河川伝統技術データベース:分類別リスト【水防】 |
整理 番号 |
水系 | 河川名 | 局名 | 事務所名 | 名称 | 分類 | 年代 | 当該河川伝統技術の解説・由来・意味 |
75 | 阿武隈川 | 荒川 | 東北地方整備局 | 福島河川国道事務所 | 水害防備林 | 水防 | 19世紀代 | 始まりは自然発生。時期不明、植林は19世紀に入ってから。 ・地蔵原付近からさくら橋までの約7kmにわたり、両岸に連なる。 ・アカマツが主木。 ・過去のたび重なる洪水から土石流を防ぐ。 床固、霞堤とあわせて荒川における治水対策として位置づけられる他、水林公園や民家園として、市民の憩いの場となろうとしている。 |
94 | 利根川 | 利根川 | 関東地方整備局 | 利根川上流河川事務所 | 水塚 | 水防 | 18世紀代 | 宅地の一角を特別高く盛土し、そこに設けた避難用の建物。米や穀物等生活物資を蓄えておき、洪水時には避難場所として利用された。 |
146 | 富士川 | 笛吹川 | 関東地方整備局 | 甲府河川国道事務所 | 万力林 | 水防 | 「万力林」(まんりきばやし)は、笛吹川が造る扇状地の扇頂部にある。扇状地の出口で川が乱流し、現在でも甲府盆地東部の治水の上で重要なところである。万力林の下流には山梨市正徳寺・春日居町・石和町・甲府市川田町があり、計画高水流量は1,600m3/s、河床勾配は1/60の極めて急流。万力林は松を主とした水害防備林と霞堤の組み合わせからなっている治水施設。 この「万力林」の役目は、もし洪水時に笛吹川が氾濫した場合は密生している松の大木によって流木や土砂を防除し、氾濫した洪水を霞堤の開口部から笛吹川の河道に戻すためであり、「万力」の地名はすでに南北朝時代(1331〜1391年)の記録に見え、万人の力を合わせて堅固な堤防とする願いを込めてつけられたと伝えられている。 |
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149 | 信濃川 | 信濃川下流中ノ口川 | 北陸地方整備局 | 信濃川下流河川事務所 | 水倉 | 水防 | 明治期に多くつくられた。度重なる水害から身を守るため、高く土盛りし、その上に倉を建て、災害時でも生活できるよう作られたもので、多くは2階式の土蔵作りになっていて、1階に食料を、2階に衣類などを保存した。旧信濃川である中ノ口川の周辺に時代的に古い水倉が集中している。当時を知る上での資料となっている。 | |
237 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 木流し | 水防 | 19世紀代 | 木を切り、葉のついたまま欠潰箇所にながすもので、水勢の強い場合は、枝に土俵をつけることもある。 |
246 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | かやぶきの家 | 水防 | かわら屋根の家は重くて、洪水時には屋根もろともつぶれ下敷きになる危険性が高いが、かやぶき屋根の家は水に浮くため命が助かるという言い習わし。 | |
247 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 太鼓(水害を知らせる) | 水防 | 20世紀代 | 洪水時に太鼓をたたき災害を知らせた。 |
289 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 石蔵 | 水防 | 昭和9(1934)年の水害以降、手取川と中島用水に挟まれた川北町の西の外れや、橘、橘新、朝日の各地区に多く建つ。水害の備えで石を積み上げ、内側に土を塗った蔵。 | |
303 | 大井川 | 大井川 | 中部地方整備局 | 静岡河川事務所 | 船型屋敷、三角屋敷 | 水防 | 大井川下流は、常に河道が変化していた。 河道を定着させるまでの間は、洪水対策として個人で家を守る知恵を持った。 輪中と同様であるが、急流河川であるため、上流に向かって舟型や三角に土手を築き、洪水から家を守った。 藤枝市、大井川町等各地区に少し残っている。 |
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322 | 豊川 | 豊川 | 中部地方整備局 | 豊橋河川事務所 | 水屋 | 水防 | 豊川沿いの集落は、かつてほとんどが霞堤からなっていたことから、出水ごとに洪水が進入してきた。水の届かない高さまで石垣を積んで、その上に家屋(水屋)を建て、洪水の時は避難した。(だんべ船) | |
363 | 由良川 | 由良川 | 近畿地方整備局 | 福知山河川国道事務所 | 水害防備林 | 水防 | 17世紀代 | 由良川とその支流土師川の合流点に位置する藪で、明智光秀が由良川の流れを北に曲げるために作ったといわれる。 また、洪水時には上流から押し寄せる由良川の水勢を弱め、蛇ヶ端の集落を守る為に役立ってきた。しかし、昭和27(1952)年の土師川堤防改修で大部分取り払われ、現在は北端部のみが残る。 |
394 | 淀川 | 野洲川 | 近畿地方整備局 | 琵琶湖河川事務所 | 水害防備林(太郎の林) | 水防 | 堤防保護に対する人々の努力の一つに植林がある。中主町の乙窪(おちくぼ)は野洲川右岸の堤防下に位置する村であり、その村名の示すごとくかなり凹地に位置しているため、堤防が決壊した場合には濁流がそこに集中する。このため堤防一帯に薮をつくり、乙窪堤防組の名において薮林内に立ち入りを禁じ、その規制を犯す者には制裁を加える旨の立て看板により、保護を行ってきた。 また、他にも一定の地域を各戸に配分して松、その他の樹木を植林している村や、村の共有林としてある一定日のみ共同の立入を解禁し、薪としての伐採を許している村もある。いずれにしても無制限の伐木を防いできたものであり、そうした地域では堤防の木々はいまや鬱蒼として一大景観をなしている。 |
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400 | 淀川 | 木津川 | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | 水害防備林 | 水防 | 木津川筋にも、旧藩時代から古い水害防備林があり、木津町で「御立藪」、加茂町で「御藪」と呼ばれ、立派に機能していた。上流の伊賀には、木津・加茂のように大規模なものはなかったが、「竹林八町藪」や「永富藪」があった。近世では、竹藪の防災的・経済的価値が重んじられていた。 | |
479 | 江の川 | 江の川 | 中国地方整備局 | 浜田河川国道事務所 | 水害防備林 | 水防 | 8世紀代 | 文献によると約1200年前に大和朝廷より江の川の治水を命じられた笹畑某が治水、産業振興の為に河川沿岸に竹林の造成を行ったとされている。昭和初期ごろまでは、地域産業の一つであった。 洪水コントロールを目的としたものである。また、竹産出の場ともなって地域の農事と密接な関係があった。 江の川はいまだに多くの水防林が存在している。 |
508 | 吉野川 | 吉野川 | 四国地方整備局 | 徳島河川国道事務所 | 田中家 | 水防 | 19世紀代 | 吉野川の洪水から家を守るようにまるで一枚岩のように見事に積み上げられた石垣が、当時の藍商の全盛時代を思わせる田中家(国重要文化財)。石垣は洪水のやってくる(吉野川の)方向が高くなっており、鳴門の撫養石や徳島特産の青石(緑色片岩)が使われている。これほど緻密に積み上げられた石垣はなかなか見当たらないだろう。母屋を中心に土蔵、納屋、番屋、座敷、藍の寝床、門など敷地内11棟の建物全体が完成するまでに約30年の歳月をかけたと言われている。母屋は茅葺きで洪水で水が屋根まで来ると、屋根が浮き上がり船の代わりになるようになっているという。屋根へははしごを使ったり、内側からカマなどで屋根を切り裂いてそこから上がることになる。また軒下には県下で一艘だけという平らな船があり、これが救助船の役目をすることになっている。家が屋根までつかるような大洪水が来れば、茅葺き屋根や小さな船がどれだけ役立つのか想像がつかないが、吉野川の洪水の恐ろしさを知っていた当時の知恵者は、ここまでして緊急事態に備えた危機管理を考えていたということであろう。 |
510 | 吉野川 | 吉野川 | 四国地方整備局 | 徳島河川国道事務所 | 郡境石(ぐんきょうせき) | 水防 | 19世紀代 | 洪水は家屋の流失や田畑をだめにするだけでなく、しばしば町村の境界線まで不明にしてしまう。隣地との目印のために木や根の深い草を植えたりしていたが、大きな洪水では役に立たない。郡界石はその名の通り郡の境界の目印となるもの。 郡界石はいつ建てられたかは不明だが、明治7(1874)年に描かれた絵図に「此所に三郡四ヶ村の境石有」と注記されていることや、石に刻まれた字体から推して江戸時代後期のものと言われている。 場所は吉野川と江川に挟まれた洪水の多い地域で、麻植・板野・名西の境を明らかにするために建てられた。全長190p、埋込部分約80p。 正面には「西條 瀬部 高原 牛ノ島 四箇村之四ツ境」、右面には「此石ヨリ南牛ノ島村圓通寺東圍之薮東北之隅之立石迄三百二拾三間四尺」、そして左面には「麻植 板野 名西 三郡之三ツ境」と刻まれている。もしも此の大きな石が流失するようなことがあっても、洪水の心配のない圓通寺の高台に設けられた立石(基準石)によって元の場所(立石から真北に323間4尺の地点)に復元できるようにしてある。 そして現在でもこの場所は麻植・板野・名西の境、上板町・鴨島町・石井町の境である。 また、吉野川沿川には、田畑の境界が氾濫の後からわからなくなったために、あぜのすみに低木を植える習慣が受け継がれ、今も残っている。 |
515 | 吉野川 | 吉野川 | 四国地方整備局 | 徳島河川国道事務所 | 石囲いのある家 | 水防 | 石囲いのある家は、城構えの家と同様に洪水から家屋の流失を免れる手段の一つで美馬郡脇町別所には現在も2軒残っています。 そのうち高部家の石囲いは高さ1.8m、底幅3〜4mで、天幅2mほどもあり総延長は100m以上で昔のままの状態で残っています。 この石囲いは個人が築いた石巻堤で水の流れが直接あたる東西側と南側に設けられています。洪水が発生すれば石囲いの上に飲料水を汲みおいた桶をあげたり、また流木等が流れ寄せてきたら石囲いの上から棒で押しのけていたといいます。 |
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517 | 吉野川 | 吉野川 | 四国地方整備局 | 徳島河川国道事務所 | 水防竹林 | 水防 | 吉野川の竹林は、吉野川があまりにも大きかったため、窮余の策として築堤の代わりに積極的に田畑を守るため植えたもので、江戸時代にはタケノコ奉行なるものが存在したほどである。竹が成長して大きな薮ができれば堤防が丈夫になった。また竹は軍事の物資としても重要で、一石二鳥であった。当時の川田村・瀬詰村の薮に関する記述の中で、郡代たちは非常に竹薮に執心しており、川沿いの土地にくまなく竹を植えさせ、水防の用に足すように記している。 現在、吉野川下流においては善入寺島より上流付近にしか見られないが、連続堤防の完成する以前には、下流にも至るところにあった。瀬詰の区有竹林もそうした地区の共有の財産として受け継がれ、今に残っている一つである。 |
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540 | 重信川 | 石手川 | 四国地方整備局 | 松山河川国道事務所 | 松並木 | 水防 | 17世紀代 | 足立重信は、慶長5(1600)年に伊予松前城(現在の松前町)を城山(現松山城)に移すにあたり、城山近くを流れ伊予灘に注いでいた湯山川(現石手川)の流れを南西に変え重信川に合流させ、慶長12(1607)年に竣工した。 新水路の両岸には堅牢な堤防を築造し、特に松山城を守る右岸堤を強大にし、そこに松を植えて、延長約16kmにわたる長堤をつくった。 現存せず、不明。 |
541 | 肱川 | 肱川 | 四国地方整備局 | 大洲河川国道事務所 | 水防林(竹藪等) | 水防 | 肱川には、川に沿って竹藪やエノキ等の大木があり、肱川の流れや周囲の山並みと美しく調和しています。 この河畔林の中には、大洲藩が肱川の治水対策のため竹とエノキを混植した御用藪と呼ばれる林があります。竹の根は土砂を噛んで蛇籠の役目をし、その蛇籠をさらに大きくて深いエノキの根が根固めするという方法で洪水から堤防を守ってきました。また、洪水が堤防を乗り越えて溢れたときも、水の勢いを和らげ、大きな流木やゴミの進入を防ぎ田畑を流出から守りました。しかも、竹藪がフィルターの役目をして、細かい土砂(タル土)をとおし肥沃な田畑としました。 菅田・柚木・若宮・五郎には竹藪(マダケ・ホテイチク)の中にエノキの並木の堤防があり、多田・八多喜には竹藪(マダケ)の堤防が続いています。改修前の矢落川・久米川・嵩富川の堤防には、肱川本流と違ってここだけにメダケを植えて、沿岸の田畑が影にならない配慮が偲ばれます。 |
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545 | 肱川 | 肱川 | 四国地方整備局 | 大洲河川国道事務所 | 境木 | 水防 | 肱川の五郎・若宮地区は、川に沿って畑地が広がっており、現在の堤防ができる前は、肱川の洪水が起こるとたびたび氾濫し被害を受けました。 川が氾濫した畑は、水が引いた後は境界がわからなくなってしまいます。「境木」は、畑が氾濫した後、隣の畑との境界がわからなくならないように畑の境界として植えられたものです。 |
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546 | 肱川 | 肱川 | 四国地方整備局 | 大洲河川国道事務所 | 高石垣 | 水防 | 若宮地区は、大洲盆地の盆地底にできたただ一つの集落であり、大洪水のときには、多くの家が二階まで浸水する大被害をうけてきました。そこで、洪水への備えが特に厳重で、床は地面より70〜80cmも高くし、壁には腰板を張って保護し、一階は板張りの間とした家が多く、すべての家が二階建てだったそうです。 また、大洪水に備えて、若宮の各組ごとに二カ所づつの水防場があり、避難用の舟も用意していました。 水防場は、一般住宅よりさらに1.5mほど高く盛土した家で「高石垣」の家ともいわれます。神社や寺院、庄屋の家などは、高石垣の家で、いずれも洪水のときに避難場所となりました。 |
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551 | 物部川 | 物部川 | 四国地方整備局 | 高知河川国道事務所 | 物部川水害予防組合会 | 水防 | 19世紀代 | 明治27(1894)年1月26日成立。 |
586 | 嘉瀬川 | 嘉瀬川 | 九州地方整備局 | 武雄河川事務所 | 尼寺林 | 水防 | 16世紀代 | 嘉瀬川の水は、大井手と象の鼻により、できるだけ水に逆らわないようにして水を堰き止めてはいるが、大水の時は上流で滞水し、上流部破堤の原因となる。それを防ぐため、石井樋上流の堤防を強化し、さらに1mほど低くした乗越を設け、その外側に遊水池を広くとり、竹林を植えて水勢を和らげるようにしていた。この竹林は、尼寺林と呼ばれ、洪水時に乗り越した川の水や土砂が付近の耕地を荒らさないよう徐々に氾濫させた泥水は砂礫が流入していないため、田畑に流入しても客土となり、村民はむしろ洪水を喜ぶほどであったという。尼寺林(竹林)については、一部現存している。 |
610 | 筑後川 | 筑後川 | 九州地方整備局 | 筑後川河川事務所 | 水屋・揚げ舟(吊り舟) | 水防 | 「水屋」:洪水常襲地帯の民家は、土地の高低と浸水度合いを考えて屋敷内の土地を盛り上げて周囲に石垣を張り巡らしている。 普段は倉庫として利用されるが、洪水の時は家人や近所の人々の避難所になった。当時、相当の富農や地主の所有物であり、筑後川沿川の旧家に見られる。 「揚げ舟」:藩政時代、洪水時の人馬避難・物資の輸送・連絡等のために小舟が利用された。普段の保管方法として納屋・倉庫の軒下や母屋の土間・天井などに船底を上にして吊したことから吊り舟と呼ばれている。一般にほとんど見かけなくなったが、まだ若干見られる。 |
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708 | 大野川 | 大野川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | クネとよばれる防水林 | 水防 | 17世紀代 | 江戸時代。 高田輪中では洪水に対する地域住民の防衛方法として、クネと呼ばれる防水林を家の周りに巡らせた。 |
758 | 五ヶ瀬川 | 北川 | 九州地方整備局 | 延岡河川国道事務所 | 水害防備林 | 水防 | 16世紀代 | 旧藩時代の慶長年間(1596〜1614年)より行われたとある。河岸に接した土地を入会地とし、これに松をはじめとした育ちの良い雑木を植え、その中に竹を植えて水害防備林とした。雑木は松、いちの木、樫、榎木等であった。この雑木を切ることは断じて許されなかった。現在も残っている。 |
775 | 肝属川 | 高山川 | 九州地方整備局 | 大隅河川国道事務所 | 竹林 | 水防 | 詳しい概要は資料などは無く不明である。 高山川両岸に竹や木を植えてあった。これは水害の外力を抑えるというよりも、堤防を守る、堤防の崩壊洗掘を押さえる目的だったと考えられる。高山川両岸の堤防に、竹や木を植えてあった。高山川の上流に一部竹林が残っている。 |