水管理・国土保全

  

| 河川トップ | 川の歴史 | 主な災害 | 地域と川 | 自然環境 |   


雲出川の歴史

治水の沿革
地形的な特徴から洪水のたびに氾濫し、流出土砂が堆積し、高度な土地利用は困難であった。しかし、肥沃な平野は優良な農地となる可能性を秘めていたことから、次第に開田が進み、同時に農地を守るために流路を固定するための築堤に着手してきた。

一方では、沿川の市街地は古くから河岸段丘上に形成され、洪水時には中流部に存在する無堤部(霞堤)で洪水を一時貯留するなど浸水を許容する土地利用がなされてきたが、近年においては、浸水のおそれのある低平地の一部で市街化が進行している状況にある。



名前の由来
雲出川の名は、河口部一帯にある塩田の塩釜から立ち上がる煙の様子が雲のように見えたことからと言う説と、上流山地部に雲が多く、渦を巻く様子が下流からよく見えたという説があります。雲出川はまた、古来より大和国より伊賀を経て伊勢・東国へ向かう重要な交通路にもあたっていました。このため中・下流部には大和との文化交流を裏付ける古墳・遺跡や、伊勢国司として一大勢力を誇った北畠氏関連の史跡が多数残されています。また、下流の香良洲町には、「伊勢参りをして香良洲詣でぬは片参宮」と言われた香良洲神社があり、そこに向かう香良洲道と、雲出川の合流する場所には、古くから常夜燈が立っていました。


北畠氏館跡庭園


常夜灯


雲出川と地域の人々
雲出川は、比較的優しい川であったことから古来より船運が盛んで、街道沿いには渡しが造られたほか、上流からは筏による木材の運搬、中・下流部においては米・お茶・炭・塩などの運搬に利用されていました。

しかし、ひとたび洪水がおこれば下流部は一面川原と化します。このため、人々は洪水から逃れるため低地から高台へと移り住むようになりました。洪水等によってできた平野は宅地などといった高度な土地利用は困難でしたが、優良な農地としての可能性を秘めていたのです。このため人々は次第に開田を進め、同時に自らの農地を守るための堤を造っていきました。しかし、雲出川の下流には大きな城下町があるわけでもないので、計画的な築堤工事を行ったのでなく、農地を守るための比較的安価でできる連続しない霞堤による築堤が行われ、それが現在も残っています。

また、開田とともに雲出井用水の開削をはじめとし多くの堰が作られ、その用水により田園地帯を潤し有名な一志米を産出してきました。


無堤部について
雲出川における藩政時代からの記録は特にないが、河道が定まらない原始的な河川であり、台風豪雨の度に各所で氾濫し、河川沿川に大きな被害を与えてきた。明治時代に入り、三重県の治水条例に基づき雲出川の改修工事が開始したが、これらは水制工や護岸工等の局部的な施工にとどまり、根本的な改修には程遠いものであった。

雲出川には、支川を含めて12箇所の無堤部があり、洪水調節池として有効に機能している霞堤がある一方で、度重なる浸水被害の主要因ともなっている。なお、現在では沿川の土地利用計画等に伴い順次締め切られ、6箇所(牧、小戸木、赤川、其村、中川原、庄田)まで減少している。



無堤部12箇所の位置図













ページの先頭に戻る