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この「紙」
(別資料参照) は、今日何か喋らないといけないというのを出てくる10分ぐらい前に思い出し、慌ててつくった日付も名前もない紙である。「身近に『出・入』がわかる世の中」、こんなキーワードかなと思ってつくった。思いつきでちょっと例示的にいろいろな言葉を並べてみた。ところが、先程の澤登さんのお話の中に出てきたこととかなり重なる。だから、ひょっとしたら私も少しは暮らしがわかっているのかな(笑)と思いながら聞いていた。
その言葉を見ていくと、それぞれは大体「はあ、そういうことか」というようなことばかりである。しかし、全体としてみると一見何の関係もないように見える。まず、「いじめ」というのは、学校のいじめのこと。それから「援助交際」、最近はちょっと聞かなくなったけれども、なくなったのかどうなのか。それから、男は余りやっていないけれども、(笑)電車の中で本格的に化粧する人が最近多い。そういった種類の話。
次は少し飛ぶけれども、地方に無駄な箱物がいっぱいできている。それと似たような話だが、例えば立派な介護施設ができる、そこに集中管理されている寝たきり老人は本当にハッピーかというと、なかなかそうではない。50億円かけて介護センターをつくり、そこで一律介護するのに比べるとホームヘルパーの助けを頼むにしても、自宅での介護ははるかに安くつく。老人にとってどちらがいいかとは別に、前者がいわゆる高福祉高負担型、後者が低福祉負担型ということになる。そこに投下した金額で福祉のレベルが測られる。だから、競ってこういう箱物ができる。
それをずっとまかなっていこうとすると、税金は高くなってしまう。その結果は「大きい政府」だ。また、大臣がまだ来られてなくて残念だが、それこそ吉野川河口堰もその一例かと思うが、止まらない公共事業も同種だろう。
次の行は、またちょっと飛ぶが、東京というのは、水が足りないと言いながら、集中豪雨があるとすぐ洪水になる。洪水と渇水が常に同居しているのが東京である。降った雨は全部流すから、そうなる。これまた河川局の方から異論があるかもしれないが、そこから向こうへ行くと、もう日本海に流れそうなところまでダムをつくる。しかし、東京に降る雨を全部貯めると、何か6割ぐらいは賄えるということだそうである。
似たような話だが、食糧(穀物)の自給率が30%。アメリカから日本に毎年輸入される穀物の量を窒素で換算すると約60万トン。だから、それだけアメリカの土地は毎年痩せているわけである。それを肥料で補っている。日本人はそれを食べて、ウンコやオシッコで流している。だから、本当は60万トンの大小便をアメリカにお返ししないといけない。江戸時代はそれを日本国内ではみんな循環していたのが、お返ししないものだから、向こうは疲弊して、こちらは富栄養化しているという、どうもそういうことがある。
同じように、「圧倒的な入超国」というのは、日本は金額ベースでは圧倒的な黒字国なわけだが、これを重量で見ると、圧倒的な入超国なのである。世界に冠たる入超国で、毎年20億トンぐらいの様々なものが入ってきている。
以上の言葉は一体何を並べているのかということなのだが、これを少しまとめると、一番上の行は恐らく家庭の問題とか、教育の問題とか、そんな話になる。真ん中の2行は、財政とか、行政とか、そんな話になると思う。一番下は、環境とか、国土とか、に関するものだ。私はこれらすべてに共通するのが、次に書いたが、最近はやりの言葉で「アウトソーシング」だと考えている。我々はどうも「アウトソーシング」をし過ぎてきたのではないか。もう一つ共通するのが一番上のタイトル。その結果、我々が身近に「出・入」、もうちょっと下世話な言葉で言えば、損得勘定がわからなくなってきた。どういうことかというと、本来、家庭やコミュニティーの中で行うべきことを政府はアウトソースにする。食糧や水など本来身近なところで調達すべきものを、外国や遠い所から調達する。そのつみ重ねの結果、様々な面でバランスが崩れている。我々が、目の前に抱えている家庭の問題、教育の問題、環境の問題、農業の問題、政府の行政の問題、財政の問題、などはすべてこの点に関して共通しているのではないかというのが、私がここで言いたかった点である。
国についてもう少し詳しく言えば、大まかに言って産業革命以前は国の役割は極めて小さくて、いわゆる夜警国家的なものであって、日常の大抵のことはその土地その土地、コミュニティーで処理されていた。それがだんだん中央集権的になって、国力というものを経済の力で測るようになって、インフラもつくらないといけないとか、都市化すれば、都市の住民の面倒を見ないといけないとか、あるいは衛生の面倒見ないといけないとか、そんなことになってきた。日本の場合には特にそれが明治以降急速に進んで、しかも途中で戦争で切れて、2度もそれをやったものだから、集中度がダブルというか、もっとすごい勢いで中央集権が進んだ。「アウトソーシング」というのは、かつては住民自らが行っていた公共的な活動を政府に委ねる、すなわち民から官の流れであって、同時に、これはさっきの澤登さんのお話にあったように、生活自体もアウトソーシングしてきたのではないかという感じがする。
ここで配っていただいた田中さんの『大江戸ボランティア事情』は、石川英輔さんという方との共著で、私はお二人とも前からの愛読者で、大変面白い。江戸時代というのは、例えば今で言うような福祉とか、バリアフリーとか、男女均等とか、あるいはボランティアとか、弱者とかいう言葉は、一切なかった。政府が福祉だ、弱者救済だということでそういう人たちを面倒見るまでもなく、あるいは運動するまでもなく、自分たちで社会の中に入っていた。盲人は按摩をしたり、あるいは琴を弾いたりしてきちんと生計を立てて、当然家族を持っていた。補助金をもらって暮らしていた盲人はいなかった。今日はいらっしゃってないが、竹中ナミ(社会福祉法人プロップ・ステーション理事長)さんは、身障者を納税者にしようとしている。江戸時代はそのことが当然のように実現していたわけだ。今はNPOという言葉で言われているけれども、それにあたるのは昔は結だとか、講だとかであろう。そんな言葉があったように、NPO大国であったのではないか。アメリカと日本の対比になると、日本の「お上頼み」というのは昔からなんだ、それはもう日本の文化だというようなことがよく言われる。しかし、私はそれは全然違うのではないかと思う。それはまさに田中さんのご専門だと思うが、江戸時代の幕府というのは饅頭の皮みたいなもので、ほとんど中身には関係していなかったようである。だから、お上というのは武士の世界の中だけで「ああだこうだ」とうるさいことを言っていて、日常の国民生活は全部、先ほど幾つか例を出したように、福祉だとかボランティアだとかことさらいうまでもなく、コミュニティーの中で自分たちで面倒を見ていた。もう少し公的な部分にしても、例えば警察とか、消防とか、教育、あるいは公共事業などを、江戸時代には、目明かしとか火消しとか寺子屋とか自普請という言葉があることで分かるように、これらは全部民間人が自分たちでやっていた。つまり、NPOとかPFIとかいうまでもなく、公共的なことは「民」が担うのが当たり前、それが原則であったということなんだろうと思う。公共的なことを「官」が担うのが当たり前になったのは、明治以降である。だから、日本人の「お上頼み」グセはたかだか
120〜 130年の話であるという感じがしている。
その下に今度は唐突に民法とか設置法という言葉が出てくるが、民法34条というのは公益法人の規定である。ここに何が書いてあるかというと、公益法人をつくる場合には国の許可を得ないといけないということだ。ここでは公益法人を問題にするのではないが、その意味するところは、公益であるかどうかは国が判断するということなのである。要するに、世の中のお役に立つかどうかはお上が判断するということだ。これなどは「官」が公共的なことをしきる、ことの負数のようなものだ。本当は世の中に役に立っているかどうかは世の中が判断するので、お上といってもこれは本当は役所の課長補佐か係長が判断するわけだから、そんなものおまえに判断できるのか、というとことではないだろうか?
それから、設置法というのは、私は過去1年ぐらいキャンペーンをしてきた話なのだが、建設省設置法とか、各省に設置法という法律があって、その役所がする仕事を権限を全部書いてある。日本中の設置法の権限の規定を全部足し合わせると、日本中が全部すっぽり入る。前にたしか小沢一郎の本の冒頭だったかと思うが、アメリカに行ったら、グランドキャニオンには柵なんか何もない。落ちたら、それは自分の責任だ。日本は、そこに柵をつくって「近寄るな」という札を立てて、それでも落ちたら、一体どこの役所がやっていたんだと言う。それを何とかしないといけない。そんな出だしだったかと思う。まさに、何かが起こったら、必ずそれは役所の責任だ、あるいは必ず役所が面倒を見るべきだと、日本中が役所の数で切り分けられている。これも私がよく出す例なのだが、科学技術庁の設置法の権限規定の中に「宇宙の利用を促進すること」、括弧して但し書きがあって、「ただし、他の行政機関の所掌に属することを除く」と書いてある。要するに、宇宙もみんなで切り分けましょうと。これは実はそれだけではなくて、我々の頭の中も、役所で切り分けられているのである。私が権限規定は一切削除すべきだと言うと、役所を批判している新聞記者ですら、「加藤さん、だけど、そんなことを言って、もし何か起こったらどうするんですか」と必ず聞かれる。そういうことで、官が国を仕切るのが当然という仕組みを作っている点において、これは民法34条と同じ発想だ。
民法34条は、たしか明治31年に作られてから変わっていない。設置法の権限規定のもとになった「官制」というのは、もう少し前に制度化されている。いずれにしても
100年から 110年ぐらい前である。
それから、基準財政需要額というのは、交付税の配付基準である。これは要するに、各地方自治体で必要な財政需要の基準額は国が決めるということだ。ナショナルミニマムという言葉がある。ナショナルミニマムというのは、国民にとって最低限必要な公共サービスということだが、これは例えば、もともとは、古い言い方をすれば鍋、釜、布団が一家の最小必要なもので親が買い与えた。そのうち冷蔵庫も、洗濯機も、掃除機も買ってやろう。テレビも要る。車も要る。さらには、テレビは各部屋にみんなあるといったことだ。ナショナルミニマムのレベルがどんどん上がってしまった。その結果、基準財政需要額は戦後50年間ずっと増え続けて、特に過去10年間で倍になっている。
ここに書いた3行というのは、とりあえず国のことだけについて、国が世の中の面倒を見るんだ、公共的なことをやるんだということを制度づけた典型的なものを3つ挙げた。この手の仕掛けというのはまだまだ世の中にいっぱいある。だから、我々はどうも、財政だ、行政だ、大きい政府だと最近いろいろ言っているわけだけれども、もとをただせば、民から官への「アウトソーシング」が行き過ぎて、それでやたら無駄なものが出てきた。政府は肥大化して、様々な制度や事業が既得権益化して、公平とか弱者という一見きれいそうな言葉でどんどん膨らんできている。それと同時に、もっと大事なのは、どんどんアウトソースした結果、コミュニティーというもの、コミュニティーという言葉も本当は日本語があればいいと私は思うのだが、地域の中で昔は自分たちがやっていたことをアウトソースしていって、自分たちの住む中で共同で何かをやるという慣習がなくなってしまったものだから、生活までが空洞化してきているのではないか。一緒に何かやろうと思ったら、人間どうし、何とか「折り合い」をつけないといけない。コミュニティーの中で「折り合い」をつけるというのは当たり前の話である。先ほどの寺子屋だとか、火消しだとか、そういう自分たちで自分たちの公共のことを何とかやっていたときには、それなりの地域の中での〈ルール〉があった。ところが、それを外に追いやったものだから、もう我々はルールも忘れてきたのではないか。ルールを忘れたことの結果が電車の中での化粧であり、援助交際であり、いじめであり、無理やりの話のようにきこえるかもしれないが、私はこれは冗談ではなく、そこに本当の原因があるのではないかと思う。
最近は何かあるとすぐ教育とか家庭が悪いんだというようなことを言うけれども、そういう意味では、地域の〈ルール〉、あるいは地域でもう一回何かやっていこうというところに戻していくことで、かなりの部分いろいろな問題が片づいてくるのではないか。それは、前に言った環境とか国土だって、東京に降る雨で東京の水は面倒を見ようとか、そういうところにちょっと近づけていかないと、やたら無駄ができて、どう考えたってこれはサステイナブルではないのではないか。だから、「出・入」がわかるというのは、極端に言えば、地球全体で考えれば常に「出・入」の帳じりは合っているわけである。地球全体のバランスシートというのはもともと取れているわけだけれども、もっともっとできるだけ身近なところでバランスシートを考えて、それがバランスするようにしていく必要があるのではないか。どうもそうじゃないともたないところまで来てしまったのではないかというのが、この紙の意味である。私はそういう意味で、ここに挙げた3つの制度に限らず自分のことは自分で始末をつけるといったことを日常の生活も含めて考えないといけないのではないかと考えている。そういうことをやっていけば、1行目にある問題もだんだん解消されていくのではないか、そんなふうに思う。 |
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