鈴鹿川の名前は、大海人王子(後の天武天皇)が東国への旅の途中、洪水に難渋しているところに駅路鈴をつけた鹿が現れ、その背に乗って川を渡ったという伝説から来たと言われています。鈴鹿川は、伊勢湾西部、伊勢平野の北寄りに位置しており、三重県鈴鹿郡高畑山に源を発し、内部川など大小の支川を合流して伊勢湾に注ぐ長さ38kmの河川です。
古来より鈴鹿川沿いには東海道と大和街道など近江・大和方面への重要な交通路として利用されており、関町には古代の三関の一つである「鈴鹿の関」がおかれていました。本川沿いに旧街道が通るこの地域の特徴を反映して石薬師・野村の一里塚、東西の追分けといった近世に至る交通の要所としての史跡や、石薬師・庄野・亀山・関・坂下の旧宿場町を忍ばせる町並みが今も残っています。「鈴鹿川、八十瀬渡りて誰ゆゑか、夜越に越えむ妻もあらなくに」と万葉集にも詠われているように、鈴鹿川は数多くの瀬を形成する砂河川です。
上流部は山腹の荒廃が著しく、土砂の流出が多くそのため河道も安定せず下流部ではたびたび洪水による氾濫を繰り返し、流域住民に多くの試練と苦痛を与えてきました。このため、江戸時代より人々は、上流部では崩壊地に石堤を設けるなど現在でいう砂防工事を、下流部では築堤工事を行ってきました。しかし、右岸側が神戸城下であったことにから左岸堤の強化が許されず、このためこの地域では女人堤防*1なる話が伝えられています。国による本格的な治水工事は明治末期に上流砂防事業に着手したことに端を発する。また、鈴鹿川の中・下流部においては古くから水田耕作が営われ、多くのかんがい用水施設がつくられてきました。しかし、昔から鈴鹿川は砂河川であるため川の水が伏流水化し、農業用水の確保には苦労してきました。そのため各用水は河床を掘ったり、伏樋形態の取水施設やこの地方特有のマンボ*2と呼ばれる暗渠式の潅漑施設等が工夫されてきました。