織田信長は、戦国時代末期(1467ー1600)全国統一を図った三英傑(信長・秀吉・家康)の最初の人物だった。軍事的天才で、彼は長槍と火縄銃を使用する新しい戦術を開発した。そしてまた築城技術も大改良した。
信長の父親織田信秀が1551年に亡くなったとき、信長は一族の統合した。そして1560年までに彼は今の岐阜と名古屋のまわりの地域を支配下の収めた。桶狭間の合戦(1560)で、信長は25,000人の今川吉元率いる今川勢をわずか3000人の火縄銃を装備した武士の力で敗北させた。 1567年に稲葉山城を占領し、その名を「岐阜」と改名した。約10年の間に、城を拡大し、1576年に現在の滋賀県に新しく完成させた安土城に移るまで、岐阜城を拠点として使用した。
影響力と軍事力が増すにつれ、信長はより野心的になり、自分で天下統一をしようと努力した。 1575年に、信長は今の愛知県長篠で大規模な銃撃戦で強力な武田一族騎馬隊を壊滅した。 1578年に上杉謙信が亡くなった上杉家を支配し、1580年には一向宗の本願寺の部隊を攻め滅ぼした。1581年には現在の三重県伊賀地方を支配し、1582年初頭には武田氏を完全に滅亡させた。
明智光秀(1528ー1582)は、織田信長の最も信頼していた将軍の一人であった。1582年6月、信長は中国地方での戦への増援に光秀に命じたが、光秀は彼の部隊13000人の兵士を、信長が当時滞在していた京都の本能寺に向かわせた。光秀は信長の信頼を裏切り攻撃した。圧倒的多数の明智勢の攻撃で、矢で負傷した信長は、寺院の内部の仏間に後退し、自刃した。光秀は数週間後今の京都府の山崎の戦いで豊臣秀吉軍に負け、逃亡中に殺された。信長の武将であった豊臣秀吉(1537ー1598)は、信長の天下統一の仕事を受け継いだ。1560年桶狭間の戦いで、今川軍25,000人に対して織田軍は2,500人で退けた。信長は後に稲葉山城を陥落させ、岐阜城に改名し自身の本拠地とした。
信長は勢力を拡大するにつれ、天下統一を果たし平和な世にすべく動き出した。1575年信長は、長篠の戦で鉄砲を用いた戦術で強敵武田軍を退けた。
信長の有能な家臣の中には、明智光秀(1562年-1582年)がいた。明智光秀は信長から西日本に向けて派兵するように命を受けていたにもかかわらず、30,000の軍勢を率いて、70人の家臣とともに信長がいる京都本能寺を襲撃した。圧倒的な数の軍勢に包囲された信長はなすすべなく、本能寺奥にて自害した。
明智は山崎の戦い後の一週後には、信長の腹心豊臣秀吉によって討たれた。こうして、信長の天下統一は終わりを告げた。