水管理・国土保全

  

| 河川トップ | 川の歴史 | 主な災害 | 地域と川 | 自然環境 |   


網走川の歴史


 網走(あばしり)川という名は、アイヌ語の「ア・パ・シリ」(我らが・見つけた・土地) あるいは「アパ・シリ」(入口の・地)に由来していると言われています。 
 明治30年より屯田兵が入植し、開拓が上流域に広がったことを受けて、農地面積拡大のための森林伐採が行われました。木材は網走川を使って河口まで流送し、木材積取船に搭載され運ばれたといわれています。木材は数箇所にわたって堰を築いて、水量を調節しながら発動機船でいくつものイカダを曳いて流送されました。

 網走川流域に人類の足跡がみられたのは旧石器文化時代(約2万年前)とされています。約1万年前、旧石器時代の終わりとともに縄文文化が始まり、道内では最も古い時代のものとされる洞窟遺跡で出土した土器などが縄文人の生活を今に伝えています。そして今から約1000年前頃、オホーツク海沿岸を中心に漁労や狩猟を生活の基盤に置き、犬や豚を飼って生活をするオホーツク文化が展開され、網走川河口の「モヨロ貝塚」はその痕跡を示す遺跡として有名です。

 網走川流域の開拓は明治2年に開拓使が設置されたことに始まります。明治のはじめの網走川は原始の状態で、当時アイヌ人は丸木舟をもって上流から下流を往来していました。

 明治30年、北海道網走支庁の誕生に伴い、屯田兵が入植し開墾を進めていました。
 その後農地面積拡大の為、開拓が上流域に広がったことを受けて森林の伐採が行われるようになり林業が発達しました。
伐採した木材は網走川を使って河口まで流送し、大阪、神戸方面に運ばれました。
 これらの名残から、現在でも、上流の津別町では林業が受け継がれています。


オホーツク文化 クマの牙偶






ページの先頭に戻る