ホーム >> 政策・仕事  >> 河川トップ  >> 審議会等  >> 過去情報

河川局

歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会 -日本文学に見る河川-

歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会
-日本文学に見る河川-
第六回議事録(案)

平成14年9月13日(金)
日時:13:30〜15:30
場所:最上川リバーポート


 歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会
-日本文学に見る河川-
第六回議事録(案)


1.開会の挨拶
 
○事務局
   ただいまから第6回歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会−日本文学に見る河川−を開催させていただきます。初めに資料の確認をさせていただきます。
 お手元に議事次第がありまして、その次に資料目次があります。資料1から4のうち資料2の芳賀委員長の話題提供資料がこのA3判、これは別刷になっております。それから雑誌「FRONT」、それから東北地方整備局の袋に入った若干の資料がございます。後ほどこれについては「FRONT」の説明と併せて事務局が説明することになっております。資料はよろしいでしょうか。
 それでは芳賀委員長、よろしくお願いいたします。
 
2.話題提供
 
○委員長
   今日は昨日の夜からいろいろと皆様にお世話になりまして、楽しませていただいております。ちょうどお天気にも恵まれまして、さっきまで最上川を下って最上川の風情をたっぷりと堪能することが出来ました。ありがとうございました。
 今日は私が最初に「斎藤茂吉の最上川」というのでお話をいたしまして、それから事務局の方から「和歌に見る最上川の変遷」というご報告もあります。それから今日の夕方から明日にかけての北上川についての、北上川流域探訪について担当の方々からまたお話をいただくということになっております。私のは今日ここに資料をコピーしてお配りいただきました。「芭蕉と茂吉の最上川」というふうになっております。斎藤茂吉だけではなくて、併せて芭蕉も入れておきました。芭蕉の最上川下りもさっき出発点からいま芭蕉が上がってところまで下って来たわけです。これは皆さんよくご存じですし、大石田に寄って、これは元禄2年だから1689年でしたかの旧暦5月28日から6月1日まで大石田にいたわけで、陽暦に直しますと7月14日から17日、だから今日見たあすこの連歌の写しのところに元禄2年仲夏とありましたね。5月末から6月の初めですからやっぱり仲夏でいいのかな。ちょうど夏は4、5、6月の3カ月が夏で、7月になりますと秋になるから、ちょうどその夏の終わりから、出羽三山に入って行った頃は秋の初めということになるわけです。だからその頃の村山地方というのは、その季節では非常に暑い季節で、その暑い季節の中でちょうど五月雨の時期でもあるわけで、雨が多い6月末から、今の暦で言うと7月の初めになって、いろいろ台風も来始めるという頃でありまして、なかなか水も多かったし、暑い季節でもあったろうと思います。
 ちょうどここに大石田のところを引いておきました。これは非常に調子のいい文章なので、読んだだけで気持ちがよくなる。読んだだけでなんか芭蕉が分かってしまうという、そういう文章であります。ですからちょっと国語の時間という感じで、高橋先生は国語の先生ですが、私は国語ではないんですが、まあちょっと読んでみましょう。

 最上川乗らんと、大石田といふ所に日和を待つ。

 ちょっと天気が悪かったんですな。それで船はすぐには出なかった。

 ここに古き俳諧の種こぼれて、忘れぬ花の昔を慕ひ、芦角一声の心をやはらげ、この道にさぐり足して、新古二道に踏み迷ふといへども、道しるべする人しなければと、わりなき一巻残しぬ。このたびの風流ここに至れり。

 うまい文章ですね。簡潔で、しかもいろいろな古語をちゃんと使って、典拠のある古語をみんな使って、「忘れぬ花の昔」というのは何ですか。注を見ますと種からの縁語で花と出てきたんですね。昔から、この東北は東北でそれなりに歌とか俳句の風流がちゃんと伝わってるわけです。だからこれは元禄年間あたりになりますと、大体日本中に俳句のネットワークが出来ていて、あちこちでちょっとしたお金持ちと言いますか、商家とか豪農とか、それからこの大石田のようなところで船問屋をやってる人とか、そういう人ですと大概、この元禄前後の頃になりますと、もう俳句をやっています。芭蕉はその俳句のネットワークに従って追っかけて奥の細道の旅をしたわけですね。行った先々に必ず芭蕉の名前が既に知れていて、江戸の情報がどんどん入ってきていますから、芭蕉先生がいらっしゃると言うので大勢で待ち受けているわけです。尾花沢の鈴木清風のところなんかもそうでした。あれ山刀伐峠からにわかに芭蕉が現れて「おーどなたですか、芭蕉先生ですか」というわけじゃなくて、もうちゃんと何日か前に連絡がいってるんじゃないでしょうか。これから行くぞと。それで鈴木清風のところでは、家の中もきれいにして、江戸からいま一流の、元禄年間に入った頃は芭蕉は江戸でも名高い第一線の前衛詩人ということで、よく知られていましたから、その俳人が来るというので鈴木清風も待ち構えていた。清風さんは紅花問屋でしたね。大きないい家に住んでいらっしゃった。今でも尾花沢に鈴木清風のお宅が残っております。今よりもっと趣があったでしょう。庭なんかも広くて。今は庭もなくて、ただ道路からすぐに入り込むようになっていますが、もっと風情があったんだろうと思います。あそこでもなかなかいい俳句を作っています。

 涼しさを わが宿にしてねまるなり

 というんですね。「ねまる」というのは尾花沢あたりの古い方言だったそうですね。ねまるというのは寝ころぶという意味ではなくて、こうやってくつろぐことですね。ゆっくりと座ること、あぐらをかくこと。それを「涼しさを わが宿にして」というのは、これまた芭蕉でないと出てこない、いま考えてみても非常に、断然ハイカラな、モダンな、詩的なとらえ方だろうと思います。涼しさ、そのフレッシュネス、フレッシュエア、それ自体をわが宿にする。つまり芭蕉は尾花沢ではその涼しい風の中に泊まったわけですね。そこで私は、その涼しい風を自分の周りにたたえて、そこでゆっくりくつろぐのだというので、考えてみるともう一種シューリアリズムみたいな、そういう詩です。だから1920年代とか30年代になってフランスあたりでシューリアリズムの詩の運動が出てくるわけですが、あんなのは芭蕉から見ればちゃんちゃらおかしいというようなものですね。俳句というのは意外に前衛的、今日からみても先端的な、前衛的な詩で、それがあるゆえにいま世界中に俳句が広まっていて、西洋、アメリカやヨーロッパの詩に非常に深い、深刻な影響を及ぼしつつあります。ものの捉え方、ものをぎりぎりに、これ以上絞れないところまで絞ってものをつかまえる。その焦点が強いから、深いから、捉えたものの奥行きがその詩の中に入ってしまうわけですね。
 そういうことをいま俳句はヨーロッパの詩人たちに教えているわけです。ヨーロッパの詩というのは長ったらしいんですよ。議会演説みたいな、あれは建設省なんとか局報告書みたいな長い長い詩でね、それで神がどうだの、天と地がどうだの、人間の運命はどうこうで、歴史はどうこうで、男と女はどうこうで、死ぬということはどうこうでと、そんなのは哲学の本で書けばいいものを詩の中で述べる。だからわれわれから見ると、これが詩かというようなのがヨーロッパの伝統的な詩でした。もうルネッサンス以来ゲーテだってボードレイだってランボーだって、まだまだ長い。それに比べて俳句というのはぶった切っているわけですね。でもダイヤモンドの1粒を、初めから光ったところだけを取る、周りの原石は捨ててしまうというのが俳句。だからその「涼しさを わが宿にしてねまるなり」なんていうこと、それ自体だけでも驚くべき詩を作り上げている。ドナルド・キーンさんの訳によると、メーキング・ザ・フレッシュネス・マイ・ロジンかな、バイ・アイライフ・アト・イーズとかいう。アイ横になるイースね、メーキング・フレッシュネス・マイロジン。フレッシュネスをわが宿にして、直訳してるわけですね。それでちゃんと一つの詩の世界が成り立つというのは、ヨーロッパの長広舌をふるってきた詩人たちから見ると驚嘆すべきことなわけです。
 〔参考〕「涼しさを わが宿にして ねまるなり」
    Making the coolness My abode, here I lie Completely at ease.
     「五月雨を 集めて早し 最上川」
    Gathering seawards The summer rains, how swift it is! Mogami River.
     (ドナルド・キーン訳 「THE NARROW ROAD TO OKU」より)
 そういう詩がこの17世紀の末のあたりの日本中に広まっていて、この尾花沢にも、あの大石田のような所にも、やっぱりこれは最上川が文化を伝えてきているから、酒田から、鶴岡からずーっと上方の文化が入ってきて、その中に俳句も入ってたわけですね。江戸の情報がどういうふうに伝わってきたかと言うと、やっぱり羽州街道なんか伝って入ってきたんだろう。それから紅花のルートを通っても江戸の情報が入ってきていたんだろうと思います。これは考えてみると驚くべきことですね。いまわれわれがちょっと大石田に立って、こんな集まりはなかなか出来ない。わざわざ東京からこうやって来ないとこういう集会出来ないわけですが、大石田では芭蕉の時は、芭蕉が行くとそれを歓迎して芭蕉先生を囲んで一座を設け、さっきのような連俳をやる。商売人ですよね。船問屋さん、船を扱っている人たち。その人たちが芭蕉を歓迎して、さっきあすこで読んでみると結構悪くない。「五月雨を集めて涼し最上川」で始まって、それが芭蕉でしたが、あとの現地の人たちの俳句も五七五も七七も、そう悪くはない。ちゃんとローカルカラーがよく出ているものだと思って、改めて読んで感心しました。ああいう俳諧の種がこぼれていたけれども、新しい俳風と、それから古い詠み方と、それが両方あって、それが一体どっちにいったらいいか分からないでいた。さすがに大石田は田舎ですから。そこに「道しるべする人しなければと、わりなき一巻残しぬ」と。わりなきというのは、やむにやまれず巻いた連歌一巻とありますが、むりやりに連句をやって出来た。あれはかなり芭蕉も手を入れてるんでしょうかね。そういうことまで分からないかな。でも、ここはこういうふうにしたらいいんじゃないかいと、芭蕉先生が言ったかも知れない。それであれだけの質の高い連句が残ったわけです。あれは鶴岡でやった時もちゃんと残ってますし、それから尾花沢での連句もなかなか悪くない。だから徳川期に入って地方の文化水準というのは非常に高まっていたことが分かりますね。何も徳川期になって急に高まったわけではないんでしょうが、しかし、徳川期になると社会が安定して、その中にああいう文芸をたしなむ人たちが、商売のかたわらたしなむ人たちがあちこちにいるようになる。そしてそれぞれにかなりの水準の高い俳句を作る。山形県内でも意外なところにそういう俳句の集団が出来ていて、今日まで伝わっていたり、書き物で昔の句集がそのまま残ったりしております。こういうのを集め出したら大変なことになると思います。
 「このたびの風流ここに至れり」というのは、これはどういうことでしょう。大石田連衆の風流心をたたえることばと、須賀川で「風流の初やおくの田植哥」があって、ここが大石田まで来てやって、その風流を追ってきた旅のきわみであるというようなことを言ってるんです。全体としてこの奥の細道を読んでいきますと、何と言っても出羽の地域に入って、尾花沢に行って、それから大石田、それから羽黒三山、そして鶴岡にくだり、酒田に入り、象潟に行き、それから佐渡に行き、その間の道中の俳句が最高ですね。出羽から始まって、「荒海や佐渡によこたふ天河」あそこまで。出雲崎ね、あそこまでが奥の細道の中では俳句も文章も最高峰に達して、その後ゆるやかに大垣に向かって下って行く。金沢に向けて大垣に向かって下って行くというふうになっているように思います。
 なんでまたこの出羽が、それから大体芭蕉はなんで出羽の国なんかに来たのか。詩人だの歌人だのがろくに来たことがないような、能因法師が昔来て、象潟あたりで歌を詠んだとかいろいろ言われていますし、西行法師もこっちまで来ましたかね。白河の関とか、あっちの方は行くわけだけれども、こっちまで来たか、めったに詩人、歌人という人は、まして中央の俳人なんてのは来たことのなかったような所に、芭蕉がどうして来たのか。それ分かってるんですかね。ちょっと研究しなければいけないですね。これ山形県建設事務局、大いに力を入れて、なぜ芭蕉は山形に来たのか。大問題ですね。なぜ? 多分出羽三山に非常に関心があったんだろうと思いますね。あそこが奥の細道の眼目であったんだろうと思います。そこに行くために尾花沢に下ってきた。それから山形、出羽の国が非常に古い、古代からの文化を残している。この元禄の頃かはら見ても一種の秘境である。秘境とまで言わなくても、古い文化がそのまま残って、あまり中央文化によって汚染されてない所だというのが芭蕉には分かっていて、それで入ってきたんじゃないかと思います。だから尾花沢に入ってきた時も、曾良が作った俳句で、あすこでは古代の面影があるというような俳句を書いています。それから今の「涼しさをわが宿にしてねまるなり」という、その土地の古い言葉を使っているというのも、その土地に伝わる古い由緒のある言葉、それからその言葉が伝えている由緒のある人々の生活感情。そういうものに対して芭蕉が非常に興味を持ち、非常に共感するものがあったからだろうと思う。そしてやっぱり出羽に来てよかったという感じで芭蕉は旅を続けたんだろうと思います。それから最上川に入っていく。だからこの奥の細道は意味が深いんですね本当に。奥の細道の文章は曾良の日記と照らし合わせても、いろいろなところでフィクションしていることは分かりますが、しかし、全体として芭蕉の精神がより凝縮され、より緊張高くなって表現されてくることは言うまでもありません。それからその次の

 最上川は陸奥より出でて、山形を水上とす。碁点・隼などいふ恐ろしき難所あり。板敷山の北を流れて、果ては酒田の海に入る。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。これに稲積みたるをや、稲船といふならし。白糸の滝は青葉の隙々に落ちて、仙人堂、岸に臨みて立つ。水みなぎって舟危うし。

 五月雨を集めて早し最上川

 素晴らしい、モーツアルトの協奏曲かなんかを聞いているような、本当に調子が高くて、それから文章のリズムがおのずからある。だから地理的にも非常に芭蕉はこの地域のことを研究していることが分かりますね、これでね。
 最上川は陸奥−というのは何ですかね。山形を上流とするのは実は最上川の支流・須川である。でも芭蕉がここで陸奥と言っているのは、どこを言ってるのかよく分かりませんが、でもこの吾妻山、朝日、それから奥羽山脈、蔵王山につながる奥羽山脈、そういう山々からいろいろな支流が出てきて山形あたりでそれが合流していく。村山盆地で合流していくということを当たっていて、これがあるから五月雨を集めて早し−という句が出てくるわけですね。ここの前提があるから。
 要するに最上川は置賜盆地から村山盆地、そして最上を経て庄内平野へと、いわば置賜、村山が漏斗の形で三方山に囲まれて、その三方に降った五月雨がみんなさまざまな支流になって最上川に集まってきて、そしてこの急流を作り上げて本合海のところで急カーブをなして酒田へ向かって行く。そのことがよく分かっているわけで、芭蕉は何かかなり詳しい地図を見て語っているんじゃないかと思う。朝日、飯豊、そして吾妻の山々、奥羽山脈の山々、それから月山連峰、出羽三山の連峰、その三方が山になっていて、そこに降る雨が全部この盆地の底に集まってきて最上川になっていく。そのことがあるから、この文章で芭蕉がそのことを認識していることが分かります。それを認識しているから「五月雨を集めて早し−」と出来たわけです。この俳句のキーポイントは「集めて」というところですね。
 「早し」でも「涼し」でもどっちでもいいんです。何よりも大事なのは「集めて」という三方、四方から降る雨を。ギャザリングとさっき船頭さんが言ったけれども、レシービング・オール・ウオータース・フロム・オールサイズ・マウンテン・ザ・モガミリバー・ランス・ファーストというわけでね。「集めて」は、直訳すればやっぱりギャザリングかもしれませんが、そこの感じがあるわけです。芭蕉はこういう動詞の使い方が非常にうまい。非常にと言うか、おそろしくうまい。さすが大天才。古今東西、指を屈する世界大詩人の中の1人に入るだけのことはあって、だからこれ英語に訳す時なんかも、この「集めて」を何と訳すか。キーンさんの訳でももっと見てくればよかったんですが、わすれました。これはつまり芭蕉がこの出羽の地形、出羽のことをかなりよく研究していて、出羽の地形が頭の中に大体納まっていたということの証拠だろうと僕は思っていつも読んでおります。
 それから碁点・隼。これはこの頃から有名なところで、さっきこの碁点も隼も眺めて来ました。それから板敷山というのは、これは出羽三山の羽黒山から最上川の方に突き出ている山で、今もちゃんと地図に載っています。標高 630m、これは下の注にも出ています。歌枕にもなっているんですね。月山山脈の先端と出てます。

 板敷山の北を流れて、果ては酒田の海に入る。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す

 板敷山なんてどうして歌枕になったんでしょうね。これを詠んだ歌があるわけですね。これは新庄工事事務所は出羽の歌枕をちょっと研究しておかないといけませんね。歌枕というのはこれも非常に大事で、歌枕というのは要するに日本列島の文化のインデックスというようなものですね。歌枕は大概まず地形によって分けるわけです。海、山、森、林、村、社というような感じで。それから海岸、海辺。例えば海辺でもただ海辺なんて言わないで、浜、入り江の江、それから浦島太郎の浦、磯、いろいろ分けて、それぞれのそういう地形のところで有名な地名を詠み込んで歌を万葉から五代、六代の勅撰和歌集なんかに選んできて並べていくわけです。だから「磯」というので探すと、あちこちに磯がある。磯というカテゴリーの大きな見出しの中に、今度はそれぞれの地域の大磯、小磯、なんとかの磯とか分けてあって、そういう地名を詠んだ歌がちゃんと列挙されていくわけです。だからこの板敷山は山の部類に入っていて、どこか板敷山を詠んだ歌が1つ2つぐらいしかないのかもしれません。それでもちゃんと歌枕にはなってるわけですね。
 この歌枕は近畿地域から大和の方、あの辺がなんと言っても多いところですね。大和のあたりなんかもう 100mおきぐらいに歌枕があるぐらいですが、この東北の方まできますと俄然少なくなる。それから九州は殆どないかな。それから四国も殆どない。中部地方になんとかの島とか、なんとかの浦というのがある。やっぱり古代から人の交通した地域、歌を詠むような貴人、貴族の人たちが通ったあたりだけが歌枕に残っている。だから全土を覆っているとは言えませんが、しかし、その当時、平安時代に中央にいた、京都にいた知識人たちの頭の中にあった日本列島、その列島の地域ごとに生まれたさまざまな歌、それが網羅されて、コンピューターもない時代に分類されて、きちんと本になって出てるわけです。だからこの出羽の国もそれなりに、この最上川ももちろんそうだし、それから酒田の袖浦なんてのも歌枕になってますし、この板敷山なんて入ってるというのはちょっと意外です。どんな歌があったのか、そこは調べておりませんが、国土交通省から言えば歌枕というのは非常に重要な宝ということになりますね。
 列島の中の各地をああやって登録されていた国というのは滅多にないんじゃないかな。中国にはいくつか三峡とか五山とか、ああいうのがありますね。それから洞庭湖のところの瀟湘(しょうしょう)八景とか若干あるけれども、歌枕のように全国を網羅して統一して、その裏付けに文学作品、歌がちゃんとあるというような形で、しかも1冊の本に整理されて平安末、鎌倉の頃にはもうちゃんと出てるというのは、これは驚嘆すべきことで、フランスには未だにない。イタリアにもない。イギリスにもない。だからイギリスについても、これから歌枕を作ろうと思えば作れるわけですね。精々ワーズワースあたりからとか、あるいはシェークスピアのなんかに出てきたとか、そのくらいしかないだろうと思います。非常に日本列島というのは歌の国であり、文芸の国である。それから国土と文明がピタッと重なり合って相互に影響し合っている。国土が文明を作り出したことはもちろんですが、しかし文芸に歌われ、作られることによって国土は一層美しくなってくるという相乗作用がありました。そういうことになります。
 しかし、芭蕉は必ずしもこの歌枕を追って奥の細道を旅したわけではないわけですね。芭蕉なんぞはただ歌枕を追っかけただけであって、例えばさっきの金内村ですか、あんな所には行ってないとか。そんなことは当たり前でね、そういうないものねだりしちゃいけないわけです。それから芭蕉は歌枕になってない所にもちゃんと行って、そこで俳句を作っているわけです。月山とか羽黒山なんて歌枕にはなってないんじゃないかな。それから大石田なんかも歌枕には関係ないわけだしね。だから歌枕を読んだところはこうやって拾ってはおりますが、何も歌枕をたどって奥の細道の旅をしたわけではない。象潟に行った時は歌枕を追っかけて行ったわけですが。
 そういうことを言い出しているときりがありませんが、奥の細道というのはそういうふうに一種の詩的地誌とも言えるぐらいの現地の把握力を持っている、現地に対する把握を持っているのだと思います。ただ単なる詩の1冊で、それ以外何もないなんていうものじゃないと思いますね。そして

 仙人堂、岸に臨みて立つ。水みなぎって舟危し。

 という短い文章がきて、パッと切れて、そして

 五月雨を集めて早し最上川

 と散文のあとに五七五を置くというのは、非常に効果があるわけですね。ここまで笛と太鼓できたところに、急に弦が入ったというような感じで、この俳句の効果があるわけですね。それから出羽三山に入っていくわけですが、この出羽三山の俳句なんかも非常に面白い、いいものだと思います。特にこの

 涼しさやほの三日月の羽黒山

 これは羽黒山の坊に泊まっていて作った句ですね。「ほの三日月」というのは、ほの見えるというのと、わずかに見えるという懸詞(かけことば)になってまして、羽黒山がこの名前からして黒々としてこんもりと茂っていて、その右肩あたりにやさしく、細く三日月がほんのりと掛かっている。一種エロチックな趣があります。安藤継男にいたっては、これはそのまま女性を詠んだのではないかという人さえある。だから

 語られぬ湯殿にぬらす袂かな

 というのはそのエロスの極まったところだなんていうような読み方もありました。でも確かにそういう天地自然の持つエロスの働き、芭蕉はそういうものに非常に敏感でした。

 雲の峰いくつ崩れて月の山

 これは恐らく僕は奥の細道の中の最高峰の句はこういうところではないかと思いますけどね。「五月雨を集めて早し最上川」も素晴らしいんですが、「雲の峰いくつ崩れて月の山」。出羽三山に入ったのは下に書きましたように6月になってから1週間ほどでした。この中のある日、朝早く、羽黒山の南谷の山坊を出て、月山のてっぺんまで登って行って、そこで一夜を過ごして、次の日湯殿山に下って、湯殿山からその日のうちにまた月山のてっぺんを経由して羽黒山まで戻ってきた。曾良の日記によりますと、さすがにへとへとになったと書いてあります。南谷に宿坊に戻った時はね。それが今の陽暦に直しますと7月19日から7月26日。だから庄内平野の最も暑い時期ですね。庄内平野もいくら海があっても暑いのでフェーン現象が起きたりする頃ですが、この芭蕉の時も多分そうだったろうと思います。芭蕉が月山に向かって登って行く道、帰り道にまた月山経由で湯殿山から羽黒山に戻ってくる道、その前にも後ろにも庄内平野に雲の峰がギラギラと白く光って、いくつもいくつも立ち上がっている。空は真っ青、そういう時ですね。それを見ながら修験道の白装束に身を固めて芭蕉と曾良は行ったわけです。月山のてっぺんに近づいた頃、ふっと気がつくと雲の峰がいつの間にか視界からなくなっていて、代わりに目の前に月の光をほのかに受けた月の山、月山が横たわっている−というので、これはおそろしく宇宙の動きを捉えたというような俳句だろうと思います。「雲の峰」というのは、これは夏の季語ですね。しかし「月の山」の月は秋の季語ですね。それから雲の峰というのは陽の世界であって男性ですね。屹立してるわけです。それが崩れて月の山でしょう。女性でしょう、陰の世界。雲の峰というのは、これは生命がギラギラと燃えたぎっている世界、月の山というのは死に臨んでいる。あるいは死の世界。雲の峰というのは動の世界、月の山というのは静の世界、そして雲の峰というのは昼で、月の山は夜。そういうふうに男から女へ、陽から陰へ、生から死へ、昼から夜へ、そして夏から秋へ、その1点にトランジションが五七五の中に全部詠み込まれているという驚嘆すべき詩で、これ一つ読めばホメロスもシェークスピアもゲーテも要らないというぐらいのもんですね。
 「雲の峰いくつ崩れて」というのはちょっとあどけない、驚きの少年のような驚きが入ってます。ちょっと子供っぽい言い方、あといくつ寝るとお正月と言う時の、あのいくつ。雲の峰いくつ崩れて−この「崩れて」と言うのが、さっきの集めてと同じようにキーワードで、これが見事な、芭蕉はこの崩れるという感覚に非常に興味を持ってました。ものごとがカチンとしていたのが崩れていくこと、そこに時間の経過を読む。それから形の変化がある。それを芭蕉は込めることが出来た。例えば夏場の食べ物に冷しものというのがありますね。野菜とか果物とかを冷たくしてお皿に出す。ところがいろいろな食べ物の話をしている時に夜が更けた。あるいはもを明け方近くなっているという、冷し物が崩れて夜が明けてるというような、そういう句もあります。だからこの崩れてというのは非常に独特の使い方で、これを見つけた時、芭蕉ははっと喜んだろうと思います。月山の山の上で作ったのか、羽黒山の宿坊に戻ってから作ったのかよく分かりませんが、その中にさっき言ったように昼から夜へ、生から死へ、それから動から静へ、陽から陰へ、それから夏から秋への動きがこの崩れるという動作の中に入ってるわけで、さっきまで屹立して立っていたものが、いま萎えてしまって月の山の中に、女性の中に吸い込まれてしまっているわけですね。そういうところがあって、非常にエロチックな、修験道にはどこかそういう荒っぽいエロスの働きがありますね。そういうのも共鳴してるのかもしれませんけれども、しかし、これはもともと芭蕉が持っている、要するに文学で優れたものというのは、必ずエロチックなものがなければ傑作にならないですね。どんな作品でもね。これはほんの短い中にそのことをよく示している。これは自然のエロスの働きを短い言葉で言い尽くしてしまった句だろうと思います。
 こうやってみると奥の細道は出羽の国へ入ってきてから、断然高くなった。その前の中尊寺、「夏草や兵どもが夢が跡」でしょう。あんなのは浪花節じゃない。無法松みたいな、そんな程度なんですね。レベルが全然、中に込められているポテンシャルが全然違う。それに比べると「涼しさをわが宿にしてねまるなり」は断然飛躍してしまっている。詩の純粋度がぐっと上がっているわけです。だから「五月雨を集めて早し最上川」「雲の峰いくつ崩れて月の山」「閑けさや巌にしみ入蝉の声」とくるわけだから、なんかランクが違うね。出羽の国には芭蕉を一種内的に昂揚させるものがあったのですね。それが古代の文化であり、出羽三山の修験道であり、最上川のこの景観であった。
 それからもう一つすごいと思うのは、やがてこの出羽三山から鶴岡に下りて行って、そして酒田に行ってそこで作った、酒田の日和山が今もそのままあって、あそこにも芭蕉の句碑など建ってますが、あそこで作った

 あつみ山や吹浦かけて夕涼み

 これは一種の言葉遊びですね。温海温泉があって、それから吹浦というのは酒田よりもうちょっと北の象潟に行く途中の遊佐・吹浦なんて言うあたりの海岸で、この日和山の岬に立っていると温海温泉、かなり何十kmか鼠ヶ関の方に下って行ったところにあるが、あそこから吹浦の方までサーッと見渡して、そこに涼しい夕風が立つということですが、それよりはやっぱり

 暑き日を海に入れたり最上川

 これで奥の細道は終わってもよかったぐらいなんだ。そうするとダダダダーンと、まるでベートーベンの交響曲が終わるみたいなふうにいくところだったんですね。「暑き日を海に入れたり最上川」なんとまあ、19世紀フランスの詩人の代表はあのランボーだと言われますが、ランボーがもしこの詩なんぞ知ってたら、もう狂喜したろうと思う。それでもうおれは詩を作るのに値しないと言って筆を折ったかも知れない、そういう句ですねこれは。「暑き日を海に入れたり最上川」。もちろん暑き日というのは暑い1日でもあるわけです。さっきの「雲の峰いくつ崩れて・・」みたいに、この7月末の頃の庄内平野なんてのは、暑い暑い、気温が朝9時半には、もう38度ぐらいになっていて、夕方4時ぐらいまでずっーとそのまま暑いような、そういう中でこの健脚の芭蕉もさすがに暑かった。しかしいま、その暑い1日を終えて、その暑かった真っ赤な太陽を最上川が海の中に押し沈めていくわけです。最上川は滔々として、集めて早し最上川のあの最上川が、そのままの勢いで酒田から日本海の中に注ぎ込んでいく。その勢いに乗せて赤い太陽を最上川の海に注いだ水の先にジューッと音を立てて夏の真っ赤な太陽が沈んでいく。そうすると日本海に金色の反映がスーッと拡がるというので、まあこれは海と太陽と最上川と大地の力と、それが三つ巴をなしてもんどり打っているという、そういう世界ですね。「暑き日を海に入れたり・・・」という、これもやっぱり動詞を非常にうまく使っている。これは蕪村も一茶も正岡子規も高浜虚子もとてもこんな動詞の強引な、それでピタッと決まった動詞の使い方は芭蕉には及ばなかったと思います。ものすごいもんですね。「暑き日を海に入れたり最上川」。海と最上川、海と大地とそれから太陽と。まるで神話の世界ですね。日本武尊だの須佐之男命だの、ああいうのがいた時代の世界がこの俳句の中に詠み込まれているわけであります。まだ自然が神話であった時代、そういうものを芭蕉はこの出羽の中を旅して行く時に、自分の中に蘇らせ、身につけていったんだろうと思います。
 こうやってみると、芭蕉を読んでみただけでも、この出羽の国というのは、この頃すでにいわば後進地域になりかけている時代であり、それから蝦夷の地であり、アイヌの地であり、最後まで中央政府に反抗した地であり、縄文の地であり、恨みの地であり、屈辱の地であり、貧困の地であったはずなんですが、しかし、実はそれが文化の中の最も大事なものを蓄えていた一種のダムでもあったということが、ここを読んでいくだけでも分かるように思います。
 さて、それに対して斎藤茂吉の方はどうか。やっぱり最上川などを詠んで芭蕉に対抗し得たのは結局茂吉だけでした。茂吉は芭蕉に劣らぬレベルまで行ってるように思います。言うまでもなく、芭蕉が生まれたのは1644年、茂吉が生まれたのは1882年だから、その間には 240年の隔たりがあるわけですね。随分後になりますね。しかし、茂吉はもちろん芭蕉のこの奥の細道のことは非常によく知ってました。それでよく勉強してました。だからここの中にいくつか奥の細道の芭蕉の旅路を追った歌もいくつか入っています。頭のあたりもそうですね。

 いにしへの芭蕉翁のこの山に書きのこしたる三日月の発句

 この作品は「涼しさやほの三日月の羽黒山」を言ってるわけですね。それから

 天宥を讃へて芭蕉の書きし文まのあたり見てつつしむ吾は

 この天宥というのは羽黒山の第50代法印と言うんですが、真言から天台に改宗して出羽三山を一つの境内としてまとめ上げた出羽三山の中興の祖だと言われる。湯殿山と鶴岡藩の間で寺領争いがあったんですが、それを収めたのもこの天宥という偉い坊さんでした。しかし、その後大島に流されて、そこで死んだんですね。芭蕉がまだ20代の頃に大島で亡くなっている。その天宥の偉業を讃えた文章というのは、実は羽黒山に残っていて、これは岩波文庫の奥の細道の中にもちゃんと載ってます。天宥を讃えて芭蕉が書き残した文章をちゃんと見たと。そんなふうに茂吉はこの奥の細道のことをちゃんと自覚して、その後、曾良と芭蕉の2人の旅を何遍かあちこちで、ここに2人が立ち寄ったんだというふうにして思い起こして、そこで歌を作ったりもしています。
 茂吉は言うまでもなく山形県の出身で、上山の外れに金瓶村というのがありますが、そこの出なんですね。茂吉の家は山形新幹線で上山を出て山形に向かう途中、進行方向右手に、本当にすぐそこに見えます。それから茂吉が葬られているお墓のあるお寺がやはりすぐ新幹線の窓から見えます。それから有名な「死にたまう母」のシリーズで詠まれている茂吉の母親を焼いた場所、そこもすぐ近くなんですね。今も金瓶村の茂吉の家は、茂吉の妹さん一家か何かが住んでいらして、今もそのままあります。それからその茂吉の家の隣にあるのが、茂吉が通ったという小学校です。木造の本当の掘っ建て小屋。今もそのまま残されていて、その隣がお寺さんで、そこのお寺の坊さんが茂吉の少年時代から茂吉はなかなかの勉強家で頭のいい子だということを見込んで、いろいろなことを教えてくれた偉い天竜さんでしたか、お坊さんのいたお寺ですね。茂吉が生涯にわたって一番深く帰依したと言うか、一番深い教えを受けた坊さんのいたお寺が茂吉の生家と並んであります。
 茂吉の生家からすぐ近くに山形新幹線の鉄道に沿って、茂吉の生家と鉄道の間のところを鉄道側に寄って流れているのが須川という川で、そこが茂吉の少年時代の遊び場でした。須川はどの辺で最上川に合流するんですかね。左沢線で行くと途中で須川の鉄橋を渡りますね。あの先でさっき行った寒河江川の地点よりはもうちょっと南のあたりで最上川に入るんでしょうね。須川というのは今は須藤さんなんて言う時の須を書きますが、本来は酢っぱい川なんでしょう。硫黄分が流れ込んでいて魚が住んでないという川のようです。しかし、今は随分浅くて音を立てて流れているようですが、茂吉の頃はあちこち深いところもあって、そこで泳いだりしたようです。茂吉は14歳でしたか、中学校に入るために斎藤家の養子になって行くわけですから、それまではずっとこの上山の金瓶村で育ったわけです。全くの農家ですね。ただ、農家と言っても割に大きな農家で、豪農とまではいかないけれども決して小農ではない。村ではちゃんと名家に入るような家で、お母さんはその家の娘で、それが養子を取って茂吉のお父さんになった。守谷さんと言う家でしたね。そこで育ったわけです。その頃の茂吉の少年時代のことを回想した随筆で「ネンジュ抄」というのがありまして、それが実に素晴らしい文章です。茂吉でなければ書けないような生々しいと言うか、生き生きとした文章で、その頃学校の行き帰りに同級生や上級生なんかと一緒に、学校は初めは自分の家のすぐ隣にあったわけですが、やがてすぐに上山の方に尋常高等小学校が出来て、そこに移されるわけですが、その往復にいろいろないたずらをしながら通学した。それから歩いていく道に木の上から野生の蚕がポタポタ落ちてくるとかね。あの辺はブヨがいるとか、漆でもって手にわざといたずらするわけですね。その通り腫れていったりする。しかも漆で何を書いたかというとがき大将の指示でおチンチンを書くんですね。その通りに漆の跡が残って、家で薬を塗ってもらうのも具合悪くて、腫れたままで我慢してたとか、そういう話があります。それから須川で泳いでいた時、自分の仲間が、同級生かなんかの手が水の上から上がっているのが見えて、どうしたのかと思ってたら結局おぼれていた。あわてて大人たちに教えて、大人たちが助けようとしたがもう間に合わないで死んだとか、そういう話も出てきて、非常に少年時代の印象がどんなに深くこの茂吉の中に入り込んでいるか、それがよく分かります。
 茂吉はしかも時代最先端の精神医学をやった秀才だったわけですね。そこがいいんですね。都会派のさらりとした立原道造風なんてのと全く逆なわけですね。農民であり、お蚕のことも、田圃のことも、蛙のことも、何でもみんなよく知っていて、どこにドジョウがいるか、どこがどうやるとアユがつかまえられるか、そんなことはもちろん知ってる、そういう田舎の少年で、その田舎っけ、縄文的田舎を生涯身につけていた。生涯山形なまりでしゃべっていた。その山形なまりだったということは、つまり万葉人だったというのはそういうことですね。芭蕉がわざわざ出羽の国まで来て触れようとした古代の古いもの、それが斎藤茂吉の場合はそのまま生まれた時から身についてたというわけです。
 茂吉は芭蕉のような奥の細道の勉強をする必要はなかったわけですね。明治末、大正の岐路の最先端のインテリの秀才だったという、そこが面白いわけですね。だから茂吉というのは20世紀日本の最大の詩人でしょう。萩原朔太郎も三好達治もとても足元にも及ばない。高浜虚子さえ及ばない。若山牧水も正岡子規も釈迢空もちょっと茂吉にはかなわない。茂吉は全く図抜けているわけです。20世紀日本を代表する第一の詩人だということは、つまり20世紀の世界の詩人10人を挙げろと言ったら、この中に入ってしまうということですね。だからわれわれは本当は茂吉というのはもっともっと尊敬しなければいけないわけです。朝起きて茂吉を唱え、夜寝る前に茂吉を唱えるぐらいにならないと本当の文化人にはなれないかも知れない。これから国土交通省は是非、朝、朝礼に茂吉の歌をよみ、終業の時も茂吉の歌を読む。そういうのはいいですな。どうですか河川局( 笑い) 。新庄はもちろんだけどさ。本省でもね。

 古口のほとりを過ぎてまのあたり親しくもあるか夏の最上川

 さっき古口から乗ったんでしたか。ちょうどあそこですね。「ほとりを過ぎてまのあたり親しくもあるか夏の最上川」。これは親しい感じなんですね。それで茂吉は最上川の支流である須川で育った、少年時代を過ごしたわけで、最上川を見たりするのはもうちょっと後でしょう。お父さんに連れられて初めて月山に登るわけですね。何歳かになると必ずあの辺の男の子は月山に登らなければいけない。やっぱり装束を着けて。茂吉はお兄さんがいて、それと一緒に登った時に、多分初めて最上川を見たんだろうと思いますね。今日のあの河北町とか、あの辺から西川町の方に入って行って、そして奥から登るわけですから月山に。西川町の奥にあって、月山への登り口にある志津温泉、あすこには何遍か行ってます。あの志津のあたりでも、とってもいい歌を作ってます。山深い、そこを谷川が滔々と流れている。耳を当ててみると地の底に水が流れている、そういうことまで詠んだ歌もあります。そして雪渓を渡って頂上まで行くわけですね。湯殿山から頂上まで行くわけですね。その経験を語った文章もいくつかあります。出羽三山、少年時代から何遍も登る、彼は50歳近くなってからも登ったりしております。蔵王山にも行っています。割合健康で健脚でした。それから最上川の歌を探し始めますといくつもあるんですが、非常に便利なのは山形の上山に斎藤茂吉記念館がありまして、そこで斎藤茂吉作品集山形県内詠短歌叢書というので山形県のあちこちを詠んだ茂吉の歌を大体地域ごとに集めてあります。この中にも随分入っているわけですね。蔵王山から出羽三山、月山、湯殿山、最上川、上山、大石田、酒田、戸沢村、猿羽根峠、肘折温泉、湯野浜温泉、立石寺、いろいろと分けてちゃんと出ておりまして、これ見ると非常に便利に出来ております。これは初めの頃からずっと何度も最上川の歌が出てくるんですが、例えば「霜」という歌集がありまして、昭和7年に刊行された詩集だから、中の詠まれた歌はもっと前の歌ですが、これは大石田で詠んだ歌で

 最上川を中にこめたるきさらぎの雪ぐもり空低く厚らに

 これも大石田あたりの感じを本当によくつかまえています。「最上川をうちにこめたるきさらぎの雪ぐもり空低く厚らに」さっきから大石田がものすごい雪が降ったとありますが、ましてや戦前の昭和の頃なんかもっともっと降ってたわけで、その頃は2月ですから一番雪が深くなって寒さが厳しい頃「・・雪ぐもり空低く厚らに」また雪が降りそうな、雪をこめた空が、雲が低く大石田の最上川に、そして最上川の中が見えないわけですね。最上川をじかに見てるわけじゃないわけですね。「最上川をうちにこめたるきさらぎの雪ぐもり空低く厚らに」なんか最上川まで雲が降りてきているようなそういう感じ、それが雪ぐもりの重たい雲が大石田の前後の盆地、村山平野の北の方を一面に覆っている。

 冬河となりてながるる最上川雪のふかきに見とも飽かぬに

 これはもう最上川は茂吉にとって生涯、本当に自分の生命から切り離すことのできない川になっていきます。最上川の支流で少年時代を過ごし、それから最上川をたどって月山に登って一種の元服をしたわけでもありますから、そしていよいよ本当に最上川が彼にとって一つの救いになっていくのは昭和20年、東京から自分の故郷の金瓶村に疎開してきて、そして次の年の正月に雪の中で今度は大石田に疎開して、あそこからですね。これは昭和20年8月に、だから茂吉はこの金瓶村にいる時に敗戦を知るわけですね。茂吉は戦争中は戦争を礼賛する歌をいくつも書きました。本当に彼はあの戦争、大東亜戦争は聖戦だと信じていました。それは和歌を詠む人間としては当然のことなんですね。和歌というのはつまり大和魂を詠むことですから、大和魂なしに和歌は作れないわけであって、だから萩原朔太郎や宮沢賢治にはあまりいい和歌がないわけですね。彼らはあまり大和魂じゃなくて西洋魂の方ですからね。だけどあまりいい歌はないですね、聖戦礼賛の歌は。あれね朝日新聞社から電話が来るんですよ。大本営発表で敵のアメリカ軍空母3隻、戦艦1隻、巡洋艦5隻沈没したそうです、先生何かいい歌作ってください−と新聞が電話をよこすんだそうです。電話口で斎藤茂吉は新聞に言うわけですね。そうすると次の日の朝、でかでかと敵空母何隻撃沈、かくかくたる戦果なんとかと出ていて、その下に斎藤茂吉戦勝をことほぐ歌と載るわけですね。そういう歌が多いので、茂吉は本当に聖戦だと思って大東亜戦争を支持はしていた。しかし、それで自分が作った歌が本当にいい歌だとはどうも思っていなかったようです。その当時から。しかし、それでも日本国民の1人として、この戦争に勝たなければ日本は破滅すると思っているわけですから、戦争が敗戦になった時に、本当に茂吉は全く白紙還元を経験したんですね。愕然としたなんていう程度のものではなくて、本当に声も出なくなった。一種の精神がカブラダザーという感じで、白紙に戻されてしまった。
 しかし、それがどうも僕は、僕の説はそれがよかったんだと思います。茂吉がさらに一段、大歌人になるために、さまざまな今風のもの、それから時世に応じたようなもの、それが一切なくなって、茂吉は本当の弥生人だか縄文人だか万葉人に戻っていってしまった。そこでそういう一種の思い込み、思い上がりとか、近代人風の意識とか、そういうものがなくなった時に大きなこの最上川の、あるいは出羽の山水の霊が茂吉の中に宿った。それが昭和20年の「小園」というあたりから、敗戦直後のあたりの歌から出てきます。

 よわき歯に噛みて味はふ鮎ふたつ山の川波くぐりしものぞ

 アユを食ってるんだからこの辺からもう敗戦の後だったと思いますがね。アユを食べながらこういうことまで思うわけですね。この頃昭和20年、1945年ですから茂吉は63歳くらいになってるわけですか。かなりその当時としては老人になってましたし、老人の意識になってました。それから実際に非常に病気をして、それで衰えたりもしました。「・・鮎ふたつ山の川波くぐりしものぞ」とその歯ごたえがあって、その味の深さがあって、そのありがた味があるわけですね。アユ一つ食って、こんなふうに天地とのつながりを感じる人というのは、やっぱりそうざらにいないですね。これはやっぱり万葉人か殆ど弥生人ですなこれは。塩であぶってある、串に刺してぐっとそっくり返ったアユ、あれこそ天下の珍味ですね。それから

 秋のかぜ吹くべくなりて夜もすがら最上の川に月てりわたる

 これも何でもないような歌ですが、しかし縹渺としていて捉えどころがなくて、ただ寂しくて、いい歌ですね。「秋のかぜ吹くべくなりて夜もすがら最上の川に月てりわたる」秋風と川と月と、ただそれだけが詠まれている。それからその次もまたなかなか味わいがある。

 きさらぎの日いづるときに紅色の靄こそうごけ最上川より

 これちょっと面白い着眼ですね。きさらぎなってどっかに春が兆し始めているその時、もやが上がっていく。春、川面からもやが上がるようになる。そこに朝日が当たって、そのもやが赤くキラキラ光る。春がようやく兆してきた喜び、こんなところに春の喜びを覚える、これはやっぱり一種の古代人になってるわけです。近代的インテリとして最先端を走ってきた茂吉が、その近代的インテリの部分をすっかり捨ててしまった。放下してしまった。その後に残ったこの魂が感じているこの出羽の大自然。その次も素晴らしい歌だと思いますね。

 四方の山皚々として居りながら最上川に降る三月のあめ

 いや、いい歌ですね。これこそ建設省の朝ね「四方の山皚々として居りながら最上川に降る三月のあめ」とやって、これは仕事おさめの時がいいかも知れないですね。これから始まる時にはあまりよくないかもしれません。皚々として真っ白に、純白に固く、冷たく光ってることでしょう。奥羽山脈も月山も葉山も、後ろの方の朝日岳も真っ白に光ってて、一面の雪の原ですよ大石田のあたりは。そこに最上川だけは、岸のあたりはまだ凍っていても、真ん中あたりは流れていて、そこに三月の雨が降ってくるんですね。冬の厳しい中に、急にこの流れ込んできた春、しかも三月のあめというのを平仮名で書くところもいいですね。いかにもやわらかい。この固い四方の山を、わざと漢語で「皚々として居りながら」と言いながら、三月のあめの方は平仮名で「あめ」と書く。こういうところまで国土交通省はよくこういうのを味あわなければいけないわけで「四方の山皚々として居りながら最上川に降る三月のあめ」さっきの「紅色の靄」というの、これもちょっと面白い言い回しでした。虹色とか紅色と言わずに「紅色の靄」というのは、こういうところも非常に言葉を工夫しながら選んだんですね。とってもわれわれの及ばない、いわば言語感覚の鋭さがあるわけです。周りが全部大和言葉で言いながら、「きさらぎの日いづるときに」そこだけ「紅色の靄こそうごけ最上川より」と。それから「四方の山皚々として居りながら最上川に降る三月のあめ」三月の雨はどんなにやわらかく、こまやかであるか。あれは本当に白い屏風のように山々が連なってうねっているわけです。奥羽山脈のあの山の峰々の連なりというのは本当に、なんかドラマチックなんですね。交響曲とまでは言わなくても弦楽四重奏曲というような感じで、うねってくる。それが真っ白で、雪を被ってに山というのは非常に威厳がありますね。ちょっとした 300mぐらいの山でも俄然様子が違う。そういうことをみんな含めているようです。

 わが病やうやく癒えて歩みこし最上の川の夕浪のおと

 これも本当に敗戦後、自分の心の頼りにしているのは最上川だけなんですね。最上川によって心を慰められ、最上川によって励まされ、最上川を主題としてこの歌を作り続けている。これが敗戦の傷跡から彼を救ってくれて、彼をむしろだんだん大きな歌人にしていった。それから
 彼岸に何をもとむるよひ闇の最上川のうへのひとつ蛍は

 これは殆ど和泉式部の歌にもありましたね。「ものおもへば沢のほたるもわが身よりあくがれいずるたまかとぞ見る」ね。京都の貴船に男に捨てられて、その男を取り返すためにお祈りに和泉式部が貴船神社に行って、そうすると貴船の暗い夜闇の谷川のところに蛍がふっふっと飛んでいて、それが自分から「あくがれて」出ていった自分の魂かと見えたりするという歌がありましたけれども、多分それを思い出したんでしょう。茂吉は「彼岸に何ももとむるよひ闇の最上川のうへのひとつ蛍は」。自分の魂もこの蛍のようになってふわふわと、何かを求めて最上川の向こう側に渡っている。

 ながらへてあれば涙のいづるまで最上の川の春ををしまむ

 この辺なんて殆ど一直線に、率直に自分のその頃の弱っていた心と、それを癒してくれる唯一のものとしての最上川を詠んでいます。

 ひむがしゆすねりてぞ来る最上川見おろす山に眠りもよほす

 これは黒滝の向川寺、黒滝というのは最上川の西側ですか、「ひむがしゆ」というとあの辺から見ると東から来ることになるんですかね最上川からね。東からうねりてぞ来る最上川、見下ろす山に眠りもよおすと。最上川が見えていることで安心して安らかになって、向川寺の山の上でなんか眠くなっている。茂吉はこの大石田にいた頃、しょっちゅう大石田の自分の聴禽書屋ですか、あそこから出てあのあたりを散歩しました。それから

 東南のくもりをおくるまたたくま最上川のうへに朝虹たてり

 東南という方角は、西北の方から最上川沿いに風が入ってくるのかな。それが雲を押しやっていって晴れていく朝の空に虹がたつ。この辺は昭和21年の大石田で詠んでる歌はみんな「白き山」という茂吉の最高の傑作の歌集ですが、そこに収まっています。

 最上川の上空にして残れるはいまだうつくしき虹の断片

 これもいいですね。これも国土交通省向きです。いいでしょう。こういう最上川を国土交通省は作らなければいけないわけだ。「最上川の上空にして残れるはいまだうつくしき虹の断片」これはさっきの大石田のところにこれの歌碑があるわけです。僕はまだその歌碑は見てないんですが、これは前の歌にすぐ続いてあるわけで「朝虹たてり」という、その朝の虹がふわっと少し消えかかっているんですね。消えかかった虹というのもまたきれいですね。消えたのかと思って仰ぐと、虹の七色がまだすーっと残っていたりする。それを「断片」と言ったりするところが、これがまた男ぶりがいいと言うか、ますらおぶりがあっていいじゃないですか。漢語を使って、さっきの白皚々もそうですが、紅色の靄もそうです。こういうところに「虹の断片」と。虹の切れ端なんて言ったんじゃ全く駄目なわけですね。そうするとカラオケの歌になっちゃうわけですね。「虹の断片」と言うことによって一気に古今の絶唱になったわけですね。これを読んでいくと斎藤茂吉というのは殆ど柿本人麻呂だと思っています僕は。20世紀日本の柿本人麻呂。その柿本人麻呂が一方で精神病理学をやっていたというわけですね。茂吉の専門は精神医学でしたから、それで精神病院を経営してたわけですね。そういうもので柿本人麻呂的な、短い短歌の中に巨大な自然の動きをつかまえて投げ込んでしまう、そういう力を持った迫力が見事なものです。これを越える詩人というのは、どう見てもいないな。高浜虚子にも虹を詠んで面白い句があります。虹がたった時にあなたがそこにいると思った、虹が消えたらあなたがいなくなったと思ったなんて、そういう俳句がありますが、それに比べたらやっぱり茂吉のこの虹の断片の歌の方がさらにいい。「上空にして残れるは」と、この上空も漢語ですね。「最上川の上空にして残れるは」と何かここも一種いさぎよさがありますね。「いまだうつくしき」というのはつまり、さっきも掛かっていてきれいだった。しかし、消えかかった今も美しい。英語でもフラッグメンス オブ レインボーズと訳されてます。エイミー・ハインレックというドナルド・キーンさんのお弟子さんのアメリカ人の女性が斎藤茂吉研究やりまして、英語で書かれた未だに唯一1冊の研究書が出てますが、そのタイトルはこの虹の断片を取っていて「フラッグメンス オブ レインボーズ」というふうに訳しています。それから

 やみがたきものの如しとおもほゆる自浄作用は大河にも見ゆ

 こういうのもなんか強引な言い方で、やっぱりドクター斎藤という感じ。自浄作用というのも川がもつ自浄作用、これは要するに自分の中の自浄作用でもあり、日本国の一種の自浄作用でもあるんでしょう。それから孔子様が川を見ていて「行くものはかくの如きか昼夜をおかず」と。孔子もああいうものを見ると、なかなか詩人だったなと思いますが、そういう思いもずっと入ってますね。それから

 わが歩む最上川べにかたまりて胡麻の花咲き夏ふけむとす

 これは昭和21年の夏です。それからまたなかなかいいなと思うのは終わりから2番目の

 最上川の支流は山にうちひびきゆふぐれんとする時にわが居つ

 これもいいですね。この支流というのはどの川を指しているか、それは分かりません。どこか大石田のあのあたりでいくつも川が最上川に流れ込んでいる、その支流の両側が山になっているわけですが、そこにいて滔々と最上川になって下っていく、その谷川の響く音だけが鳴ってるような谷間の夕暮れの中に「ゆふぐれむとする時にわが居つ」という、わが立つというのではなく、私がいまいるという、これもなんか非常に意味深い。この頃実存主義がやがてはやりだすわけですが、そんなものがはやる以前に、いわば実存的世界を茂吉は、さっき敗戦によって白紙還元されたと言いましたが、それはいわば実存そのものがむき出しになって、この最上川に対峙している。あとは有名な同じ昭和21年の冬になりかけの頃の逆白波の有名な歌、連作ですね。

 かりがねも既にわたらずあまの原かぎりも知らに雪ふりみだる

 最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも

 これは本当に柿本人麻呂、あるいは山部赤人、昭和21年の大石田にいて、この頃、まだまだ雪の多かった冬を迎えて、そのただ中にいて天を仰ぎ、最上川を眺めて、蓑を着て笠をかぶって雪の中を歩いてこの最上川を見てるんだと思います。「かりがねも既にわたらずあまの原かぎりも知らに雪ふりみだる」その雪が最上川の上に流れてはさーっと消えていくわけです。最上川で音たてて雪が降る。それから逆白波なんていう言葉も、ここで初めて使われた。しかし、実際には逆白波という言葉は茂吉自身、前に1回だけ使っていて、それからもう1人、これは茂吉よりも前に使った歌人がいるんだということも研究されていますが、しかし、なんと言っても逆白波と言えばこれですね。下流の方から風が強く吹き上げてきて、そのために最上川の波が吹きあおられて白波がたつ。そっくり返って白波を立てている。

 逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも

 これで深い、冷たい冬ゆ雪の中に、最上川もあの大石田の盆地も平野も沈みこんでいくわけです。
 この辺でちょっと終えておきましょうか。こうやってみると斎藤茂吉は生涯を通して最上川と深く付き合って、最上川から命をもらっていた。そして殊に敗戦をきっかけにして自分の精神がいわば空っぽになった時に、はじめて最上川が彼の体内、精神を貫いて流れていって、彼の歌を一段と大きくし、20世紀日本の最高の歌がここで生まれた。日本が戦争に負けることによってこんな芸術が生まれたわけですね。そして茂吉がいたことによって、というふうに言えると思います。だから茂吉は最上川なしには茂吉たり得なかったし、最上川はこの20世紀になって斎藤茂吉を得ることによって最上川としての威厳を一段と高めたと言えるんだと思います。あとずっと終わりの方まで最上川の河口のところまで茂吉の歌は続いていきます。でも時間になりますので、この辺でということにさせていただきます。そういうことで芭蕉から茂吉まで、芭蕉も偉大だったし、またこの茂吉も大したもんだと思います。では先生、どうぞ。
 

目次に戻る


Copyright© 2007 MLIT Japan. All Rights Reserved.

国土交通省 〒100-8918 東京都千代田区霞が関2-1-3

アクセス・地図(代表電話)03-5253-8111