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歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会 -日本文学に見る河川-

歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会
-日本文学に見る河川-
第三回議事録

平 成13年7月6日(金)
14:00〜17:00

場所:中央合同庁舎三号館二階特別会議室


 歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会 -日本文学に見る河川-
第三回議事録


1.開会の挨拶
○委員長
   きょうは皆様御多用のところを御出席くださいまして、まことにありがとうございます。
 きょうは川本委員から「映画に描かれた川の風景」、続いて五味委員から「川と今様」という2つの御報告を伺うことにいたします。

2.話題提供(1)
○川本委員
   川の映画というのは多種多様でたくさんあって、30分の中で全部触れるのは難しいので、きょうは荒川に話を絞ってお話をしたいと思います。と申しますのは、東京の川というとすぐ隅田川を皆さん思い浮かべて、隅田川について書かれた本というのはたくさんございます。それに対して荒川というのはどちらかというとマイナーな川だったということもありますし、東京の東の外れを流れている川ということもあって非常に語られることの少ない川です。ところが、よく見ますと映画の中で案外荒川放水路が大事な川として描かれています。その場合、やはり東京の下町よりもう少しさらに外れた庶民の町として、庶民の哀感を描くときに格好の風景として選ばれています。
 荒川放水路というのは大正時代に約10年間かけてでき上がった人工の川ですけれども、恐らく映画史に残るような作品で最初に登場したのは、昭和13年、1938年につくられた山本嘉次郎監督の「綴方教室」ではないかと思われます。豊田正子という当時の葛飾区の本田小学校というところに通っていた小学生の女の子、ブリキ職人の子供が綴り方を書いて、それが非常に出来がいいというので出版され、当時大きな反響を呼んだ本です。それを原作に少女時代の高峰秀子が主演して映画になりました。舞台にもなって、たしか山本安映が主演の少女を演じています。ブリキ職人の一家が荒川を越えた四ツ木、現在の上野から出ている京成電車で荒川を渡った次の駅ですけれども、そこに住んでいるという設定です。貧しい少女の物語なのですけれども、そこは子供の世界で、全体的には明るい方に持っていって、荒川放水路の土手で子供たちが夏に遊んだり、その少女がウサギを飼うので、ウサギの餌になる草を荒川の土手で取ったりするシーンが描かれています。川にとって土手、草土手、草の生えている土手はいかに大事であるかというのがうかがえます。
 戦後の映画では、最初に荒川放水路が出てくる重要な映画では、小津安二郎監督の佐野周二・田中絹代主演の「風の中の牝鷄」という映画があります。昭和23年の作品です。これは小津映画の中では非常に評価の低い作品なのですけれども、私は個人的には好きで、夫が戦争で兵隊に取られていて、まだ戦地から引き揚げてこない留守家族の妻、田中絹代が演じているその妻の物語です。その妻が子供を抱えて苦しい生活をしていて、やむにやまれずあるときどうしてもお金が必要になって体を売るという、そして戦争から戻ってきた夫がそのことを知って大いに悩むという、小津の映画としては非常に暗い物語なのですけれども、この映画の中に唯一明るいシーンがありまして、それは田中絹代の住んでいる深川あたりなのです。田中絹代はその深川の長屋の一角の2階を間借りしている。夫が帰ってこないので1人で裁縫などをして生活を立てているのですが、その苦しい日々の中で唯一明るいシーンがありまして、何をするのかというと、ある日曜日、田中絹代が小さい男の子を連れてピクニックに出掛けます。どこに出掛けるのかと思って見ていますと荒川の土手に出掛けます。恐らく深川からだったらバスで30分もかからないでしょう、もしかしたら歩いていったかもしれません。そういう日曜日に春の荒川の土手に座って子供を遊ばせ、お弁当を広げるという、ここでも川の土手、草土手というものが下町の庶民にとって非常に大事な場所として描かれていることに気がつきます。小津安二郎という監督は、後でお話をしますけれども、もう一本重要な映画でやはり荒川放水路を登場させます。
 それから、永井荷風が原作の映画で、昭和30年につくられた久松静児監督の「渡り鳥いつ帰る」という小説があります。これは永井荷風の戦後の作品、短編に「にぎり飯」というのと「春情鳩の街」、それから「渡り鳥いつ帰る」という戦後の3つの短編がありまして、それを荷風を尊敬していた俳句の久保田万太郎が戯曲、映画用の物語に仕立て直したものです。永井荷風の作品は6本ほど映画化されていますけれども、この「渡り鳥いつ帰る」が初めての映画化作品です。昭和30年の作品ですから、昭和34年に亡くなる永井荷風はまだ健在なときで、荷風の日記を見ていますと、でき上がったこの映画を浅草の映画館に見に行ったということが記されています。この映画の中では荒川が非常に大事な役割を果たしています。というのは、舞台になっているのが「鳩の街」という、向島に戦後できた私娼街ですね。そこを舞台にして、そこに生きる女性たちを描いているので、その「鳩の街」から近い荒川放水路というのがしばしば画面の中に出てきます。中でもこの「にぎり飯」という荷風の短編が荒川放水路が最も大事に描かれているものなのです。深川に住んでいる荒物屋さんのおやじさんと江戸川区の総武線の走っている平井に住んでいるクリーニング屋さんのおかみさんの中年の恋物語です。そもそも2人が出会うきっかけは、昭和20年3月10日の東京大空襲のときです。家を焼かれた、荒川を挟んで西側に住む深川の人間が火に追われて荒川の土手に逃げてきます。それから、荒川の東側に住む、江戸川区の平井に住むクリーニング屋のおかみさんが、やはり火に追われて荒川の土手に逃げてくる。当時、荒川の土手はそういう東京空襲のときの避難所になったと言いますけれども、そこで空襲のときに2人が出会う。2人ともすでに自分の連れ合いとはその空襲の最中に生き別れになってしまっているという。戦争が終わって何年かたって、行商をしているときに2人がまた偶然荒川の土手で出会うという場面があります。荒川の土手、江戸川区寄りの土手の方から葛西橋が左手に見えて、向こう側が江東区の方です。ここで2人が戦後再会して、中年の男女の恋が生まれるという非常に庶民的な話になっています。この映画はビデオにもなっていますけれども、昭和30年ころの荒川の風景が見事に残っていて貴重な映像資料になっています。周りにまだ高い建物が全くないので、広々とした田園の中を川が流れています。それから、この写真にあるように、葛西橋はまだ木の橋です。多分、東京の川に架かった大きな橋の中で最後まで木の橋だったのは、この荒川放水路の橋ではないかと思います。隅田川にかかっている橋はすべて関東大震災の後のいわゆる震災復興橋梁と呼ばれるもので大正末から昭和の初めにかけてつくられたわけですけれども、隅田川の橋が立派な鉄とコンクリートの橋なのに対し、荒川の橋は昭和30年代までまだ木の橋だったということがわかります。この映画には、さらに荒川放水路に並行して流れている綾瀬川も映りますけれども、今は汚染度の高い川というと必ず綾瀬川が挙がるのですけれども、この時代の綾瀬川は本当にきれいで、漁師の帆掛け船のようなものもこの川を走っているという、信じられないぐらい美しい川の風景がこの映画の中で見ることができます。
 それから、荒川放水路で有名だった建物は北千住にあった東京電力火力発電所の煙突、いわゆる「お化け煙突」と言われたもので、4本の煙突が極端な平行四辺形の配置のために、4本に見えたり3本に見えたり2本に見えたり1本に見えたりするので「お化け煙突」というあだ名がついて下町の人たちに非常に愛されました。この煙突が全国的に有名になったのは、昭和28年につくられた五所平之助監督、田中絹代・上原謙主演の「煙突の見える場所」によって、全国的に知られるようになりました。この映画の原作は椎名麟三の「無邪気な人々」という短編小説なのですけれども、原作では世田谷区あたりの何でもない住宅街が舞台ですけれども、それでは映画化するに当たって映像としておもしろくないということで、五所平之助監督初めスタッフが東京のロケハンをして荒川放水路沿いにある「お化け煙突」に目をつけたわけです。正確に言いますと「お化け煙突」そのものは隅田川沿いにありました。その隅田川沿いにあった「お化け煙突」を荒川の方から見るという設定になっています。これは田中絹代と上原謙の中年夫婦の庶民の日常生活を綴った映画ですけれども、この2人の住んでいる場所が荒川を越えた現在の足立区の梅田あたりに住んでいるという設定になっています。当時の荒川放水路でロケされていまして、昭和28年当時の荒川の風景が実によく全編ロケでとらえられています。鉄橋を渡る京成電車であるとか、あるいは常磐線の電車であるとか、葦の生い茂った河川敷、あるいは、今ではもうありませんけれども、当時、土手の上をバスが走っていたということもあって、若い高峰秀子が上野の方に通勤に行くときにこのバスに乗るというシーンもあって、土手というものが非常に効率よくこの時代、使われていたなということがわかります。
 それからもう一つ、荒川放水路が出てくる大事な映画で日本映画の映画史に残る傑作中の傑作と言われている昭和28年につくられた小津安二郎監督の「東京物語」があります。これは尾道から年老いた両親、東山千栄子と笠智衆が演ずる年老いた両親が東京にやってきて、すでに東京で暮らしている大きくなった子供たちに会いにくるという物語ですけれども、ちょうど現在の核家族を先取りした映画と言われています。
 尾道から東京に着いた両親が最初に行く家が長男の家です。この山村聡が演じている長男が荒川放水路沿いの堀切というところで町医者をやっています。堀切というのは東武伊勢崎線で浅草から5つほど行った墨田区の一番北の外れになります。画面の中に堀切の駅が映し出されますけれども、いまだに同じ駅舎が残っていて、町も当時と恐らくそれほど変わっていないかと思われます。駅をおりるとすぐそこが荒川放水路で、改札口を出ると目の前に荒川放水路のパノラマが広がるという設定です。尾道から来た両親がその堀切の長男の家に行って最初に言うことは、長男は東京に行って偉くなったとばかり思って期待していたらこんなところだったのだなとがっかりする場面がありますけれども、そのぐらい荒川放水路というのは非常に寂しいところにもかかわらず、だからこそ庶民の哀感を描くときには非常にいい風景を持っているということがあります。「東京物語」の中には幾つか名場面がありますけれども、中でも私など何度見てもちょっと涙が出てくるシーンがありまして、それは東山千栄子演じる尾道から出てきたおばあさんが長男の家の孫、まだ小さな4つぐらいの男の子と2人で荒川の土手に出て遊ぶシーンがあります。先ほどの小津安二郎の「風の中の牝鷄」で田中絹代が草土手でピクニックをしたように、やはりここでもおばあさんと子供が2人で遊ぶという、土手が庶民の遊び場所になっていたということがわかるのですけれども、そこでおばあさんが孫に、「あなたが大きくなったころにはおばあちゃんはもうこの世にはいないかもしれないね」みたいなほろりとさせるせりふを言うのですけれども、この撮影場所が堀切駅のちょっと横にあります堀切橋の手前です。もちろん当時の堀切橋は木の橋です。
 それで、私は前から小津安二郎が何でこんなに荒川放水路にばかりこだわるのだろうと長年不思議に思っていたのですけれども、数年前、疑問が解消しました。というのは、5年ほど前、映画の本専門の出版社から「小津安二郎全日記」という日記が出版されました。それを読んでいたら、この「東京物語」をつくる前の年、彼が夢中になって読んでいる本があり、毎日のように読んでいます。それは何かというと、その当時出版された永井荷風全集の中の日記、「断腸亭日乗」なのです。その記述を読んだとき、私ははたとひざを打ちました。というのは、荒川放水路というだれもが目をとめなかったあの東京の場末の川、あれを最初に文学の言葉で表現したのは実は永井荷風なのです。永井荷風の「断腸亭日乗」を読みますと、昭和7年から8年にかけて、彼は、最初は隅田川が好きで隅田川べりを散歩するのですけれども、隅田川べりがだんだん工場化され、高い建物が建ってきて嫌になってきて、足を東に伸ばすのです。すると、ある日、荒川放水路にぶつかります。そこで彼は荒涼たる、茫漠たる川の流れ、風景に初めて出会います。それで孤独好きな彼はその風景に非常に癒されるわけです。港区の麻布に住んでいた荷風が荒川放水路まで行くには、当時ですから電車を利用しても恐らく2時間はかかったと思いますけれども、3日に1回ぐらいの割合で荒川放水路を歩き続けます。これは別の物語になりますけれども、その結果、実は名作「墨東綺譚」が生まれるわけですけれども、ともかくその時点で荷風は荒川放水路を歩き続ける。普通の人が見たらもう寂しい荒涼たる風景なのですけれども、孤独を愛する1人の文士から見るとそれが非常に美しい風景に見えて、彼は日記の中でついに荒川放水路のスケッチまで載せていきます。何枚も荒川放水路のスケッチが出てきます。そのスケッチをしている場所がまさに堀切橋の小津安二郎の「東京物語」の名場面、東山千栄子と孫が遊んでいるまさにその場所なのです。私はそれで、小津はやはり荷風の日記を読んで「東京物語」のロケ地をこの荒川放水路にしたに違いないと確信して、荷風と小津、両方が好きな人間にとっては非常に感動したわけです。そういうように、荒川放水路というようなだれもが語らない、普段忘れられている川、それを文学作品を経由して映画監督たちが大事な場所として描いてきたということは忘れてはいけない事実です。よく風景の発見ということが言われますけれども、風景というのはただそこにあるだけでは存在し得ないのです。明治の初め、国木田独歩がだれも見向きもしなかった武蔵野の雑木林を美しいと書いたことによって一気に雑木林の重要さ、風景としての美しさが立ち上がるというように、誰かそれを発見する人がいるわけで、私はこれだけ日本映画の名作の中に荒川放水路という現在でも余り語られることの少ない川がこれだけ描かれていたということは非常に大事なことではないかと思います。
 以上で私の報告は終わります。

○委員長
  どうも大変ありがとうございました。
 

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