河川伝統技術データベース:分類別リスト 【祭り・信仰(芸能・伝説を含む)】 |
整理 番号 |
水系 | 河川名 | 局名 | 事務所名 | 名称 | 分類 | 年代 | 当該河川伝統技術の解説・由来・意味 |
29 | 子吉川 | 石沢川 | 東北地方整備局 | 秋田河川国道事務所 | 諏訪神社 | 祭り・信仰 | 16世紀代 | いまから450年ほど前に新田集落は、石沢川の洪水により被害により、川の渕が深くなるのを防ぐために、土嚢を積み、土手に杭を打ち防いだがなかなか効果があがらず、困り果てた村の人たちは、深い渕のそばに神社を建てて一心に神に祈りました。それ以来、石沢川に水害がなくなり、水田が拡大したといわれている。そのとき建てられたのが新田地区の「諏訪神社」であるといわれている。 |
42 | 最上川 | 貝生川 | 東北地方整備局 | 山形河川国道事務所 | 白鷹正念寺の丈六地蔵 | 祭り・信仰 | 19世紀代 | 白鷹町正念寺の住職が、3年にわたる托鉢により浄財を募って創建したとされる。この地蔵尊は、高さが1丈6尺あるので丈六地蔵尊とよばれている。 足の悪い子どもと地蔵様の足を取りかえっこして、動けなくなった地蔵様を正念寺に安置した言い伝えがあり 「子供の足が立つように」「子供が丈夫に育つように」と、お参りにくる人は、今も絶えない。 |
87 | 利根川 | 小貝川 | 関東地方整備局 | 下館河川事務所 | 伊奈神社 | 祭り・信仰 | 20世紀代 | 16世紀後半(江戸時代)に利根川東遷事業を計画し、実行した伊奈家の中で、福岡堰の恩人である伊奈半十郎忠治を祭神している。昭和16(1941)年4月に福岡堰、谷原領開発の恩人伊奈半十郎忠治を祭神とし、福岡堰普通水理組合の氏神として伊奈神社が創建され現在に至っている。小貝川福岡堰見守る大地に建ち、福岡堰土地改良区が管理している。 |
111 | 利根川 | 烏川 | 関東地方整備局 | 高崎河川国道事務所 | 水神祭り | 祭り・信仰 | 水神祭りは、大杉様と呼ばれる祭りの系統。玉村町五料は、利根川中流の右岸、烏川との合流付近に位置して水陸交通の要衝にあった。とくに五料には水運に携わる人が多く、大杉信仰が運ばれ定着した。 | |
113 | 利根川 | 渡良瀬川 | 関東地方整備局 | 渡良瀬川河川事務所 | 雷電神社および墓地 | 祭り・信仰 | 19世紀代 | 天保5(1834)年の建立。板倉町雷電神社と同様、由緒あるものである。 往時、渡良瀬川が矢場川筋を流れていたときの自然堤防上に建立されたと思われる。 旧矢場川水門施工が昭和63(1988)年に改築され、矢場川放流路の高水敷となっている箇所に存置。 |
144 | 富士川 | 釜無川 | 関東地方整備局 | 甲府河川国道事務所 | 御幸祭り(おみゆきまつり) | 祭り・信仰 | 天長2(825)年に起きた釜無川と御勅使川の大洪水によって、甲斐の国は大きな被害を受け、国司は朝廷に報告し、朝廷は勅使を下向させ、勅使は災害復旧の指揮に加え、竜王に水防の神を祀る社殿を建立(三社神社)した。そして、甲斐一宮、二宮、三宮の各神社に水防祈願を命じた。武田信玄は治水の祭りとして領民に水防意識の啓蒙を図った。「御幸祭り」は神輿が一宮(笛吹川流域)から三社神社(釜無川)につくと川除の儀式が行われ治水を祈ります。この担ぎ手は「ソコダイ、ソコダイ」のかけ声勇ましく信玄堤を足で踏み固める動作で練り歩きます。毎年4月15日に行われます。 | |
154 | 信濃川 | 信濃川水系中ノ口川 | 北陸地方整備局 | 信濃川下流河川事務所 | 白根の大凧合戦 | 祭り・信仰 | 18世紀代 | 元文2(1737)年に中ノ口川堤防の竣工を祝って白根から上げられた大凧が、味方村に墜落。怒った味方村の農民も大凧を上げ挑んだのが始まりとされる。壮観な白根の大凧合戦は、今日では、青少年の健全スポーツとして発展している。毎年六月上旬に中ノ口川を挟んで大凧合戦が催されている。 |
155 | 信濃川 | 信濃川水系中ノ口川 | 北陸地方整備局 | 信濃川下流河川事務所 | 角兵衛獅子 | 祭り・信仰 | 19世紀代 | 江戸時代後期、度重なる信濃川の水害による生活の困窮を救うため、月形村の百姓角兵衛が子供に獅子舞を教えて諸国をまわったのが始まりといわれている。歳月が流れ、中ノ口川も整備されるようになると、角兵衛獅子はすたれ、巡業は行われなくなったが、長い年月の間に角兵衛獅子は芸術的に磨き上げられ昭和の初めには、国内でも代表的な郷土芸能となった。新潟県を代表する郷土芸能。 |
169 | 信濃川 | 信濃川 | 北陸地方整備局 | 信濃川河川事務所 | 王神祭 | 祭り・信仰 | 17世紀代 | 王神祭は、古くから伝わる祭りで、かつては大掛かりな祭りだったが、華美に走りすぎたこともあり、一時途絶えて明治17(1884)年に、本社での祭典のみ復活した。王神祭の要となるのが又倉行事と年魚行事。年魚行事とは、最高の神饌とされる信濃川を上ってきた雌のサケを、長い箸と包丁で切り分け、鳥居の形に並べる行事であり、神に供えられるサケには一切手を触れずに執り行われる。緊張感漂う伝統の神事は、サケを媒介として王神に信濃川の治水と豊穣を祈った遠い昔を想像させる。 |
182 | 信濃川 | 千曲川 | 北陸地方整備局 | 千曲川河川事務所 | 北相木カナンバレ行事 | 祭り・信仰 | 千曲川の上流川上村や北相木村では、3月3日に女の子たちが藁で作ったサンダワラに手作りの人形をのせて川に流す「カナンバレ」行事が行われている。カナンバレは家難・河難を「払う」という意味から、バレといわれたのであろう。又、河童の供養とも伝えられており、水への感謝と、恐れを教える行事である。 | |
183 | 信濃川 | 千曲川 | 北陸地方整備局 | 千曲川河川事務所 | 小諸布引観音 | 祭り・信仰 | しなの鉄道小諸駅を下って千曲川左岸に、千曲川により浸食されたと考えられる断崖の中腹に白い布を広げたように一筋の白い岩盤が見られる。これが布引観音の山の布である。 その昔、信仰心の薄い老婆が千曲川で洗濯をしていたら、牛があらわれ布を角に引かけて走り出し、老婆はそれを追ってとうとう善光寺まできてしまった。布は見つからず善光寺参詣して帰ってみると、布は前の山にかかっていた。断崖上の釈尊寺の観音様が牛に姿を変えて、老婆を善光寺に導いたと語り伝えられてきた。 |
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185 | 信濃川 | 千曲川 | 北陸地方整備局 | 千曲川河川事務所 | 上田岩鼻と唐根古神社 | 祭り・信仰 | 岩鼻と唐根古神社は「大鼠と唐猫」伝説から始まる。上田市下塩尻と坂城町鼠宿との間に屏風を立てたような断崖絶壁がある。その対岸、上田市半過にも巨岩が向き合っている。この怪異な断崖には伝説があって、大鼠の害に困った人々が、唐の国から猫を借りてきて大鼠退治をすることになった。唐猫は大鼠に挑み、その格闘の苦し紛れに岩に噛みつき、鼠宿から半過に繋がっていた岩が噛崩かれ南佐久平の湖が流れ出し、唐猫も流され篠ノ井塩崎で岸辺に這い上がったがそこで息絶えた。人々は唐猫に感謝したことから、軻良根固神社(唐猫神社)であると言われている。 | |
187 | 信濃川 | 千曲川 | 北陸地方整備局 | 千曲川河川事務所 | 千曲市雨宮御神事「橋懸かり」 | 祭り・信仰 | 千曲川右支川の沢山川(千曲市雨宮)の生仁(なまに)橋で川にかかわる雨宮坐日吉神社(あめみやにいますひえじんじゃ)の神事で3年に1度4月29日に行われる。竹で作った獅子頭をつけた4人の若衆が麻ひもで体をしばり、生仁橋から逆吊りになって水面をかき、水しぶきを上げて踊り、五穀豊穣と悪霊を川に流す神事である。 | |
188 | 信濃川 | 千曲川 | 北陸地方整備局 | 千曲川河川事務所 | 川施餓鬼 | 祭り・信仰 | 犀川の左支川裾花川下流で、毎年善光寺大本願の尼僧によって、8月下旬に行われている行事で、水死者の霊を慰め、川魚などを供養し、さらに川の安全祈願をする行事である。 | |
200 | 関川 | 関川 | 北陸地方整備局 | 高田河川国道事務所 | 西光寺地蔵堂の雨ごい祭り | 祭り・信仰 | 中頸城郡三和村越柳地先の水田を溜池にするために土を掘ったところ、土中から石仏が出土し、この石仏を雨ごい地蔵として祀った。この祭事は行われていなかったが、平成6(1994)年の渇水時に行われている。石仏は、室町時代の阿弥陀如来像であろういわれているが、著しく風化し石仏の面相がわからなくなっている。 | |
202 | 関川 | 関川 | 北陸地方整備局 | 高田河川国道事務所 | 上越祭り(祇園祭) | 祭り・信仰 | 高田城築城に際し、八坂神社は朱印地を受け取り高田に地を移す代わりに出張して祭りを行いたいと申し出たのが始まりである。 祭りは御輿が関川下流から陸行し、中流域の仮宮に着いて祇園祭が高田で行われる。高田の祭りが終わった後、東本町から関川に御輿を下ろし稲田橋へと渡る。 |
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203 | 関川 | 矢代川 | 北陸地方整備局 | 高田河川国道事務所 | 白蛇教化の塔 | 祭り・信仰 | 16世紀代 | 昔矢代川と関川が合流していた付近に大きな渕があり水死者が続出したため、本願寺中興の祖といわれる蓮如上人が21日間の読経を続けたところ白蛇が水死して浮かんだという言い伝えが残っている。 上越市今泉地先の願清寺境内に、白蛇を埋め弔ったと言われる墓塔が白蛇教化の塔として残っている。 |
205 | 姫川 | 平川 | 北陸地方整備局 | 高田河川国道事務所 | 八方池への雨ごい | 祭り・信仰 | 雨乞いのため、飯森神社から八方池に登拝し、その夜は池畔に籠もって一夜を明かして下山した。 この間、里宮では氏子が交替で太鼓を打ち鳴らし続けたという。登拝のとき、僧によって血脈が池に投ぜられると、龍神があらわれ必ず雨を呼んだと伝えられる。 | |
215 | 黒部川 | 黒部川 | 北陸地方整備局 | 黒部河川事務所 | 墓ノ木タイマツ祭り | 祭り・信仰 | 毎年10月13日にタイマツ祭りが行われる。 | |
274 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 一閑寺の不動尊 | 祭り・信仰 | 一閑寺の不動尊の右足には、岩角にノミで掘ったような穴が空いている。昔手取川の本流はここを流れており、渡し船をつなぐための鍵穴だったそうである。また、手取川の上流には波切不動が洪水から人々を守っている。 | |
275 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 笠間神社(減水祈願) | 祭り・信仰 | 16世紀以前 | 木曾義仲が手取川の洪水で、渡れず笠間神社に祈願したところ、程なく水が引いたという言い伝えが残っている。 |
276 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 官保神社(減水祈願) | 祭り・信仰 | 16世紀以前 | 木曾義仲が手取川の洪水で、渡れず宮保神社に祈願したという言い伝えが残っている。 |
288 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 水戸明神(水利感謝祭) | 祭り・信仰 | 20世紀代 | 水戸明神には枝権兵衛や小山良左衛門がまつられ、鶴来町では元旦、秋に水利感謝が行われている。 |
308 | 大井川 | 大井川 | 中部地方整備局 | 長島ダム管理所 | 大井神社 | 祭り・信仰 | 17世紀代 | 大井川は急流河川であり、江戸時代まで河道が固定されていない状況であった。 大井川の氾濫防止を祈って、各所に神社を祭った。 大井川の両岸に70社以上が現存する。 |
310 | 大井川 | 大井川 | 中部地方整備局 | 長島ダム管理所 | 川除地蔵 | 祭り・信仰 | 16世紀以前 | 11世紀以降、川の決壊や氾濫を防ぎ、水害から守ってもらうための信仰対象。 昭和30年代まで信仰は続いていたが、現在は交通安全等の信仰対象となって現存している。 |
331 | 庄内川 | 小里川 | 中部地方整備局 | 小里川ダム工事事務所 | 大滝不動尊と銘板 | 祭り・信仰 | 17世紀代 | 右岸に不動尊が祀られた経緯不明。江戸時代の安永7(1778)年に干害に苦しんだ地元農民が祈ったところ雨が降ったという意味の銘板が対岸の岩盤に彫り込んである。現在も地元住民による祭りが行われている。 ダム湛水地内となるため、平成14(2002)年に移転。 |
335 | 庄内川 | 小里川 萩原川 蛇抜沢川 | 中部地方整備局 | 多治見砂防国道事務所 | 言い伝え(蛇抜け) | 祭り・信仰 | 19世紀代 | 江戸時代、木曽地方では土砂崩れ、土石流は「蛇抜」と呼ばれていた。 当所管内において、蛇抜けと命名された沢があり、木曽地方の言い伝えと同様の由来があったと考えられる。 伝説の中では、貴族の家を建てるために大勢の木こりが集められ、役人の元でたくさんの木が刈られていたことが問題にされているのである。過度の樹木伐採、過度の自然に対する破壊が、蛇抜けという災害を引き起こすとの認識が、既に幕末以来木曽谷では定着していたわけである。 災害に関する伝説は必ずしも荒唐無稽なものではなく、歴史的な事実を下敷きにすることが多い。災害の伝説がある場所には、必ず同様の災害が起きると考えて、防災に留意すべきである。 |
369 | 由良川 | 由良川 | 近畿地方整備局 | 福知山河川国道事務所 | 堤防神社 | 祭り・信仰 | 20世紀代 | 堤防の恩恵に感謝し、愛護の気持ちと、先人の偉業と洪水の苦悩を忘れないように、岡象女大神、大地主大神、産土大神の3神を祀る「堤防神社」を御霊神社境内に建て安全を祈願するようになった。 |
370 | 由良川 | 由良川 | 近畿地方整備局 | 福知山河川国道事務所 | 堤防まつり | 祭り・信仰 | 20世紀代 | ご神体が市内を巡行し、川清めの神事として川渡御も行われる。 |
371 | 由良川 | 由良川 | 近畿地方整備局 | 福知山河川国道事務所 | 大川神社とサケと神様 | 祭り・信仰 | 5世紀代 | ある静かな夜、由良湊の野々四郎という漁師が沖で釣りをしていたところ金色のサケに乗った神様が現れ「これから大川の里に長く鎮座して、この地方を守ろう」と言ったので、漁師は急いで10km上流の大川に行って村人に話し、そこで祀られたのが起源と言われている。 |
372 | 由良川 | 由良川 | 近畿地方整備局 | 福知山河川国道事務所 | 綾部の杵の宮伝説 | 祭り・信仰 | 干しサケ売りの商人がわなにかかったキジと持っていたサケを入れ替えた。当時大原神社の氏子が多くおり、サケは神の使いなのであわてて池に投げ込んだところサケが怪物に化けてたたりを起こした。やがて干しサケ売りの商人がきて杵で退治した。 | |
373 | 由良川 | 由良川 | 近畿地方整備局 | 福知山河川国道事務所 | 弘法川と弘法大師 | 祭り・信仰 | 弘法大師が諸国を行脚していたときに、喉が乾いたので、川で洗濯をしていた老婆に水を飲ませてくれるように頼んだが、「川の水をのめ」と無愛想に答えたため、老婆の慈悲心を蘇らせようと、杖で川の中をついたところ川の水が瞬く間に無くなってしまった。 | |
405 | 淀川 | 木津川 | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | 雨乞い | 祭り・信仰 | 17世紀代 | 鎌倉時代に創建された新大仏寺(東之防:阿波の大仏さん)の俊乗上人像は霊験あらたかで、雨乞いにおいても信仰を集めた。 藩主みずから雨乞いを行い寛永9(1632)年の藤堂高次の祈願文等多数残っている。 |
406 | 淀川 | 木津川 | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | 雨乞い | 祭り・信仰 | 20世紀代 | 昭和19(1944)年夏。 友生神社で火縄を貰い受け、村の人たちが一束宛持ち寄った薪を浅間山の山上で焚いて雨を祈った。 |
407 | 淀川 | 木津川 | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | 雨乞い | 祭り・信仰 | 19世紀代 | 元治元(1864)年。 大旱魃のとき村人がこの山で火を焚き、10日後に雨をもらって以来、この山の名が雨乞山になった。 雨乞い山として残っている。 |
408 | 淀川 | 木津川 | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | 雨乞い | 祭り・信仰 | 法花では「龍王山講」という講を行う。青山町上津地区では笠踊、または千度垢離等、高尾の床並では「血首井」で雨乞いを、島ヶ原村では雨乞踊を奉納し、雨をもらったときには絵馬を奉納した。 法花の「龍王山講」は、いまでも毎月20日にお籠りをしている。 |
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409 | 淀川 | 木津川 | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | 言い伝え | 祭り・信仰 | 19世紀代 | 木津川の中流、加茂町の小谷から川づたいに出る古道に石地蔵がある。この地蔵は、明治初期、木津川の常水面から1間(1.8m)余の高さにある古道を馬に乗って仰ぎ見る位置にあった。それがいまでは、水面すれすれの高さになっていると「京都府相楽郡誌」が記している。 |
424 | 淀川 | 名張川(宇陀川) | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | 雨乞い | 祭り・信仰 | 16世紀代 | 江戸時代になると井堰・溜池が多くつくられるようになったが、旱害は発生した。これに対して各地で雨乞いが多く行われたことが記録よりわかる。 |
425 | 淀川 | 名張川(宇陀川) | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | 水神の信仰 | 祭り・信仰 | 16世紀以前 | 自然は神が支配すると信じていた古代は雨が降りすぎるといっては止雨を祈り、雨がないといっては降雨を祈った。名張川流域の水源地帯は古来から水神のメッカで室生竜穴があり、水分神社がある。室生山には三つの竜穴があって東は吉祥竜穴、西は遮羅夷吉祥竜穴、中は持法吉祥竜穴というと記している。竜穴はむろん竜王が住んでいる穴という意味で、竜王とは中国から伝来した思想で、雨水を掌り仏法を守護する神とされている。伝わってきたのは7世紀後半の天武朝前後といわれている。 |
443 | 新宮川 | 熊野川 | 近畿地方整備局 | 紀南河川国道事務所 | 御船まつり | 祭り・信仰 | 熊野速玉大社の例大祭。結の宮(イザナミノミコト)を大社から川原まで神輿、さらに神幸船に奉遷され御旅所に渡御する祭礼。 美しい神幸船を先導する形で、熊野川を舞台に繰り広げられる9隻の早船競漕は、熊野水軍の名残を留め誠に壮観である。 昭和39(1964)年5月、和歌山県の無形民俗文化財に指定。 |
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453 | 千代川 | 千代川 | 中国地方整備局 | 鳥取河川国道事務所 | 流しびな | 祭り・信仰 | 16世紀以前 | 室町時代(行事化されたのは江戸時代)から旧暦の3月3日の「桃の節句」に行われる千代川を舞台とした、厄払いのための”雛送り”の伝統行事である。 因州和紙で作られた雛人形、ひしもち、花などをさん俵に乗せ、「災厄などを託して清流に流す」 ・毎年4月に行われている。 ・鳥取県無形文化財、ふれあいの水辺30選 環境100選等に選定。 ・雛送り行事箇所を建設省の環境整備事業とし、緩傾斜玉石護岸、疑宝珠型防護柵等を施工し、環境デザイン面からも高い評価を得ている。 |
457 | 日野川 | 日野川 | 中国地方整備局 | 日野川河川事務所 | 元荒神(もとこうじん) | 祭り・信仰 | 18世紀代 | 昔からこの辺り一帯にあった集落を陰で守護する神として祀られてきた。 元禄16(1703)年に起きた日野川の大洪水のため、この地にあった集落がほとんど流された。そのため安永年間(1772〜1780年)には、次々と離散、転住し、今の富吉、米子市中島へと集落を造っていった。 現在はこの地の付近を「古屋敷」という地名で呼び、この元荒神だけがその往時をとどめている。 |
482 | 高津川 | 高津川 | 中国地方整備局 | 浜田河川国道事務所 | 雨乞い神事 | 祭り・信仰 | 高津川源流とされている六日市町の大蛇池において開催される水源祭りの一環として毎年6月頃に執り行われている。 | |
484 | 江の川 | 江の川 | 中国地方整備局 | 浜田河川国道事務所 | えんこう祭 | 祭り・信仰 | 15世紀代 | 500年前より行われている。 えんこう(猿猴)とはかっぱのことで、子供たちが水の事故に遭わないようにと、いつのまにか水神をまつる祭りになった。 毎年5月5日の子供の日に行われている。 |
492 | 太田川 | 旧太田川 | 中国地方整備局 | 太田川河川事務所 | 住吉祭り | 祭り・信仰 | 18世紀代 | 住吉神社は享保17(1732)年、真言宗の僧、木食快円(もくじきかいえん)が当時の船奉行に申し出て、享保18(1733)年に住吉三神(航海の神様)をまつって創建したと伝えられる。 現在の加古町、住吉町一帯は水主(かこ)町と呼ばれ、海岸近くに位置し、川と海の船が集まるところで、水の都広島の水上交通の要地であった。「舟入」という入り江が掘られ、そのほとりには藩の船屋敷、船作業所が設けられた。また周辺には舟大工、水夫などが軒を並べ1,000人にも達したという。住吉神社はこうした船府一統の守護神として信仰を集めた。 寛政10(1798)年、付近で大火があったが、火勢は神社の直前で鎮火し、改めて神威の偉大さがもてはやされた。翌11年、近くの弥市が鼻(やいちがはな・現在地)に移され、この日をもって夏の大例祭日とした。 |
503 | 吉野川 | 吉野川 | 四国地方整備局 | 徳島河川国道事務所 | 高地蔵(たかじぞう) | 祭り・信仰 | 19世紀代 | 吉野川下流域には高い石の台座の上から周囲を見守るように建立された地蔵尊石像が多く見られる。中でも文化8(1811)年に建立された国府町にあるお地蔵さんは総高約4.3mもあり、下を見下ろすその姿から「うつむき地蔵さん」の愛称で地元民に親しまれている。高地蔵の由来は、洪水が頻繁に起こっていた頃、よく水没したり流出していたために、申し訳ないという信仰心からこのような高い地蔵尊が建立されたそうである。 |
506 | 吉野川 | 吉野川 | 四国地方整備局 | 徳島河川国道事務所 | 龍蔵堤(川贄さん) | 祭り・信仰 | 18世紀代 | 道路のガードレールの陰に隠れた用水路のコンクリートの上に、注意していなければ見過ごしてしまいそうな小さな石の祠がある。 祠の正面には川除(かわよけ)太神宮と刻まれ、堤防の守護神であることがわかる。右側面の文字は風化して読めなくなっているが、拓本をとると「元文五庚申○月十六日 芝原村 西○氏子○」と読みとることができる。 元文5(1740)年は江戸時代中期に当たる。何度築いても洪水のために決壊してしまう堤防。村では神頼みで堤防を復旧しようと、世話役が集まり、明朝一番に通行するものを人柱にしようと決めた。その時、庄屋は自分が犠牲になろうと密かに決意していた。ところが庄屋の世話になっていた龍蔵という男がそのことを知り、恩返しのために庄屋より早く出かけて人柱になった、という伝説がある。これが川除太神宮が俗に「川贄さん」と呼ばれる由縁である。完成した堤防は、その秋の洪水にビクともしなかったという。庄屋や農民は、龍蔵への感謝の気持ちとして祠を建て、堤防を龍蔵堤と呼んだと伝えられている。 |
525 | 那賀川 | 那賀川 | 四国地方整備局 | 那賀川河川事務所 | 水神さん | 祭り・信仰 | 過去に堤防が決壊したところや取水口であったところに祀られている。 現在でも堤防上に数十ヶ所存在する。 |
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529 | 那賀川 | 那賀川 | 四国地方整備局 | 那賀川河川事務所 | 野上さん | 祭り・信仰 | 昔、那賀川では再三堤防が決壊し、大洪水が発生していたので、人柱を立てて堤防の決壊を防止しようとしていた。 昭和24(1949)年に那賀川南岸用水を作っているとき、人骨が出てきたので人柱の話しが実話であったことが判明した。 その人骨を祀り”野神さん”をつくった。 |
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554 | 物部川 | 物部川 | 四国地方整備局 | 高知河川国道事務所 | 堰留神社 | 祭り・信仰 | 19世紀代 | 堰留神社は昔、物部川の洪水が大岩によってせきとめられたことにより、洪水の被害を免れた人々が、その岩を神と崇め、磐座として祀ったのに始まったと伝えられている。祭神は、堰留神、石留神。文化12(1815)年7月の洪水により社殿が流失し、同年10月に再興されたという記録が残っている。 ほぼ当時のまま残っており、場所も堤内法尻部からすぐの所にあり、堤天からは神社参拝のための坂路も設置されている。 |
576 | 遠賀川 | 遠賀川 | 九州地方整備局 | 遠賀川河川事務所 | 献鮭祭(鮭神社で行われる) | 祭り・信仰 | 福岡県嘉穂町には、1200年前に建立されたといわれる鮭神社があり、毎年12月13日には「献鮭祭」が行われる。 全国に鮭を祭った神社は他にもあるが、鮭神社と名付いた神社はここだけである。この地方では、かつて鮭が幸せを運んでくる使者であった。海神の使いが鮭に姿を変え、神社にお参りに来るという伝説が残っており、鮭がやってきた翌年は大豊作、無病息災といわれ、万一鮭を殺したりすると災難が起こるともいわれた。神社の境内には鮭塚があり、遡ってきた鮭を神の使いとして豊作を祈りながら、この鮭塚に埋めるのが献鮭祭である。記録によれば、明和元(1674)年から続いている祭りである。 昭和53(1978)年には遠賀川下流で40年ぶりに鮭が捕獲され、これを契機に「遠賀川に鮭を呼び戻す会」が結成され、昭和61(1986)年からは流域の各地で鮭の稚魚の放流が続けられている。サケに関する活動は、自然や環境問題を考えるきっかけとなり、以後、嘉穂町の揺るがぬ町づくりの指針となっている。 |
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580 | 遠賀川 | 彦山川 | 九州地方整備局 | 遠賀川河川事務所 | 神幸祭 | 祭り・信仰 | 17世紀代 | 田川市魚町、風治八幡神社の川渡り神幸祭(県指定文化財)は、彦山川水系に伝わる400年あまりの歴史を持った、筑豊を代表する水神祭りである。また、この祭りには豊作への願いも込められている。 祭り初日の「お下がりの日」は、まず境内で「お立ちの獅子」が舞われ、次にお神輿が先導し、それに色とりどりのパレンを取り付けた十基あまりの山車が続き、一基50人を越えるかき手に曳かれた山車は彦山川に入ると、かき手は川の中を賑やかな鐘の音に合わせて山車を曳きまわり、暴れ、水をかけあう。1時間ほどで水の饗宴が終わると、お旅所に一晩「お泊まり」になる。二日目の「お上がりの日」は、逆の順番で川を渡って神社に戻る。山車につけられたバレンは130本ほどの竹に様々な色紙を貼ったものであるが、これはたわわに実る稲穂を表したものである。 |
581 | 遠賀川 | 小副川川 | 九州地方整備局 | 嘉瀬川ダム工事事務所 | かわまつり | 祭り・信仰 | 川岸に竹で柵を設け、水神を祀る。 ・大野原7月28日頃 ・上小副川6月1日頃 ・日池11月1日頃実施 |
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609 | 筑後川 | 筑後川 | 九州地方整備局 | 筑後川河川事務所 | 水天宮 | 祭り・信仰 | 17世紀代 | 水天宮は、久留米市瀬ノ下に位置し、平家滅亡後、建礼門院に仕えていた按察使局伊勢が、千歳川(筑後川の別名)辺りの鷺野ヶ原に逃れ、安徳天皇ほか、三神を祀ったのが始まりとされている。現在の社殿は、慶安3(1650)年に二代目藩主有馬忠頼がこの地に社地を寄進して宮を移したものである。 全国水天宮の総本山として知られており、海運守護、または、安産の神として有名である。 |
618 | 筑後川 | 筑後川流域 | 九州地方整備局 | 筑後川河川事務所 | カッパ伝説 | 祭り・信仰 | 九州一の大河川である筑後川は、一夜にして川底の流れが変わることから一夜川の異名を持っている。大洪水に苦しめられてきた人々はこれを神業、神の祟と考え、そこで神に対する深い信仰が生まれ水神信仰となった。その後、世の中が次第に複雑化するにつれて水神の信仰も分割化し、河童の信仰も生まれ育ったものと思われる。 河童は水神の化身といわれる伝承の生き物である。水田農耕地帯では水の神は田の神であり、田の神は秋の彼岸から春の彼岸まで山に上って山神になると信じられているが、豊後・筑後地方ではカッパと同様に季節によって山と川とに生息していると伝えられている。 |
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623 | 本明川 | 富川 | 九州地方整備局 | 長崎河川国道事務所 | 五百羅漢 | 祭り・信仰 | 16世紀代 | 本明川は、多くの洪水に見舞われ、元禄12(1699)年に起きた大洪水では、死者487名の被害を出した。さらに、翌13年には日照りが続き、田畑の作物がほとんど穫れず、相次ぐ天災に人々の生活はますます苦しくなった。 2年も続く災害は「龍神様が怒っているのではないか」という噂を叫び、領主諫早茂晴は深く心を痛め、今後の天災を鎮めるため本明川の源である富川にこもって龍神を祭り、厄払いの祈願と亡くなった487名の冥福を祈ると共に、この渓谷の岸壁に五百羅漢を刻ませた。2年にもおよび工事で如来像3体、羅観像500体、合計503体を数え、刻まれた面積は約300坪にもおよび、その画像の美しさと、石工の技のすばらしさには目を見張るものがある。 現在は、昭和52(1977)年に県史跡文化財に指定された。また、昭和32(1957)年の諫早大水害を偲び、毎年7月25日に五百羅漢のもとで慰霊祭が行われている。 |
629 | 白川 | 白川 | 九州地方整備局 | 立野ダム工事事務所 | タケイワタツノミコトの蹴裂伝説 | 祭り・信仰 | 阿蘇地方を拓いた神、健磐龍命の蹴裂伝説が阿蘇地方に語られている。その内容としては、昔阿蘇の外輪山に囲まれた大きな湖があり、その地に村や田畑を拓くことを考えた健磐龍命は、現在の外輪山唯一の切れ目である立野火口瀬を蹴破って、阿蘇地方を拓いたという伝説。 この立野火口瀬は、現在も熊本市側から阿蘇地方に入っていく観光ルートとして賑わっている。 |
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662 | 球磨川 | 前川 | 九州地方整備局 | 八代河川国道事務所 | オレオレデーライタ祭り | 祭り・信仰 | 15世紀代 | 「オレオレデーライタ」とは、「呉(中国)の国からよくいらっしゃった」という意味。中国より九千坊を大将とする河童の大群が渡来したと言われ「河童渡来の碑」の建つ前川右岸河川敷で、子供の水難防止の願いを込めて行われる祭り。 子供達が思い思いの願い事を書いた短冊を付けたササ竹を川沿いに立てて安全祈願の仏事を行い、地元消防団の放水でかけ水遊びをして水と親しむ祭りである。 |
673 | 山国川 | 山国川 | 九州地方整備局 | 山国川河川事務所 | 鶴と市太郎 | 祭り・信仰 | 16世紀以前 | 今から約850年前の保延元(1135)年に完成。 昔の山国川は暴れ川で、治水のための井堰をいくらつくっても毎年洪水で決壊するため、いかなる風水害にも耐えられる井堰をつくろうと、お鶴(35歳)とその子市太郎(13歳)の母子を人柱にすることによって、ようやく難工事を完成させる。母子の霊は鶴市八幡宮に祭られ、井堰の平穏無事を見守り続けている。 |
674 | 山国川 | 山国川 | 九州地方整備局 | 山国川河川事務所 | 八面山の雨乞い | 祭り・信仰 | 18世紀代 | 耶馬渓の入口に構えているのが三光村の八面山である。屋山ともいい、どの方角から見ても屋根型に見えるので八面という。この山は多くの伝説に包まれている。 天明5(1785)年の大干害のさい、自性寺海門和尚が七日七夜の雨乞い祈願をした。この際、池から竜女が現れ、和尚に不思議な珠を与え、成仏させてくれることを願い、その代わりに5日間にわたって雨を降らせたという。 |
701 | 大分川 | 大分川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 湯布院盆地成立のいわれ | 祭り・信仰 | 伝説では昔、湯布院盆地は湖だった。開拓したのは由布岳の女神宇奈岐日女である。太古、女神は山上から見下ろして開拓を思い付いた。配下の巨人は満身の力を込めて一蹴り、二蹴り。すると湖壁はみごとに破れ、水が動き出す。水はどうどうと流れ、大分川を形作って海に注ぎ、湖底にすばらしい平野を生じた。 宇奈岐日女神社は盆地の中に巨杉に包まれて、鎮座。巨人は蹴裂権現の名で彼が破った前徳野の山上に祠がある。 |
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702 | 大分川 | 大分川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 雨乞い | 祭り・信仰 | 19世紀代 | 享和2(1802)年に旱魃の雨乞いが上村河原と律院清龍観音(金剛宝戒寺境内西山)で行われた。 |
705 | 大分川 | 花合野川支川倉本川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 牡丹長者の雨乞い | 祭り・信仰 | 小田の池には、牡丹長者が雨乞いをして、池の竜神に娘を人身御供に差し出した伝説がある。 | |
706 | 大分川 | 阿蘇野川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 男池の雨乞い | 祭り・信仰 | 原生林の中にきれいな水が湧いており、この池には龍神がいて朝日長者が雨乞いをし、その時の約束で末娘の千鳥姫が人身御供になろうとしたところ。 | |
715 | 大野川 | 大野川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 天神まつり | 祭り・信仰 | 大野川は古くから交通路の役割を持っており、上古、景行天皇は大野川上流域にさかのぼって、八田・打猿・国摩呂を討ったとある。八田とは蛇神族であるとされ、この記録は景行天皇をまつる城原神社に記されている。 祭りの夜、男の子が網で女の子をぐるぐる巻きにすると、その女の家は豊作になるという伝承行事があり、竜にちなんだものである。 |
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720 | 大野川 | 大野川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 波乗り地蔵 | 祭り・信仰 | 古老によると、中川公(岡藩主)が参勤交代で犬飼より府内まで下っていた。その就航安全を祈願するために刻まれたものだと伝えられている。また、雪舟が府内から犬飼に来た時に描かれたものだという説もある。いずれも定かでないが、町民に深く信仰されている。 岩の西側にやや前かがみの姿勢で小舟に乗った地蔵立像がある。波の上に浮かぶ姿できれいな線彫りとなっている。 犬飼橋の下流に沿って下ると、大野川と紫北川の合流点に大きな岩石がたっている。 |
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723 | 大野川 | 大野川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | カッパの仇討ち | 祭り・信仰 | 肥後藩高田手永の代官に筒井加右衛門がいた。 彼は自分で育てた茄子が盗まれ、その夜犯人を竹槍で突き刺させた。彼が公用で肥後領佐賀関に行くことになり、百堂の波にかかると子ガッパが現われ、「昨夜殺されたのは私の親。仇討ちをしたい。」と申し込まれた。そこで彼は、「今は役目が大事。帰途に相手になろう。」と約束した。 夕方、渡に戻ってくると子ガッパには助っ人として数百匹のカッパがついていた。「しまった!」と思ったがあとの祭り。ついに川の中に引き摺り込まれてあえない最後を遂げたということである。 |
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724 | 大野川 | 大野川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 伝(でん)よむ膏薬 | 祭り・信仰 | 19世紀代 | 昭和の初め頃まで、伝よむ膏薬の製法が伝わっていた。 別名を川太郎膏薬といい、150年ほど前、伝よむこと武藤伝右衛門がカッパから処方を習ったという民話である。 |
725 | 大野川 | 大野川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 大蛇神の伝承 | 祭り・信仰 | 佐賀関の早吸日女社の神官が体にウロコがあり、しきりに水を欲しがるので、円生川の水源の赤迫池に行ったがさらに、沈堕の滝に入って竜神・大蛇神となったといい、年に一度大野川を下って早吸日女神の官の池に姿を現わすこの日は、大野川は雨も降らないのに濁るといわれている。 竜神は農耕儀礼の神でもあり、中国の影響を受けた竜神信仰の一つであるが、瀬戸内海地方に残る伝承と一致していることから、大野川の文化が侵入したことを窺い知ることができる。 今でも川筋の農民は、干ばつのときには沈惰の滝に雨乞いに行くといわれている。 |
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726 | 大野川 | 大野川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 浦島伝説 | 祭り・信仰 | 大野川の流域文化の起こりをみると、大野川の文化圏は別府湾から瀬戸内海へと続く海の文化が浸透していったことが多くの伝説から窺い知れる。 浦島伝説は、室町期の版本御伽草子の中に出てくる浦島太郎の話のことである。 浦島太郎は、竜宮神である亀の化身女房と結婚して栄華な生活を送るが、やがて故郷に帰った浦島は、700年の歳月を経ていて、ついには鶴となって浦島明神となったというものである。 大野川上中流域には、浦島伝説が集中していて、浦島神社も7社を数える。 |
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756 | 五ヶ瀬川 | 五ヶ瀬川 | 九州地方整備局 | 延岡河川国道事務所 | 水神様 | 祭り・信仰 | 延岡は、五ヶ瀬川と大瀬川を中心に町並が形成された城下町であり、「水郷のべおか」といわれるように昔から豊かな水と自然景観に恵まれていた。このように、豊かな水に恵まれていることは、同時に水害との闘いの歴史であった。そのことは水神さまが数多く祭られていることにもあらわれ、先人達が川の恩恵とともに川を神聖なものとして敬いながら、水難を避け街を守ろうとするなど、川との共存を切実に思っていたあらわれである。五ヶ瀬川には、この地域の貴重な文化遺産が98箇所現存し、各々に由来がある。 | |
770 | 肝属川 | 肝属川 | 九州地方整備局 | 大隅河川国道事務所 | 水神様・田の神様(たのかんさあ) | 祭り・信仰 | 田の神様は南九州独特であり、農耕の神とされており、雨乞いの願いも込められていたといわれている。 肝属の水神様は、一般的な五穀豊饒の水神様に加え、水難避けの意もあったと思われる。田の神様は、肝属川流域に100以上はあると思われる。 水神様は、高山町に80程度あり、流域内に100以上有ると思われる。 |
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773 | 肝属川 | 肝属川 | 九州地方整備局 | 大隅河川国道事務所 | 8月踊り | 祭り・信仰 | 18世紀代 | 江戸時代中期より伝承されている。 水神祭の儀式から発生したものと思われる。旧暦の8月1日に行われていたが、現在はその日程は一定していない。 五穀豊饒無病息災を祈願して行われてきた行事である。流域内の数カ所で現在も行われている。 |
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