河川伝統技術データベース:分類別リスト【橋】 |
整理 番号 |
水系 | 河川名 | 局名 | 事務所名 | 名称 | 分類 | 年代 | 当該河川伝統技術の解説・由来・意味 |
10 | 天塩川 | 天塩川 | 北海道開発局 | 旭川開発建設部 | 氷橋 | 橋 | 20世紀代 | 入植初期(明治40年頃)は、満足な道路もないような状況で、当然橋等はなく、そのため川を渡すために数ヶ所の渡船場を設け、舟で人、生活物資、主産業である林業の木材運搬を行っていたが、冬期間(11月頃)の気温低下により、川が結氷し船の運航が不可能となるため、凍り付いた川に粗朶等を投入したり、水をかけたりして凍らせるなど補強工作をし、氷の上を渡っていた。多くの場所は全面結氷していたが、物満内渡船場付近は急流のため、全面結氷せず先人たちが工夫して岸側の氷を切り出し、対岸に渡していた。 毎年11月頃になると、河岸にも雪が積もり始め次第にその範囲が川の中央へと延び、そのような状態だと船の運航ができなくなるため、船を岸にあげ、川に張った薄い氷の上に積もる雪を踏み固めながら、水をまき凍らせていく。12月下旬頃から1月上旬にかけて部落総出で厚く張った氷を切り出し、対岸に押し出す。 氷橋は、川に垂直にかけると水の抵抗が大きいため、斜めにかけ、両岸の約7mは強度をもたせるために木材等で櫓を組んでいた。氷の表面には粗朶等の木々を敷き詰めた。完成すると氷橋の上に木材を満載した馬ソリが十数台乗っていても壊れないほどの強度を有していた。3月雪解け間近でも、氷橋の下を流れる水の力で持ち上げられ、橋の上に氷が流越しない限り使用可能だった。 昭和40年代前半に橋ができるまで行われていた。 |
54 | 北上川 | 北上川 | 東北地方整備局 | 岩手河川国道事務所 | 舟橋だった千歳橋 | 橋 | 20世紀代 | 千歳橋は西磐井郡と東磐井郡、気仙郡気仙沼方面を結ぶ唯一の交通の要所であった。当初の渡船は明治37(1904)年まで続き、その後は舟を何艘も並べてその上に板を敷いた舟橋から、やがて船に櫓を組み、その上に桁を渡した船橋に改良され、昭和22(1947)年のカスリン台風による大洪水で流失するまで約50年近く船橋の時代が続いた。橋長150mで、このうち固定部分が両岸で約80m、船の可動部分が中央約70mである。 脚船6艘と中央船2艘の船上に櫓を組みその上に敷板を並べた。(その他4艘) 各橋脚船は上下流側にワイヤーロープで吊っており、増水と同時に水防夫の人達が水位に従ってチェーンブロックでワイヤーを巻き上げていく大変な仕事が伴った。船橋からもぐり橋へと変遷した往時の千歳橋の下流1.2kmの地に、昭和52年5月現在千歳橋が完成している。 |
57 | 北上川 | 北上川 | 東北地方整備局 | 岩手河川国道事務所 | 新山舟橋 | 橋 | 19世紀代 | 新山舟橋は、藩政時代盛岡城下の南入口にあたり、また北上川舟運の起点であった。寛文5(1665)年に土橋がかけられたが、たびたびの洪水で流失して天和2(1682)年に舟橋となった。菅江真澄、高山彦九郎、伊能忠敬、吉田松陰がそれぞれ舟橋を渡った事を記している。舟橋は明治6(1873)年に明治橋が出来るまで続いた。舟橋の構造は大船18、中船2 計20艘を、両岸と中嶋の大黒柱に鎖でつなぎとめて、舟の上には長さ5m〜6mほどの厚板294枚を敷いて人馬が自由に往来出来るようにしたものであった。 現在の明治橋下流100mほどの場所が往時の舟橋、初代明治橋(木橋)跡で、今でも渇水時には杭や大きな石が見えてくる。 |
117 | 利根川 | 渡良瀬川 | 関東地方整備局 | 渡良瀬川河川事務所 | 木橋(旧緑橋) | 橋 | 20世紀代 | 平成7(1995)年に木橋(もぐり橋)から、新橋に架け替えられた。 |
167 | 信濃川 | 信濃川 | 北陸地方整備局 | 信濃川河川事務所 | 長生橋 | 橋 | 19世紀代 | 山並みのようにトラスが連なる現在の長生橋は、昭和12(1937)年10月20日に完成した13連の下路式ゲルバー鋼構橋。(長さ850m、橋脚の基礎深さ12m) 当時の日本の橋梁建築の粋を集めた傑作。明治9(1876)年10月、大橋・小橋に分けて完成したが、洪水のたびに流失、復旧をくり返した。大正4(1915)年に一本に繋がって架けられた橋は、日本一長い木橋として有名になった。 最初は、龍がうつむいているよう見えたため、「臥龍橋」と呼ばれていたが、その後、いつまでも長く生きて欲しいという願いを込めて「長生橋」と名づけられた。 |
170 | 信濃川 | 信濃川 | 北陸地方整備局 | 信濃川河川事務所 | 旭橋 | 橋 | 19世紀代 | 信濃川右岸に三国街道(現国道17号)、左岸に善光寺街道(現国道117号)が通る小千谷は、かつて両街道を結んだ重要な地点であったが手段は「中子の渡し」のみであった。明治20(1887)年11月17日に完成したのが木橋の旭橋。東西の道と町を結ぶ橋として利用されたが、洪水でしばしば流出するありさま。昭和35(1960)年に全長350m、幅員9.5mに拡張した鋼板桁の永久橋に姿を変えた。 |
189 | 信濃川 | 千曲川 | 北陸地方整備局 | 千曲川河川事務所 | 上高地河童橋 | 橋 | 20世紀代 | 犀川上流梓川の上高地は日本の景勝地として名高い。その上高地のシンボルである梓川架かる河童橋は、古くは「はね橋」であったが、明治37(1904)年につり橋に架替えられた。付近に出没する「かわうそ」の別名河童やこの付近の渕にちなんで河童橋と名付けられたという。 |
190 | 信濃川 | 千曲川 | 北陸地方整備局 | 千曲川河川事務所 | 安曇村雑水橋 「雑食橋(ぞうしばし)」 | 橋 | 梓川上流島々に川を挟んで、人目を忍ぶ恋人がいた。川が二人の邪魔をしている。お互いに目の前に見えていても対岸にたどりつくのには、8キロメートルも下流を回り道しなければならなかった。二人は橋ができれば村人たちも助かる、何か世のためになることをすれば、神様が必ず二人を結びつけてくれると相談し、橋を架けることを誓い、二人は仕事に励み、彼女は食物を節約し雑水を食べ苦節何年かの末に橋が架けられ、晴れて二人は結ばれた。橋の名は古くは雑仕、雑食橋と書かれたが、雑炊橋になった。 | |
191 | 信濃川 | 千曲川 | 北陸地方整備局 | 千曲川河川事務所 | 坂城笄(こうがい)橋 | 橋 | 19世紀代 | 坂城の苅屋原と対岸力石を結ぶ千曲川に架かる橋が笄(こうがい)橋である。明治22(1889)年頃に木造の板橋が架けられたが、これも洪水により流出し、永久橋建設は左右岸の人々の悲願であった。坂城町の強力な要請により、建設されたのが洪水時水中に潜るコンクリート造の「もぐり橋」が昭和35(1960)年に架設された。この橋も昭和37(1962)年に右岸側は洪水時抜水する現在の橋梁となった。 |
211 | 黒部川 | 黒部川 | 北陸地方整備局 | 黒部河川事務所 | 愛本橋 | 橋 | 17世紀代 | 寛永2(1625)年に日本三奇橋(猿橋・錦帯橋とともに)数えられたハネ橋となる。 以降、架替4回→木拱橋:明治4(1871)年→鋼曲弦構橋:大正9(1876)年→鋼ニールセン橋:昭和47(1972)年となる。 |
227 | 神通川 | 神通川 | 北陸地方整備局 | 富山河川国道事務所 | 笹津橋 | 橋 | 20世紀代 | 富山から飛騨に向かう飛騨街道(現在の国道41号)が神通川を渡る箇所に架かるメラン式鉄骨鉄筋コンクリートアーチ橋。初代の木造桁橋から数えて4代目の橋梁で、神通川とのコントラストが美しく、また戦前当時としては3番目の支間長を誇る。平成12(2000)年2月15日に国の有形文化財に登録。 |
228 | 神通川 | 松川 | 北陸地方整備局 | 富山河川国道事務所 | 桜橋 | 橋 | 20世紀代 | 昭和3(1928)年に富山市都市計画事業の一環で、旧神通川の跡地に開削された松川に架かるリベット打ちの鋼製アーチ橋。橋上は路面電車が通るとともに、桜の季節には遊覧船が橋下を通過するなど観光資源としても活用されている。平成11(1999)年11月18日に国の有形文化財に登録。 |
264 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 手取川橋 | 橋 | 19世紀代 | 最初の手取川橋は明治21(1888)年に富山県人・佐藤某が架橋したが、それまでは「粟生の渡し」として渡り船で通行していた。 |
265 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 辰口橋 | 橋 | 20世紀代 | 延長416m幅員3.3mの木橋で、この橋を架けるために尽力した神田重義の偉大な業績を讃えて流域住民が名乗った巧名である。 |
266 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 吊橋 | 橋 | 20世紀代 | 尾口村の入り口にあたる濁澄橋は、もともと加賀藩領と尾口村以南の天領との境をなすものであった。深い尾添川の谷に下り、釣り橋を渡った。この橋が永久橋に改められ、橋の位置も谷底から上の方へ漸次移され、現在の濁澄橋になった。また、五味島大橋は明治45(1970)年に架けられ42間の長さを持つ大橋であり、釜谷・深瀬間には長さ28間の深瀬橋が架設されともに釣り橋であった。 |
267 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 剥木橋 | 橋 | 両岸から斜に木を出し、その上に橋板をかけたもので大雨がくると橋板が流されるので刎木橋と呼ばれた。 橋板を1本かけたものと2本かけたものとがある。 形がムカデに似ていることから百足橋とも呼ばれた。 |
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268 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 何龍橋(材質不明) | 橋 | 20世紀代 | 斎藤栄蔵という人が何龍橋と名付けて独力で建設したもので、この橋から渡橋銭をとった。 |
269 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 天狗橋 | 橋 | 20世紀代 | 鶴来町大国町に手取川河口より14km付近に架かる。明治36(1903)年2月11日に連続トラス式の橋がかかる。昭和9(1934)年7月11日に天狗橋、能美電鉄の鉄橋ともに洪水により流失。鉄道橋の方は半分残り、その後、同じ構造で修復。天狗橋は、流された橋のやや下流に連続吊橋を架ける。昭和30(1955)年10月25日、連続ランガー桁橋と桁橋を組み合わせた現在の天狗橋が完成。 |
270 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 和佐谷吊橋 | 橋 | 20世紀代 | 鶴来町白山町に手取川河口より16km付近に架かる。昭和7(1932)年に着工、10月に竣工した。橋は川の中央に鉄筋コンクリートの塔柱を建てた吊り橋。完成して1年も経たぬ7月26日の大出水で橋脚が崩壊して一部流出。修築したが、翌年の7月の大洪水で再び災害を蒙った。 |
271 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 鷹急の吊橋 | 橋 | 19世紀代 | 能美郡白峰村河内谷に架かる釣り橋。 |
272 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 木橋 | 橋 | 戦前、何龍橋(現在の美川橋(歩道橋))の直下流側に木橋があったという。洪水より流され、戦後何龍橋の直下流側に新美川大橋が架けられた。 | |
297 | 梯川 | 梯川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 梯大橋 | 橋 | 18世紀代 | 藩政時代の初期に橋が架けられるまでは、渡し舟によって通行していた。「小松旧記」に記された梯橋に関するものは、明和8(1771)年に石橋に成る、文政3(1820)年石橋掛直、天保2(1831)年掛直、天保12(1841)年掛直、弘化3(1846)年板橋に成るとあり、現在の梯大橋が昭和12(1937)年に架設されるまでは木橋、石橋が何度となく架直された。 |
305 | 大井川 | 大井川 | 中部地方整備局 | 静岡河川事務所 | 蓬莱橋 | 橋 | 19世紀代 | 江戸時代までは川越(架橋は許されなかった)として有名であるが、明治時代に入って、個人の手によってかけられた。 980mを誇る木橋である。 歩行者、自転車専用の有料橋。 |
326 | 庄内川 | 小里川 | 中部地方整備局 | 小里川ダム工事事務所 | 3連石橋 | 橋 | 20世紀代 | 大正年間に小里川発電所施設として建設された。石材が多く使用されている。小里川ダムの湛水に伴い水没補償の対象となった。現在は山岡町の文化財ではあるが、財産権は国である。 橋長20.5m、有効幅2.15m、3連石造りアーチ。ダムの湛水地内となるため、平成14年に移築。 |
337 | 木曽川 | 木曽川 | 中部地方整備局 | 多治見砂防国道事務所 | 桃介橋 | 橋 | 20世紀代 | 「桃介橋」は別名「桃の橋」呼ばれ、大正11(1922)年9月に完成した。木曽川の水力発電開発に力を注いだ大同電力(福沢桃介社長)が読書発電所建設の資材運搬路として架けた。 その後、昭和25(1950)年から村道として、両岸集落の交通や、通学等地域の交通に大いに役立った。 この橋は、木製補剛桁を持った吊り橋としては日本有数の長大橋であり、下部石積み・上部コンクリートの主塔3基を有し、この種の吊り橋としては当時(大正時代)わが国の土木技術の粋を集めためずらしい4経間の吊り橋となっている。 昭和53(1978)年頃から老朽化も進み、本格的な修理もできなかったため廃橋寸前となっていた。この間、保存・活用の声が多くあり、付近一帯の天白公園整備に併せて近代化遺産(南木曾町有形文化財)として復元し、大正時代の長大吊り橋の本格的な保存と活用を目指したものである。 ※国指定重要文化財(近代遺産)平成6(1994)年12月27日指定。 |
414 | 淀川 | 木津川 | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | トラス橋 | 橋 | 19世紀代 | 島ヶ原に初めて橋が架かったのは明治11(1878)年であるといわれている。その後洪水で流失を繰り返したが、村内の有志が明治21(1888)年に県の補助を得て、当時県下の3大橋のひとつと言われる架橋に成功した。しかし、この橋は木橋であったのでその後、大正2(1913)年と昭和5(1930)年に架け替えられ、戦後に至った。 橋は昭和28(1953)年の災害で流失したため、昭和30(1955)年に鋼トラス橋に架け替えられた。 |
415 | 淀川 | 木津川 | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | 木橋 | 橋 | 19世紀代 | 長田橋はいつ架けられたはっきりしないが、「長田川通船の図」では、右岸に船溜りと上野街道、左岸に山神と島ヶ原街道が記され両者が木津川に架けられた「はし」で結ばれている。橋脚工事は昔は人柱伝説もあったほど難事業であった。昭和19(1944)年に長田橋架替普請のときの橋脚工事請負者3人が、村の惣代に提出した「きっと橋杭をうち建てます」という約定書が残っている。 |
422 | 淀川 | 名張川 | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | 橋 | 橋 | 19世紀代 | 明治18年(1885)年7月1日。台風上陸。明治元(1868)年以来の大災害となった。 宇陀川筋は名張までの間、橋は全部流れた。名張では黒田・新町両橋とも流失した。しかし、橋といっても簡易な板橋であったが、これがきっかけとなって明治19年(1886)年5月に両橋とも橋桁の高い本格的な木橋が完成された。 新町橋については、平成10(1998)年の改修に伴い新設された。 |
458 | 日野川 | 日野川 | 中国地方整備局 | 日野川河川事務所 | 日野橋 | 橋 | 20世紀代 | 昭和4(1929)年に完成。 現在では珍しいワーレントラス橋(上部アーチ部分の骨組みで支えている)である。 アーチ部分は6つで全長366mあります。今は隣に新しい近代的な橋(新日野橋)が築造された。 この橋の前身は明治21(1888)年に日野川で最初に木造橋として架けられた。日野橋の架橋により撤去された親柱は、湊山公園の二ノ丸跡に保存されていたが、この付近一帯の堤防が整備されたのを機に、平成10(1998)年5月に元の架橋位置の上流約60m付近に移設された。 |
490 | 太田川 | 京橋川 | 中国地方整備局 | 太田川河川事務所 | 工兵橋(こうへいばし) | 橋 | 19世紀代 | 工兵橋は太田川との分流点に近い京橋川に架かり、中区白島北町と東区牛田本町を結んでいる。都心近くの橋としては珍しい吊り橋で、明治22(1889)年に地元の工兵隊がかけたことからこの名がつけられた。昭和29(1954)年に架け替えられたが、吊り橋の原形は残され、河岸の緑地と一体となった景観は、やすらぎと郷愁を誘う風物である。 |
498 | 佐波川 | 佐波川 | 中国地方整備局 | 山口工事事務所 | 舟橋 | 橋 | 18世紀代 | 宮市から毛利氏の城下までの萩街道の途中にある佐波川越えで天正以来たびたび橋をかけていたが、そのたびに洪水のため橋が流されていたので、寛保2(1742)年に大渡手子源八の策を使って、初めて舟橋をつくった。 舟橋とは舟と舟をつないでその上に板橋をかけたものである。洪水の時には、片方に解き放って流失を防ぐことができる。舟橋は昭和16(1941)年には、その下流に架橋(新橋)してこの橋も姿を消した。 現在の佐波川に舟橋は、現存していない。 |
530 | 那賀川 | 那賀川 | 四国地方整備局 | 那賀川河川事務所 | 那賀川橋 | 橋 | 20世紀代 | 那賀川で最初の抜水橋で、昭和3(1928)年に開通した。その後、那賀川の改修事業で右岸側を引堤した際、右岸側を継ぎ足した。 当時、戦争で鉄不足のためコンクリート橋で継ぎ足しを行ったので現在でも橋の形態が右岸側は異なっている。 |
543 | 肱川 | 肱川 | 四国地方整備局 | 大洲河川国道事務所 | 長浜大橋 | 橋 | 20世紀代 | 長浜大橋は昭和8(1933)年に着工、昭和10(1935)年8月に完成したもので、現役の道路可動橋としては、全国で最も古い、橋長226m、幅5.5m、開閉部18m、バスキュール式と呼ばれる跳開橋である。開閉部の反対側に「おもり」を置き、開閉の負担を軽くする、天秤タイプの構造であり、跳開橋の仕組みとしては珍しいタイプである。 |
547 | 肱川 | 河辺川 | 四国地方整備局 | 山鳥坂ダム工事事務所 | 御幸橋(屋根付き橋) | 橋 | 19世紀代 | 天神社にわたるために架けられた屋根付き橋。天神社が創設された安永2(1773)年に架設。現在の橋は、明治19(1886)年の大洪水で流されたものを同年再現したもので、クギは一切使われていない。せめて橋の上だけでも雨露をしのげるようにという先人の知恵と優しさが偲ばれる。河辺村内にはこのような屋根付き橋が現代に復元されたものも含め8橋も存在する。 |
582 | 遠賀川 | 神水川 | 九州地方整備局 | 嘉瀬川ダム工事事務所 | 鷹の羽橋 | 橋 | 20世紀代 | 石造りアーチ橋 現 県道三瀬栗並線 嘉瀬川ダム水没地内 |
583 | 遠賀川 | 栗並川 | 九州地方整備局 | 嘉瀬川ダム工事事務所 | 昭安橋 | 橋 | 20世紀代 | 昭和初期建造 石造りアーチ橋 子安神社参道 嘉瀬川ダム水没地内 |
584 | 嘉瀬川 | 嘉瀬川 | 九州地方整備局 | 嘉瀬川ダム工事事務所 | 菖蒲橋 | 橋 | 20世紀代 | 何度も流出する橋だったので菖蒲地区により小城石工 石橋千太郎を雇い、大正4年に建造。 石造りアーチ橋 嘉瀬川ダム水没地内 |
608 | 筑後川 | 筑後川 | 九州地方整備局 | 筑後川河川事務所 | 昇開橋 | 橋 | 20世紀代 | 昇開橋は、大川市向島と佐賀郡諸富町の間に架けられている、全長506mの東洋一の昇降式可動橋である。昭和10(1935)年に開通。 設置当時、筑後川下流は舟運が盛んであったため、鉄道橋を造るにあたっては、船舶の通行を可能にする必要があったことから、橋中央部を昇開式にした。昭和62(1987)年の旧国鉄(現在JR)佐賀線廃止とともに使われなくなった。 現在は昇降式の遊歩道「タワーブリッジ」として再整備され、1日に8回降りて和やかな散歩道となるほか夜にはライトアップも施され、大川市のシンボルとなっており、可動橋保存会も結成させている。 |
634 | 緑川 | 緑川 | 九州地方整備局 | 熊本河川国道事務所 | 霊台橋 | 橋 | 19世紀代 | 霊台橋は別名「船津橋」ともいい、弘化3(1846)年に緑川の本流に架けられた本邦随一の雄大な石橋である。 ここは上益城郡と下益城郡を結ぶ唯一の重要な道路で、最近まで営林省が伐り出す木材を満載した大型トラックやバスが頻繁に通過していた。数年前すぐ上流に最新の鉄橋が架けられたのでトラック等は通らなくなり、石橋は安全に守られたのである。 この付近は阿蘇山麓の船津峡という大渓谷で、緑川の谷は深く、人々の通行はなかなか困難なところであった。物資の運搬や材木の伐り出しはすべて川を利用する以外なかった。 |
637 | 緑川 | 緑川 | 九州地方整備局 | 熊本河川国道事務所 | 雄亀滝橋 | 橋 | 19世紀代 | この橋は、三五郎が架けた橋の中で最初の水路橋で、砥用の石橋でも最も古く通潤橋の設計の直接手本となった橋である。 砥用の庶民の生活と密着しその生活を支えたという点では橋そのものの規模は小さいものの、最重要な土木施設である。 水路(石樋)も三五郎の手によるもので、約230haの田畑を潤している。 |
648 | 球磨川 | 球磨川 | 九州地方整備局 | 八代河川国道事務所 | 第一球磨川橋梁 | 橋 | 20世紀代 | 明治41(1908)年に架橋。 坂本村を流れる球磨川に架かるJR肥薩線の鉄道橋梁。 5径間のうち2径間が米国から輸入したトランケート型のピントラスで、全国的にも極めて少ない。 橋長は205.3m。切石積が美しい石造橋脚を有する。 |
649 | 球磨川 | 球磨川 | 九州地方整備局 | 八代河川国道事務所 | 第二球磨川橋梁 | 橋 | 20世紀代 | 明治41(1908)年に架橋。 球磨村を流れる球磨川に架かるJR肥薩線の鉄道橋梁。 4径間のうち2径間が米国から輸入したトランケート型のピントラスで、全国的にも極めて少ない。 橋長は179.7m。切石積が美しい石造橋脚を有する。 |
655 | 球磨川 | 中谷川 | 九州地方整備局 | 八代河川国道事務所 | 小崎眼鏡橋 | 橋 | 17世紀代 | 寛永2(1625)年に架橋。 球磨川支川中谷川にかかる単一アーチ橋。 石工、恵八の手による。 長さ9.0m、径間7.0m。 坂本村指定文化財として現地にある。 |
656 | 球磨川 | 中谷川 | 九州地方整備局 | 八代河川国道事務所 | 禊橋 | 橋 | 20世紀代 | 大正10(1921)年に架橋。 人吉市の青井阿蘇神社の参道(蓮池)にかけられた三連式アーチ橋で石工不明。 長さ26.7m、幅3.8m。 |
657 | 球磨川 | 馬氷川 | 九州地方整備局 | 八代河川国道事務所 | 石水寺門前眼鏡橋 | 橋 | 19世紀代 | 嘉永7(1854)年に架橋。 急流球磨川は本流に一つも眼鏡橋がかかっていない。 支流にかかるいくつかの眼鏡橋のうち最も古い。石工、太次郎の手による。 長さ19.5m、幅2.7m、高さ7.1m、径間12.0m。 人吉市指定文化財として現存。 |
658 | 球磨川 | 銅山川 | 九州地方整備局 | 八代河川国道事務所 | 大正橋 | 橋 | 20世紀代 | 大正2(1913)年に架橋。 石工、石本豊吉の手による。長さ21.0m、幅4.2m、高さ5.3m、径間6.6m。 あさぎり町(旧:深田村)指定文化財として現存。 |
659 | 球磨川 | 山田川 | 九州地方整備局 | 八代河川国道事務所 | 森下橋 | 橋 | 20世紀代 | 昭和16(1941)年に架橋。 石工、不明。長さ7.0m、幅4.3m。 山江村指定文化財として現存。 |
660 | 球磨川 | 都川 | 九州地方整備局 | 八代河川国道事務所 | 下町橋 | 橋 | 20世紀代 | 明治39(1906)年に架橋。 石工、不明。長さ17.0m、幅3.4m、径間11.0m。 湯前町指定文化財として現存。 |
669 | 山国川 | 山国川 | 九州地方整備局 | 山国川河川事務所 | 馬渓橋 | 橋 | 20世紀代 | 大正12(1923)年10月竣工。設計・施工、甲斐伊蔵。山国川本流、下戸原と町丈間に架けられた5連のア−チ道路橋。 山国川流域に架けられたア−チ橋郡では、耶馬渓橋、羅漢寺橋に次ぐ第3の橋長を誇る最大橋である。橋長82.8m、ア−チ幅4.0m、高さ9.4m、H/L=0.326。 現存している。 |
670 | 山国川 | 山国川 | 九州地方整備局 | 山国川河川事務所 | 羅漢寺橋 | 橋 | 20世紀代 | 大正9(1920)年10月竣工。設計、黒葛原喜蔵。山国川本流跡田と曽木間に架けられた3連アーチ道路橋である。 橋長88.0m、アーチ幅4.57m、高さ8.4m、H/L=0.180で山国川に架けられたアーチ橋群中、耶馬渓橋に次ぐ第2の長大橋である。羅漢寺橋は竣工当時の姿のままで、現在でも実用に供されている。 |
671 | 山国川 | 山国川 | 九州地方整備局 | 山国川河川事務所 | 耶馬渓橋 | 橋 | 20世紀代 | 大正12(1923)年3月竣工。設計、岩淵萬吉。山国川本流、樋田と曽木間に架けられた我国最大長の8連アーチ道路橋。 棟下は竣工当時の石造からコンクリート製に改修されている。橋長116m、アーチ部幅4.0m、高さ7.7m、支間距離L=14.2m、アーチ高さH=3.15m、H/L=0.215。 現在では観光道路橋としての性格が強い生活道路橋である。 |
675 | 山国川 | 山移川 | 九州地方整備局 | 山国川河川事務所 | 一ッ戸橋 | 橋 | 20世紀代 | 明治38(1905)年に竣工。設計・施工・石工、広瀬某。 史蹟一ツ戸城趾の基部を山国川へ注ぐ小川に架けられた単アーチ橋である。 現在では、宮園奥山橋同様国道212号線の一部をなくしており、小川上流側からアーチ側面をみることができる。 |
676 | 山国川 | 山移川 | 九州地方整備局 | 山国川河川事務所 | 賀治耶橋 | 橋 | 20世紀代 | 大正13(1924)年6月竣工。 設計・施工・棟梁甲斐伊蔵、石工中尾右三郎、坂木芳雄、山国川支流山移川持田に架けられた2連アーチ道路橋である。 橋長30.3m、道路有効幅3.6m、高さ8.9m、H/L=0.326。 現存している。 |
677 | 山国川 | 跡田川 | 九州地方整備局 | 山国川河川事務所 | 深瀬橋 | 橋 | 19世紀代 | 明治24(1891)年竣工。設計・施工者不詳。山国川支流跡田川の上流六田に架けられた単アーチ水路橋。設計・施工は一説によれば中島岩吉と伝えられている。 橋長1.4m、水路有効幅1.4m、水面からの高さ7.33m、H/L=0.44。 現存している。 |
678 | 山国川 | 跡田川 | 九州地方整備局 | 山国川河川事務所 | 広内橋(六田橋) | 橋 | 竣工年不詳。施工中島岩吉。山国川支流跡田川上流の六田に架けられた単アーチ道路橋。アーチの形状から明治中期の竣工を窺わせる古いアーチである。 橋長6.79m、道路有効幅3.0m、水面からの高さ6.46m、H/L=0.44。 竣工後アーチ橋に並行して水路が附設されたため、現在では道路橋としてよりも、水路橋として実用されている。 |
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679 | 山国川 | 跡田川支川西谷川 | 九州地方整備局 | 山国川河川事務所 | 源木橋 | 橋 | 20世紀代 | 大正6(1917)年竣工。設計・施工者不詳。跡田川の上流西谷川源木に架けられた単ア−チ道路橋。 天然石を用いた珍しいアーチ橋である。橋長13.8m、道路有効幅2.32m、水面からの高さ4.85m、H/L=0.215。 昭和19年の水害により欄干は流失し、現在もそのままに放置されている。 |
680 | 山国川 | 跡田川支川西谷川 | 九州地方整備局 | 山国川河川事務所 | 石垣橋 | 橋 | 竣工年不詳。設計・施工、井上伝吾。西谷川支流、石垣原に東西に架けられた単ア−チ道路橋。 橋長6.09m、有効道路幅2.64m、水面からの高さ3.09m、H/L=0.298。 欄干はコンクリート製であり、竣工後改修されたものと考えられる。ア−チ部は丁寧な施工がなされており、竣工当時の状態で保存されている。現在は農道として実用に供されている。 |
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681 | 山国川 | 跡田川支川西谷川 | 九州地方整備局 | 山国川河川事務所 | 秋永橋 | 橋 | 20世紀代 | 明治39(1906)年竣工。設計・施工、阿部林三。山国川の支流跡田川の上流をなす西谷川秋永に架けられた単アーチ道路橋。 橋長14.8m、道路有効幅3.68m、水面からの高さ4.74m、H/L=0.126。 欄干は最近鉄鋼製に改修されており、現在でも道路橋として使用されている。 |
682 | 山国川 | 屋形川 | 九州地方整備局 | 山国川河川事務所 | 大正橋 | 橋 | 20世紀代 | 大正元年(1912)竣工。設計・施工者不詳。山国川支流尾形川日の坪の尾形小学校前に架けられた2連アーチ道路橋である。 橋脚は、特別に水切りのため船形に施立されている。橋長16.62m、アーチ幅3.6m、水面からの高さ3.68m、H/L=0.290。 竣工時の状態で保存されており、現在でも通学用に使用されている。 |
683 | 山国川 | 屋形川 | 九州地方整備局 | 山国川河川事務所 | 堤橋 | 橋 | 竣工年・設計・施工者不詳。山国川支流尾形川生木に架けられた3連アーチ道路橋。一説によれば耶馬渓橋の設計・施工に携わった岩淵萬吉が請け負ったと伝えられている。 橋長20.7m、アーチ幅3.38m、H/L=0.217。 欄干は、竣工当時の石造から鉄鋼製に改修されている。 |
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684 | 山国川 | 屋形川 | 九州地方整備局 | 山国川河川事務所 | 萬橋 | 橋 | 20世紀代 | 大正10(1921)年10月竣工。施工、鳥越七郎。山国川支流尾形川今行に架けられた2連アーチ道路橋。 橋長18.6m、アーチ幅2.8m、高さ4.6m。 戦後、コンクリート桁橋の増設によって竣工当時のはぼ2杯に拡幅されている。また、拡幅時に欄干及び道路面はコンクリート製に改修されている。 |
685 | 山国川 | 小川 | 九州地方整備局 | 山国川河川事務所 | 宮園奥山橋 | 橋 | 竣工年・設計・施工者不詳。 アース幅4.8m、L=4.40m、H=2.20m、H/L=0.50。 現存している。 |
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686 | 山国川 | 津民川 | 九州地方整備局 | 山国川河川事務所 | 栗木橋 | 橋 | 竣工年・設計・施工者不詳。 橋長19.15m、道路有効幅4.03m、水面からの高さ11.44m、支間距離L=13.3m、アーチ高さH=2.9m、H/L=0.216。 昭和60(1985)年に道路面のコンクリート舗装された。 |
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689 | 大分川 | 大分川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 金槌橋 | 橋 | 18世紀代 | 江戸時代の架設とされる。 挟間町の中で大分川の右岸の旧谷村地区は、熊本藩領野津原手永の内であった。地区のはずれの大分市との境を流れる谷川に架設され、スガメ石という石材でつくられていることからスガメ石橋とも呼ばれている。かつての飛脚街道といわれる小径の橋で、参勤交代道路の間道の役割も果たしていたものと思われる。 現存している。 |
690 | 大分川 | 大分川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | オダニの車橋 | 橋 | 19世紀代 | 嘉永元(1848)年架設。 橋長12.6m、橋幅3.2m、径間5.9mの小さな橋であるが、両側の壁石の面から突き出した右の上に欄干の石を乗せて、橋面を広く利用する工夫がなされている。庄内町は府内藩領で、上納米を運ぶために地元の造り酒屋三重野善治により架けられたのであるが、石工は不明である。 現存している。 |
703 | 大分川 | 寒田川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 万年橋 | 橋 | 19世紀代 | 文久2(1862)年に地元の庄屋佐藤孝兵衛らが発起し、大野川の石工後藤郷兵衛らが発起し、大野郡の石工後藤郷兵衛らが建造した。太鼓橋とも呼ばれる。 寒田川をわたる同神社の神橋で石造単アーチ橋である。全長22m、アーチ径間11m、幅3m。径間に対してアーチ高さが3.9mと低く、アーチと路面の間も狭いので軽快な趣がある。 |
704 | 大分川 | 七瀬川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 小岩戸橋 | 橋 | 19世紀代 | 明治19(1886)年、県道大分竹田線の開通に伴い架設されたもので最初は木橋であった。 石造アーチ橋は、特殊な技法が用いられているので希少価値とともに、造形美にも優れ文化財としての価値がある。 二回嵩上げによって路面は3m近く高くなっていて、石組み部分は裏谷川の谷底に埋没したような形になり、一般の通行者の目に触れることはないが、橋台はきれいな石積み姿をそのまま残している。 |
712 | 大野川 | 大野川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 久住町の石橋 | 橋 | 19世紀代 | 文政5(1822)年から7年かけて架設されたものと推定されている。 神馬(かんば)橋、五反田橋、田町橋、境川橋の4橋。 熊本から鶴崎の港(大分市)に通じていた熊本藩の参勤交代道路にかかる石造アーチ橋で、備前(岡山県)の石工とも肥後の石工ともいわれているが、正確なことはわからない。 現存している。 |
713 | 大野川 | 大野川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 開閉橋(鶴崎橋) | 橋 | 19世紀代 | 江戸時代から中流域の岡・臼杵両藩が接する犬飼町は、一つの船継場であり、河口域は大野川の「通船」となり栄えた。 新産都のために坂の市方面への貫通道路ができるため、橋脚を高くして船は橋下を自由に通行できるようにと、新しい橋が作られた。 |
727 | 大野川 | 大野川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 千載(せんさい)橋 | 橋 | 19世紀代 | 天保2(1831)年竣工。 石造アーチ橋で、竹田の城下と犬飼の港を結ぶ参勤交代道路にかかる橋で、地元の総長(大庄屋)椎原彦九郎が音頭を取り、後藤郷兵衛を招いて架設している。 橋は小型であるが、アーチの石と石との間に太柄石を挟んだめずらしい工法が取られている。 昭和46年に撤去された。 |
731 | 大野川 | 緒方川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 明正井路第一拱石橋 | 橋 | 20世紀代 | 明正井路第一拱石橋は14橋のうち代表的石橋で、県道と緒方川をまたぐ6連のアーチの上に4段の石壁を積んで、導水部を造るという重厚な構造となっている。 |
733 | 大野川 | 緒方川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 原尻橋 | 橋 | 20世紀代 | 大正12(1923)年架設。「豊後国志」に「緒方郷原村緒方川にあり」とある。原尻と倉園を結ぶ長さ73m、幅3.6m、の石造橋。原尻の滝の約500m程上流にかかっている。橋の欄干一つ一つに寄贈者の名前と金額が刻まれている。 |
734 | 大野川 | 緒方川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 無名橋 | 橋 | 19世紀代 | 明治26(1893)年築造。 石工不明。 現存している。 |
747 | 大野川 | 三重川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 虹潤橋 | 橋 | 19世紀代 | 文政7(1824)年に完成。橋畔に由緒を記した石碑があり、「三重郷一万石の年貢米を運送する農民たちの便利と安全のため、臼杵の甲斐氏、三重の多田氏、後藤氏の犠牲的な拠金で石工織平らにより建立された」という。 通称「柳井瀬橋」という。石造単アーチ橋で長さ31m、径間25.2m、橋面6.3mと堂々たるもの。 石橋としては年代が古く、技術も優れ姿も美しいとともに、地域住民の熱意と努力の記念物でもある。 |
748 | 大野川 | 宇津尾木川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 千世(ちよせ)橋 | 橋 | 19世紀代 | 明治12(1879)年に架設。 後藤茂兵衛により架設された。現存している。 |
749 | 大野川 | 五来川支川山崎川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 岩戸橋 | 橋 | 19世紀代 | 嘉永2(1849)年10月の架設。 橋長28.2m、橋幅4.4m、径間17.4mの石造アーチ橋で、深い谷川を渡って岡藩の上納米を運ばなくてはならないために架設されたもので、石工は備前(岡山県)の久米蔵と地元の後藤松五郎となっている。 現存している。 |
750 | 大野川 | 小津留川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 間戸橋 | 橋 | 19世紀代 | 嘉永元(1848)年頃に築造。 石工は不明。現存している。 |
752 | 大野川 | 奥岳川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 轟橋 | 橋 | 20世紀代 | 営林署が清川村に、木材運搬用の石造軌道橋として昭和7(1932)年につくった。 傾山麓の木材をトロッコに積み、ディーゼル機関車で牧口駅近くまで牽引した。 昭和35(1960)年に全線(約30km)を村に払い下げ、現在は村道となっている。 |
762 | 大淀川 | 大淀川 | 九州地方整備局 | 宮崎河川国道事務所 | 橘橋 | 橋 | 大淀川の河口部にある宮崎平野は、江戸時代複数の藩の支配地域であった。このため架橋の必要性は高くなかった。明治新政府となり宮崎県が置県され、架橋の必要性が急速に増した。 橘橋架橋地元の医者福島邦成によって発議され、明治13(1880)年に私財を以て架橋された。明治17(1884)年に宮崎県に寄付し、県の橋となった。 現在は、国道220号線の第6代目橘橋として、片側2車線の4車線で共用されている。 |
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769 | 川内川 | 八間川 | 九州地方整備局 | 川内川河川事務所 | 江之口(えのくち)橋 | 橋 | 18世紀代 | 川内市高江町江之口の川内川支川八間川河口に架設されている石橋である。この橋は、弘化5(1848)年4月から始められた八間川大開削工事の中で造られたもので、嘉永2(1849)年8月、肥後の名工岩永三五郎が、薩摩藩への最後の御奉行として惜別の情を込めて造ったものといわれている。総長57尺(17.3m)、経間25尺(7.6m)×2連、拱矢11尺(3.6m)、幅12尺(3.6m)の石橋眼鏡橋である。昭和47(1972)年4月1日川内市の文化財に指定された。 |
771 | 肝属川 | 肝属川 | 九州地方整備局 | 大隅河川国道事務所 | 大園橋 | 橋 | 20世紀代 | 別紙橋梁台帳の通り、車両通行不可である。 また、昭和63(1988)年に鹿屋市指定文化財となる。 |
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