豊国廟(一般的には豊国(ほうこく)廟、正式には豊国(とよくに)廟)
豊臣秀吉が1598年に伏見城において63歳で死去したとき、彼は自らの遺体を京都の東山地区にある阿弥陀ヶ峯に埋葬するよう遺言を残した。後陽成天皇(1571-1617、在位1586-1611)は間もなく秀吉と彼の神社に正一位の位を与え、豊国大明神という神号を授けた。それ以降、この神社は豊国神社(とよくにじんじゃ、ほうこくじんじゃ)として知られるようになった。この直後から、この神社では年に二回の大規模な祭礼が開催されるようになった。最も有名なのが、1604年の秀吉の没後六周年を記念する祭礼だった。この様子は、現在は豊国神社の宝物館に所蔵されている屏風絵に記録されている。前例のなく、かつその後もないほどの規模で、何千人もの熱狂的な町民が参列したこれらの祭礼は、明らかに政府を警戒させた。その規模や重要度は次第に小さくなり、秀吉の一族が1615年に徳川軍によって完全に滅ぼされると、最初は豊国神社も破壊するように命令が下されたが、やがてはただ荒廃するにまかされるようになった。1770年代には豊国神社は姿を消し、秀吉の墓所へ巡礼しようとする者の道を塞ぐように新日吉神社が移転された。
豊国神社自体は1880年に再建されたが、その場所は方広寺の大仏殿の跡地であり、元の場所からは山腹を数百メートル下ったところ、現在の霊廟がある山頂からはさらに離れた場所にある。霊廟建設の際に、自然にミイラ化していた秀吉の遺体が、阿弥陀仏の極楽浄土の方向である西を向いて座っている格好で発見された。その後、壊れやすいその遺体は新しい霊廟に埋葬された。現在、秀吉の遺骨が収められた記念碑のような五重塔(五輪塔)がその山頂にあるが、著名な建築家の伊東忠太(1867–1954)により設計されたこの仏教的な記念碑は、秀吉の没後300周年の1898年に建てられた新しいものである。