 神崎川の分流 | 水路・河道付替 | 16世紀以前 | 和気清麻呂は、淀川の流末の排水をよくするため、三島郡一津屋に新川を掘り三国川を分流した。三国川は神崎川の流頭であるが、現在の河道は明治11(1878)年に開削されたもので、それ以前は江口町から北流して、別府で安威川に流入していた。 |
431 | 淀川 | 宇治川 | 近畿地方整備局 | 淀川河川事務所 | 宇治川と巨椋池の分離 | 堤防 | 16世紀代 | 巨椋池に流入していた諸河川は水深が浅く、舟運に不便であった。そこで水深を保つため、槇島〜向島を結ぶ堤防を築き、河道を作成し材料を陸上げ運搬した。当時の築堤方法は、縄で堤防の断面を張っていきその縄にあわせて土を盛っていく方法であった。 |
432 | 淀川 | 淀川(安治川) | 近畿地方整備局 | 淀川河川事務所 | 安治川の開削 | 水路・河道付替 | 17世紀代 | この事業に用いられた工法は、まず新しい河道敷きに幅15メートルの溝を両端と中間に締切部を残して掘り、水路内に溜まった水を、数百台の水車で汲み上げ、タライに土を入れ流れに浮かべて運搬し作業効率の向上を図っている。 |
433 | 淀川 | 淀川 | 近畿地方整備局 | 淀川河川事務所 | 茨田堤 | 堤防 | 16世紀以前 | 茨田堤は、淀川と古川の間の中州状の旧茨田郡(今の寝屋川市西半)の微高地を洪水から守るために作られた輪中堤のようなものであったと考えられている。 |
434 | 淀川 | 淀川 | 近畿地方整備局 | 淀川河川事務所 | 文禄堤 | 堤防 | 16世紀代 | 淀川下流の左岸は、当時は連続した堤防ではなく、淀川は本川の太間から古川沿いに至る派川などに分かれていた。豊臣秀吉は、左岸堤防を枚方から長柄に至る連続した堤防に作り替え、寝屋川、古川を淀川から分離し、河内平野を氾濫から守った。 この堤防を文禄堤という。 |
435 | 淀川 | 淀川 | 近畿地方整備局 | 淀川河川事務所 | 高瀬川開削と高瀬舟 | 水路・河道付替 | 17世紀代 | 方広寺大仏殿再建にあたって、その用材を運搬するために角倉了以が高瀬川を開削したのは慶長13(1608)年である。高瀬川は五条までであったが、元和2(1616)年に鴨川の西を二条まで延長して、京都で消費する木炭、薪などの貨物輸送、稲荷参り等の水上交通機関として利用された。 |
436 | 淀川 | 淀川 | 近畿地方整備局 | 淀川河川事務所 | 三十石船 | 舟運 | 18世紀代 | 三十石船は、大きさについては、長さ17m・幅2.5mの小船で、船頭4人、船客の定員は28人であった。船乗場は、伏見には京橋等の4ヶ所、大坂には八軒屋等4ヶ所であった。この伏見・大坂間を下りは半日または半夜で大坂まで、上りは1日または1晩で伏見まで行ったという。 |
437 | 淀川 | 淀川 | 近畿地方整備局 | 淀川河川事務所 | くらわんか船 | 舟運 | 18世紀代 | くらわんか船は、枚方を通過する三十石船に漕ぎ寄せて、いろいろなものを売った。茶船は船客の貴賤を問わず、「・・・酒くらわんか、ごぼう汁くらわんか、ぜにがないでようくらわんか」などと罵っては飲食物を売ったので「くらわんか船」の名を生じ、枚方の名物であった。 |
438 | 淀川 | 淀川 | 近畿地方整備局 | 淀川河川事務所 | 淀川修築工事と粗朶沈床工 | 水制・護岸 | 19世紀代 | 粗朶沈床工というのは、粗朶を束ねて組んだものを杭であみつけ、砂利、割石などをおもしとして河岸から水中につき出したもので、これによって低水路を固定すると同時に、その水深を維持するものである。 |
439 | 淀川 | 淀川 | 近畿地方整備局 | 淀川河川事務所 | 千本づき | その他 | 19世紀代 | 堤防工事には、淀川沿川の農民たちが日雇労働者として、こぞって参加し、男はトロ押し、女は千本づきの作業を受け持った。千本づきは1.5mくらいの杵をもって、新しい土砂を置いたばかりの堤防の上に2列か3列縦隊に並び土をつき固める作業である。 |
440 | 淀川 | 淀川(大川) | 近畿地方整備局 | 淀川河川事務所 | 毛馬洗堰と毛馬閘門 | 門 | 19世紀代 | 新淀川の開削により、旧淀川(大川)の治水安全度は向上した。このため、大川への流量調節を行うために建設されたのが毛馬洗堰である。当時は、舟運が盛んであったため併せて毛馬閘門も建設された。 |
441 | 淀川 | 淀川 | 近畿地方整備局 | 淀川河川事務所 | 淀川築港並、淀川洪水通路改修計画報告書 | その他 | 19世紀代 | デ・レイケは、淀川改良工事が行われる前、明治20(1887)年4月、当時の土木局長西村捨三あてに「淀川築港並、淀川洪水通路改修計画報告書」を新堤防の築堤工法にも意見を述べている。この意見は淀川改良工事に採用された。 |
442 | 淀川 | 猪名川 | 近畿地方整備局 | 猪名川河川事務所 | 量り岩 | 舟運 | 19世紀代 | その土地の人々は古くから川が増水の時、この石を見て水かさを知る目安としていた。 一方、奥川辺地方では木材の運搬に猪名川が利用されていた。明治時代の材木流しの方法はバラ流しと筏流しとがあったが、バラ流しは猪名川通船に危険を与えるため、下流では筏流しのみとされており、紫合の量り岩は県指定のバラ流しから筏流しへの切替地点だった。 また、材木流しは川筋の井堰保護の観点から、増水位(約0.45m)を目安に認められていた。紫合の量り岩は、洪水の時だけでなく木材流しの目安となる増水位を量っていたのではないかといわれている。 現在も紫合橋から量り岩を見ることができる。 |
443 | 新宮川 | 熊野川 | 近畿地方整備局 | 紀南河川国道事務所 | 御船まつり | 祭り・信仰 | 熊野速玉大社の例大祭。結の宮(イザナミノミコト)を大社から川原まで神輿、さらに神幸船に奉遷され御旅所に渡御する祭礼。 美しい神幸船を先導する形で、熊野川を舞台に繰り広げられる9隻の早船競漕は、熊野水軍の名残を留め誠に壮観である。 昭和39(1964)年5月、和歌山県の無形民俗文化財に指定。 |
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444 | 新宮川 | 熊野川 | 近畿地方整備局 | 紀南河川国道事務所 | 浮島の森 | その他 | 新宮市の中央部にあり、島全体が沼の中に浮いている。 海水面が後退してできた湿地の中に朽ちた植物などが堆積して泥炭マット状の浮島が形成され、多くの植物群が群生する森となったもの。古くは、池水面の昇降により島も上下し、強風にあおられ移動することもあった。昭和2(1927)年に国の天然記念物に指定されている。 |
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445 | 加古川 | 加古川 | 近畿地方整備局 | 姫路河川国道事務所 | 升田築堤 | 堤防 | 17世紀代 | 加古川の治水と新田開発を目的に江戸時代の姫路藩が加古川下流右岸に堤防を築いた。 姫路藩主榊原忠次が万治元(1658)年に延べ36万人の農民を動員し、1ヶ月余で完成。新田開発は藩に利益をもたらせたが、出水のたびに堤防の修理、被害者救済が藩の年中行事のようになった。 その後、度々の改修が行われ、加古川右岸堤となっている。 |
446 | 加古川 | 加古川 | 近畿地方整備局 | 姫路河川国道事務所 | 加古川の舟運 | 舟運 | 16世紀代 | 文禄3(1594)年流域の大名木下家定が奉行主駒玄藩に命じ、舟運のための開削事業実施。 加東郡河高村の阿江与助が工事を担当(工事の規模不明)。慶長9(1604)年阿江与助、西村伝入斉が協力し、河口より丹波国成松(氷上郡氷上町成松)まで高瀬舟の水路を開いた。 現在、陸路が整備され、大正2(1913)年高瀬舟は姿を消す。加東郡滝野町上滝野地先加古川右岸、阿江与助の銅像あり。 |
447 | 加古川 | 加古川 | 近畿地方整備局 | 姫路河川国道事務所 | 加古渡し | 舟運 | 8世紀代 | 古くは鹿子の渡しといい、山陽道における加古川の渡しであった。 加古渡しは、元山陽本線下流50mの位置にあったが、後、130m下流へ、更に江戸明治にかけては現在の加古川橋(旧国道2号)へと変わっていった。 現在は、旧国道2号加古川橋が架橋され、右岸側に加古川市米田町船頭の地名を残す。 |
448 | 揖保川 | 揖保川 | 近畿地方整備局 | 姫路河川国道事務所 | 余部千本松 | 堤防 | 17世紀代 | 揖保川河口に近い上余部村(姫路市余部区)において堤防強化として、元禄年間に名主岩村源兵衛が私財をなげうって松を植樹。 元禄年間(1688〜1704年)、上余部村名主岩村源兵衛が堤防強化のため松の若木980本を植えた。 明治中期まで「余部の千本松」として知られていたが、虫害により絶え、石碑のみが残っていたが、平成元年桜づつみ事業により余部千本松公園として整備されている。 |
449 | 揖保川 | 揖保川 | 近畿地方整備局 | 姫路河川国道事務所 | 揖保川の舟運 | 舟運 | 17世紀代 | 元和7(1621)年に龍野屋孫兵衛が河口網干より山崎町出石浜まで水路を開き、高瀬舟を通じた。 |
450 | 揖保川 | 揖保川 | 近畿地方整備局 | 姫路河川国道事務所 | 寝釈迦の渡し | 舟運 | 古くから京、大阪方面より播磨国を経て美作国に通じる唯一の街道筋で、揖保川の渡船場として栄えた。 この渡しを過ぎて振り返ると南西の山並が釈迦の寝姿にそっくりなところから、寝釈迦の渡しと呼ばれるようになった。上流に嘴崎橋が架橋され、現在は何も残らない。 |
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451 | 千代川 | 千代川 | 中国地方整備局 | 鳥取河川国道事務所 | 胡麻土手 | 堤防 | 16世紀代 | 千代川左岸を治める鹿野藩の亀井城を度重なる出水から農地を守るため、慶長年間(1596〜1615年)頃に築造され、半石積堤で堅固であり、天端は元禄時代の参勤交代の街道としても利用されていた。 千代川の改修計画では撤去されるが、保存を前提とした発掘調査等を平成2(1990)年より行っている。 |
452 | 千代川 | 千代川 | 中国地方整備局 | 鳥取河川国道事務所 | 大井手用水 | 水路・河道付替 | 16世紀代 | 慶長5(1600)年頃、鹿野藩の城主亀井茲矩は、農地へ水を引くために、加路村(今の賀露町)の一部と、鳥取藩の河原村(今の河原町)の土地を交換し、取り口を河原村に作り、大井手用水を作った。 用水路延長約22km 300年以上経った現在でも鳥取平野の農地を潤し続けている。 |
453 | 千代川 | 千代川 | 中国地方整備局 | 鳥取河川国道事務所 | 流しびな | 祭り・信仰 | 16世紀以前 | 室町時代(行事化されたのは江戸時代)から旧暦の3月3日の「桃の節句」に行われる千代川を舞台とした、厄払いのための”雛送り”の伝統行事である。 因州和紙で作られた雛人形、ひしもち、花などをさん俵に乗せ、「災厄などを託して清流に流す」 ・毎年4月に行われている。 ・鳥取県無形文化財、ふれあいの水辺30選 環境100選等に選定。 ・雛送り行事箇所を建設省の環境整備事業とし、緩傾斜玉石護岸、疑宝珠型防護柵等を施工し、環境デザイン面からも高い評価を得ている。 |
454 | 天神川 | 小鴨川 | 中国地方整備局 | 倉吉河川国道事務所 | 二重土手 | 堤防 | 17世紀代 | 元和6(1620)年頃に藩の主要な施設を守るため、藩の改修事業として堤防を二重に築堤されたもので、延宝元(1673)年の大洪水には周辺の町は荒らされたが、二重土手の背後地は浸水を免れた。 信玄流の築堤技術によってつくられたもので(推測であるが)、水衝部に堤防を二重に設け、洪水より町を守った。その形跡は現在残っていない。 |
455 | 天神川 | 小鴨川,国府川 | 中国地方整備局 | 倉吉河川国道事務所 | 一里薮堤 | 堤防 | 江戸時代前につくられたと推測されるが、いつ、誰の設計によってつくられたかは不明である。 @土手をあまり高くせず、基底を広くかつ、堤上一面に竹を植え、密生させる。 A小規模洪水は、この堤防によって水を防ぐ。 B大洪水の場合は、水は堤防を越えるが広い竹やぶ林を通過することによって勢いがそがれ、家・田畑は冠水するが、流出はさせない。 C言い伝えでは、高さ2m、横幅は11m(6間)あったといわれている。 現在では河道も変わった箇所もあり、旧堤と推測される箇所には、竹林が残っている箇所もある。 |
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456 | 天神川 | 天神川 | 中国地方整備局 | 倉吉河川国道事務所 | 天神川直流化改修工事 | 水路・河道付替 | 17世紀代 | 明暦3(1657)年、藩の改修工事として天神川河口部を西側に開削移動し、直流化を図った。約3年半の歳月と多くの費用をかけ完成させた。 昔の天神川河口部は現在より東側に位置し、東郷池と合流していた。そのため、水が流れにくいために、上流部はたびたび洪水に見舞われた。その理由から流路をできるだけ直線上とし、天神川の水がスムーズに流れるよう改修した。 現在の河口部の位置は、当時の改修後の位置とほぼ一致する。 |
457 | 日野川 | 日野川 | 中国地方整備局 | 日野川河川事務所 | 元荒神(もとこうじん) | 祭り・信仰 | 18世紀代 | 昔からこの辺り一帯にあった集落を陰で守護する神として祀られてきた。 元禄16(1703)年に起きた日野川の大洪水のため、この地にあった集落がほとんど流された。そのため安永年間(1772〜1780年)には、次々と離散、転住し、今の富吉、米子市中島へと集落を造っていった。 現在はこの地の付近を「古屋敷」という地名で呼び、この元荒神だけがその往時をとどめている。 |
458 | 日野川 | 日野川 | 中国地方整備局 | 日野川河川事務所 | 日野橋 | 橋 | 20世紀代 | 昭和4(1929)年に完成。 現在では珍しいワーレントラス橋(上部アーチ部分の骨組みで支えている)である。 アーチ部分は6つで全長366mあります。今は隣に新しい近代的な橋(新日野橋)が築造された。 この橋の前身は明治21(1888)年に日野川で最初に木造橋として架けられた。日野橋の架橋により撤去された親柱は、湊山公園の二ノ丸跡に保存されていたが、この付近一帯の堤防が整備されたのを機に、平成10(1998)年5月に元の架橋位置の上流約60m付近に移設された。 |
459 | 日野川 | 法勝寺川 | 中国地方整備局 | 日野川河川事務所 | 兼久堤防改修記念碑 | 碑 | 19世紀代 | 兼久堤防の築造年代は不詳であるが、江戸時代の初期に国守中村侯が米子の町を洪水から守るために兼久堤防の補助堤として宗像土手を築いたとされており、規模は別にしてそれ以前からあったと推測される。碑文によれば、兼久堤防は文政12(1829)年の洪水で決壊したため、天保4(1833)年に荒尾氏によって修復され、さらに明治19(1886)年に決壊し大被害が発生した。 |
460 | 日野川 | 日野川 | 中国地方整備局 | 日野川河川事務所 | 勝田(かんだ)土手 | 堤防 | 18世紀代 | 勝田町の東端の東山水泳場辺りにあった向山から、勝田山周辺にかけて築かれていた。享保年間(1716〜1736年)に荒尾氏によって米子城下を日野川の洪水から守る目的で築かれたもので、その規模は長さ160m、幅15m、高さ3.5mに及んだと伝えられている。日野川の堤防が整備されるにしたがって、その役目を失い住宅や公園、公民館等の用地として削られ、今ではわずか50mほどを残すのみである。残された土手も天端は畑になっており、かつての面影はない。 |
461 | 日野川 | 法勝寺川 | 中国地方整備局 | 日野川河川事務所 | 宗像(むなかた)土手 | 堤防 | 17世紀代 | 宗形神社の少し南の国道181号沿いの宗像公民館の西隣に堤防の痕跡らしきものが10mばかり残っている。宗像土手といって慶長11(1606)年に米子城主の中村伯耆守一忠(忠一)が、米子城下を法勝寺川の洪水から守るために兼久堤防の補助堤として築いたものである。 宗像土手は加茂川をも塞いで今の国道181号と交差して築かれていた。加茂川には樋門が設けられ、兼久堤防が決壊すると樋門は閉じられ、加茂川の流れと共に堰き止められるようになっていた。宗像土手は幾度か小修繕をされながら約200年間米子の町を洪水から守ってきたが、弘化元(1844)年の洪水で兼久堤防が決壊した際、1週間にわたって濁流から米子の町を守り、副堤としての役割を果たしたものの遂には破堤し、その後復旧されることはなかった。加茂川の流路を遮断する治水方法には問題があるため、法勝寺川を戸上で日野川に合流させるように流路の固定が進められたことによるものであろう。 |
462 | 日野川 | 日野川 法勝寺川 |
中国地方整備局 | 日野川河川事務所 | 日野川法勝寺絵巻 | その他 | 18世紀代 | 流域の村境・護岸施設・水刎・水門・橋・自分橋・堰などが詳細に描かれている。また、とくに岸辺の神社が忠実に描かれているのが注目される。郷土の川と人々との歴史を伝える絵巻である。 |
463 | 旭川 | 旭川 | 中国地方整備局 | 岡山河川事務所 | 百間川 | 水路・河道付替 | 16世紀代 | 16世紀に岡山城下の洪水防御と沿岸部の新田開発を目的に開削された放水路。一の荒手(現存)と呼ばれる越流堤から百間川に分流させた洪水が、その下流で河道を横断する二の荒手(現存)、三の荒手でそれぞれ一時的に蓄えられることにより、洪水流速の低減及び流送土砂の捕捉が図られていた。二の荒手の長さが百間(約180m)あったことがその名の由来となっている。 |
464 | 旭川 | 旭川 | 中国地方整備局 | 岡山河川事務所 | ケレップ水制 | 水制・護岸 | 20世紀代 | 低水時の流水幅を意図的に狭めて流速をあげることにより、土砂堆積を抑え、舟運に必要な水深を確保するために設置された水制群。明治政府によって招聘されたお雇い外国人技師、A.T.L.R.Mulderの構想を元に建設された。 |
465 | 旭川 | 旭川 | 中国地方整備局 | 岡山河川事務所 | 高瀬舟 | 舟運 | 16世紀代 | 備前と美作を結ぶ舟運航路は、豊臣時代岡山藩主宇喜多秀家の頃と言われる。高瀬舟は平太船を改造して浅瀬を自由に上り下りできるようにしたもので、美作地方の米穀、薪炭や、備前地方の塩、日用雑貨の往来を支えた。明治になり、船番所の廃止により最盛期を迎えたが、鉄道の開通と自動車の普及とともに姿を消した。 |
466 | 吉井川 | 吉井川 | 中国地方整備局 | 岡山河川事務所 | 倉安川吉井水門 | 門 | 17世紀代 | 延宝7(1679)年に岡山藩主池田光政の家臣津田永忠により、沖新田開発、倉田三新田の用水確保、舟運の連絡ルート確保のため倉安川が掘削され、吉井川からの取水口に設置された石垣(開閉部は木造)の水門である。 この水門は、吉井川の堤防に築かれた「一の水門」と倉安川側の「二の水門」の二重構造となっており、当時では最先端技術であった「閘門式」の構造となっている。 現在は、流域開発や河川整備が進んできたことにより、その役割を終え、当時の人々の暮らしを物語る施設として残されている。 |
467 | 吉井川 | 吉井川 | 中国地方整備局 | 岡山河川事務所 | 石の懸樋 | その他 | 18世紀代 | 石の懸樋は、田原用水が徳富を流れる小野田川をわたるためにかけられた水樋で、川と用水が立体交差している独創的な施設である。小野田川の河床に三和土を70〜80cmの厚さに敷き固め、石の橋脚2基を立て、その上に全長12mの巨大な石の懸樋をのせ、水を通すようになっている。懸樋は、花崗岩製で長さ13m、幅3.2m、底は19本を前後に並べ側壁には22本を3段に積み重ねた構造となっており、特殊なしっくいで漏水を防止し、水圧による横ずれ防止の工夫がみられる。 田原用水は、岡山藩主池田忠雄が命じ、寛永元(1624)年に釣井の末分岐まで水路を造り、その後、寛文9(1669)年に第2次延長工事に着手し、津田永忠が指揮して元禄10(1697)年に完成した。 |
468 | 吉井川 | 吉井川 | 中国地方整備局 | 岡山河川事務所 | 高瀬舟 | 舟運 | かつて吉井川には高瀬舟が運航し、筏も流されて、重要な交通路の役割を果たしていた。 輸送は物資のみでなく、旅客の輸送も行っていた。運ばれた物資は、移出物としては米をはじめとする農作物、移入物としては塩ブリ等の海産物などが主であった。 高瀬舟の発着する河岸付近には、それぞれ常夜灯が設けられており、航路の安全祈願と同時に、着船の目標となっていた。 現在も所々に石灯籠など物語る風景が川辺に見られる。 |
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469 | 旭川 | 旭川 | 中国地方整備局 | 岡山河川事務所 | 石積み水制 | 水制・護岸 | 17世紀代 | 岡山城築城の際、旭川を堀の一部とするために、城の北側から東側にかけて城に沿うように流れを付け替えた。 貞享4(1687)年から岡山城の北側に後楽園の建設が始まったが、この流路の付け替えにより後楽園が水衝部となるため、後楽園の河岸防御のために設けられた。 法勾配5割程度の間知石積となっており、中国の黄河で古くから使われている技術が導入されている。 |
470 | 高梁川 | 高梁川 | 中国地方整備局 | 岡山河川事務所 | 一口水門 | 門 | 17世紀代 | 高瀬舟の就航が華やかかりしころ、玉島港までの約11kmの水路と高梁川をつないでいた閘門式の樋門で高梁川右岸8.8kに位置する。 寛永19(1642)年に備中松山城主となった水谷勝隆は高瀬舟の航路開発に熱心であり、それまでの航路を高梁市から新見市まで広げるとともに、この水門を築造させたもの。 現在は船穂町指定の文化財となっている。 |
471 | 高梁川 | 高梁川 | 中国地方整備局 | 岡山河川事務所 | 西岸用水 | 水路・河道付替 | 17世紀代 | 西岸用水(高瀬通し)は延長9km、幅5〜7mの運河であり、高梁川から玉名新田などへの用水路であると同時に新田完成により高梁川舟運の高瀬舟が海を迂回せずに玉島港に直結した航路である。 |
472 | 高梁川 | 高梁川 | 中国地方整備局 | 岡山河川事務所 | 東派川締切堤 | 水路・河道付替 | 20世紀代 | 明治25、26(1892、93)年の大洪水を契機として、明治40(1907)年から内務省により第一期改修として改修工事が行われた。 東西に分流していた高梁川は、現在の柳井原貯水池の北側で西流が締め切られ、更に酒津で東流が締め切られた上、酒津から西流に向けて新河道が開削された。以南では西流河道が拡幅整備され、現在の流路となった。 |
473 | 高梁川 | 高梁川 | 中国地方整備局 | 岡山河川事務所 | 高梁川改修記念碑 | 碑 | 20世紀代 | 明治25、26(1892、3)年の大洪水を契機として、明治40(1907)年から内務省により第一期改修として改修工事が行われた。 改修工事はそれまで東西の両派川に分かれていた高梁川を合流させるもので、約20年の歳月を掛け、大正14(1925)年4月に完成した。 東派川を締切った倉敷市酒津の堤防裏に「高梁川改修記念碑」が建立されている。 |
474 | 高梁川 | 高梁川 | 中国地方整備局 | 岡山河川事務所 | 笠井堰 | 堰・ダム | 20世紀代 | 第一期改修事業による東派川の廃川に伴い、灌漑用水を確保するために設置された。 酒津の高梁川左岸から東西用水配水池に取水し、八ヶ郷、倉敷、備前、南部、西部、西岸の各用水に配水し、西岸用水は高梁川左岸を南下してのち、水江地先でサイフォンにより右岸にわたる。 |
475 | 高梁川 | 高梁川 | 中国地方整備局 | 岡山河川事務所 | 水江渡し | 舟運 | 17世紀代 | 船穂町水江と倉敷市西阿知を結ぶ渡船。江戸時代から鴨方往来の高梁川を渡る交通手段として利用されていた。 現在も運行している。 |
476 | 芦田川 | 芦田川 | 中国地方整備局 | 福山河川国道事務所 | 羽賀の砂堰 | 堰・ダム | 16世紀代 | 江戸時代には、東流していた芦田川が急に流れを南に転じるあたりの羽賀と呼ばれる地に砂堰を設け、洪水により下流(城下)が危険になると、この砂堰を切って神辺平野(穴の海)の低地に水を入れて洪水調節を行っていた。 水野勝成は、羽賀に凸型に湾曲した高さ3mの砂堰(俗に砂土手という、明暦元(1655)年による乗越堤を築き、福山城下を水害より守った。 しかし、水害に脅かされる中津原村等により、砂堰を切る目安として砂堰中央に石碑を埋め立てて水位を計って切り崩す慣行が行われた。 昭和8(1933)年の堤防改修を契機として、この石柱を森脇村の八幡神社境内に移管し記念碑として保存している。 |
477 | 芦田川 | 堂々川 | 中国地方整備局 | 福山河川国道事務所 | 堂々川砂留 | 砂防工 | 18世紀代 | 江戸時代の記録に、寛永18(1641)年の台風災害に備えて福山藩主から家老に当てた文書が伝えられているが、この頃から土砂災害が顕著に現れはじめている。福山藩は藩の重要施策の一つとして砂留と呼ばれる砂防ダムを多数築造している。 江戸時代の砂防工事については不明な点が多いが、「三谷家文書」から天保年間の砂留普請記録が見つかり江戸時代の砂防工事の一端を知る貴重な資料となっている。 堂々川砂留は1番から6番まであるが、中でも最上流に位置する6番砂留は、天保6(1835)年に施工の記録がある古い砂留であり規模も大きい。 城壁を思わせる石垣は現在も健在で、往時の築造の技術の確かさを示している。 また、堂々川6番砂留上流部に堆砂敷を利用して砂防環境整備事業で整備された堂々公園は、延長344mの野面石の石組み水路などで整備され、日本庭園風の公園となっており、人々の憩いの場となっている。 |
478 | 江の川 | 西城川 | 中国地方整備局 | 三次河川国道事務所 | 浅野堤 | 堤防 | 17世紀代 | 三次藩主浅野長治により堤防が取り組まれたものと考えられている。川原石を積み上げた物と割石を積み上げた物の2種類があり高さ1.5〜2.0m程度延長522mが確認されている。現在、長さ5mの堤防部分をモニュメントとして保存展示している。 |
479 | 江の川 | 江の川 | 中国地方整備局 | 浜田河川国道事務所 | 水害防備林 | 水防 | 8世紀代 | 文献によると約1200年前に大和朝廷より江の川の治水を命じられた笹畑某が治水、産業振興の為に河川沿岸に竹林の造成を行ったとされている。昭和初期ごろまでは、地域産業の一つであった。 洪水コントロールを目的としたものである。また、竹産出の場ともなって地域の農事と密接な関係があった。 江の川はいまだに多くの水防林が存在している。 |
480 | 江の川 | 江の川 | 中国地方整備局 | 浜田河川国道事務所 | 火振り漁 | その他 | 20世紀代 | 大正時代末期に始まり、浜原ダムの建設に伴い衰退したが、夏の風物詩として観光化されている。 数隻の川舟で出向き、右岸〜左岸へ目刺網を張り渡し、川舟に「明かり」をつけ、水面を竹竿で激しく打ち、鮎を追い網にかける漁法。 |
481 | 高津川 | 高津川 | 中国地方整備局 | 浜田河川国道事務所 | 聖牛 | 水制・護岸 | 16世紀代 | 戦国時代に武田信玄が使用した治水工法であり、奈良朝時代に用水路に用いられたものが原形とされている。平成2(1990)年に間伐材を用いて3基増設した。その他、数箇所で施工。 |
482 | 高津川 | 高津川 | 中国地方整備局 | 浜田河川国道事務所 | 雨乞い神事 | 祭り・信仰 | 高津川源流とされている六日市町の大蛇池において開催される水源祭りの一環として毎年6月頃に執り行われている。 | |
483 | 高津川 | 高津川 | 中国地方整備局 | 浜田河川国道事務所 | 放し鵜飼い | その他 | 16世紀代 | 室町期に行われていた鵜ぜきによる鵜飼が江戸時代を通じて行われていたが、明治初期より、冬季だけ行う現在の形になった。 上・下流を網で仕切り、その中に自由に鵜を放して合図で呼び戻し、喉に飲んでいる魚を吐き出させる漁法で高津川独自のものである。 10月〜翌年3月にかけて行われている。後継者不足により近年休止中 |
484 | 江の川 | 江の川 | 中国地方整備局 | 浜田河川国道事務所 | えんこう祭 | 祭り・信仰 | 15世紀代 | 500年前より行われている。 えんこう(猿猴)とはかっぱのことで、子供たちが水の事故に遭わないようにと、いつのまにか水神をまつる祭りになった。 毎年5月5日の子供の日に行われている。 |
485 | 江の川 | 江の川 | 中国地方整備局 | 浜田河川国道事務所 | やな漁 | その他 | 江の川水系では、江戸時代には簗の存在が確認されている。アユを狙った伝統漁法で8月から10月にかけて行われる。現在では、邑智郡大和村で毎年実施されている。 | |
486 | 太田川 | 太田川 | 中国地方整備局 | 太田川河川事務所 | 本郷惣囲ひ(ほんごうそうがこひ)(川除と水刎) | 水制・護岸 | 19世紀代 | 古来、太田川流域の村々は、水害対策に苦心を重ねてきたが、江戸時代の坪野村本郷の水害防御施設は特に入念なものでした。 文政9(1826)年当時でみても、全長353間の河川敷を石敷きにして築き固め(これを川除という)、要所には石垣61間と土手88間を築いています。さらに急流部には9〜20間の石枠も伏せられており、以上の総延長は実に551間(1km)にも及んで、「本郷惣囲ひ」と呼ばれました。 また嘉永6(1853)年には藩主導の大普請が行われ、三角に突き出した巨大な石組「水刎」も5箇所に作られました。 この「水刎」は堤防を強化するとともに水勢を弱めるために作られたと見られており、その構造は先端部に高さ1.5m、奥行2.1mの石を配し、三角形に突き出した岬状の石組で、三角形の一辺の長さは、上流側で27mもあります。 |
487 | 太田川 | 大士川 | 中国地方整備局 | 太田川河川事務所 | 新溝(せめぞ) | 水路・河道付替 | 16世紀以前 | 坂の尾原地区は段丘状にあって稲作には適さず、奈良時代の昔から主として「麻」を作っていました。江戸時代になってだんだん水田が多くなってきましたが、かんがい用水不足のため、年々不作続きで、そのため村全体に年貢が割り当てられて、年貢を肩代わりするという状態でした。 そこで時の庄屋喜久武右衛門が、論山堤から流れる大土川の水を吉見崎で分岐し、この水を尾原地区に送り込むことを考え、山裾を横切って延々2km余の新溝を作り、この水を受けて尾原に大きな溜池(現在の尾原堤)を造って大いに干害をふせいだといわれています。 この分水には分岐点「堰」の構築上、その高さや幅などの加減により、自然に四分六分に分水するように考案したり、渇水時の特別な取扱規約など、いろいろ苦心したあとが見えます。 国貞山神社境内には当時喜久の庄屋が新溝の完成を祝して勧請したという神社があります。 |
488 | 太田川 | 太田川 | 中国地方整備局 | 太田川河川事務所 | 舟運 | 舟運 | 16世紀以前 | 平地が少なく、陸上交通が発達しにくい状況にあった太田川流域では、大量輸送機関として太田川を利用した舟運が発達した。舟運がいつごろから開始されたかは明らかではないが、12世紀中頃、当時の広島湾頭にあたる祇園町下安や長束付近に、内陸の荘園の倉敷地が設置された記録があり、年貢はまず陸路輸送され、太田川中流域で舟に積まれ、河口の倉敷地へ運ばれたものと考えられる。 毛利時代には広島城下から可部あたりまでの舟運が通じており、広島城築城の際にも建築資材の輸送に大きな役割を果たした。江戸時代に入ると広島城下と領内(芸北地域)を結ぶ動脈として、上流に向かって開発が進められ、ほぼ全域にわたって舟運が展開された。 |
489 | 太田川 | 太田川 | 中国地方整備局 | 太田川河川事務所 | 水利用(八木用水) | 水路・河道付替 | 18世紀代 | 太田川の下流、安芸国沼田郡八木村(広島市安佐南区八木)から、緑井・古川・祇園・新庄・三篠と、村々の水田を湿し、その水路長は16kmにも及びます。これらの地域は都市化して、水路の存在すら忘れられがちですが、市街のあちこちに、約200年の昔から流れる川を止めることのない用水路です。 この用水路は「八木用水」「定用水」と名付けられ、可部町の市街を望む対岸から取水しており、明和5(1768)年に沼田郡南下安村の桑原卯之助によって完成されました。 現在、八木細野神社は石段横に建っている「定用水碑」は、桑原卯之助の子巳之助が父の功績を後世に伝えようと、文化14(1817)年に建立した石碑です。 |
490 | 太田川 | 京橋川 | 中国地方整備局 | 太田川河川事務所 | 工兵橋(こうへいばし) | 橋 | 19世紀代 | 工兵橋は太田川との分流点に近い京橋川に架かり、中区白島北町と東区牛田本町を結んでいる。都心近くの橋としては珍しい吊り橋で、明治22(1889)年に地元の工兵隊がかけたことからこの名がつけられた。昭和29(1954)年に架け替えられたが、吊り橋の原形は残され、河岸の緑地と一体となった景観は、やすらぎと郷愁を誘う風物である。 |
491 | 太田川 | 旧太田川 | 中国地方整備局 | 太田川河川事務所 | 雁木(がんぎ) | 舟運 | 18世紀代 | 太田川流域は、山がちで平地が少なく陸上交通の発達しにくい地形であったため、近世を中心に大量輸送機関として、舟運が発達しました。この楠木町を含むデルタ部の河岸は、江戸時代から昭和の初めにかけて太田川の舟運で特に栄えた地域で、オオブネや肥船(こえぶね)、広島湾岸部域から小さな機船も一部入り、他方、筏流しも往来し、当地でも荷揚げ作業をする人たちでにぎわいをみせていました。 当時の主な荷物は、薪炭・鉄・紙・枕木材(明治以降)等で、荷揚げ場は雁木と呼ばれ、船着き場に階段をつけた桟橋が利用されていました。 雁木は、現在でも太田川のデルタでわずかに見ることができます。なかでも明治の中頃になって改修された楠木の大雁木はとりわけ大きく、戦前までは横川駅から引き込み線も敷かれ、舟運の一中心であった当時を物語っています。 |
492 | 太田川 | 旧太田川 | 中国地方整備局 | 太田川河川事務所 | 住吉祭り | 祭り・信仰 | 18世紀代 | 住吉神社は享保17(1732)年、真言宗の僧、木食快円(もくじきかいえん)が当時の船奉行に申し出て、享保18(1733)年に住吉三神(航海の神様)をまつって創建したと伝えられる。 現在の加古町、住吉町一帯は水主(かこ)町と呼ばれ、海岸近くに位置し、川と海の船が集まるところで、水の都広島の水上交通の要地であった。「舟入」という入り江が掘られ、そのほとりには藩の船屋敷、船作業所が設けられた。また周辺には舟大工、水夫などが軒を並べ1,000人にも達したという。住吉神社はこうした船府一統の守護神として信仰を集めた。 寛政10(1798)年、付近で大火があったが、火勢は神社の直前で鎮火し、改めて神威の偉大さがもてはやされた。翌11年、近くの弥市が鼻(やいちがはな・現在地)に移され、この日をもって夏の大例祭日とした。 |
493 | 太田川 | 太田川 | 中国地方整備局 | 太田川河川事務所 | 加計町坪野の水はね | 水制・護岸 | 19世紀代 | 文政2(1819)年の「国郡志御用に付村方下しらべ調」によれば、当時5箇所の水はねの存在を示す記述があり、嘉永3(1850)年の大水害等により被災したため直後に藩の代普請したものが現存している。 |
494 | 小瀬川 | 小瀬川 | 中国地方整備局 | 太田川河川事務所 | 大竹村閘堰 | 門 | 19世紀代 | 享和の初め(1801年〜)に大竹村青木に閘(水門)を設け、文化年間の末(1816年ごろ)に現在の位置へ移したが、工法不良でいずれも失敗でした。弘化3(1846)年9月、村をあげて投資し、工法を改良して成功させた。 ここから流されるかんがい用水は、大竹村や小島新開の用水路を縦横に流れて田畑を潤し、降雨時には排水路となって地域の住民に大きな益を与えている。 |
495 | 小瀬川 | 小瀬川 | 中国地方整備局 | 太田川河川事務所 | 木野の渡し場 | 舟運 | 17世紀代 | 『佐伯郡廿ヵ村郷邑記』に、木野村渡し場つなぎ石について「元和10(1624)年郡夫にて調う」とあります。文献などに基づいて昭和57(1982)年1月に渡し場付近を試掘したところ西国街道(旧山陽道)から続く石敷護岸道路の端から、石段と石敷スロープが発掘されました。 当時は、川幅22m、水深1.4mの所を、木野、小瀬両村から2人1組で渡し守りが出て、船渡しをしていました。 |
496 | 佐波川 | 佐波川 | 中国地方整備局 | 山口河川国道事務所 | 佐波川関水 | 水路・河道付替 | 16世紀以前 | 文治2(1186)年に東大寺の炎上によって、その再建のために俊乗坊重源が徳地山の巨材を奈良へ搬出するために、佐波川の流水を利用することを考え、堰と水路を設けた。 俊乗坊重源:紀李重の子で京都に生まれ、俗名を刑部左衛門尉重定と称し、13歳に醍醐寺に投じ、重源と名を改め61歳で東大寺再建の大勧進となった。 「関水」とは、佐波川のように急流でしかも流量が少なく、上流から材木を流すことが容易にできない川に材木を流すために左岸もしくは右岸の流路を堰上げ、水位を上げて水路をつくったもの。 徳地町にある「佐波川関水」は、後に佐波川通船にも使用され、舟渡しとも呼ばれている。 昔は、河口から七里(約28km)の間に118個もつくられていたが、度重なる洪水で関水は破損し、現在残っているのは、徳地町の大字船路に位置する国指定史跡「佐波川関水」ただ一つであり、その関水も46mあったものが一部残っているだけである。 |
497 | 佐波川 | 佐波川 | 中国地方整備局 | 山口河川国道事務所 | 霞堤 | 堤防 | 17世紀代 | 防府平野は、毛利藩が経済の建て直し対策として1600年代初めより始まった。開拓地として、経済・政治の中心部だったことから、上流部を霞堤に氾濫させておいて、遊水効果をもたらし、下流部の平野を守ろうと当時の人々が考えたと推察される。 霞堤の特徴は、本川に入る支川の下流側に堅固な堤防を築き、下流を守るが反対にその上流は洪水の遊水池となる。そしてその遊水池で外水と内水との水圧の平衡を保って本堤を保護する。 佐波川には、当時の霞堤とは判断できないが、霞堤は随所に残っている。 |
498 | 佐波川 | 佐波川 | 中国地方整備局 | 山口工事事務所 | 舟橋 | 橋 | 18世紀代 | 宮市から毛利氏の城下までの萩街道の途中にある佐波川越えで天正以来たびたび橋をかけていたが、そのたびに洪水のため橋が流されていたので、寛保2(1742)年に大渡手子源八の策を使って、初めて舟橋をつくった。 舟橋とは舟と舟をつないでその上に板橋をかけたものである。洪水の時には、片方に解き放って流失を防ぐことができる。舟橋は昭和16(1941)年には、その下流に架橋(新橋)してこの橋も姿を消した。 現在の佐波川に舟橋は、現存していない。 |
499 | 土器川 | 土器川 | 四国地方整備局 | 香川工事事務所 | 霞堤 | 堤防 | 19世紀代 | 急流河川である土器川は、ところどころに水の抜け道をつくって大洪水に対処すべく霞堤を整備してきた。現在も数カ所現存し機能ている。 |
500 | 土器川 | 土器川 | 四国地方整備局 | 香川河川国道事務所 | 出水(ですい) | その他 | 20世紀代 | 年間約180日が水枯れすることがある土器川において、水資源を利用するために、伏流水を取水すべく「出水(ですい)」を整備し取水した。 |
501 | 吉野川 | 銅山川 | 四国地方整備局 | 吉野川ダム統合管理事務所 | 銅山川疎水功労者頌徳碑 | 碑 | 20世紀代 | 銅山川疎水は古くから安政の昔より企画されてきたが、明治末期より大正初頭に至っていよいよ計画が本格化してきた。 特に大正13(1924)年宇摩疎水組合の設立後は、組合長をはじめ、その他の功労者の努力により大きく前進することとなった。 昭和29(1954)年に完成となった直轄柳瀬ダムは、愛媛県宇摩地区の人々の生活の安定と産業の振興に大きな力を及ぼしてきたが、この銅山川疎水は遠く安政の昔に始まり、幾多の先覚者ならびに功労者による中央および下流徳島県との交渉に尽力された集大成である。 ここに謹んで疎水実現に精魂を傾けた先人を永く称えるため、頌徳の碑を建立するものである。 銅山川疎水組合功労者頌徳の碑の建立時期と場所 ・愛媛県伊予三島市 戸川公園内(昭和38(1963)年建立後、現在に至る) ・愛媛県伊予三島市 三島公園内(昭和49(1974)年建立後、現在に至る) |
502 | 吉野川 | 地蔵寺川 | 四国地方整備局 | 吉野川ダム統合管理事務所 | 野中兼山の井堰等 | 堰・ダム | 17世紀代 | 江戸時代、土佐藩の財政が困窮し、新田開墾等の奨励がされたとき、当時から地蔵寺川は河床が低く、取水ができなく作物等の収穫がなかったが、野中兼山により新井堰および水路等の構築され、周辺は開墾された。そのほか野中兼山は、同様な事業を土佐藩各地で実施しており、特に有名な施設として仁淀川の八田堰、鎌田堰、物部川の山田堰がある。 新井堰:高さ2間(12.6m)、長さ19間(34.6m)、幅2間半(4.6m)杭柵にてつくった取水用施設で、地蔵寺川本川につくられ新井溝と呼ばれる水路により各水田に灌漑用水として給水されている。 この他、付近には宮古野、田井地区にも規模が異なる同様な施設が、野中兼山により構築されている。 野中兼山によりつくられた施設そのものは、老朽化等により、その後ほかの材料等で改築されているが、位置・高さ等基本的な物は変えられていない。 また、当地区付近が野中兼山一族の領土であり、上記業績により野中神社、銅像等が建てられ、8月の第3土曜日には、周辺町民により「野中祭」が催されている。 |
503 | 吉野川 | 吉野川 | 四国地方整備局 | 徳島河川国道事務所 | 高地蔵(たかじぞう) | 祭り・信仰 | 19世紀代 | 吉野川下流域には高い石の台座の上から周囲を見守るように建立された地蔵尊石像が多く見られる。中でも文化8(1811)年に建立された国府町にあるお地蔵さんは総高約4.3mもあり、下を見下ろすその姿から「うつむき地蔵さん」の愛称で地元民に親しまれている。高地蔵の由来は、洪水が頻繁に起こっていた頃、よく水没したり流出していたために、申し訳ないという信仰心からこのような高い地蔵尊が建立されたそうである。 |
504 | 吉野川 | 吉野川 | 四国地方整備局 | 徳島河川国道事務所 | ケレップ水制 | 水制・護岸 | 19世紀代 | ケレップとはオランダ語で水はねを意味する「Krib」がなまってケレップとなったと考えられている。ケレップ水制は水の流速をゆるめ、堤防等に対する洪水の力を弱めることを目的としている。普通、流れに対して直角に突き出した頭部に横工を設けたT字型をしているが、当所のケレップ水制は縦工が低水護岸に平行な形で施工されている。吉野川の第一期改修工事の時各所に設けられ、補修されながら現在も残っている。藍住町中富の北岸堤防の道路から干潮時に見ることができる。 |
505 | 吉野川 | 吉野川 | 四国地方整備局 | 徳島河川国道事務所 | 蔵珠院の標柱(慶応2年の洪水痕跡) | 碑 | 19世紀代 | 畳から2尺(約60p)というから、寺の周囲の畑からだと約3m。室内の土塀や戸板にくっきり残る洪水の跡。慶応2(1866)年のこの大洪水は、その年の干支から「寅の大水」と呼ばれた。当時の被害はすさまじく、寺の過去帳によれば、大雨は8月5日から降り始め、7日の夜に大洪水が発生し、亡くなった檀家32名が列記されている。このように江戸時代の洪水の跡がこれほどはっきり残っているものは全国でも数少ないと言われる。 平成7(1995)年12月25日に、その時の恐ろしさを後世に伝えようと当時の山門横に洪水の跡の高さを示す標柱が市民団体によって建立された。蔵珠院は今から約1000年前、人皇醍醐天皇の御願 理源大師聖宝僧正によって開基され、堂塔整備の無本寺の寺格の高い寺である。 |
506 | 吉野川 | 吉野川 | 四国地方整備局 | 徳島河川国道事務所 | 龍蔵堤(川贄さん) | 祭り・信仰 | 18世紀代 | 道路のガードレールの陰に隠れた用水路のコンクリートの上に、注意していなければ見過ごしてしまいそうな小さな石の祠がある。 祠の正面には川除(かわよけ)太神宮と刻まれ、堤防の守護神であることがわかる。右側面の文字は風化して読めなくなっているが、拓本をとると「元文五庚申○月十六日 芝原村 西○氏子○」と読みとることができる。 元文5(1740)年は江戸時代中期に当たる。何度築いても洪水のために決壊してしまう堤防。村では神頼みで堤防を復旧しようと、世話役が集まり、明朝一番に通行するものを人柱にしようと決めた。その時、庄屋は自分が犠牲になろうと密かに決意していた。ところが庄屋の世話になっていた龍蔵という男がそのことを知り、恩返しのために庄屋より早く出かけて人柱になった、という伝説がある。これが川除太神宮が俗に「川贄さん」と呼ばれる由縁である。完成した堤防は、その秋の洪水にビクともしなかったという。庄屋や農民は、龍蔵への感謝の気持ちとして祠を建て、堤防を龍蔵堤と呼んだと伝えられている。 |
507 | 吉野川 | 吉野川 | 四国地方整備局 | 徳島河川国道事務所 | 第十樋門 | 門 | 20世紀代 | 吉野川の水を旧吉野川に流し、洪水の時には吉野川の洪水が入らないようにするために大正12(1923)年に建造された。旧吉野川の出発点でもある。当時は日本一の樋門として吉野川沿川の名所となり見物者が絶えなかったという。 樋門の水位を観測する水位観測所は70年以上経った今でも大正時代の優雅さが感じられる。 |
508 | 吉野川 | 吉野川 | 四国地方整備局 | 徳島河川国道事務所 | 田中家 | 水防 | 19世紀代 | 吉野川の洪水から家を守るようにまるで一枚岩のように見事に積み上げられた石垣が、当時の藍商の全盛時代を思わせる田中家(国重要文化財)。石垣は洪水のやってくる(吉野川の)方向が高くなっており、鳴門の撫養石や徳島特産の青石(緑色片岩)が使われている。これほど緻密に積み上げられた石垣はなかなか見当たらないだろう。母屋を中心に土蔵、納屋、番屋、座敷、藍の寝床、門など敷地内11棟の建物全体が完成するまでに約30年の歳月をかけたと言われている。母屋は茅葺きで洪水で水が屋根まで来ると、屋根が浮き上がり船の代わりになるようになっているという。屋根へははしごを使ったり、内側からカマなどで屋根を切り裂いてそこから上がることになる。また軒下には県下で一艘だけという平らな船があり、これが救助船の役目をすることになっている。家が屋根までつかるような大洪水が来れば、茅葺き屋根や小さな船がどれだけ役立つのか想像がつかないが、吉野川の洪水の恐ろしさを知っていた当時の知恵者は、ここまでして緊急事態に備えた危機管理を考えていたということであろう。 |
509 | 吉野川 | 吉野川 | 四国地方整備局 | 徳島河川国道事務所 | 印石(川除き争い) | その他 | 19世紀代 | 嘉永4(1851)年に郡代は両者の話を聞いた上で、元村の人々に、中洲地区の土地と同じ高さの堤防を築くことを許している。その結果、高さ3尺あまり(約90p)、幅4〜6間(約7〜11m)の新堤が完成した。 その後、元村の人々がこの堤防に土も盛ったために、再び争いが生じた。藩は土を除去するように命じるとともに、今後争いが起こらないようにと、次のような対策を講じたのである。 それは石柱の上部に、決められた堤防の高さを示す横棒1本と「印石」という文字を刻み、その石柱を堤防の各所に埋め込んだのである。 皇太神宮という小さな社の横にある石碑は、このときの経験をしるしたもので、それによると印石21個を堤防の各所に埋設した、とされている。そのうちのひとつが、平成8(1996)年に完全な形で発見され、現在、石井町藍畑の産神社境内に設置されている。 |
510 | 吉野川 | 吉野川 | 四国地方整備局 | 徳島河川国道事務所 | 郡境石(ぐんきょうせき) | 水防 | 19世紀代 | 洪水は家屋の流失や田畑をだめにするだけでなく、しばしば町村の境界線まで不明にしてしまう。隣地との目印のために木や根の深い草を植えたりしていたが、大きな洪水では役に立たない。郡界石はその名の通り郡の境界の目印となるもの。 郡界石はいつ建てられたかは不明だが、明治7(1874)年に描かれた絵図に「此所に三郡四ヶ村の境石有」と注記されていることや、石に刻まれた字体から推して江戸時代後期のものと言われている。 場所は吉野川と江川に挟まれた洪水の多い地域で、麻植・板野・名西の境を明らかにするために建てられた。全長190p、埋込部分約80p。 正面には「西條 瀬部 高原 牛ノ島 四箇村之四ツ境」、右面には「此石ヨリ南牛ノ島村圓通寺東圍之薮東北之隅之立石迄三百二拾三間四尺」、そして左面には「麻植 板野 名西 三郡之三ツ境」と刻まれている。もしも此の大きな石が流失するようなことがあっても、洪水の心配のない圓通寺の高台に設けられた立石(基準石)によって元の場所(立石から真北に323間4尺の地点)に復元できるようにしてある。 そして現在でもこの場所は麻植・板野・名西の境、上板町・鴨島町・石井町の境である。 また、吉野川沿川には、田畑の境界が氾濫の後からわからなくなったために、あぜのすみに低木を植える習慣が受け継がれ、今も残っている。 |
511 | 吉野川 | 吉野川 | 四国地方整備局 | 徳島河川国道事務所 | 善入寺島(ぜんにゅうじとう) | 堤防 | 20世紀代 | 善入寺島は、吉野川の河口から約30km付近にあり、広さが約500haの川の中でも最も大きい島である。 吉野川第一期改修によって遊水地として全島買収される大正4(1915)年まで約500戸、3,000人が住んでいたが、これらの人々の犠牲によって下流の堤防が守られてきたともいえる。 今でも島内には、当時の島民の生活を思い起こされる史跡が数多く残っている。 |
512 | 吉野川 | 吉野川 | 四国地方整備局 | 徳島河川国道事務所 | 大正元年洪水の石柱 | 碑 | 20世紀代 | 岩津から下流の堤防の骨格を作り上げた吉野川第一期改修は明治40(1907)年に始まり、約20年間の歳月をかけ、数多くの人々の力で大正15(1926)年に完成している。その喜びを記念する改修碑の横には、改修途中にやってきた大洪水である大正元(1912)年の洪水痕跡を示した石柱が立っている。 高さは記念碑の土台から約2.6mもあり、当時の洪水のすさまじさを物語っている。 |
513 | 吉野川 | 吉野川 | 四国地方整備局 | 徳島河川国道事務所 | 岩津の石灯籠(舟運のための常夜灯) | 舟運 | 岩津は、池田・徳島間のおよそ中間に位置し、川幅の最も狭いところであり、監視所としては最適の地である。この灯篭は灯台の役目をした。藩ではここに御分一所(税関のようなもの)を設け、水上輸送する筏や船の監視をさせるとともに流道税の取立業務をさせた。水上輸送は、所要時間と安全性に多少の難はあるが、陸路より遙かに便利なため、物質の輸送はほとんどがひらだ舟と呼ばれる扁平な船(川の浅瀬の運航に好都合)によっており、産業発展に伴い、吉野川は上下する船や筏でにぎわったことと思われる。 | |
514 | 吉野川 | 吉野川 | 四国地方整備局 | 徳島河川国道事務所 | デ・レイケ堰堤 | 砂防工 | 19世紀代 | デ・レイケは、明治6(1873)年に御雇工師として招かれたオランダ人技師です。 日本では、木曽川下流改修工事などで有名ですが、明治17(1884)年には、筑後川(九州)視察の前に約3週間をかけて、吉野川流域も巡検しています。その間には、吉野川の洪水にも実際に遭遇しています。そして、彼はその年の9月に「吉野川検査復命書」を著しました。 現在、脇町の大谷川には、吉野川の治水計画を最初に立案したデ・レイケの足跡が偲ばれる砂防堰堤(デ・レイケ堰堤)が残されています。 |
515 | 吉野川 | 吉野川 | 四国地方整備局 | 徳島河川国道事務所 | 石囲いのある家 | 水防 | 石囲いのある家は、城構えの家と同様に洪水から家屋の流失を免れる手段の一つで美馬郡脇町別所には現在も2軒残っています。 そのうち高部家の石囲いは高さ1.8m、底幅3〜4mで、天幅2mほどもあり総延長は100m以上で昔のままの状態で残っています。 この石囲いは個人が築いた石巻堤で水の流れが直接あたる東西側と南側に設けられています。洪水が発生すれば石囲いの上に飲料水を汲みおいた桶をあげたり、また流木等が流れ寄せてきたら石囲いの上から棒で押しのけていたといいます。 |
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516 | 吉野川 | 吉野川 | 四国地方整備局 | 徳島河川国道事務所 | 藤森堤(三王堤) | 堤防 | 19世紀代 | 原喜右衛門は、はじめ百姓たちに日当を払って掻寄堤を築かせていたが、工事中に水害で流されてしまう。残った土手に石が混じっていることに気づくと、今度は表面を玉石で覆うことを試みた。が、それも水の勢いには勝てなかった。最後に挑戦したのが石垣の堤防である。 堤防は延長約600m、高さ4.5mであったという。貞光代官原喜右衛門は、見積もり違いと不調法のかどで切腹を仰せつけられた。 ただ、この堤防工事によって貞光島の耕地が誕生するなど、貞光が大きな恩恵を被ったことは事実である。 その後、明治26(1893)年には、自刃した原喜右衛門ら3名の功績をたたえて、三王神社という祠が建てられた。 |
517 | 吉野川 | 吉野川 | 四国地方整備局 | 徳島河川国道事務所 | 水防竹林 | 水防 | 吉野川の竹林は、吉野川があまりにも大きかったため、窮余の策として築堤の代わりに積極的に田畑を守るため植えたもので、江戸時代にはタケノコ奉行なるものが存在したほどである。竹が成長して大きな薮ができれば堤防が丈夫になった。また竹は軍事の物資としても重要で、一石二鳥であった。当時の川田村・瀬詰村の薮に関する記述の中で、郡代たちは非常に竹薮に執心しており、川沿いの土地にくまなく竹を植えさせ、水防の用に足すように記している。 現在、吉野川下流においては善入寺島より上流付近にしか見られないが、連続堤防の完成する以前には、下流にも至るところにあった。瀬詰の区有竹林もそうした地区の共有の財産として受け継がれ、今に残っている一つである。 |
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518 | 吉野川 | 吉野川 | 四国地方整備局 | 徳島河川国道事務所 | 後藤庄助(吉野川筋用水存寄申上書) | その他 | 19世紀代 | 後藤庄助は、鮎喰川の左岸、現在の国府町早淵で天明7(1787)年に生まれた。 父・利八郎は藍商を営み、組頭庄屋として、近隣の治水事業に多額の私費を投じて、鮎喰川の築堤や以西用水、溜池の修築に尽力する人であった。 庄助も、若くして藍商となり、江戸・尾張方面の諸国をめぐり藍玉を売り歩いていたが、天保2(1831)年の45歳の時に、父の跡を継いで組頭庄屋となる。在職中には有名な天保の大飢饉が起こっている。 当時、吉野川流域の農村部では藍作一所といわれるほどで、水田が乏しく、不足の食糧は他国から買い入れていた。飢饉の時はその米も手に入らなくなる。しかも地方によっては、飢饉に限らず、普段でも雑穀が主で、病気にならない限り、米は食べられないというところもあった。 こうした藍作農民の不安定な生活を実感したことが、後の「吉野川筋用水存寄申上書」に結びついたといわれる。 「吉野川筋用水存寄申上書」は、嘉永3(1850)年の66歳のときに、藩の勧農方と名東・名西両郡代に提出した建議書である。そこには、藍作から米作への転換を前提として、吉野川左岸の北山用水路と麻植・名西両郡の水田化を図るための南岸用水路の構想が描かれている。 |
519 | 吉野川 | 吉野川 | 四国地方整備局 | 徳島河川国道事務所 | 庄野太郎(芳川水利論) | その他 | 19世紀代 | 後藤庄助が描いた構想を継承したのが、庄野太郎の「芳川水利論」であるといわれている。「芳川」とは吉野川のことである。 「芳川水利論」は慶応元(1865)年に著されたというから、後藤庄助が「吉野川筋用水存寄申上書」を建白してから15年後になる。 庄野太郎が考えた用水構想は、麻植・名西両郡の灌漑用水路を計画するもので、これは、現在の麻名用水につながるものである。まず川島の城山の麓を掘り抜いて、吉野川の水を飯尾川に引き入れ、麻植郡上浦村(現鴨島町上浦)に閘門を造り、西から諏訪、下浦、城ノ内、石井、高川原へと灌漑するというものである。さらに、その下流には以西用水で賄うのがいいと考えた。 後藤庄助も同じように、庄野太郎の構想も実現されることはなかったが、農業経営という視点から吉野川の治水・利水の重要性を説き、具体的な用水開削を主張したのであった。 |
520 | 吉野川 | 吉野川 | 四国地方整備局 | 徳島河川国道事務所 | 豊岡レントン(疏鑿迂言/そさくうげん) | その他 | 19世紀代 | 豊岡新田の名主であった豊岡茘レントンは、明治維新後に、吉野川の利水に関する政策的な提言を行ったことでも知られている。 明治7(1874)年、西野権令(知事)に建白した「疏鑿迂言」(「疏鑿」とは切り開き通すこと。「迂言」とは自分の意見を謙遜して言うこと)がそれである。これは一言でいうと、吉野川北岸に大用水を建設し、藍から稲作への転換を説いたものということができる。 彼がこの私案を起草したきっかけには、「現状では、第十堰から北流する灌漑用水がないために、板野郡五十八ヵ村、千二百三十町、およそ3、4万石の田地が、塩害で未曾有の大損害を受けている。」という危機感があった。 そして「これまでは、お上を敵視する余り暴動が免れなかったが、明治維新後は官民は同等であり、自主自立の特権を与えられているのであるから、官民揃って施策を立てることが必要である。」としたうえで、吉野川の水は、灌漑用水と舟運のために利用されているが、灌漑用水は地勢が高いところにあるのがよく、舟運は低いのがよいのだから、この二つを分離して、新しく灌漑用水を開削する必要があると考えたのである。 |
521 | 那賀川 | 那賀川 | 四国地方整備局 | 那賀川河川事務所 | ガマン堰 | 堰・ダム | 19世紀代 | 明治2(1869)年に完成したが、昭和18(1943)年に完全締め切り計画によって撤去。 那賀川の洪水を1/3だけ派川岡川に流入させるための越流堤としてつくられた石積堤。 |
522 | 那賀川 | 那賀川 | 四国地方整備局 | 那賀川河川事務所 | 万代堤 | 堤防 | 18世紀代 | 天明7(1787)年に着工し、5ヶ年を費やして完成した。 阿波藩の命令を受けた古毛村の庄屋吉田宅兵衛が、私財をなげうって、1,070mの当時としては本格的な堤防を完成させた。 当時の堤防は現在の堤防の位置にあり、当時の姿を見ることはできないが、現地に吉田宅兵衛を称える碑を建立し、年に一度「万代まつり」を行い、当時の労をしのんでいる。 |
523 | 那賀川 | 那賀川 | 四国地方整備局 | 那賀川河川事務所 | 水刎岩「大岩」 | 水制・護岸 | 19世紀代 | 弘化2(1845)年に水刎岩「大岩」築造。 18世紀末に築造された万代堤は毎年のように洪水によって破損することから、上流の古毛覗石山より巨大な石(長さ約9m、幅約7m、周囲約23m)を掘り出して川に落とし、水刎効果を期待したものである。 現在でも同位置に残っている。 |
524 | 那賀川 | 那賀川 | 四国地方整備局 | 那賀川河川事務所 | 筏流し | 舟運 | 16世紀以前 | 室町時代より行われており、明治37(1904)年に那賀川運材業組合がつくられ最盛期を迎えたが、昭和27(1952)年の長安口ダム工事着工により行われなくなった。 上流の豊かな木材(杉)を効率よく下流へ運ぶため、最盛期には年間4,000杯もの筏が上那賀川町谷口土場より古庄・中島の製材所まで運ばれていた。 |
525 | 那賀川 | 那賀川 | 四国地方整備局 | 那賀川河川事務所 | 水神さん | 祭り・信仰 | 過去に堤防が決壊したところや取水口であったところに祀られている。 現在でも堤防上に数十ヶ所存在する。 |
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526 | 那賀川 | 那賀川 | 四国地方整備局 | 那賀川河川事務所 | 高瀬舟 | 舟運 | 17世紀代 | 元禄年間(1688〜1704年)より昭和25(1950)年まで那賀川の交通を支えた。 上那賀川町谷口〜那賀川町中島までの河港21ヶ所で往復4日の行程で就航していた。トラック運送が発達したことにより高瀬舟は姿を消した。 |
527 | 那賀川 | 那賀川 | 四国地方整備局 | 那賀川河川事務所 | 八貫の渡し | 舟運 | 渡し船についての起源は明らかではないが、橋梁完成により消滅した。 かつては土佐本街道であった「渡し」で名前の由来は、阿波藩政治代に重要路線として御分一所(税関)を設け、8貫匆の収入があったことによる説と、下大野の清水氏の先祖に当たる人が銭8貫匆を藩に上納して、この権限を一切引き受け、8貫匆以上の上がり金は自分の所得になることから、この名称が生まれたという。 さらには、また河床が埋塞するのでするので川浚え費が8貫匆要ったからという説もある。 現存しない。 |
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528 | 那賀川 | 那賀川 | 四国地方整備局 | 那賀川河川事務所 | 大井手堰 | 堰・ダム | 17世紀代 | 那賀川橋の上流にあった堰で那賀川の水を岩脇の内川、古庄の那東川へ水を引くため延宝2(1674)年に藩命により佐藤良左衛門が修築した堰。 難工事で良左衛門は娘を人柱にたてようとするが、代わりに観世音を埋めることで人柱を回避できた。 現在は北岸用水堰の完成により現存していない。 |
529 | 那賀川 | 那賀川 | 四国地方整備局 | 那賀川河川事務所 | 野上さん | 祭り・信仰 | 昔、那賀川では再三堤防が決壊し、大洪水が発生していたので、人柱を立てて堤防の決壊を防止しようとしていた。 昭和24(1949)年に那賀川南岸用水を作っているとき、人骨が出てきたので人柱の話しが実話であったことが判明した。 その人骨を祀り”野神さん”をつくった。 |
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530 | 那賀川 | 那賀川 | 四国地方整備局 | 那賀川河川事務所 | 那賀川橋 | 橋 | 20世紀代 | 那賀川で最初の抜水橋で、昭和3(1928)年に開通した。その後、那賀川の改修事業で右岸側を引堤した際、右岸側を継ぎ足した。 当時、戦争で鉄不足のためコンクリート橋で継ぎ足しを行ったので現在でも橋の形態が右岸側は異なっている。 |
531 | 那賀川 | 那賀川 | 四国地方整備局 | 那賀川河川事務所 | 富岡水門 | 門 | 20世紀代 | 昭和27(1952)年に那賀川と桑野川を分離するため、富岡水門が作られた。 水門の完成により那賀川洪水の水が桑野川に流れ込まなくなり、桑野川の洪水被害は軽減した。 現在の富岡水門は平成2(1990)年に改築されたものである。 |
532 | 那賀川 | 那賀川 | 四国地方整備局 | 那賀川河川事務所 | 斉藤島 | その他 | 20世紀代 | 那賀川河口部の島で上下流方向約1km、最下流端で幅約350mの長三角形の中島で、人家も約10戸あった。 那賀川の改修事業により撤去されることになり昭和12(1937)年から掘削がはじまり、昭和15(1940)年に完成した。 |
533 | 那賀川 | 那賀川 | 四国地方整備局 | 那賀川河川事務所 | 川浦の吊舟(野猿) | 舟運 | 横石橋の上流1km付近にあった吊舟。定員3名で自転車のペダルをこいで対岸まで渡った。現存しない。 | |
534 | 那賀川 | 桑野川 | 四国地方整備局 | 那賀川河川事務所 | 一の堰 | 堰・ダム | 20世紀代 | 桑野川下流にある堰で一の堰(初代)は寛永15(1638)年につくられた石造りの堰で、 昭和28(1953)年に2代目、昭和43(1968)年に3代目(現在の一の堰)が作られた。 桑野川下流南岸の富岡町、見能林、才見町などに灌漑用水を送っている。 |
535 | 重信川 | 重信川 | 四国地方整備局 | 松山河川国道事務所 | 伊予川改修(現重信川) | 水路・河道付替 | 16世紀代 | 慶長2(1597)年に城主の加藤左馬之助嘉明の名を受け、重臣の足立半右衛門重信が伊予川(現在の重信川)の改修に着手し、同4年に竣工した。 足立重信は、当時一定の流路がなく豪雨ごとに氾濫し、そのたびに流路を変えていた伊予川を、自ら設計して川の屈曲をただし、水流を緩和して河身を整える水制を施すとともに、両岸に堅固な堤防を築き新川を固定させた。その功績をたたえて、のちに伊予川は重信川と呼ばれるようになった。 |
536 | 重信川 | 重信川 | 四国地方整備局 | 松山河川国道事務所 | 泉 | その他 | 18世紀代 | 重信川は河床勾配が急であり、道後平野は扇状地であることから、重信川両岸の背後地を掘り下げ伏流水を湧水させ、これを下流に導いて利用するという形態(泉の利用)がとられた。 泉は重信川周辺の道後平野全体に点在し、131ヶ所も存在した。 現存する泉は112ヶ所、埋没した泉は19ヶ所である。 現存する泉のほとんどが、現在でも農業用水・上水道の水源地・泉を利用した公園などに利用されている。 |
537 | 重信川 | 重信川 | 四国地方整備局 | 松山河川国道事務所 | 重信川渡し | 舟運 | 19世紀代 | 昔、松山と南予を結ぶ道路は、重信川にさしかかると渡し船を利用せねばならなかった。数名の人が権利株を持ち、3人ほどの船頭を雇い運営していた。 明治20(1887)年には、営業規則ができていた。 重信川渡しは、塩屋渡し・北川原渡し・出合渡し・大間渡し・中川原渡しの5ヶ所であった。 重信川渡し跡には、松前町教育委員会により渡し跡を示す木杭が立てられている。 |
538 | 重信川 | 石手川 | 四国地方整備局 | 松山河川国道事務所 | 曲げ出し | 水制・護岸 | 18世紀代 | 足立重信の作った石手川の新河道は、川幅は長大であったが川底が浅く、水制工として千鳥掛けの波戸(鎌なげ)を構築したようであったが、当時治水の根源をなす治山が不十分であったため、土砂流出が激しく、河川はたびたび氾濫し、堤防が決壊していた。そこで、享保8(1723)年に西条浪人大川文蔵が、石手川の一大改修を行った。 足立重信の改修方法とは異なり、川幅を減じ水利を改め川底を深くして河芯に直線に突出する水制工(曲げ出し)を採用し、石手川の改修を行った。 大川文蔵が作った曲げ出しは今でも石手川公園の中に少し高い土地となって残っているところがある。 |
539 | 重信川 | 石手川 | 四国地方整備局 | 松山河川国道事務所 | 石手川改修 (岩堰・鎌なげ) | 水路・河道付替 | 17世紀代 | 足立重信は、慶長5(1600)年に伊予松前城(現在の松前町)を城山(現松山城)に移すにあたり、城山近くを流れ伊予灘に注いでいた湯山川(現石手川)の流れを南西に変え重信川に合流させ、慶長12(1607)年に竣工した。 改修は城山近くを流れ、直接伊予灘に注いでいた石手川を、岩堰と呼ばれる岩壁230mを掘り割り、新水路を南西に開通させ、重信川の出合に合流させた。堤防延長は約16kmにわたり、特に松山城を守る右岸堤防は強大にした。掘り割られた岩壁が、現在の河道として残っている。 また、上流から一気に流れ下る水勢を弱めるため、両岸から千鳥に岩石を組み突出させ、流れを受け止める鎌なげ(水制工)という工法を用いた。足立重信は、自分の屋敷内に川水を引き入れ、急に大水を加えてはこの方法で試して実用化したものと伝えられている。 |
540 | 重信川 | 石手川 | 四国地方整備局 | 松山河川国道事務所 | 松並木 | 水防 | 17世紀代 | 足立重信は、慶長5(1600)年に伊予松前城(現在の松前町)を城山(現松山城)に移すにあたり、城山近くを流れ伊予灘に注いでいた湯山川(現石手川)の流れを南西に変え重信川に合流させ、慶長12(1607)年に竣工した。 新水路の両岸には堅牢な堤防を築造し、特に松山城を守る右岸堤を強大にし、そこに松を植えて、延長約16kmにわたる長堤をつくった。 現存せず、不明。 |
541 | 肱川 | 肱川 | 四国地方整備局 | 大洲河川国道事務所 | 水防林(竹藪等) | 水防 | 肱川には、川に沿って竹藪やエノキ等の大木があり、肱川の流れや周囲の山並みと美しく調和しています。 この河畔林の中には、大洲藩が肱川の治水対策のため竹とエノキを混植した御用藪と呼ばれる林があります。竹の根は土砂を噛んで蛇籠の役目をし、その蛇籠をさらに大きくて深いエノキの根が根固めするという方法で洪水から堤防を守ってきました。また、洪水が堤防を乗り越えて溢れたときも、水の勢いを和らげ、大きな流木やゴミの進入を防ぎ田畑を流出から守りました。しかも、竹藪がフィルターの役目をして、細かい土砂(タル土)をとおし肥沃な田畑としました。 菅田・柚木・若宮・五郎には竹藪(マダケ・ホテイチク)の中にエノキの並木の堤防があり、多田・八多喜には竹藪(マダケ)の堤防が続いています。改修前の矢落川・久米川・嵩富川の堤防には、肱川本流と違ってここだけにメダケを植えて、沿岸の田畑が影にならない配慮が偲ばれます。 |
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542 | 肱川 | 肱川 | 四国地方整備局 | 大洲河川国道事務所 | なげ | 水制・護岸 | 17世紀代 | 大洲藩の二代藩主加藤泰興は、その時代に最も優れた治水施工者といわれた反田八郎兵衛に命じて「なげ」を築く河川工事を行いました。 その設置の目的としては、 @洪水時の水勢を変えて堤防を保護する。(治水) A城山下へ深渕をつくって城の要害を堅固にする。(軍事) ことにあったようです。 @の目的は、まさに現在でいう不透過水制そのものです。 Aの目的は、城山下への土砂の堆積を防ぎ、軍事上の要害を守ろうとするものであったことが伺えます。 また、肱川を行き来した川舟の船着場としても利用されたということです。 かつては、肱川の川沿いに何カ所もあったということですが、今では8カ所現存しています。 |
543 | 肱川 | 肱川 | 四国地方整備局 | 大洲河川国道事務所 | 長浜大橋 | 橋 | 20世紀代 | 長浜大橋は昭和8(1933)年に着工、昭和10(1935)年8月に完成したもので、現役の道路可動橋としては、全国で最も古い、橋長226m、幅5.5m、開閉部18m、バスキュール式と呼ばれる跳開橋である。開閉部の反対側に「おもり」を置き、開閉の負担を軽くする、天秤タイプの構造であり、跳開橋の仕組みとしては珍しいタイプである。 |
544 | 肱川 | 肱川 | 四国地方整備局 | 大洲河川国道事務所 | 舟運・いかだ | 舟運 | 肱川は、昭和初期まで大洲地方の重要な交通輸送路で、「水のみち」として川舟や筏が往来していました。 明治から大正時代にかけて、肱川沿いには大小あわせて40余りの河港があり、200艘以上の川舟がおかれていたということです。それらの港(船着場)に立ち寄りながら、川舟は地域の特産物や生活物資、時には人を乗せて、川を行き来しました。また、木材や竹などは筏を組んで川を流し、肱川河口にある長浜は、「伊予の小丸太」として、日本三大木材集積地の一つといわれていました。 |
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545 | 肱川 | 肱川 | 四国地方整備局 | 大洲河川国道事務所 | 境木 | 水防 | 肱川の五郎・若宮地区は、川に沿って畑地が広がっており、現在の堤防ができる前は、肱川の洪水が起こるとたびたび氾濫し被害を受けました。 川が氾濫した畑は、水が引いた後は境界がわからなくなってしまいます。「境木」は、畑が氾濫した後、隣の畑との境界がわからなくならないように畑の境界として植えられたものです。 |
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546 | 肱川 | 肱川 | 四国地方整備局 | 大洲河川国道事務所 | 高石垣 | 水防 | 若宮地区は、大洲盆地の盆地底にできたただ一つの集落であり、大洪水のときには、多くの家が二階まで浸水する大被害をうけてきました。そこで、洪水への備えが特に厳重で、床は地面より70〜80cmも高くし、壁には腰板を張って保護し、一階は板張りの間とした家が多く、すべての家が二階建てだったそうです。 また、大洪水に備えて、若宮の各組ごとに二カ所づつの水防場があり、避難用の舟も用意していました。 水防場は、一般住宅よりさらに1.5mほど高く盛土した家で「高石垣」の家ともいわれます。神社や寺院、庄屋の家などは、高石垣の家で、いずれも洪水のときに避難場所となりました。 |
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547 | 肱川 | 河辺川 | 四国地方整備局 | 山鳥坂ダム工事事務所 | 御幸橋(屋根付き橋) | 橋 | 19世紀代 | 天神社にわたるために架けられた屋根付き橋。天神社が創設された安永2(1773)年に架設。現在の橋は、明治19(1886)年の大洪水で流されたものを同年再現したもので、クギは一切使われていない。せめて橋の上だけでも雨露をしのげるようにという先人の知恵と優しさが偲ばれる。河辺村内にはこのような屋根付き橋が現代に復元されたものも含め8橋も存在する。 |
548 | 物部川 | 物部川 | 四国地方整備局 | 高知河川国道事務所 | 神母ノ木の渡し | 舟運 | 18世紀代 | 土木技術の発達が未熟な藩政時代、時として大洪水となり、荒れ狂う大河に橋を架けることは至難の技であり、上流部の葛橋は別として、下流にも恒久的な橋らしいものはなかった。そのため、水流の静かな時は渡舟が利用され、両岸の交通を可能にしていた。特に神母ノ木の渡しは交通の要衡であった。 上流(距離標10K地点)に香我美橋ができたため、その役目を終え、昔の面影を残すのみとなった。 |
549 | 物部川 | 物部川 | 四国地方整備局 | 高知河川国道事務所 | 町田の渡し | 舟運 | 19世紀代 | 主に対岸の学校に通うための通学路としてつい最近まで利用されていた。 下流200m付近に、町田橋ができたため、その役目を終えて、昔の面影を残すのみとなっている。 |
550 | 物部川 | 物部川 | 四国地方整備局 | 高知河川国道事務所 | 十善寺の渡し場 | 舟運 | 17世紀代 | 当時の場所は現在工事中の土佐くろしお鉄道の物部川橋梁部付近と思われるが、旧県道の橋脚の残骸が露頭しており、昔の面影はない。 |
551 | 物部川 | 物部川 | 四国地方整備局 | 高知河川国道事務所 | 物部川水害予防組合会 | 水防 | 19世紀代 | 明治27(1894)年1月26日成立。 |
552 | 物部川 | 物部川 | 四国地方整備局 | 高知河川国道事務所 | 四ツ枠構築法(山田堰) | 堰・ダム | 17世紀代 | 土佐藩の家老野中兼山が、林産資源の育成、舟運、新田開発のため、物部川において、数々の取水堰と用水路を建設した。その中で、堰の規模、灌漑面積とも最大であるのが山田堰である。 寛永16(1639)年〜寛文4(1664)年の26年の歳月をかけて、四ツ枠構築法なる工法(松材:約4万本、石材:1100坪)で長さ180間(327m)、幅6間(11m)、高さ5尺(1.5m)の巨大な堰と上井、中井、舟入川の井筋を建設した。 昭和48(1973)年3月、上流約600m付近に合同堰が完成し、取水の役目を終えた。疎通能力不足の原因となるという理由から、撤去することになり、昭和57(1982)年11月に構造調査も併用しながら撤去した。現在は右岸寄りの一部が高水敷に残存しており、そこは物部川緑地公園として一般住民に利用されている。 |
553 | 物部川 | 物部川 | 四国地方整備局 | 高知河川国道事務所 | 辨慶枠 | 水制・護岸 | 20世紀代 | 大正9(1920)年7、8月の洪水で破堤した区間のうち、河床の洪掘が甚しい箇所において、水制工事が困難を極めたため、弁慶枠工法により施工し、効を奏したと記述されている。 根固工は、コンクリート製の沈床ブロック、井桁ブロック内に雑石(40p程度)を充填する工法にて、また低水法面部は巨石張(2t/個程度)にて施工している。 |
554 | 物部川 | 物部川 | 四国地方整備局 | 高知河川国道事務所 | 堰留神社 | 祭り・信仰 | 19世紀代 | 堰留神社は昔、物部川の洪水が大岩によってせきとめられたことにより、洪水の被害を免れた人々が、その岩を神と崇め、磐座として祀ったのに始まったと伝えられている。祭神は、堰留神、石留神。文化12(1815)年7月の洪水により社殿が流失し、同年10月に再興されたという記録が残っている。 ほぼ当時のまま残っており、場所も堤内法尻部からすぐの所にあり、堤天からは神社参拝のための坂路も設置されている。 |
555 | 物部川 | 物部川 | 四国地方整備局 | 高知河川国道事務所 | 兼山三又 | 水路・河道付替 | 17世紀代 | 天保元(1644)年に野中兼山の開削により通水を始めたと現地の案内板に記されている。 野中兼山が野市を開拓するために苦心して作った分水の地。町田堰より野市上井を通って来た水はこの三又で十善寺溝、町溝、東野溝の三水路に分かれ、600haにおよぶ新田を開発した。 現在でも当時の原形を残している。 |
556 | 物部川 | 物部川,舟入川 | 四国地方整備局 | 高知河川国道事務所 | 物部川〜舟入川の荷船 | 舟運 | 17世紀代 | 山田堰設置に伴い開削した舟入りは、灌漑用水路としてだけでなく、物部川上流域からの木材や生活物質の輸送路としても大いに活用された。 船は物部川の急流に合うように底の浅いヒラダ船で、米の場合なら20石程度積載可能な大きさで、神母ノ木までのものと高知城の下まで行くものがあった。高知船は神母ノ木からは10隻程度の船団を組んで下っていき、帰りは曵網を利用しての遡行が主であった。材木の場合は流木と筏流しの2種類があり、高知への輸送はほとんどが筏に組んでの流しが行われていた。 現在、山田堰は撤去され、取水口も塞がれており、合同堰からの取水された農業用水路として南国市中心部から下流は生活雑排水の水路と変ぼうしており、昔の面影はない。 |
557 | 仁淀川 | 仁淀川 | 四国地方整備局 | 高知河川国道事務所 | 八田堰,固盤枠,土台枠,片固盤,四ツ枠 | 堰・ダム | 17世紀代 | 八田堰は野中兼山が指揮し、慶安元(1648)年から承応元(1652)年まで5年を要して築いたもの。兼山遺構のものは、湾曲斜め堰で、施工にあたり流水との調和を図るため川に、長縄を流して水勢を推し量ったという逸話が残る難工事であった。 形は弓形をなし、延長228間(415m)、幅13間3尺(25m)、高さ1間4尺(3m)の大きさで、木材と石を組み合わせ構築されていた。 コンクリートにより近代的に改修されている。 |
558 | 仁淀川 | 仁淀川 | 四国地方整備局 | 高知河川国道事務所 | 鎌田堰 | 堰・ダム | 17世紀代 | 鎌田堰は、万治2(1659)年に野中兼山が着工、構築したもの。この堰から鎌田井筋が引かれ、灌漑用水路としてだけでなく、運河の役割も果たしていた。 堰堤は長さ300間(545m)、幅10間(18m)、高さ7間(13m)で、兼山の築いた堰のうちで最大。中央部には長さ4間(7m)、幅3間(5m)の凹字型をした筏越を、松・楠の巨材をもって構築。また堰堤は材木で枠を組み、中を砂利で埋め上部を大石で被覆したものであった。 水掛かりが悪くなり、昭和11(1936)年上流に(灌漑用の)自然取水による取水口を移し、堰は放置されていたが昭和29(1954)年の出水で形も消失した。今は堰止があるのみ。 |
559 | 仁淀川 | 仁淀川 | 四国地方整備局 | 高知河川国道事務所 | 鎌田用水(鎌田井筋) | 水路・河道付替 | 17世紀代 | 野中兼山の手がけた灌漑事業で、鎌田堰により取水し、高東平野約700haを潤している。 大内、高岡、中島を経て新居に至り、再び仁淀川に入る延長約3里(12km)の用水路。深いところで1丈(3m)、浅いところで9尺(2.7m)幅7間(12.7m)の大水路。 蓮池溝と中島溝に大きく分派してる。 現在も水勢は盛んで、700ha、1,900戸の農家を支えている。 |
560 | 仁淀川 | 仁淀川 | 四国地方整備局 | 高知河川国道事務所 | 吾南用水(弘岡井筋) | 水路・河道付替 | 17世紀代 | 野中兼山が慶安元(1648)年より5年の歳月かけ、行当の切抜きなどの難工事を完遂し、完成させた用水路。 八田堰から取水し、八田川で行当の切り抜きを経て、五南平野に導水し、さらに長浜(唐音)の切り抜きを経て、浦戸湾に流れる。深いところで1丈2尺(3.6m)、浅いところで6尺(1.8m)、幅は平均6間(11m)。八田川より分派する支流は多く、諸木井筋・南川・北川などがあり、一帯の灌漑および舟運に使われ、本支流合わせて6里14丁25間(25.1km)、灌漑区域は9ヶ村に渡り、862町2反6畝23歩(854ha)。 現在も吾南地方の灌漑に大きな役割を果たしている。なお、昭和3(1928)年より3ヶ年あまりをかけ、鉄とコンクリートによる近代技術で大改修され、当時より規模は小さくなっている。 |
561 | 仁淀川 | 仁淀川 | 四国地方整備局 | 高知河川国道事務所 | 水制(聖牛) | 水制・護岸 | 20世紀代 | 河床の上に粗朶束を敷き、その上に玉石を敷き並べ木枠を組み、竹製の蛇籠で押し込んだ透過性の水制。 コンクリートの護岸が整備され、聖牛はない。 |
562 | 仁淀川 | 仁淀川 | 四国地方整備局 | 高知河川国道事務所 | 八田二重堤防 | 堤防 | 17世紀代 | 野中兼山の時代に至って堤防を築き、河川の整理を行い、次いで井堰を設け疎水を通じて平野に給水し、開拓事業を大成した。そのうち左岸においては、通常の水害阻止の堤防以外に壮大なる特殊堤防を築いた。 これは水害防備上の通例を越えた、例外の平地に高く築いた二重堤防で、当所以外に見ることのできないもので仁淀川氾濫の非常時に備え、また、開墾地保護の一策とした。 現在も二線堤として機能し、本堤の漏水対策の一助としてある。 |
563 | 仁淀川 | 仁淀川,波介川 | 四国地方整備局 | 高知河川国道事務所 | 宮崎水越(越流堤) | 堤防 | 19世紀代 | 寛文6(1666)年の洪水の際、乱流する仁淀川本川は一気に用石の沃野を突っ走り荒川域(古川)をつくった。ここが自然に波介川最下流としての役割を持っていたが、人工的に水越(越流堤)をつくり、波介川の合流点を用石下の谷に固定。これにより、合流点の水位差を大にし、上流低地の滞水の被害を減少させた。現在は堤防の改修が進み、昔の面影は残っていない。 |
564 | 渡川 | 中筋川 | 四国地方整備局 | 中筋川総合開発工事事務所 | 横瀬耕地整理組合記念碑 | 碑 | 20世紀代 | 大正9(1920)年の暴風雨により山岳の崩壊や大洪水が起き、田畑も押し流された土砂で埋め尽くされ膨大な被害となった。そこで部落の人達が寄り集まって耕地整理組合を作り土地改良に乗り出した。 当時の耕地復旧整地事業はたいへんなものであったので、これを記念して記念碑が建てられている。 |
565 | 渡川 | 中筋川 | 四国地方整備局 | 中筋川総合開発工事事務所 | 山田耕地整理組合記念碑 | 碑 | 20世紀代 | 同上。 |
566 | 渡川 | 中筋川 | 四国地方整備局 | 中村河川国道事務所 | 新中筋川通水記念碑 | 碑 | 20世紀代 | 四万十川下流域の沿川住民の悲願であった渡川治水事業は、昭和40(1965)年頃に概ね完成しましたが、中でも特筆すべきは中筋川の改修工事である。昭和22(1947)年の坂本背割堤工事からはじまり、新中筋川の掘削等々を行い四万十川合流点を4.5km下流としたことにより、四万十川からの逆流を大幅に軽減することに成功。内水はポンプで排水するので、低地中筋平野もほぼ洪水を防ぐことができるようになる。 |
567 | 渡川 | 四万十川 | 四国地方整備局 | 中村河川国道事務所 | 粗朶沈床 | 水制・護岸 | 20世紀代 | 粗朶沈床は緩流部の根固及び水制に適し、下層が格子状の小枝束、中層が3段の柴束(粗朶)、上層は土砂又は栗石の構造で、針金又は麻紐等により連結されている。 この工法はくっとう性に富み、凹凸のある河床に密着でき、重ねて設置を行うことができる。また、柴束は大小の穴を有しているため、仔魚やエビ等の生息場として期待できる。 四万十川でも昭和9(1934)年、14(1939)年、34(1959)年に緩い水衝部において施工実績が見られ、平成9(1997)年には再現施工を行った。 |
568 | 渡川 | 四万十川 | 四国地方整備局 | 中村河川国道事務所 | 木工沈床工 | 水制・護岸 | 20世紀代 | 木工沈床は、一般に格子状の木枠に栗石以上の大きい石を詰めた根固床止工で、水流に対して強度があり、粗朶沈床に比べ比較的水衝部に使用される。四万十川においても昭和初期より施工がされており、平成9(1997)年には、片勾配をつけた片法枠沈床を再現施工を行った。 |
569 | 渡川 | 四万十川 | 四国地方整備局 | 中村河川国道事務所 | 杭柵工 | 水制・護岸 | 20世紀代 | 杭柵工は、護岸基礎や法止等に使用される工法で、水流に強く、水衝部での使用実績が多い。四万十川では平成8、9(1996〜7)年において、法止めに埋設する形で設置を行い、盛土の安定を図るため使用を行った。 |
570 | 渡川 | 四万十川 | 四国地方整備局 | 中村河川国道事務所 | 柳枝工 | 水制・護岸 | 20世紀代 | 天然素材の柳枝と粗朶により桝型の編み込みを作成し、その内部に土砂又は栗石を詰める工法で、施工後の柳の生育により、洪水時に河岸の流速を弱め法面保護を行うことができる。この工法は施工地付近に生える柳を使用することから安易に材料を現地調達できる工法として考えられている。しかし、柳枝の大量確保が難しいため、柳枝を小枝(帯梗)に変え、柳を刺し木する改良された柳枝工(四万十川でも平成9(1997)年に再現施工を行った)も見られる。 |
571 | 渡川 | 四万十川 | 四国地方整備局 | 中村河川国道事務所 | 具同水制(大バネ,小バネ) | 水制・護岸 | 四万十川具同地先に存在する下向水制で、度重なる被災によるため、表面は練石張により固められている。施工時期等は不明で古くより存在すると言われる。 | |
572 | 渡川 | 後川 | 四国地方整備局 | 中村河川国道事務所 | 箴杭工 | 水制・護岸 | 20世紀代 | 四万十川では昭和初期から中期にかけ主に沈床として使用されている。姿は杭打片枠工と呼ばれる木枠前面に杭柵を設置した風貌に近い。施工は水面下に行われている箇所が多いためか、現在でも一部現存し干潮時に姿が見られる。 |
573 | 渡川 | 後川 | 四国地方整備局 | 中村河川国道事務所 | 麻生堰 | 堰・ダム | 16世紀代 | 後川の中流に位置する取水堰で、その流水は秋田、安並、古津賀等の田畑を潤している。施工は古く、1600年代で、当時の土佐藩家老野中兼山により計画、工事された。 現在は、コンクリートブロック及び石張により工事され当時の姿は見られないが、その流水を運ぶ水路は兼山水路と呼ばれている。 |
574 | 遠賀川 | 遠賀川 | 九州地方整備局 | 遠賀川河川事務所 | ひと鍬堀 | 水路・河道付替 | 江戸時代、上西郷村(嘉穂町)に正人という医者がおり、水不足に悩む農民のために嘉麻川(遠賀川)の水を引くために、用水路を掘った。 正人は水不足に悩む農民のために嘉麻川(遠賀川)の水を引こうと思い立ち、黒田藩に願い出て「鍬の幅の分だけ」という約束で水路を掘り始める。ところが正人のつくった鍬は幅が1mもあるものだったので立派な水路はできあがったが、正人とその家族は何者かによって殺されてしまった。村人は正人が殺された石橋を墓としてずっと守ったということである。 今でも、本川最上流端の長田用水樋管付近から「正人さん」の「ひと鍬掘」は流れており、その墓も石橋天神として残っている。 |
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575 | 遠賀川 | 遠賀川 | 九州地方整備局 | 遠賀川河川事務所 | 川ひらた | 舟運 | 16世紀以前 | 朱鳥元(686)年、嘉麻(かま)郡碓井(うすい)郷50戸は、鞍手郡金生(かのう)郷などと太宰府観世音寺の財政を支える封戸となった。観世音寺は12世紀には、火災・倒壊等で東大寺の末寺になった。碓井封の貢物は遠賀川を下って芦屋で積み替えられ、京都の淀に送られ東大寺に納入された。このとき使われた川舟が川ひらたである。 遠賀川や堀川の改修は流域の石高を増加させたばかりでなく、船で物資を運ぶ舟運を発展させた。堀川では年貢米、石炭、蝋燭の原料であるハゼの実や材木が運ばれ天保13(1842)年には通船数が9,648隻を数えた。遠賀川では石炭はもちろんのこと、伊万里焼も運ばれ芦屋で中継され各地に運ばれた。舟運には水深の浅い遠賀川に合わせて川ひらたという底の浅い船が使われた。この船は「五平太船」とも呼ばれていた。その由来は、藩主の用船である「ひらた」に敬意を表す意味で御の字をつけたことに始まる。 遠賀郡芦屋町の歴史民俗資料館に保存されている「川ひらた」は船ダンスや水瓶、かまどをそなえたもので、川と人の暮らしとの深い関わりを偲ばせてくれる。 |
576 | 遠賀川 | 遠賀川 | 九州地方整備局 | 遠賀川河川事務所 | 献鮭祭(鮭神社で行われる) | 祭り・信仰 | 福岡県嘉穂町には、1200年前に建立されたといわれる鮭神社があり、毎年12月13日には「献鮭祭」が行われる。 全国に鮭を祭った神社は他にもあるが、鮭神社と名付いた神社はここだけである。この地方では、かつて鮭が幸せを運んでくる使者であった。海神の使いが鮭に姿を変え、神社にお参りに来るという伝説が残っており、鮭がやってきた翌年は大豊作、無病息災といわれ、万一鮭を殺したりすると災難が起こるともいわれた。神社の境内には鮭塚があり、遡ってきた鮭を神の使いとして豊作を祈りながら、この鮭塚に埋めるのが献鮭祭である。記録によれば、明和元(1674)年から続いている祭りである。 昭和53(1978)年には遠賀川下流で40年ぶりに鮭が捕獲され、これを契機に「遠賀川に鮭を呼び戻す会」が結成され、昭和61(1986)年からは流域の各地で鮭の稚魚の放流が続けられている。サケに関する活動は、自然や環境問題を考えるきっかけとなり、以後、嘉穂町の揺るがぬ町づくりの指針となっている。 |
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577 | 遠賀川 | 遠賀川 | 九州地方整備局 | 遠賀川河川事務所 | 渡し | 舟運 | 遠賀川の交通には渡し舟もあった。江戸時代以前は、飯塚以北は橋梁がなく渡し舟で渡河していた。長崎街道は、遠賀川の赤地店屋渡し(現小竹町)と彦山川の下境店屋渡し(現直方市)の2ヶ所で渡っていたが、元文元(1736)年から頓野口渡し(現直方市)に変更された。 長崎街道は、長崎から江戸へ異国の産物と文化を運ぶ、華やかなシルクロードともいうべき道であった。参勤交代の諸大名、オランダ、長崎奉行等の行列が続き、その他文人、墨客、医師、留学生、商人、芸人等多彩な顔ぶれがこの街道を上り、下った。小竹より直方に至る街道は二つあり、これは直方藩が在藩中は外様大名が城下町を通行することを禁止したためである。その一つが赤地店屋渡し・下境店屋渡しである。 明治39(1906)年から大正8(1919)年にかけての遠賀川1期改修工事により消失した。 |
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578 | 遠賀川 | 堀川 | 九州地方整備局 | 遠賀川河川事務所 | 堀川 | 水路・河道付替 | 17世紀代 | 元和6(1620)年、福岡藩主黒田長政は自ら再度にわたって遠賀川を視察し、洪水を緩和するため、現中間市の底井野付近より枝川を掘り、折尾を経て洞海湾に遠賀川の水を導くことを計画した。遠賀川の水流を二分する計画で、治水(放水路)、舟運、灌漑等の役割も持ち、約180年の歳月を費やされ完成している。 黒田長政は元和7(1621)年に家老の栗山大膳に中間(遠賀川右岸14km200)から洞海湾(北九州市)までの水路工事を命じた。長政死後、一時工事は中断されたが六代藩主・継高が後を引き継いだ。脆弱、または堅固な地質箇所等を多く控え、工事は難航したものの、幅約6〜15m、長さ約12kmの大運河が文化元年(1804)に完成した。 その後、遠賀川上流域でとれた農産物、材木、石炭等は、遠賀川を船で下り、芦屋や若松港まで運ぶ重要な輸送路となった。 現在は灌漑用水路、生活排水路として役割を果たしているが、水質の悪化が問題となっている。 |
579 | 遠賀川 | 堀川 | 九州地方整備局 | 遠賀川河川事務所 | 唐戸水門 | 門 | 17世紀代 | 堀川開削の第二期工事が宝暦12(1762)年に完了。遠賀川本川より堀川への導水は、中間村中島に取入口を設け、石唐戸(水門)を構築して仮通水することとなるが、洪水の際の水圧に耐えられず、二度にわたり決壊した。藩は備前(岡山県)に使いを送り、一つの唐戸に表裏にまったく同一機構の堰戸を設けた中間唐戸を建設した。 石唐戸の決壊により、藩は検討の結果、備前国吉井川に全国無比石唐戸が構築されていることを知り、堀川工事の役夫頭を努めていた一田久作を備前に派遣。当時は、各藩とも自国の技術は極秘にしていて、他国人で盗むものは生きて帰さぬほどで、久作は決死の思いで備前国に潜入し、吉井川の閘門の構造を書き取り、無事帰国。設置場所は岩盤の箇所が選ばれ、表戸・裏戸のほかに中戸を設け、表裏戸でも濁流の水勢を妨げない場合に使用することとしている。 福岡県の重要文化財として指定されているが、現在も一部機能を果たしている。 |
580 | 遠賀川 | 彦山川 | 九州地方整備局 | 遠賀川河川事務所 | 神幸祭 | 祭り・信仰 | 17世紀代 | 田川市魚町、風治八幡神社の川渡り神幸祭(県指定文化財)は、彦山川水系に伝わる400年あまりの歴史を持った、筑豊を代表する水神祭りである。また、この祭りには豊作への願いも込められている。 祭り初日の「お下がりの日」は、まず境内で「お立ちの獅子」が舞われ、次にお神輿が先導し、それに色とりどりのパレンを取り付けた十基あまりの山車が続き、一基50人を越えるかき手に曳かれた山車は彦山川に入ると、かき手は川の中を賑やかな鐘の音に合わせて山車を曳きまわり、暴れ、水をかけあう。1時間ほどで水の饗宴が終わると、お旅所に一晩「お泊まり」になる。二日目の「お上がりの日」は、逆の順番で川を渡って神社に戻る。山車につけられたバレンは130本ほどの竹に様々な色紙を貼ったものであるが、これはたわわに実る稲穂を表したものである。 |
581 | 遠賀川 | 小副川川 | 九州地方整備局 | 嘉瀬川ダム工事事務所 | かわまつり | 祭り・信仰 | 川岸に竹で柵を設け、水神を祀る。 ・大野原7月28日頃 ・上小副川6月1日頃 ・日池11月1日頃実施 |
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582 | 遠賀川 | 神水川 | 九州地方整備局 | 嘉瀬川ダム工事事務所 | 鷹の羽橋 | 橋 | 20世紀代 | 石造りアーチ橋 現 県道三瀬栗並線 嘉瀬川ダム水没地内 |
583 | 遠賀川 | 栗並川 | 九州地方整備局 | 嘉瀬川ダム工事事務所 | 昭安橋 | 橋 | 20世紀代 | 昭和初期建造 石造りアーチ橋 子安神社参道 嘉瀬川ダム水没地内 |
584 | 嘉瀬川 | 嘉瀬川 | 九州地方整備局 | 嘉瀬川ダム工事事務所 | 菖蒲橋 | 橋 | 20世紀代 | 何度も流出する橋だったので菖蒲地区により小城石工 石橋千太郎を雇い、大正4年に建造。 石造りアーチ橋 嘉瀬川ダム水没地内 |
585 | 嘉瀬川 | 嘉瀬川 | 九州地方整備局 | 嘉瀬川ダム工事事務所 | 川上第三発電所 | その他 | 20世紀代 | 大正11(1922)年に運転開始 Max:1,450kw発電、有効落差:28.44m、水圧管1条:91.0m、管経1.4m |
586 | 嘉瀬川 | 嘉瀬川 | 九州地方整備局 | 武雄河川事務所 | 尼寺林 | 水防 | 16世紀代 | 嘉瀬川の水は、大井手と象の鼻により、できるだけ水に逆らわないようにして水を堰き止めてはいるが、大水の時は上流で滞水し、上流部破堤の原因となる。それを防ぐため、石井樋上流の堤防を強化し、さらに1mほど低くした乗越を設け、その外側に遊水池を広くとり、竹林を植えて水勢を和らげるようにしていた。この竹林は、尼寺林と呼ばれ、洪水時に乗り越した川の水や土砂が付近の耕地を荒らさないよう徐々に氾濫させた泥水は砂礫が流入していないため、田畑に流入しても客土となり、村民はむしろ洪水を喜ぶほどであったという。尼寺林(竹林)については、一部現存している。 |
587 | 嘉瀬川 | 嘉瀬川 | 九州地方整備局 | 武雄河川事務所 | 石井樋 | 堰・ダム | 17世紀代 | 今からおよそ400年前、嘉瀬川の洪水を築き、多布施川を通じて佐賀城の内堀用水や、城下の飲料水、流域の灌漑用水を供給するために、成富兵庫茂安が12年かけて作り上げた井樋。石井樋は、荒籠と呼ばれる水制により嘉瀬川上流から流れてきた水の流れを弱め、砂よけとして働き、大井手堰で堰き止めた後に象の鼻、天狗の鼻により水の流れを変え、石井樋によって溜まった水を多布施川に流した。 昭和35(1960)年、上流に川上頭首工ができ、その役目を終えていたが、平成9年度に地元要望の水辺プラザに指定され、平成16年度完成を目標に復元整備中である。 |
588 | 松浦川 | 松浦川 | 九州地方整備局 | 武雄河川事務所 | 大黒井堰 | 堰・ダム | 16世紀代 | 今から約400年前に大川町にある水田を開くため、唐津藩初代大名寺沢志摩守の命を受け、家臣の立石合太が僧である田代可休の助言を受け、21年かけて作り上げた堰。 松浦川の水を大川町の水田へ供給しており、現在もなお、その役割を果たしている。 |
589 | 松浦川 | 松浦川 | 九州地方整備局 | 武雄河川事務所 | 馬頭サイフォン(うまのかしらサイフォン) | 水路・河道付替 | 17世紀代 | 桃ノ川地区の水田は水不足地帯だったため、成富兵庫茂安が松浦川上流に井堰をつくり、水を取水して対岸の桃ノ川地区の水田を潤した。当時は底を抜いた木の桶をつないで、パイプの代わりとして水を流していた。 現在もなお、その機能を果たしている。 |
590 | 松浦川 | 松浦川 | 九州地方整備局 | 武雄河川事務所 | 萩の尾堰 | 堰・ダム | 17世紀代 | 松浦川の左岸にある桃ノ川地区の水田は水不足地帯だったため、成富兵庫茂安が松浦川上流に井堰をつくり、右岸側より水を取水し、サイフォンの原理を利用して対岸の桃ノ川地区の水田を潤した。その時つくられた井堰のことが萩の尾堰である。 現在もなお、その機能を果たしている。 |
591 | 六角川 | 六角川 | 九州地方整備局 | 武雄河川事務所 | 永池の堤 | 堤防 | 16世紀代 | 今からおよそ400年ほど前、六角川は有明海が満潮時に海水が上流の29km付近まで上がり、その水が塩分を含んだいるために、田圃の水としては使用が困難であった。 そこで水を田圃に供給するために、成富兵庫茂安がつくった三段式の堤が永池の堤である。 水を堰き止めるために、水を通さない粘土でハガネをつくり、周りを土で固めたものである。また永池の堤の水を白石、福富町まで送られるように考えられている。 現在もその役割を果たしている。 |
592 | 六角川 | 六角川 牛津川 | 九州地方整備局 | 武雄河川事務所 | 荒籠 | 水制・護岸 | 護岸基礎部の洗掘を防止し、流向を変えて下流や対岸のガタ土堆積をコントロールする。 今もなお、その機能を果たしている。 |
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593 | 六角川 | 六角川 牛津川 | 九州地方整備局 | 武雄河川事務所 | 江湖 | 水路・河道付替 | 樋門、樋管内部のガタ土堆積の抑制を図る。 現在、そのまま依存している。 |
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594 | 六角川 | 牛津川 | 九州地方整備局 | 武雄河川事務所 | 横堤 | 堤防 | その地区より上流側の堤防越水による浸水被害等が、頻繁に生じていたため、下流の民家などへの被害軽減を図るためのもの。 その地区の堤防整備がほぼ完了したため、堤体は撤去され記念碑が建っている。 |
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595 | 六角川 | 牛津川 | 九州地方整備局 | 武雄河川事務所 | 羽佐間水道 | 水路・河道付替 | 17世紀代 | 付近一帯は山が低く浅いので、大森林も大渓谷もなく、雨が降っても水はすぐ枯れて、安定した農業経営が難しかった。 そこで、成富兵庫は、多久藩の農業用水の整備に乗り出した。 その代表的なものが羽佐間水道である。 羽佐間水道は、元和〜寛永年間(1615〜1634年)に開削された。多久市東多久町波佐間から、両子山のふもとを迂回し、同町納所、小城郡牛津町砥川を経て、杵島郡江北町佐留志まで、延長12km、流域620haの水田の水源となっている。 その後、何回も改修され現在は、井手はコンクリート、可動式ゲートに変わっている。 しかし水路は一部石やコンクリートで補強されたが、成富兵庫の造った水路がそのまま使われている。 |
596 | 筑後川 | 筑後川 | 九州地方整備局 | 筑後川河川事務所 | 田中吉政 | その他 | 16世紀代 | 田中吉政は、天文17(1548)年に近江国(現在の滋賀県)に生まれた。三河国(現在の愛知県)の岡崎城主であったが、関ヶ原の戦いで石田三成をとらえた軍功により、筑後国の大名となる。領内の治水、灌漑や新田開発などに力を発揮した。土木・水利の豊富な知識と経験を十分に生かし、有明海沿岸の干拓事業を行った。また、筑後川流域の庄屋・農民に対して筑後川岸にある葦野を開発して耕地を広めることをすすめた。そのため、三潴郡道海島(現大川市)、大野島(現大川市)、浮島(現城島)などが新田化された。 ◇山門郡南端から大川市河口に至る30km近い潮受堤防(本土居)の築造と堤内の干拓。 ◇久留米市瀬の下の筑後川新川開削 ◇芦塚・浮島(城島町)及び道海島(大川市)の干拓 ◇中世城郭の破却と耕地化 ◇本城(柳川)と支城間、その他の道路網の新設(柳川街道) ◇八女・三潴郡用水のための、矢部川から山の井・花宗両支流の分岐 |
597 | 筑後川 | 筑後川 | 九州地方整備局 | 筑後川河川事務所 | 成富兵庫茂安 | その他 | 16世紀代 | 成富兵庫重安は、永禄3(1560)年に肥前国佐賀郡益田に生まれ、佐賀藩主鍋島直茂、勝茂父子二代に仕え、水利治水事業に大きな功績を残している。その中でも「千栗堤防・石井樋・蛤水道」などが代表的な事業。後に佐賀県三養基郡の北茂安村(現在の北茂安町)と南茂安村(現在の三根町)という地名に名を残した。 |
598 | 筑後川 | 筑後川 | 九州地方整備局 | 筑後川河川事務所 | 丹羽頼母 | その他 | 16世紀代 | 丹羽頼母は、尾張国丹羽郡に生まれ、後に久留米藩有馬豊氏に仕えた。慶安元(1684)年、三潴郡中島村に荒籠を築造したのをはじめ、江島村、草場村、下田村にも荒籠を建設した。 筑後川の治水・利水事業に大きく貢献した人物。延宝2(1674)年に老齢のため、50年の仕えをやめたが、在任中終始一貫久留米藩の建築土木の設計と、工事の施工監督に当たり、95歳で没するまで半世紀にわたった業績は、多方面におよんでいる。 |
599 | 筑後川 | 筑後川 | 九州地方整備局 | 筑後川河川事務所 | 田中政義 | その他 | 19世紀代 | 田中政義は、文化12(1815)年に三井郡十郎丸村庄屋に生まれた。床島より河口に至る沿線の測量、水勢の測定、更に水位標を改造し、水位増減の観測を実施した。嘉永5(1852)年に捷水路計画として「草場村より荒瀬村へ、高野村より小森野村へ、安武村より住吉に至る3ヶ所に放水路を設ける」計画調書を作成した。さらに自費を投じて筑後川の1/1.000の模型を作成し、この放水路計画の効果を確かめた。(わが国最初の河川水理模型実験であった)この計画は、明治政府に採択され、明治20(1887)年以降の筑後川改修計画の示唆となり、一貫した治水事業の基礎となった。 |
600 | 筑後川 | 筑後川 | 九州地方整備局 | 筑後川河川事務所 | 草野又六 | その他 | 18世紀代 | 筑後川右岸地区、特に三井郡一帯の土地は川面より高く水田として利用されず、荒地、荒畑のまま放置され、わずかにあった田畑もたびたび干害に襲われ、農民は飢餓に迫られる状態であったため、この貧困の農民を救済しようと生命をなげうって「恵利堰」の築造を行ったのが草野又六と三井郡5庄屋であった。 |
601 | 筑後川 | 筑後川 | 九州地方整備局 | 筑後川河川事務所 | デ・レイケ | その他 | 19世紀代 | デ・レイケは、明治政府によって招かれたオランダ人技術者のうちの1人で、淀川をはじめ木曽川、吉野川など日本各地の河川や計画を指導し、日本政府の顧問技師として活躍した。 筑後川の第一期改修工事(デ・レイケ導流堤)は、明治16(1883)年に筑後川の調査を行ったデ・レイケが、翌年に作成した改修計画の原案をもとに、日本人技術者の手で着工されたと言われている。 |
602 | 筑後川 | 筑後川 | 九州地方整備局 | 筑後川河川事務所 | 千栗堤防 | 堤防 | 17世紀代 | 千栗堤防は、三養基郡北茂安千栗神社と三根町坂口を結ぶ筑後川右岸(約12km)に、洪水から佐賀藩の領地を守るため、成富兵庫茂安が佐賀藩による支配体制のもと築いた堤防である。 千栗堤防は、河岸の汐土居(内土居)と堤内地(外土居)の二重堤防とし、これに囲まれる広大な高水敷により構成される。千栗堤防の効果は絶大であり、佐賀平野下流部の開発に大きく寄与した。築堤以来破堤その他損傷がほとんどなく、昭和初期まではその原形をとどめていた。 流路に沿う堤防強化に伴い、千栗堤防は完成当時の姿を消していった。現在は、公園として、堤防の一部が復元されている。 |
603 | 筑後川 | 筑後川 | 九州地方整備局 | 筑後川河川事務所 | 安武堤防 | 堤防 | 17世紀代 | 安武堤防は、久留米市安武町(本川左岸)に、久留米藩領地の洪水防御のために築堤されたものである。 かすみ堤による不連続堤とすることで、支川流入と上流からの氾濫を戻したり、遊水地的な効果を持たせた。 現在では、筑後川左支川金丸川(筑後大堰上流)に安武堤防の一部が残っている。 |
604 | 筑後川 | 筑後川 | 九州地方整備局 | 筑後川河川事務所 | 水刎(百間刎・千間刎) | 水制・護岸 | 17世紀代 | 水刎は、筑後川中流部、特に恵利堰上流の両岸等に設置された。水刎は河岸から水流に対し下流向きに(場合により直角に)築造され、水衝部を相手側に刎ね出すことで、自藩側の河岸の防護、あるいは流路の安定や水深の維持を有利にすることを目的とした。 現在では、恵利堰(三井郡大刀洗町)付近から上流の朝倉郡杷木町付近で、昔のままの姿が今も見られる。 |
605 | 筑後川 | 筑後川・早津江川・諸富川 | 九州地方整備局 | 筑後川河川事務所 | 荒籠(あらこ) | 水制・護岸 | 17世紀代 | 荒籠は、筑後川中・下流部や早津江川において、河岸のほか、舟運のための川幅や水深の確保、干潟の造成、河岸への昇降等、多くの目的で設置された。その他に分派量の制御、用水路への流入土砂防止などの目的で用いられるものもある。 水流に向かって直角、もしくは下流に向け土石を突き出すことにより、急流をやわらげることで、河岸保護の役割を果たし、堤防を守った。また、川の流れに変化を与えて河岸の浸食を防いだ。荒籠は設置した側を浸食する一方、対岸の陸地を削る作用があるため、川を挟んで向かい合った藩ではしばしば荒籠を巡って争いが起こった。 現在では、明治時代の河川工事で多くの荒籠が取り除かれたり、一部改修され短くなっているが、筑後川河口付近から筑後大堰付近、または早津江川や諸富川では現在も荒籠を見ることができる。 |
606 | 筑後川 | 筑後川 | 九州地方整備局 | 筑後川河川事務所 | デ・レイケ導流堤 | 堤防 | 19世紀代 | デ・レイケ導流堤は、筑後川本川河口から早津江分派までの約6kmに位置し、筑後川本川河口から早津江分派地点まで川のほぼ中央に石組みの導流堤が断続的に設置されている。明治時代の重要な輸送手段であった船の航路確保を目的として設けられた堤防である。 流路を固定することにより、本川左岸側に土砂が溜まるのを防ぎ、航路(船の通るみちすじ)を保つ。なお、完成から100年以上経った現在でも、航路確保の役割を果たしている。 |
607 | 筑後川 | 筑後川 | 九州地方整備局 | 筑後川河川事務所 | 渡し | 舟運 | 16世紀代 | 筑後川は、肥前国・筑前国、筑後国との国境線であり、軍事境界線として国防上の問題により架橋できなかったため、両藩の人々は生活上の必要性や神社仏閣への参詣などのため川を渡る必要があった。 渡しは、生活上の重要な輸送手段として、古川・神代・宮ノ陣・大石(豆津)などの旧藩内三大渡しを始め、多くの渡しが行われていた。最盛期には62カ所もの渡し場があったが、各地で橋が架けられるようになり、平成6(1994)年に下田の渡しを最後にすべてが役目を終えた。 |
608 | 筑後川 | 筑後川 | 九州地方整備局 | 筑後川河川事務所 | 昇開橋 | 橋 | 20世紀代 | 昇開橋は、大川市向島と佐賀郡諸富町の間に架けられている、全長506mの東洋一の昇降式可動橋である。昭和10(1935)年に開通。 設置当時、筑後川下流は舟運が盛んであったため、鉄道橋を造るにあたっては、船舶の通行を可能にする必要があったことから、橋中央部を昇開式にした。昭和62(1987)年の旧国鉄(現在JR)佐賀線廃止とともに使われなくなった。 現在は昇降式の遊歩道「タワーブリッジ」として再整備され、1日に8回降りて和やかな散歩道となるほか夜にはライトアップも施され、大川市のシンボルとなっており、可動橋保存会も結成させている。 |
609 | 筑後川 | 筑後川 | 九州地方整備局 | 筑後川河川事務所 | 水天宮 | 祭り・信仰 | 17世紀代 | 水天宮は、久留米市瀬ノ下に位置し、平家滅亡後、建礼門院に仕えていた按察使局伊勢が、千歳川(筑後川の別名)辺りの鷺野ヶ原に逃れ、安徳天皇ほか、三神を祀ったのが始まりとされている。現在の社殿は、慶安3(1650)年に二代目藩主有馬忠頼がこの地に社地を寄進して宮を移したものである。 全国水天宮の総本山として知られており、海運守護、または、安産の神として有名である。 |
610 | 筑後川 | 筑後川 | 九州地方整備局 | 筑後川河川事務所 | 水屋・揚げ舟(吊り舟) | 水防 | 「水屋」:洪水常襲地帯の民家は、土地の高低と浸水度合いを考えて屋敷内の土地を盛り上げて周囲に石垣を張り巡らしている。 普段は倉庫として利用されるが、洪水の時は家人や近所の人々の避難所になった。当時、相当の富農や地主の所有物であり、筑後川沿川の旧家に見られる。 「揚げ舟」:藩政時代、洪水時の人馬避難・物資の輸送・連絡等のために小舟が利用された。普段の保管方法として納屋・倉庫の軒下や母屋の土間・天井などに船底を上にして吊したことから吊り舟と呼ばれている。一般にほとんど見かけなくなったが、まだ若干見られる。 |
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611 | 筑後川 | 筑後川 | 九州地方整備局 | 筑後川河川事務所 | 朝倉三連水車 | その他 | 19世紀代 | 寛文4(1664)年に山田堰と同時期に堀川(用水)を掘り水車を設置したと言われている。筑後川の山田堰より取水した山田用水を三連水車と二連水車2台の計3台で35ヘクタールの水田用水をまかなっている。現在でも稼働している。 |
612 | 筑後川 | 筑後川 | 九州地方整備局 | 筑後川河川事務所 | 筑後川四大取水堰 | 堰・ダム | 17世紀代 | 広大な筑後平野の農業用水をまかなうために藩政時代に築造されたものである。 恵利堰:三井郡大刀洗町床島に位置しており、正徳2(1712)年に草野又六と三井郡五庄屋により築造された。 恵利堰・床島堰・佐田堰の完成により1,428haが灌漑可能となった。 山田堰:朝倉郡朝倉町恵蘇宿恵蘇に位置しており、寛文2(1790)年に古賀百工により築造された。 山田堰・堀川用水完成により150haが灌漑可能となった。 大石堰:浮羽郡浮羽町桜井に位置しており、延宝2(1674)年に五庄屋により築造された。 浮羽町の一部、吉井町・田主丸町の大部分及び久留米市の一部(延長13.3km)が灌漑可能となった。 袋野堰:浮羽郡浮羽町(夜明ダム上流)に位置しており、延宝4(1676)年に田代重栄により築造された。 「獺の瀬」から約2,100mの溝渠を隧道を掘って通水し、田栄神社から開渠し、国道沿いに筑後川から平行して流下し各地域に配水し、465haの水田に灌漑することに成功した。 現在は、夜明ダムによる貯水のため、水位は高くなり、袋野堰は水没した。 |
613 | 筑後川 | 筑後川 | 九州地方整備局 | 筑後川河川事務所 | 筏流し | 舟運 | 18世紀代 | 陸上交通の不便な時代に水運は最も身近な交通機関であった。このため、舟運は、水上交通及び大規模な物資運搬を目的とした交通手段として利用されていた。 筏流しは、江戸時代から明治、大正にかけて、日田の木材を筏に組んで、木工の町現在の大川市や久留米市等に運んでいた。さらに大正時代には製材したものを舟で運搬していた。これにより、木材の集積地であった大川市で木工業が発達した。昭和29(1954)年に完成した夜明ダムにより、陸上交通に切り換えられた。 |
614 | 筑後川 | 城原川 | 九州地方整備局 | 筑後川河川事務所 | 草堰 | 堰・ダム | 草堰は、棒杭に柳川、竹や芝、雑草などの粗朶や藁などを絡ませた堰であり、平水時にはマサ土がたまりにくく、洪水時には簡単に壊れる構造となっている。城原川では、水不足を補うために、厳格な水配分の秩序と分水施設に対する細かい工夫や取り決めがなされていた。 | |
615 | 筑後川 | 城原川 | 九州地方整備局 | 筑後川河川事務所 | 野越 | 堤防 | 野越しは、城原川等に設置されており、堤防の一部を故意に低くすることにより、洪水がある危険な高さに達するとその一部を堤内地の遊水地(水田や耕地等)に自然に溢れさせ、下流市街地等を堤防決壊による壊滅的な氾濫被害などから守る目的でつくられた。 | |
616 | 筑後川 | 宝満川・安良川・巨瀬川、佐田川 | 九州地方整備局 | 筑後川河川事務所 | 二線堤・霞堤 | 堤防 | 霞堤は、三井郡北野町、大刀洗町他に設置されており、下流市街部を守るため、1つの堤防が破堤しても下流に被害が広がらないように、幾重にも平行した堤防がつくられた。 | |
617 | 筑後川 | 花月川、小田川 | 九州地方整備局 | 筑後川河川事務所 | 小鹿田焼 | その他 | 18世紀代 | 宝永2(1705)年に現在の福岡県小石原村の陶工柳瀬三右衛門が伝えた技術。 筑後川の支川大浦川から引いた筧で唐臼(舟形の水車)をつき、粘土を作り、蹴ロクロを回し、民芸風の皿や壷を焼く。 現在でも当時のまま十軒の陶器職人が営んでいる。 |
618 | 筑後川 | 筑後川流域 | 九州地方整備局 | 筑後川河川事務所 | カッパ伝説 | 祭り・信仰 | 九州一の大河川である筑後川は、一夜にして川底の流れが変わることから一夜川の異名を持っている。大洪水に苦しめられてきた人々はこれを神業、神の祟と考え、そこで神に対する深い信仰が生まれ水神信仰となった。その後、世の中が次第に複雑化するにつれて水神の信仰も分割化し、河童の信仰も生まれ育ったものと思われる。 河童は水神の化身といわれる伝承の生き物である。水田農耕地帯では水の神は田の神であり、田の神は秋の彼岸から春の彼岸まで山に上って山神になると信じられているが、豊後・筑後地方ではカッパと同様に季節によって山と川とに生息していると伝えられている。 |
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619 | 筑後川 | 派川・早津川 | 九州地方整備局 | 筑後川河川事務所 | 佐賀藩三重津海軍所 | その他 | 19世紀代 | 佐賀藩三重津海軍所は、佐賀郡川副町早津江に位置し、安政5(1858)年に藩主直正が船手稽古所を開設したのが始まりとされている。 日本海軍発祥の地であり、文久元(1861)年に日本赤十字社の初代社長となった佐野常民が監督となって、海軍所が創設された。慶応元(1865)年には、日本初の国産蒸気船も建造された。しかし、多くの海軍兵士を養成した佐賀藩海軍所も、廃藩とともに閉鎖された。 現在は、水辺プラザ事業として、筑後川河川事務所、川副町、諸富町の連携事業で高潮堤の整備等を実施した。 |
620 | 筑後川 | 筑後川、支川 花宗川 | 九州地方整備局 | 筑後川河川事務所 | アオ取水 | その他 | 18世紀代 | 筑後川は有明海の約6mにも及ぶ干満の影響を受け、満潮時には海水が川を遡る。このとき、河川の水(淡水)は表層に押し上げられる。この自然現象を利用してかんがい用水の水を取水するのがアオ取水である。藩政時代、干拓によって耕地面積が増えたため、クリークの水だけでは足りなくなったために、行われるようになったといわれている。 |
621 | 筑後川 | 田手川 | 九州地方整備局 | 筑後川河川事務所 | 蛤水道 | 水路・河道付替 | 17世紀代 | 蛤水道は、神埼郡脊振村境の蛤岳に位置し、元和12(1626)年に設置された。鍋島直茂の家臣成富兵庫茂安が、筑前那珂川の上流の水を引き入れて溜池を作り、その水を南方の石動川に流して、下流部の灌漑用水とするために開削した。これにより、神埼郡神埼町では、大依・神納・荒堅目・蔵戸方面一帯にかけて田手川の恩恵を受けることが可能となった。 |
622 | 本明川 | 半造川 | 九州地方整備局 | 長崎河川国道事務所 | 半造底井樋廻水(逆サイフォン) | 水路・河道付替 | 18世紀代 | 諫早市街の東に広がる諫早平野は、そのほとんどが干拓地である。干拓は鎌倉時代の終わり頃から始められたといわれている。干拓地が広がるに連れて用水の問題が起こるようになった。小野地区の水不足解消のため、文化10(1813)年に半造川に設置された。この用水は諫早藩士・青木弥惣右衛門が企画研究し、実現した水利事業である。「底井樋廻水」は半造川に樋管を埋め込み、輪内井原を灌漑した後のあまり水を逆サイフォン方式により小野地区に送り込むものである。 底井樋は2ヶ所に設置されているが、約190年が過ぎた今なお、諫早平野の水田を潤し、地域の農業を支えている。 また、半造川の河川改修による引堤に伴い、サイフォンの継ぎ足しを行った。 |
623 | 本明川 | 富川 | 九州地方整備局 | 長崎河川国道事務所 | 五百羅漢 | 祭り・信仰 | 16世紀代 | 本明川は、多くの洪水に見舞われ、元禄12(1699)年に起きた大洪水では、死者487名の被害を出した。さらに、翌13年には日照りが続き、田畑の作物がほとんど穫れず、相次ぐ天災に人々の生活はますます苦しくなった。 2年も続く災害は「龍神様が怒っているのではないか」という噂を叫び、領主諫早茂晴は深く心を痛め、今後の天災を鎮めるため本明川の源である富川にこもって龍神を祭り、厄払いの祈願と亡くなった487名の冥福を祈ると共に、この渓谷の岸壁に五百羅漢を刻ませた。2年にもおよび工事で如来像3体、羅観像500体、合計503体を数え、刻まれた面積は約300坪にもおよび、その画像の美しさと、石工の技のすばらしさには目を見張るものがある。 現在は、昭和52(1977)年に県史跡文化財に指定された。また、昭和32(1957)年の諫早大水害を偲び、毎年7月25日に五百羅漢のもとで慰霊祭が行われている。 |
624 | 菊池川 | 菊池川 | 九州地方整備局 | 菊池川河川事務所 | 白石堰 | 堰・ダム | 16世紀代 | 加藤清正の河川事業との説。 文政3(1820)年に総庄屋の小森田七右衛門は、加藤公の工法を用いて堰を築造した。この工法は八代郡球磨川筋遙拝瀬の八の字堰と同様で、河中に八之字島を築き、その中間の欠所としてS字形曲斜面の水落しを船通りとして利用する様になっている。また島の両端に水流しを設けて、水量の多い時はこの口を開く事になっている。この堰が未だ一度も缺損したことがなく、小田梅林地区300歩の水田を養っている。 |
625 | 菊池川 | 菊池川 | 九州地方整備局 | 菊池川河川事務所 | 久津輪塘 | 堤防 | 16世紀代 | 加藤清正の河川事業。 本来の堤防の外側に半円形の遊水池を設け、洪水であふれた水をここで制御したもの。 |
626 | 菊池川 | 菊池川水 | 九州地方整備局 | 菊池川河川事務所 | 石刎 | 水制・護岸 | 16世紀代 | 加藤清正の河川事業 川が大きく曲がっている箇所で外側の川岸に水が激しくあたって岸や堤防が削られるのを防ぐために築造された。現在も玉名市の各所で残存している。 |
627 | 菊池川 | 菊池川 | 九州地方整備局 | 菊池川河川事務所 | 俵ころがし | 舟運 | 16世紀代 | 旧高瀬港では、川舟による交流があり、有名な菊池米の集産地としてまた、対外貿易の拠点として栄えました。 舟に米を積み込む場所で、俵を転がす石積みの坂路が残っている。(玉名市文化財にも指定) 現在、その名残が「俵ころがし」と呼ばれる、石畳の坂道の船着場跡が残っている。 |
628 | 菊池川 | 旧菊池川(現唐人川) | 九州地方整備局 | 菊池川河川事務所 | 石塘 | 堤防 | 16世紀代 | 加藤清正の河川事業 石塊を積み上げたものであり、石と石の隙間は当然水が流れている。しかし、有明海が満潮の時には、あがってくる海水と上流から流れてくる川の水が石塘のところで滞留し、待ち合いの状態になり、海水が石塘より上流には流入しない仕組みになっている。 |
629 | 白川 | 白川 | 九州地方整備局 | 立野ダム工事事務所 | タケイワタツノミコトの蹴裂伝説 | 祭り・信仰 | 阿蘇地方を拓いた神、健磐龍命の蹴裂伝説が阿蘇地方に語られている。その内容としては、昔阿蘇の外輪山に囲まれた大きな湖があり、その地に村や田畑を拓くことを考えた健磐龍命は、現在の外輪山唯一の切れ目である立野火口瀬を蹴破って、阿蘇地方を拓いたという伝説。 この立野火口瀬は、現在も熊本市側から阿蘇地方に入っていく観光ルートとして賑わっている。 |
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630 | 白川 | 白川 | 九州地方整備局 | 熊本河川国道事務所 | 鼻ぐり井手 | 水路・河道付替 | 17世紀代 | 「鼻ぐり」とは牛を引っ張るために鼻穴を通している輪のことで、穴を穿って水流を結ぶやり方が丁度これと似ていることから付けられたと思われる。 この工法は固い岩盤を利用してそれを橋桁と側壁状にし、その下を井手筋の幅より小さく掘ってそこに水を溜め、側壁の下に小さな穴を穿って、その穴から水を流すというものである。形としては小さなプールが連なって並んでいるようなものである。 水を通す穴の位置を左右交互に開けたことで、一つの穴から入った水は必ず壁にぶつかって渦を巻き、ヨナはその渦に巻き込まれて常にきりきりと舞った形で撹拌されて押し流されていく。つまり、ヨナを推積させることがなく、全体的に水をスムーズにし、半永久的に井手を浚えなくてもよい工法となっている。 |
631 | 白川 | 白川 | 九州地方整備局 | 熊本河川国道事務所 | 瀬田堰 | 堰・ダム | 16世紀代 | 大津町瀬田に流れる白川は、川の流れをさえぎるかのように大きな兜岩とよばれる巨石が川の中央にあり、阿蘇大明神が蹴飛ばしたと言われている。加藤清正はそんな岩をいかして石造取水堰を築き、約270町の田畑が潤ったといわれている。 |
632 | 白川 | 白川 | 九州地方整備局 | 熊本河川国道事務所 | 石塘堰 | 堰・ダム | 16世紀代 | 白川に注いでいた坪井川の石造の背割堰によって分流し、船運のため坪井川と井芹川と合わせ水勢を増した。左端に水量調節の排水樋門、尚中島を隔てて五双の樋門を設けた。 |
633 | 白川 | 白川 | 九州地方整備局 | 熊本河川国道事務所 | 渡鹿堰 | 堰・ダム | 17世紀代 | 白川は熊本市街部に入ると、渡鹿地点で大きく湾曲する。ひとたび洪水ともなればここから水流が一気に熊本城下を襲いかねない。そこで加藤清正は大きな石造堰を築いて治水を図るとともに、平時は水をためて灌漑用水とすることとした。 工事の時期は慶長11〜13(1606〜1608)年と思われる。清正創設時の灌漑面積は約1,083町にも及んだといわれ、白川水系最大規模の灌漑用水施設となった。 現在のコンクリート堰は昭和28(1953)年の大水害後に改修された物であるが、取水口から大井手に導いて順次、一の井手、二の井手、三の井手と分水する方式は清正以来である。 |
634 | 緑川 | 緑川 | 九州地方整備局 | 熊本河川国道事務所 | 霊台橋 | 橋 | 19世紀代 | 霊台橋は別名「船津橋」ともいい、弘化3(1846)年に緑川の本流に架けられた本邦随一の雄大な石橋である。 ここは上益城郡と下益城郡を結ぶ唯一の重要な道路で、最近まで営林省が伐り出す木材を満載した大型トラックやバスが頻繁に通過していた。数年前すぐ上流に最新の鉄橋が架けられたのでトラック等は通らなくなり、石橋は安全に守られたのである。 この付近は阿蘇山麓の船津峡という大渓谷で、緑川の谷は深く、人々の通行はなかなか困難なところであった。物資の運搬や材木の伐り出しはすべて川を利用する以外なかった。 |
635 | 緑川 | 緑川 | 九州地方整備局 | 熊本河川国道事務所 | 大名塘 | 堤防 | 清正入国のころの御船川は現在の嘉島村六嘉の東方を廻って木山川とともに江津湖の末流鳥貝、渡付近で加勢川に合流していたようである。それでは新設の加勢川堤防に負担がかかりすぎると考えたためか、清正は御船川の河道を掘り替えて、西方嘉島村上島の南端に導き犬塚山の西北麓で緑川の本川に合流させ、八龍塘によって嘉島村六嘉地区および赤井川、木山川江津地区(熊本城下町)の氾濫を緩和させた。 このようにして御船川と緑川の合流点は替えられたが、この合流による大氾濫を防ぐため八龍塘、大名塘以下の大堤防および城南町杉上一帯の轡塘等の大規模な霞堤を築き、さらに川尻付近において加勢川を合わせて有明海に注がせた。 当時の肥後国では霞堤の技術はなかったわけで、清正によってもたらされたのである。 ところで、霞堤をなぜ轡塘と称したかということであるが、馬につける轡のように一部が切れて輪になっていることから称するようになった。 |
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636 | 緑川 | 緑川 | 九州地方整備局 | 熊本河川国道事務所 | 嘉永新川 | 水路・河道付替 | 19世紀代 | 清正は第一湾曲部の杉島から緑川を直流させるため新川を掘削し、それを富合町小岩瀬で再び緑川に合流させることにした。これが杉島新川、あるいは杉島堀川どんと呼ばれるもので、いわば緑川の放水路の役割をなした。 丘陵地の開発による流出量の増加、緑川下流地域への資産の増加が重なった上に、異常気象が追い打ちをかけたかは定かではないが、天明以後には特に毎年のように洪水による被害、干ばつによる不作が発生している。 このような状況の中で、嘉永3(1850)年には大きく蛇行して洪水時の流下能力を防いでいた河道を流下能力の改善のため、大がかりなショートカット工事が行われた。 |
637 | 緑川 | 緑川 | 九州地方整備局 | 熊本河川国道事務所 | 雄亀滝橋 | 橋 | 19世紀代 | この橋は、三五郎が架けた橋の中で最初の水路橋で、砥用の石橋でも最も古く通潤橋の設計の直接手本となった橋である。 砥用の庶民の生活と密着しその生活を支えたという点では橋そのものの規模は小さいものの、最重要な土木施設である。 水路(石樋)も三五郎の手によるもので、約230haの田畑を潤している。 |
638 | 緑川 | 緑川 | 九州地方整備局 | 熊本河川国道事務所 | 鵜の瀬堰 | 堰・ダム | 17世紀代 | 緑川は鵜の瀬堰のある地点から北に方向を曲げ、甲佐岳の山麓部を縫って、御船町万ヶ瀬地点で南側を流れる釈迦院川と合流していた。つまり、当時の甲佐一帯は緑川と釈迦院川が約3kmの距離を隔てて流れる形をとっていたため、この二つの川に挟まれ、常時洪水に悩まされていたのである。 加藤清正は、両川を一本にまとめ、それまで万ヶ瀬で落ち合っていた合流地点をはるか上流に持っていくことであった。そのために、緑川を掘り替えて釈迦院川につなぐとともに新しい合流地点の上流に大堰、すなわち鵜の瀬堰を設けて、従来の緑川の流路をふさぎ、併せて周辺農村の灌漑用水としたのである。 鵜の瀬堰からは、甲佐井手と呼ばれる大井手が引かれた。それは今も甲佐町の中心を蕩々と流れ、約20.5kmの流れは灌漑のみならず町民の生活用水としても利用されている。また観光名所になっている鮎の梁場は大井手の取水口付近に設けられた沈砂地で緑川から流れ込む土砂を沈めて下流の堆積を防いだ。鵜の瀬堰によって開かれた水田は400町に及んだといわれる。 |
639 | 緑川 | 緑川 | 九州地方整備局 | 熊本河川国道事務所 | 桑鶴のくつわ塘 | 堤防 | 17世紀代 | 加藤清正が最も多用した洪水軽減工法に轡塘がある。河川の合流点や水あたりの激しい部分に造られた遊水装置で、護岸の塘である本塘とは別に、川の中央に枝塘を造り、通常はここに水を流す。しかし、いったん洪水の場合はこの枝塘・本塘間の広い地帯を遊水地にして被害の拡大を防ぐというものである。 桑鶴塘は、緑川と御船川が合流する地点の左岸一帯に設けられた。遊水池の範囲は城南町築地から坂本・千原・永・丹生宮に至る広大なものである。 こうした塘に囲まれた遊水地は洪水防止の他に、もう一つ利点があった。それは、出水のたびに上流から肥沃な土が運ばれてくることである。よって平時は生産力の高い田畑として利用されている。 |
640 | 緑川 | 加勢川 | 九州地方整備局 | 熊本河川国道事務所 | 清正堤(江津塘) | 堤防 | 17世紀代 | 緑川の支流である加勢川は矢形川、木山川、沼山津川、江津湖などの水が落ち合うところで、さらに清正以前は現在の流路と違って御船川までも合流しており、常に出水、氾濫を繰り返す沼地のようなありさまであったという。嘉島町の鯰という地名は大昔、阿蘇湖の大鯰が流れ着いた伝説に由来するといわれているが、当時それほどの湿地帯であったことを指している。また、加勢川一帯は有明海からの海水も入り込んでおり耕地化は困難であった。 そこで、清正は有明海からの海水と加勢川からの流水の侵入を防ぐため、江津湖から川尻の野田に至る加勢川右岸沿いに長い堤防を築いた。これが江津塘とも呼ばれる清正堤である。 |
641 | 球磨川 | 球磨川 | 九州地方整備局 | 八代河川国道事務所 | 萩原堤防 | 堤防 | 17世紀代 | 八代城主加藤右馬允正方は、元和5(1619)年から2年半を費やして八代城を築城したが、それと時期を同じくして築造したものと伝えられ、遥拝堰の取付部、古麓町の山際よりから城北の松浜軒にいたる延長6,190m大土堤であった。堤防に松を植えさせたので松塘とも呼ばれ、八代城下を洪水から防御するために築かれたものである。 このうち水衝部にあたる現在の新萩原橋付近から上流は、特に萩原堤と呼ばれ、7ヶ所の強固な不透過水制「はね」を備えた半環状の大塘である。巧妙な水はね水制は、それぞれ堤脚取付部の角度を少しずつ変え、洪水時の激流をいずれも流心部へ跳ね返すよう工夫されている、石張りの強固なものである。 萩原堤は、宝暦5(1755)年の大洪水で10町余(約1km)にわたり破堤したが、八代郡目付の稲津弥右衛門が陣頭指揮をとり復旧し、天端幅約13m、基礎幅約45m、水面からの高さ約9mの堤防とした。人々は「あのや稲津様は仏か神か死ぬる命を助けたも」と歌い、弥右衛門の功績をたたえた。 現在は、直轄河川改修により裏腹付け、川表護岸が施工され、八代市を守る堤防として重要な役割を果たしている。 |
642 | 球磨川 | 球磨川 | 九州地方整備局 | 八代河川国道事務所 | 旧前川堰 | 堰・ダム | 17世紀代 | 八代城下を洪水から防護するために、派川前川の分派口に設けられた分流規制堤であるが同時に、灌漑取水堰の効用を兼ね、慶長年間に加藤清正の命により築造されたと伝えられる。石灰石系の白石で築いた長さ218mの固定堰。 昭和42(1967)年に新前川堰が完成し、現在は親水の場として市民に親しまれている。 |
643 | 球磨川 | 球磨川 | 九州地方整備局 | 八代河川国道事務所 | 遙拝堰 | 堰・ダム | 17世紀代 | 球磨川が山間部から八代平野に抜ける地点には、元徳2(1330)年頃につくられた「杭瀬」と呼ばれる木の杭を川の中に並べて打ち込んだ農業用取水堰があった。 加藤清正はこれを石堰に改良し、当時、当地区で三川に分かれていた球磨川を締め切りによって現在の一筋にまとめたもので、大型の割石や自然石を用いて強固なものにするとともに、船や筏などの水運を考慮し中央が開けた八の字形にされていた。 遙拝とは遠い場所から神仏を拝むことをいい、南北朝時代、懐良親王(後醍醐天皇の第16皇子で征西大将軍に任命された)が高田の御所に在居のおりに参拝され、国家安泰を祈った「豊芦原神社(通称、遙拝神社)」が近くにあったことから遙拝堰と呼ばれるようになった。 昭和43(1968)年に全面改築され、コンクリートの堰となり現在に至っている。 |
644 | 球磨川 | 球磨川 | 九州地方整備局 | 八代河川国道事務所 | 人吉城 | その他 | 16世紀以前 | 元久2(1205)年頃、相良瀬景の長男、長瀬により改築された。 球磨川本川および支川胸川を自然の堀として利用しており、球磨川の治水構造物としては古いものである。 現在の城跡は平成5(1993)年に復元されたものである。 |
645 | 球磨川 | 球磨川 | 九州地方整備局 | 八代河川国道事務所 | 百太郎堰(溝) | 堰・ダム | 18世紀代 | 灌漑用水路および取水堰の建設であり、施工は5期にわたり行われたようであるが、その着手及び完成の時期は定かではなく、取水樋門の構造から推測して、鎌倉時代に着手されたのではないかとの説もある。記録としては、第2期工事は延宝8(1680)年、第5期工事は寛保元(1740)年に着手されたとなっている。 第2期以降の工事はいずれも藩命によるものではなく、藩の援助はいっさい受けずに農民達の力だけでなされたものである。 水路延長19km、受益面積1,500haであり、村人一丸となり水路開削に苦労した話や人柱伝説等がある。 当時の取水樋門は記念碑として百太郎公園に移設されている。現在の堰は、昭和35(1960)年3月に完成したものである。 |
646 | 球磨川 | 球磨川 | 九州地方整備局 | 八代河川国道事務所 | 幸野堰(溝) | 堰・ダム | 18世紀代 | 元禄10(1697)年〜宝永2(1705)年。 約8年の歳月をかけ、暗渠3ヶ所を含む延長24kmが完成。百太郎溝とともに球磨盆地の主要な灌漑取水施設で、江戸時代中期の耕地開発、農政振興の先駆けとしてつくられた。工事の指揮にあたったのは相良藩士、高橋七郎兵衛政重である。 取水口を市房第二ダム(幸野堰)に移し、現在も使用されている。 |
647 | 球磨川 | 球磨川 | 九州地方整備局 | 八代河川国道事務所 | 木上溝 | 水路・河道付替 | 18世紀代 | 宝暦9(1759)年。 延長8kmで球磨盆地の北部(右岸)を潤す重要な水路である。 あさぎり町(旧:深田村)下里付近、錦町平川付近でそれぞれ500mにおよぶ隊道を貫き、結ばれている。 開削の指揮を誰がとったのか。どれだけの人がどれだけの日数を要したのか等の記録は何も残されていない。 石坂堰から取水され、現在も使用されている。 |
648 | 球磨川 | 球磨川 | 九州地方整備局 | 八代河川国道事務所 | 第一球磨川橋梁 | 橋 | 20世紀代 | 明治41(1908)年に架橋。 坂本村を流れる球磨川に架かるJR肥薩線の鉄道橋梁。 5径間のうち2径間が米国から輸入したトランケート型のピントラスで、全国的にも極めて少ない。 橋長は205.3m。切石積が美しい石造橋脚を有する。 |
649 | 球磨川 | 球磨川 | 九州地方整備局 | 八代河川国道事務所 | 第二球磨川橋梁 | 橋 | 20世紀代 | 明治41(1908)年に架橋。 球磨村を流れる球磨川に架かるJR肥薩線の鉄道橋梁。 4径間のうち2径間が米国から輸入したトランケート型のピントラスで、全国的にも極めて少ない。 橋長は179.7m。切石積が美しい石造橋脚を有する。 |
650 | 球磨川 | 球磨川 | 九州地方整備局 | 八代河川国道事務所 | 水島 | その他 | 15世紀代 | 水島は球磨川河口左岸に位置する高さ約11m、東西50m、南北30mほどの石灰岩からなる小島である。 『日本書記』によると熊襲(くまそ)征伐に訪れた景行(けいこう)天皇がここで食事をとられた時、水を求められた。 しかし、島には水がなかったため、天神地祗(てんしんちぎ)に祈ったところ、崖のほとりから湧水が湧き出したと言われている。 この伝説が水島の名前の由来となっている。 その後、持統天皇の時代(686〜697年)に筑紫(現在の太宰府)に派遣された長田王が水島について詠んだ歌が『万葉集』に2首おさめられている。 「葦北の野坂の浦ゆ船出して水島へ行かむ浪立つなゆめ」「聞きし如まこと貴く奇しくも神さび居るかこれの水島」 歌の大意は次のとおりである。 「芦北の野坂の浦から船を出して、景行天皇が行かれた水島へ自分も行きたいと思う。だから波よ荒れないでおくれ」 「人から聞いたように尊く不思議にも神々しく見えるこの水島は。」 かつて島の東と南の2カ所から清水が湧いていましたが、現在では見られなくなった。 |
651 | 球磨川 | 川辺川 | 九州地方整備局 | 八代河川国道事務所 | 築切取水口 | 堰・ダム | 20世紀代 | 昭和2(1927)年。 チッソ樺|の川発電所の堰堤。 コンクリート溢流堰で排砂門が切石積で美しい造り。 小規模な修復があり、一部コンクリートで覆われている。 |
652 | 球磨川 | 川辺川 | 九州地方整備局 | 八代河川国道事務所 | 野々脇取水口 | 堰・ダム | 20世紀代 | 昭和10(1935)年。 チッソ鰍フ川辺川第二発電所の堰堤。 コンクリート溢流堰で小規模な修復がある。 コンクリートの表面がかなり削れているが、堅牢で現在も使用している。川辺川ダム完成後は水没する。 |
653 | 球磨川 | 川辺川 | 九州地方整備局 | 八代河川国道事務所 | 川辺川第一発電所取水ダム (板木堰堤) | 堰・ダム | 20世紀代 | 昭和12(1937)年。 九州電力鰍フ川辺川第一発電所の堰堤。 コンクリート重力式ダムで、高さ(川辺川11.50m、板木0.72m)テンターゲート、5本のゲートピア。 建設当時の姿を保っている。 川辺川ダム完成後は水没する。 |
654 | 球磨川 | 川辺川 | 九州地方整備局 | 八代河川国道事務所 | 神屋敷取水口 | 堰・ダム | 20世紀代 | 昭和3(1928)年。 チッソ鞄ェ地発電所の堰堤。 コンクリート溢流堰で小規模な修復がある。 チッソの発電堰堤として使用しているが、川辺川ダム完成後は水没する。 |
655 | 球磨川 | 中谷川 | 九州地方整備局 | 八代河川国道事務所 | 小崎眼鏡橋 | 橋 | 17世紀代 | 寛永2(1625)年に架橋。 球磨川支川中谷川にかかる単一アーチ橋。 石工、恵八の手による。 長さ9.0m、径間7.0m。 坂本村指定文化財として現地にある。 |
656 | 球磨川 | 中谷川 | 九州地方整備局 | 八代河川国道事務所 | 禊橋 | 橋 | 20世紀代 | 大正10(1921)年に架橋。 人吉市の青井阿蘇神社の参道(蓮池)にかけられた三連式アーチ橋で石工不明。 長さ26.7m、幅3.8m。 |
657 | 球磨川 | 馬氷川 | 九州地方整備局 | 八代河川国道事務所 | 石水寺門前眼鏡橋 | 橋 | 19世紀代 | 嘉永7(1854)年に架橋。 急流球磨川は本流に一つも眼鏡橋がかかっていない。 支流にかかるいくつかの眼鏡橋のうち最も古い。石工、太次郎の手による。 長さ19.5m、幅2.7m、高さ7.1m、径間12.0m。 人吉市指定文化財として現存。 |
658 | 球磨川 | 銅山川 | 九州地方整備局 | 八代河川国道事務所 | 大正橋 | 橋 | 20世紀代 | 大正2(1913)年に架橋。 石工、石本豊吉の手による。長さ21.0m、幅4.2m、高さ5.3m、径間6.6m。 あさぎり町(旧:深田村)指定文化財として現存。 |
659 | 球磨川 | 山田川 | 九州地方整備局 | 八代河川国道事務所 | 森下橋 | 橋 | 20世紀代 | 昭和16(1941)年に架橋。 石工、不明。長さ7.0m、幅4.3m。 山江村指定文化財として現存。 |
660 | 球磨川 | 都川 | 九州地方整備局 | 八代河川国道事務所 | 下町橋 | 橋 | 20世紀代 | 明治39(1906)年に架橋。 石工、不明。長さ17.0m、幅3.4m、径間11.0m。 湯前町指定文化財として現存。 |
661 | 球磨川 | 前川 | 九州地方整備局 | 八代河川国道事務所 | 河童渡来の碑 | 碑 | 15世紀代 | 八代市の中心部を流れる前川の徳淵(とくぶち)という所に、河童が住んでいたという伝説が残っている。 この徳淵にいた河童の祖先は、中国から海を渡りやってきた河童たちで、仁徳天皇の頃(313〜399年)、九千匹の河童が揚子江を下り、黄海を経て、八代に上陸したと言われている。そして、彼らの長は、九千匹の河童を引き連れていたことから「九千坊」と名乗っていたそうである。 河童伝説は日本各地に残っているが、日本で最初に河童が上陸した場所はこの「徳淵」であると言われている。 |
662 | 球磨川 | 前川 | 九州地方整備局 | 八代河川国道事務所 | オレオレデーライタ祭り | 祭り・信仰 | 15世紀代 | 「オレオレデーライタ」とは、「呉(中国)の国からよくいらっしゃった」という意味。中国より九千坊を大将とする河童の大群が渡来したと言われ「河童渡来の碑」の建つ前川右岸河川敷で、子供の水難防止の願いを込めて行われる祭り。 子供達が思い思いの願い事を書いた短冊を付けたササ竹を川沿いに立てて安全祈願の仏事を行い、地元消防団の放水でかけ水遊びをして水と親しむ祭りである。 |
663 | 山国川 | 山国川 | 九州地方整備局 | 山国川河川事務所 | 金谷大築堤 | 堤防 | 17世紀代 | 慶長9(1604)年、細川三斎(忠興)によって工事が行われた。 中津城南にある金谷地区で、分流する大家川の入口の締切工事を行うとともに、延長1kmに及ぶ金谷大築堤を設けたものである。城下の洪水を防ぐとともに、締切られた流路を埋め立てて、幅6kmほどの外掘として利用した。 城下の洪水の防御が可能となり、現在に至る。 |
664 | 山国川 | 山国川 | 九州地方整備局 | 山国川河川事務所 | 石堤の水はね | 水制・護岸 | 17世紀代 | 江戸時代慶長年間に中津城に入った細川三斎(忠興)は、大家川の締切で流量が増える山国川を城の西側の外掘に見立て、城を堅固に守るために石堤の水はねを設けた。 その後、明歴元(1655)年と寛文9(1669)年7月18日の2度の洪水で、左岸の子犬丸村につながっていた小祝が完全に島として切り離され、今日に至っている。 |
665 | 山国川 | 山国川 | 九州地方整備局 | 山国川河川事務所 | 荒瀬井路 | 水路・河道付替 | 17世紀代 | 中津市南東部の下毛原洪積台地の井路。灌漑面積1,150ha。「下毛郡誌」によると寛永年間中津藩主細川忠興の企図にもとづき、その後約60年後の貞享3(1686)年に中津藩主小笠原長胤のとき着工し、元禄10(1697)年通水された。 取水口は下毛川本耶馬渓町大字樋田で青の洞門の川下で、山国川本流を堰き止めた井堰を設け、常時流量毎秒3.16m3、水路の総延長34km、分水口は18ヶ所。 主水路は、台地上の旧河道をほぼ利用。昭和32(1957)年から改修工事が進行中。 |
666 | 山国川 | 山国川 | 九州地方整備局 | 山国川河川事務所 | 三口の大井手堰 | 堰・ダム | 16世紀以前 | 保延元(1135)年の開削と言われる。 中津市大字相原相原三口より流れ出る大井手堰の水路(3本の主水路)で、沖代平野の灌漑水路である。「豊前志」や「下毛郡誌」によると水路の沿岸に楊柳が甚だ多いことによる。 灌漑水路として、維持管理されている。 |
667 | 山国川 | 山国川 | 九州地方整備局 | 山国川河川事務所 | 荒瀬堰起源之碑 | 碑 | 17世紀代 | 山国川第二の大堰が樋田にありますが、これは小笠原胤のとき、今津村の大里正(大庄屋)今津作右衛門、佐知組大里正佐知条右衛門、蠣瀬組大里蠣瀬庄右衛門の3人が築堤を主唱したことにより、貞享3(1686)年10月工事に着手し、元禄2(1689)年に竣工した。 樋田村に起こり仏坂、白木、諌山を経て、これより東北28ヵ村、旧村名にていえば、真坂、山口、三保、大幡、如水、尾紀、桜州、和田、鶴居9村の1,000余町歩の田園を灌漑している。 その後における村民の受けたる恩恵は莫大である。 |
668 | 山国川 | 山国川 | 九州地方整備局 | 山国川河川事務所 | 鶴市神社(記念碑) | 碑 | 16世紀以前 | 沖代平野の沖代16村は宇佐神宮領の大家郷で、山国川の水を三口の井堰にせきとめて、田畑の灌漑用水としていたが、毎年の大雨で流され、取水もできず、干害で農民の生活は苦しくなるばかりだった。この地を支配している7人の地頭は、井堰を築くには、「人柱をたて、水神のご加護を願うしかない」と衆議一決した。この話を聞いた家臣の娘お鶴とその子市太郎母子は、身代わりを申し出て、保延元(1135)年8月15日、人身御供として水底に身を沈た。 母子の霊は、鶴市八幡宮に祭られ、井堰の平穏無事を見守り続けている。 |
669 | 山国川 | 山国川 | 九州地方整備局 | 山国川河川事務所 | 馬渓橋 | 橋 | 20世紀代 | 大正12(1923)年10月竣工。設計・施工、甲斐伊蔵。山国川本流、下戸原と町丈間に架けられた5連のア−チ道路橋。 山国川流域に架けられたア−チ橋郡では、耶馬渓橋、羅漢寺橋に次ぐ第3の橋長を誇る最大橋である。橋長82.8m、ア−チ幅4.0m、高さ9.4m、H/L=0.326。 現存している。 |
670 | 山国川 | 山国川 | 九州地方整備局 | 山国川河川事務所 | 羅漢寺橋 | 橋 | 20世紀代 | 大正9(1920)年10月竣工。設計、黒葛原喜蔵。山国川本流跡田と曽木間に架けられた3連アーチ道路橋である。 橋長88.0m、アーチ幅4.57m、高さ8.4m、H/L=0.180で山国川に架けられたアーチ橋群中、耶馬渓橋に次ぐ第2の長大橋である。羅漢寺橋は竣工当時の姿のままで、現在でも実用に供されている。 |
671 | 山国川 | 山国川 | 九州地方整備局 | 山国川河川事務所 | 耶馬渓橋 | 橋 | 20世紀代 | 大正12(1923)年3月竣工。設計、岩淵萬吉。山国川本流、樋田と曽木間に架けられた我国最大長の8連アーチ道路橋。 棟下は竣工当時の石造からコンクリート製に改修されている。橋長116m、アーチ部幅4.0m、高さ7.7m、支間距離L=14.2m、アーチ高さH=3.15m、H/L=0.215。 現在では観光道路橋としての性格が強い生活道路橋である。 |
672 | 山国川 | 山国川 | 九州地方整備局 | 山国川河川事務所 | 頼山陽先生詩碑 | 碑 | 19世紀代 | 耶馬渓の名を天下にあげた頼山陽がこの地域を旅したのは、文政元(1818)年12月。その年10月には、豊後国竹田で、親友田能村竹田と親交を深め、久住−瀬ノ本−黒川−宮原を経て、日田の隈町へ入り、広瀬淡窓と会見するなどの後、山国谷を下り、親友であった末広雲華に会うため、下毛郡福島村正行寺に向かい、雲華と共に山国谷探勝を行い、この渓谷に耶馬渓という中国風の名を付け、「耶馬渓山天下無し」と詠じ、翌年には「耶馬渓図巻記」をつくった。 岩石と樹木と清流の三者が揃ったこの地の風光は、通行には不便だが、天下第一の絶景として喧伝されている。 |
673 | 山国川 | 山国川 | 九州地方整備局 | 山国川河川事務所 | 鶴と市太郎 | 祭り・信仰 | 16世紀以前 | 今から約850年前の保延元(1135)年に完成。 昔の山国川は暴れ川で、治水のための井堰をいくらつくっても毎年洪水で決壊するため、いかなる風水害にも耐えられる井堰をつくろうと、お鶴(35歳)とその子市太郎(13歳)の母子を人柱にすることによって、ようやく難工事を完成させる。母子の霊は鶴市八幡宮に祭られ、井堰の平穏無事を見守り続けている。 |
674 | 山国川 | 山国川 | 九州地方整備局 | 山国川河川事務所 | 八面山の雨乞い | 祭り・信仰 | 18世紀代 | 耶馬渓の入口に構えているのが三光村の八面山である。屋山ともいい、どの方角から見ても屋根型に見えるので八面という。この山は多くの伝説に包まれている。 天明5(1785)年の大干害のさい、自性寺海門和尚が七日七夜の雨乞い祈願をした。この際、池から竜女が現れ、和尚に不思議な珠を与え、成仏させてくれることを願い、その代わりに5日間にわたって雨を降らせたという。 |
675 | 山国川 | 山移川 | 九州地方整備局 | 山国川河川事務所 | 一ッ戸橋 | 橋 | 20世紀代 | 明治38(1905)年に竣工。設計・施工・石工、広瀬某。 史蹟一ツ戸城趾の基部を山国川へ注ぐ小川に架けられた単アーチ橋である。 現在では、宮園奥山橋同様国道212号線の一部をなくしており、小川上流側からアーチ側面をみることができる。 |
676 | 山国川 | 山移川 | 九州地方整備局 | 山国川河川事務所 | 賀治耶橋 | 橋 | 20世紀代 | 大正13(1924)年6月竣工。 設計・施工・棟梁甲斐伊蔵、石工中尾右三郎、坂木芳雄、山国川支流山移川持田に架けられた2連アーチ道路橋である。 橋長30.3m、道路有効幅3.6m、高さ8.9m、H/L=0.326。 現存している。 |
677 | 山国川 | 跡田川 | 九州地方整備局 | 山国川河川事務所 | 深瀬橋 | 橋 | 19世紀代 | 明治24(1891)年竣工。設計・施工者不詳。山国川支流跡田川の上流六田に架けられた単アーチ水路橋。設計・施工は一説によれば中島岩吉と伝えられている。 橋長1.4m、水路有効幅1.4m、水面からの高さ7.33m、H/L=0.44。 現存している。 |
678 | 山国川 | 跡田川 | 九州地方整備局 | 山国川河川事務所 | 広内橋(六田橋) | 橋 | 竣工年不詳。施工中島岩吉。山国川支流跡田川上流の六田に架けられた単アーチ道路橋。アーチの形状から明治中期の竣工を窺わせる古いアーチである。 橋長6.79m、道路有効幅3.0m、水面からの高さ6.46m、H/L=0.44。 竣工後アーチ橋に並行して水路が附設されたため、現在では道路橋としてよりも、水路橋として実用されている。 |
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679 | 山国川 | 跡田川支川西谷川 | 九州地方整備局 | 山国川河川事務所 | 源木橋 | 橋 | 20世紀代 | 大正6(1917)年竣工。設計・施工者不詳。跡田川の上流西谷川源木に架けられた単ア−チ道路橋。 天然石を用いた珍しいアーチ橋である。橋長13.8m、道路有効幅2.32m、水面からの高さ4.85m、H/L=0.215。 昭和19年の水害により欄干は流失し、現在もそのままに放置されている。 |
680 | 山国川 | 跡田川支川西谷川 | 九州地方整備局 | 山国川河川事務所 | 石垣橋 | 橋 | 竣工年不詳。設計・施工、井上伝吾。西谷川支流、石垣原に東西に架けられた単ア−チ道路橋。 橋長6.09m、有効道路幅2.64m、水面からの高さ3.09m、H/L=0.298。 欄干はコンクリート製であり、竣工後改修されたものと考えられる。ア−チ部は丁寧な施工がなされており、竣工当時の状態で保存されている。現在は農道として実用に供されている。 |
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681 | 山国川 | 跡田川支川西谷川 | 九州地方整備局 | 山国川河川事務所 | 秋永橋 | 橋 | 20世紀代 | 明治39(1906)年竣工。設計・施工、阿部林三。山国川の支流跡田川の上流をなす西谷川秋永に架けられた単アーチ道路橋。 橋長14.8m、道路有効幅3.68m、水面からの高さ4.74m、H/L=0.126。 欄干は最近鉄鋼製に改修されており、現在でも道路橋として使用されている。 |
682 | 山国川 | 屋形川 | 九州地方整備局 | 山国川河川事務所 | 大正橋 | 橋 | 20世紀代 | 大正元年(1912)竣工。設計・施工者不詳。山国川支流尾形川日の坪の尾形小学校前に架けられた2連アーチ道路橋である。 橋脚は、特別に水切りのため船形に施立されている。橋長16.62m、アーチ幅3.6m、水面からの高さ3.68m、H/L=0.290。 竣工時の状態で保存されており、現在でも通学用に使用されている。 |
683 | 山国川 | 屋形川 | 九州地方整備局 | 山国川河川事務所 | 堤橋 | 橋 | 竣工年・設計・施工者不詳。山国川支流尾形川生木に架けられた3連アーチ道路橋。一説によれば耶馬渓橋の設計・施工に携わった岩淵萬吉が請け負ったと伝えられている。 橋長20.7m、アーチ幅3.38m、H/L=0.217。 欄干は、竣工当時の石造から鉄鋼製に改修されている。 |
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684 | 山国川 | 屋形川 | 九州地方整備局 | 山国川河川事務所 | 萬橋 | 橋 | 20世紀代 | 大正10(1921)年10月竣工。施工、鳥越七郎。山国川支流尾形川今行に架けられた2連アーチ道路橋。 橋長18.6m、アーチ幅2.8m、高さ4.6m。 戦後、コンクリート桁橋の増設によって竣工当時のはぼ2杯に拡幅されている。また、拡幅時に欄干及び道路面はコンクリート製に改修されている。 |
685 | 山国川 | 小川 | 九州地方整備局 | 山国川河川事務所 | 宮園奥山橋 | 橋 | 竣工年・設計・施工者不詳。 アース幅4.8m、L=4.40m、H=2.20m、H/L=0.50。 現存している。 |
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686 | 山国川 | 津民川 | 九州地方整備局 | 山国川河川事務所 | 栗木橋 | 橋 | 竣工年・設計・施工者不詳。 橋長19.15m、道路有効幅4.03m、水面からの高さ11.44m、支間距離L=13.3m、アーチ高さH=2.9m、H/L=0.216。 昭和60(1985)年に道路面のコンクリート舗装された。 |
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687 | 山国川 | 中津川 | 九州地方整備局 | 山国川河川事務所 | 三百間の堤防 | 堤防 | 18世紀代 | 享保2(1717)年頃、中津藩主、奥平昌成が築堤。 中津川河口に三百間の堤防を築造。築堤により、文政12(1829)年に角木新田が開発され、現在に至る。 |
688 | 大分川 | 大分川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 「土手長さ四町」の築堤 | 堤防 | 16世紀以前 | 鎌倉時代の大分川は、明磧橋上流付近から奥田より左に流れ、古国府の南から元町付近に流れ込んでいたといわれる。古国府の南には、豊後の国府があったとされ、この地を守るために「土手長さ四町」の築堤が行われた。 位置・規模等は未詳。 現在の大分川の流路は、昔の大分川に比べて大きく変わり、かつての国府の跡は、大分川よりかなり離れた位置にある。 |
689 | 大分川 | 大分川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 金槌橋 | 橋 | 18世紀代 | 江戸時代の架設とされる。 挟間町の中で大分川の右岸の旧谷村地区は、熊本藩領野津原手永の内であった。地区のはずれの大分市との境を流れる谷川に架設され、スガメ石という石材でつくられていることからスガメ石橋とも呼ばれている。かつての飛脚街道といわれる小径の橋で、参勤交代道路の間道の役割も果たしていたものと思われる。 現存している。 |
690 | 大分川 | 大分川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | オダニの車橋 | 橋 | 19世紀代 | 嘉永元(1848)年架設。 橋長12.6m、橋幅3.2m、径間5.9mの小さな橋であるが、両側の壁石の面から突き出した右の上に欄干の石を乗せて、橋面を広く利用する工夫がなされている。庄内町は府内藩領で、上納米を運ぶために地元の造り酒屋三重野善治により架けられたのであるが、石工は不明である。 現存している。 |
691 | 大分川 | 大分川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 賀来地区の築堤 | 堤防 | 20世紀代 | 大分川の改修工事は、明治年間に賀来地区などで堤防を築いたという記録が残されている。 全川にわたる大規模なものではなく、部分的な改修工事であった。 当時の痕跡はとどめていない。 |
692 | 大分川 | 大分川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 享保の改修 | 堤防 | 18世紀代 | 享保13(1728)年8月3〜4日に洪水被害が発生し、府内藩日記や三浦家年代記抄などによれば、ある程度の改修工事がなされていたものと判断される。 上記文献によれば「井手211間・井堰116間・土手129間・田畑岸257間・川除柵285間」などと記されている。 享保の改修箇所は不明である。 |
693 | 大分川 | 大分川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 県営による改修 | 堤防 | 20世紀代 | 明治26(1893)年および大正7(1918)年の大洪水に基づき、昭和5(1930)年に県営工事として着手し、本格的な改修工事が行われた。 滝尾橋地点から河口までの区間にわたって、築堤や護岸などの工事が行われたが詳細は不明である。 |
694 | 大分川 | 大分川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 古井路 | 水路・河道付替 | 18世紀代 | 江戸時代の終わりころ、下宗方部落は人口四・五百人余りで、大分川と七瀬川の二つの川をそばにひかえながらも、水には恵まれずほとんど雨水だけにたよった農業でその日のくらしにも苦しむような農村だった。この辺りでは、はじめの口戸に取り入れ口のある「古井路」から余り水をもらい水田をつくっていた。 |
695 | 大分川 | 大分川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 初瀬井路 | 水路・河道付替 | 17世紀代 | 大分川の中下流左岸域に耕地や集落が多く展開する府内藩領 (奥郷中郷とよばれた地域、現在の庄内から狭間町にあたる)では、井路開削以前は「日損所」とよばれた干損地が多く、畑作に依存する傾向が強かった。府内藩主日根野吉明(ひねのよしあきら) は慶安3(1650)年に初瀬井路を開き、耕地の水田化・熟田化を進めた。阿南(あなん)庄新井手ともいう。 |
696 | 大分川 | 大分川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 提子井路 | 水路・河道付替 | 18世紀代 | 元禄11(1698)年から享保9(1724)年にかけて数々の井路を掘った郷土の大先覚者・工藤三助の養子である弁助により完成。 |
697 | 大分川 | 大分川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 大龍井路 | 水路・河道付替 | 18世紀代 | 元禄11(1698)年から享保9(1724)年にかけて数々の井路を掘った郷土の大先覚者・工藤三助により完成。 |
698 | 大分川 | 大分川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 嘉永井路 | 水路・河道付替 | 19世紀代 | 嘉永元(1848)年に完成。臼杵藩領の下宗方・八幡田の両村を潤す。井路開削にあたり岡藩領の尾平(おびら)鉱山 から2名の鉱山技術者を招いてその指導をあおいでおり、またその貫掘り工事の様子を絵画した「嘉永井路絵図 」には、測量の様子や空気を地底に送るためのフイゴを作製している人物が描かれるなど、鉱山技術が井路開削に大きく関与していた。 |
699 | 大分川 | 大分川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 元治水路 | 水路・河道付替 | 19世紀代 | 日田の豪商・広瀬久兵衛(当時の日田は天領で幕府の代官所が置かれ西国郡代がいて政治、経済にわたり九州の中心地だった)により、造られた。これにより、天災・地変がつづいて大飢餓だった人々の苦しみを解消した。 |
700 | 大分川 | 大分川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 明治大分水路 | 水路・河道付替 | 19世紀代 | 東植田の平坦地である高瀬、田尻、光吉、寒田 鴛野、宮崎の各部落の水田をうるおし、発展させたのが、明治大分水路であり言うなれば農業の生命線でもあった。 |
701 | 大分川 | 大分川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 湯布院盆地成立のいわれ | 祭り・信仰 | 伝説では昔、湯布院盆地は湖だった。開拓したのは由布岳の女神宇奈岐日女である。太古、女神は山上から見下ろして開拓を思い付いた。配下の巨人は満身の力を込めて一蹴り、二蹴り。すると湖壁はみごとに破れ、水が動き出す。水はどうどうと流れ、大分川を形作って海に注ぎ、湖底にすばらしい平野を生じた。 宇奈岐日女神社は盆地の中に巨杉に包まれて、鎮座。巨人は蹴裂権現の名で彼が破った前徳野の山上に祠がある。 |
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702 | 大分川 | 大分川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 雨乞い | 祭り・信仰 | 19世紀代 | 享和2(1802)年に旱魃の雨乞いが上村河原と律院清龍観音(金剛宝戒寺境内西山)で行われた。 |
703 | 大分川 | 寒田川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 万年橋 | 橋 | 19世紀代 | 文久2(1862)年に地元の庄屋佐藤孝兵衛らが発起し、大野川の石工後藤郷兵衛らが発起し、大野郡の石工後藤郷兵衛らが建造した。太鼓橋とも呼ばれる。 寒田川をわたる同神社の神橋で石造単アーチ橋である。全長22m、アーチ径間11m、幅3m。径間に対してアーチ高さが3.9mと低く、アーチと路面の間も狭いので軽快な趣がある。 |
704 | 大分川 | 七瀬川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 小岩戸橋 | 橋 | 19世紀代 | 明治19(1886)年、県道大分竹田線の開通に伴い架設されたもので最初は木橋であった。 石造アーチ橋は、特殊な技法が用いられているので希少価値とともに、造形美にも優れ文化財としての価値がある。 二回嵩上げによって路面は3m近く高くなっていて、石組み部分は裏谷川の谷底に埋没したような形になり、一般の通行者の目に触れることはないが、橋台はきれいな石積み姿をそのまま残している。 |
705 | 大分川 | 花合野川支川倉本川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 牡丹長者の雨乞い | 祭り・信仰 | 小田の池には、牡丹長者が雨乞いをして、池の竜神に娘を人身御供に差し出した伝説がある。 | |
706 | 大分川 | 阿蘇野川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 男池の雨乞い | 祭り・信仰 | 原生林の中にきれいな水が湧いており、この池には龍神がいて朝日長者が雨乞いをし、その時の約束で末娘の千鳥姫が人身御供になろうとしたところ。 | |
707 | 大野川 | 大野川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 遊水施設(空池、千升マス、一斗マス) | その他 | 17世紀代 | 戦国・江戸初期。 加藤清正は溢流堤や遊水施設(空池1,000升、1斗升と呼んだ)を設け、洪水被害の軽減を図った。 |
708 | 大野川 | 大野川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | クネとよばれる防水林 | 水防 | 17世紀代 | 江戸時代。 高田輪中では洪水に対する地域住民の防衛方法として、クネと呼ばれる防水林を家の周りに巡らせた。 |
709 | 大野川 | 大野川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 塘手再築 | 堤防 | 17世紀代 | 万治元(1658)年:「塘手再築の議ありて…」という記録あり。 慶安3(1650)年:小規模ながら各所で築堤。 洪水防御に対して、小規模ながら各所において築堤されていた。 |
710 | 大野川 | 大野川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 高田村の輪中 | 堤防 | 17世紀代 | 高田村志によれば、寛永元(1624)年〜慶応元(1865)年までの240年間に30回、明治から大正4(1915)年までの48年間に18回の洪水被害を受けている。従って、古くから洪水時に備えて、屋敷には石垣を築き、1〜2mの盛土をしてその上に家を建てている。 鶴崎市南部の高田は大野川本流と分流乙津川に囲まれ、南北3km、東西1km、面積3.5km2の輪中である。 輪中とは低湿なデルタ地域で、洪水を防ぐためにつくられた堤防に囲まれた地域である。 |
711 | 大野川 | 大野川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 大野川の氾濫を鎮めるために建立された石碑 | 碑 | 19世紀代 | 慶応3(1867)年、高田村の首藤道英が大野川の氾濫が鎮まり住民の苦しみがなくなることを願って建立した。 菩提寺常仙寺野住職日宣と相談して、この寺の宗派である法華経に願いを託し、経文の一字づつを一石に書き込み、石碑の下におさめており、石の数は実に69,384個におよぶ。 大野川の大津留堤防上にいまもなお残る石碑の跡に、洪水に苦しめられてきた地域住民の切なる願が伺える。昭和39(1964)年につくられた溢流堤(分派堤)のため、現在地に移転している。 |
712 | 大野川 | 大野川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 久住町の石橋 | 橋 | 19世紀代 | 文政5(1822)年から7年かけて架設されたものと推定されている。 神馬(かんば)橋、五反田橋、田町橋、境川橋の4橋。 熊本から鶴崎の港(大分市)に通じていた熊本藩の参勤交代道路にかかる石造アーチ橋で、備前(岡山県)の石工とも肥後の石工ともいわれているが、正確なことはわからない。 現存している。 |
713 | 大野川 | 大野川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 開閉橋(鶴崎橋) | 橋 | 19世紀代 | 江戸時代から中流域の岡・臼杵両藩が接する犬飼町は、一つの船継場であり、河口域は大野川の「通船」となり栄えた。 新産都のために坂の市方面への貫通道路ができるため、橋脚を高くして船は橋下を自由に通行できるようにと、新しい橋が作られた。 |
714 | 大野川 | 大野川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 舟運 | 舟運 | 18世紀代 | 江戸時代の諸小藩の分立は、大野川流域をも小地域に分断する結果を生んだ。上流域ならびに中流域左岸は、竹田・岡領(中川藩)として、中流域右岸は臼杵領(稲葉藩)に属し、上流北端の久住は肥後領(細川藩)の飛び地であった。そのため、熊本からの参勤交代のための飛び地であり、河口は鶴崎港として栄えた。 上記のほか、河口域には岡領の飛び地あり、臼杵領の飛び地もあり、また(日向の)延岡領の飛び地さえ見られ、天領も存している。 このような河口域の複雑な状況は、参勤交代のための「港」が必要だからであるが、このことが河口域の村々をして、船手・水夫の村として特色付けるに至っている。 近年は、陸上交通の進展に伴い、河川の交通は少なく河口部は大分臨海工業地帯の中心をなしている。 |
715 | 大野川 | 大野川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 天神まつり | 祭り・信仰 | 大野川は古くから交通路の役割を持っており、上古、景行天皇は大野川上流域にさかのぼって、八田・打猿・国摩呂を討ったとある。八田とは蛇神族であるとされ、この記録は景行天皇をまつる城原神社に記されている。 祭りの夜、男の子が網で女の子をぐるぐる巻きにすると、その女の家は豊作になるという伝承行事があり、竜にちなんだものである。 |
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716 | 大野川 | 大野川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 昭和初期の改修 | 堤防 | 20世紀代 | 昭和3(1928)年:河川法の適用を受ける。 昭和4(1929)年:施工準備、測量に着手。 昭和5(1930)年:土地買収・掘削・築堤。 掘削・築堤工事を開始したが国庫財政の都合上、工事費減額や施工年度延長があったり、また日華時変に遭遇してさらに予算の繰り延べ、施工年度の延長があり、77%の完工を見たところで昭和18(1943)年9月の大洪水が発生した。 |
717 | 大野川 | 大野川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 富士緒井路 | 水路・河道付替 | 20世紀代 | 竹田市の片ケ瀬から緒方町の丘陵部へ農業用水を配水している。富士緒井路の幹線水路は総延長15kmにおよび受益地区は約400ha。この地区は古来より水利に恵まれず、たび重なる干害を受けていた。慶応3(1867)年の大干ばつを契機に開墾者「後藤鹿太郎」が立ち上がり井路開墾に東奔西走、幾多の苦難を乗り越え大正3(1914)年に通水した。また、通水と同時に高台地に揚水するための電力源として水路の落差を利用して発電を行った。当時としては画期的な事業であった。 |
718 | 大野川 | 大野川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 明治岡本水路 | 水路・河道付替 | 20世紀代 | 明治岡本水路 (竹田市)は明治43(1910)年着工、大正2(1913)年に通水式を挙行、その後、豊岡村(竹田市)、大野郡上井田村(朝地町)まで延長され大正12(1923)年末に完成、700町歩をうるおした。 |
719 | 大野川 | 大野川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 垣田幾馬の銅像 | 碑 | 20世紀代 | 明治12(1879)年:垣田小八郎と工藤祐鎮は、井路開設を計画。 大正4(1915)年1月:柏原荻耕地整理組合を設立。資金調達の進展なし。 大正10(1921)年:垣田幾馬(小八郎の長男)は国および銀行から低利資金の借り入れに成功。 大正11(1922)年11月:工事着工 昭和3(1928)年:完了 大正11(1922)年11月に着工したが、岩石の掘り抜き工事は難行し毎日800人の作業員と毎月30万本のダイナマイトを使用した。また、わが国ではじめて電気削岩機を使用し、昭和3(1928)年に5年の歳月と300万円の巨費を投じて、水路延長350kmと三つの溜池が完成し、500haの水田を拓くことができた。 百年記念の年に、その栄誉を称え、偉功を永く後世に伝えるためゆかりの深い荻町大字馬場の通水記念碑広場に翁の銅像が建立されている。 |
720 | 大野川 | 大野川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 波乗り地蔵 | 祭り・信仰 | 古老によると、中川公(岡藩主)が参勤交代で犬飼より府内まで下っていた。その就航安全を祈願するために刻まれたものだと伝えられている。また、雪舟が府内から犬飼に来た時に描かれたものだという説もある。いずれも定かでないが、町民に深く信仰されている。 岩の西側にやや前かがみの姿勢で小舟に乗った地蔵立像がある。波の上に浮かぶ姿できれいな線彫りとなっている。 犬飼橋の下流に沿って下ると、大野川と紫北川の合流点に大きな岩石がたっている。 |
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721 | 大野川 | 大野川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 熊本藩鶴崎作事所跡有終館跡 | その他 | 17世紀代 | 鶴崎町と肥後藩の関係は、慶長6(1601)年に加藤清正が天草の領地と引き換えに豊後三郡を領有し、その後加藤氏の政易に伴い、寛永9(1632)年に細川氏治下に編入された。 鶴崎は参勤交代、豊後領分の年貢米積み出しの拠点となり、商工業者の集住のもとに街として姿を整えていったところであった。 |
722 | 大野川 | 大野川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 岩戸渡し | 舟運 | 19世紀代 | 「豊後国志」には「緒方郷岩戸村にあり」とある。清川村誌には、犬飼〜岩戸間約25kmの通船開始は明治6(1873)年で、岩戸には大野川通船会所が設けられ、同会所が岩戸から対岸の徳尾にわたる渡し場であったとある。 現存しない。 |
723 | 大野川 | 大野川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | カッパの仇討ち | 祭り・信仰 | 肥後藩高田手永の代官に筒井加右衛門がいた。 彼は自分で育てた茄子が盗まれ、その夜犯人を竹槍で突き刺させた。彼が公用で肥後領佐賀関に行くことになり、百堂の波にかかると子ガッパが現われ、「昨夜殺されたのは私の親。仇討ちをしたい。」と申し込まれた。そこで彼は、「今は役目が大事。帰途に相手になろう。」と約束した。 夕方、渡に戻ってくると子ガッパには助っ人として数百匹のカッパがついていた。「しまった!」と思ったがあとの祭り。ついに川の中に引き摺り込まれてあえない最後を遂げたということである。 |
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724 | 大野川 | 大野川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 伝(でん)よむ膏薬 | 祭り・信仰 | 19世紀代 | 昭和の初め頃まで、伝よむ膏薬の製法が伝わっていた。 別名を川太郎膏薬といい、150年ほど前、伝よむこと武藤伝右衛門がカッパから処方を習ったという民話である。 |
725 | 大野川 | 大野川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 大蛇神の伝承 | 祭り・信仰 | 佐賀関の早吸日女社の神官が体にウロコがあり、しきりに水を欲しがるので、円生川の水源の赤迫池に行ったがさらに、沈堕の滝に入って竜神・大蛇神となったといい、年に一度大野川を下って早吸日女神の官の池に姿を現わすこの日は、大野川は雨も降らないのに濁るといわれている。 竜神は農耕儀礼の神でもあり、中国の影響を受けた竜神信仰の一つであるが、瀬戸内海地方に残る伝承と一致していることから、大野川の文化が侵入したことを窺い知ることができる。 今でも川筋の農民は、干ばつのときには沈惰の滝に雨乞いに行くといわれている。 |
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726 | 大野川 | 大野川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 浦島伝説 | 祭り・信仰 | 大野川の流域文化の起こりをみると、大野川の文化圏は別府湾から瀬戸内海へと続く海の文化が浸透していったことが多くの伝説から窺い知れる。 浦島伝説は、室町期の版本御伽草子の中に出てくる浦島太郎の話のことである。 浦島太郎は、竜宮神である亀の化身女房と結婚して栄華な生活を送るが、やがて故郷に帰った浦島は、700年の歳月を経ていて、ついには鶴となって浦島明神となったというものである。 大野川上中流域には、浦島伝説が集中していて、浦島神社も7社を数える。 |
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727 | 大野川 | 大野川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 千載(せんさい)橋 | 橋 | 19世紀代 | 天保2(1831)年竣工。 石造アーチ橋で、竹田の城下と犬飼の港を結ぶ参勤交代道路にかかる橋で、地元の総長(大庄屋)椎原彦九郎が音頭を取り、後藤郷兵衛を招いて架設している。 橋は小型であるが、アーチの石と石との間に太柄石を挟んだめずらしい工法が取られている。 昭和46年に撤去された。 |
728 | 大野川 | 大野川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 若宮井路 | 水路・河道付替 | 20世紀代 | 朝地町の農業を支えた水路。 |
729 | 大野川 | 大野川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 上坪井路 | 水路・河道付替 | 20世紀代 | 朝地町の農業を支えた水路。 |
730 | 大野川 | 大野川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 城原井路 | 水路・河道付替 | 17世紀代 | 寛文2(1662)年、豊後岡藩主中川久清公により切り開かれた。 |
731 | 大野川 | 緒方川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 明正井路第一拱石橋 | 橋 | 20世紀代 | 明正井路第一拱石橋は14橋のうち代表的石橋で、県道と緒方川をまたぐ6連のアーチの上に4段の石壁を積んで、導水部を造るという重厚な構造となっている。 |
732 | 大野川 | 緒方川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 円型分水 | 堰・ダム | 20世紀代 | 大分県竹田市の南西部の棚田が並ぶ静かな村の谷あいにあり、大野川上流部(宮砥、入田、うば岳地区など)南部一帯のかんがい用水路(音無井路)として、元禄6(1693)年から工事を始めた。現在の円形分水路までは明治25(1892)年に完成したが、ここから三線の幹線水路に分配する量の問題で水争いが繰り返されていたため、昭和9(1934)年に円形分水路が造られた。円形分水路には、四角の穴が20個あり、水路の耕地面積に比例した水の量を分配する構造となっている。 この円形分水が完成し、水争いも無くなった。 |
733 | 大野川 | 緒方川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 原尻橋 | 橋 | 20世紀代 | 大正12(1923)年架設。「豊後国志」に「緒方郷原村緒方川にあり」とある。原尻と倉園を結ぶ長さ73m、幅3.6m、の石造橋。原尻の滝の約500m程上流にかかっている。橋の欄干一つ一つに寄贈者の名前と金額が刻まれている。 |
734 | 大野川 | 緒方川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 無名橋 | 橋 | 19世紀代 | 明治26(1893)年築造。 石工不明。 現存している。 |
735 | 大野川 | 緒方川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 尾崎の石風呂 | その他 | 17世紀代 | 寛永年間(1624〜1644年)に掘削されたといわれている。 昭和50(1975)年に保存処理を行っている。 岩壁に穿たれた横穴2段式の石風呂で、入口の高さ208cm、横幅67cm、浴室の高さ153cm、奥行き206cm、横幅200cmである。7枚の板状の石を敷いて浴室と火室とに分け、入口には莚を下げて内部の熱等の発散を防ぐ。火室で薪を燃やし床石を熱し、石の上に石菖等の薬草を広げ水をかけ、6・7名づつ入れる。 明治時代初期まで使用されていたが、近年再興され、時々使用されている。 |
736 | 大野川 | 緒方川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 辻河原石風呂 | その他 | 16世紀代 | 昭和41(1966)年3月22日、県有形民俗文化財指定。 緒方川の河原に面した岩壁を横穴古墳式にくりぬき、板状の石を敷き並べて浴室と火室に分ける2段式の石風呂で、入口は高さ186cm、横幅73cm、内部は高さ135cm、奥行き21.2cm、横幅175cmである。火室で薪を燃やし、床石を熱すると石菖等の薬草を敷き詰め、それに水をかけ湯気をたてて入る方式で、一度に6・7名ぐらい入れる。 浴室入口の約2m右側に、岩壁をくりぬいた石室があるが、これは後世の施設となっている。 現在は使用されていない。 |
737 | 大野川 | 緒方川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 市穴石風呂 | その他 | 16世紀代 | 昭和41(1966)年3月22日、県有形民俗文化財指定。 原尻の滝の約200m下流の、緒方川を前方に見下ろす岩壁をくりぬいて造り、浴室と火室とに分けた2断式の石風呂である。入口の高さ180cm、横幅60〜100cm、内部は高さ150cm、奥行き230cm、最大横幅274cmである。火室で薪を燃やし、床石を熱すると石菖等の薬草を敷き詰め水をかける方式で、入口に莚を下げ内部の熱や上記の発散を防ぐ。5〜6名入れる。 明治初期頃まで使用されていた。 |
738 | 大野川 | 緒方川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 中ノ原石風呂 | その他 | 16世紀代 | 昭和42(1967)年3月31日、県有形民俗文化財指定。 原尻氏宅の裏山の岩壁をくりぬいて造られ、内部の高さは188cm、奥行き214cm、横幅300cmで室内左側に深さ54cmの水溜め、奥壁のやや右側に横穴を穿ってかまどが造られている。このかまどで人頭大の石を焼き、焼き石を石菖等の薬草を入れた水溜めに投入し、その湯気で蒸浴したという。 町内に分布する石風呂とは異なる形式である。 明治時代初期頃まで使用されていた。 |
739 | 大野川 | 緒方川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 上戸石風呂 | その他 | 16世紀代 | 昭和49(1974)年3月19日、県有形民俗文化財指定。 原尻の滝、上流約1kmの緒方川河岸岩壁を横穴式にくりぬいて造り、板状の石を並べて火室と浴室とに分けた2段式の石風呂である。内部は、高さ130〜140cm、横幅195〜230cmで、使用法等は他の石風呂に比べて狭く、まっすぐのびた火道の左右に4本づつの細い火道を分ける、他に見られない形式で5〜6名入れる。 大正時代後期頃まで使用されていた。 |
740 | 大野川 | 緒方川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 緒方上・下井路 | 水路・河道付替 | 17世紀代 | 緒方井路は、岡藩主第4代中川久成公の創始によるもの。正保2(1645)年の緒方上井路、寛文11(1671)年の緒方下井路の開削により現在の緒方井路が形づくられた。井路は原尻の滝の上流300mほどの所に取水口があり、倉園、原尻、上自在、下自在、馬場、井上、野尻地区を流れる。 |
741 | 大野川 | 緒方川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 明正井路 | 水路・河道付替 | 明正井路は緒方町の耕地を潤す大水路で、取水口は竹田市大字門田の門田川である。 | |
742 | 大野川 | 緒方川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 長谷緒井路 | 水路・河道付替 | 米どころ緒方を支える。揚水のための水車と家並に沿って流れる井路(水車通り)は江戸時代に開かれ、今も現役の農業用水路として活躍中。平野を潤し、懐しさを感じさせるふるさとの原風景を形成している。 | |
743 | 大野川 | 乙津川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 乙津川の築堤 | 堤防 | 19世紀代 | 明治時代。乙津川に水害防備林の竹林や堤防を設けた。しかし、延長や高さもわずかなものであった。 |
744 | 大野川 | 野津川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 昭和井路 | 水路・河道付替 | 20世紀代 | 大分県における井路の発達は、大野川下流がもっとも遅れていた。そこで県は大野川河水統制事業をおこして、灌漑と洪水防止、発電と工業用水の獲得などの目的から計画を立て、昭和17(1942)年に着手し、昭和33(1958)年に工事を完了した。 水路延長80km、隧道数178(延長42km)、受益面積1,938haにおよぶ。これによって流域の農業振興、川口地域の工業的開発、発電事業・洪水の調節など利益は極めて大きい。 臨海工業地帯の構成と結んで大野川総合開発事業から考えられ、上流に大規模なダム建設も計画されようとしていたが、現在中止している。 |
745 | 大野川 | 丹生川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | ハネツルベ | その他 | 大野川右岸の大在地域(海岸砂丘地帯)は、旱魃の常習地として水に苦しんできた。そのため一枚の田ごとに井戸が掘られるような状況で「ハネツルベ」の林立が見られた。 近年、大野川下流域から佐賀ノ関までおよぶ「昭和井路」の完成によって、ハネツルベの姿は苗代田作りの時だけ見られるように過ぎなくなった。 |
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746 | 大野川 | 平井川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 若宮井路の石碑 | 碑 | 19世紀代 | 明治初期伊東俊次郎の水路計画を、彼の没後に期に意志を継ぎ、「若宮井路普通水利組合」が設立され、明治34(1901)年に完成した。 大野川・平井川に挟まれた中の広い大地を灌漑する井路であり、この地方は藩政時代には畑作中心であり、旱魃などの被害を極端に受けた。 以後、改修を重ねてきたが、昭和49(1974)年により大改修が行われ、昭和62(1987)年に完成した。 |
747 | 大野川 | 三重川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 虹潤橋 | 橋 | 19世紀代 | 文政7(1824)年に完成。橋畔に由緒を記した石碑があり、「三重郷一万石の年貢米を運送する農民たちの便利と安全のため、臼杵の甲斐氏、三重の多田氏、後藤氏の犠牲的な拠金で石工織平らにより建立された」という。 通称「柳井瀬橋」という。石造単アーチ橋で長さ31m、径間25.2m、橋面6.3mと堂々たるもの。 石橋としては年代が古く、技術も優れ姿も美しいとともに、地域住民の熱意と努力の記念物でもある。 |
748 | 大野川 | 宇津尾木川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 千世(ちよせ)橋 | 橋 | 19世紀代 | 明治12(1879)年に架設。 後藤茂兵衛により架設された。現存している。 |
749 | 大野川 | 五来川支川山崎川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 岩戸橋 | 橋 | 19世紀代 | 嘉永2(1849)年10月の架設。 橋長28.2m、橋幅4.4m、径間17.4mの石造アーチ橋で、深い谷川を渡って岡藩の上納米を運ばなくてはならないために架設されたもので、石工は備前(岡山県)の久米蔵と地元の後藤松五郎となっている。 現存している。 |
750 | 大野川 | 小津留川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 間戸橋 | 橋 | 19世紀代 | 嘉永元(1848)年頃に築造。 石工は不明。現存している。 |
751 | 大野川 | 大谷川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 音無井路 | 水路・河道付替 | 19世紀代 | 大野川支流の大谷川の熊本県内で取水し、延長13kmの水路によって竹田市宮砥の180haの耕地を潤すもので、明治31(1898)年に完成しました。井路内でたびたび水利争いが生じ、その対策として、耕地面積に応じて三地区に比例分水できるように工夫された施設が、昭和9(1934)年に施工された「円形分水」と呼ばれる円形の分水施設です。円形は二重で内外を仕切る壁には等間隔に小窓が設けられており、中央に湧き上がった水は小窓を通って外側の円形溝に流れ、そこでは仕切りにより3分配しており、小窓の数や小窓に設けられた蓋や仕切り板の高さにより分水量が調節される仕組みになっています。 |
752 | 大野川 | 奥岳川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 轟橋 | 橋 | 20世紀代 | 営林署が清川村に、木材運搬用の石造軌道橋として昭和7(1932)年につくった。 傾山麓の木材をトロッコに積み、ディーゼル機関車で牧口駅近くまで牽引した。 昭和35(1960)年に全線(約30km)を村に払い下げ、現在は村道となっている。 |
753 | 番匠川 | 番匠川 | 九州地方整備局 | 佐伯河川国道事務所 | 聖牛群 | 水制・護岸 | 20世紀代 | 聖牛は武田信玄の創案になるものと云われており、専ら山梨県の釜無川や笛吹川に施工されていたが、信玄の勢力圏拡大に伴い他河川に伝わり、享保年間(1716〜1736年)以後から各地に流布したものである。番匠川はその源を大分県の三国峠に発し、支川久留須川・井崎川・堅田川を合わせ佐伯湾に注ぐ河川であり、上流部の地形は急峻な山が多く、山麓沿いに発達し屈曲の多い急勾配の渓谷をなし、下流部は比較的谷間が開け河床勾配もやや緩やかになっている。当聖牛は下流部である番匠川本川左岸の5K100〜5K500付近までの延長約400mにわたり、昭和初期頃に約20基施工されたものと思われる。当地区には砂州が形成され生態系の保全に効果を発揮しており、野鳥が合掌木等を止まり木に利用し、地域住民からも好評を得ていたが、過去の洪水により流出や破損等が見受けられ老朽化が著しかったため平成13年(2001)年に改築した。 |
754 | 五ヶ瀬川 | 五ヶ瀬川 | 九州地方整備局 | 延岡河川国道事務所 | 岩熊井堰 | 堰・ダム | 18世紀代 | この井堰が完成したのは、享保19(1734)年である。川下の恒富町から出北町に至る広大な水田に水を供給している。岩熊井堰は、幾多の補修、改修を繰り返し、昭和46(1971)年に改修したものが現在の姿となっている。 この井堰は、現在、北幹線は吉野町から岡富町、南幹線は下三輪町から下伊形町までの広大な水田地帯へ水を与え、延岡の農業に貢献している。 |
755 | 五ヶ瀬川 | 五ヶ瀬川 | 九州地方整備局 | 延岡河川国道事務所 | 豊後口渡し | 舟運 | 豊後口渡しは、左岸の北小路と右岸の本小路をつなぐ渡しであった。現在は、昭和38(1963)年12月に建設された亀井橋が架かっている。 | |
756 | 五ヶ瀬川 | 五ヶ瀬川 | 九州地方整備局 | 延岡河川国道事務所 | 水神様 | 祭り・信仰 | 延岡は、五ヶ瀬川と大瀬川を中心に町並が形成された城下町であり、「水郷のべおか」といわれるように昔から豊かな水と自然景観に恵まれていた。このように、豊かな水に恵まれていることは、同時に水害との闘いの歴史であった。そのことは水神さまが数多く祭られていることにもあらわれ、先人達が川の恩恵とともに川を神聖なものとして敬いながら、水難を避け街を守ろうとするなど、川との共存を切実に思っていたあらわれである。五ヶ瀬川には、この地域の貴重な文化遺産が98箇所現存し、各々に由来がある。 | |
757 | 五ヶ瀬川 | 五ヶ瀬川、派川大瀬川 | 九州地方整備局 | 延岡河川国道事務所 | 鮎やな(延岡やな、岡元やな、川水流やな) | その他 | 18世紀代 | 五ヶ瀬川の「やな」は明治4(1871)年に当時の延岡藩主内藤政陽の時代に「簗銀」に関する文書がある。そのほか、地方村内五ヶ瀬川のいくつもの簗に対する「簗銀」の納付金が誌されている。したがって、200年以前の昔から「五ヶ瀬のやな」は存続しているものである。鮎やなは、成長して産卵のために川を下る鮎の習性を利用し、川をせき止めて竹の簀の子の「落とし場」に誘い込んでとる原始漁法でおよそ300年続いている。工業都市延岡の市街地の中に、鮎やなが架設されるなど全国的に例をみない工業都市と美しい水の調和した景色といえ、水郷延岡の秋の風物詩である。現在も五ヶ瀬上流には北川町川水流、岡元、下流では分流の派川大瀬川と3箇所のやなが架設されており、各やなとも観光客でいっぱいの状況である。 |
758 | 五ヶ瀬川 | 北川 | 九州地方整備局 | 延岡河川国道事務所 | 水害防備林 | 水防 | 16世紀代 | 旧藩時代の慶長年間(1596〜1614年)より行われたとある。河岸に接した土地を入会地とし、これに松をはじめとした育ちの良い雑木を植え、その中に竹を植えて水害防備林とした。雑木は松、いちの木、樫、榎木等であった。この雑木を切ることは断じて許されなかった。現在も残っている。 |
759 | 小丸川 | 小丸川 | 九州地方整備局 | 宮崎河川国道事務所 | 佐久間土手 | 堤防 | 19世紀代 | 江戸時代中期以後の小丸川の治水の歴史を示す。 佐久間土手は史実に残るものである。 各種資料を裏付けるものとして佐久間土手の名称が残る。 佐久間土手の上に現在、小学校がある。 |
760 | 大淀川 | 大淀川 | 九州地方整備局 | 宮崎河川国道事務所 | 田吉水制 | 水制・護岸 | 20世紀代 | 大淀川下流域では、洪水流の堤防への激突を緩和させ、堤防の安全を図ると同時に、河床の安定を図るための水制工が数多く施工されてきた。 大淀川右岸下流(0.35km〜2.2km)付近には、田吉水制と呼ばれる木杭による水制工が昭和9(1934)年頃から施工されている。 |
761 | 大淀川 | 大淀川 | 九州地方整備局 | 宮崎河川国道事務所 | 観音瀬 | 水路・河道付替 | 19世紀代 | 寛政2(1790)年に大淀川中流域の観音瀬を舟運のために開削。 のちに宮崎県により右側に開削される。 幅1.8m、延長約90m。 現在大淀川第一ダムの湛水区域内にあり、水面下となっている。 |
762 | 大淀川 | 大淀川 | 九州地方整備局 | 宮崎河川国道事務所 | 橘橋 | 橋 | 大淀川の河口部にある宮崎平野は、江戸時代複数の藩の支配地域であった。このため架橋の必要性は高くなかった。明治新政府となり宮崎県が置県され、架橋の必要性が急速に増した。 橘橋架橋地元の医者福島邦成によって発議され、明治13(1880)年に私財を以て架橋された。明治17(1884)年に宮崎県に寄付し、県の橋となった。 現在は、国道220号線の第6代目橘橋として、片側2車線の4車線で共用されている。 |
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763 | 大淀川 | 大淀川 | 九州地方整備局 | 宮崎河川国道事務所 | 伝統工法 | 水制・護岸 | 20世紀代 | 昭和初期の施行と思われる胴牛(水制)の朽木跡がある。 大淀川4km400付近右岸の水衡部が水制(胴牛)と詰杭基礎玉石張が見られる。 近年の災害復旧工事により消失。 昭和40年代にコンクリート制の胴牛が設置されていた。 |
764 | 大淀川 | 大淀川 | 九州地方整備局 | 宮崎河川国道事務所 | 大淀川平面図(1/5,000) | その他 | 昭和3(1928)年の直轄河川改修着工にあたり、内務省下関土木出張所が大正末期に実測をしたものと思われる。 大淀川河口より本川を高岡町(21.0km)付近までと本庄川を国富町(16.6km)付近まで。 |
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765 | 大淀川 | 大淀川 | 九州地方整備局 | 宮崎河川国道事務所 | 日向地誌 | その他 | 19世紀代 | 明治8(1875)年〜明治17(1884)年に完成。(宮崎県の委嘱を受け、平部キョウ南が調査記録) 明治初期の日向国の村々の地形・地質・産物・生活等詳しく調べている。 また、河川の名称についての記述は詳細である。 |
766 | 川内川 | 川内川 | 九州地方整備局 | 川内川河川事務所 | 長崎堤防 | 堤防 | 16世紀代 | 川内市高江町の長崎新田は、かつてろくに米も取れない潟であった。第19代薩摩藩主島津光久は小野仙右衛門を普請奉行に任じ、この地の大規模な干拓工事を命じた。工事は延宝7(1679)年に着工、8年後の貞享4(1687)年に竣工した。長崎堤防は、この工事の中で苦心の末造られたものであり、堤防の長さは360間(約640m)、形状は鋸の刃のような形をしている。また、仙右衛門は工事を完成する際、一人娘(袈裟姫)を人柱としたと伝えられている。 |
767 | 川内川 | 川内川 | 九州地方整備局 | 川内川河川事務所 | 川内川の舟運 | 舟運 | 16世紀代 | 川内川の舟運は、天保14(1843)年川内から宮之城まで開けていたが、宮之城より上流は宮之城轟や神子轟に遮られて舟を通ずることができなかった。当時、伊佐地方の農民は、大口から宮之城までの約40kmもの山道を人力や馬などを使い、年貢米を運んでいた。この窮状を見た堀之内良眼坊は、藩主を説得し、各地から石工を集め工事を行った。これにより、曽木の滝下から宮之城までの舟運が可能となった。「天保の川添い」と呼ばれている。 |
768 | 川内川 | 八間川 | 九州地方整備局 | 川内川河川事務所 | 八間川 | 水路・河道付替 | 19世紀代 | 貞享4(1687)年に竣工した長崎堤防により、人々は洪水被害から救われていた。この反面、内水問題が発生するようになり、高江地区の美田も湿田化が著しくなっていた。このため長崎堤防が完成して約160年後の嘉永元(1848)年に当地区の排水を改善するため八間川開削が起工され、翌年末に竣工した。川の延長は1里1町(約4.0km)で字江ノ口で川内川に合流する。 |
769 | 川内川 | 八間川 | 九州地方整備局 | 川内川河川事務所 | 江之口(えのくち)橋 | 橋 | 18世紀代 | 川内市高江町江之口の川内川支川八間川河口に架設されている石橋である。この橋は、弘化5(1848)年4月から始められた八間川大開削工事の中で造られたもので、嘉永2(1849)年8月、肥後の名工岩永三五郎が、薩摩藩への最後の御奉行として惜別の情を込めて造ったものといわれている。総長57尺(17.3m)、経間25尺(7.6m)×2連、拱矢11尺(3.6m)、幅12尺(3.6m)の石橋眼鏡橋である。昭和47(1972)年4月1日川内市の文化財に指定された。 |
770 | 肝属川 | 肝属川 | 九州地方整備局 | 大隅河川国道事務所 | 水神様・田の神様(たのかんさあ) | 祭り・信仰 | 田の神様は南九州独特であり、農耕の神とされており、雨乞いの願いも込められていたといわれている。 肝属の水神様は、一般的な五穀豊饒の水神様に加え、水難避けの意もあったと思われる。田の神様は、肝属川流域に100以上はあると思われる。 水神様は、高山町に80程度あり、流域内に100以上有ると思われる。 |
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771 | 肝属川 | 肝属川 | 九州地方整備局 | 大隅河川国道事務所 | 大園橋 | 橋 | 20世紀代 | 別紙橋梁台帳の通り、車両通行不可である。 また、昭和63(1988)年に鹿屋市指定文化財となる。 |
772 | 肝属川 | 肝属川 | 九州地方整備局 | 大隅河川国道事務所 | 渡し船 | 舟運 | 20世紀代 | 昭和初期の大水害で橋が流されたりした場合、橋ができるまでの代替として渡し船が存在した。橋が存在した箇所には、橋が流出した場合にはすぐに両岸の人が話し合い、それぞれの箇所で渡し船を設置した。 |
773 | 肝属川 | 肝属川 | 九州地方整備局 | 大隅河川国道事務所 | 8月踊り | 祭り・信仰 | 18世紀代 | 江戸時代中期より伝承されている。 水神祭の儀式から発生したものと思われる。旧暦の8月1日に行われていたが、現在はその日程は一定していない。 五穀豊饒無病息災を祈願して行われてきた行事である。流域内の数カ所で現在も行われている。 |
774 | 肝属川 | 串良川 | 九州地方整備局 | 大隅河川国道事務所 | 川原園堰 | 堰・ダム | 17世紀代 | 1km程下流にも取水堰があるが、利水者が異なるため昔から取り合い等があり、改築などの為の契約書も何回も交わしている現状である。現在堰柱についてはコンクリートであるが、柴によって堰き止めている。消防用水確保のため施設の半分を撤去する。柴堰の材料は直径15cm程度が200本くらい必要としている。 |
775 | 肝属川 | 高山川 | 九州地方整備局 | 大隅河川国道事務所 | 竹林 | 水防 | 詳しい概要は資料などは無く不明である。 高山川両岸に竹や木を植えてあった。これは水害の外力を抑えるというよりも、堤防を守る、堤防の崩壊洗掘を押さえる目的だったと考えられる。高山川両岸の堤防に、竹や木を植えてあった。高山川の上流に一部竹林が残っている。 |
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