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歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会 -日本文学に見る河川-

歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会
-日本文学に見る河川-
第四回議事録

平成13年10月26日(金)
日時:14:00〜17:00
場所:中央省庁合同庁舎3号11階特別会議室


 歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会 -日本文学に見る河川-
第四回議事録


1.開会の挨拶
 
○委員長
   久しぶりの会合です。皆様、お集まりくださいまして、ありがとうございました。
 きょうは二つ発表していただくことになっておりまして、今橋理子さんと高橋六二さん、お二人に発表をしていただくことになりました。今橋さんは「〈川辺〉風景の発見−18世紀江戸絵画と河川」、そして高橋さんからは「河内様−紀州・古座川の祭り」というテーマでお話をいただきます。では、今橋さん、よろしくお願いします。
 
2.話題提供(1)
 
○今橋委員
   御紹介いただきました今橋でございます。表題の〈川辺〉が「カワノベ」なのか「カワベ」なのか、読み方が自分でも定まっていないのでございます。そしてまた、「18世紀江戸絵画と河川」という副題をつけましたが、実際には18世紀〜19世紀の江戸時代の絵画を対象といたしまして、お話をさせていただきます。
 この懇談会は「文学に見る」という副題がついておりまして、さて困ったな...というのが、今回お話をするようにと御指名を受けての最初の難問だったのでございます。また、河川をテーマにした美術史なるものが現在までに論文あるいは著作等であっただろうかと思いまして、さかのぼって調べましたが、ございませんでした。そういうことで、今回参考とするものがなかなかなかったのですが、たまたま今年の夏、ニューオータニ美術館で「水辺の情景とジャポニスム」という展覧会がございまして、本日はそのジャポニスムにかかわるところから少しお話をさせていただきたいと思います。30分と伺っておりますが、40分近くなってしまうかと思います。どうぞお許しください。それでは、スライドを見ながらお話をさせていただきたいと思います。
    (以下スライド)
 これは、1891年にアンリ・リヴィエールという人がつくりました『エッフェル塔三十六景』というシリーズ物のパリ風景です。本来は石版画ですが、今映しているものは木版画の作品でございます。「オートウイユ鉄橋より」という題名がついています。
 『エッフェル塔三十六景』自体は1892年に石版画の方が完成しまして、リヴィエール作品の中で今ごらんいただいているものは最初の秀作です。こういった19世紀末のヨーロッパの絵画に対して、江戸時代の浮世絵版画が大変な影響を及ぼしていることは周知のとおりでございます。例えば、『江戸名所三ツの眺』というシリーズで「日本橋雪晴の図」です。手前にやはり川が流れていて、日本橋が架かっており、その向こうに富士山が見えるという、典型的な広重の江戸名所絵の構図になっております。
 アンリ・リヴィエールのように、19世紀末のパリに居住し、絵を描いていた画家たちが、江戸を描いた浮世絵版画と同じようにパリを見、そしてそれを浮世絵調に絵を描こうとしたときに、こだわったのは川の存在だったようです。既に指摘されていることなのですが、先ほどの川の向こうに富士山が見える。実は、こちらの版画の中では、手前に川、奥にエッフェル塔、つまり、この場合、エッフェル塔は浮世絵版画の中の富士山に見立てられて使われている、そういう構図をとっているわけです。
 広重は、こうした江戸の名所絵を、雪晴れや青空のもとだけではなく、これは月が出ておりまして、時は夜でございます。両国の風景ですが、両国橋です。夏の夕べでありまして、屋形舟を出し、そしてここに花火が上がっている、そういった夜景を描いております。こういった夜景なども、浮世絵を通じて19世紀末の西洋の画家たちにも刺激的に影響を与えたらしく、実はこれもアンリ・リヴィエールの石版画の作品ですけれども、富士山に見立てられているエッフェル塔が非常に大きく描かれ、そして夜景のセーヌ川、人々は舟を浮かべ、そして日本風の提灯もここにあります。リヴィエールがこういった作品をつくっておりました当時、ちょうどフランス革命100周年記念で万国博覧会が開かれておりましたので、恐らくこの夜景の図は万博のお祭り騒ぎの中での一光景ということだと思います。
 私がこれを最初にお目にかけて一つ問題提起を申し上げたいと思いました点は、実はこの『エッフェル塔三十六景』は全体が36枚で1シリーズとして構成されているものですけれども、そのうちの17枚までが何らかに水辺の風景を取り込んだパリの景色を描いている。ここでパリの街の構造をここで思い浮かべていただきたいのですが、パリの街の中は、江戸とは異なりまして、かつてより水路や運河などが縦横に走っているという構造にはなっておりません。流れている川は、セーヌ川と、ビェーヴル川だったでしょうか、その二つしかございません。多少の水路はございますけれども、かつての江戸の町のように縦横に走っているような構造にはなっていない。つまり、浮世絵版画の風景画の中において、江戸が水辺をもってあらわされた幾つかの要因は、一つは都市の構造上の問題で、江戸の経済活動を考えてみますと、物資の輸送はほとんど水路を使って行われていた。そして、水陸交通の結節点とも言うべき場所、例えば江戸橋の広小路、両国広小路といった産業活動上重要な拠点であった場所の周辺には、それと同時にいわゆる盛り場が形成されていた。それから遊廓や芝居小屋など、人々を自然的に多く集める遊興の場所も、水路を使って人々を大量に運ぶような構造になっていたことがあります。したがって、江戸の名所絵が描かれるに当たってテーマとされる場所は、何らかに水に関係した場所になる。意識的に選ばなくても、それほどに江戸の町は水辺、川と重要な関係にあった。しかし、パリは必ずしもそういう構造になってはいない。にもかかわらず、リヴィエールの版画の中で水辺が多く選ばれたということは、一つ、日本的な視覚のとり方、風景の切り方の中に水辺というものが大きな役割を果たしていて、それがそのままパリの街に映されていったのではないか。そんなふうに考えられるのではないかと思います。
 こうした広重などの浮世絵版画の源流において、どのような水辺が描かれてきただろうか、川辺が描かれてきただろうかということですが、これには絵画史上において二つの構図的な特徴を指摘することができます。
 一つは遠近法を意識したパノラマ的な表現です。これは今申し上げました広重や葛飾北斎といった浮世絵版画の風景画に直結していくという意味で、画面構成上、重要な点だと思います。後にお話しします歌川豊春の浮絵、あるいは司馬江漢の洋風風景画あるいは銅版画、そういったものにパノラマ的表現が使われます。
 もう一つ、江戸時代の絵画において河川を描いた場合の構図の点で非常におもしろいものがあるのですが、それは連続画面形式の絵画です。それは、川を上流から下流へ下降する、あるいは逆に河口から上流へと遡上する、どちらの感覚にも通じていくものです。
 それでは、まず最初にパノラマ的な表現に関してお話をしてまいりたいと思います。
 今お目にかけておりますものは、歌川豊春が1760年代、明和、安永期にかけての時代の浮絵と呼ばれる風景画です。広重、北斎の時代よりも半世紀以上さかのぼるころの江戸の風景画でございます。今ごらんいただいておりますものは上野の不忍池の風景です。中央に弁天島がございまして、恐らく手前の方が上野広小路の位置になるのではないかと思うのですけれども、人々が集っております。不忍池の周りにはお茶屋さんがたくさんありました。それは、中央の弁天島に参詣する人々を集客していったわけです。
 浮絵というのは、18世紀末に西洋から遠近法が入ってくる以前に日本人に獲得されていた遠近表現、風景表現で使われたものです。なぜ浮絵と言うかと申しますと、奥を小さく書いて手前を大きく見せるというやり方をいたしまして、極端な遠近法がとられるというやり方でございます。
 浮絵はレンズを通して見るものではないのですが、もう一つ、こういった覗き眼鏡で覗いて風景を見るものがあります。今ごらんいただいているのは神戸市立博物館に現存しているもので、これは日本でつくられたものだと考えてよろしいのでしょう。
  ここに載っているものは西洋の眼鏡絵ですが、眼鏡絵に関してはこれからお話しいたします。反射式覗き眼鏡と言われている、一種のからくりおもちゃみたいなものです。
 今ごらんいただいておりますものは、中国でつくられておりました18世紀の眼鏡絵です。これはレンズで覗きますと、左右が逆に見える構造になっています。
    (中略)
 こうした反射式覗き眼鏡による遊びが、1760年代から1770年代にかけて江戸で大流行いたします。そして、輸入品の絵画に飽き足らず、江戸の画家たちもまた、こういった反射式の眼鏡で覗く、そういう絵を描き出します。
 これはヨーロッパで同時代につくられていた覗き眼鏡で見る絵画です。これは「フォンテーヌ・ブロー宮殿 運河の図」ですけれども、これも、覗くと左右が逆になります。これは後でお話を申し上げたいと思っているのですが、覗き眼鏡の絵の中に使われるのには、このように水辺を取り込むというやり方をいたします。
 そして、これが江戸の絵画によって描かれた初期のころの眼鏡絵です。作者は司馬江漢と言われています。今は覗き眼鏡で反転して見た状態のものをごらんいただいております。中央に中州がありまして、川が二俣に分かれていく。つまり、ここでは消失点が二つできるというやり方になっていまして、覗き眼鏡で見たときの効果的な構図を考えているのだと思います。
 これは肉筆、ハンドライティングされているものですけれども、司馬江漢は大量生産するために銅版画で覗き眼鏡絵を完成させます。今ごらんいただいているものは元の状態のもので、「三囲景図」と言われております。1783年、日本で最初の銅版画として制作されたものです。こちらに三囲神社がございまして、こちらが隅田川です。舟が浮かべられておりまして、遠くへといざなわれていく視点というものが効果的に使われております。空が青くなっている、こういう表現も江戸の絵画においては革新的な表現でした。これを先ほどの覗き眼鏡で覗いてみますと、水の方が高くなってしまっている、そういう状態になります。覗きからくりの中で、三囲神社を見せること以上に川の方を見せている。江戸の風景の中において名所として既に確立されている場所よりも、隅田川の大らかさを見せる、そういう効果をねらっております。向こうは今戸の瓦焼きの煙です。随分もくもくと出ていたんですね。
 さて、そうした江戸名所絵の初期段階を過ぎて、江戸において名所絵の流行が始まります。先ほどお見せしました広重の江戸名所絵の前段階、浮世絵において風景画が描かれる前段階に、絵本の世界においてたくさんの江戸名所絵が描かれることになります。
 今ごらんいただいておりますものは、『絵本隅田川両岸一覧』という若き日の葛飾北斎が描いた絵本の中の一光景です。最初にお見せいたしました浮世絵版画、司馬江漢の絵をごらんいただいてもわかりますように、初期の浮絵、司馬江漢の作品などでは、江戸の名所をとらえるに当たっては、今現在の写真のスナップで撮るように一画面が選ばれて、それによって一つの名所絵が成立するというやり方でした。今ごらんいただいているものも、絵本ですから、ページをあけますと、このように見開きで一図となります。実は「両岸一覧」と銘打たれているところが一つのポイントです。
 これ(16171819)は同じく『絵本隅田川両岸一覧』ですが、見開きで見ますと、本来はここの場所が見開きで見えます。隅田川がありまして、その両脇に展開される名所旧跡、歳時にまつわるいろいろな状況が描き出されるわけです。実際、ページはここで折られているのですが、このページは先へ先へと続いていく、ページをくるごとに画面は右から左へと流れていく、これは河口から隅田川を上流へとさかのぼっていく、そういう形で絵本がまとめられていくことになります。このように絵本の中で画面が連続していくこと自体が珍しいのですけれども、それは、隅田川そのものが途切れることなく綿々と続いているわけですから、そういう感覚を絵本の中に再現しようとした一つの試みだったと思われます。
 1800年前後にあらわれた、このような連続式の川をテーマとして画面構成は、どうやら浮世絵だけのものではなさそうだということです。そして、1800年前後というのが一つのポイントでありまして、この時期、「真景図」というものが江戸の画壇において大変センセーショナルな意味を持ってまいります。きょうお手元に配らせていただきました私の『江戸絵画と文学』という本の205ページから「真景図」に関しての細かい議論をしておりますので、後ほどそちらをあわせてお読みいただければ幸いでございます。ここでは川にかかわる部分で、「真景」という点も含めて、さらにお話を進めていきたいと思います。
 実は、北斎の『隅田川両岸一覧』が浮世絵関係のものでは連続画面形式のものとして最初のものかと思っておりましたら、最近になりまして、こういった作品(20212223)が北斎に先立つこと約20年前に既に存在していたことがわかってまいりました。天明元年(1781年)に鶴岡蘆水という画家によって描かれました、現在では、仮にですが、『隅田川両岸一覧図巻』と呼ばれている絵巻物形式の江戸名所絵です。やはり河口から遡上していくという形式です。そして恐らく画家は手前の岸にいると思われるのですが、そちらからあちらの岸へと移るときの橋の表現に、大変効果的に、遠近法を極端なものとして使った表現が見られます。画面は右から左へと進んでまいります。
 今ごらんいただいたところなどを見ますと、浮世絵とあまり大差ない感じですが、場面が進んでいきますと、例えばこういったところに江戸の名物である運河の表現、こういったところには浮絵の表現なども使われていて、いわゆる連続画面形式であるだけではなく、それ以前の浮世絵であった浮絵あるいは眼鏡絵などの絵画表現も取り込まれた形で、川が効果的に描かれていくことになります。
 同じく、18世紀末から19世紀にかけて、こうした絵画と同様に、やはり連続画面で「真景図」というものが文人画家たちによって描かれます。
 お手元のレジュメの2枚目をごらんください。モノクロですけれども、今スライドでごらんいただいております作品、『熊野舟行図巻』です。これは紀州熊野本宮から新宮までの熊野川沿いの風景を描いていっております。ですから、上流から河口へ進んでいくという形式になっております。
 大変おもしろいのは、今ごらんいただいておりますものは熊野の本宮を描いたところですが、こちらの場所、中州になっているんですね。今、熊野の本宮は完全に山に囲まれた場所になっておりまして、このように中州ではないのですが、こういったものを見ますと、江戸時代当時は熊野の本宮が熊野川の中州にあった(その後の水害で移った)ということがわかります。そこの場所を示すところに金の貼り紙などがされております。これまでごらんいただいた江戸の名所絵等では、このように、描かれた場所がどこの場所なのか、どういう山なのかという名称を紙で書いて張るというような指示はされていないのですけれども、この図巻に至っては、大変細かく、金の貼り紙でその場所場所が明記されております。これは一つは地図としての意味も持っているとに言えるかと思います。しかし、現在私たちが使っているような地図の正確さ、いわゆる工学的、数理学的な意味での正確さということにおいて言えば、これは大変不正確な地図ということになります。しかし、ここではそのような数理学上の合理性を求めているのではなくて、一つの川の流れに沿って見る景観、それが実際上どう見えるかということを超えて、あたかも旅をするかのごとく、そして恐らく画家が目にして美しいと思ったものや場所、そういうものをことごとく取り込んで、一つの絵画の中に表現しようとした、その結果ではなかったかなと思われます。つまり、現実の風景や地理性をある程度は踏まえつつも、絵画といういわゆる絵空事の世界の中では、操作をし、圧縮してしまって連続画面へとつなげる。しかし、お手元のレジュメをごらんいただいてもわかるかと思いますが、川の上流から河口へと流れていく時間、方向性には、一方方向に流れていく方向性というものが与えられております。
 この図巻は、お手元のレジュメでもそうですが、今、すべて絵巻物を広げた状態でごらんいただいております。絵巻物というのは本来このように全部を広げてみるものではございません。絵巻物というのは、実際は鑑賞者の肩幅で見ることが鑑賞の基本になっておりますので、縮尺の加減で多少の誤差はあるかと思いますけれども、画面を区切りながら、画面をずらしてごらんいただければ、絵巻物として鑑賞されるように、これがどのように風景が構成されていったのかということが、ある程度おわかりいただけるかと思います。
 今、ごらんいただいている絵巻の最後の部分に年記が書かれておりまして、「此熊野舟行図巻、昔日過目真景也」(これ熊野舟行図巻、昔日に目に過ぎし真景なり)というふうに画家が書いております。また、最後のところには、 (命に応じ、これを制す) と書いてあります。恐らく当時の紀州徳川家の藩主から命じられて、そして画家・谷文晁がこれをつくったという意味です。これは1804年に成立しているのですけれども、実際に谷文晁自身がこの場所に赴いたのは、これをつくる8年も前のことだったんです。ですから、真実の景観と書きますけれども、「真景」と言いながらも、これは即座にその場でスケッチをして描いたというよりも、後からそれをまとめ直しているという点において、これは完全な写実ではないということになるのです。
 こうした絵画は、浮世絵における連続画面の川の表現以前に既に幾つか出てまいります。今ごらんいただいているものは、1736年に岡田半江という大阪の画家によって描かれた『江南景勝図巻』、すなわち淀川に舟を浮かべ、そしてそれを下降する舟遊びをしたときの情景を描いたものです。
 また、これ(2728)は名古屋の中林竹洞という画家が描きました『東山図巻』です。手前に川があります。これが鴨川です。これは春の風景だと思われるのですが、ここに桜の並木がありまして、奥に東山が展開する。当然、絵巻物ですので右から左へと画面が展開してまいります。ということは、これは恐らく鴨川を遡上する形で描かれたものだと思われます。
 こうした真景図巻、真景川図巻とも呼べる作品をさらに求めて時代をさかのぼっていくと、どのぐらいまでさかのぼれるのだろうと思っておりましたら、これは1765年の円山応挙が描きました『淀川両岸図巻』という作品です。これが大変おもしろいのは、これまでごらんいただいてまいりました川図巻と違いまして、上下をひっくり返しても、どちらからでも見られるものです。右からいっても左からいっても見ることができる。つまり、ここに舟があるのですけれども、反対側から見ると、舟自体はひっくり返ってしまうのですが、景観は、こちら側から見ればこちらが正しい正像として見えるし、こちらを下にすれば、それもまた正像として見える、そういう描かれ方になっております。これでおわかりいただけますでしょうか。山がこちらにひっくり返っております。逆さになっております。こちらに村のようなものが描いてあるのですが、こちらにも山が描かれている。これを下図の段階で見ますと、実際の場所はどこということを正確に記録しておこうという意識、地図の意識があります。
 先ほど眼鏡絵のお話をさせていただきましたけれども、京都の画家でありました円山応挙は、恐らく江戸の司馬江漢たちとは別のルートで、自らも眼鏡絵に興味を持ち、若き日に制作していたということがわかっております。恐らく、こういった作品の中には、単に両岸を描くだけではなくて、両岸からの風景も遠近法を用いて描こうということもございまして、この絵の中には、浮絵や眼鏡絵、いわゆる絵地図、そして先ほどお見せしました連続して続いていく河川の表現、そういったものが複合的に応挙の作品の中に見ることができるのではないかと思います。
 日本におけるこうした川を遡上したり下降したりするような川の表現は、18世紀以前にさかのぼってまいりますと目立ったものは見つけることができませんでした。今お見せしておりますもの(3536)は、12世紀前半の中国、南宋初期の張択端という画家によって描かれた『清明上河図』という作品の一類型のものです。ごらんいただいておりますものは、1577年、明代に、趙浙という画家によって描かれた張択端の作品の模写になるものです。(ベン)という川(運河)が流れているそうでして、この川に沿った、北宋の都でありました京(ベンケイ)という都市の活況の様子を描いたものです。川を遡上するような形で多分描かれてあるのだと思います。時々、こういう城壁などが描かれて、その城壁の内側の都市の活況が描かれることになります。こういった作品などが直接浮世絵における『隅田川両岸図巻』のような作品へとインスピレーションを授けることになったのではないかと、そう考える研究者もおられるようですが、実際的なつながりはまだ研究されていないようです。また、こういった作品が日本にいつの時代に伝わり、日本の河川の表現に影響を及ぼしていったのかということは、これからの研究課題ではないかと思います。
 もう一つ、日本における川の表現で多少文学にかかわる点で考えておきたいと思いますことは、川を下るという一つの流れは、先ほど「旅」というふうに申し上げましたけれども、一つの時間的な流れをつくり出していると思います。それは、旅の移り変わり、旅の時間の流れという点において一つの物語をかもし出す、そういう役割をなしているのではないかと思われます。narrativeという一つの質を認めることができるのではないかと思います。
 もう一つ、これは日本において川に対する意識が高まったと言ってよいのではないかと思いますが、そういったものの非常に深い深層意識の中に、例えば陶淵明の『桃花源記』、桃源郷を発見するという古来からの一つの物語、叙述も何らかに関係するのではないかと思います。『桃花源記』においては、漁師が桃の花咲く渓流に沿って川をさかのぼっていくと、その先に一つ穴のうがった山を見つけ、そこを通ると、その奥に桃源郷を発見する。そういう川の遡上によって発見されるパラダイス、物語という構図があるわけです。したがって、花を求める、何か理想的な場所を求めるという物語の流れの中において川が果たしていた構造的な役割の大きさ、これは必然的に日本人の心の中にも「川」をモチーフとしたときに何らかの影響を及ぼしていたのではないか。例えば幕末期に描かれた浮世絵の風俗画の中です。絵巻物の巻末は実は吉原の花魁たちが華々しくいる遊廓の場所へとたどり着くのですけれども、最初は河口から舟に乗って、最後は遊廓へとたどり着く、そういう構造を持った浮世絵の風俗画などが絵巻物として残っております。それは、隅田川を使って、最後には花としての場所である遊廓へたどり着く、そういう一つの理想の形、物語が奏でられているように思われます。そのように、実在の川あるいは一つの物語や伝説上の川が、日本人の意識の中にはさまざまに交錯し、そして河川の表現、川辺の風景というものが発見されていったのではないかと思います。
 長くなりましたが、ここで終わらせていただきます。

 

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