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私は海外出張から帰ってきたばかりで少しぼけている感じだが、よろしく。
昨日までザルツブルクの「インターナショナル・ザルツブルク・ワークショップ」に27日間ぐらい、ビジティング・プロフェッサーとして行ってきた。
ちょうどザルツブルク・ミュージックフェスティバルが開催されている時期だったので、魔笛やドン・ジョバンニ、ドンカルロ、アルルとオペラも観賞させていただき、大変まじめな学生を前にしてこんなかれた声になって帰ってきたところである。
生徒はインターナショナルだからさまざまなところからやってきていた。1人だけオーストリアに入るのに2日間警察に捕まっていたというロシアのヤルクーツクから来た学生がいた。外国に出るのが初めてだといって、遅れてきた。
3週間ちょっとだったけれども、最後には彼が一番楽しくて面白かった。ドイツ語も英語も話せない、なかなか言葉が通じないという中で、ほとんどモノクロにしか映らない、JVCと書いてある日本製のビデオカメラ撮影する技術がものすごく優れていた。みんなが発表するファッションや絵画など、いろいろなものの撮影がとにかく大変上手い青年だった。初めは、私に見せてくれていたが、次第にあちこちのクラスからそれを見せてほしいと人が集まってきて学校の中心的人物になってしまった。彼は、奨学金がもらえたからここに来たのだが、持ってきた作品というのは学校で一番良かったというけれど、伝統的な丸太小屋で、本当にパオを大きくしたような丸いワンルームのものであった。
その青年は、いろいろと吸収力が良くて、最後には大変造型的ではあるけれども、みんなを引きつけるすごい作品をつくってしまった。そのとき、情報が多いところから来ている情報人間と、こうして非常に情報が少なくローテクな機械を持っているローカルな人間と創造の情報は逆転していることを見た思いがした。個人が有する経験とか情報あるいは身体について改めて考えるに、なかなかよい経験をした。そのようなことを考える時間が持てたことが私のこのワークショップ参加の一番の財産かなという感じで帰ってきたところである。
では、今日は、私が設計した建築を通してどんなふうに考えてやってきたかということを話そうと思う。私は初めの頃、長いこと小住宅「友人の家」を設計していた。大工さんがつくるのも何々ハウスを買うのも大変な20代の終わりから30代のクライアントで十数年そういう小住宅を、まさに先ほど安部さんが話されたように共同作業というかたちでつくってきた。
本当にその人の生き方あるいは人生とコミュニケーションしながら、ちっとも終わらない話を1年も2年もかけながら設計を続けていたというような時期が15年ぐらいあった。それは実はとてもハッピーなときで、幸せな設計のやり方だったと思う。
その後、あるとき私は、公共建築のコンペに挑戦して一等賞をいただいた。それからこの十数年というもの、公共建築を苦しみながらつくっている感じがある。
このごろ、私は自分のつくった小さな住宅を20年とか30年経って訪れた。そうしたことをこんな本にまとめてくれた方がいる。(「生活の装置」)
建築というのは住宅をつくっているところを例にしていうと次のようになる。
住宅というものは、最初、施主とのコミュニケーションを通してコンセプトをつくりつつ、設計し、施工し、さらに使用していく変容のプロセスにも関わらなければならないというものである。建築の長いプロセスにずっと関わって時間経過による変化というものも見てきた。そして住宅は、変化しつつも持続していくものだというふうに考えるに至った。つくっていく過程でもいろいろな出来事が起こる。そういうことも全部インクルーシィブしてつくっていかないと、自分の考えだけでは成立しないものだということを住宅をつくることで学んだ。建築は非常に複雑なものなのだと思う。お金ももちろんかかるし、その人たちの人生がどうなっていくかわからないということも含めてその場で展開する身体性と関わるのだというように考えて私は住宅の設計をしてきた。
しかし、コンペで一等賞をとり、最初に公共建築をやることになったとき、2〜3カ月でやったドローイングでつくるということがとても自分の中で不安だった。藤沢市のケースで、私にとってはどうやって使う側に、生活している人たちの側に戻すかということをやりたくて、何度も公開したいということをお願いした。それがあるとき、「こんなものをつくるのか」というある老人の意見からなのだが、コミュニケーションを通してつくっていくという住宅のつくり方を展開するチャンスを得た。
設計している間、意見交換の場をつくって、 100回ぐらい繰り返すことになる。これまで、「つくる論理」で建築づくりはすすめられてきた。もちろん日本の近代化とその発展のために、労働力の捻出のために、技術の発展のためになど、さまざまな理由があって、そうなっていたとは思う。
私は建築は「つくる論理」にプラス「使う側、生活する側の論理」を同時に考えることだと考えて実行してきた。どうも私の尊敬する二人の先生が非常に作品性の強いものをつくっていることに対する反抗ではないかと思ったりした。しかし、そればかりではないことをこのごろあるインタビューを受けているとき、私の小さいときのことや、家のことなど何もかも調べてきたインタビュアーに会って初めて気づいた。最近出たファッション雑誌に出ているようだが(まだ見ていないが)、どうして私がその大学に行ったかまで調べてきている。大学に行くときに「ある国立の大学の工学部に行く」と言ったら、先生は、毎日私に「工学部は男性しかだめだ」と説教をした。私はそれで卒業までの2カ月、高校に行かなかったというのことまで彼女が調べてきてびっくりした。その先生にとっては工学部とか建築というものは女性的なものではない、ということを私に説得したかった。そして、その先生の言い方は、「建築は男性の本当に知的で完全なる人がやるものであって、あなたはいつも絵を書いているから、そういう不完全な人間は、何か楽しげなことをすればいいんだから美術大学ぐらいに行きなさい」というふうな感じだった。それで、「どうして家をつくるとかまちを考えることはそこに住んでいる子供にも女性にも老人にも可能なことのはずでしょう」と、その先生にとても高飛車に言ってしまったこともあった。
なかなかチャンスが得られなかったときに、当時のことをよく思い出した。そんなことでどこかで「初めから生活の論理や文化としてのあり方ではなくて、どうして技術者あるいは業者としか考えられないのだろう」ということが大学のときから私の中にあるようである。
私は公開をして、意見交換をしながらやってきた。今からお話する新潟の市民芸術文化会館というこんな大きなものをつくるのには7年近くかかったわけである。どうやって公開の形態を
100万都市でしたらいいかというときに、ワークショップを開くというかたちを取って3年間100回近くコーディネーターを務めた。この「スーパースタッフ」はスタートのときにつくった本で、その最後をまとめていないのだが、そういうワークショップをして、実際どう使ったらいいか、どう運営したらいいかとか、どういうボランティアに参加したらいいかとか、近隣商業のあり方にも人々の生活にもどういうことをもたらしたらいいか、など多岐にわたる内容になっている。
川勝さんが「ガーデンアイランド」とおっしゃているが、私は7年ぐらい前に「グリーンアイランド」という言葉を使ってコンペティションの一等賞になった。このときに私のつくったアイデアは、環境をとにかくつくるということだった。環境づくりとして建築を立ち上げることだった。
ランドスケープを14ヘクタールぐらい整備するということがあって、しかし設計図をかいていくと全部駐車場になってしまう。駐車場がとてもたくさん要求されていて、グランド全部が駐車場になってしまうので、その上に浮き島のような原っぱをつくっていくという提案とか、埋立地であるそのエリアが非常にドライなアスファルトだったので、駐車場も建物も上をみんなグリーンと水で覆ってヒートアイランドを防ぎ、そのエリアの環境を整備の方向でランドスケープデザインを考えた。環境としての建築という考えは、住宅をやっていた頃からで、そうした都市の空間が自分の皮膚感覚に見合うような空間にしたいという発想からスタートした。都市の建築も私たちの生命維持装置みたいなものだから、全体がビルディング化してしまった今、グリーンアイランドとして、新しい自然として再編集するべきではないかというようなことをテーマに掲げて、1番を得た。そのとき出したものがこれである。
(スライド1:コンペ案)
そんなことで意見交換とかワークショップとかさまざまなやり方でコンペに入ってから、私はつくっていく過程を通して、「つくる論理」にプラスして「使う側の論理」も入れていくことをずっと試みている。意見交換をすると、そこにやはりその地域の人たちの生活、衣食住から、それから文化、伝統というようなもの、歴史というようなものも全部意見の中に出てきて、そういうものを設計と運営の中に反映していけることもあるわけである。それは私にとって大変メリットなのである。私は、地域の人たちに使われる建築をつくりたいと思っている。単にハードを残すだけではなくて、ソフトづくりのプロセスを残すことによって、そこに長い変容のプロセスも残せる。コミュニティという話があったけれども、7年のプロセスをオープンにすることでそのまちに何かみんなが共有できる、形ではないものが残せるというように思っている。
いろいろな意見がたくさんあり、大きな建築づくりは精神的にきつかった。自分でコンペ要項を読んだときに、何でこんな大きい建築をつくるのだろうと思った。コンペの直前に東大教授の月尾さんと対談したときに、東京でウィーンオペラだとかベルリンフィルとかやっていると、十数%の新潟の人はチケットを買って見に来ることが「ぴあ」で報告されていると言われた。なぜそうした地方にコンサートホールがないのだと。あそこにつくれば成り立つのにとか、よい企画をする人がいっぱい住んでいるのにとか、そこにはすごい歴史があるのだという話をされた。偶然に新潟の話を月尾さんがされた。その後に、コンペが行われることになったので大ホールに可能性を感じてやってみようと思った。そこで文化の歴史を調べに地元の図書館に行くと、都市のアルケオロジーもなかなか面白いものだった。いつも私はそういうものを調査して、人に会って、そのまちは面白いなと思うと本気でやる、本気でやったときは大体コンペに入るかなという気がする。新潟については最初から本気で、まちに出かけて行ってやり出したという思い出がある。
この敷地は信濃川の流域にある。新潟にはまだこういう福島潟というような美しい湿地帯の風景が残っていて、新潟そのものも大きな浮き島である。これが新潟の現状で、これが信濃川の歴史。かつて一番人口密度が高くて、佐渡に金山、銀山出たころには世阿弥とか御国とかもやってきたという歴史書が残っている。まだこうした大きな河口があって、そこに浮き島がたくさんあり緑の多島美をつくっていた。花見をしたり、能舞台が開かれたりしたようである。その時代の優雅さがイメージされた。水路を残しながら、河を次々に埋め立てていく。敷地は明治ごろ埋め立てられた土地。非常に地盤が悪い。水路が残っていた頃の、美しい女性と柳の木と水路が水にゆらいでいるような明治から戦前までの美しいまちの写真が残っている。しかし、今はもうどこのまちとも同じようなビルディングが立ち並ぶ現代的な都市である。
(スライド2:信濃川の歴史)
私はこのよき時代の浮世絵のようなものを見たときに、こうした風景をもう一度持ち込んでランドスケープの設計をしようと思った。日本は水辺に都市ができて、そこは非常にポテンシャルが高くて、エネルギッシュで、市が立って、そして人々が集まってきて、そして商業もそうだが、演芸や文化やそういうものが残った。今新潟や佐渡に一番、日本の能楽堂があり、そして国宝の綾子舞のような日本舞踊の原点の踊りと言われるものなどいろいろな伝統芸が残っていて、昔話もたくさんある。そういうものをどうやってこの公共建築で継続していくかということも私はテーマにしてきた。そうしたものは大体野外で展開されてきて、今でも綾子舞は野外で行われている。だから、今行政がプログラムしているオペラハウスのような劇場とか、あるいは
2,000人のアリーナコンサートホール、それから能楽堂、専門家が使うようなホールにプラスしてやはり市民の人たちがずっと守ってきた伝統芸能を展開する場をどうやって入れるか考えた。専門ホールで新潟フィルハーモニーもジュニアオーケストラも発表したいというアマチュアにも良いホールについても考えなければならない。しかし、そうしたことだけではなくて、風土をつくってきた文化や芸術もどうやって長く持続するかというときに、この浮き島の原っぱを屋外ホールとして使おうというように思ったわけである。原っぱこそ私は公共建築の原風景と考えている。これがまだ未完成で、今工事をしている部分もあって、全部の浮き島ができていない。
このスライドがコンペのときの水の玉みたいなものである。直前にやった山梨のまさに蓮の上に水の玉が乗っていてゆらいでいるような建築をつくった後だったので、新潟だからこそそういう水をイメージした建築を続けてつくろうと思った。こんな模型だったのだが、大体こんなふうにできている。できあがってくるとちょっとかたい感じがするが、全部で7つ島をつくることになる。
(スライド3:全景)
上の方にあるところが白山公園といって、回遊式の日本庭園で一番古い都市公園なのだが、その間にあった道路を埋めてしまって一体化を図る。かつてここのところは公会堂と夜間学校があって、全部アスファルトの駐車場だったので、土壌を新しく入れ直すことからやって、建物の屋上も丘のように全体をグリーン化した。周辺には岡田新一氏がつくった音楽文化会館とか佐藤総合計画の設計の県民ホールとか体育館があるが、そうした古い建物もまちの方から道路を跨いでアプローチしてくる。大体そうした建物が全部ホールを持っているので、奈落があって、ロビー階が全部6メートルである。私も6メートルに設計して、それらをスパゲッティみたいな道路で全部空中をつないだ。古いものと新しいものをつなぐネットワークとしてのブリッジは、共同でプログラムをつくり出すことを期待してあった。
(スライド4:ブリッジ)
ここは新潟地震の流砂現象で建物が崩壊した敷地でちょっと掘ると水が出るから掘ることは禁じられていて、グラウンドレベルに駐車場をつくって、そして5メートル間隔に全部樹木を埋めて、樹海の上の原っぱのようにして、木を海に見立てて浮島をつくったわけである。まだ木が育っていないときの写真である。全面駐車場
700台の条件で、全部を人工地盤にしている案が多かった。そういう空地ができにくい制約の中で、私は緑と水の多島美と群島システムを導入し、多様な空中庭園であり、原っぱをつくった。
(スライド5、6、7:空中庭園)
それぞれは特徴ある風景の中にある。野外で能をするのにまちの人たちが今まで信濃川にステージを浮かべていたのでこんなものを欲しいということで、それを設えた。当初はこれも単なる原っぱだったけれども、コミュニケーションとして建築を立ち上げる過程の中で出てきた水場なのである。下に水路があったところはもう一度上に復元するような形で水場があるとか、小さな子供の劇場、綾子舞も大体こんな場所がいいと考えて設計した。
そんなことで、それぞれの空中庭園は特徴ある水と庭園風の植栽がなされている。この建物の屋上そのものもこんな感じでつながっているが、空中庭園である。
(スライド8:屋上グリーン)
これは反対側から見たところだが、緑の大きな丘になっていて、ここへ上ると相当遠くの信濃川から日本海の方まで見えるということである。
(スライド9:信濃川の対岸から見た新潟市民芸術文化会館)
大体全域を14ヘクタール緑化していく。この1〜2年、温度をまちの中の市役所とここに設定している。大体この夏でも5℃ぐらい、去年4℃ぐらいとか低くて、随分ヒートアイランドを防いでいる。この種のデータを今取り続けている。
この中には先ほど紹介した3つのホールが入っているのだが、3つのホールを分散して建てる案がほとんどの中で、私は1つの中にまとめてこの卵形の建築を提案した。プロとアマ、コンテンポラリーなものとトラディッショナルなもの、日本のものやヨーロッパのもののクロスオーバー、いろいろな演劇とか音楽とかもコラボレーションして、これまでにない新しいものをつくる機会がここにあるというプログラムをコンペで提案した。
実際、オープニングのプログラムでそうしたプロとアマチュアとか、そういう日本的なものとヨーロッパ的なもののコラボレーションの企画は大変な成功で、東京からも新しいプログラムとして人を呼び、そして本当に月尾さんが言われているように
2,000人が埋まることに毎度毎度驚いていた。コラボレーションをテーマにした公共ホールとグリーンアイランド化をテーマに都市と河川をつなぐランドスケープをここに実現させた。
ブリッジは建物の真ん中の大通りをパスして行ける。この建物はかなり長い時間開いていて、ティールームやレストランもある。ホールが閉まっているときでも、ほかの建物のように入れないのではなく開いていて、インフォメーションセンターとかショッピングとかいろいろなものもこの中にあって利用できる。これは先ほどの外のスパゲッティみたいなブリッジが入ってきて出ていく。
(スライド10:ロビー上部に浮かびコンサートホールをめぐるブリッジ)
ここには何の装飾もない中で、先ほどの7つの浮き島をテーマにした楕円形の鏡が浮いていて、ゆらぎの風景をつくっている。私は新潟を「ゆらぎのまち」というように名づけて、そこから起こってくるさまざまな活力みたいなものを期待しているところがある。私たちはグローバルな時代を迎えて社会の変化にたじろぐよりその変容のプログラムを楽しみ出している。それを私は「フラクチュレーション」というテーマで、こういうチラシでヨーロッパにメッセージを送ったことがあるので入れておいた。新潟はまさによき日本を代表する都市だなという感じがする。
もう一つは、もし沖縄につくったらこんな建築化しない、テラスでいいじゃないか、外でいいんだと思っていたところがあるのだが、コンサートホールの遮音のこともあってここではロビー階を透明にすべくダブルスキンガラスを入れようと考えた。寒冷地でガラスを入れることはいいのか?やはり2度目のコンペのインタビューのときから質問されることはわかっていて、積極的に自分で考えた。
360度、大体 350メートルぐらいの長さを季節によって自然光と太陽熱をうまく利用しようということである。ここは大体天気がいい日に行くと照明はつけていない。光と熱をセンサーで感知して、今入れた方がいいか、閉めた方がいいかというようなことを、コストをコントロールできるセンサーをコンピュータと共に設置した。そしてブラインドが微妙に2枚動いて何%とか、だんだん上に上がるとか、生き物の皮膚が開いたり閉まったりするような感じで、そんなディテールで新しく開発したということなのだが、大変テクノロジカルな幔幕ができている。結果としてのダブルスキンは寒冷地に適していたと言える。
(スライド11:ダブルスキンガラス)
市民のためサントリーホールよりコンパクトにできていて音がストレートに届くが、このロシアの交響楽団のように大変大きなオーケストラ、百何十人というようなプロもやってくる。能楽堂などもちょっと特殊である。茶道や華道の先生たちや日本舞踊の人からもこういうところでいろいろ使ってみたいとか言われた。能の専門家だけではなくて、もっと使いたいというときに、どうも象徴的な後ろの松羽目が能しか引き受けられないような風景であるということで、それを外すことができ、後ろに竹林をつくって、自然光が入ってくるようにつくってある。ここでお点前とか花の先生が教えたり、また、今度は武満 徹さんの音楽でフランスの人がここでダンスをするというようなことも可能なような、そんなことで専門ホールとしてつくりながら、もっと市民の人がいろいろ企画できるような装置を、単に開けられることだけかもしれないけれどもつくってある。
(スライド12:能楽堂)
こういう現代シアターをつくれと言われても、市民は市民で使いたい内容もあるからなかなか難しい。間口の狭いオペラ風のプロセニアム・アーチがコンペのときの要望だった。歌舞伎が佐渡ですごく盛んで自分たちもやはりやりたいし、日本舞踊もしたいというときに、プロセニアム・アーチが上と左右に動いて、プロセニアム・アーチの形が日本的なスペクタルな形にもなり、いろいろと大臣囲いをつくるとか、装置でもって専門的にも使える。現代演劇の専門ホールでありながら多彩な出し物にも装置をもって可能にする公共ホールの設計をしていた。
時間がないので紹介できないが、こうした建物だけではなくて、幾つかの建物の設計もしている。それ以外にもコンペの仕事ではないものも紹介すれば、コンペとの比較になると思うのだが。
コンペをすると、先ほど話したように自分の提案を行政に引き受けて貰える。信濃川なども道路を埋めたり、河川の方まで公共の場を下ろすためには建設省にも協力をいただいたりした。道路を2つぐらい跨いで、それまで寸断されていたまちが公園とウォーターフロントと一体化しながら都市の緑化再編集も可能になったなど、いろいろな人のコラボレーションができた。しかし、そうした公開されていないコンペの仕事をやってくると、私たちはどうもフォルムをつくる彫刻家のように、シンボリックな空間づくりの部分のみを頼まれる。あるまちでも、建築は全部地下に埋めてしまって、そしてなるべくインドアガーデンのようなグラスハウスだけを上に出してつくっていくというようなことをやるわけである。それは大変気持ちがよくて、まさにストレスケアになるというので、多くの人がそこへ来てぼけっと富士山を眺めたりしている。そういう心地のよさから大変好評で、何もないのだけれども多くの人がやってくる。そんな公共の場をつくったこともある。
しかし、大勢の人が来ることを知ったその山の下のまちは、突然にしてこのエリアにホテルから遊園地から何から、一杯次々につくって、ある日出かけていってびっくり仰天で、よくこんなに突貫でできたと思った。観光地ということになる。私たちの国では、そうした環境整備ということを一生懸命努力をしながらつくっていっても、隣接地があるところで不思議な遊園地と化してしまい、人を集めるということが目的となり全体を荒らしてしまうという。
オーストリアにいるときに、スイスのチロル地方やいろいろなところへ建築を見るために出かけたけれども、「ワンダフル」、「ビューティフル」と本当に何度も1人で叫んでいる自分にびっくりだった。本当に美しい山々を見て、そしてその風景に感嘆するわけだけれども、どうしてこのように美しくなっているか生徒に聞くと、「自分の家の両親も義務があって出かけて行って、山の草刈りをします」と答えていた。観光というものの維持をみんなでしているそうだが、私たちはどうも観光がそういう癒しとかストレスケアの場ではなくて、人集めでせっかく環境を美しく整備しても異質な店舗が出現して周辺が傷み出すというような結果もある。そういう写真もちょっと見せたいと思った。
もう一つは私がソフトをよく考えるタイプであるということで、建築ではなくて、ソフトづくりを頼んできた「大島町絵本館」というところがあって、初め、市民の人も読めるような何をつくってどう利用することができるかという本を1冊つくった。だが、結果的には町の建築家がやることになっていた建築もつくることになると、どう運営するかもよく考えることができた。「絵本館」は絵本をつくる場所で、印刷もしたり、絵も描いたり、ポエムもつくったり、音楽もつくったりする場所なのである。町長が全国からそういう作業を本当に好きな人を募集して、その家族が住みに来るということであった。いつも「大島町絵本館」を見学に行った人は、私に「どこよりもすばらしい建築だ」と言ってくれる。そこで何を見て来たのかというと「そこにいる人たち」と「活動」だと思う。
建築はもちろん好きなのでやりますが、公共建築をつくりながら、できあがった後の活動が活発になるよう、形としては見えないものも残して、長い持続を期待している。(拍手) |
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