復興の歴史が刻まれた
男性的な力強さのアーチ橋
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浅草と日の出桟橋を結ぶ隅田川水上バスからは、永代橋の雄姿が間近に見られる。
江戸の粋人が眺めたのと同じように、春は大川堤の桜が永代橋を飾る。 |
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清洲橋と対をなす曲線美は、
関東大震災の復興のシンボル
東京都中央区新川と江東区佐賀の隅田川に架かる永代橋は、その筋骨隆々とした「男性美」を思わせる鋼橋として親しまれている。現在の橋は、1926年(大正15年)に関東大震災復興事業として架けられたもの。橋長185.2メートル、幅員22メートル、ケーソン工法など当時の日本では珍しい技術を採用した斬新な橋梁であった。架橋時は、隅田川の最下流にある第一橋梁であったため、「帝都の門」たる重厚な意匠となったのである。なお、3年後に架橋された第二橋梁の清洲橋は、吊り橋型の繊細な姿で、永代橋の曲線と対をなした「女性美」を表現している。この2橋は、震災復興のシンボルという位置付けで、首都の入り口を華麗に演出する存在であった。
永代橋が架橋されたのは、1698年(元禄11年) の江戸時代までさかのぼる。徳川政府による幕藩体制が安定し、江戸の街が隅田川(当時は大川)を越えるまで広がり、「八百八町」が形成された頃である。現在の橋よりも200メートルほど下流で、「深川の大渡し」という船渡しがあった場所に最初の橋は作られている。時の将軍綱吉の50歳を記念して架橋され、近隣の地名にちなんで「永代」と名付けられた(50歳を祝して永代という説もある)。
橋の長さは110間(約200メートル)で、橋の下を船が航行するため、桁下は大潮のときでも3メートル以上確保されていたという巨大な木橋であった。「江戸中を眼下にあり」と評される眺望で、富士山や筑波山、伊豆・箱根、安房地方まで見ることができたそうだ。両国橋・新大橋とともに「大川三大橋」と呼ばれ、浮世絵や歌の題材にもなるなど江戸時代から首都の玄関口を飾ってきた永代橋だが、数百年の間には、数々の事件や事故の舞台にもなっており、代々の橋梁には悲しみの歴史も刻まれているのである。
史上最悪の落橋事故など
数々の悲劇に見舞われた永代橋
架橋から十数年後に橋の損傷が激しくなり、幕府は、同時期に架設した新大橋だけを架け替えて、永代橋を取り壊す決定を行った。これに驚いた地元では、町営の橋として引き取るが、海水や洪水による損傷、漂流した大型船が衝突する事故、火事による類焼など絶えず補修工事に従事していた。町の費用だけではまかなえず、期限付きで渡橋銭を徴収することもあった。そのような状況が続くなか、1807年(文化4年)に日本史上最大といわれる落橋事故が発生する。江戸三大祭のひとつ、深川富岡八幡宮の祭礼が30年ぶりに開催された8月19日、永代橋が崩れ落ちたのである。久しぶりの祭礼に将軍家が船で繰り出したため、橋を通行止めにしていたが、解除されるや大群衆が一斉に渡り崩壊してしまったのである。通信手段のない時代だけに、後続の群衆が崩落に気づかず押し寄せたために、人々は押し出されるように転落してしまった。危機を察したある武士が欄干につかまりつつ刀を振り回し、人々が後ずさりしたため落下は止まったが、これによる死者・行方不明者は1000人を超えたといわれている。深川から目黒に移転した海福寺には、犠牲者を悼んだ供養塔が建てられている。また、歌舞伎「八幡祭小望月賑」、落語「永代橋」など、この事故を舞台とした数々の作品も残されている。
以降も度重なる流失事故があり、架け替え工事は幾度も行われた。いつの時代にも江戸の名物であり、葛飾北斎の「絵本隅田川両岸一覧」、安藤広重の「名所江戸百景」などにはいろいろな姿の永代橋が描かれている。そして、1897年(明治30年)に現在地に移設され、木橋からスチールトラス橋に生まれ変わった。道路橋としては初となる鋼材を使用した橋であったが、床組が木造だったために関東大震災の際、近隣家屋からの飛び火や橋に持ち込まれた家財道具の延焼、船舶火災によって焼失してしまうのだった。
純国産での震災復興に
唯一背いた雄々しき橋梁
復興局の『永代橋設計計算書稿』によると、「雄大なる環境に調和することは、区々たる局部的装飾の能くする処にあらず、橋梁そのものが全体として表現する気分によってのみ果たさる」として、雄々しく男性的な輪郭にしたのである。震災復興の象徴として、過去の悲劇を繰り返さない決意の表れといえるだろうし、また、古来より歌人・詩人たちが歌ってきた永代橋の眺望を蘇らせる意図もあったのだろう。なお、永代橋はドイツ・ライン川に架かるレマゲン鉄橋を、対となる清洲橋は美橋といわれたケルンの吊り橋を模したデザインである。
隅田川6橋を含む震災復興橋梁は、設計から施工・材料の供給まですべてを自前で行うことが特徴であったが、永代橋・清洲橋は例外的に扱われている。河口付近の地盤が軟弱であったために、強固な基礎を設置する必要があり、施工技術が進んでいたアメリカから3人の技術者を招へいして、ニューマチック・ケーソン工法を採用したのである。純国産の復興精神に背くうえ、費用もかさむため反対する声が多かったが、再建の指揮を執った復興局土木部長・太田圓三は、「技術を習い、早く覚え咀嚼し、これを日本の技術として普及するため」と反論して、技術の導入を断行したのである。また、アーチのつなぎ材として初めて高張力鋼を採用しているが、いずれの技術も全国的に広がり、日本の橋梁技術発展に大きく寄与したのである。
ビルに埋もれた現代の永代橋から東京の眺望を楽しむことはできないが、鮮やかな青色のアーチの中を歩いてみると、大きなふところに抱かれているような思いになる。逆境を跳ね返してきた街や人々の力強さが橋に凝縮されているのかもしれない。
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●取材協力 東京都建設局道路管理部
●写真協力(P.4大川堤の桜) HP「御宿かわせみの世界」
●参考文献 『東京の橋生きている江戸の歴史』石川悌二著・新人物往来社
『橋から見た隅田川の歴史』飯田雅男著・文芸社
『日本百名橋』松村博著・鹿島出版会 『鉄の橋百選』成瀬輝男編・東京堂出版 |