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―命をつないだ陰の道
千国街道(長野県松本市〜新潟県糸魚川市)
 2,000m級の山々を頂にする谷は、空が狭く、心なしか暗く感じる。谷筋をはうように延びる石畳の道を、沢鳴りを聞きながら下ると、狭い窪(くぼ)地に白壁の家々が立ち並ぶ里に出た。長野県小谷(おたり)村にある旧千国(ちくに)宿である。ひっそりとたたずむ60戸ほどのこの集落は江戸時代に番所が置かれ、信越交易の要衝として栄えた。
 日本海と信州の内陸部とを結ぶ千国街道は、「塩の道」として知られる。起伏が激しく、場所によっては5mも雪が積もる悪路を、人々は生きるために歩いた。山国にとって生命線だったこの街道に、華やかさはない。大名行列も通らず、宿場に遊郭もないこの道は、明治中ごろの国道開通によって忘れ去られたが、所々に名もなき人々や牛馬の踏み跡を残す。

南からの旧千国宿の入り口。小さな谷間に昔ながらの立派な民家が軒を連ね、時が止まったかのよう
 

地図

 千国街道は信州松本城下と日本海に面した糸魚川とを結ぶ約30里(120km)の旧道で、糸魚川・静岡構造線に沿って続く。戦国時代、上杉謙信が仇(きゅう)敵の武田信玄に「義塩」を送った道としても知られる。海から大町までは姫川渓谷と最高1,250mに及ぶ峠との行き来を繰り返す難路が続き、よくもこんな所に道をつけたものだと感服する。
 この街道は生活物資を運ぶ道であり、大きな荷を担いだボッカや牛馬が盛んに行き交った。糸魚川からは「上り荷」として塩や魚、海草などの海産物が、信州からは「下り荷」として麻やタバコ、大豆、生薬類、綿などが運ばれた。
 ボッカは塩1俵(約47kg)の荷物を背負い、10数人が一団となって雪の山坂を越えた。平坦な道は馬が威力を発揮するが、険しい山道には踏ん張りの利く牛が重宝した。一人前の牛方は、背に2俵(一駄)を付けた牛6頭を1人で追った。八十八夜から小雪までは牛による輸送ができた。
 道幅は、背中に荷を積んだ牛同士が安全にすれ違えるよう、9尺(約2.7m)を基準として整備されていた。輸送にかかる日数は、塩が糸魚川から大町まで通常6日、生魚・塩魚を運ぶ最速の「一日追い」は糸魚川を午後4時に出て翌夕方に大町、松本へは翌々朝に着いた。
 近世の松本藩は、領内で必要な塩をすべて日本海側からの「北塩」に頼っていた。千国街道はその主要ルートであり、運ばれる塩は糸魚川近郷の地塩のほか、能登内浦や瀬戸内海の塩も含まれた。
 千国宿は街道の名前にもなったとおり、この街道の中心地だった。番所は明治2(1869)年までの260年間、運上金を徴収し、通行を取り締まった。街道は集落をL字型に抜けており、道幅は2間(3.6m)もあった。地元では「大道(おおみち)」と呼ばれ、県道になるときセットバックの必要がなかったほどである。盆暮れには盛大な市が開かれ、近郷はもとより松本からも人が集まった。千国本村の人たちは商人に場所を貸すだけで、1年分の炭や油などの燃料を賄えたといわれる。
 この道には「陰」のイメージが漂うが、それは生活のための道だったという理由だけではない。『古事記』によれば、国譲りの際、建御名方命(たけみなかたのみこと)は出雲国(いずものくに)からこの道を逃げて諏訪に入ったと考えられる。また、福岡県の志賀島を拠点に海を支配した安曇族は、朝鮮半島での戦いに敗れ、日本海を北上して安曇地方に入ったとされる。古代史では敗走の道だった。
 街道の様子は近代に入ると一変する。明治22(1889)年に松本まで中央本線が延び、国道148号の前身となる道が明治26(1893)年までに開通。千国街道は交易路としての役割を失い、人々の関心から離れていった。
 小谷村栂池(つがいけ)高原では、北欧風のロッジやアメリカ風の飲食店が立ち並ぶ通りと「塩の道」が交わる。街道沿いには、百体観音や牛方宿が忘れ去られたようにたたずむ。難所続きの飾らぬ道を、生きるために必死に歩んだ先人たちがいたことを訴えているかのようだ。

文=高橋清隆(フリーライター)

牛方が牛とともに寝泊まりした牛方宿。旧街道筋に唯一現存し、昨年から小谷村が運営する資料館になっている

「塩の道」との交差地点から延びる栂池高原の繁華街
国土交通省技術調査課