河川伝統技術データベース:分類別リスト【水制・護岸】 |
整理 番号 |
水系 | 河川名 | 局名 | 事務所名 | 名称 | 分類 | 年代 | 当該河川伝統技術の解説・由来・意味 |
3 | 十勝川 | 十勝川 | 北海道開発局 | 帯広開発建設部 | 伝統的護岸・水制工法 | 水制・護岸 | 20世紀代 | 本州において、戦国時代の治水工事の中で創案され、以後各河川に普及し、各河川の特性に応じて工夫改良され継承された工法である。 北海道では、明治43(1910)年に「北海道第一期拓殖計画」が策定され、護岸工法に関して次の考えが示された。 甲種:河岸を法切り、これに鉄線蛇籠およびコンクリート単床ブロックを敷設する。 乙種:決壊程度の軽易なる部分に対し、河岸を法切り、法面に柳枝工等を施し、また根固めとし柵および鉄線蛇籠を一列に布設する。なお、法切土を利用し、法頭の後方適当な位置に小堤防を築設し、普通洪水の氾濫を防御する。 上記より、護岸工はコンクリート単床ブロック(台棒落とし)、鉄線蛇籠、粗朶法覆工、柵工等を行っている。また、水制工については、並杭水制、枠工、牛枠などを行っている。 |
5 | 石狩川 | 石狩川 | 北海道開発局 | 石狩川開発建設部 | コンクリート単床ブロック | 水制・護岸 | 20世紀代 | 明治42(1909)年に岡崎文吉氏により、これまでに考案されていたフランス式や北村式等の他の単床ブロックと比較し、経済性、耐久性、安定性及び施工性などに優れたコンクリート単床ブロックが考案された。 このブロックの特徴は鉄筋コンクリートを用いたこと、一体の単床を構成し大水深に敷設可能なこと及び高い屈とう性などにみられ、明治42(1909)年に考案されてから幾つかの改良が加えられたものの数多くの護岸工事に使用され、昭和50年代にその幕を閉じている。石狩川の旧川である茨戸川では現在でも見かけることができる。 |
9 | 尻別川 | 尻別川 | 北海道開発局 | 小樽開発建設部 | 台棒足場 | 水制・護岸 | 20世紀代 | 昭和30年代後半ごろ、連節ブロック護岸が普及しはじめたが、北海道の河川は緩流であるため、水深の大きい所では水流の抵抗をうけて敷設が難しい状態であった。「台棒足場」は、連節ブロックの敷設を容易にするため考案された工法で、本州の治水工法にない北海道特有の工法である。川側に台棒受を設置し、台棒(丸太)を並べ、その上に敷粗朶を縦横交互に3層敷き均す。粗朶の上に鉄線を通しながらブロックを布設後、台棒受をはずして、川側から沈設する。 古い年次で施工された護岸であるが、連節ブロックは河岸の変化に追随して残っている。また平水位面以上の河岸は自然の回復力による河畔林に覆われており、護岸としての機能は充分発揮している。 |
13 | 米代川 | 藤琴川 | 東北地方整備局 | 能代工事事務所 | 木工沈床 | 水制・護岸 | 20世紀代 | 工 期:平成6(1994)年3月11日〜平成6(1994)年9月25日 施工延長:L=74m、籠マット:A=1,096m2、根固工(木工沈床):A=352m2、粗朶柵工:L=293m |
14 | 米代川 | 米代川 | 東北地方整備局 | 能代工事事務所 | 木工沈床 | 水制・護岸 | 20世紀代 | 工期:平成6(1994)年3月11日〜平成6(1994)年7月29日 施工延長:L=70.8m、籠マット:A=1,400m2、根固工(木工沈床):A=283m2、根固工(巨石400〜1,000o):V=279m |
30 | 最上川 | 最上川下流 | 東北地方整備局 | 酒田河川国道事務所 | 水制群、伊藤式護岸 | 水制・護岸 | 19世紀代 | 最上川(支川であった赤川含む)では、藩政時代から盛んであった舟運の航路維持及び洪水時の河岸決壊等を防ぐ目的で、明治17〜36(1884〜1903)年にかけて低水路工事が国直轄で実施された。内務省技手 石井虎治郎の指導のもとに実施されたこれらの事業の中で多くの水制群が設置され、その後の大正〜昭和にかけて実施された改修工事においても木工・粗朶等の沈床、牛枠・合掌枠・三脚枠等種々の工法を組み合わせた水制・護岸工事が実施されている。その後の災害等により改築等が行われつつ、水制群は現在も各所に見られる。 伊藤式護岸(格子張護岸)は、終戦直後の昭和20年代に、度重なる水害の災害復旧工事に使用した工法である。当時の最上川下流工事事務所長 伊藤美代治によって考案され、堅固で施工性に富むこの工法は、河川改修工法として一大転換をもたらした。他河川でも現在までに一般的な工法として広く使用されているものである。 |
48 | 北上川 | 北上川 | 東北地方整備局 | 岩手河川国道事務所 | 藩政時代と明治の頃の石張沈床 | 水制・護岸 | 18世紀代 | 藩政時代の寛政3(1791)年に河道保持及び航路維持のため仙台藩において構築した岩出沈床(亀張沈床)に、明治中頃になるが内務省直轄工事により改良を加えた沈床として大きな特徴がある。藩政時代の沈床の基部約70mを残して先端部を撤去し、流心に対し直角方向に水制を附加し、更にT字型に頭部をつけている。規模は幹部長さ114m、巾5.4m、頭部長さ144m、巾7.2m、杭出長114m三通り。構造は石張沈床。昭和40年代の調査においては現存している。 |
49 | 北上川 | 北上川 | 東北地方整備局 | 岩手河川国道事務所 | 明治の頃のしがら工・石張工組合せ水制 | 水制・護岸 | 19世紀代 | 明治中期において内務省直轄工事として施工した水制である。しがら工と石張工の組合せによる水制である。 (イ)〔基部〕長さ12.2m、巾6.5m。構造は水辺に詰杭を打ち、法面に従って雑割石を張り詰めている。 (ロ)〔幹部〕長さ68.5m、巾6.0m。構造は両側に径10pの親杭を打ち、胴木を結び詰杭を打ち雑割石を詰め、更にしがらをあみ、雑割石を張り詰めて施工する。 (ハ)〔頭部〕長さ68.5m、巾7.2m。構造はしがら工に雑割石を張るがブロック寸法は1列と3列目が2.3m×3.5m、2列目が2.6m×3.5mである。昭和40年代の調査においては内務省直轄施工の水制のなかで、原形を止める唯一の水制である。 |
50 | 北上川 | 北上川 | 東北地方整備局 | 岩手河川国道事務所 | 藩政時代の石張沈床 | 水制・護岸 | 17世紀代 | 北上川水運の航路維持、並びに仙台藩相去番所の附属施設として構築されたと思われる。 築造年代は明らかでないが、北上川水運が開かれた正保年間に遡るものと思われる。流心に対し、約45度の角度で下流に向け突き出している石張沈床である。 昭和40年代に露出部を実測した結果では、長さは85m、巾15m〜3.4m、水面上に露出する高さは3.3m〜0.5mである。 |
58 | 北上川 | 北上川 | 東北地方整備局 | 岩手河川国道事務所 | 第522〜528号水制群(右岸26.4km付近6基) | 水制・護岸 | 19世紀代 | 石張工(亀張沈床)。舟運の航路確保のため、旧来の河道を維持するために設置されたと思われる。頭部は流出してしまったものの、明治時代からのものが、今でも機能している。明治37(1904)年の河川台帳図を見ると、当時からこの地域には水制が多いことがわかる。第524甲水制は明治17(1884)年以降に内務省が直轄工事をしたものである。当時は幹部延長31.5m、幅5.4m、頭部延長27.0m、幅7.2mの亀張沈床と称される水制工であった。第528号甲水制は、内務省が直轄施工するところの原形を止める唯一の水制である。同水制は既に頭部を失い、現在は幹部のみが砂利河原に埋没しているが、破損は幹部に及んでいない。これらの水制群によって、当時からの流形が保たれている。 |
59 | 北上川 | 北上川 | 東北地方整備局 | 岩手河川国道事務所 | 第443〜446号水制群(右岸40.0km付近6基) | 水制・護岸 | 19世紀代 | コンクリートブロック水制。舟運の航路確保及び鵜木館の孤立を防止する目的で設置されたと思われる。6基あるうち1基以外は水制頭部にテトラブロックを設置している。水制と水制の間の護岸は、石積と詰杭がなされており、その下に(水中)に粗朶が存在する。明治37(1904)年の河川台帳図を見ると第445号、第446号以外はT字型の頭部があったが、現在は消失している。また、当水制からコンクリートを用いた水制に変わったものと思われ、水制の位置は現在と変わっていない。現在の河道が当時のまま維持されていることを考えると、その役割は大きい。 |
68 | 阿武隈川 | 阿武隈川下流 | 東北地方整備局 | 仙台河川国道事務所 | 粗朶沈床 | 水制・護岸 | 20世紀代 | 中泉護岸工事(昭和12(1937)年施工) 当施工箇所は、水衝部で堤脚洗掘のおそれがあるため阿武隈川下流改修計画にもとづき、阿武隈川本川筋左岸断面自10.00km、至10.16km間、延長140mの護岸で堤防保護を行った。 阿武隈川大堰関連事業等で改修された。 |
69 | 阿武隈川 | 阿武隈川下流 | 東北地方整備局 | 仙台河川国道事務所 | 竹柵 | 水制・護岸 | 20世紀代 | 中泉築堤仮法留工事中 泉築堤は昭和12(1937)年2月1日から着手し、継続施工中の昭和16(1941)年7月23日の台風8号の豪雨による出水で、表小段および法面が決壊した。 復旧計画中で第二予備金がくるあいだ、出水があればますます被害が増大するので、緊急に仮法面を施し、築堤土砂の流失防止を図った。 |
83 | 利根川 | 鬼怒川 | 関東地方整備局 | 下館河川事務所 | 水制 | 水制・護岸 | 20世紀代 | 水制工は、築堤に伴い低水路が堤防に接近するところを主として、護岸を張った前面に水制工を設置していった。砂ヶ原地先は、鬼怒川で護岸水制が始めて施工された箇所である。約20cm角の鉄筋コンクリート柱を3本組み合わせた「牛わく水制」の簡易的なものである。 現在でも、堅固な造りで出水に備えている。 |
86 | 利根川 | 小貝川 | 関東地方整備局 | 下館河川事務所 | 水制 | 水制・護岸 | 直径20cm程度の松杭によって2〜4列設置されている。 現在もその機能は保たれている。 |
|
108 | 利根川 | 烏川 | 関東地方整備局 | 高崎河川国道事務所 | 水制 | 水制・護岸 | リサイクルで使用済みの鉄道レールを使い、水制を作成した。作成年次は不明。 | |
128 | 利根川 | 江戸川 | 関東地方整備局 | 江戸川河川事務所 | 棒出し | 水制・護岸 | 18世紀代 | 江戸時代に江戸川の洪水を減らすため、左右岸に突堤(棒出し)を設け権現堂川から江戸川へ流入量を調整していた。その後明治時代数回にわたり改修が行われ、幅約17mのコンクリート張りとなった。棒出しの設置により、利根川下流部の水害が増大することとなった。 |
145 | 富士川 | 釜無川 笛吹川 |
関東地方整備局 | 甲府河川国道事務所 | 聖牛 | 水制・護岸 | 武田信玄の時代から伝わる甲州流河除と呼ばれる伝統的な技術。 江戸時代に書かれた地方凡例録によれば、聖牛を最初に使ったのは富士川であると記述されている。従って富士川は聖牛発祥の地である。水制工法の一つで今は全国の急流河川に見られる。本川、支川に問わず水流の激しい箇所に見られる。 |
|
173 | 信濃川 | 千曲川 | 北陸地方整備局 | 千曲川河川事務所 | 水制(大聖牛) | 水制・護岸 | 20世紀代 | 千曲川では明治43(1910)年に大水害があり、大正2(1913)年に千曲川治水会が結成され大正7(1918)年に千曲川改修工事がはじまる。千曲川距離標88kmより上流では、水衝部の洗掘箇所に水流の方向を変えないように、専ら流勢の緩和を目的として木工沈床に大聖牛を組み合わせた水制工を設置した。構造は4格間の木工沈床を堤防に沿って沈設、前面に30m間隔に幅6格間、長さ5格間の木工沈床を設置、その上に60kg軌条を構材とする大聖牛を2組ずつ施工。工事費節約のため簡易工法としている。その当時の施設が2カ所ほど有るが、いずれも沈床部分は土砂に覆われヨシが生い茂り軌条を使用した大聖牛がみえる。 |
174 | 信濃川 | 千曲川 | 北陸地方整備局 | 千曲川河川事務所 | 水制(並杭水制) | 水制・護岸 | 20世紀代 | 千曲川では明治43(1910)年に大水害があり、大正2(1913)年に千曲川治水会が結成され大正7(1918)年に千曲川改修工事がはじまる。千曲川距離標80kmより下流域では、水衝部の河岸沿の流勢緩和を目的として12cmの木杭を75cm間隔で、護岸と平行に2〜3列連続して打ち込んだ木柵水制(並杭水制)で流速を減じ護岸基礎の洗掘防止及び土砂の堆積を図る工法として用いられた。千曲川下流部の水衝部に多く用いられた工法で有り水面上部は腐朽しているが、今でも所々に見ることができる。 |
175 | 信濃川 | 犀川 | 北陸地方整備局 | 千曲川河川事務所 | 水制(杭出水制) | 水制・護岸 | 20世紀代 | 千曲川では明治43(1910)年に大水害があり、大正2(1913)年に千曲川治水会が結成され大正7(1918)年に千曲川改修工事がはじまる。 犀川下流部では、流水に障害を与えて流速を減じ土砂の堆積を誘致することを目的とし8〜12cmの木杭を75cm間隔に5列打ち、水制の長さ15〜20mで長さの1.5倍間隔で河岸に直角に設置。水制の基部と石張との間には鉄線蛇篭を敷設(元付)、最後列には杭間に1本づつ杭を打って流速を更に弱め、土砂の堆積を促した。水制の先端部は流水の衝撃により深掘が生じやすいことから水制は低く杭は細いほど抵抗が少ない。 犀川下流部の水衝部に多く用いられた工法であるが現在は見当たらない。 |
179 | 信濃川 | 千曲川 | 北陸地方整備局 | 千曲川河川事務所 | 松代清野亀腹水制 | 水制・護岸 | 20世紀代 | この水制は昭和初期に巨石を組み合わせ築造されたもので、亀腹水制・亀甲水制といわれている。その後損傷がはげしく平成3(1928)年に補修復元された。この付近は水衝部で一期改修当時に施工された木造並杭、木工沈床などが見られた。神田川合流点高水敷高台には、見事な榎木の河川公園があり風光明媚な河岸となっている。 |
213 | 黒部川 | 黒部川 | 北陸地方整備局 | 黒部河川事務所 | 黒部川の水防工法 川倉工 | 水制・護岸 | この工法は、一般に急流河川に用いられ、黒部川では藩政時代から使用されていた。堤脚に逆出しに据えて崩壊面を直接保護する場合と、本出しに使って水当たりを緩和させる場合とがある。逆出しは頭部を堤防側に置き、棟木を水流と直角よりやや上向きに水中に入れ、ただちに蛇籠か石俵を重しとして乗せる。 黒部川の水防工法として現在も、黒部川水防訓練時には伝統工法の一つとして実施されている。 |
|
222 | 常願寺川 | 常願寺川 | 北陸地方整備局 | 富山河川国道事務所 | 巨大水制群(ピストル水制等) | 水制・護岸 | 20世紀代 | 北陸の急流河川工法は、昭和23(1948)年までは木材と石の組み合わせによる木工沈床等であったが、土石の流下が激しい急流河川では6年ほどの耐久年数しかなかった。当時、富山工事事務所長であった橋本規明氏はコンクリートを使用した急流河川工法を研究し、それを実施した。常願寺川左岸、富山市西ノ番には水制ではピストル型水制、シリンダー型水制等、根固工では十字ブロック、カーテンブロックなど偉大な河川工法として現在も残っている。 |
233 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 根固工(赤松丸太の使用) | 水制・護岸 | 20世紀代 | 赤松丸太を桝形に組んで中に石を詰めたもの。 堤防の根元を固める沈床据付工事で、末口5寸の赤松丸太を内法6尺四方の桝形に組んでボルトで締め付け、その底は小段の端取石に胴木の敷面に合わせて小段の根元に据える。堤防に沿って三列(みならび)から四列にして必要な長さに組み並べる。中に石を詰めるが、流れに逆らわないように並べ重ねる。内務省の直轄工事になってからだと思うが、沈床の根元から合掌組を建てて、水制を兼ねた合掌枠(または合掌枠沈床)を施すようになった。 |
235 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 鉄線蛇籠 | 水制・護岸 | 20世紀代 | 鉄線でできた蛇籠。 昭和9(1934)年の大水害以前、川北の手取本流で用いられた蛇籠は明治中期に決められた七ヶ用水組合の規格同様、長さ5間(2、3、4間のも造られた)、直径2、3、4尺の3種類があり、たて系列の建(竪)竹やそれを取り囲む輪竹の材料の寸法も決められていた。水害直後の昭和10年同組合が規定したものには、本流でも長さ5間、直径4寸、サシ1寸、マワシ1寸2分のものが普通であった。蛇の目の大きさは8寸ほどであった。水防小屋に保管された竹籠やその他の水防材料については、県の定期的な検査が行われた。そのため、住民は規格通りにつくるため苦労している。水害後は鉄線蛇籠が一般化し、強度も強まった。 現在も、保元袋堤などに保存されている。 |
236 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 川鞍 | 水制・護岸 | 19世紀代 | 堤塘に突込む水勢をはね出したり、流れの方向を変えたりする水制工。 |
248 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 竹蛇籠 | 水制・護岸 | 19世紀代 | 竹でできた蛇籠 |
249 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 木籠 | 水制・護岸 | 19世紀代 | 木でできた蛇籠 |
252 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 張出工(合掌枠沈床) | 水制・護岸 | 20世紀代 | 沈床と合掌枠とを組み合わせた合掌枠沈床。 |
291 | 梯川 | 梯川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 杭護岸 | 水制・護岸 | 18世紀代 | 杭を連立させ、水際杭に栗石を投入した工法。なお、杭には腐りにくく、耐久性のある栗の木を用いている。 |
302 | 安倍川 | 安倍川 | 中部地方整備局 | 静岡河川事務所 | 中聖牛・川倉 | 水制・護岸 | 18世紀代 | 安倍川では1800年代から用いられてきた水制で、丸太を櫓のように組んで、岩石の重りをつけた構造。 戦後次第にコンクリートブロックに取って代わられたが、人力で比較的簡単に施工できること、間伐材が利用できること、景観が良くなること、生態系にやさしいことなどから、近年伝統的な水防工法として、見直されている。 |
314 | 天竜川 | 天竜川上流 | 中部地方整備局 | 天竜川上流河川事務所 | 鉄線蛇篭 | 水制・護岸 | 20世紀代 | 鉄線で編んだ篭の中に河原の石を詰め、水が当たる部分に敷きならべ、堤防の土砂が削り取られるのを防ぎます。 昔は竹で篭を作っていましたが、天竜川で竹の代わりに鉄線を使う工法の特許が取られました。 |
325 | 矢作川 | 矢作川 | 中部地方整備局 | 豊橋河川事務所 | 柳技工 | 水制・護岸 | 矢作川の標準的な低水護岸として柳枝工を施工している。 | |
339 | 木曽川 | 木曽川 | 中部地方整備局 | 多治見砂防国道事務所 | 水制工法 | 水制・護岸 | 18世紀代 | 江戸時代以前、全国の河川で行われていた治水工法を見聞して取りまとめられたもの。 工法:石出、蛇籠出、笈牛、棚牛、大聖牛、枠出、尺木牛、尺木垣、菱牛、土出、立竹。 地方凡例録 巻之九上「地方堤防全書」 大石久敬原著 日本史料選書C近藤出版社刊 普請方之事、堤築立算法之事の中で取りまとめられている。 |
345 | 木曽川 | 木曽川 | 中部地方整備局 | 木曽川上流河川事務所 | 将監猿尾 | 水制・護岸 | 17世紀代 | 美濃郡代であった岡田将監によって慶長13(1608)年に築かれた。 猿尾は水制の一種であり、猿の尾のように細長い小堤を岸から川へ突き出し、水勢を弱めようとするもので、一般に長大で石で被覆されたものが多い。猿尾には、大きさ、築いた人の名前、藩名、地名をとって○○○猿尾と称されているものがある。一部現存。 |
346 | 木曽川 | 木曽川 | 中部地方整備局 | 木曽川上流河川事務所 | 石田猿尾 | 水制・護岸 | 18世紀代 | 宝暦3(1753)年から行われた宝暦治水の遺跡のひとつであり、木曽川右岸石田村から、川の本流へ突きだした石堤で、対岸にある木曽川の派川、佐屋川口が閉塞し通水が悪くなることを排除する目的で築かれた。 猿尾は水制の一種であり、猿の尾のように細長い小堤を岸から川へ突き出し、水勢を弱めようとするもので、一般に長大で石で被覆されたものが多い。猿尾には、大きさ、築いた人の名前、藩名、地名をとって○○○猿尾と称されているものがある。現存。 |
351 | 木曽川 | 長良川 | 中部地方整備局 | 木曽川上流河川事務所 | 聖牛 | 水制・護岸 | 20世紀代 | 各種のタイプのものが戦国時代以降に発達した。 牛類は、部材で三角錐体あるいは方錘体を組み、これを大玉石または蛇籠等の錘により河床を安定させる水制。 |
354 | 木曽川 | 木曽川 | 中部地方整備局 | 木曽川下流河川事務所 | ケレップ水制 | 水制・護岸 | 19世紀代 | オランダ人技師によって伝わる。 水制を作ることによって川の流れが水制にあたり流れが柔らかくなる。このため水制があると、堤防への水あたりも弱くなり堤防が崩れることが無くなる。 木と石によって作られた水制は多くの水生植物が生え、この下には魚が来て産卵するため、水鳥も来るなど、動植物にも役に立っている環境に配慮した工法である。 様々な種類の動植物が観察でき、豊かな自然環境となっている。 |
377 | 円山川 | 大谿川 | 近畿地方整備局 | 豊岡河川国道事務所 | 河川改修 | 水制・護岸 | 20世紀代 | 大正14(1925)年5月23日北但大震災により、城崎町だけで死者272人、温泉街は焼け野原となるほどの破滅的被害を受けた。その復興として、昭和初期震災による延焼を教訓として公共施設を中心に鉄筋コンクリート造りとし、「まちの防火壁」にし、また、来るべき車社会を予測して所有地の1割を道路・河川の拡張に充てたり、温泉街を流れる大谿川の護岸に玄武岩を積み、川に沿って柳・桜を植樹するなど狭い谷間という制約を逆手にとって、豊かな自然を背景に整備されてきた。 将来のまちづくり・町並みを考えての計画であり、その一部として円山川から舟で上がれる王橋まで、玄武洞から玄武岩を舟で運び、そこより下流の護岸にそれを用いている。 大谿川に沿って続く柳・桜並木、玄武岩を配した護岸と石造りの太鼓橋、木造二・三階建ての家並みが続く「湯の町」として、情緒あふれる城崎温泉地区の町並みを形成している。 |
438 | 淀川 | 淀川 | 近畿地方整備局 | 淀川河川事務所 | 淀川修築工事と粗朶沈床工 | 水制・護岸 | 19世紀代 | 粗朶沈床工というのは、粗朶を束ねて組んだものを杭であみつけ、砂利、割石などをおもしとして河岸から水中につき出したもので、これによって低水路を固定すると同時に、その水深を維持するものである。 |
464 | 旭川 | 旭川 | 中国地方整備局 | 岡山河川事務所 | ケレップ水制 | 水制・護岸 | 20世紀代 | 低水時の流水幅を意図的に狭めて流速をあげることにより、土砂堆積を抑え、舟運に必要な水深を確保するために設置された水制群。明治政府によって招聘されたお雇い外国人技師、A.T.L.R.Mulderの構想を元に建設された。 |
469 | 旭川 | 旭川 | 中国地方整備局 | 岡山河川事務所 | 石積み水制 | 水制・護岸 | 17世紀代 | 岡山城築城の際、旭川を堀の一部とするために、城の北側から東側にかけて城に沿うように流れを付け替えた。 貞享4(1687)年から岡山城の北側に後楽園の建設が始まったが、この流路の付け替えにより後楽園が水衝部となるため、後楽園の河岸防御のために設けられた。 法勾配5割程度の間知石積となっており、中国の黄河で古くから使われている技術が導入されている。 |
481 | 高津川 | 高津川 | 中国地方整備局 | 浜田河川国道事務所 | 聖牛 | 水制・護岸 | 16世紀代 | 戦国時代に武田信玄が使用した治水工法であり、奈良朝時代に用水路に用いられたものが原形とされている。平成2(1990)年に間伐材を用いて3基増設した。その他、数箇所で施工。 |
486 | 太田川 | 太田川 | 中国地方整備局 | 太田川河川事務所 | 本郷惣囲ひ(ほんごうそうがこひ)(川除と水刎) | 水制・護岸 | 19世紀代 | 古来、太田川流域の村々は、水害対策に苦心を重ねてきたが、江戸時代の坪野村本郷の水害防御施設は特に入念なものでした。 文政9(1826)年当時でみても、全長353間の河川敷を石敷きにして築き固め(これを川除という)、要所には石垣61間と土手88間を築いています。さらに急流部には9〜20間の石枠も伏せられており、以上の総延長は実に551間(1km)にも及んで、「本郷惣囲ひ」と呼ばれました。 また嘉永6(1853)年には藩主導の大普請が行われ、三角に突き出した巨大な石組「水刎」も5箇所に作られました。 この「水刎」は堤防を強化するとともに水勢を弱めるために作られたと見られており、その構造は先端部に高さ1.5m、奥行2.1mの石を配し、三角形に突き出した岬状の石組で、三角形の一辺の長さは、上流側で27mもあります。 |
493 | 太田川 | 太田川 | 中国地方整備局 | 太田川河川事務所 | 加計町坪野の水はね | 水制・護岸 | 19世紀代 | 文政2(1819)年の「国郡志御用に付村方下しらべ調」によれば、当時5箇所の水はねの存在を示す記述があり、嘉永3(1850)年の大水害等により被災したため直後に藩の代普請したものが現存している。 |
504 | 吉野川 | 吉野川 | 四国地方整備局 | 徳島河川国道事務所 | ケレップ水制 | 水制・護岸 | 19世紀代 | ケレップとはオランダ語で水はねを意味する「Krib」がなまってケレップとなったと考えられている。ケレップ水制は水の流速をゆるめ、堤防等に対する洪水の力を弱めることを目的としている。普通、流れに対して直角に突き出した頭部に横工を設けたT字型をしているが、当所のケレップ水制は縦工が低水護岸に平行な形で施工されている。吉野川の第一期改修工事の時各所に設けられ、補修されながら現在も残っている。藍住町中富の北岸堤防の道路から干潮時に見ることができる。 |
523 | 那賀川 | 那賀川 | 四国地方整備局 | 那賀川河川事務所 | 水刎岩「大岩」 | 水制・護岸 | 19世紀代 | 弘化2(1845)年に水刎岩「大岩」築造。 18世紀末に築造された万代堤は毎年のように洪水によって破損することから、上流の古毛覗石山より巨大な石(長さ約9m、幅約7m、周囲約23m)を掘り出して川に落とし、水刎効果を期待したものである。 現在でも同位置に残っている。 |
538 | 重信川 | 石手川 | 四国地方整備局 | 松山河川国道事務所 | 曲げ出し | 水制・護岸 | 18世紀代 | 足立重信の作った石手川の新河道は、川幅は長大であったが川底が浅く、水制工として千鳥掛けの波戸(鎌なげ)を構築したようであったが、当時治水の根源をなす治山が不十分であったため、土砂流出が激しく、河川はたびたび氾濫し、堤防が決壊していた。そこで、享保8(1723)年に西条浪人大川文蔵が、石手川の一大改修を行った。 足立重信の改修方法とは異なり、川幅を減じ水利を改め川底を深くして河芯に直線に突出する水制工(曲げ出し)を採用し、石手川の改修を行った。 大川文蔵が作った曲げ出しは今でも石手川公園の中に少し高い土地となって残っているところがある。 |
542 | 肱川 | 肱川 | 四国地方整備局 | 大洲河川国道事務所 | なげ | 水制・護岸 | 17世紀代 | 大洲藩の二代藩主加藤泰興は、その時代に最も優れた治水施工者といわれた反田八郎兵衛に命じて「なげ」を築く河川工事を行いました。 その設置の目的としては、 @洪水時の水勢を変えて堤防を保護する。(治水) A城山下へ深渕をつくって城の要害を堅固にする。(軍事) ことにあったようです。 @の目的は、まさに現在でいう不透過水制そのものです。 Aの目的は、城山下への土砂の堆積を防ぎ、軍事上の要害を守ろうとするものであったことが伺えます。 また、肱川を行き来した川舟の船着場としても利用されたということです。 かつては、肱川の川沿いに何カ所もあったということですが、今では8カ所現存しています。 |
553 | 物部川 | 物部川 | 四国地方整備局 | 高知河川国道事務所 | 辨慶枠 | 水制・護岸 | 20世紀代 | 大正9(1920)年7、8月の洪水で破堤した区間のうち、河床の洪掘が甚しい箇所において、水制工事が困難を極めたため、弁慶枠工法により施工し、効を奏したと記述されている。 根固工は、コンクリート製の沈床ブロック、井桁ブロック内に雑石(40p程度)を充填する工法にて、また低水法面部は巨石張(2t/個程度)にて施工している。 |
561 | 仁淀川 | 仁淀川 | 四国地方整備局 | 高知河川国道事務所 | 水制(聖牛) | 水制・護岸 | 20世紀代 | 河床の上に粗朶束を敷き、その上に玉石を敷き並べ木枠を組み、竹製の蛇籠で押し込んだ透過性の水制。 コンクリートの護岸が整備され、聖牛はない。 |
567 | 渡川 | 四万十川 | 四国地方整備局 | 中村河川国道事務所 | 粗朶沈床 | 水制・護岸 | 20世紀代 | 粗朶沈床は緩流部の根固及び水制に適し、下層が格子状の小枝束、中層が3段の柴束(粗朶)、上層は土砂又は栗石の構造で、針金又は麻紐等により連結されている。 この工法はくっとう性に富み、凹凸のある河床に密着でき、重ねて設置を行うことができる。また、柴束は大小の穴を有しているため、仔魚やエビ等の生息場として期待できる。 四万十川でも昭和9(1934)年、14(1939)年、34(1959)年に緩い水衝部において施工実績が見られ、平成9(1997)年には再現施工を行った。 |
568 | 渡川 | 四万十川 | 四国地方整備局 | 中村河川国道事務所 | 木工沈床工 | 水制・護岸 | 20世紀代 | 木工沈床は、一般に格子状の木枠に栗石以上の大きい石を詰めた根固床止工で、水流に対して強度があり、粗朶沈床に比べ比較的水衝部に使用される。四万十川においても昭和初期より施工がされており、平成9(1997)年には、片勾配をつけた片法枠沈床を再現施工を行った。 |
569 | 渡川 | 四万十川 | 四国地方整備局 | 中村河川国道事務所 | 杭柵工 | 水制・護岸 | 20世紀代 | 杭柵工は、護岸基礎や法止等に使用される工法で、水流に強く、水衝部での使用実績が多い。四万十川では平成8、9(1996〜7)年において、法止めに埋設する形で設置を行い、盛土の安定を図るため使用を行った。 |
570 | 渡川 | 四万十川 | 四国地方整備局 | 中村河川国道事務所 | 柳枝工 | 水制・護岸 | 20世紀代 | 天然素材の柳枝と粗朶により桝型の編み込みを作成し、その内部に土砂又は栗石を詰める工法で、施工後の柳の生育により、洪水時に河岸の流速を弱め法面保護を行うことができる。この工法は施工地付近に生える柳を使用することから安易に材料を現地調達できる工法として考えられている。しかし、柳枝の大量確保が難しいため、柳枝を小枝(帯梗)に変え、柳を刺し木する改良された柳枝工(四万十川でも平成9(1997)年に再現施工を行った)も見られる。 |
571 | 渡川 | 四万十川 | 四国地方整備局 | 中村河川国道事務所 | 具同水制(大バネ,小バネ) | 水制・護岸 | 四万十川具同地先に存在する下向水制で、度重なる被災によるため、表面は練石張により固められている。施工時期等は不明で古くより存在すると言われる。 | |
572 | 渡川 | 後川 | 四国地方整備局 | 中村河川国道事務所 | 箴杭工 | 水制・護岸 | 20世紀代 | 四万十川では昭和初期から中期にかけ主に沈床として使用されている。姿は杭打片枠工と呼ばれる木枠前面に杭柵を設置した風貌に近い。施工は水面下に行われている箇所が多いためか、現在でも一部現存し干潮時に姿が見られる。 |
592 | 六角川 | 六角川 牛津川 | 九州地方整備局 | 武雄河川事務所 | 荒籠 | 水制・護岸 | 護岸基礎部の洗掘を防止し、流向を変えて下流や対岸のガタ土堆積をコントロールする。 今もなお、その機能を果たしている。 |
|
604 | 筑後川 | 筑後川 | 九州地方整備局 | 筑後川河川事務所 | 水刎(百間刎・千間刎) | 水制・護岸 | 17世紀代 | 水刎は、筑後川中流部、特に恵利堰上流の両岸等に設置された。水刎は河岸から水流に対し下流向きに(場合により直角に)築造され、水衝部を相手側に刎ね出すことで、自藩側の河岸の防護、あるいは流路の安定や水深の維持を有利にすることを目的とした。 現在では、恵利堰(三井郡大刀洗町)付近から上流の朝倉郡杷木町付近で、昔のままの姿が今も見られる。 |
605 | 筑後川 | 筑後川・早津江川・諸富川 | 九州地方整備局 | 筑後川河川事務所 | 荒籠(あらこ) | 水制・護岸 | 17世紀代 | 荒籠は、筑後川中・下流部や早津江川において、河岸のほか、舟運のための川幅や水深の確保、干潟の造成、河岸への昇降等、多くの目的で設置された。その他に分派量の制御、用水路への流入土砂防止などの目的で用いられるものもある。 水流に向かって直角、もしくは下流に向け土石を突き出すことにより、急流をやわらげることで、河岸保護の役割を果たし、堤防を守った。また、川の流れに変化を与えて河岸の浸食を防いだ。荒籠は設置した側を浸食する一方、対岸の陸地を削る作用があるため、川を挟んで向かい合った藩ではしばしば荒籠を巡って争いが起こった。 現在では、明治時代の河川工事で多くの荒籠が取り除かれたり、一部改修され短くなっているが、筑後川河口付近から筑後大堰付近、または早津江川や諸富川では現在も荒籠を見ることができる。 |
626 | 菊池川 | 菊池川水 | 九州地方整備局 | 菊池川河川事務所 | 石刎 | 水制・護岸 | 16世紀代 | 加藤清正の河川事業 川が大きく曲がっている箇所で外側の川岸に水が激しくあたって岸や堤防が削られるのを防ぐために築造された。現在も玉名市の各所で残存している。 |
664 | 山国川 | 山国川 | 九州地方整備局 | 山国川河川事務所 | 石堤の水はね | 水制・護岸 | 17世紀代 | 江戸時代慶長年間に中津城に入った細川三斎(忠興)は、大家川の締切で流量が増える山国川を城の西側の外掘に見立て、城を堅固に守るために石堤の水はねを設けた。 その後、明歴元(1655)年と寛文9(1669)年7月18日の2度の洪水で、左岸の子犬丸村につながっていた小祝が完全に島として切り離され、今日に至っている。 |
753 | 番匠川 | 番匠川 | 九州地方整備局 | 佐伯河川国道事務所 | 聖牛群 | 水制・護岸 | 20世紀代 | 聖牛は武田信玄の創案になるものと云われており、専ら山梨県の釜無川や笛吹川に施工されていたが、信玄の勢力圏拡大に伴い他河川に伝わり、享保年間(1716〜1736年)以後から各地に流布したものである。番匠川はその源を大分県の三国峠に発し、支川久留須川・井崎川・堅田川を合わせ佐伯湾に注ぐ河川であり、上流部の地形は急峻な山が多く、山麓沿いに発達し屈曲の多い急勾配の渓谷をなし、下流部は比較的谷間が開け河床勾配もやや緩やかになっている。当聖牛は下流部である番匠川本川左岸の5K100〜5K500付近までの延長約400mにわたり、昭和初期頃に約20基施工されたものと思われる。当地区には砂州が形成され生態系の保全に効果を発揮しており、野鳥が合掌木等を止まり木に利用し、地域住民からも好評を得ていたが、過去の洪水により流出や破損等が見受けられ老朽化が著しかったため平成13年(2001)年に改築した。 |
760 | 大淀川 | 大淀川 | 九州地方整備局 | 宮崎河川国道事務所 | 田吉水制 | 水制・護岸 | 20世紀代 | 大淀川下流域では、洪水流の堤防への激突を緩和させ、堤防の安全を図ると同時に、河床の安定を図るための水制工が数多く施工されてきた。 大淀川右岸下流(0.35km〜2.2km)付近には、田吉水制と呼ばれる木杭による水制工が昭和9(1934)年頃から施工されている。 |
763 | 大淀川 | 大淀川 | 九州地方整備局 | 宮崎河川国道事務所 | 伝統工法 | 水制・護岸 | 20世紀代 | 昭和初期の施行と思われる胴牛(水制)の朽木跡がある。 大淀川4km400付近右岸の水衡部が水制(胴牛)と詰杭基礎玉石張が見られる。 近年の災害復旧工事により消失。 昭和40年代にコンクリート制の胴牛が設置されていた。 |
![]() |