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河川局

歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会 -日本文学に見る河川-

歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会
-日本文学に見る河川-
第三回議事録

平成13年10月26日(金)
14:00〜17:00
場所:中央省庁合同庁舎3号11階特別会議室

3.懇談(1)
 
○委員長
   ありがとうございました。大変おもしろいお話を伺いました。今の話でしばらく御議論いただきたいと思いますが、いかがですか。

○委員
   10年ほどで三囲神社と隅田川のあれが逆転してしまうとおっしゃっていましたね。それがちょうど1760年代から1770年代の時期で、真景図も大体そういう形だと。ですから、あの時期は全体として河川交通が相当整備されたのではないか。1760年代といいますと田沼時代ぐらいですね。そのあたりから急速にさらに発展していく。
 それから、熊野川は熊野詣だし、淀川もそうですね。金比羅詣とのかかわり合いで描かれたりしますね。そういうものとかかわり合いがあるのかなと。

○委員
   おっしゃるとおり、パラダイスが先にあるということもあると思うのですけれども、寺社の物詣も川と相当関係していると思います。淀川の場合、住吉、天王寺に詣でるときはやはり川だし、熊野詣は熊野川がかなり関係してまいりますね。だから、そういうことで川というものが非常に人々に意識される。それが時代が下ると絵のテーマになるのでしょうね。

○委員
   そして庶民に広がっていく。宇治川は描かれたことはないのですか。『源氏物語』の「宇治十帖」は『源氏物語絵巻』の方には出てこないの。

○委員
   宇治川は出てこないのではないですか。宇治橋の絵は有名なものがありますね。

○委員
   14世紀初頭の絵巻『石山寺縁起』ですね。琵琶湖から流れ出て、瀬田から宇治川に来るところ。瀬田川の橋の上で院宣を落としてしまったら、魚が飲み込んで、それを宇治の橋で釣り上げたら、お腹の中から院宣の文書が出てきたという話です。

○委員
   物語や戦には随分あちこちに川が出てくるわけでしょう。川中島の合戦の話もあるし。

○今橋委員
   川の構造そのものが実際の場所を踏まえた形で描かれることは、どうやら18世紀まではなかったと言えると思います。

○委員
   そうかね。あなたは江戸派だから頑張るけれども、そうですかね。(笑)月次絵屏風とか、ああいうものに富士川が描かれていたりしないかな。

○委員
   富士川が描かれているのは、『一遍聖絵』にはありますけれども、典型ですね。一部分だけですから。川沿いにこういうふうにやっていくのは、やはりこの時期ぐらいかな。

○委員
   原物は残っていないでしょうけれども、障子絵、屏風絵なんかは、歌の方で歌われますから、題としては残っていますね。そうすると、随分と川が描かれていたはずなんです。その川がどういうふうに描かれていたのか、非常に知りたいところですけれども、残っていないから。

○今橋委員
   よくわかりませんが、例えば狩野派でしたら、狩野派によって一つのタイプといいますか、非常に様式化された宇治川の形、宇治川とそこに架かる橋ということになりますと、それが実際の景観とは限らず、こう描けば、これは川と橋というふうに。
 先生がイメージされていらっしゃるのは景物画と言われている類のものだと思うのですけれども、工芸的にデザイン化されてしまっているので。

○委員
   隅田川はもっと前に絵になっていませんか。

○委員
   なっていないですね。僕は絵の中身はあまりわからないのですけれども、先ほど司馬江漢の絵がありましたね。変わった絵で、今戸のところでなくなる絵、あそこの風景は、ああいうふうに見えるんですよ。ちょうど今戸の煙が出ている裏のところから日本堤が上野の山へ行くんです。あの堤防だけが南北に走っていて、それがだんだん消えていく。ですから、水の方が高く見えるんです。実際に、あの辺に住んでいる人もそういう感覚なんです。その表現をしようと思ったら、ああいう絵になったのかなと。下の方も、上っていくか下っていくかを含めて、川の表現をどういうふうにしようかというときの技法の変化ですね。その辺をもっと組み合わせると、おもしろいかなという気がします。

○委員
   三囲は確かに低いんです。だから、芝居の場合、三囲の鳥居を腰かけみたいにして、かけてしまうという話があります。だから、かなり写実的なとらえ方だと思います。

○委員
   その境目が今戸の付近です。あそこから下へ行きますと、逆に高いところがない。そうすると、橋だけなんです。橋が隅田川に入ってくる運河の玄関です。目印になりますから、これはデザイン化ではなくて、むしろそういうふうにする。その後、馬車が入ってきたとき、滑って困るのは、その辺なんです。石畳にしますので。
 浮世絵など江戸時代にできた絵が全部あの辺に集中するのは、あの辺の中で堤防が一番高いからなんです。ですから、そこから見る富士がいいので、あれより下へ行けば行くほど、富士はだめなんです。

○委員
   あの辺がよく川が溢れるところだから、そこだけ特別に堤防を高くしているの。

○委員
   もちろん、そうです。つまり、こういう堤防なんです。その上側が浮世絵なんかの舞台です。じょうごのような形で、洪水が出てきたら……。この下は江戸の市街地なんです。江戸の市街地の外れに、逆八の字の堤防なんです。ですから、周りから見ると堤防が一番高いし、周りが溢れる。ですから、そこが一番見晴らしのよい場所、ビューポイントになっているので、江戸時代のいろいろな技法がそこのところに入ってくるのだろうと思います。

○今橋委員
   三囲神社そのものが名所というよりも、雪見をするときに視界が開けて大変美しかった、だから名所になったということをちょっと伺ったんですが、やはりそうですか。

○委員
   歌枕ではなくて、このごろ言う「俳枕」なんでしょうね。其角が雨乞いの句を奉納したりということで、一種の名所ではあると思います。
 それから、別のことを伺いますが、最初に拝見したアンリ・リヴィエールの『エッフェル塔三十六景』というのは、画家が「三十六景」とうたっているわけですか。

○今橋委員
   自ら、そういう題名をつけています。Les trente-six vois de la tour Effelというふうに。『富嶽三十六景』にならって『エッフェル塔三十六景』ということです。

○委員
   富士山のかわりにエッフェル塔にして、隅田川のかわりにセーヌ川でしょう。やがて大正になると、セーヌ川やテムズ川を隅田川に見立てて、パンの会に北原白秋たちが集まる。行ったり来たりで、やはり川は大事ですね。
 隅田川がセーヌ川やテムズ川になって、テムズ川になるとホイッスラーが描いて。ホイッスラーは、テムズ川を隅田川に見立てて、浮世絵にあるような橋を描いているわけでしょう。それがやがて大正のころになると日本に入ってきて、今度は隅田川をテムズ川やセーヌ川に見立てて、川のほとりのレストランに高村光太郎や北原白秋、それから吉井勇、山本鼎、ああいう人々が集まって、よく西洋料理を食べて、夜遅く、午前1時2時までドンチャン騒ぎをやって気炎を上げたんです。

○委員
   それから、「真景」という言葉が大変おもしろいと思いました。似たことで、平安時代の歌人、能因が歌の方でそういうことをやっているんです。
 『能因歌枕』は、実際に陸奥へ行かず、白河の関を越えないのに白河の関の歌を詠んだという伝説、あれは実際には行っているんです。奥州に行って、奥州のいろいろな名所を見ているんですけれども、それをはるか後、京都に帰って歌に詠みます。ですから、おっしゃるように、かつて見たものを自分の中で昇華して、それを再現して一つの作品群をつくるんです。それで、例えば「野田の玉川」という六玉川の一つの有名な歌ができるのですけれども、それを能因は「想像」と言うんです。imaginationの想像です。全く逆ですね。空で想像しているのではなくて、かつて見た体験を再現していることを「想像」と言っているんですけれども、それが「真景」に当たるわけです。imaginationの「想像」を当てて、「想像奥州十首」という作品があるんです。だから、同じことをやっていても、観念の方にウエイトを置くか、写実の方にウエイトを置くかによって全く違った呼び方が出てくるのだなと思って、「真景」ということは大変おもしろく伺いました。

○委員
   さっきの中国の『清明上河図』は、場所は開封ですね。城壁というより、開封を囲んでいるのでしょうね。堤防があるでしょう。あそこに行きますと、ああいうふうに見えますよね。

○委員
   随の煬帝のつくった大運河が、南から北へ上がっていって、?京に行って、あの絵の中に描かれているのは東西に流れている運河かな。

○委員
   東西に向かっています。運河自体は南北ですが。あそこだけで、ものすごい名所となる場所なんです。

○委員
   『清明上河図』は、本物は10mぐらいの長さでしょう。あれは中国の中でも何遍も模写を重ねられていて、秦朝あたりに描かれたものかな、台北の桃園空港の待合室に、壁画になって、タイルでずうっと入っています。まことに見事です。
 中国で蘇州の市街を描いた絵、ああいうものもみんな『清明上河図』から来ているのではないか。だから、日本の洛中洛外〈上杉家本〉なども、みんな『清明上河図』から来ているのではないかと僕は思っているんです。『清明上河図』は長くて、日本ではそれを屏風に仕立てている。そしてやはり鴨川がある。

○委員
   そうですね。『洛中洛外図』は関係あるかもしれないですね。

○委員
   先ほど見せていただいた谷文晁の絵ですけれども、あれは川上から河口に向かって描いている。ほかの隅田川なんかで見せていただいたものは、みんな河口から上流へという感じでしたね。だから、これはちょっと異様なのではないかと思うんです。単に旅人の意識ではないと思うんですけれども、何ですかね。

○委員
   あれは本宮から新宮への参詣ルートだから、河口が新宮でしょう。そうすると、新宮から本宮というルートもあるけれども、普通でいうと……。

○委員
   もう一つ、花火が出てきた広重の絵で月が丸く描かれていたのが異様だったんです。通常、隅田川の花火を描くときに、月はあんなふうに丸々と描きますか。

○今橋委員
    「両国の夏の月」と、わざわざうたっているんですよ。考えてみたら、そうですね。

○委員
   浮世絵の中に満月が描かれるのは珍しいね。あまりない。日本の絵画でも、真ん丸い満月というのは、あまりないのではないか。必ずちょっと上弦か下弦か……。

○今橋委員
    「両国の夏の月」と、わざわざうたっているんですよ。考えてみたら、そうですね。

○委員
    『石山寺縁起』では、琵琶湖に満月が映っているものがあります。

○今橋委員
    満月を描くことが主題であれば当然満月を描くんですが、風景の典型として、夜だということを示す程度の意味で月を描くときにわざわざ満月を描くというのは、あまりないかもしれないですね。

○委員
    満月と花火が重なってしまうでしょう。満月の晩に花火をやっても、あまり効果がないんじゃないかな。(笑)

○委員長
    では、どうもありがとうございました。


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