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3.ディスカッション
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【嶌委員】 |
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上から、つまり国や行政がコミュニティや個人に制度や規制を押し付けるのではなく、コミュニティーや個人から、つまり下からモデルをつくって、それを全国に広げていく方が効果的であるという話が中心だったように思う。
既成概念に捉えられない優れたプロジェクトをモデルにして個別具体的に変えていかないと、世の中変わっていかないという意見が多かった。しかし、一方で国全体の戦略も必要ではないか。江戸時代では上からと下からの2つの手法がうまくかみ合っていたように思う。田中さんは、江戸時代の日本では個が重視され、集団的ではなかったとおっしゃった。庶民の生活は個人を中心にして動いていたと話されたが、むしろ武士は集団的で戦略的に動いていたのではないか。
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【田中委員】 |
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例えば村は一種の企業の形態をとり、村は単なる生活の場ではなく、村で物を生産していかなければならなかった。さらに、紙や布などを生産している場合は、それを商品として販売していかなければならない。そういう側面から考えると、例えば村が決定したことに従わないで、個人が勝手に利益を求めたりすると、全体が崩壊してしまう可能性がある。このような場面では全体の動きが重視された。確かに武士階級は藩というまとまりで利益を求めなければならなかった。経済バランスをいつも考えていなければならないという意味では集団的に動いていた。
私も「水戸黄門」、「大岡越前」、ついでに「日光江戸村」の放送を禁止すべきだと思う。(笑)江戸時代に対する非常に大きな誤解のもとになっている。それらの時代劇で江戸は上意下達しかなされていないかのように描かれている。実際の江戸時代における生活の基本は、毎日生きていくためにはどうしたらいいかということであった。物の循環であるとか、それから環境、当時環境問題という言葉はなかったが、常に環境に配慮して生活していた。洪水が起きないようにするには、山の中の木を伐採してはならないとか、どこまで上流の木を切っていいかとか、常に常に考えていなければならなかった。農業をやっている人たちも考え、藩の官僚も考えなければならなかった。幕府も木材の伐採を禁ずる指令を出すこともあった。また商人が率先して開発不履行をとなえたりした。
現実生活をどういうふうに運営していくかを中心に考えると、上意下達の、あるいは集団的な動きはできなくなる。 |
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【嶌委員】 |
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スカイマークはベンチャーの一種モデルになると思うが、下から何らかのモデル的なものをつくりながらそれを世の中に広げようというときの難しさがあったら教えて欲しい。 |
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【澤田委員】 |
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難しさはある。やはり下からの意見、声をきちっと上が吸い上げるべきだと思う。ただ大きな方針は上が出すべきである。例えば、環境をよくしよう、リサイクルに積極的になろう、もっときれいな国にしようとか。個だけに任せておくと、一企業、一建物、一デザインはすばらしくても全体を見るとちぐはぐな感じになる。また全体がある程度の方針を立てなければ、個は動きにくい。個は個で全体の方針にのっとって、いいデザインをするとか、いい事業をするとか、いいアントレプレナーでいくとか、それなりの可能性が全体の枠組みの中にも見い出せる。しかし上から規制されたり、上からがんじがらめにされたら、いいものはできない。大きな方針は国や行政等上がきちっと立てる。それにのっとって下が自由にまちづくりをしたり、アントレプレナーにしろ、やっていく方が全体と個のバランスがとれると思う。
日本は環境、リサイクル技術、町のデザインもそうだが、個々を見ると優れている。しかし日本全体を見ると、やはり後進国という感じがいなめない。先進国というか、本当に住みやすい国、企業にとっても事業がしやすい国になればと思う。
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【嶌委員】 |
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建築の設計を行うときに、全体という問題と個という問題との兼ね合いはどうしているのか。
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【長谷川委員】 |
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公共建築や土木の進行はとても中央集権的だったので、段々現地に根差すことなくコンサルタントされてしまった。一方、保存すべきものも現場に居合わせた人たちだけがわかって、観光で訪れたりする外部の人たちに、その環境がどれほどデリケートなものであるかという知識、或いはその環境について知るチャンスを閉じてしまったようである。
今は材木を1つとっても、関東の家に関東の材料を使うわけではなく、生産地が国内でなく、外国だったりする。木材の生産地がどうなっていて、どんなに環境を壊しているのか、どんな無駄が生じているのか。生産から施工まで全体が見えにくい時代が長く続いていると感じる。 |
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【嶌委員】 |
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行政の中央集権的体制が現場を見えにくくしている状態を生んでいるのか。 |
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【長谷川委員】 |
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そう思う。行政が霞ヶ関ばかり見ている体制があちらこちらで問題を引き起こしてきた。例えば海水浴場があって、隣に漁港があって、工業団地があって、それぞれの用途で海岸がぶつ切れになっている。漁業の人たちにとって海は狭くなり、自然に学ぶチャンスも減り、人々の生活から水辺は遠のき、距離をつくってしまっている。連続すべきウォーターフロントを分断にしてしまった現状。こうした環境設計にも国は大きくかかわってきたのではないかと思う。
ごみについてもう1つ話をする。藤沢の湘南台文化センターでは、地下に埋めてしまい、グランドレベルを広場にし、屋上を緑で覆った。建築物全体を広場のようにした。24時間開放され、デートに来る人もいれば、朝散歩に来る人もいるが、いたずらされたことはない。
夏休みになると藤沢では小学生が海岸や河川に行って掃除をする。これはおかしいと、自分が出したゴミは自分で始末しましょうという子供達の意見で広場にごみ箱は置かれないことになった。わたしはいろんな人と話し合いをするのだが、一番素直に考え、意見を言ってくれるのは小学生で、中学生はもう親と同じことを言う。(笑)ごみ箱を置かなかった2年間の間、ごみは出なかった。でも市会議員のごみ箱がないという発言でごみ箱が置かれるようになった。ごみ箱にぽんと投げて入らなかったものがせせらぎに流れたり、ごみ箱があると平気でたばこを吸い、吸い殻を落す。また子供たちに言われてごみ箱を撤去するのだが、市会議員の発言でまた置くことの繰り返し。子供たちの意見、子供たちと話し合って決めたことが、担当者が変わると忘れられる。
新潟市民芸術文化会館では、強く主張したのでごみ箱は置いていない。ゴミもたばこも全く落ちない。そのうちまた議員が来て、ごみ箱がなくて、たばこを吸うのに困ったとか言うんだろうと思う。 |
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【嶌委員】 |
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江戸的リサイクルの再現は、現代ではもうほとんど絶望的だとおっしゃっていた。松田さんのおっしゃっていたヨーロッパ的、アメリカ的なリサイクルにならざるを得ないのか。 |
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【田中委員】 |
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先ほど私が言ったのは、し尿とか生ごみを畑に戻していくという、そのやり方が不可能になっているということで、紙とか布の事例で話ししたように、物のリサイクルも完璧にされていた。ちょうどそれに当たると思う。松田さんは、例えばガラス瓶であるとか、そういう物のリサイクルの方法について世界の事例をお話になった。それからもう1つは、先ほど8億円が節約になった、あるいは収益があったというお話の中に、リサイクル品をつくるための費用は入っているのだろうか。そういう費用が経済の中に組み込まれないとうまくいかないのではないかと思っている。 |
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【嶌委員】 |
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ある程度市場メカニズムの中にリサイクル品をつくる費用だとかを入れていかないとどこかで破綻するのではないか。
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【松田委員】 |
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当然そうだと思う。いい仕組みをつくっていけばできると思う。いい仕組みをつくるための政策をつくることが私たちのやりがいである。
現在、農水省の生ごみの堆肥化政策を検討するグループに入っている。自給率を高めつつ、余ったものをごみにしないで、有効利用し、日本が自立していく方向に政策を展開していこうというのが主旨である。ヨーロッパは堆肥は無害なものをつくることが当然で、食生活のあり方もすべてチェックし直す必要がある。 |
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【坂井委員】 |
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モーターショーの先回のテーマが環境だった。いかにガソリン燃料を節約するかとか、あるいはCO2
をいかにコントロールして設計をするかがテーマだった。今年は欧米はバブリーな大きなエンジンで、ギラッとしたものを出してきた。日本は不景気が理由なのか、小さい電気自動車が1台
400万円という作品を出していた。2つの全く違う方向性を見て自分の中で収拾がつかなくなった。一進一退というか。日本は景気戻ったらこういう議論はどこへ行くんだろう、やや気になる。 |
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【嶌委員】 |
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小さいネットワークをどんどんどんどんつなげていくということにより、世の中を変えていく話があった。竹中さんが身障者のネットワークを立ち上げたとき、本当に大変だっと思う。このようなネットワークが広がって、国を変えていくような力になっていくのではないか。
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【竹中委員】 |
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リサイクルとか物を循環させるというお話が出た。環境にやさしいという言葉も出てきた。それらの目的は、人間が生きやすくするためで、環境問題やデザインだけ論じられても、人間が粗末にされては本末転倒である。私は障害者、女性、高齢者という分け方をやめてほしいと思っている。
アメリカのテレワーク関係者に、例えばNPOとか州、大統領委員会、あるいは企業の方にお話しを伺うと、アメリカのテレワークはチャレンジドとか女性とか、眠っている経済的な力を社会に出そうとすることから、それと通勤の車、ガソリンとか廃棄物とか、空気が汚れるとかいうような環境問題を解決しようとすることから始まったと聞いた。アメリカでチャレンジドのテレワーク研究、開発に熱心なのは国防省である。国防省のキャップというプロジェクトがあって、そのキャップのプロジェクトリーダーが国防省のナミねえみたいなおばさんで、(笑)すごい意気投合してしまった。来年ぜひ日本にお招きしたいと思っている。つまり国防の一歩は人の力をどれだけ社会に出せるか、誇りを持った生き方ができるように支えることである。これが国防省の仕事だとおっしゃった。日本での防衛は戦争議論や殺すとか死ねとかいう話に集約される。そうではなくて、どうやってよりよく生きさせるかが国防の一歩であることに感銘を受けた。
環境を良くすることに知恵を出せる人は、1日1時間でも2時間でも知恵を出す。デザインができる人は持てる才能を出す。このような考え方が障害者にもあてはまる。体に重い障害を負って、まばたきしかできない、今の日本の医療では、「かわいそうに、この人まばたきしかできなくなりました」と言うのだが、私が見ると「まばたきもできる人」である。では、まばたきでどこまでその人の残された記憶や、持っている経験が世の中に生かせるか。私自身が万一そうなったときに、今はしゃべるうるさいおばさんやな、言われているのだが、えらい目のうるさいおばさんやなと言われるような日が来て(笑)、自分の口のかわりに目で同じことができるようになったらうれしいと思う。
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【澤登委員】 |
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1人が生きる力、自給力を考えなければいけないのではないか。それぞれが専門深化しており全体が見えにくくなっている。しかし、全体が見通せるような、生きる力つまり総合力、総合学を学ばなければと思う。86歳の女性の企業家が、健康と介護と環境という問題をテーマに紙おむつの生産に取り組んでいる。現在、紙おむつの市場が10兆円で、高齢化により、どんどん拡大してゆく。今は、ほかの国の木を切って、それを原料に紙おむつを作り、使い捨てている。生ゴミとして扱われている。今後、高齢者人口の増大を考え合わせていくとその関連課題は大きい。このような自然破壊は許されない。彼女は新素材を使いながら、試着する人も着ごこちが良いものを考案した。循環型社会への試みでもある。
彼女は企業の方に一緒につくろう、売ってほしいと呼びかけているのだが、だれも手を貸さない。企業は目先の利益のみ求めて事業を行いがちだが、総合的な物の見方をしたら、本当に今、何をすべきなのかが見えてくるのではないか。
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【嶌委員】 |
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コストと市場経済という問題は非常に難しい。最近は環境がこれからの将来の産業と言い出しているが、市場経済に乗る環境と乗らない環境がある。マクロから見て、本来人間がやるべき、社会として取り組むべき問題と、あるいは行政としてコストをかけてもやるべきことと市場経済との関係をどういうふうに考えていったらいいのか。
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【加藤委員】 |
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環境問題に限って言えば、本来かけるコストをかけてないという、突き詰めるとそれだけの話になる。さっき紙おむつの話が出たが、昔は母親が縫って、それを洗っていた。それが今は使い捨て紙おむつになり簡単になった。しかし、恐らくその背後に物すごいエネルギーとコストがかかっている。我々は使うところだけに特化しており生産する際のコスト、使い終わった後、捨てて処理するという労力が見えてない。
技術が発達した反面、使用前後でかかるコスト、労力が見えなくなった。石油を採掘したり、木を伐ったり、捨てるために燃やしたり、水を使ったり。水とか土とか空気とか、ただだと思っていたものを、実は大量に使っている。そのコストが入ってないということなのだと思う。それが長い間に積もった結果が環境問題として顕われている。「環境にはやさしい」という言葉は私は大嫌いだが、いわゆる「環境にやさしい」ものには、税金かけないとか、そうではないものは、環境税的な発想で課税する。そうやって現在かかっていない「見えないコスト」を市場メカニズムにとりこんでいけば、環境の負荷の低いものが選ばれるようになるだろう。
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【嶌委員】 |
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やり方によっては、最初はコストかかってもいずれ市場経済になじんでいくだろう。
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【加藤委員】 |
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そうだと思う。その枠組みは恐らく1つの国だけでは解決できない。地球全体でつくらないといけない。本気でやろうとすると恐らくその国や企業、産業の競争力は落ちる。アメリカがその典型であるが、立派なことは言うけれども実行はしない、ということが生じる。自分だけではやりたくないとどの国も言い出すと結局うまくいかない。誰もやらないとみんな最後は共倒れということになる。
澤田さんから全体の計画とかプランをやっぱり誰か決めないといけないと言われた。環境の問題もそういう意味では同じだと思う。個々の動きは大分出てきているが、それがまだつながっていない。今からそれを体系化していくことが大事だろう。
田中さんのお話で、江戸時代は毎日生きていくためにどうするか、そのための仕組みづくりが基本だったというのが非常におもしろかった。我々ふだん生きるのが余りにも簡単で、簡単だから世の中全体のことやそこでのルールを考えなくてもよくなってしまっている。個に閉じこもってしまっている。環境の問題でも本当に何とかしないと、ひょっとしたらばたばた死ぬかもわからないとなると、自分のこととして本気で考えるだろう。今はまだ、他人事で、どこか遠い所のことという雰囲気が強い。例えば地方自治体、町でも市でもそうだが、今財政が非常に難しくなってきている。とことん放っておけば、金がなくなって、ごみ集めもできなくなる。そうなると住民も町や市など全体のことを自分の事として考えざるを得なくなる。ひょっとしたらそういう手段しか残ってないのかもしれない。誰かがソーシャルアントレプレナーというのか、イニシアチブをとって、強烈な意識を持つと同時に、周囲の人が問題意識をもつと具体的な事が始まると思う。突き詰めると、身近に問題が見えるかどうかということが最も重要なカギといえるのかもしれない。 |
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【嶌委員】 |
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技術で解決できるのだというのが、ここ数十年の1つの思想であった感じがする。エネルギーの問題にしても何にしても技術信仰があった。今後も技術に頼って解決するという発想なのだろうか。一方で技術に対する不信感もある。
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【林委員】 |
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技術というよりは、むしろ社会的なことをやっている。具体的にはコミュニティーとつきあいながら、どういうふうに自分たちで自分たちの問題を解決していける力を育てていくか。全体の計画を余り信じていない。田中さんの寺子屋の話と同じで、要するに一人一人の能力とか、進捗の度合いとあわせて、教育していくとか、そうしないと効果は上がらないと思う。
コミュニティーも全く同じである。イギリスで1週間ぐらい缶詰めになって、まちづくりNPOと議論した。彼らはコミュニティカルどんなスキルを持っているかとかいうこと十分よく踏まえた上で、そのコミュニティーで何をやったらいいのか考えなければならないと言っていた。アメリカではコミュニティーのキャパシティーという言い方をする。コミュニティーの中でどれだけの力が培われているか、要するに自分たちの問題は自分たちで議論しながら、何か意見をまとめていくだけのノウハウを持つに至っているのかどうか。ワークショップなりなんなりの方法を習得してしまえば、別に大したことではないのだが。地域の中に、自分たちで自立できる組織を育てているかどうかで違う。コミュニティーの中で、自分たちにとって必要な1つ1つのソフトなエレメントを育てる機関が重要でそれを組み立て、あるシステムにできるかどうか、これは一人一人の人間と全く同じ。一人一人が持っている能力をどういうふうに発揮させるかと全く同じである。1本の道路をつくるときに、一体そこでどういう議論をしながら、その道路について提案し、専門家や行政との間でやりとりをして、その1本の道をどういうふうにつくっていくのか、あるいはつくらないのか。その1本の道をつくるにせよ、つくらないにせよ、それについて一連の議論をすることで、地域のソフト的なキャパシティーが育つ。たとえ道路ができなくてもそういうキャパシティーが育てば、大成功である。
何か物をつくるという考えではなくて、物づくりを通して、自己解決能力、あるいは自分たちの情報力、自分たちのネットワークの力をどこまでつくれるか。物をつくるを通して、一体その地域の人たちの力がどれぐらい発揮でき、そのキャパシティーがどれぐらい育っていくか。
最近、娘もスーパーに行って、「あっ、これは北海道から来ている。遠過ぎる」と言って買わない。(笑)。アメリカのミネソタで話を聞いたら、どれくらい距離と時間をかけて、あるいは距離と燃料をかけて持ってきたものかを指標にして、それを商品に添付している。その指標を見て買わないという人が出てくる。全体の状況が見えやすくすること、一人一人の判断にゆだねることに、全体の計画を考えるときの秘密がある。あくまでも非常にの小さい単位で物事を考え、解決を考えるのが江戸時代の原則だった。ハイテクの世界も同様である。ハイテクの原理と基本的な歴史的な中で培われたある原理は、どこかで突然共通し、また21世紀的であると思う。
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【嶌委員】 |
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田中さんがおっしゃった「結」「講」「寄り合い」「連」は、コミュニティーが自分で自分の評価をする力を持っていたのだろう。上からのお達しが合わないときは、はねつけるだけの力を持っていた。受け入れられるものだけある程度受け入れる。大量生産、大量消費の文化の中で、この関係が分断されてしまった。コミュニティが受け入れらるか否かの判断如何に関わらず、公共が勝手に公園地区にする、ここは工場地区にすると決めている。だからもう1回、場の力というのか、コミュニティーの力を集めて、トータルに全体をみていくことが重要と感じた。 |
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【加藤委員】 |
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前回、公益国家独占主義という言葉を使った。明治以降は、公益を国家が独占的に決める、世の中に役立つだろう公益を国が独占的に決めるという仕組みを営々と築き上げてきた。公益国家独占主義が隅々まで行きわたっているのが現状である。公益というのは空間的にも時間的にも分散しており、ある土地で役に立つものが隣村では役に立たないことは当然ありうる。それこそ河川のコントロール、洪水のコントロール手法は、いろんな知恵が随所にあるはずである。堤防を高くし、ダムをつくれば、それでかなり大雨による被害は防げる。しかしある場所に行けば、ダムをつくるより、その期間だけ畳上げて生活する方がはるかに効率的であったりする。一般的に行われている手法が必ずしも良くないことがある。道路も同じような規格で同じように整備しなくてもいいかもしれない。例えば北海道には高速道路を整備せず、普通の道路で制限時速を80キロにすれば、それで十分だと言っている人はたくさんいる。地域に公益を判断する母体を育てれるべきで、国とか官は、コーディネーターもしくはプロデューサー、そういう役割を担うべきである。
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【隈部委員】 |
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上山さんの現場フロンティアが分離化するというのは、大変進んだ考えでおもしろいと思った。今日お配りした冊子「文化アセスメントの取り組み」に文化アセスメントの流れという表をつくった。ここには公共事業を行う上で、住民の声を取り入れていく方がいいものができると書いている。
文化というのは生活文化のことを言っているおり、ここで双方向コミュニケーションを提唱したら、反対運動につなげられて。住民が意見を言うと、すぐ反対運動になるからと言われた。現場フロンティアという考え方がなかなか受け入れられなかった。
下から上へという言葉が出たが、なぜ住民が下なのかという議論が文化アセスメントの委員会であり、地方自治体より住民を上に持ってきた。上下という考え方を変えなければいけないのではないか。
この懇談会のような、いわゆる文化人の意見は、その地域に対しての1つの外部の声ではないか。そこに住んでいる人たちの声は、内部の声である。外部の声は、公共事業を行うときに組み込まれてきているが、内部の声はまだそのプロセスの中に入ってきてない。
松田さんからすばらしい環境の取材があった。「人間とは人間プラス環境です」という、これはスペインのホセ・E・ガセットという人の言葉なのだが、やはり人間だけ考えるのではなく、環境も一緒に考えていくことが大事だと今日伺って思った。
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【川勝委員】 |
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江戸時代が循環型の社会で、リサイクルないしリユースの社会であったと知られている。これが経済原則と矛盾してなかったという話がポイントである。もともと1800年前は多くの物を輸入していた。それを皆、国産化した。そして地域が競争して、地域特性に応じた比較優位を確立していった。その結果、訪れたのは循環型社会である。し尿も紙も皆、商品化された。つまり価格がつき、販売された。リサイクル社会は原始人の世界だと思われるがちだが、実は違う。ヨーロッパ、アメリカが大量生産、大量消費、大量破壊という文明を生み出していったのに対し、江戸時代は全く違う方向に発展した。しかしながら現代においては、松田さんが紹介くださったが、アメリカ、ヨーロッパに比べて、日本が立ちおくれているという焦りを感じさせられた。
文化というのは暮らしを指し、その暮らしは、文字どおり生活様式、ウェイ・オブ・ライフを示す。自分自身の生き方が問われている。そしてその生き方がクオリティ・オブ・ライフ。クオリティ・オブ・ライフは、実は人生の質。その人生の質を上げることは、文化の問題とかかわり、つまり個々の生き方の問題にかかわっている。こういう生き方、個人個人が大切にされた生活が、江戸時代に既に行われていたということが寺子屋の話で言われた。
循環型社会で経済原則が両立するということ、循環型が実は地球の生態系に資しているということと、個人が大事にされているということを、江戸時代の人は自覚していなかった。むしろヨーロッパ圏の人たちが、ある意味で世界を会得している。コミュニティーとパブリックを経営していくことが今、求められている。そのパブリックにもいろいろな次元がある。国家しかできないことと、住民ができることと、あるいは個人、今まで身体障害者と言われている方ができることがあるのだろう。またそれぞれ皆、対等の主体である。
ウェイ・オブ・ライフ、その質を上げるということ、人生の質を上げていくと、きっとそれが充足であり喜びであり、外から見ると美しいというふうに評価されるものではないか。私たち、皆一人一人が自分のウェイ・オブ・ライフ、つまり生き方を語って、それは一種の使命感というか危機感というか。いても立ってもいられない、何かしなくてはいけないという、そういう気持ちを喚起させられた。
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【嶌委員】 |
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「次世紀の暮らしを語る懇談会」は今日で最後になる。今まで皆さんにいろんなことを語っていただいた。この懇談会では、マクロ的な数字を語らなかった。次世紀は、2010年ぐらいの成長率はこうだとか、失業率は何%だとか、それらの数値を語っても何の感慨もわからなかったと思う。それぞれの現場にいる人たちが、個別の話をしたところに意味があったのではないか。
次世紀の暮らしは、快適で居心地が良く安全で、だれでもみんな平等に参加にできるような社会、国際的にも一目置かれるような社会を目指している。そういう社会をどうやってつくるか。マクロ的なアプローチだけではなくて、むしろ個別のアプローチの中から、アイデア、知恵があるというのが今まで一貫したテーマだったのではないか。
金、技術で、物事を解決しようとしても難しく、実はコミュニティーの持っている力、あるいは誰かがぐんぐんぐんぐん引っ張っていく個人のエネルギー、そういうものが案外世の中を変えていく原動力であるという話が披露されてきた。行政サイドもそのようなアイデア、感性をぜひ持っていただきたい。
来年のサミットが沖縄に選ばれたのは、政治的な決断はもちろんあったのだろうが、沖縄という場所の力が呼び込んだと感ずる。つまり、21世紀の課題を沖縄という場所が持っている。自然環境だとか平和の問題、あるいは文化の交流の問題、沖縄は、21世紀を考える場所として、大きなメッセージ力を持った場所だと思う。経済力ではなくて、コミュニティーの持っている力がサミットを呼び込んだというふうに考えた方が自然とさえ思える。21世紀のビジョンを考えるときにコミュニティー、江戸時代の言葉で言えば、「結」、「講」、「連」から物を考える。そして全体的なビジョンと結びつけていくことをぜひやっていただきたいと思う。 |
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【佐藤審議官】 |
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ありがとうございました。
出版の編集作業をやっている最中である。先生方には引き続き校正等のご協力をお願い申し上げる。国民の皆様にも一緒に読んでいただきたい。 |
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4.閉会 |
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【小野事務次官】 |
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3月から始まり「次世代の暮らしを語る懇談会」も6回目を迎えた。感謝の意を表したい。お忙しいところ、ご参集をいただき、貴重なご意見をいただいた。
混沌とした社会の中で、社会資本をどう整備していくのか、当然、住環境等も含め、いろいろ考えているところである。非常に難しい時代の中で、なかなかきちっとした方向を見出せない状況にある。建設省はコミュニティー、現場に入りやすい組織を持っている。本日は各地建の局長も全員聞かせていただいておるので、いただいたご意見はまず現場におろし、ご意見を少しでも21世紀の暮らしの中に生かせるようにしてまいりたいと思っている。
本当に長い間、貴重なご意見を賜りましてありがとうございました。
心から御礼を申し上げまして、一言ごあいさつにさせていただく。ありがとうございました。 |
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