河川伝統技術データベース:分類別リスト【その他】 |
整理 番号 |
水系 | 河川名 | 局名 | 事務所名 | 名称 | 分類 | 年代 | 当該河川伝統技術の解説・由来・意味 |
8 | 石狩川 | 石狩川 | 北海道開発局 | 石狩川開発建設部 | 文献 治水[現代語版] | その他 | 20世紀代 | 岡崎文吉博士の名著「治水」は大正4(1915)年初版であるが、近年、環境重視の視点から改めて岡崎博士の河川の自然主義が見直されつつあり、改めてこの偉大なる先覚者の名著が広く多くの現代の技術者に読まれることを考え、現代語版に編集したものである。 |
16 | 雄物川 | 雄物川 | 東北地方整備局 | 秋田河川国道事務所 | 物部長穂 | その他 | 20世紀代 | 秋田県仙北郡協和町に生まれた物部長穂は、河川や地下水などの水の流れ、降雨などによる流出量などの「水理学」という新しい学問を体系づけ、また、地震動による構造物の被害をくいとめるための「耐震工学」という分野も開拓した。その理論は、現在に至っても重要な位置を占めており、最大級の土木構造物である巨大なダムの設計理論や、高層建築物の耐震設計理論は、氏が大正時代から昭和時代初期にかけて確立したものである。 |
17 | 雄物川 | 旭川 | 東北地方整備局 | 秋田河川国道事務所 | 那波家の水汲み場 | その他 | 17世紀代 | 旭川は水運に利用され、多くの舟が往来し、川反の川岸では物資の積み卸しが盛んに行われていた。川反芸者で知られる周辺一帯では、ほとんど旭川の川水を飲み水として利用しており、「カド」と呼ばれた共用の水汲み場が現存している。 |
24 | 雄物川 | 雄物川上流 | 東北地方整備局 | 湯沢工事事務所 | 雄物川風土記 | その他 | 治水事業の歴史を踏まえ、伝説の伝承地域の現在の姿を紹介し、21世紀を見据えた地域の川づくりを考えるために企画した書である。 | |
25 | 雄物川 | 雄物川上流 | 東北地方整備局 | 湯沢河川国道事務所 | 雄物川の漁業 四季 | その他 | 雄物川の魚の習性を知り尽くした川師の伝承する四季折々の漁法を記録した書である。 | |
26 | 雄物川 | 雄物川上流 | 東北地方整備局 | 湯沢河川国道事務所 | 雄物川流域の集落と住民の生活 | その他 | 雄物川流域住民と水との関わりについて集落立地と水、農業利水、漁業・養殖、災害(酸性水・鉱廃水・洪水)、水運と文化(水神社・雨乞い)についてとりまとめた本である。 | |
39 | 最上川 | 最上川 | 東北地方整備局 | 山形河川国道事務所 | 山形城主 最上義光 | その他 | 17世紀代 | 12代山形城主。二日町から八日町に及ぶ商人街の育成、新田開発、最上川の舟運整備など山形藩興隆の祖として数々の偉功が伝えられる。 特に最上川において最大の難所といわれた三難所(碁点、三ヶ瀬、隼の瀬)の河道の開削を推進し、山形から酒田までの航路を開き、最上川の舟運のさらなる発展に寄与した。 三難所は現在、観光船下りが行われている。 |
40 | 最上川 | 最上川 | 東北地方整備局 | 山形河川国道事務所 | 西村久佐衛門 | その他 | 17世紀代 | 京都の商人で米沢藩御用商人であった、西村久左衛門が五百川峡黒滝の開削を計画。元禄6(1693)年に工事を開始し、翌年9月に一万七千両の大金をかけて工事を完成させた。 この黒滝開削により、酒田から約200kmにも及ぶ最上川の舟運路が完成した。 久左衛門が工事の完成を祈願して奉納した鰐口が、白鷹町の佐野原不動尊に伝わっている。黒滝開削にまつわる伝説では、大蛇の頭が祀られたと言われている。 |
55 | 北上川 | 北上川 | 東北地方整備局 | 岩手河川国道事務所 | 千歳橋看守人・水防夫 | その他 | 20世紀代 | 千歳橋は明治38(1905)年から舟橋、船橋、そしてモグリ橋の木橋、コンクリート橋へと変遷し現在の新千歳橋が完成する昭和52(1977)年まで80年近くに亘り、船と橋を命がけで守ってきた人達が「千歳橋看守人・水防夫」である。 昭和55(1980)年3月に当時生存されている人達に感謝状が贈られ同時に座談会が開かれている。水防夫は警戒水位7mになると狐禅寺から25人、舞草から25人づつ出動することになっていた。 現在の千歳橋の誕生によって、千歳橋看守人・水防夫は使命を果たしその任を終えた。 |
80 | 利根川 | 横利根川 | 関東地方整備局 | 霞ヶ浦河川事務所 | 治水の父・須田誠太郎 | その他 | 20世紀代 | 1881(明治14)年に行方郡に生まれた誠太郎は、当時3年に一度しか満足に米が穫れない水害常襲地帯であった行方郡の実態を知るにつれ、彼の治水への思いが強くなり、1917(大正7)年に横利根閘門を完成させた。この功績をたたえ現在も北利根橋のたもとに碑が建てられている。 |
81 | 利根川 | 霞ヶ浦 | 関東地方整備局 | 霞ヶ浦河川事務所 | 色川三郎兵衛 | その他 | 19世紀代 | 当時、土浦の水害の原因の一つに、霞ヶ浦からの逆流があり、この防止策として堤防の必要性が高まっていた。しかし、町の財政では湖岸を築堤するには負担が大きく、土浦の治水対策は難題であった。色川三郎兵衛も同様に対策に頭を悩ましていた一人であったが、日本鉄道株式会社による上野〜水戸間の鉄道敷設計画を知り、土盛りの鉄道路線をもって霞ヶ浦からの逆流防御堤として機能させることを考えついた。だが、すでに路線計画は土浦町北部の立田付近を通過させることで成立していたことから、色川は霞ヶ浦湖岸に沿うよう町の東側に路線を変更する運動を展開した。その結果、路線は現在の常磐線に変更となり、明治28(1895)年11月に土浦〜友部間が完成し、常磐線は湖岸堤の機能を付加することとなった。 |
96 | 利根川 | 利根川 | 関東地方整備局 | 利根川上流河川事務所 | 伊奈氏(伊奈一族) | その他 | 17世紀代 | 徳川家康の江戸城入府以降、利根川の河川改修に於いて中心的役割を担った一族。 伊奈忠次をはじめとして代官頭及び関東郡代職を代々世襲した。 同家の河川技術は「伊奈流」あるいは「関東流」とも呼ばれるもので、武田信玄の河川技術「甲州流」をもとにつくられた流儀である。 |
97 | 利根川 | 利根川 | 関東地方整備局 | 利根川上流河川事務所 | 関東流(伊奈流) | その他 | 17世紀代 | 中小洪水に対しては自然堤や低く築造した不連続堤によって水害を防ぎ、これを越えるような大洪水に対しては、堤防際に設けた遊水池や下流側に設けた控堤などによって防ぐ方法。 洪水を完全に防がず、溢れさせた洪水によって耕地一帯に肥沃な土を堆積させて米つくりのための良質な土壌作りも同時に行うなど、治水と農業を両立させるものであった。 |
101 | 利根川 | 大谷川 | 関東地方整備局 | 日光砂防事務所 | 戦前の工事設計書 | その他 | 20世紀代 | 大正13(1924)年から昭和20(1945)年までの直営工事の設計書。 傷みも少なく、保存状態は良好。 |
102 | 利根川 | 大谷川 | 関東地方整備局 | 日光砂防事務所 | 工事写真帳 | その他 | 20世紀代 | 事務所発足当時の工事写真 一部の写真が欠落しているが、保存状態は良好。 |
103 | 利根川 | 大谷川 | 関東地方整備局 | 日光砂防事務所 | 内務省直轄工事研究会資料抄 | その他 | 20世紀代 | 昭和22(1947)年6月に開催された研究会の資料。山本三郎の論文と思われる「河川工事標準工法に関する提案」(成功せる護岸水制の実例)が掲載されている。 用紙の中性化と思われる傷みは多少あるが、保存状況は良好。 |
123 | 利根川 | 桐生川 | 関東地方整備局 | 渡良瀬川河川事務所 | 友禅流し | その他 | 18世紀代 | 桐生川稲荷橋上流で7〜8月の土・日曜日に友禅流し実演が行われた。 |
130 | 利根川 | 旧江戸川 | 関東地方整備局 | 江戸川河川事務所 | Yedogawa Peil | その他 | 19世紀代 | オランダ人技師リンドにより堀江に設置された量水標の零点を「Yedogawa Peil」とし、現在も利根川水系の河川工事・管理の基準の基になっている。 |
137 | 荒川 | 荒川 | 関東地方整備局 | 荒川上流工事事務所 | 荒川上流改修60年史 | その他 | 荒川上流の改修60年に鑑み工事史を編集した。 主な内容 荒川の工事(久下開削、川島領囲堤等)、著名な水害と被災の状況(寛保2年洪水位磨崖標等)、荒川上流改修工事(荒川横堤工事等) |
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138 | 荒川 | 荒川 | 関東地方整備局 | 荒川上流工事事務所 | 荒川 人文T | その他 | 埼玉県民に荒川の認識を深めてもらうために発刊 主な内容 荒川の歴史と地理(久下開削、川島領囲堤、荒川の水運等) |
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139 | 荒川 | 荒川 | 関東地方整備局 | 荒川上流工事事務所 | 吉見の水害物語 | その他 | 吉見町の昔ばなしシリーズの水害編 川に関係する主な内容 明治43(1910)年〜昭和22(1947)年洪水の故清水幸太郎氏の記録文書 |
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140 | 荒川 | 関東地方整備局 | 荒川上流工事事務所 | 荒川 169キロのみちのり | その他 | 毎日新聞埼玉版の「荒川」シリーズの再構成 川に関係する主な内容 鉄砲だし(中津川)、どろいんきょ(上尾市の伝統行事)、西川材(高麗川の筏流し) |
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152 | 信濃川 | 信濃川下流 | 北陸地方整備局 | 信濃川下流河川事務所 | 横田切れ洪水痕跡(宝光院) | その他 | 19世紀代 | 明治29(1896)年の「横田切れ」の痕跡を今日に伝える。 「横田切れ」・・・現在の西蒲原郡分水町横田の堤防が破堤(堤防が300メートルにわたって決壊)、新潟市までの西蒲原一帯18,000haが泥海となった。被害は、死傷者75人、家屋流出2.5万戸、流出埋没田畑数千町歩。横田切れ洪水痕跡(宝光院)は、破堤箇所箇所から30kmも離れた新潟市槇尾にあり、本堂の柱に洪水の水かさを示す跡が残っている。「横田切れ」の凄まじさを今日に伝えている。 |
157 | 信濃川 | 信濃川下流 | 北陸地方整備局 | 信濃川下流河川事務所 | 横田切れ口説き | その他 | 19世紀代 | 明治29(1896)年の「横田切れ」を詠んだもの。「横田切れ」の凄まじさを今日に伝えている。 |
164 | 信濃川 | 大河津分水路 | 北陸地方整備局 | 信濃川河川事務所 | 信濃川治水日記 | その他 | 明治元(1868)年より20年かけて信濃川治水に関する経緯や分水路工事請願の記録資料がつづられている。 明治初期、信濃川の治水に関してまとめられた古文書 故高橋健三氏著(信濃川治水会社において大河津分水路のための運動をしていた人物)全6冊 現物は、新潟県の弥彦神社の宝物館に収蔵されている。 国土交通省では、信濃川大河津史の調査および大河津資料館にて展示棟への利用のため、収蔵史料を借用し、マイクロフィルムに残して大河津資料館に保存予定。 |
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165 | 信濃川 | 大河津分水路 | 北陸地方整備局 | 信濃川河川事務所 | 信濃川改良工事平面図 | その他 | 19世紀代 | 明治42(1909)年7月着工 大正11(1922)年8月分水路通水 信濃川改良工事計画(大河津分水路)に伴い、実測された平面図 明治38(1905)年実測図 信濃川改良工事平面図は、大河津資料館にてパネル展示されている。 |
166 | 信濃川 | 大河津分水路 | 北陸地方整備局 | 信濃川河川事務所 | 信濃川補修工事記録映画「補修の歌」 | その他 | 20世紀代 | 昭和4(1929)年、自在堰復旧工事の広報用映画として製作。 全6巻、16mmの白黒無声映画。60分 脚本・監督・撮影は当時の内務相、信濃川補修工事事務所の主任宮本武蔵野輔氏。1〜5巻までは主に可動堰、仮締め切り、第二床固工事の様子、各施設、分水町、寺泊町の紹介。 8巻では信濃川補修工事竣工報告祭の模様を収録。 |
171 | 信濃川 | 信濃川 | 北陸地方整備局 | 信濃川河川事務所 | 塩殿発電所 | その他 | 20世紀代 | 明治38(1905)年に60サイクル・1万ボルト、1,200キロワット、当時としては全国で2番目の規模の発電所が完成した。それが北越電灯会社のこの発電所である。そしてその年の1月15日の送電開始のスイッチで文明の灯に輝いたのが長岡と小千谷の町々。それから半世紀、昭和26(1951)年に小千谷発電所が建設されるまで健在で活躍した。 |
184 | 信濃川 | 千曲川 | 北陸地方整備局 | 千曲川河川事務所 | 千曲川付け場漁 | その他 | ハヤ(ウグイ)は5月の産卵期、体に朱色に染めて浅瀬にのぼってくる、その習性を利用してやや深みのある流れ場に杭を打ち込み、波避けをつくり、そこにきれいな砂利を敷込んで、ハヤを呼び込み産卵に集まるハヤを投げ網によって捕獲する。これを付け場漁と呼んでいる。 | |
186 | 信濃川 | 千曲川 | 北陸地方整備局 | 千曲川河川事務所 | 千曲市森将軍塚古墳 | その他 | 4世紀代 | 千曲市の水田地帯に高さ110メートル全長100メートルの長野県内最大の前方後円墳がある。この古墳の復元に先立って全面発掘調査により周辺から94基の埋葬施設が検出された。副葬品には三角縁神獣鏡があり、中でも遺体埋葬の竪穴式石室は、長さ・巾・高さ床面積は日本最大であり、四世紀中頃は、この地域が大和朝廷の勢力下に入ったことがわかる。 |
192 | 信濃川 | 千曲川 | 北陸地方整備局 | 千曲川河川事務所 | 明科 三川合流点 | その他 | 犀川の源流は槍ヶ岳を分水領に南側は梓川となり、北側は高瀬川となって流下する。高瀬川は犀川の支流であるが槍ヶ岳に端を発するもう一つの源流でもある。この両川は明科町押野地先で合流し、下流域は扇状地を形成し、豊かな安曇野となっている。この合流点に燕岳・大天井岳を源流とする穂高川が途中で乳川・烏川を合わせて合流する。いわば三つの河川が合流することから三川合流点と呼んでいる。この合流点には、清洌な水を利用したワサビ田が広がる。 | |
193 | 信濃川 | 千曲川 | 北陸地方整備局 | 千曲川河川事務所 | 地割慣行 | その他 | 水害常襲地でみられる土地利用の慣行である。千曲川は洪水の度毎に川欠けにより、土地が変動する。この土地を個人で所有していると、洪水で一夜で失う恐れがある。そこで堤外地の土地を共有にして、連帯保障と危険分散させることを考えたのが地割慣行地・割替地と呼ばれている。洪水によって浸食された土地は「川欠」、逆に寄洲で土地が生じたり、堆積地を開墾して土地を生み出す「起返」と称し、土地を測量し分割した。地割慣行地では一定の割替年次を迎えるとくじを引いて耕作地を交換する。 | |
194 | 信濃川 | 千曲川 | 北陸地方整備局 | 千曲川河川事務所 | 上田信濃国分寺 | その他 | 上田市東部の国分地区に信濃国分寺がある。一般には「八日堂」とよばれ、毎年1月8日の縁日には県内外から多くの参詣客で賑わう。ダルマのほかに「蘇民将来」の護符で知られている。近年まで、信濃国分寺は現在の八日堂の位置に創建されたと考えられてきたが、付近の発掘調査で、創建当時の位置や規模が確認された。現在はこの遺構が史跡公園に指定されている。寺の前は古代の官道である東山道が通り、これに沿って千曲川が流れている。往時は信濃の政治の中心地であり、関東や奥州・越後へ通じる交通の要所であった。 | |
198 | 関川 | 関川 | 北陸地方整備局 | 高田河川国道事務所 | 高田城築城 | その他 | 17世紀代 | 高田城は、松平忠輝が慶長15(1610)年に福島城主となってから4年後に現在の位置に築城したものである。高田城築城にあたり、蛇行していた関川の流路を変え一部を外堀として利用した。現在は、桜とハスをシンボルとする高田公園として市民の憩いの場になっている。 |
201 | 関川 | 関川 | 北陸地方整備局 | 高田河川国道事務所 | 応化の橋 | その他 | 16世紀以前 | 古代から中世にかけて、関川を越える唯一の橋として応化の橋があったと言われ、この地区は越後府中として京都から多くの文人や高僧が訪ねてきて府中に文化の花が開いた。 応化の橋は、現在は存在しないが、五智国分寺裏から続く大ノ手道が関川と交差する付近にあったものと想像される。応化の橋が広く知られるようになったのは、森鴎外が「山椒太夫」という小説を書いて広く紹介したことに始まる。 |
214 | 黒部川 | 黒部川 | 北陸地方整備局 | 黒部河川事務所 | 黒部川扇状地 | その他 | 黒部川は、北アルプスの中央部に位置する鷲羽岳(2,924m)に源を発し、流路延長約85km、流域面積682km2、山岳部平均勾配1/5〜1/80のわが国屈指の急流川である。流域は南北に弓形をなす典型的な羽状流域をなし、大半は国有林で中部山岳国立公園に指定されており、愛本地先より上流は両岸屹立した雄大なV字谷を形成し、清流と相まった優れた景観は「黒部峡谷」として全国的に有名である。 急峻な山岳地帯が形成される過程で流出したおびただしい土砂礫は愛本地先を扇頂とし、半径13.5km、扇頂角約60度、勾配1/100、面積120km2の日本を代表する扇状地を形づくっている。 |
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216 | 黒部川 | 黒部川 | 北陸地方整備局 | 黒部河川事務所 | 直轄事業40周年記念誌 黒部川のあゆみ | その他 | 20世紀代 | 昭和12(1937)年に黒部川改修工事が直轄事業として着工されて以来、昭和51(1976)年に40年目を迎えるに当たり、黒部川の関係資料を広範囲に求め、当時の職員が取りもとめたものである。内容は、黒部川の概要・黒部川の治水・黒部川の水利用・河川管理・行政組織等で編集されている。 |
217 | 黒部川 | 黒部川 | 北陸地方整備局 | 黒部河川事務所 | 記念誌 黒部川の50年 | その他 | 20世紀代 | 「黒部川の50年」資料・写真集。昭和12年に黒部川改修事業が国の直轄事業として着手以来、戦前の工事写真・水害・建設機械・催事・その他資料等、写真が多く編集されている。 |
218 | 黒部川 | 黒部川 | 北陸地方整備局 | 黒部河川事務所 | いろは川 | その他 | 20世紀代 | 「黒部川の直轄河川の50周年記念誌」 黒部川が昭和12(1937)年に直轄河川となり、昭和62(1987)年に50周年記念誌として黒部工事事務所が監修。郷土歴史家、土木技術者OB等編集委員。流域の風土自然・先人の足跡・流域の観光と物産・流域のあらまし・事業のあゆみ等が記されている。 |
219 | 黒部川 | 黒部川 | 北陸地方整備局 | 黒部河川事務所 | 黒部峡谷鉄道 | その他 | 20世紀代 | 当時の日本電力が大正時代、黒部水系の電源開発に着手。このため資材と作業員輸送の専用鉄道として大正15(1926)年2月に開業した。 最初は柳原原発発電所のため宇奈月−猫又間。その後、鐘釣、小屋平までと逐次延ばしていき、昭和12(1937)年に欅平まで全線開通。専用鉄道から乗客を乗せる地方鉄道に移行したのは昭和28(1953)年から。また、戦後ずっと運営してきた関西電力の手を離れ、昭和46(1971)年4月から独立して黒部渓谷鉄道会社になった。 年間乗車人員、約110万人。黒部工事事務所の砂防事業施工にあたり、人員・資機材輸送の唯一の交通輸送機関である。 |
226 | 神通川 | 神通川 | 北陸地方整備局 | 富山河川国道事務所 | 馳越線 | その他 | 20世紀代 | 明治初年頃の神通川は、富山城付近で直角に蛇行した形状をていしていたが、デ・レイケの立案によりまっすぐな水路とするための分流計画が明治28(1895)年にまとめられた。 そして、明治34(1901)年1月から分流するための改修工事に着手し、明治36(1903)年5月に完成した。 工事着手から完成までにわずか2年たらずで完成をみた背景には、新しい水路は、その全てを掘削したのではなく、真ん中に幅2メートル、深さ1.5メートルの細い水路を造り、この細い水路を迸る洪水の勢いで土砂を削り取り、少しずつ水路の幅を広げる工法を採用したことによるもので、洪水の頻度が多い神通川では短期期間で計画の川幅を確保することができた。 この新しい水路を「馳越線」といい、馳越とは、ある水位を超えた水が堤防を越えて流れることを意味しており、神通川では小さい川の断面を洪水により徐々に断面を広げたことから、「馳越線」と名付けられている。ちなみに、「馳越」は富山県だけで使われる用語である。 |
242 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 流作場 | その他 | 遊水池は普段は採草地として利用したり、流作場として耕作され、耕地の割り換えを行う「割替慣行」といった独特な土地制度があった。 | |
244 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 川刈 | その他 | 川掃除ともいい、水の流れが良くなるように行われる共同作業である。 | |
245 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 流木拾い | その他 | 17世紀代 | 1.8m以下の流木を流域住民が拾うこと。 |
263 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | 百万貫岩 | その他 | 20世紀代 | 昭和9(1934)年7月の手取川大水害(死者・行方不明者112人)の際に手取川上流の宮谷より流れてきたものです。平成13(2001)年12月25日には、県の天然記念物に指定されました。大きさ約21m×15m×13mという大きな岩で岩石の比重を約2.6としても百満貫(3,750トン)以上はあると思われることから名付けられた。 |
273 | 手取川 | 手取川 | 北陸地方整備局 | 金沢河川国道事務所 | デ・レイケ | その他 | 19世紀代 | 明治6(1873)年に政府が港湾・河川事業近代化のため招いたオランダ技師団の一員として来日。明治24(1891)年の夏に内務省の雇技師として手取川を視察。 |
311 | 大井川 | 大井川 | 中部地方整備局 | 長島ダム管理所 | てっぽう | その他 | 17世紀代 | 伐採木を谷に集めて堰を作り、貯水して湖に木材を浮かべ、堰を壊して水流により木材を大井川本川まで流下させた。本川根町千頭にて集積、いかだを組んで下流島田市向谷方面へ輸送した。 てっぽうの工法が本川根町資料館「やまびこ」に模型で再現してあるのみ。 |
315 | 天竜川 | 天竜川 | 中部地方整備局 | 天竜川上流河川事務所 | 「語り継ぐ天竜川」シリーズ | その他 | 16世紀代 | 地域の意見を反映させた河川整備の推進が求められる時代であり、その際、天竜川流域に暮らす人々が長い歴史の中で育んできた風土や自然環境などの基本的事項について我々行政も住民の方とともに理解を深めることが重要である考えております。 昭和61(1986)年より天竜川流域の災害・環境・歴史・文化など、様々な知見や経験を収集し現在、57巻になる。ホームページより各巻ごとにダウンロードできるようになっています。 |
316 | 天竜川 | 天竜川 | 中部地方整備局 | 天竜川上流河川事務所 | 天竜川史料 | その他 | 17世紀代 | 天竜川上流部に関する史料をとりまとめ、編纂した。 |
320 | 天竜川 | 天竜川下流 | 中部地方整備局 | 浜松河川国道事務所 | 金原 明善 | その他 | 19世紀代 | 明治元(1868)年、天竜川の度重なる災害の根を絶ち、民心安定、産業復興のため私財を投じ治水に献身した。 金原明善翁の業績を顕彰し、その遺風を後世に伝えるため(財)金原治山治水財団が設立され、浜松市内に「明善記念館」が建てられている。 |
327 | 庄内川 | 庄内川 | 中部地方整備局 | 庄内川河川事務所 | 小田井人足 | その他 | 18世紀代 | 洪水時に名古屋城下を守るため、堤防が危険になると尾張藩の役人が、小田井付近の農民に右岸堤を切って、洪水を小田井方面へ流下させていった。しかし、働かされる農民は、表面上は一生懸命働いている様に見せかけて実際は少しも能率をあげていなかった。 小田井人足とは、この様に一生懸命働いているように見せかけて実は少しも能率を上げていない人のことを皮肉る言葉として使われている。 |
328 | 庄内川 | 庄内川 | 中部地方整備局 | 庄内川河川事務所 | 庄内川流域史 | その他 | 20世紀代 | 庄内川の流域の自然、文化、風習などの歴史的な流れ、河道の変遷、治水、利水等、流域の歴史について取りまとめたもの。 |
330 | 庄内川 | 庄内川,土岐川 | 中部地方整備局 | 庄内川河川事務所 | 20周年記念誌 | その他 | 20世紀代 | 事務所20周年記念。流域の変遷、治水、利水の歴史、工事記録(昭和16年〜)。 |
341 | 木曽川 | 揖斐川 | 中部地方整備局 | 越美山系砂防事務所 | 金原明善の砂防 | その他 | 19世紀代 | 金原明善は明治30(1897)年に岐阜県知事湯本義憲の命を受け、越美管内の三大崩壊地のナンノ谷崩壊の荒廃地をはじめ、揖斐川上流や根尾川筋の踏査を行い、まず「山を治めよ」と建言した。これお受け湯本知事は岐阜県の治山方針を決定し、越美山系砂防の事業の必要性を訴えた先駆者として忘れてはいけない人物として、根尾村のうすずみ公園に顕彰碑が建立されている。 |
347 | 木曽川 | 木曽三川 | 中部地方整備局 | 木曽川上流河川事務所 | 木曽三川流域誌 | その他 | 「木曽三川流域誌」は、木曽三川において近代的な河川改修が整備されてから百周年を迎えたことを記念した事業の一環として、互いに有機的関連をもちつつ計画された記念出版図書3冊中の1冊で、流域の歴史や行政から流域の人々の生活・民俗・芸術等々に至るまで各般にわたる概況を述べている。 | |
348 | 木曽川 | 木曽三川 | 中部地方整備局 | 木曽川上流河川事務所 | 木曽三川〜その流域と河川技術 | その他 | 「木曽三川〜その流域と河川技術」は、木曽三川において近代的な河川改修が施工されてから百周年を迎えたことを記念した事業の一環として、互いに有機的関連をもちつつ計画された記念出版図書3冊中の1冊で、木曽三川に造詣の深い54名の諸先生により、木曽三川に関連する既往の調査、計画、研究、工事等に関して、それぞれえの専門分野について諸先生の研究成果をまじえて執筆していただき、それらを河川技術の観点から系統的に取りまとめたものである。 | |
349 | 木曽川 | 木曽三川 | 中部地方整備局 | 木曽川上流河川事務所 | 木曽三川治水百年のあゆみ | その他 | 「木曽三川治水百年のあゆみ」は、木曽三川において近代的な河川改修が施工されてから、百周年を迎えたことを記念した事業の一環として、互いに有機的関連をもちつつ計画された記念出版図書3冊中の1冊で、近代治水事業に関する膨大な資料や文献をとりまとめた、木曽三川の近代治水史の集大成というべきものである。 | |
381 | 大和川 | 大和川 | 近畿地方整備局 | 大和川河川事務所 | 高井田横穴古墳 | その他 | 16世紀以前 | 大正6(1917)年に発見された史跡。築造年代は不明であるが、その壁画の特徴は、古墳時代〜弥生時代後期の特徴を持つ。 横穴は多数あり、岩質は凝灰岩質砂岩で掘削しやすく、壁面には鋤跡も残っている。当時の横穴はめずらしいものではなく、全国に多数存在している。壁画にはゴンドラ形の古代舟が描かれており、舟上の人物は袴を着用、帯刀しており、舟運の模様を描いたと思われる。古墳群は、高井田横穴公園とされ、その一部は史跡となっている。 |
385 | 大和川 | 大和川 | 近畿地方整備局 | 大和川河川事務所 | デ・レイケ調査報告 | その他 | 19世紀代 | 明治18(1885)年および明治22(1889)年の淀川の出水を契機に、淀川改修の必要性が高まり、デ・レイケは淀川洪水実況調査を実施した。この際、大和川の調査も併せて行い、明治23(1890)年7月1日に大和川検査復命書を提出した。 大和川付替工事に対して、適切な方法と述べた上で、土地利用の経年変化による影響への考慮の欠如など、問題点を指摘し、改修の方向性等を示している。 |
398 | 淀川 | 瀬田川 | 近畿地方整備局 | 琵琶湖河川事務所 | 川村瑞賢の大普請(瀬田川の川浚え) | その他 | 16世紀以前 | 河村瑞賢が上流域の水害調査を行い、瀬田川の「川浚え」や土砂留めなどについて献策した。 河水を円滑に流下させるために、湾曲部は埋め、突き出しているところは削り取り、水筋をスムーズにするという治水思想に立脚して、瀬田川の流水を円滑にした工事を実施。 |
401 | 淀川 | 木津川 | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | 水車 | その他 | 18世紀代 | 享保2(1717)年。 伊賀で藤堂藩からはじめて水車営業を許可されたのは、佐那県町の服部家である。 同家の水車と円徳院橋の川上から引いた専用の水路は、今もその名残りをとどめている。 |
402 | 淀川 | 木津川 | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | 水力発電 | その他 | 20世紀代 | 明治37(1904)年2月11日。 ※伊賀は、三重県では水力発電の先進地である。 伊賀が水力発電の先進地となった要因は、小規模の水力開発の適地であったということもあるが、故田中善助氏の功績が大きい。彼は、懸命の努力の結果、巌倉の発電所で明治37(1904)年2月11日発電を開始した。 |
412 | 淀川 | 木津川 | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | 橋・石碑 | その他 | 16世紀以前 | 天喜4(1066)年。 古文書に出てくる伊賀の橋で、最初のものは久米河橋と井田橋である。 |
416 | 淀川 | 木津川 | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | 水の掟書 | その他 | 19世紀代 | 文政8(1825)年3月。 用水権は、旧田の水利権はたとえ余水であっても、新規にその水利権を得るためには、相当な代償を支払い、関係者の間で厳しい取り決めが行われていた。伊賀町柘植で、村主種次郎氏が最近発見した「水の掟書」ともいう石文がこれを物語っている。享保2(1717)年。 |
421 | 淀川 | 名張川 | 近畿地方整備局 | 木津川上流河川事務所 | コットリ | その他 | 18世紀代 | 正徳2(1712)年の名張の水車 記録によれば鍛冶町の酒造業大黒屋が最初である。自店裏の名張川に水車を架設し、精米・搾り・濾過などに利用した。 蒸気がおこり、電気が登場して水車による工業原動力の歴史は終わったが、米用コットリ(水車の方言)としては、なお生きつづけた。だが、精米機の普及は水車をなくす原因となった。 |
439 | 淀川 | 淀川 | 近畿地方整備局 | 淀川河川事務所 | 千本づき | その他 | 19世紀代 | 堤防工事には、淀川沿川の農民たちが日雇労働者として、こぞって参加し、男はトロ押し、女は千本づきの作業を受け持った。千本づきは1.5mくらいの杵をもって、新しい土砂を置いたばかりの堤防の上に2列か3列縦隊に並び土をつき固める作業である。 |
441 | 淀川 | 淀川 | 近畿地方整備局 | 淀川河川事務所 | 淀川築港並、淀川洪水通路改修計画報告書 | その他 | 19世紀代 | デ・レイケは、淀川改良工事が行われる前、明治20(1887)年4月、当時の土木局長西村捨三あてに「淀川築港並、淀川洪水通路改修計画報告書」を新堤防の築堤工法にも意見を述べている。この意見は淀川改良工事に採用された。 |
444 | 新宮川 | 熊野川 | 近畿地方整備局 | 紀南河川国道事務所 | 浮島の森 | その他 | 新宮市の中央部にあり、島全体が沼の中に浮いている。 海水面が後退してできた湿地の中に朽ちた植物などが堆積して泥炭マット状の浮島が形成され、多くの植物群が群生する森となったもの。古くは、池水面の昇降により島も上下し、強風にあおられ移動することもあった。昭和2(1927)年に国の天然記念物に指定されている。 |
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462 | 日野川 | 日野川 法勝寺川 |
中国地方整備局 | 日野川河川事務所 | 日野川法勝寺絵巻 | その他 | 18世紀代 | 流域の村境・護岸施設・水刎・水門・橋・自分橋・堰などが詳細に描かれている。また、とくに岸辺の神社が忠実に描かれているのが注目される。郷土の川と人々との歴史を伝える絵巻である。 |
467 | 吉井川 | 吉井川 | 中国地方整備局 | 岡山河川事務所 | 石の懸樋 | その他 | 18世紀代 | 石の懸樋は、田原用水が徳富を流れる小野田川をわたるためにかけられた水樋で、川と用水が立体交差している独創的な施設である。小野田川の河床に三和土を70〜80cmの厚さに敷き固め、石の橋脚2基を立て、その上に全長12mの巨大な石の懸樋をのせ、水を通すようになっている。懸樋は、花崗岩製で長さ13m、幅3.2m、底は19本を前後に並べ側壁には22本を3段に積み重ねた構造となっており、特殊なしっくいで漏水を防止し、水圧による横ずれ防止の工夫がみられる。 田原用水は、岡山藩主池田忠雄が命じ、寛永元(1624)年に釣井の末分岐まで水路を造り、その後、寛文9(1669)年に第2次延長工事に着手し、津田永忠が指揮して元禄10(1697)年に完成した。 |
480 | 江の川 | 江の川 | 中国地方整備局 | 浜田河川国道事務所 | 火振り漁 | その他 | 20世紀代 | 大正時代末期に始まり、浜原ダムの建設に伴い衰退したが、夏の風物詩として観光化されている。 数隻の川舟で出向き、右岸〜左岸へ目刺網を張り渡し、川舟に「明かり」をつけ、水面を竹竿で激しく打ち、鮎を追い網にかける漁法。 |
483 | 高津川 | 高津川 | 中国地方整備局 | 浜田河川国道事務所 | 放し鵜飼い | その他 | 16世紀代 | 室町期に行われていた鵜ぜきによる鵜飼が江戸時代を通じて行われていたが、明治初期より、冬季だけ行う現在の形になった。 上・下流を網で仕切り、その中に自由に鵜を放して合図で呼び戻し、喉に飲んでいる魚を吐き出させる漁法で高津川独自のものである。 10月〜翌年3月にかけて行われている。後継者不足により近年休止中 |
485 | 江の川 | 江の川 | 中国地方整備局 | 浜田河川国道事務所 | やな漁 | その他 | 江の川水系では、江戸時代には簗の存在が確認されている。アユを狙った伝統漁法で8月から10月にかけて行われる。現在では、邑智郡大和村で毎年実施されている。 | |
500 | 土器川 | 土器川 | 四国地方整備局 | 香川河川国道事務所 | 出水(ですい) | その他 | 20世紀代 | 年間約180日が水枯れすることがある土器川において、水資源を利用するために、伏流水を取水すべく「出水(ですい)」を整備し取水した。 |
509 | 吉野川 | 吉野川 | 四国地方整備局 | 徳島河川国道事務所 | 印石(川除き争い) | その他 | 19世紀代 | 嘉永4(1851)年に郡代は両者の話を聞いた上で、元村の人々に、中洲地区の土地と同じ高さの堤防を築くことを許している。その結果、高さ3尺あまり(約90p)、幅4〜6間(約7〜11m)の新堤が完成した。 その後、元村の人々がこの堤防に土も盛ったために、再び争いが生じた。藩は土を除去するように命じるとともに、今後争いが起こらないようにと、次のような対策を講じたのである。 それは石柱の上部に、決められた堤防の高さを示す横棒1本と「印石」という文字を刻み、その石柱を堤防の各所に埋め込んだのである。 皇太神宮という小さな社の横にある石碑は、このときの経験をしるしたもので、それによると印石21個を堤防の各所に埋設した、とされている。そのうちのひとつが、平成8(1996)年に完全な形で発見され、現在、石井町藍畑の産神社境内に設置されている。 |
518 | 吉野川 | 吉野川 | 四国地方整備局 | 徳島河川国道事務所 | 後藤庄助(吉野川筋用水存寄申上書) | その他 | 19世紀代 | 後藤庄助は、鮎喰川の左岸、現在の国府町早淵で天明7(1787)年に生まれた。 父・利八郎は藍商を営み、組頭庄屋として、近隣の治水事業に多額の私費を投じて、鮎喰川の築堤や以西用水、溜池の修築に尽力する人であった。 庄助も、若くして藍商となり、江戸・尾張方面の諸国をめぐり藍玉を売り歩いていたが、天保2(1831)年の45歳の時に、父の跡を継いで組頭庄屋となる。在職中には有名な天保の大飢饉が起こっている。 当時、吉野川流域の農村部では藍作一所といわれるほどで、水田が乏しく、不足の食糧は他国から買い入れていた。飢饉の時はその米も手に入らなくなる。しかも地方によっては、飢饉に限らず、普段でも雑穀が主で、病気にならない限り、米は食べられないというところもあった。 こうした藍作農民の不安定な生活を実感したことが、後の「吉野川筋用水存寄申上書」に結びついたといわれる。 「吉野川筋用水存寄申上書」は、嘉永3(1850)年の66歳のときに、藩の勧農方と名東・名西両郡代に提出した建議書である。そこには、藍作から米作への転換を前提として、吉野川左岸の北山用水路と麻植・名西両郡の水田化を図るための南岸用水路の構想が描かれている。 |
519 | 吉野川 | 吉野川 | 四国地方整備局 | 徳島河川国道事務所 | 庄野太郎(芳川水利論) | その他 | 19世紀代 | 後藤庄助が描いた構想を継承したのが、庄野太郎の「芳川水利論」であるといわれている。「芳川」とは吉野川のことである。 「芳川水利論」は慶応元(1865)年に著されたというから、後藤庄助が「吉野川筋用水存寄申上書」を建白してから15年後になる。 庄野太郎が考えた用水構想は、麻植・名西両郡の灌漑用水路を計画するもので、これは、現在の麻名用水につながるものである。まず川島の城山の麓を掘り抜いて、吉野川の水を飯尾川に引き入れ、麻植郡上浦村(現鴨島町上浦)に閘門を造り、西から諏訪、下浦、城ノ内、石井、高川原へと灌漑するというものである。さらに、その下流には以西用水で賄うのがいいと考えた。 後藤庄助も同じように、庄野太郎の構想も実現されることはなかったが、農業経営という視点から吉野川の治水・利水の重要性を説き、具体的な用水開削を主張したのであった。 |
520 | 吉野川 | 吉野川 | 四国地方整備局 | 徳島河川国道事務所 | 豊岡レントン(疏鑿迂言/そさくうげん) | その他 | 19世紀代 | 豊岡新田の名主であった豊岡茘レントンは、明治維新後に、吉野川の利水に関する政策的な提言を行ったことでも知られている。 明治7(1874)年、西野権令(知事)に建白した「疏鑿迂言」(「疏鑿」とは切り開き通すこと。「迂言」とは自分の意見を謙遜して言うこと)がそれである。これは一言でいうと、吉野川北岸に大用水を建設し、藍から稲作への転換を説いたものということができる。 彼がこの私案を起草したきっかけには、「現状では、第十堰から北流する灌漑用水がないために、板野郡五十八ヵ村、千二百三十町、およそ3、4万石の田地が、塩害で未曾有の大損害を受けている。」という危機感があった。 そして「これまでは、お上を敵視する余り暴動が免れなかったが、明治維新後は官民は同等であり、自主自立の特権を与えられているのであるから、官民揃って施策を立てることが必要である。」としたうえで、吉野川の水は、灌漑用水と舟運のために利用されているが、灌漑用水は地勢が高いところにあるのがよく、舟運は低いのがよいのだから、この二つを分離して、新しく灌漑用水を開削する必要があると考えたのである。 |
532 | 那賀川 | 那賀川 | 四国地方整備局 | 那賀川河川事務所 | 斉藤島 | その他 | 20世紀代 | 那賀川河口部の島で上下流方向約1km、最下流端で幅約350mの長三角形の中島で、人家も約10戸あった。 那賀川の改修事業により撤去されることになり昭和12(1937)年から掘削がはじまり、昭和15(1940)年に完成した。 |
536 | 重信川 | 重信川 | 四国地方整備局 | 松山河川国道事務所 | 泉 | その他 | 18世紀代 | 重信川は河床勾配が急であり、道後平野は扇状地であることから、重信川両岸の背後地を掘り下げ伏流水を湧水させ、これを下流に導いて利用するという形態(泉の利用)がとられた。 泉は重信川周辺の道後平野全体に点在し、131ヶ所も存在した。 現存する泉は112ヶ所、埋没した泉は19ヶ所である。 現存する泉のほとんどが、現在でも農業用水・上水道の水源地・泉を利用した公園などに利用されている。 |
585 | 嘉瀬川 | 嘉瀬川 | 九州地方整備局 | 嘉瀬川ダム工事事務所 | 川上第三発電所 | その他 | 20世紀代 | 大正11(1922)年に運転開始 Max:1,450kw発電、有効落差:28.44m、水圧管1条:91.0m、管経1.4m |
596 | 筑後川 | 筑後川 | 九州地方整備局 | 筑後川河川事務所 | 田中吉政 | その他 | 16世紀代 | 田中吉政は、天文17(1548)年に近江国(現在の滋賀県)に生まれた。三河国(現在の愛知県)の岡崎城主であったが、関ヶ原の戦いで石田三成をとらえた軍功により、筑後国の大名となる。領内の治水、灌漑や新田開発などに力を発揮した。土木・水利の豊富な知識と経験を十分に生かし、有明海沿岸の干拓事業を行った。また、筑後川流域の庄屋・農民に対して筑後川岸にある葦野を開発して耕地を広めることをすすめた。そのため、三潴郡道海島(現大川市)、大野島(現大川市)、浮島(現城島)などが新田化された。 ◇山門郡南端から大川市河口に至る30km近い潮受堤防(本土居)の築造と堤内の干拓。 ◇久留米市瀬の下の筑後川新川開削 ◇芦塚・浮島(城島町)及び道海島(大川市)の干拓 ◇中世城郭の破却と耕地化 ◇本城(柳川)と支城間、その他の道路網の新設(柳川街道) ◇八女・三潴郡用水のための、矢部川から山の井・花宗両支流の分岐 |
597 | 筑後川 | 筑後川 | 九州地方整備局 | 筑後川河川事務所 | 成富兵庫茂安 | その他 | 16世紀代 | 成富兵庫重安は、永禄3(1560)年に肥前国佐賀郡益田に生まれ、佐賀藩主鍋島直茂、勝茂父子二代に仕え、水利治水事業に大きな功績を残している。その中でも「千栗堤防・石井樋・蛤水道」などが代表的な事業。後に佐賀県三養基郡の北茂安村(現在の北茂安町)と南茂安村(現在の三根町)という地名に名を残した。 |
598 | 筑後川 | 筑後川 | 九州地方整備局 | 筑後川河川事務所 | 丹羽頼母 | その他 | 16世紀代 | 丹羽頼母は、尾張国丹羽郡に生まれ、後に久留米藩有馬豊氏に仕えた。慶安元(1684)年、三潴郡中島村に荒籠を築造したのをはじめ、江島村、草場村、下田村にも荒籠を建設した。 筑後川の治水・利水事業に大きく貢献した人物。延宝2(1674)年に老齢のため、50年の仕えをやめたが、在任中終始一貫久留米藩の建築土木の設計と、工事の施工監督に当たり、95歳で没するまで半世紀にわたった業績は、多方面におよんでいる。 |
599 | 筑後川 | 筑後川 | 九州地方整備局 | 筑後川河川事務所 | 田中政義 | その他 | 19世紀代 | 田中政義は、文化12(1815)年に三井郡十郎丸村庄屋に生まれた。床島より河口に至る沿線の測量、水勢の測定、更に水位標を改造し、水位増減の観測を実施した。嘉永5(1852)年に捷水路計画として「草場村より荒瀬村へ、高野村より小森野村へ、安武村より住吉に至る3ヶ所に放水路を設ける」計画調書を作成した。さらに自費を投じて筑後川の1/1.000の模型を作成し、この放水路計画の効果を確かめた。(わが国最初の河川水理模型実験であった)この計画は、明治政府に採択され、明治20(1887)年以降の筑後川改修計画の示唆となり、一貫した治水事業の基礎となった。 |
600 | 筑後川 | 筑後川 | 九州地方整備局 | 筑後川河川事務所 | 草野又六 | その他 | 18世紀代 | 筑後川右岸地区、特に三井郡一帯の土地は川面より高く水田として利用されず、荒地、荒畑のまま放置され、わずかにあった田畑もたびたび干害に襲われ、農民は飢餓に迫られる状態であったため、この貧困の農民を救済しようと生命をなげうって「恵利堰」の築造を行ったのが草野又六と三井郡5庄屋であった。 |
601 | 筑後川 | 筑後川 | 九州地方整備局 | 筑後川河川事務所 | デ・レイケ | その他 | 19世紀代 | デ・レイケは、明治政府によって招かれたオランダ人技術者のうちの1人で、淀川をはじめ木曽川、吉野川など日本各地の河川や計画を指導し、日本政府の顧問技師として活躍した。 筑後川の第一期改修工事(デ・レイケ導流堤)は、明治16(1883)年に筑後川の調査を行ったデ・レイケが、翌年に作成した改修計画の原案をもとに、日本人技術者の手で着工されたと言われている。 |
611 | 筑後川 | 筑後川 | 九州地方整備局 | 筑後川河川事務所 | 朝倉三連水車 | その他 | 19世紀代 | 寛文4(1664)年に山田堰と同時期に堀川(用水)を掘り水車を設置したと言われている。筑後川の山田堰より取水した山田用水を三連水車と二連水車2台の計3台で35ヘクタールの水田用水をまかなっている。現在でも稼働している。 |
617 | 筑後川 | 花月川、小田川 | 九州地方整備局 | 筑後川河川事務所 | 小鹿田焼 | その他 | 18世紀代 | 宝永2(1705)年に現在の福岡県小石原村の陶工柳瀬三右衛門が伝えた技術。 筑後川の支川大浦川から引いた筧で唐臼(舟形の水車)をつき、粘土を作り、蹴ロクロを回し、民芸風の皿や壷を焼く。 現在でも当時のまま十軒の陶器職人が営んでいる。 |
619 | 筑後川 | 派川・早津川 | 九州地方整備局 | 筑後川河川事務所 | 佐賀藩三重津海軍所 | その他 | 19世紀代 | 佐賀藩三重津海軍所は、佐賀郡川副町早津江に位置し、安政5(1858)年に藩主直正が船手稽古所を開設したのが始まりとされている。 日本海軍発祥の地であり、文久元(1861)年に日本赤十字社の初代社長となった佐野常民が監督となって、海軍所が創設された。慶応元(1865)年には、日本初の国産蒸気船も建造された。しかし、多くの海軍兵士を養成した佐賀藩海軍所も、廃藩とともに閉鎖された。 現在は、水辺プラザ事業として、筑後川河川事務所、川副町、諸富町の連携事業で高潮堤の整備等を実施した。 |
620 | 筑後川 | 筑後川、支川 花宗川 | 九州地方整備局 | 筑後川河川事務所 | アオ取水 | その他 | 18世紀代 | 筑後川は有明海の約6mにも及ぶ干満の影響を受け、満潮時には海水が川を遡る。このとき、河川の水(淡水)は表層に押し上げられる。この自然現象を利用してかんがい用水の水を取水するのがアオ取水である。藩政時代、干拓によって耕地面積が増えたため、クリークの水だけでは足りなくなったために、行われるようになったといわれている。 |
644 | 球磨川 | 球磨川 | 九州地方整備局 | 八代河川国道事務所 | 人吉城 | その他 | 16世紀以前 | 元久2(1205)年頃、相良瀬景の長男、長瀬により改築された。 球磨川本川および支川胸川を自然の堀として利用しており、球磨川の治水構造物としては古いものである。 現在の城跡は平成5(1993)年に復元されたものである。 |
650 | 球磨川 | 球磨川 | 九州地方整備局 | 八代河川国道事務所 | 水島 | その他 | 15世紀代 | 水島は球磨川河口左岸に位置する高さ約11m、東西50m、南北30mほどの石灰岩からなる小島である。 『日本書記』によると熊襲(くまそ)征伐に訪れた景行(けいこう)天皇がここで食事をとられた時、水を求められた。 しかし、島には水がなかったため、天神地祗(てんしんちぎ)に祈ったところ、崖のほとりから湧水が湧き出したと言われている。 この伝説が水島の名前の由来となっている。 その後、持統天皇の時代(686〜697年)に筑紫(現在の太宰府)に派遣された長田王が水島について詠んだ歌が『万葉集』に2首おさめられている。 「葦北の野坂の浦ゆ船出して水島へ行かむ浪立つなゆめ」「聞きし如まこと貴く奇しくも神さび居るかこれの水島」 歌の大意は次のとおりである。 「芦北の野坂の浦から船を出して、景行天皇が行かれた水島へ自分も行きたいと思う。だから波よ荒れないでおくれ」 「人から聞いたように尊く不思議にも神々しく見えるこの水島は。」 かつて島の東と南の2カ所から清水が湧いていましたが、現在では見られなくなった。 |
707 | 大野川 | 大野川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 遊水施設(空池、千升マス、一斗マス) | その他 | 17世紀代 | 戦国・江戸初期。 加藤清正は溢流堤や遊水施設(空池1,000升、1斗升と呼んだ)を設け、洪水被害の軽減を図った。 |
721 | 大野川 | 大野川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 熊本藩鶴崎作事所跡有終館跡 | その他 | 17世紀代 | 鶴崎町と肥後藩の関係は、慶長6(1601)年に加藤清正が天草の領地と引き換えに豊後三郡を領有し、その後加藤氏の政易に伴い、寛永9(1632)年に細川氏治下に編入された。 鶴崎は参勤交代、豊後領分の年貢米積み出しの拠点となり、商工業者の集住のもとに街として姿を整えていったところであった。 |
735 | 大野川 | 緒方川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 尾崎の石風呂 | その他 | 17世紀代 | 寛永年間(1624〜1644年)に掘削されたといわれている。 昭和50(1975)年に保存処理を行っている。 岩壁に穿たれた横穴2段式の石風呂で、入口の高さ208cm、横幅67cm、浴室の高さ153cm、奥行き206cm、横幅200cmである。7枚の板状の石を敷いて浴室と火室とに分け、入口には莚を下げて内部の熱等の発散を防ぐ。火室で薪を燃やし床石を熱し、石の上に石菖等の薬草を広げ水をかけ、6・7名づつ入れる。 明治時代初期まで使用されていたが、近年再興され、時々使用されている。 |
736 | 大野川 | 緒方川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 辻河原石風呂 | その他 | 16世紀代 | 昭和41(1966)年3月22日、県有形民俗文化財指定。 緒方川の河原に面した岩壁を横穴古墳式にくりぬき、板状の石を敷き並べて浴室と火室に分ける2段式の石風呂で、入口は高さ186cm、横幅73cm、内部は高さ135cm、奥行き21.2cm、横幅175cmである。火室で薪を燃やし、床石を熱すると石菖等の薬草を敷き詰め、それに水をかけ湯気をたてて入る方式で、一度に6・7名ぐらい入れる。 浴室入口の約2m右側に、岩壁をくりぬいた石室があるが、これは後世の施設となっている。 現在は使用されていない。 |
737 | 大野川 | 緒方川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 市穴石風呂 | その他 | 16世紀代 | 昭和41(1966)年3月22日、県有形民俗文化財指定。 原尻の滝の約200m下流の、緒方川を前方に見下ろす岩壁をくりぬいて造り、浴室と火室とに分けた2断式の石風呂である。入口の高さ180cm、横幅60〜100cm、内部は高さ150cm、奥行き230cm、最大横幅274cmである。火室で薪を燃やし、床石を熱すると石菖等の薬草を敷き詰め水をかける方式で、入口に莚を下げ内部の熱や上記の発散を防ぐ。5〜6名入れる。 明治初期頃まで使用されていた。 |
738 | 大野川 | 緒方川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 中ノ原石風呂 | その他 | 16世紀代 | 昭和42(1967)年3月31日、県有形民俗文化財指定。 原尻氏宅の裏山の岩壁をくりぬいて造られ、内部の高さは188cm、奥行き214cm、横幅300cmで室内左側に深さ54cmの水溜め、奥壁のやや右側に横穴を穿ってかまどが造られている。このかまどで人頭大の石を焼き、焼き石を石菖等の薬草を入れた水溜めに投入し、その湯気で蒸浴したという。 町内に分布する石風呂とは異なる形式である。 明治時代初期頃まで使用されていた。 |
739 | 大野川 | 緒方川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | 上戸石風呂 | その他 | 16世紀代 | 昭和49(1974)年3月19日、県有形民俗文化財指定。 原尻の滝、上流約1kmの緒方川河岸岩壁を横穴式にくりぬいて造り、板状の石を並べて火室と浴室とに分けた2段式の石風呂である。内部は、高さ130〜140cm、横幅195〜230cmで、使用法等は他の石風呂に比べて狭く、まっすぐのびた火道の左右に4本づつの細い火道を分ける、他に見られない形式で5〜6名入れる。 大正時代後期頃まで使用されていた。 |
745 | 大野川 | 丹生川 | 九州地方整備局 | 大分河川国道事務所 | ハネツルベ | その他 | 大野川右岸の大在地域(海岸砂丘地帯)は、旱魃の常習地として水に苦しんできた。そのため一枚の田ごとに井戸が掘られるような状況で「ハネツルベ」の林立が見られた。 近年、大野川下流域から佐賀ノ関までおよぶ「昭和井路」の完成によって、ハネツルベの姿は苗代田作りの時だけ見られるように過ぎなくなった。 |
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757 | 五ヶ瀬川 | 五ヶ瀬川、派川大瀬川 | 九州地方整備局 | 延岡河川国道事務所 | 鮎やな(延岡やな、岡元やな、川水流やな) | その他 | 18世紀代 | 五ヶ瀬川の「やな」は明治4(1871)年に当時の延岡藩主内藤政陽の時代に「簗銀」に関する文書がある。そのほか、地方村内五ヶ瀬川のいくつもの簗に対する「簗銀」の納付金が誌されている。したがって、200年以前の昔から「五ヶ瀬のやな」は存続しているものである。鮎やなは、成長して産卵のために川を下る鮎の習性を利用し、川をせき止めて竹の簀の子の「落とし場」に誘い込んでとる原始漁法でおよそ300年続いている。工業都市延岡の市街地の中に、鮎やなが架設されるなど全国的に例をみない工業都市と美しい水の調和した景色といえ、水郷延岡の秋の風物詩である。現在も五ヶ瀬上流には北川町川水流、岡元、下流では分流の派川大瀬川と3箇所のやなが架設されており、各やなとも観光客でいっぱいの状況である。 |
764 | 大淀川 | 大淀川 | 九州地方整備局 | 宮崎河川国道事務所 | 大淀川平面図(1/5,000) | その他 | 昭和3(1928)年の直轄河川改修着工にあたり、内務省下関土木出張所が大正末期に実測をしたものと思われる。 大淀川河口より本川を高岡町(21.0km)付近までと本庄川を国富町(16.6km)付近まで。 |
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765 | 大淀川 | 大淀川 | 九州地方整備局 | 宮崎河川国道事務所 | 日向地誌 | その他 | 19世紀代 | 明治8(1875)年〜明治17(1884)年に完成。(宮崎県の委嘱を受け、平部キョウ南が調査記録) 明治初期の日向国の村々の地形・地質・産物・生活等詳しく調べている。 また、河川の名称についての記述は詳細である。 |
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