河川伝統技術データベース:分類別リスト【碑】 |
整理 番号 |
水系 | 河川名 | 局名 | 事務所名 | 名称 | 分類 | 年代 | 当該河川伝統技術の解説・由来・意味 |
27 | 子吉川 | 子吉川 | 東北地方整備局 | 秋田河川国道事務所 | 畑中喜右衛門の碑 | 碑 | 17世紀代 | 江戸時代、子吉川が年々川岸を浸食し、吉沢集落の家屋敷が危険にさらされた際、滝沢郷の名主であった「畑中喜右衛門」が子吉川の改修を度々代官所に訴えたが、万治元(1658)年に農民扇動の罪で処刑された。喜右衛門が処刑される直前に予言したとおり、その後に子吉川の流れが大きく変わり、吉沢集落の人々は救われた。以来、吉沢集落の人々は供養碑を建立し、毎年慰霊祭を実施している。子吉川の変遷において貴重な史跡であることから、平成5(1993)年に「由利町の史跡」に指定された。 |
28 | 子吉川 | 子吉川 | 東北地方整備局 | 秋田河川国道事務所 | 小板戸の舟神碑 | 碑 | 17世紀代 | 子吉川の舟運は、天保年間(1830〜1844年)以前は小板戸河岸が遡航終点であった。小板戸河岸には藩の米倉が立ち、中下流との交易の拠点として、昭和初期に鉄道が開通するまで、米や杉などを本荘に運ぶ基地として使用されていたとされる。「舟神碑」が、河川敷に近い線路脇に残っている。 |
41 | 最上川 | 最上川 | 東北地方整備局 | 山形河川国道事務所 | 荒神碑 | 碑 | 19世紀代 | 明治27(1894)年の最上川の氾濫をもたらす、荒ぶる神を鎮めるために建てられた。 |
90 | 利根川 | 小貝川 | 関東地方整備局 | 下館河川事務所 | 水難の碑 | 碑 | 20世紀代 | 大正3(1914)年4月9日に小貝川渡船場において、約3.6mの水位上昇があり、これにより11名の死者を出す転覆事故が起こった。11名中8名が女学校の生徒であった。 この後、大正15年に大和橋が架けられた。当時の渡船組合(新井木 36名、箕輪 8名)によって建立したものである。 管理者が不明である。 |
106 | 利根川 | 烏川 | 関東地方整備局 | 高崎河川国道事務所 | 倉賀野川岸跡の碑 | 碑 | 16世紀代 | 戦国時代から江戸時代にかけ、上州、信州、越後から送られた穀物等を烏川、利根川を船運で送るために烏川倉賀野に設置された。 |
110 | 利根川 | 烏川 | 関東地方整備局 | 高崎河川国道事務所 | 佐野の舟橋の碑 | 碑 | 「恋の舟橋」の伝説を歌った万葉集巻14所収の古歌。 | |
112 | 利根川 | 渡良瀬川 | 関東地方整備局 | 渡良瀬川河川事務所 | 修堤碑 | 碑 | 20世紀代 | 明治43(1910)年8月の出水による災害復旧について、石碑に残している。明治44(1911)年11月建立。 明治時代、利根川に最大の被害を与えた。関東地方全体で死者・行方不明者847名。家屋全壊2,121戸、家屋流出2,796戸。堤防が各所で破堤。大利根百話。 東武鉄道、佐野線右岸堤防にある。注意して見ないと見落とす。歴史的に貴重な記述となっている。 |
114 | 利根川 | 矢場川 | 関東地方整備局 | 渡良瀬川河川事務所 | 水害記念碑 | 碑 | 20世紀代 | 明治43(1910)年8月災害の詳細が刻印。 渡良瀬川が矢場川河道を流れていた時期の被害状況・復旧状況等の記念碑。明治44(1911)年10月に建立した。 堤防川裏の草むらのなかに建っている。 |
118 | 利根川 | 渡良瀬川 | 関東地方整備局 | 渡良瀬川河川事務所 | 岡登用水堀再興の碑 | 碑 | 18世紀代 | 江戸時代に設けられた用水堀再興記念碑。 |
119 | 利根川 | 渡良瀬川 | 関東地方整備局 | 渡良瀬川河川事務所 | 広沢用水竣工記念碑 | 碑 | 18世紀代 | 大同年間(806〜810年)に開設された広沢用水(大同堀)の昭和35(1960)年に行った抜本的改良工事の竣工記念碑。 |
120 | 利根川 | 渡良瀬川 | 関東地方整備局 | 渡良瀬川河川事務所 | 高津戸ダム竣工記念碑・高津戸ダム建設殉職者慰霊碑 | 碑 | 20世紀代 | 昭和51(1976)年に竣工した高津戸ダムの記念及び慰霊碑。 |
121 | 利根川 | 渡良瀬川 | 関東地方整備局 | 渡良瀬川河川事務所 | 歌碑 | 碑 | 20世紀代 | 風人短歌社創立15周年を記念した歌碑。 |
122 | 利根川 | 渡良瀬川 | 関東地方整備局 | 渡良瀬川河川事務所 | 太田頭首工竣工記念碑 | 碑 | 20世紀代 | 江戸時代よりあった待、矢場、三栗谷堰を統合した太田頭首工の竣工記念碑。 |
124 | 利根川 | 桐生川 | 関東地方整備局 | 渡良瀬川河川事務所 | 道路、橋梁改修記念碑 | 碑 | 20世紀代 | 昭和8(1933)年竣工した濁沼地区の道路河川竣工記念碑。 |
127 | 利根川 | 江戸川 | 関東地方整備局 | 江戸川河川事務所 | 刀根河重疎碑 | 碑 | 18世紀代 | 寛永年間に開削された江戸川と金杉(松伏町)で合流する庄内古川は、洪水時に江戸川からの逆流により、流域に甚大な水害をもたらした。この惨状を金杉村の名主らは親子三代に渡り幕府に請願し、享保13(1728)年ついに認められ、井沢弥惣兵衛為永により江戸川の直流化と庄内古川と江戸川の合流点を下流へと付け替えた。この経過は刀根河重疎碑に記されている。 |
134 | 荒川 | 荒川 | 関東地方整備局 | 荒川上流河川事務所 | 樋口村寛保2年洪水位磨崖標 | 碑 | 18世紀代 | 寛保2(1742)年の洪水について、長瀞町立第二小学校付近の断崖に「水」その下方に「寛保2年壬戌8月10日、亥刻大川水印迄、田方田弥兵衛、滝上市右衛門」と刻んである。荒川川岸から約300mの北側断崖にあり、その水位は、現在の水面上約20mの所にある。現在の洪水時には10m程度の水位があったといわれている。また、国道140号脇に案内看板もある。 |
160 | 信濃川 | 大河津分水路 | 北陸地方整備局 | 信濃川河川事務所 | 夕ぐれの岡の碑 | 碑 | 17世紀代 | 良寛が夕暮れの景色に見とれて足をとめたのが夕暮れの岡 夕暮れの岡と鮮やかに刻んだ石碑は、丸みを帯びた大きな台石の上に立つ台石が、分水工事のときに法面や軌道を固めるために引き回したローラーで貴重な遺物でもある。 現在も、歴史を語る上で貴重な碑としてそびえ立っている。 |
180 | 信濃川 | 千曲川 | 北陸地方整備局 | 千曲川河川事務所 | 千曲川改修起工碑 | 碑 | 20世紀代 | 大正7(1918)年に牛島地籍河川敷で、起工式を挙行してから23ヵ年を費やした千曲川第一期改修工事の竣工式は、昭和16(1941)年に城山市営球場で関係者400余名が参列し挙行された。その第一期改修の千曲川改修起工碑が城山公園東側の水内神社境内に起工式会場の犀川・千曲川合流点の牛島地籍に向かって建立された。 |
181 | 信濃川 | 千曲川 | 北陸地方整備局 | 千曲川河川事務所 | 長沼善光寺平洪水位標 | 碑 | 20世紀代 | 善光寺平洪水水位標は、国道18号赤沼交差点から西側100メートル地先に、長野市赤沼の篤農家深瀬武助氏が寛保2(1742)年の「戌の満水」洪水位を始め五洪水を記録した水位標を建てた。 |
257 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 手取川大洪水遭難者供養塔 | 碑 | 20世紀代 | 昭和9(1934)年の大洪水を白峰村では、「湯の谷大洪水」と記している。白山源流の湯の谷の「くすぼり峠」の崩壊から始まったと語られた。また、「白山解雪」による洪水とも記してある。 |
258 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 大石(昭和59年水害復興工事完了記念) | 碑 | 20世紀代 | 川北町橘地区の橘少彦名(すくなひこな)神社見る手取川は、高い堤防に閉じこめられて緩く蛇行していた。昭和9(1934)年の水害の自然石の碑がある。 大石はもともと、神社から700mほど離れた堤防の下に流れ着いたと言われる。 |
259 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 浅井外治翁之像(手取川改修期成同盟会長)(銅像) | 碑 | 20世紀代 | 手取川治水のために生涯をまっとうした人物の銅像。没昭和48(1973)年4月6日。 |
260 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 芭蕉の渡し | 碑 | 川北町田子島右岸にある石碑。「奥の細道」の東北紀行から帰る元禄2(1689)年7月、多くの旅人にまじって俳聖もまた粟生の私にさしかかった。その時の一句が碑に刻まれている。「あかあかと日は難面も秋の風」 | |
261 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 枝権兵衛、小山良左衛門顕彰碑 | 碑 | 20世紀代 | 鶴来町白山右岸16.2kmにある石碑。枝 権兵衛は文化6(1809)年1月15日坂尻村(現鶴来町)に生まれ、文政8(1825)年にわずか17歳で村肝煎(むらきもいり)となった。 富樫用水の取水口は、鶴来町白山地内の十八河原にあって、当時は川底が平坦で低く、取水口及びその下流部は高くなっていた。 このため干ばつ時には用水不足を来たし、また洪水で毎年取水口が破損して下流部の39ヶ村が大きな被害を受けていた。 そこで権兵衛は、加賀藩産物方の小山良左衛門と力を併せて慶応元(1865)年2月に取水口を安久涛ヶ淵(あくどがふち)に移し、古宮公園の地下をトンネルで通水する難工事に取りかかった。工事に対する経費負担を地元に対して求めたが応じなかったため、権兵衛の私財により賄われ、明治2(1869)年5月に完成を見た。 |
262 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 水害記念碑 | 碑 | 20世紀代 | 橘神社の境内にある。橘地区で災害耕地整理の工事が終わるとその復興記念として建立したものである。昭和9(1934)年7月11日の洪水で権正寺堤から流れ出た巨石に碑文が刻まれている。 |
391 | 大和川 | 葛下川 | 近畿地方整備局 | 大和川河川事務所 | 葛下川修堤碑 | 碑 | 19世紀代 | 明治22〜3(1889〜90)年に亘って葛下川左岸(L≒2km)の堤防の改修を行った。 |
404 | 淀川 | 木津川 | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | 避水徒民碑 | 碑 | 20世紀代 | 小田村ほか3ヶ町村が洪水を避けて高所に移居を行う。(明治6(1873)年4月〜10(1877)年7月) 避水移居を永久に記念するための碑として建てられたのが「避水徒民碑」である。 |
417 | 淀川 | 木津川 | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | 淀川遡航終点の碑 | 碑 | 20世紀代 | 昭和50(1975)年6月2日、上野の西郊、小田町字中道の長田橋(旧)東詰め堤防上に「淀川遡航終点」の碑が建立された。ここは「長田川通船の図」によれば、上方と伊賀の上野を結ぶ淀川河川交通の終点であると思われる。 |
418 | 淀川 | 木津川 | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | 慰霊碑 | 碑 | 19世紀代 | 一般に安政の大地震といわれる未曾有の大地震は、嘉永7(1854)年6月15日の丑の刻(午前2時頃)に起った。上野及び周辺の被害は甚だしく、この悲惨な犠牲者の霊を慰めるための慰霊碑(法華経塔)が服部橋下流の河原に建っている。このときの地盤沈下が岩倉峡の狭窄部の存在とあいまって地震後の水害の大きな要因となった。 |
420 | 淀川 | 木津川(服部川) | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | 橋・橋供養碑 | 碑 | 18世紀代 | 南伊賀の東西幹線である青山峠道(初瀬街道)も古から開けていた。この道筋では、羽根橋と中山橋が古いと思われる。中山橋には、文化8(1808)年の橋供養碑が残っている。また、木津川依那古橋の西詰めにも寛政元(1789)年の建立の橋供養碑が残っている。 |
423 | 淀川 | 名張川(宇陀川) | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | 水神碑 | 碑 | 19世紀代 | 安政6年(1859)。「三重県災害史」によれば、暴風雨があったと記録してある。特に名張郡の丈六村では、滝川の堤防が決壊して惨害をこうむった。 家屋・田畑の損傷甚だしく、収穫期を前に村民の苦しみは言語に絶した。村民たちはこの苦しみに耐えて堤防の復旧工事に励み、みごと復旧を完成させた。これを記念して村の有力者が発起して同年11月、丈六橋際に水神碑を建立した。 |
427 | 淀川 | 名張川(宇陀川) | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | 井堰記念碑 | 碑 | 16世紀代 | 土地を水田として利用するには,灌漑用水にたよらなければならない。利水施設として古くから溜池と井堰が用いられた。奈良盆地は、溜池農業であるが、口宇蛇盆地は河川灌漑主体である。溜池はほとんど明治以前につくられているが、昭和になって大宇陀町にある本郷溜池がある。溜池とともに井堰の築造も農民にとっては大事業の一つである。名張川や宇陀川に沿って歩くと多くの記念碑が建てられている。これらは江戸時代から明治にかけて井堰の築造、改修あるいは水路の完成を記念するもので三村渠水碑(夏見)、平尾渠水碑(平尾)、新井堰碑(黒田)、鹿高井堰碑(鹿高)、水道碑(矢川)などがある。 |
459 | 日野川 | 法勝寺川 | 中国地方整備局 | 日野川河川事務所 | 兼久堤防改修記念碑 | 碑 | 19世紀代 | 兼久堤防の築造年代は不詳であるが、江戸時代の初期に国守中村侯が米子の町を洪水から守るために兼久堤防の補助堤として宗像土手を築いたとされており、規模は別にしてそれ以前からあったと推測される。碑文によれば、兼久堤防は文政12(1829)年の洪水で決壊したため、天保4(1833)年に荒尾氏によって修復され、さらに明治19(1886)年に決壊し大被害が発生した。 |
473 | 高梁川 | 高梁川 | 中国地方整備局 | 岡山河川事務所 | 高梁川改修記念碑 | 碑 | 20世紀代 | 明治25、26(1892、3)年の大洪水を契機として、明治40(1907)年から内務省により第一期改修として改修工事が行われた。 改修工事はそれまで東西の両派川に分かれていた高梁川を合流させるもので、約20年の歳月を掛け、大正14(1925)年4月に完成した。 東派川を締切った倉敷市酒津の堤防裏に「高梁川改修記念碑」が建立されている。 |
501 | 吉野川 | 銅山川 | 四国地方整備局 | 吉野川ダム統合管理事務所 | 銅山川疎水功労者頌徳碑 | 碑 | 20世紀代 | 銅山川疎水は古くから安政の昔より企画されてきたが、明治末期より大正初頭に至っていよいよ計画が本格化してきた。 特に大正13(1924)年宇摩疎水組合の設立後は、組合長をはじめ、その他の功労者の努力により大きく前進することとなった。 昭和29(1954)年に完成となった直轄柳瀬ダムは、愛媛県宇摩地区の人々の生活の安定と産業の振興に大きな力を及ぼしてきたが、この銅山川疎水は遠く安政の昔に始まり、幾多の先覚者ならびに功労者による中央および下流徳島県との交渉に尽力された集大成である。 ここに謹んで疎水実現に精魂を傾けた先人を永く称えるため、頌徳の碑を建立するものである。 銅山川疎水組合功労者頌徳の碑の建立時期と場所 ・愛媛県伊予三島市 戸川公園内(昭和38(1963)年建立後、現在に至る) ・愛媛県伊予三島市 三島公園内(昭和49(1974)年建立後、現在に至る) |
505 | 吉野川 | 吉野川 | 四国地方整備局 | 徳島河川国道事務所 | 蔵珠院の標柱(慶応2年の洪水痕跡) | 碑 | 19世紀代 | 畳から2尺(約60p)というから、寺の周囲の畑からだと約3m。室内の土塀や戸板にくっきり残る洪水の跡。慶応2(1866)年のこの大洪水は、その年の干支から「寅の大水」と呼ばれた。当時の被害はすさまじく、寺の過去帳によれば、大雨は8月5日から降り始め、7日の夜に大洪水が発生し、亡くなった檀家32名が列記されている。このように江戸時代の洪水の跡がこれほどはっきり残っているものは全国でも数少ないと言われる。 平成7(1995)年12月25日に、その時の恐ろしさを後世に伝えようと当時の山門横に洪水の跡の高さを示す標柱が市民団体によって建立された。蔵珠院は今から約1000年前、人皇醍醐天皇の御願 理源大師聖宝僧正によって開基され、堂塔整備の無本寺の寺格の高い寺である。 |
512 | 吉野川 | 吉野川 | 四国地方整備局 | 徳島河川国道事務所 | 大正元年洪水の石柱 | 碑 | 20世紀代 | 岩津から下流の堤防の骨格を作り上げた吉野川第一期改修は明治40(1907)年に始まり、約20年間の歳月をかけ、数多くの人々の力で大正15(1926)年に完成している。その喜びを記念する改修碑の横には、改修途中にやってきた大洪水である大正元(1912)年の洪水痕跡を示した石柱が立っている。 高さは記念碑の土台から約2.6mもあり、当時の洪水のすさまじさを物語っている。 |
564 | 渡川 | 中筋川 | 四国地方整備局 | 中筋川総合開発工事事務所 | 横瀬耕地整理組合記念碑 | 碑 | 20世紀代 | 大正9(1920)年の暴風雨により山岳の崩壊や大洪水が起き、田畑も押し流された土砂で埋め尽くされ膨大な被害となった。そこで部落の人達が寄り集まって耕地整理組合を作り土地改良に乗り出した。 当時の耕地復旧整地事業はたいへんなものであったので、これを記念して記念碑が建てられている。 |
565 | 渡川 | 中筋川 | 四国地方整備局 | 中筋川総合開発工事事務所 | 山田耕地整理組合記念碑 | 碑 | 20世紀代 | 同上。 |
566 | 渡川 | 中筋川 | 四国地方整備局 | 中村河川国道事務所 | 新中筋川通水記念碑 | 碑 | 20世紀代 | 四万十川下流域の沿川住民の悲願であった渡川治水事業は、昭和40(1965)年頃に概ね完成しましたが、中でも特筆すべきは中筋川の改修工事である。昭和22(1947)年の坂本背割堤工事からはじまり、新中筋川の掘削等々を行い四万十川合流点を4.5km下流としたことにより、四万十川からの逆流を大幅に軽減することに成功。内水はポンプで排水するので、低地中筋平野もほぼ洪水を防ぐことができるようになる。 |
661 | 球磨川 | 前川 | 九州地方整備局 | 八代河川国道事務所 | 河童渡来の碑 | 碑 | 15世紀代 | 八代市の中心部を流れる前川の徳淵(とくぶち)という所に、河童が住んでいたという伝説が残っている。 この徳淵にいた河童の祖先は、中国から海を渡りやってきた河童たちで、仁徳天皇の頃(313〜399年)、九千匹の河童が揚子江を下り、黄海を経て、八代に上陸したと言われている。そして、彼らの長は、九千匹の河童を引き連れていたことから「九千坊」と名乗っていたそうである。 河童伝説は日本各地に残っているが、日本で最初に河童が上陸した場所はこの「徳淵」であると言われている。 |
667 | 山国川 | 山国川 | 九州地方整備局 | 山国川河川事務所 | 荒瀬堰起源之碑 | 碑 | 17世紀代 | 山国川第二の大堰が樋田にありますが、これは小笠原胤のとき、今津村の大里正(大庄屋)今津作右衛門、佐知組大里正佐知条右衛門、蠣瀬組大里蠣瀬庄右衛門の3人が築堤を主唱したことにより、貞享3(1686)年10月工事に着手し、元禄2(1689)年に竣工した。 樋田村に起こり仏坂、白木、諌山を経て、これより東北28ヵ村、旧村名にていえば、真坂、山口、三保、大幡、如水、尾紀、桜州、和田、鶴居9村の1,000余町歩の田園を灌漑している。 その後における村民の受けたる恩恵は莫大である。 |
668 | 山国川 | 山国川 | 九州地方整備局 | 山国川河川事務所 | 鶴市神社(記念碑) | 碑 | 16世紀以前 | 沖代平野の沖代16村は宇佐神宮領の大家郷で、山国川の水を三口の井堰にせきとめて、田畑の灌漑用水としていたが、毎年の大雨で流され、取水もできず、干害で農民の生活は苦しくなるばかりだった。この地を支配している7人の地頭は、井堰を築くには、「人柱をたて、水神のご加護を願うしかない」と衆議一決した。この話を聞いた家臣の娘お鶴とその子市太郎母子は、身代わりを申し出て、保延元(1135)年8月15日、人身御供として水底に身を沈た。 母子の霊は、鶴市八幡宮に祭られ、井堰の平穏無事を見守り続けている。 |
672 | 山国川 | 山国川 | 九州地方整備局 | 山国川河川事務所 | 頼山陽先生詩碑 | 碑 | 19世紀代 | 耶馬渓の名を天下にあげた頼山陽がこの地域を旅したのは、文政元(1818)年12月。その年10月には、豊後国竹田で、親友田能村竹田と親交を深め、久住−瀬ノ本−黒川−宮原を経て、日田の隈町へ入り、広瀬淡窓と会見するなどの後、山国谷を下り、親友であった末広雲華に会うため、下毛郡福島村正行寺に向かい、雲華と共に山国谷探勝を行い、この渓谷に耶馬渓という中国風の名を付け、「耶馬渓山天下無し」と詠じ、翌年には「耶馬渓図巻記」をつくった。 岩石と樹木と清流の三者が揃ったこの地の風光は、通行には不便だが、天下第一の絶景として喧伝されている。 |
711 | 大野川 | 大野川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 大野川の氾濫を鎮めるために建立された石碑 | 碑 | 19世紀代 | 慶応3(1867)年、高田村の首藤道英が大野川の氾濫が鎮まり住民の苦しみがなくなることを願って建立した。 菩提寺常仙寺野住職日宣と相談して、この寺の宗派である法華経に願いを託し、経文の一字づつを一石に書き込み、石碑の下におさめており、石の数は実に69,384個におよぶ。 大野川の大津留堤防上にいまもなお残る石碑の跡に、洪水に苦しめられてきた地域住民の切なる願が伺える。昭和39(1964)年につくられた溢流堤(分派堤)のため、現在地に移転している。 |
719 | 大野川 | 大野川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 垣田幾馬の銅像 | 碑 | 20世紀代 | 明治12(1879)年:垣田小八郎と工藤祐鎮は、井路開設を計画。 大正4(1915)年1月:柏原荻耕地整理組合を設立。資金調達の進展なし。 大正10(1921)年:垣田幾馬(小八郎の長男)は国および銀行から低利資金の借り入れに成功。 大正11(1922)年11月:工事着工 昭和3(1928)年:完了 大正11(1922)年11月に着工したが、岩石の掘り抜き工事は難行し毎日800人の作業員と毎月30万本のダイナマイトを使用した。また、わが国ではじめて電気削岩機を使用し、昭和3(1928)年に5年の歳月と300万円の巨費を投じて、水路延長350kmと三つの溜池が完成し、500haの水田を拓くことができた。 百年記念の年に、その栄誉を称え、偉功を永く後世に伝えるためゆかりの深い荻町大字馬場の通水記念碑広場に翁の銅像が建立されている。 |
746 | 大野川 | 平井川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 若宮井路の石碑 | 碑 | 19世紀代 | 明治初期伊東俊次郎の水路計画を、彼の没後に期に意志を継ぎ、「若宮井路普通水利組合」が設立され、明治34(1901)年に完成した。 大野川・平井川に挟まれた中の広い大地を灌漑する井路であり、この地方は藩政時代には畑作中心であり、旱魃などの被害を極端に受けた。 以後、改修を重ねてきたが、昭和49(1974)年により大改修が行われ、昭和62(1987)年に完成した。 |
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