水管理・国土保全

  

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遠賀川の歴史

遠賀川の名称の由来

 江戸時代の福岡藩の地誌、貝原益軒 『筑前国続風土記』の「河水記」によれば、遠賀川本流は「桑野川(嘉麻川)」「直方川」「木屋瀬川」「遠賀川(芦屋川)」などの名称がありました。
 遠賀川の本流・支流の名称は、時代によって変遷があります。また明治5~6年頃に編纂された「福岡県地理全誌」の遠賀郡の項にも「遠賀川」の名称は見られます。
【参考】
香月靖晴『遠賀川 流域の文化誌』(海鳥社)
解説協力
日本経済大学 教授 竹川克幸





堀川

遠賀川の治水対策に関係する主な人物に黒田長政がいます。平地に流れ、少雨でもすぐ水害になってしまうといわれていた遠賀川流域を豊かな穀倉地帯にしようとした長政は、「新しい運河を掘って遠賀川の水を洞海湾に導けば洪水も少なくなり、運河周辺の田にも水がいって米の収穫量も増えるに違いない」と考えました。そして、元和7年(1621)に中間から洞海湾に通じる水路の工事を命じました。これが堀川工事の始まりです。堀川は「運河」という意味です。それがいつからか元々の名のように呼ばれるようになったのです。



堀川




遠賀川と石炭産業

もう一つ、遠賀川の治水に関係するものとして石炭産業があります。石炭産業の発展とそれに伴う鉄道の開通によって洪水被害はいっそう大きなものとなりました。このような状況の中、明治38年7月の大洪水を契機とし、国の改修事業として第1期改修工事に着工し、14年後の大正8年に完工しました。

昭和に入ると石炭の採掘量が急激に増えたことで、鉱害(地盤沈下など)が次第に遠賀川にも現れるようになり、堤防や護岸が破壊され再び水害に見舞われるようになりました。そこで、昭和20年から国による改修工事が再開されることになりました。



また、微粉炭という石炭の粉による水の汚れを引き起こしました。これによって遠賀川は「黒い川、ぜんざい川」などと呼ばれるようになりました。黒い水は水道にも農業用としても使えず、流域の人々は大変苦労しました。

地盤沈下した土地や建物の復旧を目的とした鉱害復旧事業が行われました。 川に堆積した微粉炭の除去も行われました。このような事業が長く続けられたこともあって、遠賀川は石炭採掘前の美しい流れを取り戻しつつあります。

石炭産業はこのように人々を悩ませたものでしたが、ときに人々を支えてきたものでもありました。遠賀川流域の炭鉱群は明治・大正・昭和と日本の産業をずっと支え続けました。今では流域内で炭鉱を見ることはできませんが、多くのボタ山が残っており、それらは地下深いところで懸命に働いた人々の苦労を偲ばせてくれる風景となっています。


現在のボタ山(※中央に位置する山)





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