会議記録

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第6回(平成11年11月10日)


2−2.ショートスピーチ (上山信一委員)
 私は本業が企業の改革で、大企業のリストラを中心にやっている。そういう暮らしを毎日していると、タクシーに乗ればタクシー会社の経営が気になり、レストランに行けば厨房の中の方が気になり、なかなか心が安らがない。昔、役所に勤めていたので、最近は役所のことが非常に気になる。行政改革や国の経営に大企業の手法を使うとどうなるのか、についても、半分知的なゲームとして、いつも考えている。
 さて今日は「次世代の暮らし」を「パブリック・マネジメント」という視点から考えたいと思う。
 日本には官と民という区分があり、あるいは公と私という区分があるのだが、本当の意味で、世の中全般のパブリックというものを考える枠組みというのは、どうもあるようでない。すべてが官になってしまって、公のことというのは、すべからく官になってしまう。江戸時代とはうって変わった姿になっていって、そこのところをもう1回復興する必要があると考えている。私はパブリック・マネジメントもルネッサンスが必要だと思う。
 それで、そういう意味でパブリックというのをマネジメントするとどうなるのかということについて述べる。
 まず最初に、現在の世の中のパブリックなものをたなおろししてみる。
 一番最初に見ないといけないのが、今いろんなことをやっている行政分野である。日本では、防衛というのは、国が全てやるものだというふうにみんな思っているし、警察というのは都道府県がやるものだというふうになっているし、消防は市町村がやっている。ところが海外に行けば、必ずしもそうでなく、役所の管轄というのは極めてフレキシブルになっている。また、どこの行政区にも属さない地域というのがアメリカにはある。日本の場合は、日本全国隅々までどこかの市とか町とか村なわけで、米国ではそうでないところは一杯ある。世界中を見れば、むしろそういうのは当たり前であって、どこの国にも属さない地域というのはないが、どこの市町村にも属さない地域というのは一杯ある。
 パブリックなサービスの在り方を考える時には、「経済原則」というものを物事の根っこに据えるべきだ。警察というのは、これは泥棒が発生すると5分以内に行かなくてはいけないので、こういうものは非常に小さなコミュニティーで経営するべきである。消防というのは、これは多分、東京なんかうまい例だと思うのだが、これはかなり広域で運営した方がいい。でないと、阪神大震災のように大阪の消防車が神戸に入っていいか悪いかと議論しているうちに、被災者が増えるということになってしまう。
 それから、福祉、教育。これも比較的小さい単位で経営した方がいい。医療とか雇用政策あたりからちょっと広がって、環境、軍事、外交、金融、この辺になると、国とかあるいは国を超えたレベルという広がりになってくる。
 このようにパブリック・サービスの「最適規模」という議論をまずちゃんとするべきだ。今の世の中を見ていると、市町村の合併をしようとか、都道府県を足して道州制にしようとか非常にいいかげんなカタチについての議論が先行している。パブリック・サービスのあり方を議論するのが先に来るべきだ。単純な合併論は、銀行を3つ足せば「よくなった」と錯覚するの向きが多いが、これと同じぐらい、いいかげんな議論だ。そういう意味では、私は合併反対論者だし、道州制にも反対だ。日本は明治維新のときに各藩が全部一緒になって、EUのような日本連合をつくったわけである。だから、ヨーロッパのEU統合よりも100年以上早くそのような立派な状態をつくったのに、なぜそれをまた割って、アメリカのような不便な連邦制(道州制)にするのか。形式的制度論というのは間違いが非常に多い。議論はまず経済原則から始めるべきだ。
 それで、どこからスタートするかというと、学校にしろ、消防にしろ、何にしろ、お客さんというのは必ずいる。その人たちに対するアカンタビリティーが発揮されているかどうか、それを評価するところからスタートする。でないと、羊羹の切り方のような制度論をいくらやっても、「いや、おれはそう思う」とか「そう思わない」とか「過去の経緯が」という議論になるので、とにかく数字でばっさり切ってみたらどうかと思う。これが「行政評価」という、私が以前本にまとめた手法である。
 「行政評価」というのは、簡単な話で、民間企業の経営もそうなのだが、経営の状況をお客様の立場から見ようというものだ。ちなみに、お客様というのは株主と利用者の2種類いる。
 例えば、ユーザーの視点から見て、コミュニティーセンター、公民館、これがどういう状況になっているかというのを客に評価させる。アンケートとインタビューを手がかりに、図の横軸に重要だと思う程度を、縦軸を満足度とする。当然、重要なことが満足ということになればいいわけである。あるコミュニティセンターの評価結果を見て面白いのが、一番重要とわかったのが、実は駐車場、駐輪場であったということ。これ自体一つの発見なわけなのだが、これに関しての満足度は非常に高い。重要だけれども満足度が低かったのが、教室・講座の中身、案内情報などである。
 ハードもソフトもどっちも割と重要だというふうに利用者の方は思っているわけだが、満足度が高いのはハードで、ソフトに関しては概して低い。これは、この例に限らず、すべからく日本の公共サービスの大体のパターンはこうだろう。しかし、実際にこういうデータが出てくれば、もう建設工事はやめて、予算をむしろ図書の充実の方につけようとかの議論が始まる。数字がないので議論が始まらないというのが、今の行政改革の難しさだと思う。
 次の図は、ニューヨークの例だが、地下鉄の価値評価。1ドル50セントの均一料金である。だが、各路線ごとに本当はいくらの値打ちがあるのかというのを、これはNPOが調査して、インターネットで随時公開する。そうすると、各路線の通信簿がついていて、一番下の19位に至っては、45セント分の値打ちしかないというのが世間に公表される。これで競争原理のようなものが行政の中にも持ち込まれるわけである。だから、数字をとって公表すれば、競争原理はパブリックなサービスでも働くということである。
 最近、特に90年代に入ってから、アメリカでどんどん起きている現象だが、多くの公共サービス、美術館、博物館、老人ホーム、などがすべて供給過剰になっている。アメリカの老人ホームは、昔は入居者が列をなして待っていたわけだが、今はホームが3年前から老人の取り合いをしている。そうすると、おのずと企業経営的なサービス改善とか動向調査というのが始まったわけだ。恐らく、日本も今後こういうふうになってくると考えられる。企業の経営手法をどんどん取り入れて利用者のニーズを調整する。
 ちなみに利用者のニーズ調査だけに頼ると、利用者はコストのことは考えないで、「もっといいサービスをしろ」としか言わない。コストサイドは納税者の方がチェックをしなくてはいけない。それをやる仕掛けが、「プログラム評価」である。図は、例えば小学校の教育の例で、プログラム、つまり施策の目標というのがいくつかある。プログラムというのは、例えば私が文部大臣だったら、パソコンだの英語教育だの、品川区みたいな自由選択制とかいろいろ思いつく。そのプログラムの各々について、実行に必要な期間、何を目標とするのかというアウトカム、それに、その実現のために行政がどういう仕事をするのかというアウトプット、それとインプット(予算)を明示する。行政評価というのは、この3つをきちんと数字で出して、目標と計画を立てて、達成度を測ることをいう。これは企業の事業計画と全く同じことをパブリックな世界でもやろうということである。インプットというのは、企業で言えば投資、アウトプットは売上高、アウトカムは利益に相当するわけである。利益の出ない経営はあり得ない。ところが、従来の行政というのはインプットとアウトプットを出して、足りないものをどんどんつくっておけば、それでいい時代だった。だが、こういう時代になってくると、アウトカムのところを見ないといけない。これが「行政評価」というものの新しさである。
 ともかくこれからは、パブリック・サービスの経営判断には、こういう基データがないと議論が始まらない。
 次に、そういうデータをもとにして、どういう発想で経営改革するかということである。
 私はパブリック・マネジメントの4つの「経営原則」というのを提唱している。一つは顧客志向。この言葉自体当たり前なのだが、例えば、おじいさんが市役所に年金をもらいに来て、ハンコを忘れてきてしまったとする。通常日本の役所だと、「ごめんなさい、もう一回出直して来てちょうだい」となるわけだが、顧客志向というのは違う。「おじいさんのおうちはどこですか。私が帰りに寄ってあげますよ。お金はそのときに渡します。ハンコをちょうだいね」というようなことを職員が自分の裁量でやっていい。ルール違反かもしれないが、それで処罰されるというようなことはない。法令を守る、守らないということよりも、お客の満足度を高めたということで評価される。
 行政官というのは、私も昔役所にいたので非常に感じるのだが、人柄的、気持ち的には非常に優しい人が多い。しかしながら、法律という枠をはめた途端、冷血動物になってしまう。そこでこの法令遵守というところを徹底的に壊していけばよい。逆に言うと、行政マンの裁量を信じるということだ。自由にやらせればろくなことはないという発想に立つから、法律がガチガチになるわけである。むしろ逆に信用して権限を与える。人に喜んでもらえる公共サービスというのは、本来非常にハッピーな仕事であるから、任せた方が効率は上がるわけである。これは、アルバイトとか企業の経営の実態を見ても分かる。なるべく現場に任せようという話とほぼイコールである。
 それから、第2に予算消化の慣行は法律違反だ。予算が余ったので使わなくてはいけない、でないと来年はまたもらえないという制度自体がいけない。脱税が犯罪であれば、予算消化も犯罪ではないか。
 また、現場の自立経営というのは、これは先述の窓口の例のように現場で自由にどんどん考えてやっていいという考え方である。映画の『スーパーの女』というのがある。これは現場改善活動をうまく教えてくれる映画である。私はいつもこの映画を公務員の方に、ぜひ研修用にしてくださいと、いろんなところで勧めている。
 ちなみに、『スーパーの女』の対極にあるのが『水戸黄門』である。これは実は、上意下達主義の極めつけである。目の前に問題が起きているのに、誰も何も言わない。ご老公がくるのを待っている。ご老公は問題解決を権威によって行う。問題の根源は、悪代官という個人に全部押しつけて、悪代官を更迭して一件落着として次の案件の処理に移る。これでは根本的な改革は絶対にできない。私は『水戸黄門』は放送禁止にするべきだ(笑)と冗談でなく思う。
 あれがある限り、日本はよくならない。行政改革のためには『水戸黄門』が障害であり、司法改革のためには『大岡越前』と『遠山の金さん』が障害である。ああいうものを見ている限り、日本人の近代的な経営感覚は育たないというふうに思っている。
 問題は具体的な方法論である。こうしたらいい、ああしたらいいという議論は、既にいろんな方が言っている。問題は、どうやって、そしてどこから変えるのかということである。私の提案は、「この国のかたち」論はもうやめたらどうかということ。司馬遼太郎さんは死んだのである。「この国のかたち」論というのは、「計画行政」の生まれ変わりでしかない。将来日本はこうする、ああするというビジョンは、所詮抽象的なビジョンであり、現場発のものではない。
 では、理想はどういうものかというと、具体事例を実際にどんどん積み重ねて、そこからイメージを感じとる。今後の日本のパブリックマネジメントの参考になるいい例というのは一杯ある。例えば、大学であれば慶応大学の湘南藤沢キャンパス、これは加藤寛さんがつくったわけで、それから多摩大学、宮城大学、これは野田一夫先生がつくられた。それから、武蔵野市の例えばムーバスがある。これは、ワンコイン100円で200メートルおきの停留所があって、15分間隔で朝から晩まで動いている。目的は家に閉じこもりがちな高齢者の人たちを町に引っ張りだそうということである。3年目までは赤字だったわけだが、今年から黒字転換をして、商業的にも十分ちゃんと成り立っている。こういうような例が一杯あるではないか。それから、飛行機だって、スカイマークエアラインがあるわけだし、NOVAの駅前留学だって、将来の大学のあるべき姿の例として非常に参考になる。古い例で言えば、ヤマト運輸の宅配便もある。パブリックなサービスの在り方を考える上で参考になるものは世の中に一杯ある。要は、それらがなぜいいのか、あるいは、なぜそのようなものが生まれてきたのかという分析をもっときっちりとやっていくということだろう。
 私は将来の日本はこうであるというような絵を描くという作業自体、非常に難しいと思っている。むしろ、現実をどんどん変えていくしかない。仮想敵は「計画行政」という発想自体であって、これをとにかくやめなければならない。どういうふうにやめるかというと、現場でいろんな創意工夫というのをどんどんさせる。イノベーションというのは現場でしか起きない。企業においてもすべてそうである。イノベーションというのは現場の第一線で起きるわけで、それがムーバスの事例のようなわかりやすい成果を見せつける。するとうわさになってある方がスターになる。そして、よその市が「Me too」プロジェクトとして、これをどんどんやり始める。そうすると、これはブームになる。ムーバスがデファクトスタンダードになるわけである。そうすると、政府のお墨つきで、あれは運輸省も昔から考えてまして、というようなことを政府が言うようになる。最終的に制度変更とか法律変更というのが起きる。このプロセスをいかに生産性高く、たくさん、分散多発的にあちこちで起こすかということが、私は行政改革の唯一の方法だろうというふうに思う。
 今の日本の行革は、逆をやっている。例えば、誰か大学の先生か役人がいいアイデアを思いつく。日本もグリーンツーリズムをやろうと思いつく。この思いつき自体は非常にいいと思うが、しかしすぐ審議会を開いてしまう。それで何か提言書をつくる。プレスのキャンペーンをして、これからはグリーンツーリズムというようなブームが起きる。次にできるのが法律である。法令遵守主義の国だから法律つくらないと始まらない。その次に始まるのが予算のばらまきである。だけど、よく考えてみると、グリーンツーリズムを実際にやろうという担い手があらわれる前に、法律と予算というのができてしまって、それを誰に消化させるかということで、相手探しに必死になる。これはまさに供給側のおしつけの論理そのものだ。ソ連の計画経済が破綻したのと同じプロセスで、日本の「計画行政」は、まさにこのようにして破綻しつつある。
 ちなみにベンチャー振興案というのは、この手のダメなパターンの極めつけだと思っている。ベンチャーというのはキャピタルはあまり不足していない。要はベンチャーの担い手の人材が不足している。なのに、政府はお金を足すとか技術を支援するとか、金利をまけるとか、そういう議論をどんどんしている。片や担い手の方はいない。ちょうど中国の家族と同じで、両親と祖父母の合計6人で一人の娘の成長を見守るというのと同じである。外野の方がうるさくて、当事者がいないというのが今のベンチャー政策だ。
 要するにパブリックな世界のルネッサンスを起こすには、何がイノベーションかをよく見きわめないといけない。そして、次はアントレプレナーを見つける。加藤寛先生とか野田一夫先生というのは自分で出てきたわけだが、その種になりそうな人というのは、いろんな業界にいる。どこかの市立図書館にもいるだろうし、そういう人たちをうまく引っ張り出していくのが行政だ。
 たとえば、「醒めたドンキホーテ」とでもいうか、本人は「趣味ですよ」と謙遜して、ちょっと斜交いに構えながら結構熱い気持ちで地に足ついた改革に取り組んでいる人たちである。こういう人たちがあちこちの分野、特にまちづくりなどに特に一杯いる。こういう人をまず発掘する。それから、この人たちの分や、特にアイデアはいいのだが、何を言っているのかわからないことが非常に多い。だから、それを支援する会というか、それをうまく盛り立てるボランタリーなコミュニティーや経営スキルを補ってあげる必要がある。いい意味での「旦那」が周りで盛り立てる。私はベンチャーキャピタリストという言葉と同じように、ソーシャルキャピタリストという言葉があると思う。ソーシャルアントレプレナーが出てきたときに、ソーシャルキャピタリストが盛り立てるというようなことが必要だろう。
 これからは、やはりIT―Information Technologyがいろんな意味で重要である。特に、ボランタリーなネットワークをつくる上では不可欠である。
 それで最終的に思うのは、この国の改革が進まないのは、アントレプレナー不足というのもあるのだが、やはりプロを育てる社会インフラがないというのが大きな問題だと思う。ソーシャルキャピタルという言い方を敢えてしたとき、3段階のものが必要だと思う。
 一つは、学校をつくらないといけない。存在自体が時代遅れの法学部や、とってつけた社会人大学院では全然だめだ。やはり経営やマネジメントというのをパブリックにはめるとどうなるかということを考える学校というのをつくらないといけない。アメリカにはマスター・オブ・パブリック・アドミニストレーションズというのがあって、私も昔行ったのだが、各州立大学には、必ずパブリック・マネジメントの専門学校がある。そこの卒業生がシンクタンクや政府に入っていく。政府で難しい話が出てくると、シンクタンクと一緒に相談して問題解決する。それから、シンクタンクのOBが政府の高官になっていく、あるいはパブリックマネジメントスクールの卒業生が政府の高官になって、しばらくすると、だんだんノウハウが古びてくるから、実務型の学会をつくって、そこに集まってリフレッシュする。アメリカには例えばCUED(カウンシル・オブ・アーバン・エコノミック・デベロップメント)とか、いろんな実務家が集まった学会があって、臨床研究発表会みたいなものを2泊3日でやっていたりする。こういうものをやはり日本でもつくらないとなかなか進まない。
 医療の世界がいい例で、医学部という専門教育機関があって、プロフェッショナルスクールがある。その上に附属病院があって、これがシンクタンクみたいなもので、難しい事例をそこで臨床研究する。上にその専門の学会があって、開業医の先生たちも最新の技術を学びに学会にやってくる。片や日本のパブリック・マネジメントは、まるでダメだ。東大法学部を30年前に卒業した人が、役所の中だけでシンクタンク的な機能を担おうとするから、政策のレベルが低い。学会的な活動もほとんどない。霞が関を名前だけでなく中身の上でもまともシンクタンクとして再興するにはパブリックマネジメントスクールをつくらなくてはいけない。実践的な学会やフォーラムもつくらないといけない。
 若干遠回りだが、行政改革は現場の改善活動から始める。それからアントレプレナーというのを見つけてどんどんやらせる。今の政府の機能や役割の改良をめぐる議論や、あるいは「この国のかたち」をどうする、こうする、という議論は、私は余り成果を生まないだろうと思っている。 今日はまだ試論で、なかなか真意をお伝えするのが非常に難しいが、着想ということで論じてみた。(拍手)
上山信一委員
 
上山信一委員
 
上山信一委員
 
上山信一委員
上山信一委員

 

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