会議記録

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第6回(平成11年11月10日)


第6回議事抄録

日時:平成11年11月10日(水) 17:00〜19:00
場所:東條会館 千鳥の間

1.開会
【佐藤審議官】
2−1.ショートスピーチ (田中優子委員)
 江戸時代の事柄の中でこれからの時代に比較的大きな意味を持ってくるであろう2つについて述べる。一つは物のサイクル、循環ということであり、もう1つはネットワークということである。
 物のサイクルということでは、江戸時代までの日本はほぼ 100%と言っていいと思うが、物を循環させることを基本にして生活が成り立っていた。これは物を増やすというよりもむしろ、今存在しているものを解体して別のものにして、また別のものへ、あるいはもとに戻すというか、そういう形をとって循環させていくということである。ということは、外から入ってくるものが極めて少ないということを意味する。
 例えば、現在でも生ごみなどを農業の方に使って、畑の肥料にしたらいいのではないかということでやっている方もいると思うが、このようなことは、農業の専門家の意見では現在ではもうやめた方がいいというようなことになるそうである。それは非常にたくさんの添加物が食料の中には含まれていて、それを土の中に入れてしまい大変なことになるからである。
 それから、もう一つ、エネルギーベースでの自給率が今41%である。穀物だけでいうと自給率は28%である。つまりほとんど外から入ってくる。日本の中でつくっている面積が極めて少ないところに、外から入ってくるものをまた肥料として土に戻すということになると、窒素が非常に過剰になってしまう。つまり、私たちの時代では自給率ということから考えたときに、どんなに循環させようとしても、その循環のやり方だけ取り入れたとしても循環しないという結果になってしまっているのである。
 例えば、江戸時代のやり方を取り入れるとしても、そのような結果になってしまう。そうすると、実際に江戸時代ではそこの循環がどうなっているかというと、やはり基本が農業にあって、食料を100%自給しているということが非常に重要なことになる。それ以外のものでは100%とは言えない。江戸時代を通して、たくさんのものを輸入しているのである。特に、木綿や生糸や、絹織物は輸入してもだんだん輸入量が落ちてくる。それから、わずかだが砂糖なども輸入しているが輸入量は減っている。このような奢侈品などについては、非常にたくさんの輸入があるというふうに考えてもいいわけだが、そういう奢侈品として入ってきたものを今度は日常的なものに変換して、これを自力でつくっていく技術が開発されるというのが江戸時代の特徴であった。だから、ずっと輸入し続けるということにならない。輸入量が増えていくということにならないのである。輸入はするけれども、それが減っていくということなのである。輸入を減らしていくことによって、今まで輸入していた物の中に存在している技術力を自分の身につけていくわけである。
 そうすると、その技術力でもって、今度は中でつくり出したものを国内の市場で循環させるということになる。そこで循環させるときにどうするかということである。例えば紙であっても布であってもそうなのだが、あるいは日常生活で使うさまざまな道具、当然のことだが、木であるとか、あるいは竹であるとか、そういうものが基本になる。非常に大量の竹が使われる。江戸でも130万人の人口を大量の竹が支えているというような背景がある。もちろん木材も同じである。そういうものは最終的に灰になるわけである。灰になる前の段階でいうと、リサイクルペーパーみたいなものは、当然もう既にあって、何回も漉き返されて、「漉き返し紙」というふうに呼んでいる。出版が非常に盛んだったので、大衆的な出版物が大量に出回っていた。これなどは「漉き返し紙」でつくっている。その「漉き返し紙」が最終的には落とし紙、つまりトイレの紙になるような形で消費されていくが、このように紙というものも多くは最終的には灰になる。
 そして、国内でたくさんのものはつくられるようになっていき、布などは非常に豊かにはなってくるのだが、それが過剰になっているという状況ではどうもないらしい。恐らく、これは着物を持っている枚数などからいっても、決して安くはなかったと思う。安くないものを手に入れて、そして循環させていくわけである。
 例えば、着なくなったものは古着屋に売る。それから、古着屋で非常にたくさんの人が買う。呉服屋と古着屋というのは機能分化していて、多くの人は古着屋で買う。その古着屋で買ったものが今度は解体されて、ほかのものに変身していくわけである。布団になったり、袋物になったりして、だんだんだんだん小さくなっていって、また最終的に灰になる。
 さまざまなものがそうやって灰になるのだが、その灰は「灰買い」という業者がいて、灰を買っていって、その灰があるところでは染料、つまり染め物に使われ、あるところでは肥料として、また畑に戻っていくということになる。
 それから、し尿については、各屋敷、それから庶民の暮らしているところでは長屋に必ずトイレがあった。トイレが常にあるということは、そこに汲み取りに来る人たちがいるわけである。汲み取り人は契約農民なのである。それぞれの屋敷と契約していたり、あるいは長屋の大家と契約していたりするわけで、あと盛り場などにも必ず公衆でトイレがつくられる。これも買い取りの人が来るからそうなる。非常に高い金銭でこれが売り買いされる。だから、ほかの物価の上昇に比べて、江戸のし尿の値段というのの上昇率が高いものだから、し尿値上げ反対運動というのが農民の間で起こったりもするわけである。それくらいし尿に値段がつくということになって、これが当然畑に戻っていくわけで、そのためにし尿のための下水というものは必要がなかったし、川に流されるということもなかった。これは自然にそうなったわけではなくて、江戸という大都市がつくられていく過程で、人口が増えていくにしたがって様々な「禁止令」が出た結果である。つまり、厠から川にし尿を流すことの禁止令が出たり、それから川にごみを捨てることの禁止令などの非常に厳しい禁止令が出されて、そのような行為がなくなっていくわけである。こうして汲み取り方式に移行していくわけである。これは単に規則ということではなくて、経済的に循環していたわけだから非常にうまくいっていた。
 それから、ごみについては、燃やせるものは灰になって戻っていくだけだが、燃やせないものについては、埋め立てが既に行われている。ごみの埋立地がある。ただし、この埋立地はまた畑になる。プラスチックが埋め立てられているわけではないので、これは養分になるので、畑、あるいは普通の建物が建つような場所になって、そのような形で変換していく。
 そういうサイクルというのは、今日の日本のように外から大量の食料を持ってくることによってでき上がっているわけではないので、そのサイクルが特に大きな矛盾を起こすことはない状況である。これは、同じ時代のヨーロッパのやり方などと比べると、非常にはっきりした違いがあって、ヨーロッパの場合には、日本と同様に中国やインド、特にインドの木綿の大量の輸入にさらされていたわけである。これは日本もそうだが、日本の場合には、輸入品を受け入れた後でどのような行動をとるかというと、それをみずからの技術に変換していく、そしてそれ以上輸入しないという方法をとる。しかし、ヨーロッパの場合には、当然同じように模倣品をつくるというようなことは起こるのだが、そのための原料を調達するためのプランテーションを外につくる、つまり植民地につくる。そこで大量の原料を調達して本国に送って工場で大量生産して、大量生産したものを今度は売ることになる。植民地に対して今度は売るという経済の動きの中で成り立っていく。そういうやり方は日本のように、国内の市場を活性化させることによって成り立っていく方法とは全く違う方法だったわけである。
 そのヨーロッパのやり方が、むしろ近代のやり方になってくるので、明治以降というのは、江戸時代の物のサイクルが完璧に崩れていく。外部依存型になって、ほとんど取り返しのつかないくらいになっていく。当時の江戸時代の人口は大体、最初が 2,000万人ぐらいから後期3,000万人ぐらいまでになって、かなりゆるやかな推移をたどっている。恐らく、現在の人口の計算では、2100年ぐらいには日本人口が5,000万人になるそうで、そうすると2200年ぐらいまでには、江戸時代ぐらいの人口になる可能性があるわけである。しかし私たちが抱えている問題は、日本の人口がそうなるのはいいとして、日本の人口が半分になったときには、世界人口が1.7倍と2倍近くになるという問題なのである。食料の危機が、今から20から30年後に迫っているという状況に私たちはさらされているわけである。そういうことを考えると、江戸時代のリサイクルシステムは外から見ると割ときちんとした方法に見えるのだが、そういうシステムをこれからとるということが可能かどうかについて、私はかなり絶望的な気がしている。ただ自給率を上げていくというようなことは可能なのではないかと思っている。しかし、これが国という単位で自給率を上げていくということができるかどうかが問題である。
 それよりももっと重要な単位になるのではないかというふうに考えているのは「地域」である。地域ということと、それから地域を超えたネットワークということである。
 江戸時代にも実はその両方があった。地域的な結びつきというのは普通は村とか藩とかということとして捉えられているのだが、実際にはもっと小さなつながりで成り立っていた。一口で村といっても、その中に、例えば若衆組であるとか、娘組であるとかというたくさんの「組」がある。それから、常時結ばれている、あるいは臨時的に結ばれる「結(ユイ)」という組織のつくり方がある。例えば、屋根を葺くとかいうふうに何年に一回と決まっている場合の「結」もあるし、それから葬式や結婚式のように行事的な「結」もあるが、災害のときのように臨時的に結ぶ「結」もあるし、それは村の中だけではなくて、外からそういう「結」がやってくる。これ「手伝い」というふうに言ったりもするが、臨時的な「結」が含まれるというようなことがある。
 こういう地域的な小さなグループが村の中に非常にたくさんあって、重なりながら生活しているわけだが、もう一つここに「講」というものがある。「講」というのはお金のやりとりをする。要するに何というか、今で言えば銀行のようなところである。必要な人にお金を貸し出すための「講」もあるが、ほとんど無目的な「講」というものがあって、無目的なのだが、実はここでさまざまなことが話し合われている。そして、こういう「講」で展開しているコミュニケーションが結果的には「寄合」と呼ばれる議会に持ち込まれることになる。
 「寄合」という議会は非常に権威があって、よく投票も行われるのだが、投票が行われるときには投票率が100%でなければならないというのが「寄合」という議会である。ここでは決まったことは絶対である。ただし、このような村の現実の生活を支えたり、さまざまなことを決めていくということに対して、それ以外のその上にある行政は口を出せないことになっている。例えば、藩であるとか幕府であるとか、そういうようなところは口を出せない。だから、年貢率の決め方というのも上から押しつけられるわけではなくて、これは「寄合」という議会での話し合いで決まっていくものなのである。
 「寄合」の議会の外に「村方三役」と呼ばれる、これは村の外との連絡係と言っていいと思うのだが、そういう三役がいて、ここの一人が名主とか庄屋とか呼ばれているものである。村長というのが存在しないのである。大体江戸時代には長と名のつくものが存在しない。村長とか町長という組織は、これは明治以降になってできてくる近代的な組織なのである。トップの方でいろんなことをやるのは、大体3人というふうになっている。これは町の場合には「町年寄」と言い、江戸の場合には「町年寄」という人たちが一番上にいるのだが、この人たちも3人である。町の場合にも長がいない。
 「講」というのは実は地域的なものであると同時に、超地域的なものでもあって、中にある「講」は外の「講」と結びついていく。例えば、「伊勢講」なんていうのは、これは中に伊勢田という田んぼを持って、そこの収入を持っている「講」なのだが、その収入は何に使われるかというと、伊勢参りに使われるわけである。ただし、この伊勢参りというのをただ信仰のための巡礼だというふうに捉えるのはちょっと無理があって、村にとっての情報収集でもあるし、他の地域との交流でもあるわけである。そういうふうに外と結びついてネットワークを形成しているというのが「講」の一つの側面である。もともと「講」というのは仏教の用語から出ている。だから、鎌倉時代に仏教が広がっていった過程で、「講」というものが村の中にできていったという経過があるので、もともと全国ネットワーク的な存在なのである。
 そして、もう一つの超地域的なものに「連」というふうに私が呼んでいるものがある。これは象徴的に私は「連」というふうに呼んでいるのだが、現実の名前としては何々連という場合と、何々の会という場合と、それから極めて稀だが、何々社という場合がある。極めて稀というのは、インテリ、知識人の場合にしか見られないので極めて少ないということで、何々社というふうに呼んだりするようなものがある。
 こういう「連」が都市の中に展開しているのだが、これも情報収集のための非常に小さなグループなのである。ただ、江戸時代の小さなグループというのは大体の場合、ネットワークをつくっていることが多い。つまり小さなグループが小さなグループとして閉じていなくてネットワークをつくっている。だとしたら大きな組織にすればいいではないかと私たちは思ってしまうのだが、絶対に大きな組織にしないという特徴がある。人数が集まってきた場合には分裂する。分裂するというよりも他の「連」になってしまう。他の「連」になったとしても、お互いに閉じていないわけだから、いくつかの「連」が一緒に何かをやるということもあり得る。これは同じように何々の会と名づけられたものでも同じことが起こる。
 一方で地域的なもの、一方で超地域的なもの、そういう非常に小さな単位がネットワークされながら、物事が決まっていくとか、物がつくられていくとか、マーケットに入る前の段階で、新しい商品が考案されるとか、そういうようなことが起こっていて、それはいわゆる集団性というのとはちょっと違う。日本人は集団的だというようなことが言われて久しいのだが、私は江戸時代を研究していて、非常に非集団的な人たちだという印象を強くする。一つの目標に向かって、大勢の人が動くという現象が見られないことでも分かる。
 むしろ、今当面の事柄について、一つ一つの非常に小さなグループが動く、実行する。つまり実行グループがたくさんあるというふうに言っていいと思うが、そういうような構成をしている。それと同時に、それ以外の場面を見ると、非常に個人的な、個的なものというか、そういうものが目につく。
 例えば、寺子屋教育などを見てもそうなのだが、寺子屋の教育現場の絵というのは時々残っていて、これは当時描かれたものでないと信憑性がない。後世描かれたものもある。後世描かれたものを見ると、大体、先生が部屋の真ん中の前にいて、生徒たちが全員先生の方向を向いている。こういう絵をみたら必ずこれは後世描かれたものだと思って構わない。江戸時代にはこういうことはあり得ない。私は大学で教室に入るときに、非常に嫌な気持ちになるのだが、学生が全員自分の方を向いているというのは非常に違和感を感じる。
 寺子屋教育の場合には、先生は部屋の隅にいる。なぜ隅にいるかというと、床の間の前にいるので、結局隅になってしまうのである。生徒たちは基本的にはどこにいてもいい。自分の机を持って寺子屋に入って、卒業するときに自分の机を持って卒業する。だから、あくまでも自分の机で勉強するわけである。その自分の机は、もしきれいに並べるとするならば、強いてそうするならば、生徒同士が向かい合う形で、先生から見ると横を向いている状態になる。そういうような絵も見かけないことはないが、むしろそんなふうに整序されていることは少なくて、まちまちに座っている。いろんな方向を向いているというふうに言ってもいいと思う。なぜ、そういうことが可能かというと、先生は生徒のところに行って教える、あるいは生徒は先生のところに来て、聞きにくるという形をとって、個別教育がされているからである。
 教科書の取り合わせについての調査などがあるが、例えばあるところでは、一つの寺子屋、62人の寺子、生徒についての記録が残っていて、一人として同じ教科書の組み合わせはなかったということがわかっている。教科書そのものは出版されているのだが、出版されている教科書が非常にたくさんの種類があって、それを個人の事情によって、組み合わせて使うということになっている。例えば教育現場はそうなっている。一つの寺子屋が大勢の人数を受け入れることができないので、非常に小さな村で5つぐらいの寺子屋があるなんていうことが起こるわけである。
 今、一例としてそういう寺子屋のことを挙げたが、そういうふうに決して集団的な行動をとっているのではなくて、個別的なやり方をとったり、あるいは非常に小さなグループがネットワークされるというやり方をとったりする。そして地域的なものと超地域的なものが組み合わさって動いている。そしてその全体のサイクルが成り立っているというのが、むしろ江戸時代の生活の上での姿だと思う。そして、もちろん行政というか、政府レベルでの構図としても日本国というものが存在しないのである。そういう意識がほとんどないと言っていいと思う。だから、日本のためにという意識もほとんどないわけで、武士階級の人たちに多く見られるのは、自分の藩のために働こうという意識であって、日本のために働こうという意識はないわけである。例えば、私と公というふうに言った場合には、その公というのは、決して日本を指すということはあり得ない。国という言葉一つとっても日本を指すわけではない。自分の生まれ故郷を指すわけである。
 そういうような従来の日本人の考え方というものが、私はもしかしたら、これから非常に重要になってくるのではないかと考えている。そういう意味で、物の循環の基本の形や、あるいは人間関係、関わり方の再編成があり得るとしたら、どういう形があり得るかなどを、江戸時代と今日のというか、これからのということとの関わりとして、いつも考えている。(拍手)
田中優子委員
 
田中優子委員

 

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