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歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会 -日本文学に見る河川-

歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会
-日本文学に見る河川-
第五回議事録

平成14年6月7日(金)
日時:14:00〜17:00
場所:中央合同庁舎3号館4階特別会議室


 歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会
-日本文学に見る河川-
第五回議事録


1.開会の挨拶
 
○委員長
   どうも、久しぶりの会合となりました。きょうは、また皆様、お忙しいところ御出席いただきまして、ありがとうございます。
 今回は、前から願っておりました赤坂憲雄さんをようやくつかまえることができまして、きょうお話を伺うことになりました。赤坂憲雄さんは、現在、山形にあります東北芸術工科大学の教授でいらっしゃいまして、専ら民俗学、それから、民俗学周辺の文学、地誌、神話、そういうところにまで自ら探訪して集め、それを分析し、次々に大きな成果を上げていらっしゃいます。きょうは、赤坂憲雄委員から、「川の暮らしと民俗」というお話を、その後で、事務局から「全国一級水系の和歌と祭り」という報告が行われるわけであまります。
 来年は、尾田さんが中心になって、世界水フォーラムですね。そこに、この研究会がなるべくつながっていくといいと思っております。環境問題、資源問題としての水だけではなくて、水は太古以来、人間の生活の中にどんなに深くかかわっていて、その人間の創造力の世界を養ってきたかということは、水フォーラムをやるときは、ぜひ論じなければいけないテーマでしょう。世界の詩人を集めてやったらどうですか。水の詩人、川の詩人を集めて大講演会。きょうの赤坂さんのお話は、そういうところのいい序章にもなるのではないかと思って。それでは、赤坂さん、どうぞよろしく。
 
2.話題提供(1)
 
○赤坂委員
   こんにちは。赤坂です。芳賀先生から紹介をいただきまして、このフォーラムそのものは歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会、たしか「日本文学に見る河川」という副題がついているんですが、余り文学の方のかかわりは僕自身はないので、きょう皆様のお手元に届いているかと思います「山野河海まんだら」という本は、僕が4〜5年前に、2年間にわたって山形県内を歩きまして、聞き書きをしたときの記録であります。その中の、渡し舟のある風景というものを取り上げてみたいと思いました。いろいろな角度から川についての話はできるんですけれども、きょうは「渡し舟」ということで話をしてみます。
 僕の手元に今、昭和51年に出ました北井一夫さんが主に撮られたと思うんですが、写真集があります。今から25年から30年前には、渡し場とか渡し舟はたくさんあったんです。でも、ほとんどもう消えていると思います。山形県内にはついこの間まで、大蔵村の「稲沢の渡し」という渡し場が観光名所のように整えられて残っていたんですけれども、それも、もう利用する人がいなくなったということで、閉鎖されました。最上川の最後の渡し場ということで、もう山形県内には渡し場は一つもなくなったと思います。
 渡し場の聞き書きというふうに特別にやっていたわけではないんですけれども、川の暮らしを追いかけていくと、どこでも、渡し場、渡し舟に出会いました。つまり、橋がなかったんです。橋がないということがどういう意味を持つのか。それは、この川の傍らで暮らしていた人たちでなければわからない苦労があったんです。多くの場合、例えば最上川沿いで言いますと、国道47号が走っている側、その向かい側というのは、山を背にして、ごく土地の狭いところに集落が幾つか点在しているぐらいなんですが、それらの村は、かつては渡し舟によって対岸とつながっていた。そういう村の幾つかも訪ねています。
 渡し場といいますと、この本でもそうなんですけれども、風景として大変美しいんです。ですから、観光名所になったり、こういう写真集にも取り上げられたりするんですけれども、聞き書きをしていますと、決してそういう牧歌的なものだけではなくて、大抵の渡し場には大変悲惨な記憶が絡まりついています。きょう取り上げます「稲沢の渡し」に関しても、明治以降少なくとも二度、一度は7人ほど、もう一度はその2倍、十数人でしょうか、死者を出す事故が起こっています。最上川の雪解け水が流れている季節は、流れも速いですし大変危険なんです。牧歌的に見えるその渡し場の風景の背後に、死者たちの記憶というのが絡みついている、そんな気もいたします。
 現在では、川沿いを歩いていると、あそこに渡し場がありました、というような話は至るところで聞きます。ワイヤーの跡が残っていたりとか、崩れかけた渡し場の跡があったりとか、そんな形でしか確認できませんが、僕自身は聞き書きの中で、何人かの方に、この渡し場の民俗ということに関してお話を伺っています。
 先ほどから何度も触れています大蔵村の稲沢の渡しというのは、山形県の中では最上地方、北の方なんです。その最上川沿いに合海とか、清水とか。清水というのは、かつて川町があったところで、最上川舟運で大変栄えたところです。その上流、下流幾つかのところに渡し場がありました。烏川、稲沢、作之巻、そういったところにありました。
 こちらの写真が載っていたのでちょっとチェックしておいたんですけれども、これが烏川の渡しです。もうここは、僕が訪ねたときはなくなっていました。それから、こちらが後ほど触れます外川というところなんですが、ここに家が見えます。僕が訪ねたときは、2人の老人だけが集団離村の後に残っていました。その方たちの話も伺っています。
 なぜ、渡し場なんだ。実は僕が関心を持ったのは、歴史家の方であればすぐに気がつくんですけれども、最上川の流域で、渡し舟の船頭さんが「タイシ(太子)」と呼ばれているんです。なぜタイシと呼ばれていたのか。それを知りたくて僕はこの辺の聞き書きをしたようなものなんですが、まず大蔵村の稲沢の渡しで現役の船頭さんであった方、そして、そのお母さんから聞き書きをしました。その中で、船頭のことを舟越(ふなこし)、舟渡(ふなど)、タイス、タイシ、ダイスとなまっていますけれども、そういう名前がさまざまにあったようですけれども、このお母さんがしみじみと言われていたのが、「舟越で、一代、喰(か)せてもらったな」ということでした。
 その言葉にはいろんな意味合いが含まれているんですけれども、そのお宅は、明治20年代に寒河江に生まれた祖父が大蔵村に開拓の仕事でやってきて、働き者なものですから、村の人に見初められたというか認められて、村の女性と結婚したんです。そして、ここに暮らすようになった。その祖父が若いころから、舟越、渡し場の船頭をしている。烏川の渡し場の船頭をしていたんです。
 多分象徴的だと思うんですけれども、その祖父は、つまりよそ者である。そして土地を持ってないんです。多分相手も土地持ちの娘ではなく、そして結婚して、船頭になっているんです。それから、その息子さん、さらに孫と3代にわたって、この菊地さんの家では舟越、タイシをやって暮らしていた。
 渡し舟のことを、「タイス舟」と呼ぶというふうにも聞いています。そして興味深いことに、先ほど触れました清水という近世の最上川舟運で栄えた川町の中に道筋が幾つもありまして、その一つに「太子道」という地名がわずかに残っています。太子信仰にかかわるような遺跡物は一切なくなっていますが、一本の小さな道が「太子道」ということで、かつての歴史の記憶をわずかに残している。
 いろいろなことをお聞きしました。僕が関心を持ったのは、そのタイシと呼ばれた人たちがどのように収入を得ていたのかということなんです。戦後になると、渡し舟の船頭さんは多くの場合市町村に雇われる、市町村の嘱託職員のような形で働いています。もう少し時代をさかのぼっていくと、小さな集落が抱えるような形での船頭さんもいた。あるいは、個人持ちの船で渡しをしていた人もいたようです。
 それでは、稲沢の渡し、烏川の渡しではどういうシステムがあったのか。まず、渡る人たちから渡し賃を1回ごとにとる形があります。それから、常にその渡しを使う集落があるわけですが、対岸の集落は村が違うんです。村の違う対岸の集落の人たちからは、その集落からまとめて年に1俵から2俵の米をもらうという形であったようです。
 そして、大蔵村のこの渡しを利用する集落が4つ5つあるんですけれども、その集落を女性たちがめぐって、「秋廻り」、「正月廻り」と称して米を集めて歩く民族があったようです。この渡し場の女たちが集落をそれぞれ回って、「烏川のダイスだ、秋廻りが来た」というふうに。多分これ、唱えごとはもう少しあったはずなんですが、僕が話を伺ったお母さんは、自分では歩いたことがないということで、これ以上のことは聞けませんでしたけれども、烏川のダイスだ、タイスだ、秋廻り来たと唱えごとをしながら、家々を1軒ずつ回って米を集める。それが3俵、4俵になったということです。
 「秋廻り」、「正月廻り」というスタイルは、かなり古い時代からのタイシ、渡し場を支えていた集金のシステム、集金というんでしょうか、支えるシステムだったと思います。こういう形を聞くことができたのは、ここだけでした。恐らく明治の初めごろから、こういうスタイルだったんだろうと思っています。どこにも橋がなかったんですね。今は橋があります。
 戸沢村の金打坊というところを訪ねました。鮭川と最上川が合流する地点にありまして、戸数が17戸のとても小さな集落ですが、田んぼはたくさん持っています。そして、ここにはまだ川漁を行う人たちが何人もいて、古い時代の面影を伝えています。この家々の向こう側に鮭川が流れている。ですから、しょっちゅう水上がりなんです。堤防をつくればいいんですけれども、堤防をつくると田んぼがつぶれるというので嫌がって、僕が訪ねた年の前の年にも水上がりがあったということで、田んぼが全部水びたしになった。この家々のすぐ下まで水が上がったということで、一面の湖ですよね。そういう状況にあったということです。
 この村でも渡し場の話をお聞きました。この金打坊という村そのものは地名伝説にもいろいろ出てくるんですが、弁慶がついていた鐘が飛んできて、そこに村がつくられたという話があったり、出羽三山のお参りにかかわって、その舟宿があったというふうにも言われている。あるいは鮭川の方、上流の方は真室川という大変ブナの森があって、僕が訪ねたときにも、ついこの間まで木の伐採、木流しということをやっていた村々がありまして、そこで切り出された木が、木流しによって鮭川をずっと流される。それが、一たん、金打坊の土場に集められるんです。そのまま最上川に流してしまうとわからなくなるということで、木材を改める土場があったとも言われています。あるいは、木材と限らず、さまざまな荷を改める川関所が置かれていたというふうにも言われています。
 今も、村には川漁を行う人たちがいます。アユ、ザッコ、そしてサケもとられています。女たちは男たちがとったサケ、アユを抱えて行商に出るということが、ついこの間まで行われていました。
 この村では、渡し場のことを「フナト(舟渡)」というふうに言っています。その舟渡についてもいろいろお聞きしたんですけれども、今は立派な橋があります。昭和50年代に橋がかかったんです。それまでは、舟渡、渡し舟でしか往来できなかった。川岸にあった渡し場には小屋があって、「タイシ小屋」と呼ばれていました。そして渡し舟をこぐ人たちを、この金打坊でも、あるいは戸沢村一体で、「タイシ」と呼んでいたということです。
 この集落では昔から、このタイシ番というのは、集落全体、全戸が順番に担当する周り番だったんです。タイシ小屋には札がかかっていて、順番にその役割をやっていく。朝の子供たちを学校にやらせるための渡しから夕暮れまで、そこに人が詰めて、対岸に人があらわれれば舟をこいで呼びに行く。時間が過ぎるとタイシ番は家に戻ってしまいます。その後帰ってきた人は、対岸から集落に向かって呼ぶんです。そうすると一番岸に近い家の人が、子供たちがきっとその家の人を呼びに行くんです。もうあとは自分で勝手に舟を出して迎えに行くという形になります。戦争のころは女のタイシが多かったということで、女性たちがこの役割をやっています。
 この村は三方を川、背後を山に囲まれていますから、この渡し舟がなければほかの地域につながることができない。ほとんどの家が舟を持っていたということです。「ムカサリ」というのは山形では結婚のことなんですけれども、ムカサリのためにこの村にやってきたおばあちゃんの話を聞いたときにも、上流の方から舟に嫁入り道具を積んで、たくさんの人が乗った。そして自分は嫁入り衣装に身を包んで、舟に乗ってこの村にやってきた。そういうことを70代のおばあちゃんたちはみんな語ってくれます。
 興味深いんですけれども、この最上川の中流域の村々では、大抵渡し場の船頭さんが「タイシ」と呼ばれています。そのタイシって一体なんだろう。とても気になってきました。例えば、戸沢村はかつて8カ所の渡し場があったと言います。この金打坊の渡し場もその一つだったわけですが、専門の船頭さんを雇う場合と、集落の全戸が金打坊のように周り番で船頭役を務める場合がありました。これ、昔々を考えてみるとどうなんでしょう。村抱えで集落抱えで船頭さんを雇う場合と、全戸が周り番で務めるというその2つの形態があったんだろうと思います。どちらが古いのか新しいのか、一概には言えないと思っています。
 この船頭さんはタイシと呼ばれて、そのタイシ役というのは一体何なんだろう。とても気になるんですが、少なくとも世襲ではない。代々家から家へと受け継がれる仕事ではないというふうに感じます。むしろ一つの権利として意識されている、そういう様子がうかがえました。
 大蔵村の稲沢の渡しの菊地さんから話を聞いていたときにも、村の人たちの中に、自分もやりたいということでちょっかいを出してきた。それではということで、余り言われるんで、やってもらったところが長続きしなかった。実はこの船頭さんの仕事は、忙しいときには何十回もこの川を往復しなくてはいけない。体に相当きつかったんです。川風で心臓を悪くした、体を壊したという話も何度も聞きました。
 恐らく一つの権利としてそれが意識されていて、ほかの人たちが、金になるということでやっても長続きしない。そして、また自分のところに戻ってきた。そんなことも聞きます。恐らくですけれども、想像というふうに言っておくべきですが、田んぼや畑をほとんど持っていない比較的貧しい家が、このタイシ役を専業として選んでいます。それも集落の人たちがその家の状況というものを見て、任せようという形でこのタイシ役がどこの家がやるかということが決まっていくようです。
 聞き書きによって届く時間の射程というのは決して長くはないです。ただ、僕が聞き書きに歩き始めた10年ぐらい前からの感覚で言いますと、例えば明治40年代の老人に話を聞くことができると、その老人の記憶というのは、明治維持のあたりまで何とかさかのぼることができます。自分のおじいちゃんが明治維新の前後に生まれている。そのくらいなんです。そうすると、聞き書きとしてある程度そのあたりまでは届くんです。
 ですから、僕自身の聞き書きによって届く時間の射程は、明治以降だなと思っています。なぜ最上川の中流域では渡し場の船頭さんがタイシと呼ばれてきたのか。民俗学者の中には、対岸のスノイカというふうに注釈をつけたりしていますけれども、全くだめですね。なぜだめかというのは本当は事象的には言えないんですが、歴史家の方であれば、すぐに井上鋭夫さんの「山の民・川の民」という著作が頭に浮かぶはずです。この本を読んでいましたから、最上川で「タイシ」という言葉を聞いたとき、僕はびっくりしました。どういう人々かといいますと、新潟県の岩船郡、荒川とか三面川の流域の地方の話なんですけれども、近世から明治期にかけて、この地域に「ワタリ」とか「タイシ」と呼ばれていた人たちがいたというんです。ワタリというのは、舟を操って交易とか物資の輸送に従った渡り師、世間を渡るのワタルですね。定住的な人々ではないということで、ワタリと呼ばれたんだろうと思います。彼らはどうやら太子信仰を奉じ、中世にはゲンシコウシュウの担い手として活躍した人たちである。そして、近世になると彼らが箕作り、箕をつくったり、塩木流し、塩木として上流で切り出された木を木流しで流して行って、海岸の村々で塩を焼くのに使う塩木、それを流す。あるいは、筏に組んで材木を上流から下流に流す筏流しということを生業とした、タイシと呼ばれる人々がいたというんです。
 彼らは、井上さんによれば農地を持たなかった。そして、河川や海のほとりの船着場、湊などに住み着いた川の民だっただろうというふうに、井上さんは資料から、あるいは民俗調査から語られています。この人たちがどういう人たちなのかということに関しては、井上さんは、中世にまでさかのぼるだろうというふうに考えられています。中世には法印呼ばれた山伏、修験者たちが、これはたしか井上さんの言葉だったと思いますけれども、山の知識から何からいろんな知識を持っていて、そして、中世には山伏たちが金山、鉱山を掘る仕事をしているんです。
 その法印と呼ばれた山伏たちに従って、実際に金掘りのような仕事をした山の民がいた。そして、彼らが近世の初めになると、修験者たちが金山を掘るということから撤退していく。そうすると、実際に金を掘っていた山の民たちも山をおりて、以前から彼らが舟を操る川の民の顔を持っていたんですが、川沿いに定住の地を求めて、そして川の民となり、ワタリとかタイシと呼ばれて交易とか物資の輸送に従い、あるいは箕作り、塩木流し、筏流しという生業につくようになったんじゃないか。
 というふうに、中世、近世、そして明治までのワタリ、タイシと呼ばれた人たちの歴史を、井上鋭夫さんは資料や民俗調査によって明らかにされている。そして、荒川流域には現在もまだかなりのタイシがいるというふうに、さりげなく書かれています。このタイシというものを頭に置いて、最上川の船頭さんたちが、タイシと呼ばれたことにつながりがあるのかないのか。地図が頭にある方はすぐにわかると思うんですけれども、新潟県の荒川とか三面川というのは、もう山形のすぐ境ですね。河川で言うと三面川、その向こうが念珠関があって念珠関川、さらに荒川、赤川、そして最上川になる。河川としては大変近いですよね。
 そこで、僕はまた別の村を訪ねて聞き書きを重ねていったんですけれども、先ほどから出ている戸沢村の写真を見ていただいたんですが、小外川という村を訪ねました。この辺はもう最上川の川幅も広くて、80mから100mぐらいの幅があるんです。こちら側が国道 47号が走っているメインストリートなんです。その対岸に村があります。小外川と言いまして、戸数が13戸の村でした。僕が訪ねたときにもう集団離村をしていたんです。橋をかけてくれ、橋をかけてくれという要望を出し続けて、結局ここにはかからなかった。上流の方にはかかっております。ここは結局、子供たちの教育のため、病人が出たときのためといった理由によって、ほとんどの人たちが離村していった。
 頑固に、おれは離れたくないと言って残っていた一人の老人を僕は訪ねました。この家に暮らしていたのが加藤イサミさんという方でした。何年か前に亡くなられたので、ここは既に廃村状態になっていると思います。
 幾ら話を聞いても僕には理解できなかったことがあります。この村の人たちはどうやって暮らしていたんだろう。田んぼもほとんどないというんです。明治20年代に開墾されたんだけれども、田んぼ仕事がへたくそで、ちっとも米はできなかった。いつの間にか放棄されてしまった。畑もほとんどないというんです。野菜をつくってもウサギやなんかに食われてしまって、大豆もつくれない。小豆ぐらいしかつくれなかったというんです。さすがに小豆は固くて、ウサギさんも手を出さなかったということなんです。
 一体どうやって食べていたんだろうと不思議で不思議でしようがなかったんです。ところが僕が話を伺った加藤さんというのは、養子縁組で50年ほど前にここに来た人なんです。下流の立川町の農家から来ているんです。ですから、向こうの歴史がなかなかたどれないんです。そして、加藤さんが言うことでは、戦後はほとんどの家が出稼ぎをして食べていた。戦前はどうしていたんだろう。炭焼きをしていたというんです。そして、悲惨なことに昭和9年の凶作のときには、この村から、ほとんどの10代の女の子たちが身売りという形で売られていっている。そういう歴史もあります。僕は新聞で知っていたんですけれども、聞くことはできなかったですね。多分、その加藤さんと同い年の小学校では席を並べていた女の子たちが、みんな姿を消しているはずです。
 それでは、炭焼きが始まる前は何をしていたんだろう。うまく歴史をたどることができなかったんですが、見えてきたのは、川漁がかなり盛んに行われてきたということです。全戸に舟がありました。もちろん渡し場もありました。明治10年の戸籍簿を調べてみると、戸数は9戸でした。その9戸のうち7戸が雑業、2戸が農業というふうに出てきます。2戸が農業というのも僕はほとんど信じていませんけれども、雑業というのは、恐らく川漁であったり、舟運であったり、そういう川仕事にかかわる仕事だっただろうと思われます。出稼ぎ、炭焼き、川漁や舟運にかかわる仕事、いずれにしても、ほとんど田畑がない。農民ではないんですね。川の民です。川の民の村の歴史が消えていく最後の場面に僕は立ち会ったんだろうと思います。
 聞き書きの後に、いろいろな資料をあさり始めました。「新庄古老覚書」という近世の終わりにできたらしいんですが、さまざまな伝承を集めた本がありまして、復刻もされております。その本を開いてみると、小外川、ほかにクツガミとか何カ所かあるんですが、つまり最上川の国道47号が走っている方から見ると、対岸の5カ所ぐらいの村の名前が出てきて、その村々の始まりというのは、中世の末に最上ヨシミツによって置かれた川舟が遭難事故を起こしたとき、その救助をするために助ける「助け屋敷」と出てくるんですが、助け屋敷として最上川沿いの5カ所ぐらいのところに置かれた。その助け屋敷が始まりとなって村々の歴史が始まったというようなことが近世の末期の伝承の中に出てくるんです。果たしてどういう歴史があったのか。伝承の向こう側に広がっている歴史というものは確認できないですね。
 それからもう一つ見つけたのが、名所図絵だったんです。これは庄内のどこかにあるもので、新庄史誌か何かに入っていました。出羽三山に参詣する人たちが、最上川をずっと使うわけです。ですから、その絵図を見ると、最上川を下っていくコウカイ舟とか、ヒラタ舟と呼ばれた舟、米を積んだ舟が下って行く。帆をかけているんです。あるいは、出羽三山に参詣する人たちがたくさん舟で下って行く。そして、空っぽで上ってくる舟もある。 そういう絵図を見るととてもおもしろいんですが、その絵図がその中心に描いているのが、小外川のすぐ傍らに隣接してある仙人堂というところなんです。今、白糸の滝ドライブインというところがあって、その対岸にこの仙人堂があります。舟をチャーターすれば渡れるんですが、この仙人堂のあたりの絵図を見ますと、明らかに修験の霊場なんですね。ちょっと持ってこなかったので具体的にはお話できないんですけれども、山の斜面一帯に修験にかかわるお堂とか地名がたくさん並んでいるんです。近世には恐らくここが修験の霊場であったということがわかる。そして、小外川と大外川という2つの外川の人々が、この仙人堂を守ってきたというふうに言われています。離村するときに、対岸の村の人たちに仙人堂の管理を任せた。それまでは、間い間、外川の人々がこの仙人堂を守ってきたんです。
 そして、僕が話を伺った加藤さんのお宅には、「羽州外川山虫除仙人大権現」という掛け軸、そして仙人様のお姿の掛け軸が残っていました。加藤さんは、これは最上川から拾い上げたものだというふうに聞いているということでした。この仙人堂は、かつて田んぼにつく虫を除ける、退治する力があるということで、ここのお札が大変人気があったんです。みんなお札を買って行って、田んぼの水口にそれを差しておくと虫がつかないという、そういう御利益があったらしいですね。
 その絵図を見ていたときに、僕がこれは衝撃を受けたんですけれども、小外川の集落の周りには魚がぴょんぴょん飛びはねている。多分、魚をとっていたんですね。舟も行き交っている。そして、その集落の中に「太子堂」という文字があったんです。太子堂というのは、聖徳太子の太子の堂なんですね。川岸にこの太子堂があるというふうに出てきました。恐らく200年ほど前の絵図だろうと言われています。今、太子堂は全く姿、形もありません。聞き書きの中でも、太子堂に触れられたことはなかった。ですから、そんなものがあるなんて夢にも思っていなかったんですけれども、その名所図絵の中には、この小外川の岸辺に太子堂があったんですね。いつの時代にか、水上がりで流されてしまったんだろうと思います。
 改めて、最上川の中流域の村々で、なぜ渡し場の船頭さんたちがタイシと呼ばれたのかという最初の問いに戻りたいんですけれども、この戸沢村の小外川には、中世末期に遭難救助のためにつくられた「助け屋敷」だという伝承が残っていました。そして、仙人堂というすぐ傍らの霊場、修験の霊場とも深いかかわりを小外川の人たちが持っている。そして、太子堂があった。この村の川の民が太子信仰を携えていた人たちだということが想像できます。
 こうしたか細い糸をつないでいくと、タイシという呼称の背後にある歴史というのが、少しだけ見えてくるんじゃないかという気がします。かつて最上川の流域にも、タイシと呼ばれた、そして太子信仰を携えて川の仕事に従う、物質の運送とか、交易とか、川漁という仕事に携わる人たちが点々といたんじゃないか。そのかすかな痕跡が、今渡し舟の船頭をタイシと呼ぶことに残されているんじゃないか、そんなふうに僕自身は想像しています。歴史の人たちであれば、このタイシということに大変関心を持たれるだろうと思います。
 そして、このタイシという言葉の背後に、実はとても豊かな中世以来の歴史が、川の民をめぐる歴史がうずもれていることに僕は関心を持ってきました。荒川とか三面川に関しては報告があるんですけれども、最上川のタイシについてはほとんど報告もないということで、きょうはそんな話をさせていただきました。ちょっと長くなりましたけれども、終わります。
 

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